出来事の因果性

First coded: Dec. 15, 1998
Last modified: Tue Dec 15 17:35:41 1998

要旨

「屋敷の壊し方(1)」および「同(2)」、「屋敷の成り立たせ方」、「外の想像力」の互いに関連し合った4つの論考で詳細に紹介した一連の比喩的語り口--屋敷の安寧と豊穣を維持する営みやその破壊を導く行為、そして危険にさらされた屋敷の安寧と豊穣を再び修復する行為などをめぐる一連の語り口は、言うまでもなく現実から遊離した思弁の類いではない。それは日々の実践や、現実の出来事の展開の中に埋め込まれた語り口である。それが語っているのは、人々の秩序の感覚を構成しているところの出来事の結びつき--どんな行為をすればどんな結果が生じるか--についての知識と、それを踏まえていかに現実の問題に対処すれば良いのか、なにが正しい振る舞いなのか--文字どおり「ドゥルマのやり方」--についての知識である。比喩が現実として生きられねばならないのは、こうした知識と出来事の世界との現実的な重ね合わせの中においてである。
しかし比喩的な語り口は、現実のほとんど限りないとすら言える多様性、不確定性とどのように折り合いをつけていくことができるのだろうか。その語り口を構成する比喩的論理性は、現実の事態の展開をどのように取り込み、そこに自らの姿を示すことができるのだろうか。比喩的な語り口と現実の行為との唯一の結節点の恣意性、規約性は、この絡み合いの中でどのような役割を演じているのだろうか。
次に検討するのはこうした問題である。本論考では現実の出来事の展開と屋敷の秩序をめぐる比喩的語り口の内部の帰結との絡みあいを示す。予定では次の論考で、具体的な「ドゥルマのやり方」の知識自体の中にひそむ不確定性と、その実践上の曖昧性を「悪い死」の処理において実際に見られた事例をもとに示し、さらにもう一つの論考で、比喩的な語り口と実践される行為とのあいだの規約性がもつ意味を、時間性との関係において考察するつもりである。
これで別稿「秩序と災厄:ドゥルマの屋敷における順序とその乱れ」において描いたアウトラインを膨らませた一連の論考は終結する。

目次

  1. 知識の欠落
  2. 錯誤の遡及的発生
  3. 未然の結果の消去
  4. 「ドゥルマのやり方」と不確定性
  5. 現在の開口部
  6. 註釈
  7. 参考文献

知識の欠落

現実は人が普通は想定しないようなケースをしばしば出現させる。そうした特殊なケースでの正しいやり方が何であるのかは、具体的に問題に直面しない限り、前もって考えられていたりはしないものである。こうしたケースがどんな風に考慮されるか、一つの具体例で考えてみよう。

1993年12月、Kgという老女の孫息子Hmがモンバサから「妻」を連れて帰ってきた。その「結婚」は一時、近所での恰好の話の種になった。Kgの娘--Hmの生みの母親--は素性のはっきりしない男性との関係を通して3人の子供をもうけたが、子供たちを残して早くに病死していた。彼女の相手の男の消息もわからないままであった。この娘の産んだ3人の孫たちはそのままKgのもとで育てられてきた。Kg自身も最初の結婚に失敗し、その後、正式な結婚ができないまま、彼女の亡父の屋敷に戻って暮らしていた。娘の死後は残された孫たちとともに、わずかばかりの土地を細々と耕して生計を立ててきたのである。孫娘二人はすでに嫁いでいった。一番末で今やKgが生活の支えにと頼んでいる孫息子がHmであった。さて父も母もすでにいないHmのような若者の結婚にあたって、彼の妻を「産む」ためのマトゥミアは誰によって行なわれるのだろう。Hmの場合、このことが現実的な問題としてとりあげられることはおそらくなかったであろう。Kgは狂信的と言ってよいほどに熱心なペンテコスタ派のキリスト教徒であり(Hmと彼の姉の一人はキリスト教徒ではなかったが)、こうした問題に何の関心も示さなかったからである。実際問題としてはHmの妻は誰によっても「産」んでもらうことはないだろうし、そもそもHmのすでに嫁いでいる姉妹たちの婚資も「産」んではもらっていないだろうと人々は推しはかっていた。しかしそれは他の何人かの人々にとっては、やはり考えてみるに値する問いではあった。

男A:ところで、あの若造、あそこのHmだが、知っての通り父親は所在が知れず、母親もあんなことになってしまった。こんな場合、婚礼をどんな風に「産」んでもらうんだろうね。
男B:そもそも最初からあいつ(Hm)は間違っていた。あの女性は背中に矢筒を背負ってやってきたんだから(すでに子供を産んでいた)。(笑い)
男A:それはともかく、仮に、(子持ちでない)娘だったとしたら。
男B:その場合でも、妻を連れてきて、自分で自分の妻を相手に「始め」たことだろうよ。だって最初に「開始」してくれる(「産」んでくれる)者がいないんだから。だいたい、彼の姉妹たちにしても誰一人としてウトゥミアを済ませてもらった者はいないんだから。まずあのBh(長女)だろう、それにSl(二女)、そしてHm。一人としてウトゥミアを済ませてもらった者はいない。
問い:BhとSlの婚資は?
男B:「産」んでもらっていない。たぶん「外」に空しく置いてあるだけだろう。「制作」されていない。ほらごらん、あの娘たちも問題だらけだろう?(実際長女Bhは産んだ子供を3人、たて続けに失っていた。)

しかしもし仮に「産」もうと思ったとしても、このようなケースにおいて一体誰がその責任を果たせば良いのだろうか。それは人々にとっても難問である。この難問に男Bは、別の似たようなケースを思い起こすことによって、彼なりの答えを提出した。 Mzもやはり両親に死なれた3人の孫娘を引き取って育てている老婆であった。Mzの夫(すでに死亡)の屋敷はタンザニア国境近くの別の地域にあり、夫とのあいだに産まれたMzの息子たちもそこに暮している。Mzはある事情から、息子の一人Bjとその妻子とともにMzの兄弟たちの屋敷がある<ジャコウネコの池>に移り住んでいた。そこで自分の娘が産んだ3人の孫娘を引き取ったのである。

「父親に死なれた、そして母親にも死なれた娘たちがいたっけ。Mzのところの。一人がKlの息子の嫁で、もう一人はそこのSdの息子の嫁だ。以前、MzはKb(Mzにとって分類上の父親に当たる男性)のところに相談に行った。彼に言ったことには『このウトゥミアなんですけど、一体誰に済ませてもらったらいいんでしょう。この子の父親は死んでいるし、母親も死んでしまった。』で言われたことには、『この婚資の金のウトゥミアは...』。そうSdさんのところから婚資として現金が渡されたときのことだよ。で言われたことには、『その金のウトゥミアはBjによって済ませてもらいなさい。』その娘たちのオジ(母の兄弟 aphu)のBjだよ。(問い:オジに済ませてもらえですって?)だって、彼こそが彼女たちの面倒を見ている者(muroromi)なんだから。という訳で、Hmの妻の場合も、たぶんオジを探していたら、うまく行っただろう。(問い:オジを探して彼に『産』んでもらえと?)そう彼に『産』んでもらうようにと。」

婚資を「産む」ことにおいて母方のオジ夫婦が、娘の両親の代行をつとめることができるという考え方は、けっして一般的な考え方ではない。それどころか、この点だけについて確認を求めたとすれば、まず同意は得られないだろう。Mzの孫娘の件では、Mzの息子--孫娘たちにとっては母の兄弟にあたる--が実際に同じ屋敷に暮し、屋敷の人々の暮らしをささえている人物であったという特別な事情が背景に働いている。それ以外にこの処置の正しさを正当化する理屈がある訳ではないので、この処置をオジが同じ屋敷に暮していない場合にまで拡張するのは乱暴な話である。が、逆にオジによる代行を退けなければならない理屈があるわけでもない。この男Bのようにそれを一つの先例として、新たなケース--ここではHmの妻を誰が「産む」かという問題--に適用することを妨げるものもない。それは一種のイノベーションとなるだろう。

どこかに誰か「ドゥルマのやり方」について詳しい人物がいて、こうした細部についてまで正しいやり方を知っているかもしれない--単に私はたまたままだその人物にめぐり会っていないだけである--などと期待しないほうがよい。この期待は、難問に直面した人々自身も抱く類いの期待である。ある老人が別の同様な難問に対するアドバイスを求められた際に答えているように(註1)。「そこのところがちょっと私を困らせる(phananiyuga chidide)。というのは、その点について私はまだ人にちゃんと尋ねたことがないから。(質問者:あなたを困らせる?)うむ。というのは私はそうしたケース(問題)をまだ見たことがないから。問題というものはまずそれを見て、それで説明できるものだろう。それはこんな風になる、あんな風になると。(質問者:そのとおりです。)だが私が気のふれた長老ぶり(utumia wa jimu)を発揮したとしたら、私は嘘つきになってしまう。(質問者:たしかに。)その問題については、何人もの長老たちに尋ねてみるがいい。ものを良く知っている長老たちに。すぐさま話してもらえるだろうよ。」ここに見られるのは知識についてのお馴染の見方である。それによるとあらゆる問いには正しい答えがあるはずである。あらゆる状況において何が正しい「ドゥルマのやり方」であるのかは、すでにつねに、昔からきまっている。ただ、たまたま自分はその知識を今もっていない。しかし正しい答えが決っている以上、どこかにそれを知っている人がいるはずなのである。知識をこんなふうに、それを獲得したり作り出したりする当の主体からは独立した物象化された姿で想像することは、我々に抜き去りがたい習性である。こうした幻想に調査者もすすんで荷担して、よりよく知っている人や理想的な情報提供者を、つまりある文化の内部における特権的な位置をいっしょになって探し求めることになる。

もちろんこの期待は空しい。あらゆる想定されるケースにおける「ドゥルマのやり方」の知識が誰かの頭の中に集大成されているわけではない。まさにこの老人自身が述べているように、そしてHmのケースについて先の男Bがしたように、そうした知識は具体的に目撃されたケースに基づいて提示されるだろう。そしてそれらの先例自体にしても、その場合に何が正しい「ドゥルマのやり方」であるのかについて既に存在している知識を単純に適用したものであったとはとても言えないだろう。「ドゥルマのやり方」の完璧なマニュアルをその気になれば作れるはずだと想定してみたり、あるいは「ドゥルマのやり方」についての一般的な知識を個別的な事例に適用するに当たってのなんらかの一般的な原理が存在しているはずだとむなしく求めたりする代わりに、個々の例において正しいやり方がその都度定まっていく、個別的で即興的な様相に注目するほうが、得策かもしれない。

むしろ知識には欠落があるものだということを常態として認めるところから出発しよう。上のHmの姉妹たちの婚資やHm自身の妻を誰に「産」んでもらったらよいかという問題の正しい答えなど誰も知らないし、そんなものはおそらくないのである。しかし「産」んでもらう必要がある以上、誰かに「産」んでもらわねばならない。Mzの孫娘の婚資のケースは、こうした問題に、必要があればそれなりのその場限りの答えを人々が出してしまう--知識の欠落につぎを当てることなどその気になればなんとでもなるとでもいうように--ということを物語ってもいる。この場合はおそらく屋敷の実質的な長でもあることが、孫娘の母の兄弟であるBjにその役割を果たしてもらおうという忠告を動機づけていたかも知れない。しかし男Bがこの事例に基づいて、Hmのケースでも母の兄弟が「産む」作業を行なうのが正しいと推論したとき、そこにはMzのケースに働いていたかもしれない正当化の理屈はもはや何の役割も演じていない。正しいとされるやり方がもしこんなふうに決定されていくのだとすれば、それは相当、場当たり的な仕方でだということになるだろう。そもそもそれらはどのような意味で、どのような根拠で<正しい>のだろうか。

錯誤の遡及的発生

「ドゥルマのやり方(chiduruma)」を誤れば、災いに見舞われるはずである。正しいやり方にしたがってことを行なわなければ、うまくいくはずのものもうまくいかず、悪い結果に終わるのは当然のことである。そこには屋敷の安寧と豊穣性がかかっている。人々は当然失敗を避けようとする。しかしそもそも誤りうるという可能性がなければ、正しいやり方が存在すると述べることそのものに意味がなくなる。逆説的ではあるが、過誤と失敗こそが正しいやり方がたしかに存在するということを確信させる。人々が「ドゥルマのやり方」の語り口が生成する物語に繰り返し繰り返し呪縛されるのも、ことがうまく行かない不幸の事例を通じてなのである。

1993年にしばしば人々の口にのぼっていたのが、次に紹介するカーチェ(仮名)が娘ルブノ(仮名)に対して支払われた婚資を「産」み直すにいたった経緯であった。カーチェは夫と死別した後再婚せず、3人の子供とともにそのまま父ズマ(仮名)の屋敷に身を寄せていた。一説によると、カーチェ自身に対する婚資がきちんと支払われないままであったために、ズマが彼女をつれ戻したのだという。カーチェ自身は、後に見るように別の言い方をしている。それはともかく、この年に問題になっていたのは数年前に嫁いだ彼女の2番目の娘ルブノの婚資に対する処置であった。

男:ほら、つい先日、そこであったことだよ。あのカーチェに、ルブノのための婚資が支払われた。ルブノの婚資が届いた際に、それはそのままンジラ(仮名)に持っていかれてしまったんだよ。
質問者:ああ、ズマ(仮名)さんの奥さんのね。
男:さて、娘(ルブノ)は、最初の子供をやどした。その子供は死んだ。二番目の子供をやどした。その子も死んだ。ほらね。そこであちら(婚家)のムバブ(仮名)さんが、占いに行った。行って言われたことには、『この婚資に間違いが起こった。婚資そのものに。だからこの娘はここでは子供を産むことは決してあるまい。』
質問者:ルブノさんね。でもいったい、どう間違いが起こったというのですか?
男:誰にも「産」んでもらえなかったんじゃないか!そんな訳でルブノは連れ戻された、あちらからこちらに連れ戻された。母親に「産」んでもらうために。母親が、あの娘を「産む」ようにと。
質問者:えーと。例えば婚資が届いて、その女性の夫はすでに死んでいると。さてその婚資を彼女はいったい誰と「産」もうというのでしょう?
男:素性の知れない男(dzhizhogoto)を探してきたんだよ、カーチェが。
質問者:でその男と行なったと?
男:そう。
質問者:で、うまくいった?
男:なんでも今は向こう(婚家)の方にいて、すでに妊娠していると聞いたよ、あの娘は。 (この最後の発言は誤りであることが後に判明。この質問の時点ではまだ妊娠していなかった。)

同じ話は別の人からも、ほとんど同じ形で聞かされた。

男:そこのカーチェ、知っているだろう?カーチェの娘が娶られていったとき...そうあのルブノという娘だよ。さて婚資が屋敷に届いたとき、それはカーチェの母たち(mesomo 父の妻たち)によって持っていかれてしまった。支払われた金は(彼女たちの)小屋の中に置かれた。そんな風に聞いてるよ。
質問者:ふむふむ。
男:そんなことがあって、さてカーチェは、いや彼女の娘は第一子を産んだ。しかしその子は死んでしまった。そしてつい先日、彼女は2番目の子供を産んだ。なんと、その子も死んだ。
質問者:なんと。
男:そこでカーチェのキビェーレ(chivyere 娘の夫の親)が占いにいった。占いに行って言われたことには「このお前の息子の嫁の婚資に間違いが起った」
質問者:婚資に間違いが起った。
男:そう。そこで先日ルブノは戻された。彼女は屋敷に戻された。そこであのカーチェは若者を手に入れた。そして彼女がまず「始めた」のさ。
質問者:マトゥミアを済ませた。
男:というわけで、娘は夫の父親が迎えに来て、連れ帰られた。今のところまだ子供はできていない。でも今度妊娠したら、問題なく産まれるだろうよ。
質問者:なるほど、婚資にも間違いが起りうるのですね。
男:そう。ちゃんと順序に従われなかった(kayituwirwe)。カーチェは彼女の娘がつれ戻されると知ったとき、行く先々で嘆いていた。で私は言ってやったのさ。『これは習わし(jadi)なんだよ。娘の方がお前さんより先に(性関係を)始めるなんてことがあってよいわけがない。』
質問者:婚資が届いたら、彼女のほうが先に「始め」なければならない?
男:そう、彼女がまず「始め」なければならない。

すでに別の論考で紹介したように、嫁ぐ娘に対して支払われた婚資も「産」まねばならないとされているものの一つである。「産」まずに放置されていると、婚資は娘の両親の性行動--とりわけ「外で寝る」行為--によって「追い越」されてしまう。婚資が「追い越」されると、単に婚資として支払われた家畜たちに被害が及ぶばかりではなく、嫁いでいった娘の豊穣性も危険にさらされるというのであった。カーチェが娘のルブノに対する婚資を「産」んでいなかったことは事実らしい。ルブノが二人の子供を立続けに失った上に、ずっと病気がちであったというのも事実である。人々はそれを彼女に対して支払われた婚資が「追い越」されたせいであると結論し、婚資を「産」み直す手続きをとった(註2)。ルブノは実家に戻され治療を受けた後、あらためて夫側から形ばかりの婚資(ヤシ酒と小額の金)が払われた。ズマは金で一人の男を雇い、カーチェはその男とマトゥミアの性交を行い、こうして過ちは矯正されたという訳である。

普通に考えるとこの事例は、婚資の受け渡しに関する正しい「ドゥルマのやり方」を誤った結果、婚出した娘に災いがもたらされた典型的な例、過誤が災いをもたらすことのきわめて単純で明白な実例ということになるだろう。実際、その年の私の調査期間中人々が好んでこの例を引き合いに出して語ったのも、一見些細に見える過ちが、いかに人に災いをもたらすものであるか--人々自身の言い回しでは「ドゥルマのやり方がいかに人を捕らえるものであるか」--ということであった。カーチェの娘の災いについて紹介した最初の男は、こう話を結んでいる。「そう。実際、ドゥルマのやり方は人を捕らえるからね。それぞれは小さい、とるに足らないことだ。でもそれは捕らえる。そうとも、それはそれは完璧に捕らえるんだよ。それでいて、一体それがどんな風に捕えるのかは、お前にはけっしてわからない!」カーチェのケースは過ちが災いをもたらすことのまたとない例証であるということになる。そこでは過誤が、その後に起こった災厄に先行する出来事として語られる。原因が結果に先行するのは当たり前である。その語り口のなかでは、不幸はまさに起こるべくして起こったものになる。

しかし実際には、話はそれほど単純ではなかった。ほとんど同じ口調でこのケースについて語っている上の二人の証言は、具体的にはどう間違っていたのかという点ではすでに微妙な見解の相違を示している。前者はカーチェが婚資を「産」まなかったことそのものを問題にしており、婚資がその結果として「追い越」されたのだろうという通常の理解を示している。後者は一見同じようなことを言っているように見えながら、やや特殊な解釈を示している。それは、むしろ結婚に際しての母親と娘との性関係の順序が正しく辿られなかったという点を問題にしている。息子が屋敷に嫁を連れてきた際には、彼の両親がまずマトゥミアを行なった--息子の妻を「産」んだ--後でないと息子夫婦は性関係を持つことができない。後者ではここに見られる順序関係を母と婚出した娘の関係にも当てはめようとしているように見える。これはけっして一般的な解釈ではない。なぜ前者のような通常の理解以外に、こうした特殊な解釈を提出する必要があった--まるで前者の理解では不十分であるとでも言うかのように--というのだろう。

実はルブノに対して支払われた婚資を「産む」問題に関しては、考えてみればはっきりしない点があった。娘の両親は娘に対して支払われた婚資を「産」まねばならない。しかし娘の母が未亡人で再婚していないカーチェのような場合はどうなのだろう。そもそも夫に死なれた未亡人(gungu)は--最終的には彼女の意志が尊重されるとはいえ--普通は夫の兄弟、あるいはそのクランの誰かと再婚(ku-walwa gungu)しているはずである(註3)。もしカーチェがこうした慣例にしたがっていたなら、彼女の娘の婚資を「産む」ことに関してはなんの曖昧さもなかっただろうに。しかし彼女にはげんに夫--いっしょに娘の婚資を「産む」べき相手--がいないのであった。カーチェ自身に対して婚資がきちんと支払われていなかったので、亡夫の兄弟たちは再婚の権利を行使できなかったのだとも言われているが、カーチェ自身は私に再婚しなかったのは自分の意志であったと語っている。「私はこの夫が最後だと言ったのさ。もう男には用はない(sina haja na mulume)と。」

もちろん再婚しないでいるこうした未亡人が娘の婚資を「産ま」ずにおくことが危険なことだという認識は、いたるところで耳にする。それは普通彼女が男性関係の点で「信用がおけない(kaaminika)」という理由と結び付けて語られる。つまり夫のいない女性は、不特定の男性と関係を持つかもしれないので、婚資は「産」まずにいれば「追い越」されてしまうことになるというのである。しかし同じ理屈は、当の未亡人が婚資を「産ま」ずにおくことをも正当化しうるのである。上の発言に続けてカーチェが言うように。「どこかの男とそれを産めと。いえいえ。それに何の意味があるというの?私は自分を信じている(nadzamini)。私は自分が壊さない(台無しにしない)とわかっていたんだよ(namanya sindabananga)。」この正当化の論理をカーチェが後になって思い付いたのか、かつてルブノに対する婚資が支払われた際に彼女が実際に行ったのかは、さしあたって重要ではない。重要なのは、その時点でカーチェの選択を「ドゥルマのやり方」に対する過ちと決め付けることが原理的に不可能であったのではないかという点である。

冒頭の男の説明は、婚資がカーチェの父親--正確には彼の妻の一人--にもっていかれたという事実を強調している。「彼はそれを自分のものとして『産』んでしまったのだ。」と指摘する人もいる。さらに別の噂は、婚資をもっていったとされるズマの妻の一人ンジラを名指しで非難する。「聞いたことはないかい?このンジラが彼女の夫と仲が良くないってこと。(質問者:え?ズマさんとおりあわない?)そうとも。全然おりあわない。というのはね、彼女はなかなか盛んな女だった。外に出ては若者たちのところを訪れてばかりいたんだよ。」カーチェが婚資をちゃんと「産」んでおかなかったために、それはンジラの「外」での性関係によって「追い越」されてしまったのだというのである。しかしいずれにせよ、娘の婚資がこんなふうに彼女の祖父やその妻によって「追い越」されうるなどという話は、このケース以外では聞いたことがない説明であることも確かなのだ。

奇妙なことである。カーチェたちが「ドゥルマのやり方」を「誤」っていたということはたしかだと言いながら、何をどう誤っていたのかという点に関してはさまざまな異る意見があるというのだから。まるで誤っていたという結論が先にあって、その後であらてめて何がどう誤っていたのかを思いつこうとしているかのようではないだろうか。実際は、まさにその通りだったのであろう。ルブノの不幸が誰の目にも明らかになり、占いがはっきりと「婚資に間違いがおこった(Mali yakoseka.)」、つまり「婚資は追い越された(Mali yakirwa.)」と告げたことが、婚資受領の時点ではおそらくは誰も考えてもみなかった、婚資が追い越される他の可能性--つまり婚資は娘の両親だけによってではなく、祖父夫婦のような屋敷の他のメンバーによっても追い越されうるという見解も含め--に目を向けさせたのである。婚資を「産まないでいること」の是非は、単に当の未亡人の身持ちのよさなどで左右されることではなかったのだ。いくら彼女が身持ちが良くとも、産まないでいれば婚資はいずれにせよ追い越されてしまう。産まないでいたこと自体がよくないことだった(註4)。これこそが、ルブノの結婚時には誰も知らなかったのに、今や近所の誰もが知るようになった、昔から決まっていたはずの正しい知識なるものなのである。

カーチェの事件を引き合いに出して人々が主張しようとしているのとは違って、そもそも過ちの事実が災いに本当に先行していたとは、ある意味では言えないのかもしれない。婚資が支払われた時点では、そこでなされたこと、あるいはなされなかったことを過誤として語ること自体が、不可能だったのだ。さもなければ、そしてもしその時点で過誤の可能性が見て取られていたとするならば、ズマの屋敷の人々は早くから、嫁いでいったルブノについておおいに憂慮すべき立派な理由があったということになろう。実際には、一年以上が経過しルブノが直面している問題が誰の目にも明らかになる以前には、だれ一人それを問題にしていなかった。ズマの屋敷の人々がとりたてて「ドゥルマのやり方」に無頓着な人々であったとか、無知であったということではない。むしろその時点では、そこで起こっていることを過ちという角度から眺める視点が、端的に欠けていたということなのである。

その時点で、過ちは犯されていたか犯されていないかのいずれかであるはずだと考えることすら的外れである。過去に対して排中律は単純にはあてはまらない。それはある詩人が書いた叙事詩のなかの主人公には妹がいるかどうかのいずれかであるはずだと--詩人本人がそれについて何も書いていないにもかかわらず--主張することに似て、どこか馬鹿げたところがある。詩人がその点に関してまだ何とも決めかねている、あるいはそれを問題としてたてさえしていなかったとすれば(ウィトゲンシュタイン 1976:275)。それは未決定であるという以上に、それを決定する必要もなく、また問題にすらされていないのであるから、まさに「いずれでもない」というのが正しい答えなのである。

過誤の有無という問題は、ある行為や出来事が正しい「ドゥルマのやり方」との関係で眺められることになったときに初めて生じる。つまり、後の時点における災いの発生という偶然的な出来事によってのみ、生じる問題なのである。ルブノが何の問題もない結婚生活を送り、順調に子供に恵まれていたという仮定的な場合を想定して見よう。十分にありえたことである。その場合にはズマの屋敷では何の過ちもなかったのだ、それ以前に、過ちがあったかどうかということ自体が問題にならない、ということにならざるをえないだろう。ルブノに不幸が起こり、「ドゥルマのやり方」の正しい知識があらためて考え出されたまさにその瞬間に、過ちは過去においておこった事実として発生した。このカーチェのケースにおいて、過誤の事実はいかなる意味でもルブノの災難に先行していたなどとは言えないのである。「問いは決定可能となるとき--私はいいたい--その身分を変えるのだ。というのは、そのとき、以前にはそこになかったところのある連関がつくられるから。」(ウィトゲンシュタイン 既出)

後に近所の人々がカーチェの件を引き合いに出す際の語り口は、単にこの経緯を逆転させたものであることがわかる。ルブノの婚資が支払われた際に、しかじかの過ちが犯された、その結果、ルブノは子供をもうけることができなくなったという具合に。これはダントが歴史家の語り口の特殊性について行った指摘を思い出させる。「歴史家は、『<ラモーの甥>の著者は1715年に生まれた』と書くだろう。だが誰かがその1715年に『<ラモーの甥>の著者がいま生まれたところである』と言ったとすれば、どんなに奇妙に聞えるか考えてみればよい。」(ダント 1989:25)1715年に生まれたその赤ん坊が「<ラモーの甥>の著者」であるという事実は、遡及的にのみ成立する事実であり、その赤ん坊が生まれたまさにそのときにそれを事実として語ることは原理的に不可能である。しかし歴史家はそれを過去のその時点における事実として語る。時間の流れにそって出来事を語るという歴史の語りに内蔵された方向性が、一つ一つの歴史記述文の遡及的性格を隠蔽する。「ドゥルマのやり方」についての語りも同様な性格をもっている。カーチェのケースにおいて、婚資が受け渡された時点で、「娘を豊穣性をそこなってしまう過誤が今犯されたところだ」と語ることも同様に不可能だった。にもかかわらず今や人々は、過ちを過去のその時点に存在していた事実として語る。「ドゥルマのやり方」の知識に内包された因果的な方向性が、その遡及的な性格を隠蔽する。因果性は、常に過去から未来に向けて働くものとして語られるからである。

カーチェのケースがとりわけ微妙で曖昧なケースであったからだなどと考えないようにしよう。むしろ、具体的な災厄に際して過去の過誤の事実が持ち出されるときには、いつもこうなるしかないと言ったほうがよい。災厄の発生は偶発的である。そしてその災厄が生じてさえいなければ--その可能性も当然あったのである--過誤の可能性が問われることも当然なかったはずなのであるから。その場合には、何がそこで行なわれ、何が行なわれなかったにせよ、いずれもそれらが過誤かどうかとして問題にされることすらない。つねに災厄こそが、過去における原因としての過誤--過去のその時点においては存在していなかった過誤--を遡及的に発生させるのである。

未然の結果の消去

原因が結果にあきらかに先行するという場合もあるのではないだろうかという疑問はもっともである。それが発生した時点で過誤であることが誰の目にもあきらかであるような行為というものも、もちろん存在するだろう。まさに原因としての過誤が、その発生時点で事実として存在していることになる。しかしそうした場合には、今度は結果の方が不在の事実として消し去られる。あきらかな過ちが犯されたとき、人は手を拱いて災厄の発生を待ったりはしないからである。誰だって「ドゥルマのやり方」が主張する出来事の因果的な結つきを、自分のケースで検証したくなどない。過誤が発生すると、それはただちに何らかの形で<正しく>対処される。これが、その原因と予期された結果との「ドゥルマのやり方」が主張する結び付きを前もってキャンセルしてしまう。明白な過誤が発生したときには、むしろけっして災厄は起らないことになる。過ちが一見したところほとんど放置されてしまったように見える場合ですら、当事者は過ちの因果的な結末をただ待っているという訳ではない。当事者にとっては、過ちはすでになんらかの形で矯正できているのである。一例をあげておこう。同じく1993年に起きたケースである。

ルワ(仮名)はモンバサで定職についている、まだ若いがこのあたりでは比較的裕福な男性であった。彼が三番目の妻を娶ろうとしていた矢先に、彼の第二夫人ムベユ(仮名)の浮気が発覚した。単なる浮気ではなかった。彼女の相手はルワの分類上の「息子(正確には FFBSSS )」でもあったので、それはマブィンガーニにもあたっていた。「父」と「息子」が同じ一人の女性を共有することは、「父」と「息子」を「まぜこぜにする」典型的なマブィンガーニである。それは単に双方を健康上の危険にさらすだけでない。より深刻な問題として、死産や生まれた子供が育たないなどの形で豊穣性に危険が及ぶのである。怒ったルワは彼女を、ルワと彼女の間にできた子供ともども、彼女の実家に追い返してしまった。ただちに「まぜこぜ」を解除するために、ヒツジの供犠を伴うクブォリョーリャ(kuphoryorya)の施術が行なわれねばならなかった。当事者の親族関係者たちに、中立的な立場の地域の長老たちを交えた第一回目の話し合いには、ルワはモンバサでの仕事を理由に欠席した。そこでは治療の日時が相談されただけであった。約束の日、ムベユの相手の男の親族はクブォリョーリャの施術師と供犠用のヒツジを連れて現われた。前回の話し合いに出ていた人々もほぼ全員集まっていた。しかしルワは、マル(malu 姦通の賠償)のヤギが来ていないことを理由に治療の執行を拒んだ、そしてムベユの父親にただちに再び彼女を実家に連れて帰るようにと促した。これは人々の間に論争を引き起こした。施術だけでも先にやっておくべきではないだろうか。ムベユの父は彼女をいつまでも置いておくのは食費の負担も馬鹿にならないと不平を漏らした。話し合いはあたかもこの問題がそこでの最も重要な問題ででもあるかのように進行したが、実際には治療を直ちに開くべきかどうかが争点であった。実際、ルワは食費の負担を自分で引き受けてでも治療の執行を延期すべきだと主張するにいたった。ルワの第三夫人との婚礼の日も迫っており、婚礼をこのような治療でだいなしにしたくないというのがその表立った理由であった。しかしこの日を逃すと次がいつになるかは誰にも明らかではなかった。結局、実施の予定もたてられないままこの日の治療は、地域の長老たちの不興をかったにもかかわらず、中止になった。しかしルワ本人の意思があくまでも尊重されるのは、やむを得ないことであった。すでに参加者の中には、ルワにはムベユを再び屋敷に迎える意志がないのではないかという疑いをもらす者もいた。「私の見るところ、クブォリョーリャがすんだ後も、この女性(ムベユ)はもう彼(ルワ)といっしょには住まないだろう。」その後の事態の展開はこの疑念を確認するものであった。ほどなくルワはムベユの使っていたベッドを第三夫人に使わせはじめたのである(註5)。これは、マブィンガーニ解除の治療が開かれないままに、ムベユが屋敷に足を踏み入れることをますます不可能にした。彼女は第三夫人によって「追い越」されてしまった訳で、彼女が再び戻ってきて小屋とベッドを使用することはゆゆしい「後戻り」になる。それは彼女の健康と豊穣性に深刻な害をもたらすだろう。人々は再び非難の声をあげた。「別の障害がこのベッドの問題だ。だって連れてこられた方(第三夫人)がそこにいる。あいつ(ムベユ)はもうそこは不可能だ。このこと自体が、しでかされたもう一つの過ちだと知るべきだ。だけど、あいつらの問題だ。私は介入しますまい。」

第三夫人に対する婚礼はつつがなく終了したが、クブォリョーリャを行なう日取りについては誰も話し出すものはいなかった。一方、ルワは食費の負担の約束など完全に無視していた。彼のムベユとの絶縁の意向はもはや疑うべくもなかった。

これは過ちが単に放置され、災いという結果をただ待っている例であるということになるのだろうか。ルワの屋敷の人々にとっては、そうではないらしい。ルワの父は言う。「私は反対しないよ。その施術をしてはならないなどとは言わない。でもあの女性(ムベユ)は二度とこちらに戻ってこない。で、あの野郎(jamaa)と(ルワは)顔を会わせることもない。そいつ(ムベユ)によって『混ぜ』あわされ、そしてお前がまたそいつに戻っていく(性関係をもつ)、それがいけないことなんだよ。でも今、彼らがいっしょに住むことはない。何が問題だろう?」つまりムベユがルワの第二夫人として屋敷に留まるならば、クブォリョーリャは不可欠である。しかし、ムベユが絶縁されてしまい、おまけに混ざりあった「父」と「息子」たちが遠く離れている今、それを行なう理由はもはやないというのである。

当事者たちが離れていることによって「まぜこぜ」の脅威が差し迫ったものではなくなるという理解は、かならずしも特異なものではないとも言える。ある男は、弟が親しい女性を作ると、すぐその女性を自分のものにしてしまうという感心できない行動で弟を怒らせていたが、ついにそれは弟がすでに関係を持った女性を横取りするという事態をもたらした。これは兄弟で同じ一人の女性と関係をもつという点で言うまでもなくマブィンガーニであった。兄は行方をくらまし、そのまま10年以上もの歳月が過ぎてしまった。1991年の11月に長年に渡って行方不明だったこの兄がモンバサの病院で重い病いに伏せっているという知らせが屋敷に届いたとき、弟はおおいに戸惑った。肝心の兄が行方不明であるという理由で屋敷では二人に対して「まぜこぜ」を冷やすクブォリョーリャの施術を行なっていなかったのである。この状態では彼を見舞いに行くこともできない。なぜなら「まぜこぜ」になった者が見舞いに行くことは、たちどころに病人の命を奪ってしまうかも知れないからである。今や屋敷の中心人物であるこの弟が何も出来ずにいるうちに、この放蕩者の死の知らせが屋敷に届いた。当事者どうしが離れていることで脅威が軽減するという見込みが、かくも長い間「まぜこぜ」を放置することを屋敷の人々に許していたのである。

ルワ自身の見解は直接は聞いていない。しかし彼の友人たちは、ルワはムベユが帰ってこれないようにと一連の「冷やし」の施術をわざと行なわないでいるのだと説明する。ともあれ、ムベユたちが犯した過ちは、ムベユの絶縁によって一応「正しく」対処されたということになる。地域の多くの人々は、当然この解決には批判的であった。ある老人は言う。「人が去ったら、マブィンガーニも去るなどということがあるだろうか。彼らが言っていることは真実ではない。自分自身を騙せても、マブィンガーニを騙すことはできない。あいつらにもそのうちわかるだろうよ(andamanya enye)。」

しかし事件はそれきりになった。その4ヶ月後に私が調査地を去るときまで、この事件は私の知る限り二度と近所の人々の口に上ることはなかった。最後の老人の言葉通り、その後なんらかの災厄が生じてルワたちの対処法が「誤り」であったと明らかになるかもしれない。しかし逆に「そのうちわかる」ことになるのはこの老人の方かもしれないのである。その後ルワの屋敷に何の不幸も起こらず、ルワの新妻は順調に妊娠、出産し、人々が健康で、家畜も屋敷も富み栄えれば、彼はルワの対処法で十分だった、それも「正しい」やり方であったと認めざるをえないことになるだろう。ケースは、何が起るかわからない未来に向かって開かれたままである。ヒツジの胃の中身を撒き散らすかどうかに、未来のルワの妻たちの出産の運命が左右されるとはとても思えない私の目にはなおさらである。未来で起こるかもしれない出来事は、今ここでクブォリョーリャを行なうかどうかとはまったく独立に、起こるときには起こるし、起こらないときには起こらない。少なくとも私にはそうとしか思えない。ムベユの犯した明確な過ちも、それに対するルワの対処も、あるいは何がなされたにせよなされなかったにせよ、いずれもそれ自体で特定の結果との直接的な結び付きを自らに保証することなどできない。それらの地位は、不確かな未来の出来事によって、そしてそれのみによって、決定されてしまうのである。

「ドゥルマのやり方」における過誤とそれがもたらす災厄とのあいだの因果関係の図式は、二重に捩じれたものであることがわかる。原因としての明白な過誤の事実が存在する場合には、それに対して当然とられるであろうなんらかの<正しい>対処のおかげで、それは結果として主張される災厄との直接的な結び付きを欠いてしまうことになる。逆に結果としての災厄がまず存在する場合は、それは不在の過ちを遡及的に発生させることによってしか、原因としての過誤には結び付かない。いずれにしても原因と結果の結び付きが自らを完全な形で提示することは決してないのである。にもかかわらず、あるいはそれであるからこそ、「ドゥルマのやり方」が含意する因果的結つきは、一切の反証をともなわずに主張されうるものになる。

「ドゥルマのやり方」と不確定性

以上の議論を、人々の信念--とりわけ西洋近代の合理性に照らして不合理と見える命題と実践の体系--がいかに経験的な反証から自らを保護するものであるかという類いの、アザンデの妖術と卜占に関するエヴァンズ=プリチャードの研究に端を発するいわゆる「合理性論争」のなかですっかりお馴染みになった議論(eg.Wilson ed. 1970)といっしょにしてはならない。私が示したいのは、「ドゥルマのやり方」の知識にに含まれる因果的な連関を受け入れるために--あるいは間違いであることを知らずにすむため--人々がどのような経験を根拠として動員しているか、どんな風に経験につじつまを合わせているかということではない。ウィトゲンシュタインが言うように、人は信念--確実性--を帰納によって手に入れたりはしない(ウィトゲンシュタイン 1975:63-76)。上で述べたような形で出来事を経験することによって、「ドゥルマのやり方」における因果的なつながりについての信念が維持される--それらが信念の根拠になっている--というのではない。次のように言うのが正しい。人々がこうした因果的なつながりを無条件に受け入れている--それらを「信じている」あるいは「知っている」--こと、つまり屋敷の秩序についての一連の比喩的な語り口にからみとられていることが、決定不能で偶然的な出来事のねじくれた生起のうちに因果的なつながりを彼らが見て取ることをまさに可能にしているのだということなのである。単に、ある語り口をとおして、出来事の特定の側面に着目できているということが、「自分はその語り口が主張する連関を経験上知っている」という主張の唯一の意味である場合もある。その場合経験は、自らが証拠立てようとする因果連関に対する独立した根拠であるとは言えまい。

「ドゥルマのやり方」に含まれる因果性と出来事との上述の捩れた関係は、こうした比喩的な論理性にもとづいた因果性が、出来事の不確定性、非決定性に深くかかわったものであることの証査である。不確定性は、未来に向かって開かれた時間の中で企てられる実践と、時間の中で展開する出来事にそなわった消し去りがたい本性である。ますます多くの人類学者が出来事のこの特性に注目しつつある。ブルデュは時間性に他ならないところのこの不確定性こそが、実践に戦略のスペースを提供すると指摘する(Bourdieu 1977:8-9)。ムーアは早くから歴史の不確定性と非決定性を焦点に据えた分析の必要性を唱えてきた(Moore 1975,1978)。ランベクは、けっして閉じてしまわず(open-ended)いつまでたっても決着のつかなさを残していることこそが、経験的な出来事の特徴であるという点を強調する(Lambek 1993:405-6)。ホワイトは不確定性を経験の中心的な特徴ととらえ、人々の実践をこの不確定性に対するプラグマティックな対処としてとらえようと試みている(Whyte 1997)。言うまでもなく問題は、単に出来事がこの先どのように展開するかに予測不可能な部分が含まれる--先が読めない--というだけのことではない。現在における実践の意味が、こうした不確定な未来によってしか定まらないという事実が重要なのである。

「ドゥルマのやり方」において想定されている出来事どうしの因果的な結びつきは、他ならぬこの歴史の不確定性と非決定性のただ中に見て取られることになる結つきである。「ドゥルマのやり方」を誤ることが災厄をまさに予想させるからこそ、今ここでの過ちが後に災厄を引き起こさなかったとしても不思議ではなくなる。予測される災厄が人々の実践の今を意味づけ、それが現実の災厄が起こらないことの理由となる。災厄が起こらないことがかえって、その過誤と災厄との因果的な結びつきと、それを回避するやり方の正しさの証である。一方、災厄が起こったことは、過去の特定の出来事を、気付かずに見過ごされてしまった過誤に遡及的に変えてしまうことによって、再び「ドゥルマのやり方」における過誤と災厄の必然的な結びつきを証し立てる。災厄が現実に起ころうと、起こるまいと、「ドゥルマのやり方」における出来事の結びつきは現実に見事に適合する。あるいはより正確に言えば、それは災いが現実に起るか起らないか決定できない不確かさという現実に適合しているのである。

しかしそれが、<正しい>やり方の<正しさ>の根拠を常に犠牲にすることによってそうなっているのだということを忘れてはならない。きまった「ドゥルマのやり方」があるのだ、何かを行なう際にそれを行なう<正しい>やり方が決っているのだと言いながら、その<正しさ>とは事後的にのみ、つまり未来において実際に災厄が起こるかどうかによって決定される、そうでないことが明らかになるまでの<正しさ>にすぎないのであるから。ルワの事例に見られるように、そこでの<正しさ>は、異なる観点からの異論の余地をともなった正しさである。しかしこうした<正しさ>に対して、仮に異論の余地のない完全無欠な<正しさ>があったとしても、後者が前者よりも分がよいなどということにはならない。未来に生じうる災厄の前にはその完全無欠さもまったくむなしいことになる。「不確定性とは、現在の経験の成り行きの不確かさである。現在の経験は未来の危険をはらんでおり、また内在的に異議の余地を残している。異議の余地を取り除こうとする行為には成功の保証はなく、それ自身が危うい行為である。」(Dewey 1984:178 cited from Whyte 1997)しかしもしそうであるとするなら、そもそも実践の時点でその<正しさ>について問題にすることにいったいどれほどの意味があるというのだろう。さらにそこでの<正しさ>ということでいったい何が意味されているというのだろう。この問題については別稿で正面から取り上げなおすことにしよう。

現在の開口部

「ドゥルマのやり方」に従った実践は、未来に向かって今ここから延びる可能性の集合に、そうでないことが判明するまでのあいだの仮初めの閉鎖をもたらす。しかし出来事の意味が完全に封印されることはけっしてない。カーチェの娘ルブノのケースでは、1993年の暮れには人々はそれが婚資の「産」み直しによってすっかり解決したかのように語っていた。だが婚家に戻ったルブノがその後も流産や死産を繰り返したとしたらどうなるであろう。このケースにおいて見いだされた<正しい>知識は、実は正しくなかったのだということになるのだろうか。それはいつ決着がつく問いなのであろうか。決着などいつまでたってもつきはしないのかも知れない。それどころか未来の出来事の展開が、この「産」み直しが事態を正常化することに成功したのか成功しなかったのかという問いそのものを、一片の冗談にしてしまうかもしれないのである。1995年の夏、<ジャコウネコの池>を再び訪問した私は、カーチェの小屋が崩れ落ち、わずかに土壁の跡を残すのみになっているのを見て驚いた。カーチェと子供たちはすでにその屋敷にはいなかった。1994年の3月に私がフィールドを去った後ほどなく、ルブノは別の男性と駆け落ちしてしまったという。ルブノがそもそも彼女の夫と当初からしっくりいっていなかったことが明らかになった。カーチェも他の子供たちを連れて亡夫の兄弟と再婚し、かつて嫁いでいった亡夫のいた屋敷に戻っていったという。再婚せずに父の屋敷に戻っていたことは、彼女の意志でではなく、単に婚資の未払いをめぐるトラブルのせいに過ぎなかったとでもいうのだろうか。その約2年後の1998年の1月、憑依霊の治療を行なう施術師に同行して患者の屋敷へ向かう途中、飲み水を所望するために立ち寄った屋敷で、私はカーチェと思いがけない再会をした(註6)。彼女を認めて声をかけると、背中に乳飲み子をおぶった彼女はほんの一瞬だけ笑顔を見せた。お決まりの挨拶の手順。「何もないですか(kamuna utu?)」「何もありません。」「なんと、ここにいたんですか。」「そう。」痩せて不健康そうで、父親の屋敷にいたとき以上に粗末な身なりのカーチェは、そのまま小屋の後に消えていった。彼女が一連の経緯について何を思い、どう納得しているのかついに聞けずじまいであった。

一方ルワの屋敷では、その後別の屋敷の人々と隣接した畑の境界線をめぐるトラブルに巻き込まれたり、ルワ自身が同じクランの兄弟と不仲になったりといろんなことがあったという。しかし例の新しい妻との間には子供ができ、1998年の1月の段階で、クブォリョーリャを施術しないままであることを問題にする人はもはや誰もいなかった。すっかり忘れ去られたということではあるまい。いつかある日ルワの屋敷に何かが起こった際に、再びしたり顔で持ち出すことができるように、それは単に記憶の底に畳み込まれているだけなのかもしれない。

人はいったいいくつのこうした決着のついていない時間を引きずりながら暮らしているのだろうか。一見単純にみえる出来事の経緯が、こうした未決の過去の沈殿物によってさまざまに色合いを変える。この論考の冒頭で紹介した老婆Kgの孫娘の一人Bhの3人目の子供の病気と死をめぐる顛末は、重奏する問題によってその見え方が目まぐるしく変化するケースの一つであった。

1989年の11月のことであった。Bhの一才を過ぎた息子Mは、かなり以前から病気であった。腹部が膨満し、食べるものもろくに摂れず、すぐに戻してしまう。ぐったりして弱々しく泣いてばかりいる。Bhは当時19才、小学校を3年終えただけで中退し、数年前にN氏の第4夫人となっていた。BhはMをすぐキナンゴの病院へつれていって診療を受けたが、その結果ははかばかしくなかった。人々によると、問題は病院で解決できる種類のものではない。母親の乳を飲んでいる子供の病気は、母親の病気に原因がある--母乳が「駄目になる」ことを通じて--ことが多いとされている。その場合は母親を治療しないことには解決はつかない。実際、BhはN氏と結婚して以来立て続けに二人の子供を生後まもなく失っていた。Mの病気が実際にはBh自身に関わる問題であることは、そもそも疑いの余地が無かったのである。周りの人々はBhに、本格的な(施術師による)治療を勧めたのだが、Bhはあくまで病院に頼る姿勢を貫こうとしたらしい。これも人々の説明なのだが、病院の医師はついにMを入院させ、開腹手術までしてその原因を知ろうとしたが、医者たちは手術をしてもそこに「何も見つけることができなかった」という。Mは退院し、N氏は占いに赴き、Mの病気がBhに憑依している3つの鳥の霊--「除去すべき霊(nyama wa kuusa)」の一種--のせいであることがわかった。そこで、次の日急遽、原因が本当に霊の仕業であるかどうかを確認する目的も込めて、除霊治療(ku-kokomola)が開かれることになった(註7)。

私がことの成り行きを直接見聞きし始めたのは、この治療からである。N氏が治療のために大きな音をたてることを近隣にことわりに回る際に、私の小屋にもやってきて治療の開催を告げ、私がそれへの参加を願い出たのが最初であった。小屋の中でBhを囲んでカヤンバ(憑依の治療ダンスで使用される一種の打楽器)が打ち鳴らされたが、Bhはいっこうに憑依される気配をみせなかった。人々は、Bhの憑依を邪魔している何かがあると論じあった。夫が妻に対してひそかな怒りを抱いている場合、しばしば妻の憑依が妨げられることがある。施術師は、N氏にもしBhに対する怒りがあるのなら、それを唾液とともに吐き出して冷やしてしまうクハツァ(ku-hatsa)と呼ばれる手続きをとるようにN氏にすすめた(註8)。N氏は自分は言うべき言葉は何もないと断った上で、Bhが常日頃屋敷内での自分の地位に不満を訴えているのを自分は苦々しく思っていたと告白した。そして病気がお前一人の問題であれば、私はお前をほっておいただろう。しかしお前はお前の子供たちをそれにまきこんでいる。見ろ、この私の息子を。今にも死にそうだ。こういって口に含んだ水を自分の胸とBhに吐きかけた。治療に参加していた女性たちも口々に、Bhを非難した。その後Bhはすぐにトランス状態に陥り、自分は「ディゴ人」と呼ばれる憑依霊であり、「私は誰からも憎まれてばかりいる」と泣き喚いた。「ディゴ人」につづいて、「ドゥルマ人」と名乗る別の霊が現れ、高飛車な調子で人々に自分のために正式な治療ダンスを開くよう要求した。人々はその要求をかなえることを約束した。その後は、除霊は順調に進んだ。問題の霊が呼出され、粘土で作った人形を「子供」だといって渡されたBh=霊は、それをもって小屋から走り出て、屋敷のはずれで気を失って倒れ、その場で供犠された鶏の血を飲まされて正気に戻った。これで霊は追出されたことになる。3つの問題の霊のそれぞれについてこれが繰り返された。

しかし、この治療の後もMの状態は相変らずであった。治療を主宰した施術師は、除霊に必要な品物(chiryangona)に不備があったため、3つの霊のうち一つについては除霊が成功したかどうか疑問であると語った。しかし、後でわかったことだが、この儀礼の後今度はBh自身が自らひそかに占いをうちにでかけていた。占いのみたては、病気の原因がN氏の第二夫人Meとその息子Jが、Bhにかけた妖術のせいだというものであった。Bhはこの結果を夫であるN氏にだけ打明けたという。もちろん私がこのことを聞いたのは次に述べる出来事の後、近所の人の噂を通じてである。

約一ヶ月後、Mは死亡した。この間屋敷の人々の中でMをもう一度病院へつれていくべきだと主張したものは誰もいなかったらしい。半狂乱になったBhは、Mの埋葬の席で、人々の面前でN氏の第二夫人Meを妖術使いだとののしった。彼女はBhを嫉妬してBhの子供が一人も育たないようにBhに妖術をかけたのだというのだ。Bhは妖術使いのいる屋敷には住んではいられないと泣き叫び、Meに「お前はこれからもたくさんの子供を産むことができるだろうよ。」と捨て台詞を投げつけて--これは非常に忌まわしい呪詛(bako)ととられうる発言である--そのまま実家である祖母Kgのもとに帰ってしまった。人々はBhがこのように振る舞ったのもやむを得ない「彼女はまだ子供で、分別がたりないのだ」と語りあっていた。

Bhが屋敷を去ってしまったため、この中途半端な妖術告発は、「女」につきものの内実のともなわない単なる不用意な悪罵(chibako)として、そのまま立消えとなった。一連のことの成り行きは人々のさまざまな無責任な噂のなかに埋没していった。しかしこれらの噂は、N氏の屋敷の人々が引きずっているさまざまな未決の過去を明るみに出していた。冒頭で紹介したようにBhには父も母もなく、祖母のKgは熱心なキリスト教徒であるため、Bhに対して支払われた婚資は「産む」手続きを経ていなかった。さらに別の無責任な噂は、N氏が実はBhの死亡した母親と性関係をもっていたと仄めかしていた。N氏がBhと結婚したことは由々しいマブィンガーニ--一人の男が母と娘をまぜこぜにした--だというのである。さらに別の物語は、N氏がずっと若かった頃の話を持ち出している。彼は若い頃一人のカンバ人と喧嘩し相手の歯を折ってしまった。カンバ人はその賠償をチーフの法廷に求め出たが、N氏は土地の有力者との強力な親族関係を武器にこの要求を退け、さらに相手を袋叩きにしてしまったという。カンバ人はこの仕打に対して呪詛(chirapho)をかけたらしい。N氏の第一夫人は発狂して行方不明で生死すらさだかでなく、彼女が産んだN氏の長男も、その息子も繰り返し精神に異常をきたしている。これらはすべてこの呪詛のせいなのだ。すでに呪詛をかけたカンバ人が死亡してしまっているために、N氏にかけられたこの呪詛は今となっては解除できないのだという。

これに加えて、不成功に終わった可能性がある除霊と、中途半端な妖術の可能性があるというのである。Bhをみまった不幸はいったいどれだけ多重に決定されたものであれば気がすむというのだろうか。Bhは数ヵ月後再びN氏の屋敷に戻ったという。私がその年の滞在を終えて帰国した後のことであった。1991年の10月に私はBhと再会した。まだ次の子供は出来ていなかった。N氏の第二夫人Meは、この間にすでに他界していた。唐突な死であったという。息子のJはそれを第三夫人と父親N氏自身がいっしょになって行使した妖術のせいだと非難し、父親N氏の屋敷を去って数キロ離れたところに独立した屋敷を構えていた。その折にはたいそうな騒ぎになったと、Bhは自分が引き起こした同様なもめ事は忘れてしまったかのようなコメントをする。お茶をご馳走しながら軽い冗談の応酬。私と同居していた助手のカタナ氏--例の除霊の治療の一部始終をおさめた録音テープは彼によって書き起こされていた--は、テープに録音されていた彼女の憑依のありさまを真似て、しつこく彼女をからかう。2年前の経緯が思い出される。彼女は終始ほがらかであったが、最後にポツリと自分には一人も子供がいない。自分は本当に一人ぼっちなのだ、とちょっと投げやりな調子で呟いた。いくつの物語が彼女の不幸を説明するために繰り出されても、結局彼女の悲しみと絶望のようなものはそれらの物語りには回収されずに、そこからこぼれ落ちた個の領域のなかに深く沈殿しているのかもしれない。一つ一つの決着のつかない物語、未決の過去は、一見平穏をとりもどした日常生活の底に伏流のように姿を潜めていて、再び新たな出来事を自らの関連性の網の目に絡め捕ろうと待ち構えているのだろう。「ドゥルマのやり方」、屋敷の正しい運営の仕方や屋敷におけるさまざまな実践の手続きも、時間の根本的な不確定性と対話しながら出来事の経緯を物語化するそうした多様な装置の一つなのである。


註釈

(註1)
一人の未婚の男が、自分で稼いだ金で土地を購入した。しかし妻もおらず自分では耕せないので、すでに結婚していた弟夫婦にそれを耕すことを許していた。弟夫婦は父親と仲が悪く、父親の土地を未だ分け与えられないでいたからである。さて兄が結婚して土地を自分で使用したくなったのだが、ここで近隣の長老から「それはすでに弟のものであり、兄は後戻りできない」という異論が出たのであった。このような場合、どうすればよいのかの相談である。金銭で土地を購入するということもまだまだ異例であるし、未婚の兄がその土地を既婚の弟夫婦に委ねるという状況も異例であった。そのため人々はどのように処理すればよいか判断に苦しんだのである。

(註2)
「追い越」された婚資の「産」み直しについては、別稿の『「追い越し」と性の禁止』の項を参照されたい。

(註3)
未亡人は、「熟した弔い(hanga ivu)」と呼ばれる死者に対する2度目の弔いの後に、死者の他の財産が相続されるのと同様に、再婚することができる。死者の「兄弟」あるいは「孫息子」が相手の候補であるが、適当な相手がいない場合亡夫と同じクランの男性が次の候補となる。稀に死者の姉妹の息子と再婚することもある。これらの選択は基本的には未亡人にあり、「熟した弔い」の最終日に未亡人はその意思を問われる。これがルールであるが、「熟した弔い」を待たずに再婚するケースも多い。死者と同じ「屋敷」あるいは同じ「小屋(リニージ分節)」であれば、再婚にともなってあらためて婚資が支払われることはないが、それ以外の男性が娶る場合は、彼は死者の親族に婚資を支払わねばならない。

(註4)
いうまでもないかもしれないが、カーチェ自身が--彼女自身の主張には反して--他の男性との性関係を通じて婚資を「追い越」してしまったのだという可能性も、ほのめかされてはいる。しかしンジラの場合と違って、そう仄めかす人は何か根拠があってのことではない。一番穏当な解釈は、ズマ氏が自分の妻と寝ることによって、すでに婚資は「追い越」されたのだという解釈であるが、「追い越し」の原因の究明において解釈の穏当さが--あるいは面白さが--何らかの役割を演じるという訳ではない。

(註5)
婚礼(harusi)に先だって、花婿側は花嫁を自分の屋敷にもらいうけてきて、婚礼の日まで小屋の中に隔離する。ルワは婚礼の一週間前に未来の第三夫人を自宅に連れてきて、そのままムベユが使用していた小屋に住まわせた。

(註6)
私はカーチェの婚出先がどこであるか具体的には知らなかったので、事実、思いがけない出会いだったのである。移動の途中であったためゆっくりと話す機会ももてなかった。

(註7)
憑依霊についてはここでは詳しく述べる余裕がない。いずれも憑依霊をめぐる諸観念の素描を目指したものとはいえず、不十分なものではあるが、以下の2論文を参考としてあげるしかない。浜本 1985, 1992

(註8)
心の中の口に出されない怒りが、親子、夫婦などの関係で相手に不幸をもたらすとする考え方がある。ムフンド(mufundo)と呼ばれる観念である。ムフンドとそれを解除する手続きであるクハツァ(ku-hatsa)については浜本 1995 を参照のこと。

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