屋敷の成り立たせ方:「産む」 という比喩について

First coded: Oct.14, 1998
Last modified: Nov. 23, 17:29:34 1998

要旨

ドゥルマの人々のあいだで流通している一連の構造的比喩--それを通してある経験領 域が思考や行動の対象として客体化するような体系的な語り口--の中核をなし ているのが「産む」という表現である。本稿ではこの「産む」という作業と それに対する妨害行為としての「外の性」の問題について論じる。これは別稿において 論じた「追い越す」という比喩の今一つの意味に対応している。
「産む」あるいはそれの正反対である「投げ棄てる」という比喩は屋 敷と外部のブッシュを隔てる境界に対する操作に関係しており、この構造的 比喩に接合することによって、性のさまざまな形態が独自の布置をとって相互 を参照しあっている様が明らかになる。

目次

  1. はじめに
  2. 「産む」という手続き
  3. 婚資の「産」み方
  4. 「産」む目的
  5. 「死を投げ棄てる(ku-tsupha chifo)」方法
  6. 「冷やしの施術(uganga wa kuphoza)」と「事故 (mvanga)」を投げ棄てること
  7. 「産む」ことと「投げ棄てる」こと
  8. 「追い越し」と性の禁止
  9. 新生児のキルワ(chirwa)
  10. 屋敷の秩序をめぐる語り口の比喩性
  11. 秩序の語り口と性
  12. 註釈

はじめに

「追い越す」という言葉には、別稿で扱った屋敷内の序列に関して用いられ るのとは別の用いられ方がある。弟が兄を「追い越し」てしまうというのなら、 まだわかりやすかった。しかし「なまの弔い」を「追い越す」とか、購入した 家畜を「追い越す」とか、産まれたばかりの子どもを「追い越す」、治療に用 いられた「薬」を「追い越す」などの一連の表現は、そもそもクキラ (ku-chira)という動詞を「追い越す」と訳すこと自体が誤りなのではないか と疑わせるほど奇妙に響く。この用い方での「追い越す」という言い回しの多 くは、すでに繰り返し登場してきた「産む」という言い回しと密接に関係があ る。「産むことができるものならなんでも追い越されうる(Chochosi chivyalwacho ni kukala chinachirwa)」といった言い方をしばしば耳にする が、ここで用いられているのがこの2番目の用法の「追い越し」である。この 意味での「追い越し(ku-chira)」を理解するためには、まず「産むこと (ku-vyala)」とは何かを理解しておかねばならない。

「産む」という手続き

「産」まねばならないとされているものはいっぱいある。そのいくつかにつ いてはすでに一連の考察においてたびたび言及している。息子が最初の妻を娶 る際には、息子の両親はその妻を「産」んでやらねばならない。この手続きは 「子どもを産むこと(ku-vyala mwana)」と呼ばれている。二人目以降の妻を 娶るときには、夫は第一夫人とともに新しい妻を「産」み、上位のすべての妻 との性関係を順序にしたがって済ませた後に、この新しい妻との関係をもつこ とが可能になる。この手続きは「妻を産むこと(ku-vyala muche)」と呼ばれ ている。屋敷を開く際には、屋敷の長は第一夫人とともに「屋敷を産む (ku-vyala mudzi)」必要がある。小屋をたてる際にも、新しい扉をつける際 にもこの「産む」という手続きが必要である。娘が嫁ぎ彼女に対する婚資が支 払われる際にも、娘の両親はその「婚資を産む(ku-vyala mali)」必要があ る。新しく畑を開く際にも、その「畑を産む(ku-vyala munda)」必要がある。 また新たに家畜を入手して新しい群れをつくる場合、あるいは家畜を購入する 都度、「産む」手続きが必要になるかもしれない。これは婚資の場合と同様に 「財産を産む(ku-vyala mali)」と呼ばれる。これらは「産む」手続きが必 要とされるほんの一部の例に過ぎない。

「産む」手続きとは具体的にはしかるべき相手とある特別なやり方で性交を おこなうことである。性交する(ku-homba)という直接の表現を避けて、さま ざまな言い方が用いられる。すでに別稿で用いたことのあるマトゥミア(matumia) やウトゥミア(utumia)などの言葉は、通常の性交とは区別されるこの特別な 役割をになった性交を指すものとして、もっとも頻繁に耳にする表現である。 字義通りには「長老(sing. mutumia /pl. atumia)」にかかわる問題(mambo ga atumia)や、長老にかかわるもの(utu wa atumia)という意味であり、 「マトゥミアを済ませる(ku-usa matumia)」、「ウトゥミアを済ませる (ku-usa utumia)」という言い方が広く用いられている( 註1)。 これら以外にもさまざまな婉曲表現が用いられる。ずいぶんもって回った言い回し もある。「さて、彼女(未亡人)はそこにおもむいて、カヤ以来のことがら、 祖先によってもたらされたことがら(mambo ga kulaa kaya gorehewa ni mukare)を済ませるのだ(註2)。」まったく別の動詞を用いる言い方もある。「制作する」という意味をもったスワヒリ語の動詞ク・トゥンガ (ku-tunga)の前置形に由来すると思われるク・トゥンギヤ(ku-tungiya)と いう動詞は、この地方ではもっぱらこの行為を指す言葉として用いられている。 「整える(ku-tengeza)」という動詞にこの意味をもたせる用い方もある。例 えば「屋敷を整える(ku-tengeza mudzi)」「婚資を整える(ku-tengeza mali)」などと言うと、それぞれ屋敷や婚資を「産む」ために性交を行なうと いう意味だとすぐに通じる。マトゥミアの性交は、やり方のうえでも通常の性 交とは区別される。「死を投げ棄てる」場合のそれのように、ブッシュや道の 分かれ目や「冷たい木」の根元の地面の上で、余所者を相手に無言で、手を使 わず、一回きり行なうという具合に、多くの条件が付いている場合もあるし、 例えば息子の妻を「産む」場合のように、普通にベッドの上で行なえばよく、 人によっては無言である必要もないとされる場合も--しかし手早く一回きりと いう点は守らねばならない--ある。「産む」という手続きにおいてさらに重要 な点は、マトゥミアの性交に先だって性関係の禁止が挿入されるという点であ る。息子の妻を「産む」場合、彼女が屋敷にやってきた日、両親は「背中合わ せに」つまり性関係抜きに一夜を過ごす。そして翌日の夜、二人はマトゥミア を済ませる。新しい畑を開く場合、「畑を打つ(ku-bata munda)」と呼ばれ る最初の日、夫は第一夫人とともにブッシュの木を切りつける。その夜は二人 は性関係抜きに眠る。そして翌日の夜二人でその畑を「産む」。性関係の禁止 の期間は、一夜ではすまない場合もある。畑にトウモロコシの種を播いた際に は、それが発芽するまで性関係は禁じられる。その後に、夫は第一夫人ととも にトウモロコシを「産む」。

「産む」と訳したドゥルマ語の動詞ク・ヴャラ(ku-vyala)は、もちろん出 産そのもの--人に限らず動物一般の--を指す言葉でもある。植物が実をつける ことも同じ動詞を用いて語られる。まさに子どもを作ることなのである。した がって屋敷を「産む」とか、妻を「産む」といった言い方が比喩的な言い回し であるといっても、当たり前にしか響かないかもしれない。しかし比喩といっ てもそれが、本稿で繰り返し注目してきた構造的な比喩であることを捕らえ損 なってはならない。すくなくともそれは単なる気のきいただけの言い回しでは ない。むしろ構造的な比喩の多くがそうであるように、「産む」という言い回 しも、語り手たちにとってはそもそも比喩や譬えとしては把握されず、特定の 経験領域に属する事実を端的に記述する表現であるかのように把握されている。 例えば「ビール瓶の口」や「テーブルの脚」といった表現を使っている我々が それを端的な事実の記述として受けとり、けっしてさまざまな事物の部分を人 体の構造になぞらえて捉えているのだというあからさまな比喩の意識をもたな いように--これらは普通「死んだ比喩」などと呼ばれているが--、ここでも 「妻を産む」とか「屋敷を産む」とかの表現で何ごとかが「出産」に譬えられ ているのだと考えたり、ましてやそこでは象徴的な「出産」が演じられている のだと考えたりすることは的外れである。文字どおりの出産の後にも、生れて きた子どもを「産む」手続きがさらに必要とされているという事実が、それを はっきりと示してくれる。実際の出産が行なわれているときに、再度あえて象 徴的に出産してみせることに何の意味があるだろうか。おまけに現実の出産は、 わざわざ出産に譬えるまでもなくそれ自体ですでに出産なのである。いまさら いったい何をそれに譬えてみせようというのか。

現実の出産の後に、その子どもを「産む」手続きは、きわめて重要で慎重に なされねばならない手続きである。子供を「産む」に先立っては夫婦の性行動 は長期にわたって規制をうける。それは妻が妊娠したときから始まる。彼らは 「外(konze)」での、あるいは「ブッシュ(weruni)」での性関係--要する に婚外性関係のことであるが--を慎まねばならない。妻は他の男性と、夫は妻 以外の女性との性関係を禁じられる。もちろんそれ以前なら良いという訳でも ないのだが、とりわけ妊娠中の婚外性関係は、後に述べるように、生まれて来 る子供に深刻な害を及ぼすとされるのである。夫に彼女以外に別の妻がいる場 合、こうした他の妻との性関係は通常通り続けることができる。妊娠中の妻と の性関係は特に規制されないが、妊娠後期になるとあまり好ましくないとされ ている(註3)。子供が出産するとさらに厳しい禁止が課せられる。 夫は一切の性関係を--たとえ彼の正規の妻との性関係であれ--慎まねばならな い。産婦についても同様に禁止が続く。それは子供を産んだ妻が完全に「乾く (ku-uma)」まで続く。産まれてきた子供が「水を落とす(ku-gb'a madzi)」 つまり皮膚の色が濃くなる頃、あるいは「壺に蓋がされる(ku-finika dzungu)」 つまりひよめきが閉じる頃まで、という意見もある。この期間が終わると、夫 は出産した妻と一回きりの性交、マトゥミアを行い、その子供を「産」む。こ れによって通常の性関係--自分の他の妻たちとの性関係も含め--が再開される のである。こうして初めてその子供は「お前(たち)の本当の子供(ni mwanao kamili)」になる。

「子どもを産む(ku-vyala mwana)」というこの手続きは、逆流した比喩の ようだとも言える。一連の手続きにおける「産む」という言い回しが、出産の 出来事を源泉領域にもつ比喩的な言い回しであったとしても、それはすでに出 産とはまったく別の自らの意味と指示対象を獲得してしまい、自らの源泉であ る出産という出来事の場に逆流してきているのである。「産む」という手続き を出産をもとにして理解しようとしても無駄である。逆にこの「産む」という 言葉が--構造化する比喩として--どのような仕方で出来事を互いに関連づけ、 またどのような論理と帰結の網の目の中にあるのかを、問わねばならない。

「産む」という手続きは屋敷内の秩序--成員どうしの序列の構造--において きわめて重要な位置を占める。別稿で明らかにしたように、序列にしたがって なされるべきとされるあらゆることがらにおいて、実際に問題となっているの は「産む」タイミングである。兄弟の結婚順の場合、問題は妻を屋敷に連れて きて、それを夫の両親が「産む」順番が問題であった。兄がいくら先に結婚し ていても、それがモンバサでの話であれば勘定には入れられない。屋敷に先に 自分の妻を連れてきた弟に「追い越」されてしまうことになる。屋敷を移転す る際にも、小屋の建造順が問題になると言いながら、実際には小屋を「産む」 タイミングが問題であった。いくら小屋を先に建ててもそれを「産」まずにい れば、下位者に「追い越」されてしまいうる。しかしそこでは、「産む」こと がその順序にしたがってなされねばならないところの、当の序列そのものの性 格については問わなかった。兄弟の序列にせよ姉妹の序列にせよ、漠然と出生 の順序に基づく長幼の序列であるという理解を許容してきた。今やこの点でも さらに正確に述べることができる。出生という事実自体が「産む」作業からなっ ていることが明らかになったのだから。まさに「産む」作業が屋敷内の秩序、 その成員どうしの序列を作り上げる。そして結婚や小屋の建造などに際しての 「産む」作業が、その都度それを反復していくのである。「産む」作業が序列 にしたがって行われると言うことは、あらかじめ序列が存在していることを前 提とした言い方である。しかしまさに序列にしたがって何かを行うこと以外に、 当の序列を可視化し作り出していくものがあるだろうか。「産む」行為こそが まさにこの意味で当の序列を作り出す実践なのである。「産む」という比喩の まわりに集まってくるさまざまな概念や語り口をとおして、屋敷の秩序にとっ てあまりにも根本的な操作の一つであるこの「産む」作業の性格を明らかにす ることが本稿での中心的な課題となるだろう。

「産む」手続きが必要なすべての場合についていちいち詳述しても、繰り返 しばかりになってあまり意味はない。「産む」という手続きに対するこだわり の程度も人それぞれである。例えば息子が町で稼いできたお金を持って帰って きたときとか、何か新しいものを購入したときとか、こまごまとした機会をと らえて「産む」手続きが必要だと主張する人々もいれば、誰もが必要だと認め るであろうような機会にのみ「産む」手続きを行なうだけの人もいる。昔は重 要だとされていた機会でありながら、最近はあまりこの手続きが実行されなく なっているものもあるという。例えば畑の作物の最初の収穫--「解き放つ (ku-taphula)」と呼ばれる--に際しての「産む」手続きについて、多くの老 人たちは最近の人々が何もせずにただ収穫して食べてしまう--だから近年、満 足な収穫が得られなくなってしまったのだ--と嘆いている。

婚資の「産」み方

「産む」手続きが一連の出来事の中でどのように挿入されているかを見るた めに、多くの人々がいまだに強くこだわっている嫁いで行く娘に対する婚資の 受けとりに際しての「産む」手続きについて、1970年代はじめに第一夫人 として嫁いだある女性が、そのときにとられた手続きとして話してくれた内容 をもとに紹介しよう(註4)。

 婚資の交渉は、未来の花婿の父親が2つの大型の瓢箪--カザマ(kadzama) とキテテ(chitete)と呼ばれるが、今日ではプラスティックの容器が用いら れることが多い--につめられたヤシ酒を持ってくるところから始まる。最初の 酒は「占いの酒(uchi wa mburuga)」と呼ばれ、婚資には数えられない。花 婿の父親に話を切り出す勇気を与える酒で、未来の花婿がすでに娘をかどわか して連れ去ってしまっている場合には、この酒は「盗みを報告する酒(uchi wa kusema wivi)」、そうでない場合は「屋敷の前庭の酒(uchi wa muhara)」 などとも呼ばれる。この酒の最後の一杯が、瓢箪製のコップであるキパーリャ (chiparya)のどこまで達するかで、結婚の成否が占われる。結果が良しと出 ると、「キテテの酒(uchi wa chitete)」が酌み交わされる。娘がまだ連れ 去られていない場合には、娘の意志が問われる。「お前は誰某に好かれている。 私たちはこの酒を飲んでもいいだろうか。それとも飲むべきではないのだろう か。」娘自らが酒をキパーリャに注いで父親に差し出すことによって、承諾の 意を示す。

 「それが彼女の答えなのさ。これで終わりだ。人々は酒を飲む。その瓢箪が 空っぽになるまで。そのキテテの酒がすっかりなくなるまで。そしてそれがな くなっても、その瓢箪キテテはどこにも行かない。持ち主といっしょに帰った りしない。それはベッドの下に置かれる。娘の父と娘の母のベッドの下に。そ れはそこで眠る。彼ら(両親)も背中を見せあって眠る。その次の日まで。だっ て、彼らにはそれを産むことが求められているんだから。向こうではあの連中 (求婚にやってきた人々)も、その晩は何もしない(性交を慎む)。さて、彼 ら(両親)は眠り、夜が明ける。その日の晩、さあ彼らはキテテを産む。さあ、 終わった。あの連中に知らせられる。そして彼ら(求婚者の両親)も、彼ら (娘の両親)に続く(性交を再開する)。さて、もうキテテを持っていってよい。 ベッドの下ですでに産まれている。結婚とは面倒なものなんだよ。」こんなふ うにキテテの瓢箪を「産む」ことが、婚資を「産む」第一歩となる。

 後日、再びヤシ酒が持ってこられる。「代金の瓢箪(kadzama ya bei)」と 「小屋の前庭を掃いてもらう酒(uchi wa kuphera muhala)」である。婚資の 交渉が行われ、支払われるべき細目についての合意が成立する。「人間は売ら れたりしないなんて誰が言ったんだい。私たちは売られるのさ。『代金の瓢箪』 は何のための瓢箪だと思う。お前が売られるっていうことじゃないかい?」こ の日、婚資を支払いはじめる期日が定められる。

 婚資の支払いの最初は、デベ缶6杯分の「小屋の酒(uchi wa nyumbani)」 である。そのとき「主柱のヤギ(mbuzi za mulongohini)」(雌山羊とそれが 産んだ仔山羊の2頭)、「引きずりのヤギ(mbuzi ya mikuruto)」、「腰巻 (hando)」と「毛布(burangeti)」も支払われる。婚資の本体の受け渡しの 日が定められ、求婚者側は最後に「手付けの酒(kadzama ya mufunga)」を払っ て帰宅する。

 約束の日に、今度は花嫁側が花婿側の屋敷に赴き、婚資の本体を受け取りに 行く。娘の父親たちが婚資の動物を追い立てることが禁じられているため、ウ シ追い役として娘の兄弟たちも同行する。婚資の現物が一頭一頭示され、同意 が成立すると、客たちは酒と食事を振る舞われた後、婚資の動物を連れてかえ る。

「(問:その日のうちにですか?)泊まったりはできない。その日のうちに彼 らの婚資を追ってかえる。ああ、そうそう、先頭には一頭のヤギがいる。『祖 霊を眠らす』ヤギが。仮に婚資のウシ14頭が全部手に入らないとしても、そ いつを欠いてはならないというあの『祖霊を眠らすヤギ(mbuzi ya chilaza k'oma)』だよ。それはあなたがたの祖霊たちを眠らせに行く。さて、この 『祖霊を眠らすヤギ』にもマトゥミアがある。『祖霊を眠らすヤギ』は婚資と いっしょにやってくる。というわけで彼ら(娘の両親)はもう一度婚資を産ま なければならない。仮に、日が暮れてウシたちが途中で寝ることになったとし よう。でも雌ウシ(ndama)一頭とこの『祖霊を眠らす』という名のヤギがやっ てきて、祖霊を眠らさなければ。そいつらは屋敷で一晩眠り、明けるとヤギは 屠殺される。ああ、墓ででじゃないよ。屋敷でだ。さあ、終わった。さてその 晩、彼らはその雌ウシを産む。娘とは、何度も何度も産み直されるものなんだ よ、あんた!」

 この間、花婿の両親は性関係を慎んでいなければならない。花嫁側から万事 が滞りなく終わったとの連絡が来ると、彼らは性交を再開できる。「だって求 婚者側の人々(alozi)が先行してはならないんだから。まず彼ら(花嫁の両 親)が自分たちの娘を産む。そうしてはじめて彼ら(花婿の両親)も始められ るんだよ。」これによって婚資の本体は「産」み終えられたことになる。

 後日、花婿たちがふたたび酒をもって、花嫁を連れにやってくる。明け方、 雄鶏が刻を告げるころ、娘は両親に祝福(ku-hatsira)され、祖母と姉妹に伴 われて花婿とともに実家を後にする。「夫のところにつくと、小屋に入れられ る。何もしない(性交は行わない)。誰といっしょに寝るのか。祖母や、夫の 姉妹たちだ。夫は許されない。だって『草とヤギはいっしょには眠らせない』 と言うじゃないか。さあ、彼女は産まれることになる。これが最後だ。最初に、 こちら(実家)の彼女の父親と母親によって産んでもらう。それが済むと、今 度はあちら(婚家)の彼女の父親と母親によって産んでもらう。あとは婚礼 (harusi)を食べるだけだ。三日目の昼、彼女は外に出される。その晩、さあ 今度は彼ら(花婿、花嫁)の番だ。お前はお前の妻を与えられる。これで本当 に終わりになる。」

 少し補足する必要があるだろう。まずこのバージョンと他のバージョンに見 られる主要な相違点をあげておこう。婚資に含まれるべきもののリストや支払 いの時期や順序の違いについては触れない。上の紹介でもこの点は一部割愛し てある。何をいつどのような名目でどれだけ支払わねばならないかは、まさに 結婚の交渉の都度おおいに議論される事柄に属している。最初に酒が持ってこ られる瓢箪キテテを「産む」ことに関しては、私の知る限り意見の不一致は見 られない。2度目に婚資を産むタイミングについては、ここでのように婚資の 本体とそれを代表する「祖霊を眠らすヤギ」が支払われる際に行うという意見 と、それ以前に婚資の支払開始をマークする「主柱のヤギ」が支払われる際に 行うという意見が分かれている。主柱のヤギが支払われた夜、この2頭のヤギ は小屋の主柱につながれて一夜をすごし、娘の両親は背中合わせに寝る。その 次の日の晩、両親はこの主柱の下の地面の上で婚資を「産む」、というもので ある。これはおそらくかつて行なわれていた「キドゥルマの妻」婚において婚 資が「産」まれる手続きだったのかもしれない(註5) 。 「キドゥルマの 妻」婚の場合、「ウシの妻」婚における婚資の本体にあたるものは、その日で 支払われてしまっているはずだからである。しかし確証はない。もちろんどち らの機会にも「産む」べきだと主張する意見もある。「産む」行為のそれぞれ に花嫁側と花婿側の双方が関るかどうかをめぐっても、意見は少し分かれる。 最初の2回は、花嫁側だけに関するものであり、逆に婚礼に際して息子の嫁を 「産む」行為のほうは、もっぱら花婿側だけに関係したものだという意見も多 い。一方、婚資を「産む」のは花嫁の側だけであるが、もう一方の側も相手が 「産」み終わったという知らせが来るまでは性関係を慎むべきだという意見も ある。ここでのバージョンのように双方で「産む」のだという意見は、どちら かと言うと少数意見に属している。しかし多数決をとっても仕方がない。いず れにしても、何が正しいやり方であるかを現実の実践から離れたところで語る 語りにおける違いである。実際はというと、差し迫った事態に対する考慮がは るかに優先する。多くの結婚では、しばしば息子は両親の知らないうちにこと を運び、いきなり娘をかどわかして屋敷に連れてくると「実は、今日私たちは 客人を迎えている」などと親に告げたりする。父親は仰天して、しかし半ば喜 んで、いそいそと娘の両親に「盗みを告げに」行くことになるだろう。この場 合、娘の両親との婚資交渉がすみ、娘の両親が婚資を産み、婚礼が無事にすむ まで、二人に屋敷内での性関係を慎ませなければならないことになるが、間違 いが起る危険を無視するわけには行かない。息子の嫁を「産む」タイミングと 娘の実家での婚資を「産む」タイミングは、どうしても狂ってしまう。

 ンゴメ(仮名)氏は、その長男に妻を迎えるにあたって、自らその候補者を 選び、娘の父親ツマ(仮名)氏とも話を通じさせていた。彼とツマ氏は昔から の友人であった。「占いの酒」の結果も良好で、「キテテの酒」を酌み交わす ところまでは順調であった。しかし、次の段階にいく前に当の息子が弟と連れ 立って、どう口説いたかは不明であるが娘を騙してこっそり連れてきてしまっ たのである。若者たちのあいだでは、両親のお膳立てで結婚するのはなさけな い、結婚は拐かしによるのが「かっこいい(fiti)」という意見がある。ツマ 氏の屋敷では大騒ぎになったらしい。実は以前からその娘をねらっている別の 男がいたからである。娘の行方不明がてっきりその男の仕業だと思ったという ツマ氏は、翌日捜索隊を出し、同時にンゴメ氏の屋敷にも人を送って、自分の 不手際をわびようとした。しかし使者がそこに見たのは、ンゴメ氏の屋敷で食 事をごちそうになっている娘の姿であった。呆れ果てる使者。慌てたンゴメ氏 は、酒を手土産に「盗みを告げに」ツマ氏の屋敷に急行する羽目になった。ツ マ氏は激怒して(みせて)、さらにビール20本を要求した。以上のいきさつ は、ンゴメ氏自身が、そのビールを届けにいく途中、困った困った「私の息子 は私を泥棒にしてしまった」と苦笑いしながら、どこかまんざらでもない様子 で私に話してくれたものである。ところで当の息子は、娘を連れてきた翌日父 のいいつけで、モンバサに働きに出ている親族のもとへ遣わされていた。実は これはンゴメ氏の策略で、彼はそのあいだを利用して息子の妻を「産」んでし まおうというのである。「あいつ(息子)は信用できない(kaaminika)から。」 こうして彼は息子が屋敷内でその妻と性関係をもつ前に、無事彼女を産むこと ができたのではあるが、その時点で婚資の支払いがまだ一切始まっていなかっ たことは言うまでもない。

 一方、婚資を受け取る側での問題はさらに大きい。婚資の完済能力のある人々 は決して多くはない。キテテに関しては、問題はない。しかし、度重なる催促 の末に、娘を実家に取り戻されないようにとの意図のみで、それも現金の形で、 ちょこちょこと支払われたもののどこまでが単なる「手付け(mufunga)」で、 どこからが婚資の本体なのか、これは問題が行政首長の法廷に持ち込まれる都 度、いつもさかんに議論される点である。婚資を産むタイミングは、限りなく 曖昧になりうる。上で婚資を産む規則について話してくれた当の女性には、あ る男性に嫁いで数ヵ月になる娘がいたが、支払いの約束日は(身内の死などの 抗いがたい理由でではあるが)再三にわたってすっぽかされ「毛布」と「腰布」 の名目でわずかばかりの金が支払われていただけであった。彼女自身、娘の婚 資の本体をまだ産んではいなかった。

こうした実行上での曖昧さ不確かさにもかかわらず、婚資を「産」まないま までおくわけにはいかないという点に関しては一切の曖昧さはない。「産」ま ずにいると、単に婚資としてもたらされた家畜が死んでしまうばかりではない。 嫁いでいった娘も、不妊、流産、死産、あるいは子どもを産んでもすぐに死ん でしまう、当の娘自身の健康も害される、などのさまざまなトラブルに見舞わ れるだろうと言われている。上の語りにおいて「婚資を産む(ku-vyala mali)」 ということがしばしば「娘を産む(ku-vyala mwana)」という言い方でも語ら れていることに、ちょっと注意しておこう。娘に対する婚資を「産む」際の念 入りさは、あたかも出て行く娘と、入って来る婚資との困難な等価性を打ちた てようと腐心しているかのようでもある。姉妹の嫁ぐ順序の問題を扱った際に、 姉が妹に先を越された場合、妹の婚資を「産」まずにおき、後に結婚した姉の 婚資を先に「産む」ようにして災厄を回避しうるという考え方に触れた。実は 娘の結婚順において問題になっていたのは娘たちが屋敷を出て行く順序そのも のだというよりは、これらの娘たちの等価物として入って来る婚資を「産む」 順序だったのだと考えると、納得の行く解決法であるといえる。

「産む」目的

 なぜ「産」まねばならないのだろうか。もちろん「産」まずにいると、さま ざまな災いに見舞われるとされている。「『産』まずにいれば、『追い越』さ れてしまう」という言い方もされる。しかしここではまさにこの比喩的な言い 回しを理解することが課題なのであるから、我々は「産むこと」、「追い越す こと」という比喩的表現自体の意味を明らかにする手助けになるような別の言 い回しに目を向けなければならない。

よく聞く言い方に、「産」まなければそれは「お前のものではない」という 言い方がある。「産む」ことは確実に自分のものにすることである。
「例えばこの小屋にしても、もしお前自身がそれを産まなかったら、もし別の 誰かが来て(性交を)しでかしてしまうと、それはお前のものではない。(問 い:たとえ彼が親族でなくても?ただの友人でも?)そうとも。誰でもだ。そ こで(性交の)行為に及ばれてしまうと、小屋はもはやお前のものではない。 その男のものだ。」これはすでに別稿で扱った「追い越される」こと--例えば穀物貯 蔵庫や寝台の下位者による使用に見たような--を思い起こさせるだろう。しか し微妙な違いに注意しよう。すでに兄のものである--つまり兄が「産んだ」-- 小屋や寝台は、屋敷の成員である下位者つまり弟によってのみ奪われうる。し かしまだ「産」んでいないものであれば、まったく無関係な他者によってすら 侵害されてしまうというのである。言うまでもなく、単なる所有権以上の(あ るいは以外の)ことが問題になっている。「自分のものではない」ことが問題 になるのは、すでに「自分のものでなくなっている」と知らずにそこに住み続 け、そこで性関係をもつことによって生じる健康と豊穣性に対する危険のゆえ だからである。

また「産む」ことは屋敷に「きちんと置くこと(kp'ika to)」であると語 られたり、「お前の身体のなかに置くこと(kp'ika mwako mwirini)」である と語られたりする。つまり「きちんと置く」ために「産む」のだというわけで ある。例えば小屋を産むことについての次のような言い回し。「つまり、お前 はその小屋を置くようにしたいのだ(kp'a vivyo unahenza ukale undaika yiyatu nyumba)。」また家畜に関して、いったん「産」んでしまえば婚外の 性関係も平気だという次のような主張のなかにも同じ表現が見られる。「お前 は『制作』(udzitungiya)し、それを『産み』終えた。さあ、その後はお前 は(女性と自由に関係しながら)うろつき回るだけ。つまりお前のいつもどお りに続けるだけだ。心配はない。だって、こっちではお前はすでに『据えて (udzisimika 『置く』のさらに強い表現)』しまっているのだから。」ある いはこの見解とは逆の主張、いったん「産」んだ以上はむしろ婚外の性関係は つつしむべきだという次のような主張においても同じ言い方が用いられている。 「そうとも、もしお前がそれをし終えたら、それを『産』んでしまったのなら、 それは今やお前の体のなかにある(yi mwako mwirini)。ああ、他の問題(女 性たち)に手を出したりしてはいけない。」(註6

さらに「産む」ことは「保護する(ku-rinda)」ことでもある。「私の思う に、もし(家畜を)『産』まなければ、それはそいつをブッシュの獣のように ほっておくようなものだ。つまり放置状態(yi frii)ということ。お前自身 がそれを保護していない(kuyirinda)。まるで小屋の中にきちんと置かなかっ たように。そう『産む』というのは、お前自らがそれを保護するということだ。」 家畜を「産」まないままでいると、「牛たちは一気になくなってしまいうる。 それはちょうど(「熟した弔い(hanga ivu)」と呼ばれる2度目の弔いが済 むまでは相続できず、従って「産む」ことも何もできない)遺産の牛(za ufa) と同じように、一度減り始めるとなると、すっかりなくなってしまう (zichisira, zisira tsetsetse)。」

こうした語り口は、別の言い方をすれば、「産む」という手続きが一種の編 入の手続きであるということを示している。「お前の身体の中に置くこと (ku-(mw)-ika mwako mwirini)」という言い回しなど、編入という観念をこ れ以上に明確に表わす言い方があるだろうか。「産む」手続きが必要とされる 場合の多くは--ブッシュの土地を新しい屋敷の空間として囲い込むことにせよ、 そこに新しい畑を拓くにせよ、新しい妻を連れてくることにせよ、小屋を新た に建てることにせよ、新たに家畜を入手することにせよ、娘の婚資を受けとる ことにせよ--何か外部のものを内部に持ち込むという状況である。畑で発芽し たトウモロコシや、妻が新たに産んだ子供の場合には、屋敷の空間の内部に新 たなものが付け加わっているのだといえる。「産む」ことが問題になるのは、 外部から持ち込むにせよ、内部から新たに付け加わるにせよ、屋敷内部の秩序 に何かが付け加えられるという状況である。そして「産む」手続きこそが、こ れら新たにもたらされたものの屋敷への帰属を完全なものにし、それを保護す る。「ただ持ってくる。ああ、ああ、とんでもない。それはきちんと置かねば ならない。」こうして「産む」行為は、屋敷そのものを作り上げていく--序列 に従いつつ、同時に序列づけつつ--行為であることになる。またそれは屋敷の 内部と外部の対立を際立たせる。

長期にわたってナイロビや外国などの遠方の地や、牢屋に投獄されていた者 が戻ってきた際に彼を「産」んでやらねばならないという考え方--「冷やす」 だけでよいとする者もいるが--は、屋敷の内部と外部の越えがたい溝をはっき りと確認させてくれる。「さて、彼が屋敷に戻ってくると、まずどこか開けた ところに立って、父親か母親が気が付くのを待たねばならない。手を振って、 相手が気が付くと『おーい、僕だよ。屋敷に入りたいんだけど、いい?』する とこう言われる。『だめだめ。そこにいなさい。(冷やしの)施術師を呼んで くるまで待ってなさい。』さて、彼はそこで座らされる。食事もそこに持って こられる。そこで寝る。さて施術師がやってくると、例の木が与えられる。あ の冷たい木で体を洗われる。(薬液を)振り撒かれる。家の中までずっと。彼 は冷やされる。そして家の中に入ってくる。これでおしまい。あとは産んでも らうだけだ。」「冷たい」内部に対して、外部はあたかも「冷やす」ことが必 要な熱をもっているかのようだ。「というのは彼は鉄(厳しい状況)の中から、 火の中からやってきた(ulaa muratu mohoni)。だからその中で冷えねばなら ない(ndo muphole muratu)。その後で屋敷に入れてよい。」言い換えれば、 あまりにも長く遠方にいたために外部の存在になってしまった息子は、再び内 部に迎え入れられるためにはその外部性を取り除かれたうえで「産」んでもら わねばならないのである。そうして改めて彼は内部に「きちんと置かれ」「保 護」された者となる。もっともここでのマトゥミアは「産む」マトゥミアでは なく、後述する「投げ棄てる」マトゥミアだと言う人もいる。

「産む」手続きの目的をいっそう良く理解させてくれるものとして、「産む」 手続きを必要とするやや特殊なケースに注目しよう。妻が病気になり家事や自 分の子供の世話が思うにまかせないとき、実家にいる彼女の妹などが手伝い (mukazi)として遣わされてくることがある。受け入れ側は彼女を正しく「産」 んでやらねばならない。「『さあ、お前の姉の夫(mulamu)のところへ行って おいで。子供の世話をしておいで。』その娘がお前の家にやってくると、お前 は妻と同衾してはならない。その日のうちは。その娘が腰をすえるように。次 の日、お前はその娘を産む。その手伝い娘を。つまりその娘をお前自身の娘で あるかのようにするために(umuhende dza wako)。(問い:もしその娘を産 まなければ、その娘は...)その娘はひどい目に合うかもしれない(unaidima kuteseka)。あるいは悪いことに直面する(unaidima kuona mai mai)だろう。 なぜならその娘は家の中にいながら外にいるようなもの(ni kukala unga dza kp'amba u konze na u nyumbani)。お前はその娘を連れてきていながら、そ の娘を置かなかった(kumwikire)ことになるからだ。....あるいは「産む」 ことにおいて間違いが起っても同じだ。あのお前も知っているMnには兄がい て、その娘のことなんだが、ブサ(地名)にいる母の姉妹(chane)のところ へ手伝いに行った。そこに着いたとき、夫の奴ときたらてんでものを知らなかっ た。その日のうちに妻と寝てしまった。娘を『追い越し』てしまった。さてさ て、その娘はヘビに咬まれて死んでしまったんだよ。」外部から内部に持ち込 まれたものは、たとえこうした一時的な所属であっても、正しく「産」んで 「きちんと置かれる」必要があるのである。

この手伝い娘のケースは、「産む」ことなくただ持ち込んだだけのものの上 にふりかかる、あるいは正しく「産」んでもらえなかったものに降りかかる、 災いについても語っている。きちんと「産」んでもらえなかった以上、たしか に彼女は「保護」されていない。しかしそもそも彼女は、この屋敷にやってく ることさえなければ、こうした問題に直面することもなかったのではないだろ うか。あたかもこの屋敷にやって来たこと、入り込んだことが彼女の災いの原 因となってでもいるかのようではないか。「産」まずにただ持ち込むだけのこ とは、単に持ち込まれたものを保護しないというだけではない。むしろそれは、 持ち込まれたものに危険を及ぼすのである。実際、なぜ「産」ねばならないか を説明する際に人々がもっとも普通に行なう説明は、もし「産」まなければど んな災いに見舞われるか--嫁いでいった娘が不妊になる、家畜の群れが死んで しまうなどなど--であったことを忘れてはならない。これは「追い越」される という言い回しの、すでに別稿で検討したのとは別のもう一つの用い方--「産」まず にいれば「追い越さ」れてしまう、という--に関係している。しかしこの危険 はいったいどこからやってくるのだろう。一見するとまるで屋敷がそこに入り 込んだ異物を排除しているかのように見える。「産」んでもらえなかった手伝 い娘は、上の語りにもあるように内部にいながらあたかも外部にいるような存 在である。まるでそのことが彼女に災いをもたらすかのようである。しかし安 易なイメージに飛びつく前に、「産む」ことをめぐる語り口についてもう少し 広げて検討してみよう。「産む」手続きとは具体的にはマトゥミアと呼ばれる 特別な性交をしかるべき相手と行なうことであった。しかしこの同じマトゥミ アは、「死を投げ棄てる」と呼ばれる手続きにおいても登場してはいなかった だろうか。「投げ棄てる」ことが目的のマトゥミアがある。「追い越し」の問 題には、これを検討した後に再び立ち戻ることになるだろう。

「死を投げ棄てる(ku-tsupha chifo)」方法

「置くためのウトゥミアと投げ棄てるためのウトゥミアがある(Kuna utumia wa kp'ika na kuna utumia wa kutsupha)」と言われている。前者が 「産む」ことにあたる。人によっては「置くための産むことと投げ棄てるため の産むことがある(Kuna kuvyala kp'a kp'ika na kuvyala kp'a kutsupha)」 という言い方を用いる人もいるので、これらの言葉どうしの関係はかならずし も一貫しているわけではないが、多くの場合、「産む」ことと「投げ棄てる」 ことは正反対の作業としてとらえられている。

「投げ棄てる」マトゥミアの代表は「死を投げ棄てる(ku-tsupha chifo)」 際のマトゥミアである。これはまた「倒れることを済ませる(ku-usa magb'a)」 という表現で語られることもある。

夫に死なれた未亡人の場合、屋敷の外のブッシュの定められた場所で、彼女 らは雇われた一人の若者を相手に無言の性交を行なうことによって「死を投げ 棄てる」。
「夫に死なれた場合、施術師と冷たい木がその治療。彼女は男を買い与えられ て、ブッシュで押さえ付けられることになる。そうヤギで買われた男。」
「なまの弔い」の最終日、人々は水浴びを済ませ、未亡人は「巣立ち」させら れる。その日の夕方にそれは行なわれる。未亡人の相手をする男は、長老たち によって前もって、しばしば弔いにやってきている若者たちの中から、雇われ ている。その男は報酬としてヤギ一頭といくらかの現金--1993年の時点で は400シリング(約800円)--を受けとる。
「こんな風にだ。弔いが行なわれ、終了する。すっかりね。今日が最終日だ、 人々は水浴びを済ませた。そしてちょうど今くらいの時間(夕方6時頃)こん な風に行なわれる。未亡人たち、仮に3人だったとしよう、彼女たちの相手は その余所者(goryogoryo)。ニャムエジ人かも知れないし、ドゥルマ人かもし れないし、カンバ人かもしれないし、チョーニ人かもしれない。」

彼女らは道の分かれ目(matanyikoni)、あるいはムコネのような「冷たい木」 の根元といった場所を指定される。
「特定のきまった場所がある。彼女らは言われる。『お前さんたち、しかじか の小道を辿っていきなさい。どこだか知っているでしょう?』『ええ。』彼女 らは出発する。小さなベベをもって。」
ベベとは瓢箪を割って作った直径20〜30センチ程の容器で、なかにはポゾ (pozo)、レザ(reza)、ムコネ(mukone)、ムニュンブ(munyumbu)などの 「冷たい木」と呼ばれる植物の葉や根をこまかく搗いたもの、樹皮をこそげ取っ たものなどと、ヒツジの乾燥した第三胃を刻んだもの(chipigatutu cha ng'onzi)を水の中で混ぜ合わせた薬液が入っている。
「その3人の未亡人はその場所にやってくると、ベベを下に置いて始める。一 晩のうちに済ませる。最初に上位の妻から始めなければならない。彼女が終わっ たら、真ん中の妻。真ん中の妻が終わったら、最後の妻。そこでは夫に死なれ たこれらの女たちは余所者と口をきかない。まず男の方が何も言わずにさっさ と横になる。さあお前も黙って横になる。お前さんがたの行為に及びなさい。 しかも一回切り、おまけに大急ぎで。手も使わない。未亡人がたとえ10人だっ たとしても、一気に済ませてしまう(註7)。」

終わっても口をきかない。終了すると彼らは用意されている薬液を浴びる。
「終わると男の方は、薬液でさっさと自分の性器を洗う。そう「冷たい木」と ヒツジの第三胃。女の方もおなじくそこで性器を洗う。その後、お前たちはそ のベベを踏み砕く。女性の方は左足で、こっちのほう(東)を向いて。そして 男の方はそっち(西)を向いて右足で。お前たちいっしょにそれを砕き割る。 口をきかない。そしてそれが済むと、各々が別々の道を帰る。男は施術師のと ころへ戻る。『どうだい?うまくいったかい?』『うまくいった。』女たちは 屋敷に戻る。戻って、そこで尋ねられる。『どうだい?すっかり終わったかい?』 『ええ、終わったわ。』」

一方、妻に死なれた夫の場合、たとえ彼に他に複数の妻がいたとしてもマトゥ ミアの目的のためにはまったく別の他人であるような女性が必要である。
「ああ、夫の方はね、あんた、包み隠さず言うとね、一人の女を探してもらっ て、ウトゥミアを済ませなさいと言われるんだよ。それどころか、彼自身が自 分で考えて女性を手にいれるのが普通。ドゥルマの女性であれ、カンバの女性 であれ、誰であれ、その手の女(dzichetu)を手にいれて、彼女をくどく。彼 女が同意すれば、さっさと倒れることを済ませてしまう。わざわざ探してあげ るまでもない。あるいは夫は自分で旅に出て、そこで死を投げ棄ててしまうか もしれない。モンバサに行って、Mm(土地の人々を相手にする売春婦が多いこ とで有名な区画)へ行って、さっさと死を投げ棄ててしまうのさ。」
「ごらんよ。今の流行りは、妻に死なれても男は髪を剃らない(註8)。 というのは、(マトゥミアを)済ませに行った先で言われてしまうからさ。『あ あ。こいつは(妻に)死なれた男だ。倒れることを済ませる相手を探している のだ』ってね。そんなわけで、知恵を絞って、髪を剃らずにいる。」

こんな風に、まったくの無関係な他人を探して目的を明かさずに死を投げ棄て ようという場合、男は薬液のかわりに「冷たい木」その他の成分をこまかくつ ぶしてボールのようにした薬(vanda)をもって赴き、事が終わると自分だけ を治療して屋敷に戻る。あるいは屋敷に戻ってから薬液を浴びる。男が無事に 「死を投げ棄て」たという報告を待って、死んだ女性の子供たちが順序を追っ て夫婦の性を再開していくのである。そこまでに何日も経過してしまう場合も まれではない。

「(問い:なぜわざわざ探すんですか。たぶん彼には別の妻もいるのに。)あ あ、だめだめ。ブッシュの女(muchetu wa weruni)は、彼女と倒れることを 済ますための女。つまりお前は死を投げ棄てるのだ。わかる?自分の別の妻と いったいどうやって死を投げ棄てると言うんだい。(死が)そのまま残ってし まう(kuonyesa uchere nacho)。」

「死を投げ棄てる」ためのマトゥミアは余所者とやることが不可欠であるよう に見える。しかし未婚の子供が死んだ場合、その子供の両親が「死を投げ棄て る」。
「お前が子供に死なれた場合。さてお前はこの死を投げ棄てたい。さて、お前 は(その子供の母である)お前の妻とそれを投げ棄てる。この場合はお前の妻 とでよい。だって死んだのは子供だ。だって『油はこぼれてしまったが、油容 器は無事だ』という訳だからさ。あ、もう一つ。子供に死なれた場合、最初は 小屋の中で済ましてよい。小屋の中で済ませてしまう。最初の場合はね。で (死が)戻ってこなかったら、問題は終わったということになる。でももし (死が)戻ってきたら、また別の子供に死なれたら、さあ今度はブッシュで寝 る。お前は「冷たい木」、ムコネであれムンゴゴニ(mung'ong'oni)であれム ニュンブ(munyumbu)であれ、に行く。そこに妻と二人で行く。でも互いに口 はきかない。で地面の上でだ。そこに着くと夫はさっさと横になる。で妻の方 もすぐに横になる。言葉は交さない。さああんた方の行為をすませてしまう。 一回だけ、手早くね。さてさて薬液の入ったベベはすでに用意されている。さ てお前たちはそれを浴びる。その場でベベを粉々に壊す。そこをさっさと立ち 去って屋敷に戻る。それでおしまい。でまた(死が)戻ってきたら、今度は道 の分かれ目で、あるいは水の涸れた河床(mwehani)で。雨が降ったら水が流 れて、悪いことは海に運ばれていくのさ。ようするに施術師が指示する場所ど こであれで行なう。うまくいくまで。」

「冷やしの施術(uganga wa kuphoza)」と「事故(mvanga)」を投げ棄てること

「投げ棄てる」ものは死だけではない。さまざまな「事故(mvanga)」も投 げ棄てる必要がある。「事故」には常習性がある、つまりそれに「馴染ん (ku-bara)」でしまうと何度も繰り返すとされている。こうした「事故」に 数えられるものとしては、自動車による怪我や刃物や農具による怪我--これら は血を「外に」流すという点に特徴がありチェラ(chera)と総称される--の 他に、木からの転落、溺死、投獄、火事などがある。これらの原因で人が死ぬ と、それは「悪い病気(ukongo uii)」による死と同様に「悪い死(chifo chii)」とされ、死者は特別な仕方で埋葬されるばかりでなく屋敷全体が「冷 やしの施術(uganga wa kuphoza)」によって「冷やされ」なければならない。 死に至らなかった場合にも、「お前がその問題に馴染んでしまわないように (utsibare utu uu)」つまり同じ災いが繰り返さないように、「冷やしの施 術」の後にマトゥミアによる「投げ棄て」が行なわれねばならない。

ある若者が女性に振られたことが元で、酔っぱらってその女性をナイフで切 りつけるという事件が起った。チェラである。女性は手の甲に軽い怪我を負っ ただけであったが、加害者の若者の親が一頭のヒツジを提供し、「チェラが持 ち込まれた(ku-tiywa chera)」被害者の娘の屋敷を「冷やす」施術が行なわ れねばならなかった。施術師は薬液に入れる植物を持参して屋敷に現れた。彼 は施術にとりかかるとまず、黒い雌鶏の指を落してその血を薬液に加え、唱え ごとを行なった。
「ヌンドゥキゼカ(木の名前)よ、ヌンドゥキゼカよ、木よ、奴隷よ、使役さ れる者よ。お前マボザよ、冷やす者よ。お前は人を冷やす、お前は壊れてしまっ た屋敷を冷やす。お前はブィーティヨ(まぜこぜ)すら冷やす。お前は火に焼 かれる人さえ冷やす。お前、冷やす者よ、行って冷やすがよい。」

唱えごとの常として、施術師は自分の知識が「盗んだ」ものではなく、特定の 誰某から正しく購入したものであることを強調した後に、この短い唱えごとを 次のように切り上げた。
「さて火(moho)が小屋を焼いたのはもう過ぎた話。人はそこで暮さねばなら ない。今、一人の女がナイフで切られた。彼女はキャッサバの皮をナイフで剥 かないだろうか。そのナイフが彼女を傷つけることのないように。人にナイフ を投げつけられても、それが彼女に傷をおわせないように。彼女がそれをよけ、 ナイフが傍をそれていくように。お前、ヌンドゥキゼカよ。ヌンドゥキノリャ よ、冷やす者よ。お前は火を冷やす。お前は小屋を冷やす。お前はブィーティ ヨさえ冷やす。お前は今後やってくる悪いことども(mai)、大地をなめて広 がる野火のようにやってくる悪いことどもを冷やす。お前が火の場所にさしか かると火が傍を通りすぎていくように。この事故は、もう過ぎたこと。今、今 日、私がここに立ちふさがる。事故は立ち去る。」

施術師は犯行に用いられたナイフを薬液で洗った。娘に怪我を負わせた凶器のナイフはこの施術には不可欠である。ナイフそのものをちゃんと「冷や」さなければ、彼女だけを治療しても彼女は再び同じような「事故」に見舞われるだろうという。「ナイフがそこになければならない。というのはナイフの『よごれ(nongo)』を洗って、それを羊の胃の中身と薬と混ぜなければならないからね。患者だけを治療して、ナイフは何もしないでおく。ああ!ナイフはまた戻ってくる。もしそれが政府(警察)にもって行かれてしまっていても、それをとって来なければならない。治療してその後でまた(警察に)返すのさ。」次いで施術師は屋敷の人々を横一列に並んで座らせて、薬液を彼らに浴びせた。「火による損害も、鉈による怪我も、鎌による怪我もない。手鍬で耕しているうちに自分を怪我させることもない。事故よ、立ち去れ、ブッシュへ去れ。ブッシュでエランドやシマウマを喰らえ。立ち去れ、立ち去れ、人々が冷たい風にうたれるように。」次にヒツジの脚をもって持ち上げ、その頭を薬液に浸し、ヒツジについた薬液を人々にこすりつけた。次いでヒツジは喉を切って殺害され腹を割かれ、取り出された胃の内容物を加えた薬液が人々の足先にかけられた。屋敷の第一夫人の炉の火に差し込んであった二本のムコネの木の枝がもってこられ、薬液に突っ込んでその火が消された。これはこの施術師独特のやり方で、屋敷全体の火をまず消し施術の終了後に再び熾すという「冷やしの施術」に通常ともなう手続きがここで省略されていることと関係があるかもしれない。その後、施術師は再び全員をこの薬液で洗い、残った薬液をごく少量ずつ屋敷のいたるところに振り撒いていった。最後に屋敷の人々に対して、その日の晩に屋敷の外のムコネの木の下の地面の上で「事故を投げ棄てる」ようにと指示が与えられた。娘の両親によってそれは行なわれねばならない。事故以来、加害者側からの施術のためのヒツジの提供が遅れたせいで、一週間近くが経過していたが、その間娘の親たちは性関係を慎んでいた。

問題の「事故」はナイフでの怪我であるが、施術師の唱えごとは「火」によ る「事故」のイメージを繰り返し喚起している。屋敷の「まぜこぜ」マブィー ティヨに対する言及も見られる。両者は屋敷の崩壊をともにもっとも強くイメー ジさせるものである。「冷やし」の施術でも、「まぜこぜ」を解消するクブォ リョーリャの施術と同様にヒツジ、とりわけその胃の内容物(munyoo)が重要 な役割を果たしている。「死を投げ棄てる」際のマトゥミアの薬液の成分にも ヒツジの第三胃が刻み入れられている。ヒツジは「おとなしい動物(mutu wa pore)」であり、この点で騒々しくまた性的に攻撃的であるとされるヤギとは 対照的だと語られる。祖霊に対する供犠にはウシかヤギを用いるが、ヒツジは けっして用いられない。ヒツジの胃の内容物が「冷やす」ことは良く知られて いる(註9)。こうした明示された有縁性とは別のつながりをそこに重 ねることもできるかもしれない。クブォリョーリャでは「まぜこぜ」になった 屋敷の人々を「わけること」が目的であった。「冷やし」と「投げ棄て」にお いても屋敷の内部と外部の対立が際立たせられる。そこで目的とされているの は、内部に入り込んできた外部を除去し、内部と外部をわけることである。ヒ ツジの胃の内容物は、つねに分離という目的に使用されているかのように見え る。

「産む」ことと「投げ棄てる」こと

同じくマトゥミアを済ませる行為なのではあるが、「産む」ことと「投げ棄 てる」ことはまったく正反対の行為であるように見える。一方は屋敷に何か望 ましいものをきちんと編入する行為であり、これに対してもう一方は「悪いこ と」を屋敷の外に追いやる行為であるということになる。しかし実際には、こ の両者はそれほど判然と区別できるわけではない。ある種の曖昧さが付きまと う。すでに述べたように自分の子供の「死を投げ棄てる」際には、妻に死なれ た場合とは異なり「ブッシュの女」を相手にマトゥミアを済ませるわけにはい かなかった。その理由をある男は次のように説明する。

「子供に死なれる。お前には妻がいる。それなのに妻と死を投げ棄てないで、 その死をブッシュの女と投げ棄てるなんて!お前はお前の豊穣性(uvyazio) を駄目にしてしまう。子供が病気になろうものなら、回復しない。きっと死ん でしまう。だってお前は彼らを追い越してしまったのだから。そうとも。お前 はお前の子供の死をもってくる。そしてその死をブッシュの別の女と、屋敷に はいない女と『産』んでしまう。その子供を産んだ女性がちゃんとこちらにい るのに。」この語りの中で彼はいつのまにか「死を産む」という表現を使って しまっている。彼が単に混乱したか口を滑らせてしまっただけであったとして も、「産む」ことと「投げ棄てる」ことの間には、一種の互換性があるかのよ うである。

小屋が火事で焼けることは最も深刻な「事故」のひとつであるが、その治療の後に行われるマトゥミアにおいては「産む」ことと「投げ棄てる」こととの違いはさらに曖昧である。火事の処理に際して払われるべき注意は、屋敷の内部と外部のブッシュとの対立を「事故」のその他の例以上に際立たせている。火事で焼け残った残骸は、最終的にはブッシュに棄てられるのであるが、「冷やしの施術」の前にそれらをむやみに棄てたりしてはならない。「それらの品はまだ火をもっている。もしいい加減にそれを棄てたら、火はブッシュに逃れて野火のように広がり、やがてまた戻ってくる。もう一度小屋を建てても、またそれも火事にあってしまう。」言うまでもないだろうが、別に実際に野火が起きる危険性について語っているわけではない。まるでこの不注意な行為によって屋敷とその外部との結界が永遠に開きっぱなしになってしまうとでも言うかのようなイメージではないだろうか。「焼け残った品々は山に積んでおく。後で冷やすために。だって子供がうっかりそれを持ち出して、火が冷やされないようなことにでもなれば、その火は立ち去って、後で戻ってきてまた小屋を焼いてしまう。」ナイフによる怪我の場合も、凶器として使われたナイフは処分される前にきちんと冷やしてやる必要があった。ここでも小屋を焼いた火は「冷やし」た上で「拘束(あるいは封印)(ku-fungb'a)しなければならない。」あるいは逆に「火から逃れようとしてはならない(kauchimbirwa moho)」とも言われている。そのためもし小屋を再建するとしても、まったく同じ場所に同じ柱穴をつかって建てねばならない。「別の柱穴を掘ったりしてはならない。火を冷やし、それが終わったらそこに小屋をたてる。だがもしお前が逃げ、例えばあのあたりに別の小屋を建てる。火はお前を追いかけてくる。そしてまた小屋を焼く。キドゥルマとはいやはや難しいものなんだよ!」

施術そのものは簡単なものである。私が見た唯一の事例ではほんの数分で終 わるものであった。施術師は薬液に入れるべき「冷たい木」とヒツジの第三胃 を持参してやってきた。容器の中で水と混ぜ合わせながら簡単な唱えごとをす る。
「ヌンドゥキゼカよ、ヌンドゥキノリャよ、ヌンドゥンゴンジよ(すべて植物 の名)。お前、ンゴンドゥよ、お前こそ冷やす者、お前は火を冷やす。時に火 は燃え上がるが、冷やされる。なぜなら火はブッシュ(nyika)を焼き払うが、 家を焼いたりしない。屋敷を焼き払ったりしない、この火は。ヌンドゥキゼカ よ、ヌンドゥキノリャよ、ヌンドゥンゴンジよ、お前は冷やす者。お前は事故 を冷やす、火のキティヨを冷やす、ブィーティヨすら冷やす。今私はお前に命 じる。火を冷たくする(uzizimise)ように。火は別の小屋を焼くかもしれな い。建てる小屋、建てる小屋、どれも焼けてしまう。しかし今や私がやってき た。私は火を冷たくする。火はブッシュで燃えよ。野火となってブッシュを焼 け。ブッシュでエランドやシマウマを喰らえ。二度と小屋を焼くな。」

際限なく広がり焼き尽くす「火(moho)」は外部であるブッシュに属する存 在である。一方、屋敷の内部の火は制御され、封印されている。ここでは内部 と外部の区別に最大限の注意が支払われているようにみえる。

施術師は、火事にあった夫婦を焼け跡に座らせ、薬液を浴びせた後に両者の手をとって立ち上がらせた。残った薬液は念入りに焼け跡の隅々や、焼け残った残骸に振りまかれた。これでこれらの残骸はもうブッシュに投棄しても差し支えない。施術師は夫婦に次のように指示を与えた。「今日この日、お前さんたちはここで、この焼けた場所で寝なさい。人目が気になるなら、即席の小屋(chibanda)でも建てればよい。それと寝茣蓙。お前さんたちの問題(マトゥミア)を済ませてしまいなさい。ここ、火に焼かれたこの場所で。」火事の日以来、夫婦は性関係を慎んでいた。「小屋が焼けると、お前には女性と寝る機会が与えられない。まずその小屋が冷やされるまでは。女性と寝てしまうと、お前は火を『建て』てしまうことになる(udzijenga uratu moho)。つまりしょっちゅう小屋を焼かれてばかりいる男になってしまう。」

ここで行なわれるマトゥミアは「投げ棄てる」ためのものであるということになろう。しかしその後、再建する小屋はいつ「産む」のだろうか。「お前はもう一度産んだりはしない。だってもう済ませてしまっているのだから。そんな風にした場合、お前はまた小屋を建てる、そこでもう一度マトゥミアが必要になるとでも?そんなことは言わないよ。そうとも、お前がそこで行ったマトゥミアがすでにそのためのマトゥミアなんだから。(問い:ではそれは投げ棄てるのと産むのを同時にということですか。)そう。いやいや、2度必要ないということ。」なかにははっきりそれを「産む」ためのマトゥミアだと言う施術師もいる。「お前はそこに即席の小屋(chibanda)を立てる。そう小さいものでいい。そこでお前は『火を取り除く(wuse moho)』(性交を行なう)。昔にお前はお前の小屋を産んだ。今もう一度そこに戻る(vino unauya phara kahiri)。前のは焼けてしまったのだから、お前はこの小屋を産むんだよ。」「火を取り除く」、つまり「投げ棄てる」ためのマトゥミアであるその行為は、同時に小屋を「産む」行為でもある。おそらくそれを「投げ棄てる」ためのマトゥミアか「産む」ためのマトゥミアかのいずれかに決めねばならない訳ではあるまい。「投げ棄てる」と「産む」とは正反対の作業であるように見えて、どこか通底している部分があるのだ。

逆に「産む」ことを明示的に目的とした作業の中に外部性を投げ棄てるとい う含意を見て取るかのような語り口も見られる。例えば以下のような、家畜を 「産む」ことに関しての一つの説明のなかに。「そう。例えばお前が昨日ヤギ を買いに行ったとしよう。(キナンゴで家畜市が開かれる)木曜日にね。さて お前はそいつを連れてかえってくる。そいつを連れかえって小屋のなかにつな いでおく。昨日のこと。それはやってきてそこで眠る。お前はまだお前の妻と 顔を合わせてはならない(性交してはならない)。お前自身もただ眠る。夜が あけると今日だ。さあ今夜、お前は妻をともなう(性交する)。お前はお前の ヤギを整える(マトゥミアを行う)。さあ、これでヤギはそれがやって来た場 所の『よごれ(nongo)』をとり除かれた。こうしてそれは変化した。今や 『このヤギ、こいつはカリンボ(人名)のヤギだ』というわけさ。」彼は「産 む」ことが、それを確かにその人のものにすることであると言うのに、もとい た場所の「よごれ」を除去するという言い方を用いている。

したがって同じマトゥミアという行為に二つの正反対の効果があるとか、正 反対の結果を目的として用いられている、と考えるのはおそらく誤りであろう。 「投げ棄てる」と「産む」という二つの表現が同じ操作を別の角度から眺めて いるだけのものであるという可能性を考えてみる必要がある。いずれもあきら かに屋敷の内部と外部とを隔てる目に見えない境界に対する操作であるように 見える。そしてたしかに境界を引く行為そのものは、囲い込み取り込むことで あると同時に、排除し閉め出すことでもある。「境界」という概念はもちろん 日本語を用いる我々にとっての「比喩」であり、ドゥルマの語り口には空間的 な「境界」をこの場面で比喩的に用いる語り口はない。しかし「産」む、「置 く」、あるいは「投げ棄てる」といった一連の比喩で語られていることが、 「境界」という空間的な比喩を用いることによって我々にとっていくらか分か りやすくなるということは言えるであろう。

「産む」場合と同様に、「投げ棄てる」場合のマトゥミアに際しても、それ に先立って性関係の禁止が課せられている。「死を投げ棄てる」場合、それに 先立つ「なまの弔い」の期間は屋敷の人々にとって性関係が禁止されている期 間でもあった。「事故」の場合、「冷やし」が終了するまでは人々は性関係を 慎まねばならない。「投げ棄てる」場合のこの禁止の重要性は、この禁止が何 のための禁止であるのかという問いに、そして「産む」ことと「投げ棄てる」 ことの同一性の問題に別の角度から照明を当ててくれる。

「(事故を)投げ棄てるためにはね、お前、やっぱり冷たい木を手にいれる。 ああ、だけどお前たちが(薬液を)浴びせかけられ、それが終わってしまうま で、お前、妻は他の男に触れられて(性関係をもって)はならない。そしてお 前、夫も女に触れて(性関係をもって)はならない。(薬液を)浴びせかけら れ、それが済んだら、お前はお前の妻ともう一度落ち合ってブッシュへ(マトゥ ミアを済ませに)行く。そう大変な話だ。とっても大変なね。そうちょうどこ んな具合。お前が自動車にはねられてしまった(udzegb'a na gari)。さあ、 もうお前は妻に触れてはならない。そうとも。冷やしの施術が済み、事故が除 去されてしまう(wuswe mvanga)までは。だって、もしお前が妻に触れてしま うと、お前は彼女に自動車(による災い)を与えてしまったことになる。でお 前の方も、相変わらず自動車(による災い)をもちつづける。だって、お前は それを体の中に置いてしまったみたいなものだ。」

性が禁止されている期間に、「事故」を冷やすというもっとも重要な作業が 行なわれる。次いで行なわれる「投げ棄てる」マトゥミアは、まるでこの「冷 やす」という作業の結果を固定するための操作であるかのようだ。「産む」場 合にも、やはり性が禁止されているときにもっとも重要なことが行なわれてい たとは言えないだろうか。婚資にせよ、家畜にせよ、あるいは手伝い娘にせよ、 屋敷内に新たに持ち込まれるものは少なくとも一晩「寝かされる(ku-lazwa)」 ことになる。そのとき、夫婦の性関係は禁止されている。事故を「投げ棄てる」 場合に、「冷やす」施術によって「事故」を取り除くことがもっとも重要であっ たように、「産む」場合においても重要なのはむしろ持ち込まれたものを言わ ば屋敷に根付かせる(「腰を下ろ(ku-sagala)」させる)この一定期間(通 常一晩でよいのだが)の「寝かせ(ku-lazwa)」だったのではないかと考えて みてもよい。

この間の性関係の禁止はいったいなぜ必要とされているのだろう。まるで 「事故」を「冷やす」前に性関係をもってしまうことで「事故」を屋敷の中に 根付かせてしまうことになるとでも言うかのようであるし、屋敷に持ち込まれ た何かが「腰をおろす」まえに性関係をもってしまうことで、それらを屋敷に きちんと置くことが逆に妨げられるとでも言うかのようである。「産む」こと なく屋敷にただ持ち込まれたものが危険にさらされると言われていたことを思 い出そう。「産む」手続きにおけるこの性交禁止の期間、屋敷に持ち込まれた ものは、まさにそうした--ただ持ち込まれた--状態にある。その危険は、性交 によってもたらされる。それが禁じられている期間に行なわれてしまった場合 に通常の性行為が発揮してしまうかもしれないこうした効果と、マトゥミアの 性交の「産む」あるいは「投げ棄てる」という目的とが無関係であるとすれば むしろ驚くべきことである。マトゥミアの特殊な性交は通常の性交が、単にき わめて高度に制御されたかたちで、つまりその効果をもっとも適切に発揮され るように注意深くコントロールされて、行なわれたものにすぎないと見ること もできるのではないだろうか。少なくとも、それを通常の性交と関係づけてと らえ直してみる必要があるだろう。

「追い越し」と性の禁止

我々はようやく「追い越す」という概念を検討できるところまでやってきた。 「産むことができるものならなんでも追い越されうる」、「産まないでいれば 追い越されてしまう」などという言い方にも表れているように「追い越し」は 「産む」ことに付随した危険として語られる場合が多い。「追い越し」は、一 般には「産む」あるいは「投げ棄てる」手続きに先だって、性関係が禁止され ている期間に行なわれてしまった性交によって引き起こされるものとして説明 される。

例えば家畜はどんな風にして「追い越」されるのだろう。「婚資に限らず、 飼育する家畜だって追い越されるとも。ことはこんな具合に台無しになる。人 はキナンゴへ行ってヤギを買うかもしれない。それを買って、その帰り道、友 人(浮気の相手)と落ち合う。示し合わせていたのさ。帰る途中で(性関係を) 始めてしまう。さてさて、なんて愚かなこと。彼はヤギを木につないでおいて、 浮気相手の所に赴く。そのあとでヤギを連れて屋敷に帰ってくる。すべては台 無しだ。彼はヤギを追い越してしまった。というわけで、いつまでたっても豊 かになれない。ヤギは子供を孕んでは流産ばかり、病気になってあっという間 に死んでしまう。群れごとごっそり死んでしまう。そうとも。財産を手に入れ たら、こと(性関係)をけっしてけっしてしちゃならない。屋敷に帰りつくま ではね。しかも屋敷にそれを連れ帰っても、その日はおまえたちはことをしな い。まずそれを寝かせてやる。夜があけるまで。その夕方、お前たちはお前さ んたちの財産を産むのさ。」(註10

婚資も同様な不適切な性関係によって「追い越」されてしまいうる。「婚資 を追い越すというのはこういうことさ。婚資が屋敷にやってくる。さて、お前 さんたちはそれを家の中で『制作』しないで、外へ出てしまう(外部の者と性 関係を結ぶ)。そうそう、お前の娘がめとられた際には、父であるお前に妻が 二人いたとしよう、婚資は娘の産みの母親である妻の方と産まねばならないよ。 それが下位の妻だったとしても。さて、婚資がやってくる、そしてお前は別の 妻とそれを産んでしまう。ああ、大間違いさ。向こう(嫁ぎ先)で娘は子供を 産めなくなるかもしれない。婚資そのものも死んで無くなってしまう。そうと も。仮にお前に二人の妻がいなかったとしよう。でもブッシュの恋人 (gendoro ra weruni)がいるだろうさ。という訳でお前は目的とするところ へ行く(その恋人のもとを訪れる)だろう。でも、婚資が届いて、まだそれを お前が産まないうちに、お前が外へ行く(外部の恋人と性関係をもつ)とすれ ば、このうえない過ちだ(ndo gakoseka vyenye)。お前はとことん婚資を 『追い越』したんだ(ndo udzizichira vyenye vyenye)。婚資全部がごっそ り死んでしまう。」

追い越された婚資に対しては、それを産み直すことがその解決法である。
「婚資も追い越されうる。お前が娘の婚資を追い越すと、婚資(の家畜)が順 調でない(kayindang'ala)だけでない。その娘は向こう(婚家)で、子供を まともに産めない(kana uvyazi udzo)。妊娠したと思うと、こぼしてしまう (流産する)。子供を産んだとしても、死んでしまう。婚資に間違いが起った と気付かれるまではね。(問:人々がそれに気付きさえすれば...?)そのこ とは、気付かれることになる。ここ、婚資が受けとられたところこそが、こと を台無しにしたところであると。『ああ婚資に間違いが起った。(婚資の)家 畜たちが死んで無くなってしまう。もう一度後戻りして、制作しなければなら ない。』という訳で、娘の夫の両親に娘をこちらの屋敷に返してくれるよう頼 む。(問:婚資をもう一度払ってもらって制作しようと?)まあ、ちょっと待 て。お前は、向うへ行って娘の夫の両親と、娘の夫にそう告げる。でその娘は 戻される。『さあ、まずお前は実家に戻りなさい。私たちも後でカザマの瓢箪 (酒)をもって参ります。婚姻を新たにやり直すために。』彼らは瓢箪をもっ てやってくる。これがドゥルマのやり方さ!(問:その瓢箪は何と呼ばれてい ますか?)ただのカザマの瓢箪だよ。酒を一杯に詰めた。今普通に使われてい るようなプラスチックの容器じゃいけないよ。瓢箪そのもの。ああ、それと現 金。せいぜい100シリング、50シリング程度。でこう言う『さて、これが 私の息子の嫁に対する婚資です』ってね。さて、人々は酒を飲み干す。夕方に なる。お前の娘は夫に連れられて帰る。夫の親も立ち去った。夫も立ち去った。 娘はもうあちらに(婚家に)いる。さて、今度こそ娘は彼女の父と母とによっ て産んでもらうことになる。ドゥルマのやり方だ。」

「追い越」される危険は、持ち込まれたものが正しく「産」んでもらえるま での期間、性関係が禁止されている期間における危険である。別の言い方をす るならば、「産む」ことが無事に終了するまでは、当事者たちのあらゆる性関 係が持ち込まれたものに危険をもたらしてしまうのである。従って、家畜であれ 婚資であれ、新しい妻であれ、手伝い娘であれ、屋敷に持ち込んだものを「産」 まずにおけば、それがいずれは「追い越」されてしまう--しかも夫と妻の通常 の性関係によってすら--のは当然だということになる。

一方「投げ棄てる」マトゥミアに先立つ性関係禁止の期間においても、同様 な危険が存在する。「弔いを追い越す(ku-chira hanga)」という言い方は、 「死を投げ棄てる」手続きに先立つ「なまの弔い(hanga itsi)」の期間中に 課せられた禁止、とりわけ性関係の禁止を屋敷の人々が破ることを指している。 「弔いを追い越」した死者の配偶者、死者の息子らは全身の痒みと錯乱に見舞 われるだろう。そして屋敷には引き続き死者が出ることになる。「事故」に際 しての「冷やし」の施術や、とりわけ妖術による病いの治療にしばしばともな う性関係の禁止をやぶって性交してしまうことは、「薬を追い越す(ku-chira muhaso)」と呼ばれることがある。その結果、病気はぶり返すだろうし、その 後も繰り返し同じような事故に見舞われることになるだろう。

何かを屋敷に持ち込もうとする際であれ、災いを除去しようとする際であれ、 性関係が抑制される期間がある。我々は--我々自身により馴染みのある比喩を 使って--その期間においては屋敷とその外部の境界そのものが操作されている のだと述べることができるかもしれない。まさにその間に、外部のものが屋敷 にとりこまれたり、災いが屋敷の内部から取り去られ(「冷」やされ)外のブッ シュに追放されたりするのだ。性はまるでこの操作にとっての邪魔者ででもあ るかのようだ。我々はこの比喩的な語り口の中で性そのものが置かれている位 置づけを、どうしても問題にせざるを得ないであろう。しかしその前に「追い 越し」の最も危険でしかもありふれたケースを検討しておく必要がある。人々 にとってその増殖が最も望ましいと考えられているもの、子供と家畜が「追い 越さ」れてしまうケースである。

新生児のキルワ(chirwa)

「産」み終えるまでは性関係をもってはならない。この間の性行為が「追い 越し」を引き起こす。この禁止期間がきわめて長い、現実の出産に際しての 「産む」手続きにおいては、「追い越し」の危険はとりわけ大きいことになる。 キルワ(chirwa)という言葉は「追い越される(ku-chirwa)」という動詞か ら派生した名詞で「追い越し」一般を意味しうるが、特に限定せずに用いられ るときには、もっぱら「追い越」された新生児に特有であるとされる病気とそ の症状--痩せ衰え、力なくぐったりし、弱々しく泣いてばかりいる--を指す言 葉として用いられる。「寝かしつけると、脚がなんと絡まっている。一方の脚 がもう一方の上に重なるように。そしてお前は、その子が母乳を吐き出してば かりいるのを見るだろうよ。飲んだと思うとあふれ出す。飲んだと思うとあふ れ出す。で腕を持つと、なんとまるで縄みたい。そのうえ、皮膚の色は真っ白。 痩せこけて、こんな風に(皮膚を)つまむとまるで薄い紙のよう。外の太陽に 晒したら、すぐにも死んでしまう。」

この「赤ん坊のキルワ(chirwa ya mwana)」を「追い越し」が起こった時 期に応じて大きく2種類に区別する人もいる。「胎内のキルワ(chirwa ya ndani)」は妊娠中に夫あるいは妻の性行動が引き起こした「追い越し」の結 果のキルワである。妻の妊娠中に、夫婦のいずれかが配偶者以外の相手と性交 することによって、子供はキルワの状態で生まれてくる。
「キルワ!妻が妊娠中で、ブッシュで自分の夫じゃない外の夫と寝にいく。さ てさて、時間が経って、ついに子供が産まれる。(産まれた子供は)ほら、俺 のこの腕みたいにやせ衰えて、がりがりだ(nyambu nyambu)。お尻のこのあ たりにも肉がない。泣くときもンガァ、ンガァ(か細い)。妻は問いただされ る。『子供がこんなありさまだ。いったいお前は何をしたんだ?』そしてお前、 亭主に対しても。『お前は何をしたんだ?』だってこの種のキルワは妻によっ ても夫によってももたらされる。」

夫と妻のいずれの婚外性交が原因であるかは、産まれてきたときの子供の脚の 重なり方で分かるとも言われる。キルワの子供は脚が絡まりあって(ku-linga)、 つまり交差しているというのだが、夫の浮気に原因がある場合は右脚が左脚の 上に重なる形で交差しており、妻の浮気の場合はその逆になる。妻の浮気の場 合のほうが症状がひどいという話もある。キルワの子供は放置すると死んでし まうとされている。
「そうとも。子供はその母親によっても追い越されることができる。子供はそ の父親によっても追い越されることができる。違いはすぐわかる。妻のキルワ の場合、子供は何日ももたない。治療されなければね。そうとも。産まれてす ぐ死んでしまう。なにしろ彼女がその子を産んだ当人なんだから。お前、夫の キルワの場合、子供は泣いてばかりいる。でもそんなにすぐには死なない。そ う2、3カ月はもつかもしれない。」

出産後も「産む」手続きを済ますまでの期間はキルワの危険がある。妊娠期 間中に禁じられているのは正式な配偶者以外の者との性関係だけで、夫に複数 の妻がいる場合に彼女らとの性関係は--用心してそれすら慎む人々もいるが-- 通常どおり続けることができる。しかし出産後は夫には妻たちとの関係をも含 む一切の性関係が禁じられることになる。その期間は数ヵ月にも及ぶかもしれ ない。子供の皮膚の色が変り(「水を落す(ku-gb'a madzi)」)あるいはヒ ヨメキが堅くなる(「壷に蓋がされる(ku-finika dzungu)」)までと言われ る。そこでようやく子供は両親によってもう一度「産」んでもらうことになる。

「たとえ無事に子供を出産した後でも、子供はますます『追い越さ』れうる。 子供は母親に産んでもらった、そうだろう?でもお前たちはまだ二度目の『産 むこと』をしていない(kamudzangb'e kumuvyala la phiri)。さてお前、夫 が外の妻(婚姻外の性関係の相手)と寝てしまう。あるいはお前の妻が外の夫 と寝てしまう。お前たちは子供を台無しにしてしまうことになる。(問:夫に 別の妻がいたとして、つまり上位の妻や下位の妻がいたとして、彼女たちとは 寝てもいいんでしょう?)だめだめ。(子供を産んだ)本人のところへまず戻 らなければ。こちらの妻は荷物(新生児)がある。であっちの妻のところに行 く。さてさてお前はこの子供を殺そうとしていることになる。だってお前はそ の子供を、そちらの(別の)妻に与えてしまった。彼女はその子供の母じゃな いのに。子供は本人に与えなくては。というわけでお前の妻が出産したら、自 分を縛ってしまわなければならない。どんな女性とも寝てはならない。子供が 固まるまで(mpaka yuyu mwana adine yuyu)。その後で、この子供をその母 親と二人で産んでやる。さあ、別の妻と寝てよい。」

こうした出産後の夫婦の不適切な性関係によって生じるキルワは「外のキル ワ(chirwa ya nze)」と呼ばれたり、下手人がどちらかによって「父親によ るキルワ(chirwa ya abaye mutu)」「母親によるキルワ(chirwa ya ameye mutu)」などとも呼ばれることもある(註11)。

キルワに類した症状のすべてが不適切な性行動に原因があるとは限らない。 「私(キルワの施術師)の見たところその子はたしかに追い越されている。し かし妻の方に聞いても何も言わない。夫の方に聞いても、何もしなかったと言 う。すると私にはそれは例えば『クジム(死者の世界)のキルワ(chirwa ya kuzimu)』だとわかる。」この「クジムのキルワ」は「クジムの祖霊(p'ep'o k'oma wa kuzimu)」と呼ばれる憑依霊や「クジムのニャグ(nyagu wa kuzimu)」 と呼ばれる憑依霊によって引き起こされる。症状としては性が原因で引き起こ されるキルワとまったく区別できないらしい。憑依霊によって引き起こされた ものである以上、夫婦には何の責任もない。また「ムニェレラ(排泄者・射精 者)のキルワ(chirwa ya munyerera)」というのも知られている。これは、 性交が禁じられている期間に妻が夢の中で性関係をもったことによって生じる キルワである。夢の中に現われて性関係を持つ憑依霊として、スディアーニ導 師(mwalimu sudiani)、ペーポ・ムルメ(p'ep'o mulume)、ベライ(berai)、 ツォビャ(tsovya)などの他に、正体不明の多くの霊がいると言われる。この 場合も妻を責めるわけにはいかない。さらに子供にヒキツケのような症状をひ きおこすことで知られるニューニ(nyuni)あるいは「上空の霊(動物) (nyama a dzulu)」と呼ばれる霊たちのなかにもキルワと同じ症状を引き起 こすものが知られている。「産まれた子供を見ると、ああ!すっかり痩せ細っ ている。でお前は妻を打擲する。これはキルワだと言って。でもなんと、ニュー ニのせいだった。こいつは『キルワまがいのニューニ(nyuni wa kachirwa)』 と呼ばれる。こいつは妻の見る夢の中にやって来るのさ。彼女は妊娠中だ。今 みたいな真っ昼間に夢をみる。そいつはやって来て、ちょうどお前が妻に対し てやるような行為を行なう。あるいはお前、夫自身が女の夢をみる。彼女とそ の行為を行なう。さて、産まれてくる子供には最初からこのニューニがいる。 キルワまがいのニューニが。」

新生児の健康に対する憂慮の大きさ、従ってキルワに対するさまざまな顧慮 や語りは、もちろん人々の子供に対する深い関心を物語っているだろう。それ でなくても新生児は危険に遇いやすい頼りない存在であるかもしれない。しか し逆に、「産む」ことや「追い越す」ことをめぐる諸観念のせいで、新生児の 安全性に対する憂慮がますます大きくなってしまっていると考えることもでき るかもしれない。世界中のいたるところで両親の性行動が子供の健康に影響を 及ぼすと考えられているわけではない。ここでは夢の中の性行為までが、新生 児の安全を危険に晒すものとして憂慮の対象となる。

さらにやっかいなことに新生児を見舞うキルワの危険は、単に子供の両親の 性行動のみによってもたらされるとは限らない。出産の補助をした女性たちの 性行動がキルワを引き起こすという考え方がある。
「本当のことを教えてあげよう。さあお前の妻が出産しようとしている。『あ んた、さあ集中なさい。』女たちが(産婦に向かって)言う。彼女たちが子供 を取りあげる。『ほれ、あんた。ほれ、頑張って、頑張って、頑張って』で子 供がボッと出てくる。二人の女が、あるいは三人の女がそれを取りあげる。 (問:取りあげ女(aphokeri)たちですね。)うむ。さて、その赤ん坊をとり あげた女は、その赤ん坊をその母親にまかせて、帰っていく。帰っていった先 で何もしないなんてことがあるだろうか?そいつは彼女の夫とことをしてしま う(性交する)。そんな風に、彼女は仲間の女性の産んだその子供を台無しに してしまうのさ。でお前が子供の様子を見に行くと、ああ!なんてことだ! (問:すでにキルワになっている?)そう。これが『取りあげ女のキルワ (chirwa ya aphokeri)』だ。」

取りあげ女は、新生児の両親がその子を「産む」までは、自分でも性関係を 慎まねばならない。もちろん取りあげ女には通常年老いた女性が選ばれる。 「そうとも、すごく年よりの女を探すがいい。少しはましだ。でもあいつら若 い連中ときたら。(性交を)我慢するわけがない。とっても長い期間だ。そう とも2ヶ月。いや3ヶ月かもしれない。だって2ヶ月だと、産婦はまだ回復し ていないから。そいつ(取りあげ女)が我慢するわけがない。友人の子供を追 い越さないためにといって、(性関係を拒んだせいで)夫から打擲をうけるな んて。ああ、彼女は我慢するものか。」しかしもしそうだとすると、新生児が キルワに罹ることは、ほとんど避けようがないということにはならないだろう か。

通常「追い越」される危険は、それを「産」んでしまうまでの期間の危険で ある。よく言われるように「きちんと『産』みおえたものは、二度と『追い越 される』ことはない(chitu chichivyalwa chiutumia, kachichirwa kahiri.)」 のである。しかし新生児の場合には、きちんと「産」んでもらった後も、一人 歩きできるようになるくらいまでは、あるいは母乳を飲み続けている限りは、 両親の不適切な性行動の影響を受け続けるという意見がある。人によってはこ れもキルワに含めて考える。ある種の憑依霊は単にこの危険を増幅させる。 「ニャグ(nyagu)やキルイ(chilui)やズニ(dzuni)、とりわけニャグはた ちが悪い。女にニャグが憑いている。彼女には背中におぶう子供がいる。ブッ シュへ行ってそこで男と寝る。子供を傍に置いて。その子はその場で死んでし まう。...あるいは子供は屋敷に残っている。帰ってきた母親に会って、乳を 飲む。ああ!突然嘔吐が始まる。目は白眼をむいている。『おい女、いったい お前は何をしたんだ』『ああ、なんてこと。私は心にだまされてしまいました (一時の気の迷いでしたことです)。』」ニャグを体にもっている女性の夫に ついても同様である。彼はブッシュで女性と寝て帰ってきても、適切な予防措 置を講じていない限り乳児に触れてはならない。「お前は問いただされるだろ う。『さてさてご主人、あんたが子供に触れただけで、子供は死んでしまった。 子供はほとんど死にそうになった。いったい、あんた何をしたんだい。』」 (註12

家畜の場合も、きちんと「産」み終えた後になっても、所有者たちの不適切 な性行動による影響を受ける。なかにはそれこそが家畜のキルワだと主張する 人もいる。「そうとも、家畜(mifugo)ならどれでも。呼吸する者たち。4本 脚の。そいつらはドゥルマ人(人間)みたいなもの。もしお前が過ちを犯せば、 そいつらも必ず捕えられることになる。それがウシのキルワ(chirwa ya ng'ombe)、それがヤギのキルワ(chirwa ya mbuzi)だ。こんな風にそれは起 る。お前がヤギを買う。一匹目のヤギ。最初のヤギ。お前には妻がいる。『ね え、お前。このヤギを『産』むことにしましょう。私たちの繁栄を眺めましょ う。同じ一つの顔でこの小屋が満ちますように。』さて、こんな風にそれを 『産』んだなら、お前はブッシュへ行ってはならない(浮気をしてはならない)。 妻の方もブッシュへ行ってはならない。わかるかい?二人してただお前たちの ヤギをじっと眺めていなければならない。ヤギを二人して守っていく。それは 家に満ちるかもしれない。というのは夫の方でも余計なことに(浮気に)かか わらないし、妻の方でもかかわらない。ヤギは子供をどんどん産み続ける。双 子を産みさえする。そうともさ。でも妻が外にろくでもない恋人(bagubagu) を作る。ヤギの様子を見るがいい。夫が浮気をする。ヤギの様子を見るがいい。 お前さんたちは、そんな風にしてそれを台無しにしたのさ。ヤギは妊娠しても、 流産するばかり。ヤギは妊娠しても、子供が途中で引っ掛かって死んでしまう。 ヤギは骨と皮ばかりに痩せ細る。お前たちは『まぜこぜ』にしてしまった (mwaphitanya)。これが家畜の『まぜこぜ』、これが家畜のキルワだ。」

所有者の不適切な性行動が家畜に与える影響をキルワとは明確に区別する人 もいる。「そのとおり。そんな風に(家畜を)『産』んだなら、お前はもう外 へ行く(浮気をする)ことは許されない。お前の知っている相手はお前の妻だ け。もしお前が外へ行ったりすれば、家畜はあまり良い状態ではなくなるだろ う(zindakala kazina mamura madzo)。....下痢をして、痩せてばかり。そ うとも、ヤギのなかには肉のまずいものがあるだろう?噛んでも、ヤギ肉のう ま味がすこしもない。それは飼い主のせいなのさ。こんな風に言われるのを聞 いたことがないかい?『ああ!このヤギ肉はまずい。きっと飼い主が助平にち がいない。』(問:それはキルワでは?)ちがうちがう。お前はそれをすでに 『産』んだんじゃないかい?それはお前のものではないかい?どこへでも好き なところへ行くがいい。それはお前のものだ。もう『追い越』しえない (kayichirika)。そうとも。こういうことなんだよ。お前が目指すところへ 行き、そこで女と交わる。そして家に帰ってくる。ヤギたちより先に帰ってき てはいけない。もし、お前が帰ってきたときヤギたちがまだ(放牧から)戻っ てきてない!まだブッシュにいる。帰ってきてない。そしてヤギたちが帰って きたとき、お前はすでに屋敷にいる。ああ!まぜこぜだ(makushekushe go)! ヤギはお前の足跡を踏んで戻ってくる。これはまずい。さあ、下痢だ。さあ、 その肉を食べるとわかる。それは腐ったみたいな臭いがする。」

「産」み終えられた後も両親や所有者の性行動によって乳児や家畜がさらさ れる危険について語るとき、上の二つ引用にも見られるように、しばしばすで に論じた「まぜこぜ」という比喩が用いられている点に注意すべきだろう。一 見すると奇妙な語り口ではあるが、「産む」という作業が屋敷への編入の作業 であり、それが屋敷内の序列の中に位置づけるということであるとするならば、 不適切な性関係によってこの序列に混乱をもたらすことを意味する「まぜこぜ」 という比喩が、再びここに登場したとしても驚くにはあたらないかもしれない。 「追い越す」という比喩が向かっているのも、同じような場所である。「追い 越し」の一つの意味は序列づけられた秩序の内部での序列の乱れに関するもの であった。同じ比喩が序列づけられた秩序への組み込みに際しての混乱を語 るのにも用いられているとしても、もはやそれほど奇異なことには思えないだ ろう。「まぜこぜ」にせよ「追い越し」にせよ、それは当事者たちの性行動に よって作り出される混乱である。またいずれもが豊穣性を危機にさらす。それ らは屋敷の秩序とそれによって支えられた豊穣性、その危機と崩壊について語 ることを可能にする比喩なのである。

「産むこと」および「投げ棄てること」は、我々に馴染みの比喩を用いれば、 いずれも屋敷の内部とブッシュで代表される屋敷の外部を隔てる境界に対する 操作として理解可能である。前者は外部のものを内部に編入する操作にともな い、後者は内部からそこに紛れ込んだ外部性を除去する操作にともなう。編入、 および除去という操作そのものと、性行為は敵対的な関係に立っているように 見える。夫婦の性は、排除せねばならない外部性を内部に定着してしまったり、 逆に編入が意図されている外部を排除してしまう。マトゥミアによって成し遂 げられるはずの内部と外部の境界の確立と閉鎖を、それは時期尚早に行なって しまうことであるように見える。外部の性、つまり婚外の性関係はさらに破壊 的である。それは編入や排除の企てそのものを決定的に台無しにしてしまう。 内部と外部の関係は根本的に混乱して--「まぜこぜ」になって--しまう。除去 や編入そのものの過程においては夫婦の性関係も含めて一切の性関係が停止し ている必要がある。「追い越し」とはこうした性関係による編入や除去の操作 の失敗そのものを指しているのである。

屋敷の秩序をめぐる語り口の比喩性

「置く」「据える」「産む」「冷やす」「投げ棄てる」「追い越す」「後戻 りする」「まぜこぜにする」などなど、これらその本性においては明らかに比 喩的であるような互いに関連した一連の言葉を用いて、屋敷の秩序に対するさ まざまな操作--それを乱す行為や、維持し修復するさまざまな操作--が語られ ている。あるいはむしろ、それらはこうした表現によってしか語ることができ ないのだと言った方がよい。例えば「産む」とはどうすることなのか、それを より字義通りの意味で理解できる表現で説明することができるだろうか。人々 自身から得られる説明にしても、「きちんと置く」ことであるとか「自分のも のにする」ことであるとか「自分の体の中に置く」ことであるとか「据える」 ことであるとか「自分でそれを保護する」ことであるとか、程度は異なるかも しれないが同様に比喩的な表現で言い換えることでしかない。ここまでの記述 において、私はそれを私自身にとってより理解の容易な馴染みある比喩--空間 と境界とそれをめぐる操作の比喩--につなぎ合わせることによって、この一連 の語り口がどのような現実に対応しているのかをつかみとろうと試みてきた。 「産む」ことを<内部への編入>に、「置くこと」を<序列内への位置づけ> に、「投げ棄てる」ことを<外部への排除>に、「冷やすこと」を内部からの <外部性の除去>に、「まぜこぜ」を<序列上の位置の差異の消滅>に、「追 い越し」の一つの意味を<序列の位置の逆転>に、もう一つの意味を<外部性 の除去に先立つ境界の閉鎖と囲い込み>、あるいは<編入が不完全な状態にお ける境界の閉鎖と排除>などに、それぞれ置き換えてみることができる。それ らは特定の対象領域について語る、互いに関連しあった一まとまりの比喩群で ある。それを一連の比喩的な語り口に対する説明として断定的に提示すること ができないのは、もちろん異なる比喩的な語り口の間に完全な一致が到底望め ないからである。その置き換えは、あるセンスを保存するが、別のより重要で あるかもしれない側面を消去してしまうかもしれない。そもそも単なる「編入」 であるなら、それがうまく行かなかったからといって、持ち込まれたものに病 気や死をもたらしたりはしない。その失敗がこうした災厄をもたらすような 「編入」を想像できる必要があるのだが、それはけっして容易なことではない。 比喩的な語り口は、どこまでいっても比喩にしか見えない。何かを与えられて 「それをお前自身の秩序の中にきちんと編入するように。そうすることによっ てそれがもつ外部性を除去して、それを完全に自分のものとするように。」な どと言われても途方にくれてしまうだろう。たしかに「産め、そしてそれをお 前の体の中にきちんと置け。」と言われるよりは、意味はとりやすくはなって いるが、実践不可能な点では何も変わらない。「ちゃんと編入しなければ、そ れは台無しになってしまう」と脅されたとしても、事態の重要さを理解できそ うにない。

ある比喩的な語り口の網の目をリアリティとして生きるための条件と、そう なったことがもたらす効果そのものは、こうした説明によっては到達不可能な のである。人類学的他者理解、つまり異なる比喩的な語り口を接合させる操作 の一つの限界であると言えるかもしれない。もちろんこれが致命的な欠陥であ るわけではない。現実の奥行きがないからといって写真を非難するのが的外れ であるのと同じようなものである。しかし逆に、これを一つの限界と見なさず に、比喩が比喩にしか見えない者が、この事実をもって、その比喩をリアリティ として生きうるという可能性を否定する十分な根拠だと思い込んでしまうとし たら、それも馬鹿げた話である。家の写真を見て、「そんなものに住めるわけ がない、だって平ったいから」と言うようなものである。移し変えあるいは置 き換えられた比喩にしばしば欠けてしまうのは、生きられた比喩の持つ生の奥 行きである。自分の方で奥行きを消去しておいて、もともとそんなものはなかっ たのだと言い張るとしたら、あまりにも愚かしい。

あるものを何か別のものに見立てるということ--つまり比喩としての比喩-- と、それがその別のものに見えてしまうこと--リアリティ--との違いなどわず かなものである。もっともヴィトゲンシュタインのアヒル・ウサギの絵にアヒ ルを見るかウサギを見るかといった二つの見方を行き来するようには簡単には 行き来できるものではない。それが単なるものの見方の問題ではなく、世界に 対する実践的な姿勢の問題、生き方の体制化までをも含んでいるとすれば--そ して構造的比喩の問題はまさに生の体制化の問題にかかわっているのだが--そ のわずかの違いを実践的に行き来することは頭で考えるほど簡単ではないだろ うし、頭で考えただけでは無理な相談だろう。しかしそれが自他の絶対的な差 異を根拠づけるほどのものであるわけではない。

ある種のリアリティは比喩によってしか語ることができないし、あるいは同 じことなのだが、リアリティとして経験されてしまっている比喩もある。単一 の孤立した比喩によってというよりは、互いに関連しあった比喩群、比喩的な 語り口の網の目によって、と言った方がより正確だろう。そのとき人は、いわ ば比喩が作り出している網の目にあまりにも完璧に絡みとられてしまっている ので、自分が現実だと思っているものをまさに見えるようにしてくれているの が、自分の身体を支えているその網の目であるという事実が見えなくなってい るのだ。ありふれた話である。我々自身の周りにもその気になればいくらでも 見いだされるこうした比喩的語り口を一つでも考えてみればよい。例えば、人 はゲームの展開を一定の方向に導く力のようなものが働いているとでも言うか のように「試合の『流れ』」について語らないだろうか。そして「試合の流れ を変える」行為について、つまり何かをすることによって--どうすればよいの かについての決まったやり方はないとはいうものの--試合の流れを「変え」た り、それを「押しとどめ」たり、それに「乗っ」たり「逆らっ」たり、さらに はそれを「引き寄せ」たりできるかのようには語っていないだろうか。我々は 比喩の網の目によって語っている。そしてそう語る誰もが、それらの語り口が 単なる比喩にすぎないなどとは思っていないのである。きわめて現実的な何か について文字どおりに語っている気になっている。ゲームについてのある種の 経験を「流体」の経験にただ単に譬えているだけというわけでも、ましてやそ れを川などに見立てているだけというわけでもない。それは見立てを通り越し て、それが見立てている当の経験を自らの論理的帰結や構造にしたがって組織 してしまっている。単に譬え話をしているのではなく、まさに勝敗の行方を左 右する、働きかけ可能ななにかを文字どおり「押し止め」したり「引き寄せ」 たりする話をしているのである。私には、試合にはたしかに漫然と何もせずに いればそれに「流」されて行ってしまいかねないような、まさに「流れ」とし か言いようのないものが実際に存在しているように思えてしまう。しかし試合 にそなわるそうした特徴を見て取れるのは、まさに「流れ」という言葉を比喩 として用いた結果、それを透かして成立した見立ての結果なのではないだろう か。比喩の発見的な--というよりも創出的な--作用はこのような「死んだ比喩」 であっても、いやむしろ目新しい比喩としての比喩らしさを喪失したこうした 比喩の中でこそより根源的に、発動している。それらは、単に意外な気のきい ただけの言い回しなどではなく、我々にとっての現実そのものの成立を支えて いる見方、ものの眺め方に我々をいざない、そこに我々をつなぎ止めてくれる 装置なのである。ある特定の経験について具体的に語ることを唯一可能にする これらの表現は、もはや修辞学的な意味での比喩ではなくて、その特定のリア リティについての字義通りの表現であるような比喩であり、ということは、そ れに絡みとられた当人たちにとってはそれらは比喩などではなく事実の記述そ のものである。そしてまさにその同じ理由から、それに絡みとられていない者 には、これらはまったく無意味であるか、せいぜいのところ単なる奇異な比喩 にしか見えようがないということにもなる。

本稿では屋敷の秩序をめぐる一連の語り口を、私により馴染み深い空間的な 比喩群に接合する作業を行なうと同時に、それが一つの語り口を別の比喩的語 り口に単純に還元する作業になってしまうことを防ぐ目的で、人々自身の語り の直接引用を少し行き過ぎと思えるほどに行なった。このことで少なくとも、 これらの一連の比喩が、まるで具体的なリアリティを直接指示する言葉である かのように、自由自在に雄弁に駆使されている様が示せたのではないかと思う。

しかしこうした雄弁さを前にするとき、一つの疑問が起こってはこなかった だろうか。人々は「産む」ことや「追い越す」ことについて実に多くを語る。 その説明のあらゆる場所に性の問題がつきまとっていた。「産む」といい「追 い越す」といい、いずれにしても実際には特定の仕方で誰かを相手に性交をす るという行為なのだ。にもかかわらず性行為そのものが主題化されて語られる ことがほとんどないというのは一体どういうことなのだろう。性行為自体につ いて、その目的や意義が語られることがないのはどうしてだろう。それは単に この地方でそのテーマが人前で語るに相応しくない「はしたないこと(ga kuhakana)」に属しているからという理由だけであろうか。この語り口に始終 付きまとっている性の問題をどのように評価すべきだろうか。

秩序の語り口と性

何をいつ「産む」べきなのか、なぜ「産」まねばならないのか、それはどん な風に「追い越」されうるのか、「追い越」されるとどうなるのか、何をいつ 誰と「投げ棄てる」べきなのか、などなど、こうした問題について--同じ比喩 的な語り口を用いて--人々は熱心に論じる。未婚の兄が購入によって手にいれ た畑が既婚の弟夫婦によって使用されていた場合、果たして兄はそれを再使用 できるのか、弟夫婦による使用が「追い越し」であるとするなら、それはどう いった手段で矯正できるのか--これはたまたま私の友人の一人が直面していた 問題であるが--こうした問題の相談が年長者に対して頻繁に持ちかけられ、そ れについて何人もの人々がさまざまな角度から論じ、アドバイスを与える。夫 と死別し再婚しなかった未亡人は、自分の息子が妻を娶る際に息子の妻を誰と どのような手続きで「産む」べきか。別居中の妻が夫の埋葬や弔いに参加しな かった場合、彼女に対してどのような処置が施されるべきか、彼女も夫の「死 を投げ棄てる」必要があるのだろうか。こうした具体的な問題に対処する際の 議論も、同じ一群の比喩による推論を駆使したものになる。こうして到達する それぞれの個別的な問題に対する結論自体には人々によって結構なばらつきが ある。

しかし、なぜマトゥミアを行う--しかじかのやり方で性交する--ことが「産 む」ことになるのか、なぜ妻の妊娠中に浮気をすることが生れてくる子供を 「追い越す」ことになるのか、という類いの問いはまず発せられることもない し、誰かが試しにそうした問いを発したとしても、答えは用意されていないど ころか、質問の意味さえ誤解されるのが関の山である。それはそもそも議論の 対象にすべき問いですらない。なぜ無言で手早く一回きりの性交を行うことが 「産む」ことになるのかというと、そうすることが「産む」ということ、それ が「産む」行為のやり方であるからだという以上の答えはありえない。

誤解のないように付け加えておくと、これは性交と「産む」こととの間にあ る関係を単にたまたま人々が口で説明できないだけ、言語化されていないだけ ということではない。本章で述べてきたように「産む」という行為が何を目的 になされ、どのような役割をもち、どんな効果を期待されている行為であるか といった意味で「産む」行為がどういう行為であるかを理解することは可能で ある。しかしそのような意味で「産む」行為がどんな行為であるかがわかって も、それはなぜそれがしかじかのやり方で性交することで成し遂げられねばな らないのかの理由を提供し得ない。性交がもつ特殊な効果や力についての理論 や観念のようなものが仮に存在していて、そこから「それゆえに性交すること によって『産む』ことができる」という結論が導かれるなどという具合にもなっ ていない。「産むこと」の説明として持ち出される、例えば「自分で守ること」 という、比喩性が一見薄まって見える表現で「産むこと」を置き換えてみると、 いっそうはっきりするかもしれない。なぜ無言で性交すれば何かを「自分で守」っ たことになるというのだろう。あるいは「産む」ことは編入することであると いう我々自身の近似的な理解に置き換えてみても同じである。なぜ性交するこ とで「編入」したことになるのだろう。両者を結びつける説明など最初からど こにもないのである。私は、人々が両者の結び付きについて説明してくれない という偶然的な事実を重視しているわけでもないし、それを論拠として当てに しようともしていない。人々がたまたま両者を結びつけるための理由や説明を 用意してくれていれば--どの社会にも物好きな思弁家がいてさまざまなことを 考え出すものである--解決がつくという話ではないからである。そう考えるこ とは、日本語で例えば「水」のことをミズと言うことには、実はちゃんと理由 がある、ただまだ誰もそれを言語化することが出来ていないだけだ、などと主 張することに似ている。私が指摘したいのは、仮に人々がそうした説明や理論 を提出してくれたとしても、両者の結び付きはそのような説明や理論には依存 していないということである。「産む」ことと無言の性交との結び付きは単に、 「『産む』ためにはしかじかの相手と無言で一回きりの性交を行なわねばなら ない。なぜならそうすることが『産む』ということなのだから」という同語反 復的な完結性のなかにある。この文が構成的規則の表現であることがわかるだ ろう。それが与えるのは無根拠で恣意的な規約的結びつきである。言語に限ら ず我々の実践の中心部には、こうした無根拠で恣意的な結びつきが居座ってお り、我々の実践の体系性が実はそれによって支えられているのだという事実を 確認することは重要である。

これは一連の論考を通じてすでに何度も繰り返してきた議論であるが、ここであえてもう一度繰 り返してみたのは、この結び付きの性格こそが、屋敷をめぐる一連の語り口の 中でほかならぬ性行為が主題化されることを妨げている当のものであるからで ある。別稿でも論じたように、行為における「何を」にあたる側面と、その やり方である「どのようにして」にあたる側面という、2つの側面が規約的に 結びつけられているとき、後者はその行為をめぐる語りの中で主題化を免れて しまう。夫の「なまの弔い」をまさに終えようとする未亡人は、性交という事 実を主題化して、自分がなぜ見知らぬ男とブッシュで無言の性交を行なう必要 があるのかという形では問いを立てることはできない。その問いは「なぜ私は 夫の『死を投げ棄て』なければならないのか」という問いになってしまうから だ。そしてなぜ「死を投げ棄て」なければならないのかに対しては、十分過ぎ るほどの理由が提供されている。「死を投げ棄て」なければ屋敷には引き続き 死が訪れるだろう。そもそも未亡人自身の生命や豊穣性が最大の危険にさらさ れる。もし彼女が二度と男性と性関係をもたないというなら別だが--彼女は 「子供」として屋敷に置かれることになる--しかし危険であることに変わりは ない。そして彼女は屋敷の人々までも危険にさらしてしまう。などなど。そも そも一連の比喩的な語り口に絡み取られている彼女自身にしてみても、現実に 死とは「投げ棄て」なければ残ってしまう何かなのである。では彼女は、「死 を投げ棄てる」ためにどうして自分がブッシュで見知らぬ男と無言の性交をし なければならないのかと問うことが出来るだろうか。できない。なぜならそれ は「お辞儀するために、なぜ相手に向かって頭を下げなければならないのか」 と問うているのに近い。これに対しては「そうすることがお辞儀するというこ となのだ」と答えるしかないように、ブッシュで見知らぬ男と無言の性交を行 なうことが「死を投げ棄てる」ということなのである。他の何をしようとも死 を「投げ棄てる」ことにはならない。しかし彼女が、はたしてこのやり方で本 当に死は「投げ棄て」られるのだろうかと疑問をもつことは可能ではないだろ うか。だがこの疑問もむなしい。なぜならこうした疑問が意味をもつためには、 「本当に死を投げ棄てる」ということがどういうことかわかっている必要があ るのだが、まさにこのことこそ比喩的な語り口が差し出すのを拒んでいるもの なのだ。字義通りに理解できる言葉に置き換えようがないからこそ、それは比 喩的に語られているのである。「死を投げ棄てる」という観念をどんなに煮詰 めてみても、そこからは何をすれば死を投げ棄てることが出来るのかという答 えは引き出しようがないのである。比喩的な語りである「死を投げ棄てる」が、 字義通りに理解可能な表現によって語られる具体的な行為として遂行されると すれば、両者の接合はいずれの側にもその根拠をもたない恣意的で規約的な結 びつき以外の形ではありえないことになる。その規約性は構成的規則の形で表 現可能である。繰り返し確認してきたことである。

こうして性行為は、その意義やそれをおこなう理由それ自体が主題化されな いままに、屋敷の秩序をめぐる一連の比喩的な語り口に有無を言わさず接ぎ合 わされる。そしてこれが逆に性行為の意義を、議論の余地なく--それを主題化 する道がそもそも閉ざされているのであるから--決定するのである。「産む」 行為や「投げ棄てる」行為、あるいは「まぜこぜ」にしたり「追い越し」たり する行為として屋敷をめぐる比喩的な秩序の語り口に接合することによって、 性行為はもしそうでなければ自らが与り知ることもなかったであろう効果や役 割と結びつけられている。例えば、「水甕を持ち上げる」行為はそれ自体とし ては腕の筋肉を若干疲労させる以上のたいしたことはそれほどできそうにない。 それが別稿で述べたように妻の死といったとんでもない結果に結びつくのは、 恣意的規約的にそれが「妻を引き抜く」という比喩的な記述に接合させられて いるからである。同様に、比喩的な語り口に恣意的に接合させられた結果とし て性行為にも屋敷の内部の序列をつけ直したり、壊したり、序列の秩序に「守 られた」屋敷の内部を「まぜこぜ」が支配する外部やブッシュから分つ境界そ のものを操作したりなどという、他のどんな行為をもってきても首尾よくでき るかどうか、そもそもなんらかの手段で実行可能かどうかすら、なんとも定か ではないようなさまざまな役割を引き受けさせられるのである。性行為はいく つかの形態に区別され、それぞれがその行為そのものの性格からは予測のつか ないような新たな諸関係を他の諸形態と取り結ぶ。

屋敷の秩序をめぐる一連の語り口を通して目を引くのは、「産む」行為、す なわち編入し秩序に組み込む行為であるところのマトゥミアと呼ばれる性の形 態が、それを妨害する「追い越す」行為であるところの不適切な性の諸形態に 対立しているという点である。とりわけそれは「外で寝ること(ku-lala konze)」あるいは「ブッシュで寝ること(ku-lala weruni)」という言い方 で呼ばれる婚姻外の性関係--その相手は「ブッシュの夫(妻)(mulume wa weruni, muche wa weruni)」あるいは「外の夫(妻)(mulume wa konze, muche wa konze)」などと呼ばれる--ともっとも明瞭に敵対関係に立っている。 マトゥミアの性が屋敷の内部と外部のブッシュの境界を確立しようとする行為 であるとするならば、「外で寝ること」はその区別を曖昧にしてしまう。「外 で寝る」行為は、人間の子供と家畜の場合には「産む」ことを通じて秩序の内 部に正しく組み込んだ後ですら、長期にわたってそれに打撃を与えることがで きる。それはいわば屋敷とブッシュとのあいだの結界を脆弱にする。

「外で寝る」あるいは「ブッシュで寝る」といっても、文字どおりに性関係 がもたれる場所についての話ではなく、いわゆる浮気や姦通などの婚姻外の性 関係一般を指す言葉である。結婚前の若者たちの性関係もこれに含まれるので、 必ずしも「外で寝ること」がすべて禁じられるべき行為とされているわけでは ない。しかし言うまでもなくそれは正当な夫婦間の性関係に対するアンチテー ゼの位置を占める。このコンテキストでは「外で寝ること」つまり浮気や姦通 が正しい行為として語られることはまずない。浮気が発覚した妻は夫に打擲さ れても文句は言えまいし、浮気の相手は姦通の賠償(malu)の支払いの義務を 負う。夫婦の婚姻外の性関係は、妊娠中、および出産後しばらくの子供に大き な危険を及ぼし、この知識が夫婦にとって「外で寝ること」をますます遠ざけ ねばならない理由を提供している。

にもかかわらず、浮気そのものはけっしてそれほど稀な可能性ではない。多 くの男は自分の口説き(ku-lembalemba)に絶大な--おそらくいくぶんかはあ まり根拠のない--自信をもっている。男どうしの無責任な会話では浮気はしば しば格好の話題である。男であれ女であれ、それを求めるのは当然のことだと 言わんばかりの意見すら耳にする。男の口説きをまったく無視して冗談にも取 り合わない人妻、妻以外の女性に見向きもしない夫は、配偶者に薬(muhaso) で「屋敷に釘付けに(ku-kota mudzini)」されている--つまり配偶者に妖術 をかけられている--と陰口をたたかれたりする。「外」での性関係それ自体が、 絶対的な悪、つまりどのようなコンテキストにおいても例外なく悪いとされる ような行為というわけではない。それはひとことで言うと性の快楽を、そして それのみをひたすら目的とした性関係だということになる。快楽の追究はもち ろん、夫婦の義務やその他の社会的関係とは抵触することもあるかもしれない。 日本語で「助平」にあたるドゥルマ語のムディヤ(mudiya 字義通りには「犬 的人」)やムゼンベ(muzembe スワヒリ語では「怠け者」の意味だが)はいず れも「外」の性関係を求めてうろつき回る者に対してのみ用いられる言葉であ り、夫婦間の性関係の文脈においてはけっして用いられない。夫婦の性に快楽 の要素がないというわけではないだろう。しかしそれは「外で寝る」性により 特徴的な要素であり、「外で寝ること」と対立する夫婦の性においてはそれほ ど強調されない特徴である。

屋敷の秩序についての一連の語りの中でマトゥミアの性は、より明瞭な形で 「外で寝ること」に対立している。単にそれぞれの行為に帰せられる効果の点 で互いに対立しているだけではない。むしろマトゥミアの性交に付与された奇 妙な特徴は「外で寝ること」との対立においてのみ理解可能であるともいえる。 無言であること、手を使用しないこと(愛撫を行なわないこと)、射精は一回 きりですばやく済ませてしまわねばならないこと、これらの特徴は性の快楽的 な側面の否定に匹敵する。快楽の要素をとりのぞかれた性交としてマトゥミア は、逆に性のこの側面をとりわけ強調したものである「外で寝ること」との違 いを際立たせているのである。マトゥミアと「外で寝ること」の対立は、夫婦 間の性関係という言わば無徴の性と「外で寝ること」との対立軸を、拡大して みせているのだと言えるかもしれない。もしそうだとするならば、マトゥミア の性に帰せられる、屋敷の秩序への組み込みやそこからの排除にかかわる効果-- 外部との境界を引き直す効果--は、無徴の夫婦の性に対しても認められている と考えねばならないだろう。夫婦間で日常に営まれる無徴の性には、この観点 からするとあたかも、すでに屋敷内にあるものを守り、屋敷に入ってこようと するものを排除する一種の免疫システムのような働きがあるかのようである。 この章で我々が行なってきた一連の比喩的な語り口についての理解も、同様な 結論にいたっていた。外部のものを屋敷内に取り込む際に、夫婦の性が中断さ れねばならないのも、夫婦の性交が外部のものの屋敷への侵入を妨げてしまう からだと考えると、筋は通る。筋が通っていなければならないという訳でもな いのだが。

一方、マトゥミアの性のその他の特徴は、夫婦の性のもつ特徴を単に際立た せただけとは考えられない。ある点では夫婦の性のもつべき特徴が注意深く消 去されているかのようにさえ見える。例えばマトゥミアが妊娠の可能性と結び つけて語られないという点もその一つである。他方、夫婦の性は言うまでもな く子供をもうけるための性である。また、死を「投げ棄てる」場合や婚資のヤ ギ(「主柱のヤギ」)を「産む」場合、屋敷を移転する際、火事の後の焼け跡 でのマトゥミア、その他「冷やしの施術」の後の「事故」の「投げ棄て」など、 マトゥミアではしばしばベッドの使用が禁止され、地面の上で行なわれるべき ことが強調される場合がある。この特徴も、むしろマトゥミアと夫婦の日常の 性との違いを際立たせる特徴である。「外で寝ること」は必ずしも文字どおり 外やブッシュで性関係をもつということを意味してはいないが、文字どおりの ブッシュでの性関係が「外で寝ること」の代表的なイメージを提供しているこ とも事実である。男女の密会は、女が水汲みを口実に屋敷を出て、水汲み場か らほど遠くないブッシュのどこかで示し合わせて行なうものと相場が決ってい る。草むらの上に腰布を敷き、そこが二人の褥となる。地面の上で行なうべき ことを強調するマトゥミアの性は、この点では「外で寝ること」とかえって似 かよっていることになる。

地面で寝ること、つまりベッドの使用の禁止は、すでに寡婦を「巣立ち」さ せる方法について論じた別稿で見たように、埋葬後の「なまの弔い」の期間を 特徴づける禁止の一つであった。「なまの弔い」の期間、屋敷内の夫婦の性関 係はすべて停止し、男女は互いから隔離された場所で地面の上で起居している。 一方、屋敷の空間はこの服喪の期間中、毎晩開かれるダンスを娯楽と恋やセッ クスを手にいれる機会と心得た「弔問客」たちでごったがえす。このキフドゥ (chifudu)と呼ばれるダンスでは、男たちと女たちがふたてにわかれて、互 いの性器を揶揄したり、性交の振る舞いに直接言及した卑猥な文句をふくんだ 歌などを互いに掛け合うように歌う。気に入った相手を見つけると、ただちに 口説いて、ことが順調に運べば二人は周囲の暗闇の中にそろって消え入るとい う筋書きである。

卑猥な歌と踊りは、まるで死の状況を特徴づけるのに最適なものであるとでも言うかのように、実は死者を埋葬するその日からすでに始まっていた。死者の死体が墓に入れられる直前に、女たちは死者の小屋の中でムセゴ(musego)と呼ばれる卑猥な歌と踊りを開始する。性交の身ぶりで反時計回りに輪を描くように回りながら踊る。かつてはムセゴを踊る女性たちは陰部を隠すだけの短い腰布(mabewa)以外は何も身につけていなかった。今日でも、女たちは土を体になすりつけて故意に汚している。また小屋の中でのムセゴの際に、かつては女たちは布でぐるぐる巻きにした死体を空中に持ち上げながら足を踏みならすように踊ったともいう。女たちはそのまま墓が掘られている場所へ行き、そこでもムセゴを踊る。墓場での一連の踊りは「畑の鍬(jembe mundani)」とも呼ばれるが、実際それに続いて彼女たちは死者の畑に侵入し、その作物を略奪して帰ってくる。墓を掘りにその場にいあわせた男たちの所持品を強奪しては、返すことと引き換えにお金を要求する。男たちには何もなすすべがない。苦笑して女たちの振る舞いを我慢している。すべては騒々しい歌と踊りの中で行なわれる。この同じ女たちが、その後男たちが寝台にのせた遺体を墓場まで運ぶ行列の後から号泣しながらついてきて、埋葬後の墓に身を投げ出すように嘆き悲しむのである。<青い芯のトウモロコシ>のラロに滞在中にはごく普通に見られた、埋葬の場でのあからさまな性表現と、女たちの狼藉は、キナンゴ周辺ではかなりトーンダウンしている。女たちのムセゴや号泣が、イスラム教徒を自認する男たちによって、止めさせられるという場面もしばしば見掛けた。しかし「なまの弔い」の期間のキフドゥはそこでも服喪の中心となる活動の一つで、弔いが多くの若者たちが群がる機会であることは変っていない。

「なまの弔い」の期間においては、「外で寝ること」と夫婦の性は、これ以 上にないほどのコントラストをなしている。夫婦が性の営みを停止している傍 で、屋敷の空間は、その内部にまで侵入した外部の性によって充満したとでも いうような様相を呈する。あたかも死によって屋敷の内部と外部のブッシュと を分つ境界線が崩壊し、外部が流れ込んできたかのようである。平常時におけ るベッドの使用=上(dzulu)での暮しは、弔いの期間のベッドの禁止=下 (地面 photsi)での暮しに対立している。この対立は、夫婦の性/外の性、 屋敷/ブッシュ、秩序/混沌などの一連の対立関係と並行関係に立つ。弔いの 状況に最終的に終止符を打つのが、死を「投げ棄てる」マトゥミアである。そ れを夫婦の性とははっきり区別させるところの「地面の上で」という特徴が、 ここでのマトゥミアの性を明確に、夫婦の性と外部の性との境界に位置づけて いる。それが行なわれる空間自体が示唆的である。それは「冷たい木」の根元、 分かれ道、水の涸れた川床など、つまりそれ自体が境界であるような場所を選 んで行なわれている。死によって、ほとんどブッシュの無秩序の世界に帰した かのように見えた屋敷を建て直すかのような作業、屋敷を外のブッシュから分 つ新たな境界線を引き直す作業が開始されるのにうってつけの場所だと言える かもしれない。

マトゥミアの性交を行なう相手は、原則として自分の配偶者である。「産む」 あるいは「投げ棄てる」作業が必要とされ、それを行なうべき相手がいない場 合、その欠如を屋敷の他の成員によって--複数いる妻のうちの他の一人によっ てすら--代替することはできない。配偶者に死なれた場合が、その典型である。 驚くべきことに、その際に死んだ夫あるいは妻の代理をつとめる者は、余所者 (goryogoryo)つまり屋敷外の人間であれば誰でもよいということになる。屋 敷内の序列の秩序に組み込まれた者は、誰もその秩序の中で別の位置を占めて いるものに代ってその位置につくことはできない(註13 )。 そしてかえって屋敷の外の任意の人間によって置き換え可能だというのである。あ る意味で序列のロジックが徹底しているとも言える--屋敷内の人間が代りをつ とめることは序列の逆転にあたる--のではあるが、逆にそれによって配偶者が 外部との単なる境界に位置する置き換え可能な存在であることを露呈してしまっ ているかのようでもある。マトゥミアの性交はこの意味でも境界上の性交なの である。

relationship among various mode of sexual relations

一連の性関係が互いに対してとっている布置に見てとれるパターンは、われ われの言うところの近親相姦的な性にあたる性関係--マブィーティヨ「まぜこ ぜ」をもたらす性関係--をそこに付け加えると、よりはっきりした姿を見せる。 「まぜこぜ」を引き起こす性関係も、婚姻外の性関係である以上、もし分類す るならば「外で寝る」ことの一種である。兄弟や父息子が「ブッシュの妻」を 通じて「外でまじりあう」ことは屋敷をまぜこぜにするマブィーティヨの原因 の一つ--しかももっとも普通の--である。しかし「外で寝ること」が通常は屋 敷外部での性関係、「ブッシュの夫や妻」との性関係によって代表されている とすれば、マブィーティヨは、その生起自体は稀であるかもしれないが、屋敷 内部の性関係--男を中心に考えるならそれは、母、姉妹、娘、父の妻、兄弟の 妻、息子の妻などとの性関係である--によって代表される。少なくともそれら がもっとも深刻なマブィーティヨだとされている。したがって、大ざっぱに言 うならば、「外で寝ること」と「まぜこぜ」をもたらす性関係とは、夫婦の正 常な性関係に対する二つのアンチテーゼ、屋敷の秩序を破壊する外と内それぞ れからの攻撃に対応しているのだと言える。「まぜこぜ」を引き起こす性関係 も「外で寝ること」もともに屋敷の成員の豊穣性をそこなうが、「まぜこぜ」 が--屋敷内部の成員どうしの「追い越し」や「後戻り」と同様に--典型的には 不妊や死産という形で顕れるのに対して、すでに見たように「外で寝ること」 は出産後の子供の発育と健康状態を危険にさらす。一方、その効果の点では、 「まぜこぜ」を引き起こす性関係とマトゥミアの性は正反対の位置に立つ。前 者は屋敷内の序列を構成する差異を消去し、序列を解体するが、後者は屋敷内 を序列づけていく行為であり、内部と外部の差異を打ち立てる行為である。

私がかつて別の論考においてグレマスの記号学的四角形のモデルを用いてや や性急に素描した図式(浜本 1989)は、もはやそのままでは維持できないよ うに思われる--演繹的なモデルを適用しようとすること自体に無理があったの かもしれない--が、諸々の性の形態がシステマティックな関係に立っているこ とは疑う余地がない。3つの有徴(marked)の性の形態が、夫婦の性という無 徴(unmarked)の性の特性を浮彫りにするような形で規定しているのがわかる。 またこれは同時に、マトゥミアの性がなぜしかじかの形をとるのかを相対的に 動機づける(有縁化する)関係でもある。

「妻を引き抜く」やり方を例にとって示した、規約的な秩序の構図が、ここ でも確認できる。特定の経験領域について考えたり語ったり働きかけたりする ことを可能にする一群の構造的比喩と、それに対して規約的・構成的に--それ ぞれの比喩的な行為を行なう決まりきった具体的なやり方というかたちで--結 びつけられる一群の具体的な行為という構図である。この原理的には無根拠、 恣意的であるしかない結びつきを有縁化する(動機づける)ような諸関係がこ こでも見いだされた。屋敷の秩序についての一連の語りは、こうした構図をと おして、リアリティとして生きうるものになっているのであろう。しかしそれ 以上の余計なことをここから読み取ろうとしてはならない。この生きられた秩 序が、例えばドゥルマの「性」についての語られない暗黙の哲学や理論の表れ であるとか、それによって生み出されたものであるとかと考えてしまうとすれ ば、我々は根拠のない憶測どころか主知主義の誤謬の中に足を踏み入れてしま うことになる。上のような構図を提示することにおいて、私はけっして誰かの 頭の中の世界を描いているということにはならない。ある特定の経験領域につ いて、さまざまな人々が--説明としてあるいは他者の行為に対する批評やコメ ントとして、あるいは指示や助言や反論として--語ったり働きかけたりしてい る。こうした局所的な諸実践が浮かび上がらせる広域的なパターンを記述して いるだけなのだということを忘れてはならない。


註釈

註1
動詞ク・ウサ(ku-usa)は、「除去する」「取り除く」という意味で普通に使 われている言葉であるが、「婚礼をとりおこなう(ku-usa harusi)」といっ た具合に、さまざまな手続きを「執行する」という意味でも用いられる。英語 を話す人は、往々にしてこれを"remove wedding" という風に訳す。マトゥミ アにせよ、憑依霊の治療ダンスや婚礼や弔いのような屋敷にとっての「大きな 出来事(shida)」にせよ、それらは、執り行うことによって除去してしまわ ねばならない課題として考えられているのかもしれない。その意味も込めて、 この論考ではク・ウサを「済ませる」と訳しておくことにする。

註2
カヤ(kaya)というのは、かつてドゥルマの全員が暮していたとされる深い森 の中に建設された要塞村落で、ドゥルマは3つのカヤ(kaya tahu)に自分た ちのさまざまな習慣の起源を求めるカヤ(kaya)というのは、かつてドゥルマ の全員が暮していたとされる深い森の中に建設された要塞村落で、ドゥルマは 3つのカヤ(kaya tahu)に自分たちのさまざまな習慣の起源を求める。カヤ・ ムツァカラ(kaya mutswakara)、カヤ・ドゥルマ(kaya duruma)、カヤ・チョー ニ(kaya chonyi)の3つがそれで、19世紀までは彼らはそこに暮していた と言う。カヤ・チョーニという名前は、そのカヤがかつてマサイ族の襲撃で崩 壊した後、それを再建するための冷やしの施術師をチョーニ族から呼び寄せた という故事に由来する。

註3
妊娠は二つの血、つまり妻の経血と夫の精液の混合によって起こるといわれる。 経血は子宮の中で食い止められ胎児となる。はっきりとした確証はないが、妊 娠後の性関係が妊娠初期においては子供の肉体の形成にあずかっていると考え られている節がある。少なくともそれは悪いことだとは考えられていない。し かしすでに子供が「固まっ(ku-komala)」た妊娠後期になると、夫婦の性関 係は余計な行為になる。出産した赤ん坊が身体に「白い油」をべっとりまとっ て生まれて来ることがある。これは夫がいつまでも性交したために、余分な精 液が付着したものだとされ、夫の好色が嘲笑される。

註4
ドゥルマの出自制度と結婚制度は植民地政府の積極的な 介入によって60年代を境に大きく変化してきた。なか でも大きな変化は、「キドゥルマの妻(muche wa chidurumaドゥルマのやり方 の妻)」から「ウシの妻(muche wa ng'ombe)」への完全な移行という変化で あった。前者においては、ヤギと比較的小額の現金を中心とする婚資が花婿の 父によって支払われた。生まれてくる子供の出自集団への帰属は、通常の二重 単系の規則にしたがっていた。つまり父の父系集団と、母の母系集団に帰属す るという形である。子供は男子の場合、父親から土地と狩猟、農耕道具を、母 の兄弟から家畜や現金などの富を相続した。この結婚形態に加えて、今世紀に 入ってから、ウシを中心とする婚資が花婿の母の兄弟によって支払われる「ウ シの妻」の形態が併存するようになった。この形態においては生まれてくる子 供の帰属は、母系集団についても父親の母系集団に帰属することになり、土地 だけでなく家畜や動産も父から相続することになる。60年代にはドゥルマの 人々は母系相続の断念とともに「キドゥルマの妻」の形態を実質的に放棄し、 完全な「ウシの妻」婚に移行した。ただしそこではウシを中心とする婚資は、 花婿の母の兄弟によってではなく、花婿自身や花婿の父によって支払われる。 そして生まれてくる子供の帰属に関しては、通常の二重単系の規則が適用され る。私が調査を始めた80年代初頭、裕福な長老たちの多くは、婚資を支払い 直すことによって自分たちの「キドゥルマの妻」婚を「ウシの妻」婚にコンバー トしようとしていた。
この二種類の婚姻形態の記憶がまあたらしく、また移行も完全ではないため、 正しい婚資の受け渡しについては、現実的にはある種の曖昧さの領域が広がっ ている。婚資の細目についてもその交渉の手続きについても、そこに何が含ま れていなければならないか(メインとなる「14頭」の「ウシ」のほかに、 「オシッコのヤギ」とか「祖霊を眠らせるヤギ」とかの、さまざまな名前で呼 ばれる細目がある)、またいつどのように支払われるべきか(分割払いが普通 である「ウシ」そのものとは別に、これらの細目のほうがきちんとした手続き とそのタイミングの点で問題である)には、さまざまな意見の違いが見られる。 そうした齟齬は、個々の具体的なケースにおいて、その都度の折衝によって折 り合いがつけられるしかない。しかもその合意の中身に関しても、当然のこと ながら、純粋に規則についての合意にあたる部分など、当事者の支払能力やら 現実的顧慮やらから来る合意の影に埋もれて、それらとほとんど見分けがつか なくなっているのが普通である。当然、いつ、何回、またどのようなやり方で 婚資を「産」めばよいのかについても、見解はまちまちである。ここで紹介す るのは「ウシの妻」タイプの婚姻における婚資の授受である。

註5
「キドゥルマの妻」婚と「ウシの妻」婚の違いについては(註:婚資)を参照。 1989 年における具体的なウシの妻の婚資の合意例を示す。
[交渉時に必要な支払い]
鞭の金(pesa za mulanga):100 ケニア・シリング、婚資の家畜を家まで連れ帰る仕事に対して。

椅子の金(pesa za chihi):20 ケニア・シリング、交渉の席についてもらうことに対して。

手付けの金(pesa za mufunga):10 ケニア・シリング、婚資の本体を受けとりに来てもらう日取りを決めることに対して。

[交渉開始の支払い]
前庭の酒(kadzama ya muhala):花婿側に話を切り出す勇気を与える。

(以上は婚資には数えられない)

[婚資]
キテテの酒(kadzama ya chitete)

毛布(mabrangeti)と腰巻(hando):ともに現金1000ケニア・シリングで支払い

傘 2本:現物で

小麦粉 2キロ入り袋1ダース、砂糖1缶

ヤシ酒(「小屋の酒(uchi wa nyumbani)」と「病の酒(uchi wa lukongo)」)

ヤギ6頭
主柱のヤギ(mbuzi ya mulongohini):雌ヤギとその子ヤギ、合わせて2頭。この2頭は決して屠殺してはならない。
おしっこのヤギ(mbuzi ya mikojo):娘の母親に、1頭。屠殺可能。
肉のヤギ(mbuzi ya nyama):娘の父親に、1頭。屠殺可能。
穴を塞ぐヤギ(mbuzi ya chiziya tundu):1頭。娘を連れ去る際に父 親の目を塞ぐための、あるいは娘が処女であったことに対する支払いとも言う。 屠殺可能。
祖霊を眠らすヤギ(mbuzi ya chilaza k'oma):2頭(通常は1頭であ るが、花嫁側からの特別な要請で2頭となった)連れ帰られた日に屠殺される。

雄ウシ3頭
酒のウシ(nzao ya uchi):1頭。ヤシ酒を届ける日に屠殺。
妻を追いまわすウシ(nzao ya kutuwa ache):群れの種牛として、1頭
引きずりのウシ(nzao ya mukuruto)1頭

雌ウシ14頭
歩くウシ(ng'ombe za kuyaha):現物7頭
現金のウシ(ng'ombe za pesa):1頭 500 ケニア・シリングで換算して7頭分

このうちのそれぞれのカテゴリーのヤギは「キドゥルマの妻」婚における婚資 の本体部分であったと説明されている。

註6
なぜこうまで対立する見解が存在しうるかの説明は後述となる。ここではこの 見解のないようそのものではなく、そこで用いられている言い回しだけに注目 されたい。

註7
未亡人の数が多い場合については、さまざまな意見がある。何人いようとも一 人の男がやらねばならない。できなければ翌日やり直し、という意見と、複数 の男が用意されていて、女たちはそれぞれ指定された場所で指定された男と行 なうという意見がある。一日のうちに済ますべきだという意見もあれば、何度 かに分けてよいという意見もある。

註8
死者の残された配偶者、子供たちは「なまの弔い」の最終日、水浴びののちに 頭髪を完全に剃り落とされる。これは彼らが近親者を亡くしたという事実を 「示す」ためである。

註9
ヒツジはおとなしく、また鈍感な獣であると言われている。「ヒツジになって、 鍋の中で思い知るがいい(ukakale ng'onzi usikire chidzunguni)」という 捨て台詞があるが、これはヒツジがあまりにも鈍感で自分が殺されてもそれに 気づかず、解体されて鍋の中で煮られ始めて「ああ、自分は殺されたんだ」と 覚るように、後になって後悔するがいいという意味の捨て台詞である。「ヒツ ジを屠殺するときは顔を見ないように殺せ」という諺もある。これはヒツジの 顔を見てしまうと可哀相になって殺せなくなるからということで、誰かにひど い仕打ちをしようとするときには、変な同情をおこさないように断固としてや れという意味の諺である。「ヒツジのように死ぬ(kufa ching'onzi)」とい う慣用句は、クブォリョーリャの施術の際に、ヒツジが屠殺される前に腹を割 かれることから、致命傷を受けて死ぬまでにたっぷり間があり、自分はこれか ら死ぬんだと思い知りつつ死ぬ死に方のことである。

註10
家畜の「産」み方に関しては人々の意見はさまざまに分かれている。始めて 自分のヤギやウシをもち、これから群れを始めようというときに一回「産」め ばよく、群れに家畜を加える都度「産む」ことはちょうど新しい妻をめとる都 度、その新しい妻を相手に屋敷を「産」もうとするようなもので、かえって 「まぜこぜ」を引き起こす、という意見もあれば、婚資を「産」まねばならな いのと同様に、外部から新しい家畜を購入したりして加える都度それらを産ま ねばならないという意見もある。この大きく掛け離れた意見のせいで、家畜が 「追い越」されているかどうかの判断には、おおきな曖昧さがつきまとう。ま た後に述べるように、所有者の性的振る舞いはすでに「産」んである家畜に対 しても影響を及ぼすのだが、これも「追い越し」として語られることもある。 実際問題としては、家畜の所有者のほとんどは家畜を「外に出す」手続きをとっ ているので、最初に一回産むだけでよいのか、その都度産むべきかという問い は実践上の問題にはならない。外に出してしまうとそれ以降は「産む」必要が なくなるからである。

註11
キルワの種類については人によって呼び方が異なる。妻の妊娠中と出産後を区 別せず、夫婦の不適切な性関係によってもたらされるものを「外のキルワ」と 呼ぶ言い方もある。妊娠中の不適切な性関係に原因があるキルワを指す「胎内 のキルワ(chirwa ya ndani)」という呼び名において ndani は「内」という 意味でもあるので、この「外のキルワ」という言い方で同じものが指されるの はややこしい。現実にはその話の場面で何が指されているのかは明らかなので あるが。

註12
キルワと呼ばれる病気が、クヮシャコー(kwashakoo)つまりクワシオルコル 症候群(kwashiorkor トモロコシの偏食による蛋白欠乏性の栄養失調)である という知識が一部の人々のあいだで共有されている。おそらく両者には重なり あう部分が大きいに違いない。しかしだからといって、クワシオルコル症とい う医学的対象がこの地方では、両親の浮気に原因があると考えられればキルワ に分類され、そうでないと考えられれば例えばニャグやツォビャなどの憑依霊 による病気と分類されているのだという具合には考えないようにしよう。クワ シオルコル、あるいは人々の言い方ではクヮシャコーというカテゴリーはそう した独立した対象化されたカテゴリーの地位を未だ獲得しておらず、せいぜい キルワという言葉を言い換えたものとしか用いられていないからである。

註13
すでに触れたように、私は老齢のためにマトゥミアを行なえない屋敷の長に代っ て彼の孫息子の一人が、祖父の第一夫人とマトゥミアを行なった例を一例だけ 聞かされている。祖父と孫との互換性を物語っているが、この一例をのぞいて、 マトゥミアの相手が屋敷内の者によって代行された例はない。


Mitsuru_Hamamoto@dzua.misc.hit-u.ac.jp