「外」の想像力:子供を「外に出す」方法

First coded: Wed Nov 18
Last modified: Thu Nov 19 20:32:29 1998

要旨

ドゥルマの屋敷の秩序をめぐる一連の比喩的語り口についての4つの論考の締めくくりとなる論考。ここでは「産む」行為の失敗に対処する「外に出す」という作業をめぐる語り口を検討する。屋敷の秩序に対する一連の比喩的な語り口自体の内部に、それが描き出そうとする秩序そのものを否定しようとする想像力が宿っているという事実を明らかにする。最後にこの語り口が、この4つの論考で扱ってきた一連の語り口とは別の想像力によって組織された言説空間への接続口になっていることを指摘して考察を終える。

目次

  1. はじめに
  2. キルワの治療と「外に出す」こと
  3. 家畜を「外に出す」こと
  4. 「ムラー」の施術
  5. 「外」にいる人々
  6. 「薬(muhaso)」という語り
  7. 結語
  8. 註釈

はじめに

一連の論考を通じて検討してきた比喩的な語り口たちはいずれも、豊穣性(uvyazi)--健康な子供を多く産み育てること--の問題に照準が合っている。この語り口においては屋敷の成員は、それぞれの性的な活動において互いに区別され序列づけられている。この秩序だった日常的な夫婦の性関係こそが豊穣性を保証している。これは、一連の語り口が要請している暗黙の前提、あるいは一連の語り口の暗黙の帰結のようなものだ。一連の語り口は、この序列において「追い越し」や「後戻り」、「まぜこぜ」が生じると、それが豊穣性の障害をもたらすと主張している。序列を形づくる「産む」作業は「屋敷」という概念で語られる単位--男が始めて妻を娶ることによって作りあげる最小の萌芽的な単位から、それらを何重にも含みこんだより大きな単位で一人の長によって代表されるもの、さらには互いに兄弟であるようなそうした長によって代表される単位がそれら兄弟の死んだ父親の名のもとに一つの単位であると考えられているものまで、さまざまな水準の単位がこの概念で語られるのだが--の境界の操作にかかわっている。不適切な性行為によって「産む」作業に対してもたらされる失敗も、やはり豊穣性を損ねる「追い越し」として語られている。

屋敷(mudzi)という言葉によって喚起されるこの秩序づけられた内部(ndani)は、一貫して「つつがなさ(uzima)」つまり完全さと安全に、そして「豊穣性(uvyazi)」に結びつけられ、一方ブッシュ(weruni)に代表される外部(konze)は「火(moho)」と「事故(mvanga)」つまり困難と危険に結びつけられている。にもかかわらずこの語り口には、安全な内部と危険な外部という関係を反転させてしまいかねない可能性が、秘かに用意されている。豊穣性を保証してくれるはずの内なる秩序は、一方であまりにも脆弱であまりにもさまざまな仕方で--しかも当の自分たちの振る舞いのせいで--壊されてしまいうるので、そしてその都度豊穣性を危機にさらしてしまうので、単純明快な外の危険よりも、かえってこちらの方が憂慮すべき現実的な危険になってしまう。安心を与えるはずの秩序が逆に憂慮の種になってしまいうるのである。おまけに秩序の破壊につながる行為の多くは、外の性の純粋の享楽性の誘惑が引き起こすものである。

この論考では前半で、新生児や家畜におこった「追い越し」を治療する施術について検討したあと、後半では私が出会った一人の女性施術師--その治療は高い評価を得ているが一方で近隣の人々によって妖術使いの疑惑も向けられている--による語りを紹介しようと思う。それは秩序づけられた内部を讃え、その秩序を守ることの重要性を説く教説に対する一種の異端の語りとも言うべきもので、人に「外で寝ること」はおろか、「まぜこぜ」をもたらす近親相姦的な性関係(註1)すら公然とそそのかしているとも解釈できる語りである。しかしその語りは、ここまで扱ってきた屋敷の安全と豊穣性をめぐる一連の語り口と無縁ではないどころか、むしろその語り口に含まれる一つの可能性を極端にまで押し進めたものに過ぎないことがわかるだろう。

キルワの治療と「外に出す」こと

「産む」ことにおける失敗である「追い越し」は、あらゆる「産む」作業につきまとう。それは「産む」ための性交であるマトゥミアが無事済ませられるまでの期間、夫婦のそれぞれに一切の性関係が禁じられている期間に、夫婦いずれかが誤って行なった性行為によって引き起こされる。「産む」にあたっての性関係の禁止期間がもっとも長く設定されている子供は、従ってもっとも「追い越」されやすい存在でもあることになる。また子供と家畜は、きちんと「産」んだ後になっても長期に渡って引き続き、両親や所有者の「外」での性行為のせいで健康を害したりやせ衰えたり、家畜の場合は流産のような豊穣性への直接の打撃をこうむるともされており、これもしばしばキルワに結びつけて語られることがある。おそらく多くの人々にとって最も貴重なものの一つであろう子供と家畜がとりわけ「追い越」されやすく、また「産」み終えた後も長期にわたって親や所有者の不適切な性行動の影響を被りやすいことになっているのは皮肉な話である。が、人々にとってはきわめて現実的な憂慮すべき問題である。さらに前章で見たように、新生児をキルワにしてしまう原因は単に両親の性行動につきない。お産のおりに産婦を助けて新生児を取り上げた女性たちの性行動までが産まれてきた子供にキルワをもたらす。子供がキルワに罹らずにすむことの方がむしろ不思議なくらいなのである。

という訳で、子供や家畜の「追い越し」であるキルワの治療を専門とする施術師--「キルワの施術師(muganga wa chirwa)--たちがいるといっても、もはや誰も驚かないだろう(註2)。彼らが行なうキルワ治療の施術(uganga wa chirwa)について検討するところから始めよう。

出産直後の新生児に対して、表向きは産まれた子供の成長を促すという名目で--たしかに子供の発育の促進はこの施術の目的のひとつでもあるもあるのだが--行なわれる「小屋のキザ(chiza cha nyumbani)」あるいは「子供のキザ(chiza cha mwana)」と呼ばれる施術がある。産婦と新生児が小屋の中に隔離されている生後一週間のあいだ、産婦の小屋に搗き臼を据え、その中に入れた薬液で毎日子供を洗ってやる。これを実際に単に子供の発育の促進のみを目的にして依頼するのだと主張する人もいるので話はそう単純ではないのだが、この施術は実はキルワの治療のための施術とまったく同じものである。それを行なうキルワの専門の施術師たち自身は、これがキルワの予防あるいは治療のためのものであるという事実を隠さない。「ドゥルマ人たち(一般人たち)は、『小屋のキザ』だ、(産婦が)まだ小屋の中にいるからだ、などと言うかもしれない。子供が大きくなるようにと。でも本当のことを言おう。これはキルワのキザ(薬液)なのさ。カキルワ(kachirwa 薬液に加えられる植物の名)は何のためのものだと思う?」実際にキルワにかかった子供を治療する際に用いる同じ植物が用いられ、おなじ唱えごとがなされる。

これをキルワの予防措置として、とりわけ「取りあげ女のキルワ(chirwa ya aphokeri)」を防ぐことをはっきりと念頭において、行なう場合もある。
「もちろんお前は自分の子供を追い越さないようにするだろうさ。でも十分ではない。というのは『取りあげ女のキルワ』があるから。さて、ちゃんとしたやり方がある。例えばMwさん(キルワの施術師)に頼む。彼は子供がまるまる太るようにするマパンデ(mapande)--パンデ(pande)とは特定の木の細片を削ってそれに糸をとおして治療手段として子供の腰や腕につけるもののことで、マパンデはその複数形である--の処方を知っている。彼に来てもらって妻の寝ている小屋にキザを据えてもらう。キザの水で子供の体を洗ってやる。ただし頭を洗っては駄目だよ。頭ばかりが大きくなってしまう。体から下だけを洗うのさ。...さあ、小屋の一週間(産婦と新生児が小屋の中に隔離されている出産直後の一週間)がすぎる。キザもそれとともに終わる。さあ、お前の妻と二人でその子供を『産』みなさい。こうした手続きをとらなかったとしたら、お前はお前の子供を追い越してしまうことになるだろうよ。(註3)」

「小屋のキザ」の施術とキルワの治療との違いは、新生児がキルワにかかったと判明した後でやるか、その前に行なうかの違いに過ぎない。キルワの治療は簡単であると、施術師たちはこともなげに言う。「子供がそんな風に(キルワの症状をもって)産まれたとすれば、私を呼びに来ればよい。一発だよ(mara mwenga kare)。子供はすぐによくなる。木の根を削ってマパンデを作ってあげよう。さて乳香も持ってこよう。木はカクァジュ(kakp'aju)と呼ばれるもの、もう一つはカキルワ(kachirwa)と呼ばれる木。『お前、キルワよ。いったい誰がお前を追い越したのだ。』乳香でマパンデを燻しながら唱えるのさ。『父が一人しかいない子供はもういない(Kakuna mwana ariye na abaye mumwenga)。母が一人しかいない子供はもういない(Kakuna mwana ariye na ameye mumwenga)。お前がどんな風にして始まったのか私は知らない。さあ、子供を自由にしてやれ。』さあ、マパンデを子供に結びつけてやる。腰(chibiruni)のところに。さあ、こちらにはキザ。1週間もして見に行くと、子供はもうすっかり丈夫になっている。『母乳もしっかりこの子の身についているわ(maziya ganamugb'ira)』と母親も言う。」

施術師によって、細かい点で異なるさまざまな治療のやり方がある。例えばMb老人の場合、キザを据える際に、マブィティヨの治療の場合と同様に両親に性関係の相手を全員告白させる。「正直に話す。嘘をついて子供が治療できなくてもいいというのかい?さて、ガンジ(ganzi サボテンの一種)をお前は持ってきている。ほんの1片でよい。そこに置いておけ。ここにはムコネ(木の名前、冷たい木の一種)の杭を3本打ち込む。十分な大きさの石(平たい粘板岩)をそこに置く。ベベに薬液を用意して、さあマパンデをその薬液の上に置く。そう、キザだ。さて、お前は子供を抱き上げ、その父親の股の下を通す。こっちの脚(右)の下から入れて、こっちの脚(左)の方から出す。4回。その後父親に命じる。『さあ、こちらへ来て。その足で踏みなさい。』彼は右足で石を踏む。ここキザのある場所で。子供をこの石のところに座らせる。お前は子供の右腕と、体の右半分を(キザの薬液で)洗う、脚の先まで。頭を触ってはいけない。さて今度は母親の番。子供を彼女から取り出す。ここ(左脚)を通して、こちら(右脚)から出す。ほら、こんな風に。(問い:なるほど。4回?)3回だ。さて母親の方も、こちらにやってきてキザの石を左足で踏む。左手でキザの水(薬液)をすくって、子供の左半分を肘のところから洗う。(夫と妻二人の)水(薬液)は今や混じりあう。さあ、彼らは終わった。お前はマパンデを持ってくる。キザの中に入っている。それを乳香にかざす。」この念の入った洗い方--子供を両親の股の間から取り出して見せるのは出産の模倣であるようにも見える--もMb老人独特とは言えないまでも珍しいやり方である。男性と右、女性と左との結び付きが繰り返し用いられている。しかし施術師が誰であろうとも、キルワ治療の基本はキザの薬液で子供を洗ってやること、マパンデを身につけさせてやることである。マパンデの装着についても施術師によっては腰だけではなく、男の子の場合には右腕、女の子の場合には左腕にという具合に、腕にも付けてやる場合がある。

薬液キザに入れる植物にも施術師によっていくらか違いがあるが、一般に「冷たい木」の何種類かと「キルワの木(mihi ya chirwa)」として知られている何種類かの木が用いられている。上で別々に言及されているカクァジュ、カキルワ、ガンジはいずれも「キルワの木」の一種である。上のいくつかの発言の中には出てきていないがムトゥンドゥクラ(mutundukula)--「発育する(ku-kula)」という動詞との結び付きを誰もが指摘する--も「キルワの木」として広く用いられている。ガンジは、ずっしりと丸々した外見をもつサボテンの一種で、子供を太らせるという明示的な目的のために用いられる。この木を用いる際には頭ばかりが不釣り合いに大きくなることのないように、薬液が頭に触れないようにせねばならない。その太い幹で知られるムユ(muyu バオバブ)も同様である。施術師の中には、ガンジやムユの使用をきらう者もいる。

キルワの治療は、子供の発育を目的とした何の変哲もない治療であるように見える。しかしこの無邪気な外見とは裏腹の、重大な操作がそこに含まれていることは子供をもった経験のある多くの人が知っている。そもそもキルワを予防する、あるいは治療するということは何を意味しているのであろうか。それは子供が受けた両親の不適切な性行為の影響をキャンセルすること、あるいはそうした影響を受けないようにすることであろう。しかしそんなことができるのだろうか。実はキルワの治療は、それを思いがけない方法でなしとげようとしている。キルワの治療に際しての唱えごと--上でその断片が言及されているが--は、治療が行なおうとしている操作の目的を実に正直に述べている。「父が一人しかいない子供はもういない。母が一人しかいない子供はもういない。」つまり、子どもは自分を生んでくれた特定の父親、特定の母親との結び付きを断ち切られ、複数の父親と複数の母親をもつ存在へ--誰が本当の父親で誰が本当の母親であるかわからないような存在へ--と変えられるのである。ある施術師はマパンデを乳香で燻しながらこう唱えている。「子供は石の体。子供は石のように重い。子供はガンジのように重い。子供にはキルワはない。...子供に一人の特定の父はなく、一人の特定の母もない(kana abaye mumwenga, kana ameye mumwenga.)。やってきて行為(性交)に及ぶ者だれもが父、やってきて行為に及ぶ者だれもが母。子供はもはや父親に追い越されることはない。子供はもはや母親に追い越されることはない。子供はブッシュの獣の仔。子供はニワトリの雛。子供はヤギの仔。キルワはない。ニワトリはその母親と交わる。ニワトリは自分の兄弟姉妹と交わる。ニワトリは自分の父と交わる。それでいて子供を産んで、キルワはない。ヤギはその母親と交わる。ヤギは自分の兄弟姉妹と交わる。ヤギは自分の父親と交わる。それでいて子供を産んで、キルワはない。今、私はこの子を『外に出し』ブッシュの獣の仔のように置く。」

両親の不適切な性行為の影響を受けないように、その子を生んだ特定の父親と母親から切り離すという操作なのであるが、それが「外に出す」という比喩的な言い方で語られていることは、それが一連の論考で論じてきた一群の比喩の系列に属している操作であることをはっきりと示している。子供は「産む」操作によってそうされるように屋敷の中にきちんと置かれるのではなく、「外」つまりまぜこぜが支配するブッシュに、あたかもそこで性的放縦をむさぼる獣の仔であるかのように置かれるというのである。しかしそれが子供を屋敷の「問題(maneno)」の影響から自由にする。ある男(施術師ではない)はキルワの治療の目的を端的に「外に置く」ことであると語っている。「そう。その子が捕えられないようにと。つまりまるでその子には父親がいないかのように置くことになる(undamwika dzakp'amba kana abaye yuyatu.)。(問い:父親が自分のしたいことができるようにと?)そうとも。その子には一人の特定の父親はなく、一人の特定の母親もない、そんなふうにその子を置くのさ。つまり、その子をただ『外』に置くのさ。」

別の説明はより直截的である。「そうそう。子供をお前の体から出してしまうだけ(unamulavya tu muratu mwirini.)。体の中にいることの『よごれ(nongo)』を外に出す(註4)。その子はまるで余所の子供(mwana mujeni)のようになるだろう。そんなわけでその子は(キルワに)捕えられない。そうしておいて、薬(muhaso)--ここではマパンデのことを指している(筆者註)--がその子には与えられる。薬にその子を守らせる。子供は治るとも。すっかりよくなる。何の問題もない。問題はもうすべて立ち去ってしまった。さあ、そうなるとその子を父親と母親に戻してあげるだろう(vivi yundaudzirwa ameye na abaye.)。(問い:さあ、その子を『産』んでやろうと?)そう。今度はその子を『産む』ことになる。」 比喩的な語り口は一貫している。子供は「産む」ことを通して屋敷にきちんと置くべきである。しかしそれがうまくいかないときには、まさに「産まずにただ持ち込むくらいなら外に置いておいたほうがまし」--この言い方自体は「産む」ことの必要性を強調しているのだが--という作戦を地で行くことになる。子供の屋敷への編入そのものをいったん中止して、子供を屋敷の「外」に置き、編入の失敗がもたらす影響が子供に及ばないようにするのだ。言うまでもないことだが、ここで「外」、「屋敷の外」といっても現実の空間のことが指されているわけではない。「外に出す」ことは、「産む」こと、屋敷の中にきちんと「置く」ことのちょうど裏返しにあたるような比喩的表現である。最後の証言は、キルワの治療におけるこの操作が一時的な操作であることを示唆している。問題が過ぎると、子供は屋敷の中にきちんと「産」んでもらうことになる。この操作は、出生後から両親によって正式に「産」んでもらうまでの、子供がもっとも「追い越」されやすい期間のための安全措置であるように見える。この期間子供を屋敷内部の序列づけられた関係の「外」においておけば、少なくとも屋敷内部の問題--両親や「取りあげ女」の不適切な性関係--によって影響されることはないであろうという訳である。まるで屋敷の内部の方が「外」のブッシュよりも危険だ--もちろん人々自身の不適切な性関係のせいなのではあるが--とでも言っているかのように見える。

「外に出す」処理が恒久的に行なわれる場合がある。例えば女性が出産に際して死亡し、子供だけが無事であったという場合、産まれてきたその子どもは「産」んでもらえないのだという意見がある。この場合には、死亡した妻を外部の任意の女性で代替することはできない。夫に他に妻がいても彼女を相手にその子を「産」む訳にもいかない。いずれもその子をキルワにしてしまうからだという(註5)。「その子は『縛ってもらう(ku-fungirwa)』のさ。生後すぐにキルワのマパンデでね。腰のところと腕のところ。(問い:『追い越』されないように?)つまりその子は外にいる(yu konze)。屋敷にいるわけではない(sikp'amba kahi u mudzini)。(問い:そうすれば父親の方は何をしてもよいと?)何でもするがいいさ。だってその子は、外にいることになるからね。外に出されてしまっている(udzilaviwa kamare)。ずっとそこ(外)にいる(u phapho tu)。お前はその子をちょうどニワトリの雛のように、ブッシュの獣の仔のようにしたんだ。あいつらはキルワにはかからないからね。キルワの施術師が、唱えごとをするときに、こんな風に言うじゃないか。『わき腹にあるようなヴァギナはない。わき腹にあるようなペニスはない。ヴァギナはこれ一つ。ペニスはこれ一つ。そんなわけでこの子に一人の特定の父はいない。私はこの子を外に出した。この子は外にいる。』ってね。(註6)」

しかし「外=ブッシュ」はもともと「火」と「事故」に結びついた危険な場所ではなかっただろうか。だからこそ屋敷にきちんと「置」いて保護する必要があったのではなかっただろうか。こんな風に「外」にいる子供は、守られていないのではないだろうか。何か他の問題が生じたりはしないのだろうか。他の子供たちと同じように成長していくのだろうか。「成長していくとも。(問い:外に出されても、何の問題もないと?)ああ、何も心配はない。その子には何も欠けるところはない(kana kasoro rorosi)。(問い:でも保護されていないのでは?)だってちゃんとマパンデを身につけているじゃないかい。でも私自身の個人的な意見として(chivyangu)は、今日にいたるまで子供を産んで、一人として子供を外に出したことなんかないね。とんでもない。父も母もないような子供にするなんて(akale kana abaye na kana ameye)!私はいやだね。」「外」に出されているといっても単に無防備で危険な外部に放置されているということではなく、薬(muhaso)による保護を受けている。ここではマパンデがその保護を与えているというのである。

しかしもし「外に出す」処方が、それほど完璧に「外」に置いた子供を保護し、なおかつ「外」にいるおかげで屋敷内にいればこうむったであろう両親の不適切な性行為の影響からも子供を自由にしてくれるというのなら、キルワの治療や予防のみに、あるいは上の産婦が死亡した例のような特別なケースにその治療を限定する必要が本当にあるのだろうか。浮気好きな者が、自分の振る舞いのせいで子供の健康が害されることがないようにと、進んで子供を「外に出」そうとすることがあっても不思議はないように思える。それは一つの抗いがたい誘惑である。「そう子供を外に出してしまえば、子供は外にいる。子供にやっかいが起ることはない(kayugika)。なんでもやりたいことができる(gondofanyika gosini ganafanyika)。それでいてその子がキルワに捕えられることはない。(問い:ということは『外』に出す方がよりよいということにはならないですか?)そう、よりよい(chividzo zaidi)。でも私自身はいやだ。私は自分自身で保護する(kudzirinda mwenye)とわかっているから。自分で壊したりできないと知っているから(ninamanya tsidima kubananga)。そうとも私は壊さない。でも子供は外に出されれば、その後は健康だ。」

「外に出す」という操作は、屋敷内部の序列と安全と豊穣性についての一連の語り口自体が開いている可能性である。しかしそれは明らかに「産む」ことを中心とする屋敷の秩序づけられた内的世界の安全さと完全さを顕彰する語り口とは反対の方向、まさに秩序づけられた世界の外、放縦なブッシュの世界の魅惑の方向を向いてしまっているのである。秩序の中に留まろうとする方がさまざまなやっかいごとをもたらすことがある。子供のキルワの危険もまさにその一つである。そうしたときに、人は秩序に留まり続けるやっかいさを、投げ出したくなるのかもしれない。「外に出す」という操作はそれを現実的な選択肢として示してしまっている。それはまさに「外」への誘惑なのである。子供の場合、「外に出す」という操作は子供がかかってしまったキルワに対する治療として、あるいはその予防として、正式に両親によって「産」んでもらえるまでの一時的措置としてのみ容認されているように見える。そうでない場合「外に出す」ことについての語りには、上の発言にも見て取れるように、いくらか非難のニュアンスがある。しかし家畜については、それは家畜の群れを管理する現実的な技術の一つであるかのように語られることがある。

家畜を「外に出す」こと

子供と同様に家畜も「追い越」されうる。また前章で述べたように、きちんと「産」んだ後になっても所有者の「外」での性関係によって健康を害したり、豊穣性がそこなわれたり、あるいは肉の味が落ちたりするとされている。家畜の場合は、これらすべてがキルワとして語られることも多い。そしてまた家畜の場合は、それを「外に出し」てしまうこともはるかに一般的に行なわれている慣行である。

家畜を「産む」ことは群れを所有する上で不可欠の手続きである。「『産』まずにおけば、それらはお前のものにはならない。だってそいつらはそいつらがやってきた場所のマトゥミアをもっているだろうから。そいつらがやってきた場所の『よごれ』を外に出して、お前の体の中にそいつらを置かなければならない。」さらに、すでに述べたように「産」まずにおけばそれらは「遺産のウシ」がしばしばそうなってしまうように、死に始めると一気に群れ全体が死んでしまうだろうという。保護されていないからである。しかし問題は、そうして「産」んだ後にも家畜は所有者の不適切な性的行為によって影響を受けてしまうということだ。「というわけで『産』んだ方がもちろんよい。しかしそれで終りではない。『産』んだ後でもそれらは捕えられる。もしお前が外で行為(性交)に及ぶとね。でもその捕え方はゆっくりしている(zigb'irwa porepore)。突然捕えられて、すっかり全部死んでしまうなどとは言わないよ。いやいや。でもお前はウシの健康状態があまりよくないのを見ることになるだろう。そんなわけで、人々の中にはウシを『外に出』してしまう(analavya ng'ombe konze)者がいる。彼は自分のことが信用できないんだ(kadzamini yiye)。いったん『産』んでおいて、その後で『外に出す』。」子供の場合と異なり家畜を「外に出す」のは、もっぱら正式に「産」んだ後の操作であるということになる(註7)。

「外に出す」施術は、ウシをクブォリョーリャ(ku-phoryorya)する施術とも呼ばれているが、クブォリョーリャという言葉が人間については近親相姦的な性関係によってもたらされた「まぜこぜ」に対する治療を指す言葉でもあったことを考えると、やや奇妙な感じもする。しかし前章でも触れたように、家畜のキルワがしばしば「まぜこぜ(maphityo)」や「マクシェクシェ(makushekushe)」という言葉によって語られていることも事実である。家畜のキルワを家畜のキティーヨ(chitiyo)--「まぜこぜ」によって引き起こされる災いがキティーヨと呼ばれることを思いだそう--という言い方もある。人間の場合、キルワの治療がクブォリョーリャと呼ばれることはなく、また実際、子供のキルワの治療に用いられる植物の種類はクブォリョーリャに用いるものとはまったく異なっている。これに対して家畜のキルワの治療に用いられる薬液の成分は、ングンドゥ・キゼカを含む何種類かの「冷たい木」と「キティーヨの木」、乾燥させたヒツジの第三胃などからなり、「冷やし」の施術や「まぜこぜ」を治療するクブォリョーリャに用いられる薬液と共通性がある。家畜のクブォリョーリャの施術に際しては、これらの薬液の成分はまだ変声期に達していない子供によって臼でついて砕かれたものでなければならない(註8)。施術師はこの薬液を家畜囲い(chaa)に振り撒き、別に用意した特別な薬--その成分については施術師ごとの独自性が発揮される--を家畜囲いの入り口の柱の両側に埋める。この埋設薬(fingo)を据えるという点で、それはある種の妖術に対する防御治療にも類似している。「『外に出す』というのは、ウシたちのために見張り(あるいは保護者 murinziwe)を置いてやるということだ。」家畜が放牧に出ている間に、所有者が不適切な性行為を行ない、家畜より先に帰ってきていても、家畜囲いの入り口の両側に埋められたこの薬が家畜が病気になるのを防いでくれる。この施術の後、所有者夫婦は性関係を慎まねばならない。そして施術を受けた家畜たち自身が「マトゥミアを済ませ」るのを確認した後、性関係を再開することができるのだという。「その施術が行なわれた日、あんたたちは何も(性交を)してはならない。そう。夜が明けるまで眠りなさい。ヤギを放置して、あんたたちはそいつらを眺めている。そいつらが終わってしまう(性交をする)のを見届けるまでね。さてさて、今度はあんたたちがするべきこと(マトゥミア)をする。そうとも、施術をしてもらったら、ヤギたちが先に始めるまで、あんたたちはしてはいけないんだよ。」

家畜を「外に出す」第一の理由が所有者たちの好色にあることははっきりしている。「そうとも、お前は『外に出す』。だってたぶんお前は好色者(muzembe)で、あちこちうろつき回る者(mwenenzi)だから。それ(『外に出す』こと)はそういったうろつき回る連中がすることなんだよ。」しかし家畜を「外に出す」ことの利点は誰にとっても大きい。「外に出す」ことによって、家畜が所有者の「外」での振る舞いによって影響されることもなくなり、つねに健康で、乳の出もよく、多くの子供を出産するというのであるから。子供の場合と同様に「外に置く」ということは、保護なくただ「外」にいるという状態にすることではない。所有者によって守られる代りに、「薬(muhaso)」によって守られるということである。そしてその効果はてきめんであるという。「さあ、それらのングンドゥ(ng'undu 植物の名)といったら。そうともそうとも。たちどころに不思議(vyama)を見るだろうさ。さあ、ごらん。不妊のヤギがたちどころに孕む。つぎつぎに。産まれてくる子供も元気。雄ヤギがいる訳でもないのに、雌ヤギたちが一斉に孕むといった具合。」もっともこれは施術師が自分の「薬」の効き目について語っている言葉であるから、宣伝という側面を差し引かねばならないだろう。こうした宣伝が効いているという訳でもあるまいが、私が知る限り、実際大きな家畜の群れの所有者のほとんどが、自分たちの群れを「外」に出している。彼らにとってはこれは群れの経営上のごく普通の処置と見える。

一方「外に出す」ことに大きな抵抗を覚えている人々もいる。ある女性は自分たちがヤギの群れを「外に出す」ことになった経緯を次のように語っている。
夫と二人で一頭の雌ヤギを飼うことから始めた彼女たちの群れは、数年のうちに順調にに大きくなってきていた。彼女の夫が浮気を始めるまでは、というのがこの女性の言い分である。「そう、突然ヤギたちが下痢を始めたんだよ。そして流産。孕んでは流産。孕んでは流産。(問い:で、外に出したほうがよかろうと?)ええ。私は言ったよ。『もう二度とヤギなんか買うもんですか、二度とヤギなんか買うもんですか。』ってね。私は腹を立てた。で言った。『二度と買うもんですか』(問い:あなたは自分のせいじゃないとわかっていたんですね?)そうだよ。私は自分に自信があったとも。だっておかしいじゃないか。あいつ(彼女の夫)が放牧に連れ出したら、さ、そこで何をしたんだか、そのときに限ってヤギの状態がそれはそれはひどくなるんだからね。ああ。『施術師を呼んでよ。外に出してもらってよ。だってあんたその手でヤギを触るつもりでしょう。』というわけでヤギはChさんによって『外に出』してもらった。私たちは言われたわ。『あんたたち、まずニワトリたち自身が(性交を)開始するまでは、何もしてはいけないよ。それがたとえあさってになろうとも。』そう私たちは実際ニワトリをずっと見ていたもんさ(爆笑)。ずっと見守っていてオンドリがついにことに及んだ。さてさて!小屋の戸口のところには『もの(utu)』が埋められた。お前さんがどこへなりと行って(性関係をもち)帰ってきても、そこを踏めば大丈夫という『もの』。(問い:埋設薬(fingo)ですね。)そう。さらにあたりに振り撒く薬液。3日間それを振り撒け。三夜、振り撒いて、振り撒いて、振り撒いて。だってヤギたちは外の、ブッシュの『火』のなかで寝るんだからね。そんな風に私のヤギたちは外に出されたのさ。でまた少しずつ増えてきている。」おそらく夫のほうにも少しは身に覚えがあったのであろう。彼女にとって自分たちのヤギを外に出すことは、夫の浮気の結果やむなく強いられた措置であった。

夫の浮気にうんざりしている別の女性は、婚出した娘の婚資のヤギを自分の一存で外に出してもらおうと思っている。「私のところに一頭、昨夜から、気がついたら一頭元気なく寝そべっていて、見ると便がフャラフャラ(下痢便の様子)。(問い:下痢を始めたと?)下痢が始まった(註9)。おまけにそいつは娘の婚資の手付けのヤギなのよ。(問い:たぶん、あなたがたが婚資に過ちを犯したと?)ああ、私はだまって施術師を探してくることにしましょう。治療してもらうために。人(夫)に問いただしたりはしますまい。私が問題(夫の浮気に関する)に触れはじめると猛然と怒り出す人なのよ。」

家畜を「外に出す」という施術は、ある人々にとっては少なくとも単に家畜にとってよいことであるという理由だけから進んでやるような施術ではないようである。ある男は冗談めかして次のように語っている。「という訳で、家畜を外に出すことは、ただ産んだだけよりいいことだ(ni kudzo zaidi)。でも厄介な(chikala kunayuga)ことでもある。(問い:どう厄介だと?)だってお前さん、ぜんぜん我慢しようとしなくなるだろう(undakala kundavumirira)(笑)」ある意味でまるで浮気のすすめのような施術なのである。

「ムラー(mulaa)」の施術

キルワの治療における中心的な操作である「外に出す」ことは、屋敷内部の序列の秩序とそれを維持しようとするあらゆる努力そのもの--豊穣性がその賭金となっている--を嘲笑うかのような含意をもっていることがわかる。外部の性にたいする欲望をおさえ、秩序だった夫婦の性に努力して踏み止まらなくても、もっと確実に豊穣性を手に入れることができるのだ--しかも自由に外の性を享受しながら--とそれは仄めかしている。それはほとんど社会に対する陰微な反抗すれすれである。私は一人の女性の施術師の口からそのもっともあからさまであると同時に、きわめて極端な表明を耳にした。その女性--仮りにナヅアと呼んでおこう--は、私が人々の話を聞いてまわる主な舞台としていた3地域とは異なる、タンザニアの国境に近いあるラロに住んでいる女施術師であった。キルワの治療と「まぜこぜ」の治療を行なう評判の高い施術師であると紹介された。長々とした互いの自己紹介の過程で、私の友人であり調査協力者であったカタナ氏と彼女との間に祖母/孫息子の関係を辿ることができること--祖母/孫息子は冗談関係にあり、遠慮なくいかなる話題でも口にすることができる--が判明し、彼女のおそらくは開けっ広げな性格も味方して、彼女とのこの時一回きりの談話--1993年の12月29日のことだった--のひとときは、当初には予測もしていなかったさまざまな話題で盛り上がることになった。インタビューは、マブィンガーニについて、クブォリョーリャのやり方、屋敷の「冷」やし方、「死を投げ棄てる」こと、キルワなど彼女が得意とする施術に関連するさまざまな話題--その内容についてその頃には私の方でもすっかり予想がついてしまうような話題--についてのもので、一応の確認程度の意味しか最初は期待されていなかったのだが。

『産む』ことがすべての間違いのもと

話が最初に奇妙な方向に発展し始めたのは、家畜を「追い越す」とはどうすることなのか、家畜のキルワとは何か、これらについてすでに知っている説明がひとしきり終わったあとのことであった。ナヅアは家畜を「産」もうなどとすることがそもそも間違いなのだと言い出したのである。

「お前さんがヤギを買ったとする。それを連れて家まで帰ってくる。家につくとお前の妻を相手にそれを『産む』。『産』まないなんてことがある?さあ、それらのヤギはそんな風にしてお前の子供のようになる。」
(質問者A:それらのヤギがですか?)
「さあ、何のようになる?」
(質問者A:お前の子供のようになる。)
「そうとも。さてさて、そこが間違いのもとなんだよ。そこが病気(phakongo phapho)なんだよ。だって、あんたは『外』へ出て、他人の妻と寝ることになるだろうからさ。わかる?」
(質問者B:そいつらを「追い越」したことになる?)
(質問者A:ヤギたちを。)
「お前が何をしてしまったかって?お前はヤギたちに過ちをもたらした。マコソだ。ヤギが死んで、それを見ると皮膚は水泡だらけ。でお前は言われるのさ。『ああ、あいつと来たら家畜もろくに飼えないやつだ。』家畜もろくに飼えないってどういうこと?ヤギが死んでも、それは食用にもできないってことさ。マコソだよ。お前自身が間違いをおこしたんだよ。」
(質問者B:ああ、なるほど。人々がこんな風に言うのを聞いたことがあるよ。『ああ、これらのヤギは痩せ細って、食いもできまい。所有者はきっと好き者(adiya)なんだろうよ。』)
「そう。まさにそれだよ。」

婚外の性関係が家畜に害を及ぼすという話自体は、もう飽きるほど聞いている。しかし彼女が本当に言いたいのは、悪いのは婚外の性関係ではなく、そもそも家畜を産んだこと自体が間違っているということらしい。それはすぐに明らかになる。

(質問者B:じゃ、お祖母さん、ヤギを買って、それが健康な体をしているようにするには、何をしたらいいんですか。そして...)
「しちゃあいけないんだよ。しちゃあいけないんだよ。」
(質問者A:「外で寝」てはいけないと?)
「小屋の中でしちゃあいけないんだよ。ヤギを買うだけ。買って連れてくるだけ。」
(質問者B:ええっ?それを「産」むなと?)
「そうとも。ヤギをそんな風に買ったとする。さあ行くところに行きな。家に帰ってヤギをつなぐ。お前はとっとと別の人妻のところへでも行くがいいさ。だって、このヤギをお前は『産』んじゃいないんだから、それを駄目にすることもない訳さ。」
(質問者B:じゃ、ヤギを買って、それを妻を相手に「産」んだら?)
「お前はヤギを駄目にしてしまったことになる。」
(質問者B:なんと!)

彼女ナヅアは、「産むこと」に通常与えられている価値をあっさり引っくり返している。「産」んだばっかりに、「外」での性によって家畜に害が及ぶのだ。とするとそもそもの災いの源は「産」んだこと自体にあるということにはならないだろうか。なるほどそうも言えるかもしれない。しかしこれは「産むこと」をめぐっていつも聞かされていた話とは明らかに逆を向いてしまっている。おまけに、「産」む前に、つまり「産」まずに屋敷内に持ち込んだだけの状態で、「外」で性関係をもつことの方がはるかに深刻な「追い越し」ではなかっただろうか。

(質問者A:でも、ヤギを買って、それを妻を相手に「産」む前に、「外の妻」と寝てしまうと、それこそヤギを「追い越」してしまうのでは?)
「お前はこの『外へ出る』ピングのお守り(pingu za kulaa)--ピングとは「薬(muhaso)」を包んだ布を糸でしっかりと小球状に縫い込んだもので、糸を通して体の関節部などに身につける(筆者註)--を身につけていなければならない。で、お前の行きたいところへ行く。こっちでは子供たちは健康そのもの。」
(質問者A:よくわかりません。)
「ちゃんと『薬(muhaso)』を使うんだよ。」

「外へ出る」お守りという言葉が用いられているが、質問者たちはそれを聞き逃しているか、あるいはその意味をとりきれていない。「産む」かわりに、それに代わる何かの施術を行なえということであろうと見当をつけている。

(質問者B:施術師を頼むと?)
「そうとも。お前は施術師を頼む。何をする施術師だって?ええ?『ヤギが壊された。施術師に来てもらって、ヤギをお前の体のなかからすっかり出してしまってもらわなければ。』わかる?お前が何をしてしまったせいだと思う?お前はウトゥミア(『産む』作業)を済ませてしまった。だからこうなることはわかっていたんだよ。施術師にヤギを『外』に出してもらおう。そのための『薬』がある。6日間、振り撒き続ける。毎日。夜が明けると撒く。朝にも、そして晩にも撒く。なぜなら、ヤギたちを冷やさねばならない。こうして『薬』の持ち主(施術師)がヤギをすっかり『外』に出してくれた。もうお前の中にもいないし、お前の妻の中にもいない。さあ、お前はお前のヤギがすくすくと健康に育つのをながめなさい。メー、メーだ。すくすくと育つ。丸々と太る。」

なんのことはない。これは家畜を「外に出す」施術、クブォリョーリャである。彼女が示唆しているのは「薬(muhaso)」による解決である。「外」に出した家畜は「外」の「火」から、屋敷の中にきちんと「置」かれていることによって守られる代わりに、「薬」の力によって守られることになる。結局「外」に出すことになるのなら、「産む」ことは単に余計な手続きであるということになる。最初から「薬」に守らせるようにしておけばよい。彼女が勧めているのはこれであるようにも見える(註10)。しかし単にそれだけのことだろうか。

(質問者A:ヤギをクブォリョーリャする施術ですね。)
(質問者B:産まずにクブォリョーリャしろ。)
「そう、ヤギをクブォリョーリャしなさい。だけどお前は知らないだろうよ。ヤギたちがクブォリョーリャされ、『薬』をとりつけられた。お前は(薬液を)撒く。そうだろう?でもね、実は撒いているそのお前自身が、『外』に出されているのさ。」
(質問者B:ええっ?(薬液を)撒くお前自身が?)
「そうお前自身がね。」

ナヅアは単に家畜を「外に出す」のではなく、所有者自身を「外に出」してしまう施術について語っている。我々にとって初耳なのはこの考え方だ。

(質問者B:お前が外に出されてしまう?お前はもう中にいない?なんと施術師たちはおそろしい。人を外に出してしまって、もはや中にいなくしてしまうなんて(kumulavya mutu ta akale kamo)!)
「お前の妻もいっしょにね。だって、お前さんたちは外に恋人がいる。でもお前さんたちの財産は順調に増えていく。」
(質問者A:よくわかりません。)
(質問者B:ものを買ったとしても、それを産んではならない。産んで、それが壊れるのを待て、それから外へ出してもらえ、などとは言わない。お前の方で、最初からそれを外へ出してもらってしまえ。薬で。)
(質問者A:うーむ。)
(質問者B:つまり「産む」前に、「産」まずに、それらを「外へ出」してしまえば、ヤギたちはもう心配ない。お前も禁欲しない(kuvumirira)。お前は「薬」をもっている。ヤギも「薬」をもっている。)
「そのとおり。」

この時点では、少なくとも質問者Aはナヅアのあまりにも突飛に見える思考についていけないでいる。ナヅアの説では、この薬は家畜を外に出すだけではなく、その所有者をも「外」に出してしまう。それが彼らに性的な自由を与えるというのである。質問者Bの方は一応理解を示している。しかし質問者Aに対して彼が行なっている解説は、単なる家畜を「外に出す」ことの説明にしかなっていない。

「まぜこぜ」の予防

子供や家畜を「外」に置いておくことによって屋敷内の人々の不適切な性関係の影響がそれに及ぶことを防ぐことが出来る。とするならば、当事者たち自らが「外」に出てしまうことによって、彼らの不適切な性行為が屋敷の他の人々の豊穣性に影響を及ぼすこともなくなるのではないだろうか。ナヅアの語りがまさに解き放とうとしているのはこうした想像の可能性である。家畜を「外に出す」施術は実際には家畜の所有者たちを「外」に出す施術なのだという彼女の主張は、単なる憶測ではない。ナヅア自身、家畜や子供のキルワを治療する施術師であるという事実を忘れてはならない。彼女が明かすことは、少なくとも彼女が行なう施術にとっては真実であると考えないわけにはいかない。

話題の方はこの後、クブォリョーリャという言葉をきっかけに屋敷内の「まぜこぜ」、マブィンガーニ、マブィティヨ、マコソ、マクシェクシェなどの言葉についての細かい質疑応答と説明に移っていった。どのような関係が「まぜこぜ」をもたらすのか、その結果のキティーヨはどのように人をとらえるか、そして彼女自身の仕事でもある「まぜこぜ」を治療する施術クブォリョーリャは具体的にはどんな手順を踏んで行なわれるか、こういったお馴染の話題である。がここでも再び話は「外」への想像力の軸にそってよじれ始める。ナヅアは「まぜこぜ」を引き起こす近親相姦的な性関係をおこなっても、それがもたらす災いから免れるすべがあるなどと言い始めたのである。そんな話は初耳である。子供がキルワにかからないようにと浮気に出ようとする男が自らに施す防御法についてはたしかに聞いたことがあった。しかしマブィンガーニをまえもって回避する予防法など誰からも聞いたことはなかった。ナヅアによると、それは隣接する集団であるギリアマ起源のやり方である。ギリアマの人々は--彼女の話では--「まぜこぜ」の問題に無頓着であるが、それはそれに対する対処が行き渡っているからである。

「(「まぜこぜ」に関する)すべての事柄はギリアマからやってきた。」
(質問者A:ギリアマからやってきた。)
「あいつらギリアマ人たちときたら、娘が婚礼でもらわれていくとき、娘を祝福するとき、こんな風に言ったもんだ。『とっとと行くがいい。行った先でお前の夫の兄弟がお前を好いてしまうかもしれないよ、娘よ。そんな場合は、あげてしまいなさい。困るのはあいつらだけだ(Andamanya enye)。』」
(質問者A:うーむ。)
「そうともさ。」
(質問者B:彼らはそんな風に語り合う。どうなろうとぜんぜん気にもとめない。)
「さてさて、彼女はこれから夫のもとへ行く。そのときにこんな風に言われる。『娘よ、一本のヤシの木(からとれる酒)ではカザマの瓢箪はいっぱいにできないよ。お前が行った先の屋敷で、そこに着いたら、お前の夫の兄弟がいてお前を欲しがる。彼に(酒を)注いであげるがいい。あとで思い知るのはあいつらだ。』」
(質問者B:なんと!)
(質問者A:『一本のヤシの木ではカザマの瓢箪はいっぱいにできない』この言葉の意味はなんですか?)
「夫一人では充分じゃないってことさ。」
(質問者A:うーむ。)
「なんと、ごらん。彼らはどんな風に処置して、どんな風に治るか知っているんだよ。丸太をね、こんな風に戸口のところに横にして置く。そう、あれ、あの小さい丸太棒みたいなものだよ。それをあそこの戸口のところに横たえておく。それをまたげば、問題はそこに置き去りになる。お前は小屋の中に入る。そこから出てくると、問題はそこに置き去りになる。小屋に入ったり、出たりする度に。この丸太棒をね。」
(質問者A:まだよくわかりません。)
(質問者B:私もよくわからない。つまり彼らは棒を置くと?)

話がよく見えてこない。ナヅアは根気よく、どうなると「まぜこぜ」になるのかの例を挙げるところから始める。本来ならおそろしい結果をもたらすはずの、その関係が、ギリアマ起源のこの対処法でまったく無害なものになるというのである。

「例えば男が自分の姉妹と寝てしまうとする。おまけに、そんなふうにしてその女性を妊娠させてしまう。例えばお前が、嫁いでいったお前のあの妹と寝てしまう。」
(質問者B:私が?)
「そう、たとえばツマ(仮名)と結婚したあの女の子と。彼女、お前の妹だろう?」
(質問者B:ふむふむ。)
「お前は両親のところへ行って、告白する。『ああ、この私の妹。いったいどう出産すればよいというのでしょう。だって彼女の相手は私なんです。』さてさて、これこそマコソじゃないかい。お前は言われることになる。『マコソだ。まぜこぜだ。』」
(質問者B:うーむ。)
「というわけでムブィンガーニ(muphingani)という名前の木がある。」
(質問者B:ムブィンガーニと呼ばれる木がある?)
(質問者A:ムブィンガーニ--明らかに「まぜこぜ=マブィンガーニ(maphingani)」という言葉に関係がある(筆者註)--という名前の特別な木がある?)
「なんともはしたない名前だね。大きな間違い(ukosa ubomu)をね、さてさてこのムブィンガーニは実際、その大きな間違いを食い止める(ku-chingamiza)のさ。おまえはそれでこんな風に戸口のところを塞い(ku-chingamiza)ておく。自分で切ってきて、置いておく。本人がね。いったい何をしようとして?彼は自分がだれそれと寝るつもりでいるということを知っている。」
(質問者B:『自分は自分の姉妹のだれそれと寝るんだ』とわかっている。)
「そう。お前はそれを大きめに切って、やってきて戸口のところに横にしておく。誰が見ても(腰掛けるための)丸太にしか見えない。ただの丸太にしか見えない。さてお前は通るときそれをまたいでいく。お前の姉妹は妊娠し、子供を無事に出産する。何の問題もない。」
(質問者B:なんとね。これがムブィンガーニですか。)
(質問者A:この木の処方には施術師は必要ないんですか?)
「必要ない。お前自身が施術師さ。自分でムブィンガーニを切ってきて、戸口のところに置いておく。」
(質問者B:入ってくるもの誰でも...)
「自分のマブィンガーニ(「まぜこぜ」)をそこに置き去りにしていく。」
(質問者A:出ていくときには?)
「お前のマブィンガーニは、そこに捨てられていく。どこか外で何かをしでかして、それ(マブィンガーニ)をもったまま帰ってきたとしても、それはそこで(丸太をまたぐときに)消し去られる。小屋の中でことをしでかし、それをもったまま小屋から出てこい。そこを通るとき、それは消し去られる。」
(質問者A:その戸口のところで。その丸太のところで。)
(質問者B:なんとね!)
「そこを跨いでいくとき、木(丸太)にむかってこう唱える。『ことをしでかしたのはペニスとヴァギナだ(mbolo na njini ndio afanyao gago)。いったい誰が捕えられよう(agb'irwa ano ani?)。私はそこにいない(phapha tsipho)。』そう言って、入っていくのさ。」

ムブィンガーニと呼ばれる木を丸太にして置いておくと、そこを跨ぐ都度、「まぜこぜ」は取り除かれるという。しかし丸太に対する唱えごとの文句は、再び「外に出る」というテーマを反復しているようだ。不適切な行為が行なわれるとき、それを行なっている当人が「そこにはいない」というのであるから。

近親相姦的な性関係を結ぶ二人が近所や同じ屋敷内に住んでいるならばともかく、互いに遠方にすんでいて稀にしか顔を合わさない場合、丸太を切り出して小屋の前に置くのはいかにも無理に思える。例えば、兄が遠方に嫁いだ姉妹のところへ行って、その小屋の前に切り出してきた丸太をさりげなく置いたりはできまい。すぐに見とがめられるだろう。この質問に対してナヅアは、そのような場合にはそれぞれがピング(pingu)やパンデ(pande)を身につけるようにすれば良いとこともなげに答える。

「ピングを、本物のピングをお前はもっていなければならない。あるいはパンデ。『小さい槌(chinyundo)』というのはこのパンデのことだよ。お前、自分はだれそれと寝るつもりでいる。そんなお前が、知識ある施術師のところへ行ってこしらえてもらう。さて相手の女のところへ行って『お前、今までに治療をうけて、いくつピングをもってる?』『ああ、これだけよ。』さて、彼女に(他の病気の治療に際して処方されて身につけているすでにもっているピングを)一個捨てさせる。そして代りにお前がもってきたピングを身につけさせる。彼女にそんなふうにピングを身につけさせ、あるいはパンデをつけさせる。お前の方でもピング。それでおしまい。お前は自由に出入りする。」

ムラーの施術:お前自身を「外に出す」こと

クブォリョーリャに用いられる「キティーヨの木」の種類は多い。それらの木を「買う(ku-gula)」、つまりその知識を手にいれ、その木を用いて施術できるようになるには、両親が存命であってはならない。それくらい「難しい(ukomu)」つまり扱いの危険な木なのである。それは施術師の配偶者に死をもたらしうると言われている。両親のいずれかを失った者だけが、安全にそれらの木を示してもらう(ku-onyeswa)ことができる。彼女がここで明かしたムブィンガーニの木は、そうした手続きでも普通は示してもらえない木なのだと彼女は主張する。上で述べたピングの材料になるのもこの木である。

「さてさて、これこそキティーヨの木そのもの、究極の(wa mwisho)キティーヨの木。それを切ってあの丸太にしたり、根を削ってパンデにしたり、ピングをこしらえたりする木はこれだ。その葉は黒くて、いつもてかてかしている。乾季のさかりでも、そこへ行くと、葉が黒々としている。」
(質問者A:なるほど、それがピングの材料ですか。)
「そうとも。それにヤギのペニス(註11)。」
(質問者B:なんと!)
「さあ、さあ。ちゃんと聞いているかい。」
(質問者A:はいはい、ちゃんと聞いていますとも。)
「ヤギのペニス。あんた、一番大事な施術の材料(chiryangona)。ヤギのペニスを探しておいで。それが一番大事な施術の材料さ。さてさてそれらを臼でいっしょにつき砕く。」

彼女の示すこれらの材料が、通常の「まぜこぜ」の治療に用いられると知られているものからは大きく外れていることに質問者たちもとっくに気付いている。すでに単なる良く知られてるクブォリョーリャの領域を離れて、話はなにやらあやしげな施術の世界に突入してしまっている。これらの「木」の危険性がひとしきり強調された後、話題は再び「まぜこぜ」一般に、そしてその治療の具体的なやり方に戻っていくが、にもかかわらずナズアの語りはまるで吸い寄せられるように、この怪しげな施術の場所に立ち帰ってくる。いや、彼女の語りは当初からその場所から発されていたのかもしれない。そしてついに「ムラーの施術(uganga wa mulaa)」がはっきりとした姿を現してくる。それは人をあらゆる秩序の外に、そして親族関係の外に出してしまうという術である。

「そう。これらすべてを施術することは、どの施術師でもできる。でもあのピングの『薬』、これはそう簡単にはいかないよ。こんなふうにクブォリョーリャすることなら、お前だってするだろうさ。でもあのピングの薬には届かないよ。例のモノ(ヤギのペニス)を買いに行って、それを手にいれて帰ってくる。さらに例の『木』だ。」
(質問者A:そのヤギのペニス、施術師の方で用意しておかないといけないんですか。依頼者がもってくるのではないと?)
「私自身でもっている。だって薬の材料を探してくるのは私自身。それをつき砕くのも私。そしてピングを(乳香で)燻すのも私。こんな風に喋っている今も、それ(ヤギのペニス)は小屋の中にあるよ。」
(質問者B:後で見ることにしよう。)
(質問者A:それは少しずつ切って使うのですか?)
「そうとも。ところで、そいつ(ヤギのペニス)を私が今もっていると言っても、まず『薬』(木)を削らないといけないだろう?それが済んだら、臼に入れるだろう?そしてそれをつき砕きながら、唱えごとをする(nakokotera)。」
(質問者B:さてさて。)
「それを砕いて、唱えごとをする。『これこれ、そしてこれこれ(薬の成分)。この薬を飲んだ者は誰でも、ヤギの雄(mutumia wa mbuzi)になる。ニワトリの雄になる。』」
(質問者A:雄ヤギ(ndenge)とオンドリ(jogolo)になると。)
(質問者B:えーと。例のヤギのモノだよね。)
「ヤギのペニスだよ。それとこの『木』。」
(質問者A:なるほど、これですね。削るんですね。この木一つだけですか?)
「別の木の根。さらに別の木の根。」
(質問者A:それらは何という木と、なんという木ですか?)
「ムブィンガーニだろう?それにムクル・カジングァ(mukulu kazingb'a)。それにムラー(mulaa 字義通りには『外にでる者』)。」
(質問者B:ムラー?)
「ムラー。ムラーっていうのは、お前が完全に外に出されてしまう(unalaviwa kamare kamare)ということ、それがこいつだよ。お前は親族(mbari「クラン」)の外に出されてしまう。お前には姉妹兄弟も、母の姉妹も、母の兄弟もいない。出会う女性誰とでもお前はことを行なう。たとえそれがお前の姉妹でも平気だ。お前はそのまま通過する。」
(質問者A:親族から外に出されてしまう?)
「そう。お前には兄弟姉妹も、父も母もいないように。」
(質問者B:なんにも気にしなくてよいように?)
「そう何でもできる。でお前が捕えられることはない。」
(質問者B:じゃ、例えば私を例にとって、私がムラー『外にでる者』になりたければ、私にもなれる?)
(爆笑)
「お前は外に出るともさ。お前はあのピングを縫ってもらうだけ。お前はもう『外にでる者』になっている。」
(質問者B:仮に父の兄弟の娘のところに行きたくなったら、ただ行けばいいと?)
「そのためにあるのがこのピングさ。で、薬がなくなりそうになったら、また削ればよい。そうとも。そして混ぜ合わせて、つき砕く。『ムラーよ、ムラーよ。この者には母はいない。姉妹もいない。母の兄弟もいない。母もいない。父もいない。こいつはヤギの雄だ。ヤギはその子を産んで、その子と交わり、それでいてキティーヨにとらえられない。ニワトリの雄は、メンドリから産まれ、その母ドリとまじわって、それでいてキティーヨにとらえられない。キティーヨはどこからやってこれるだろう。私は『外にでる者』、私には母の兄弟も、母の姉妹も、母も姉妹もいない。』」
(質問者A:唱えごとですね?)
「そう、こんな具合に。そしてお前がその『薬』を飲まされるときにも、こんな風に唱えられる。『ムラーよ。この者だれがし、彼には母はいない。父もいない。姉妹もいない。誰ともつながりがない。父の姉妹もいない。キティーヨはどこからやってこれるだろう。やってきて彼を捕えることができるというのだろう?彼は親族の中にはいないのだ。』さてさて、親族のあいだでは、誰もがお前は自分たちの一員である誰某だと知っている。でもお前は心の中でわかっている。自分はその中にはいないと。お前が気に入った女なら誰でも、お前は一発殴って通りすぎるだけ。さてさて。あんた。ムラーってどの木のことだと思う?ムラーっていうのは、ほらこの木のことなのさ。」
(質問者B:なんと!戸口のところに置いておくというその木!)
「そう。それをヤギの例のモノといっしょに混ぜるのさ。」

彼女の話題がいつも戻ってくる場所にあったのが、この施術--彼女によるとそれは「ムラーの施術(uganga wa mulaa)」と呼ばれている--であったことがわかる。もはや、産まれたばかりの赤ん坊や、家畜を必要に応じて「外に出す」というだけのことではない。本来なら、夫婦の秩序だった性関係を通してそれらを守る立場にある当人を「外に出」してしまう。彼は屋敷や親族の秩序の「外に出」て、ニワトリやヤギの雄のような存在、ブッシュの獣のような存在になってしまうので、何をしようとも屋敷の秩序に災いを及ぼすこともないし、また自らにも災いが及ぶことはない。秩序のなかにいることこそが災いなのだと宣言するに等しい異端的な見解である。それはまるで近親相姦的な性関係を奨励しているかのようにすら響く。

ムラーという木の正体について若干の曖昧さが残る。ナヅアはそれを当初ムブィンガーニとは別の木であるかのように語っているが、最後には両者を同一視している。しかしいずれにせよ、具体的にどの木がムラー、あるいはムブィンガーニであるかは我々には知りえない。ナヅアも言うように、その木は「すでに両親のいずれかを失った者」にのみ伝授されるのであるから。

ナヅアが明かしたこの「ムラーの施術」について機会あるごとにいろいろな人に確認してみた。言うまでもなく多くの人にとってはそれは聞いたことのない施術であった。しかし何人か、そうした施術が存在することは知っていると認める者もいた。さらにこの話を聞いた人のかなりが、それは単なる「治療の施術(wa kulagula)」ではなく「妖術(utsai)」であると断じた。そして実際ナヅア本人に関しても彼女が「妖術使い(mutsai)」であるという噂とまったく無縁であるという訳でもないらしいということも私は伝え聞いていた。少なくとも「ムラーの施術」は、単なる治療や災いの予防にしては度を過ごしており、それが反社会的な施術だと見なされたとしても、まったく驚くにはあたらない。

しかし「ムラーの施術」がいかに反社会的で、また奇抜な考え方に見えたとしても、そうした考え方の可能性が、屋敷の秩序についての一連の比喩的な語り口の中にすでに用意されていたものであるのも確かである。屋敷への編入に伴う危険を回避する方法として、キルワの治療においておずおずと控えめに試されている「外に出す」という考え方を、単におおぴらにその行き着くところまで展開したものが「ムラーの施術」なのである。人々の豊穣性は屋敷の中にいることによって守られ保証されている。「産む」という作業を通じて屋敷の中にきちんと「置」かれ、その序列を夫婦の不断の性関係の秩序だった反復によって維持している限りは繁栄が保証されている。不適切な相手とは交わらず、禁じられている期間には性関係を慎み、しかるべき時機にしかるべき相手と適切なやり方で性関係をもち、小屋や衣服や寝具やその他の事物のある種の関係の人々との共有を注意深く避け、またさまざまな活動の開始においてある特定の関係の人々に先んじたり、先んじられたりしないように気を配る等々の細々とした「ドゥルマのやり方(chiduruma)」に慎重に従うことが、その条件である。これらの一つでも疎かにすると、人々の健康や豊穣性は危険にさらされてしまう。屋敷の中で暮らすということは、こうした制約を生きる、つまり「ドゥルマのやり方」のなかで生きるということであるが、こうした制約はしばしば実に簡単に破られてしまいうるので、逆にこれらの制約こそが屋敷内で起こりうる災いの主要な源泉なのではないかという逆説が生じてしまう。もちろん一連の語り口の中では「外」は明らかな危険であり、屋敷のなかで守られていることがその危険に対する唯一の対処である。しかし屋敷のなかにいることの方も、同様に災いのもとでありうるとするならば、別の仕方で「外」の危険に対処できるならば、いっそ「外」に置いたほうがより安全であるとは言えないだろうか。キルワの治療は、屋敷の人々の振る舞いによってとりわけ危害を被りやすい新生児や家畜に対して、この可能性を試してみている。「ムラーの施術」はその可能性のより大胆な追及である。それは結果としてこの可能性の反社会的な含意をあらわにする。秩序に対する一連の比喩的な語り口は、その内部に自らが示そうとする秩序に対する否定を含んでいるのである。

「外」にいる人々

「外」に出すこと、「外」に出ることを具体的な選択肢として考えることを可能にしているもう一つの事実を考慮に入れる必要がある。それは「外」にいると見なしうるような人々が現に存在しているという事実である。

内部と外部の対比は、屋敷とブッシュというイメージに託して語られることが一般的であるが、そのイメージが申し出ている具体性にだまされてはならない。子供のキルワの治療(予防)や家畜のクブォリョーリャは、それらを「外に出す」こと、屋敷の外のブッシュに「置」くことだと説明される。しかしもちろん子供がブッシュの中で育てられるとか、家畜がブッシュの中で飼われるとかいうことではない。子供は実際には相変わらず屋敷の中に両親とともにいる。屋敷にいながら、そこにはいないと語られるのである。ナヅアは親族(クラン mbari)の「外」に出るという言い方も用いている。屋敷/ブッシュにかわるイメージである。しかし「外に出」たからといって彼が親族の一員としての権利や義務を失うわけではない。中にいない、外にいるというのが、単なる言葉の綾ではないのだとすれば、内部/外部ということで実際には何が語られているのか、何が内部で何が外部なのかと問うことは、重要であるかもしれない。

「ムラーの施術」と、そこに見られる「本人が外に出てしまう」というその基本的なアイディアについてさまざまな人々と話し合う中で、「外に出」てしまっている人というのはキリスト教徒--「イエスの人々(achina jeso)」--や白人や、キクユ人やカンバ人のような他部族の人々に似たところがあるという指摘がなされることがあった。たしかにこうした人々は「外」にいると言えないこともない。彼らについて、「『ドゥルマのやり方』の中にいない(kuno chidurumani kaamo)」という言い回しをしばしば耳にする。こうした近年ますます身近に接する機会の多くなったこれらの隣人たち--彼らも「外」に出された子供と同じように、まさにそこにいながらそこにいない、「外」にいる存在だということになる--が、「外」にいるというものがどういうものであるかに関するかなり明確な観念の源泉となりうる。

例えばある男は、「ムラーの施術」によって「外」に出ることを、次のような例によって説明してくれた。ドゥルマの人々のあいだでは4日で一巡りする暦が広く用いられている。4日目のジュマ(juma)と呼ばれる日には、畑での農作業は行なってはならない。この日はさまざまな憑依霊が畑を徘徊するなどとも言われるが、むしろ問題なのはこの日に作物を植え付けたり耕やしたりすると作物を不作にすると言われている点である。ジュマの日に畑で副食にする野草を摘むことさえ慎む女性たちもいる。さて私に「ムラー」について説明してくれたその男によると、「外」にいるということは例えばジュマの日に耕しても不作にならないということである。

「『外』にいるというのは、こんな具合だ。ジュマの日があるだろう。お前は畑には行かない。それはいったいどういう習わし(chimila)なんだろう?ああ、それはたわいのない習わしだと言ってもよい。でもわかりにくくも見える。というのは我々は境界を接しあう(hundaphakana)かもしれない。こちらの畑はお前の畑、そしてこちらの畑は私の畑。そうじゃないかい?さて、こちらの男はジュマに好かれており、もう一人の男はジュマに好かれていない。お前は不作に見舞われる。一方あちらの方はしっかり実っている。境界を接しあっているのに。」
(問い:同じように植え付けをして?特別なことはせずに?)
「今日はジュマの日だ。でそいつは植え付けをする。お前もまた植え付けをする。ジュマの日だ。お前はジュマの日に嫌われて、不作になるだろうよ。一方そいつはジュマの日に好かれて、収穫を得る。」
(問い:そこのところがまだよく理解できません。普通、ジュマの日には植え付けをしませんね。なのに、その男はジュマの日に植え付ける。お前のほうもジュマの日に植え付ける。で、その結果、その男のトウモロコシは実る。)
「そう彼のほうは実る。」
(問い:しかしお前の方は?)
「ジュマの日に嫌われて、不作になる。しかしそいつの方は実る。というのはそいつはジュマの問題にかかわっていないからだ。ちょうど『イエスの人』のようにね。一方、お前のほうはそれに深くかかわっている。」
(問い:例えば、彼は日をジュマで数えないで日曜日で数える?)
「たとえジュマで数えているにしても。彼はそれ(ジュマの問題)にかかわりがない(kausiana nago)んだよ。」
(問い:彼はそれにかかわっていない。)
「そう。こんな具合だ。お前さんと境界を接しているのがカンバ人だとしよう。で、お前はこの土地に住むドゥルマ人だ。さてさて、お前、ドゥルマ人は不作になる。彼、カンバ人の方では豊作だ。」
(問い:うーむ。)
「習わし(mila)だよ。ドゥルマのやり方(chiduruma)だよ。お前はそれを誤ったんだよ。そんなわけで私はジュマの日には畑には行かないと言う。というのは私がジュマの日に植え付けをすると、ジュマの日が私を嫌ってしまう。私は畑に行かない。私がジュマの日に植え付けをすると、私のトウモロコシは成長するが、実を産まない。不作になるだろう(ndafusa)。でもカンバ人のほうはドゥルマのやり方の中にいない(kamo chidurumani)。豊作になるだろう。」

「外」にいるというのがどういうことであるかを私に説明しようとしてこの解説者が繰り出した説明--おそらく部分的には彼自身の経験に基づいているのだろう--は、説明になっているどころか、それ自身が説明されるべき問題であるように思えるかもしれない。自信をもって彼が持ち出してくる例そのものが、よく訳のわからない話だ。隣接する畑のカンバ人の男がジュマの日に耕作しても立派な収穫をえているのを見たなら、ジュマの日に耕すと不作になるという命題が間違っていたと判断するのが普通ではないだろうか。仮に同じようにジュマの日に耕作してしまった自分の畑が不作であったとしても、となりのカンバ人の畑が豊作である以上、自分の畑の不作はジュマの日に耕したことが原因ではないに違いないと考えるほうが道理にかなってはいないだろうか。しかしこの解説者にとっては、それは「外」にいる人間は内部にいる人間が服する出来事の因果関係から自由であるということの証しになる。奇妙であろうか。しかしそれはもしかすると「外部」というものを想像する一つの正しいやり方なのかもしれないのである。

あることを行なえばあることが起る、こうすればああなる、ああすればこうなる...最も広い意味での秩序の感覚--<世界はこんな風にでき上がっている>のだという感覚--は、こうした二つの事象のあいだのありふれた決りきった結びつきの総体のなかに成立している。こうしたもろもろの結びつきの関係を生きるということが、この世界の中に生きるということ、一つの経験的な秩序を生きるということである。もし仮にそうした世界に「外部」があるとするなら、それはどのようなものでありえるだろうか。それはおそらくこの男が語るような仕方でしか考えることができないであろう。なぜなら内部がこうした結びつきを生きることによって成立しているのだとすれば、外部とはまさにこうした結びつきの否定を通じて以外に想像しえないであろうからである。

こうした想像は、我々が約束ごとにもとづく領域としてとらえている規約の世界では容易である。打席と呼ばれる場所に立ち、投げられてくるボールを3回空振りするとアウトと宣告され、打席から立ちのかされる。そのように事態が進行するのは野球というゲームの世界においてだけのことで、我々は事態がそのようには進行しない別の世界--別のゲーム--を容易に想像することが出来る。仮に我々が一見野球には見えるが、そこでは打者が3回空振りしても打席から去らないのが普通であるような試合を万一目撃したとしても、我々がこの事実によって、空振りの回数と打者の打席からの退去の間には実は何の関係もなかったのだと、はたと気付いたりすることはない。単に、彼らが野球というゲームとは別のゲームをプレイしているのだ、彼らは我々の知っている野球の世界の外部にいるのだと気付くだけだろう。ジュマの日に畑仕事をすることと、作物が不作になることの関係についての先の男の語りも、同じことを言っているだけなのではないだろうか。カンバの男がジュマの日に植え付けをしても不作にならなかったことを見ても、この語り手がジュマの日に農耕を行なうことと作物の出来とは関係がなかったのだという結論に飛び付くことはない。彼は、単にカンバの男がいわば<別のゲーム>をしていたのだと悟るだけの話なのである。どんなに多くの「イエスの人々」やら異部族の人々やら白人やらが「ドゥルマのやり方」を無視し、それとは無関係に振る舞い、それでいながらその災いの帰結を受けとることがなかったとしても、そうした事実は「ドゥルマのやり方」が描き出している出来事相互の結つきを認めてそれを生きる上では何の反証にもならない。彼らは「外」にいて、別のゲームをいわばプレイしているのであるから。

もちろんそれはゲームなどではない、と我々には思えるかもしれない。ジュマの日に農耕を行なったら、作物が不作になるように取り決めてあるわけではないし、そもそもそれは約束ごとやルールによって、そうなることにしたりしなかったりできる類の関係ではない。取り決めで作物を不作にするわけにはいかない。別のプレイなどここではありえない。しかしこのように述べる際に、我々は暗黙のうちに一つの区別--約束事による規約的な秩序と約束事によらない自然の秩序という区別--を持ち込んでしまっているのではないだろうか。あらゆるところに規約的な秩序--社会--と、規約によらない秩序--自然--との判然とした区別を見いだそうとする我々にお馴染みのやり方がいつも通用するわけではない。実際、我々は比喩的な語り口で描き出された秩序については、この区別が適用できないことをすでに確認した。きちんと「産」んでもらえずに「追い越」されてしまうと、子供は屋敷の「中」ではちゃんと生育できないだろう。その子を「外に出し」てしまえば、その危険はなくなるだろう。どうすればどうなるのかという出来事どうしの結つきがこのように比喩的な語り口によってしか語り得ないとき、つまり出来事の結びつきそのものが比喩的な性格をもっている場合、そうした結びつきを生きることからでき上がっている世界において、その結つきが約束にもとづいた規約的な結つき--ゲームのルール--のようなものであるのか、それとも自然の結つきであるのかという問いそのものが、はたして意味をもつだろうか。少なくとも、「外へ出」せば危険がなくなるのは、そういうふうにとりきめられてあるからではない。しかし一方、「外に出す」行為にせよ「追い越す」行為にせよ、特定の制度の外に自然に見出されるような行為ではない。あきらかにここ日本では新生児を「追い越」してみせることも「外に出し」てみせることも、試みてみようにも実行のしようがない行為である。いずれの表現も日本ではまったく意味をなさない、つまりそうした表現に対応する行為が存在しないからである。なぜ母親と父親の股の下を何度かくぐらせ、しかじかの植物成分を含んだ薬液で体を洗えば子供を「外に出」したことになるのか、という問いには例によって「それはそうすることが『外に出す』ということだからだ」という以外に何の答えも存在しない。両者は恣意的な結びつきに過ぎない。

規約と自然という区別で語ることが意味をもつ領域は、我々自身の経験の中でも実はきわめて限られた領域でしかないのかもしれない。人によって秩序として生きられている諸関係のかなりの部分が、こうした区別が無効となるような比喩的な語りによってできあがっているということもおおいにありうる。少なくとも、先の男はこうした区別では考えていない。西洋の知的伝統の中ではこの区別が社会的なるものの領域の発見を導き、社会科学を誕生させたというのは、よく言われている話である。しかしそれはむしろ不正確な言い方である。我々がこの区別で眺めたり語ったりすることを学んだことによって気付かされたものとはむしろ、その外部を想像することが出来ないような秩序--自然--の方でもあったのである。先の男の語り口は、単にあらゆる秩序に対してその外部を想像しようとしている語り口である。このように外部を具体的に想像できるからこそ、「外へ出る」という操作もリアリティをもちうることになる。

誤解がないように付け加えておくと、私が意見を聞くことが出来たすべての人々がこの男のように語っているわけではない。「ムラーの施術」を我々に紹介したナヅアの語りがあきらかに異端的な語りであるように、この男の説明もどちらかというと奇抜なと形容できる類いに属するものかもしれない。ただ重要な点は、ナヅアの語りにせよこの男の即興の語りにせよ、屋敷の内部と外部、そしてその境界の操作に関する一連の誰もが知っている広く流通している語り口にのっかって、その語り口そのものに含まれる可能性を展開したものであり、それゆえそれを聞いた人によってただちに理解できるような--それに同意するかどうかは別として--語りであるという事実である。その理由をこの男のような仕方で説明するかどうかは別として、「イエスの人々」や異部族の人々が「ドゥルマのやり方(chiduruma)」の中にいないという言い方は広く見られるし、こうした人々が「ドゥルマのやり方」を無視しているのにどうやら災いには見舞われていないことは、よく話題にされる話である。後はナヅアやこの解説者のように「外」にいることと、災厄をまぬがれることとのあいだに明確なつながりをつければよいだけの話である。

ところでドゥルマのやり方の「外」にいるとされている当の人々は、なんと言っているのだろうか。例えば「イエスの人々(achina jeso)」と呼ばれている人々、「イエスの中に入(ku-phenya jesoni)」った人間として自らを語る人々は、多くの「ドゥルマのやり方」をあからさまに拒んでいることで知られている。もっとも彼らが、「ドゥルマのやり方」に従わない生活を営んでいるからといって非難されることがないのは、他の部族の出身者が「ドゥルマのやり方」で生きないことで何の非難も受けないのと同様である。各人のライフスタイルや好みや方針が尊重されるという点では、人々は驚くほど寛容であるし、いわば<個人主義的>である。ところでこうした「イエスの人々」が「ドゥルマのやり方」のいくつかを拒む際の語り口は、最後のところは判で押したように型にはまっている。「私はイエスによって守られている」からというのがそれである。

一人の嫁いできたばかりの熱心なキリスト教徒の女性が、小屋の戸口に腰を下ろして近所の女性と雑談しているのを、同じくキリスト教徒である夫が見とがめてそこから退くように叱っている場面に出会ったことがある。口論の際に、この女性が持ち出したのがまさにその語りであった。「ドゥルマのやり方」にはこまごまとした雑多なものも多く含まれているのだが、その一つが小屋の戸口に腰を下ろしてはならないという禁止である。二つの理由があげられていて、一つは小屋の戸口に腰を下ろしている者は誰かに追われて逃げている人間の目には見えないので、小屋に逃げ込もうとするそいつに踏みつけられてしまうというもので、もう一つは、女性が小屋の戸口に腰を下ろすと彼女が出産する際に赤ん坊が途中でひっかかって出てこなくなってしまうというものである。小屋の戸口という境界性によって動機づけられた(有縁化された)禁止として解釈してみせる--最初の理由は境界上の存在の不可視性について、二番目の理由は境界上に留まることがスムースな移行の拒絶に匹敵することを語っている--ことも出来るだろう、そんな孤立的な事例である。夫が彼女の遠くない未来における出産を憂慮していたのは明らかであるが、それに対して妻は自分はイエスだけを頼っている、そのような禁止は気にかける必要はないと反論したのであった。近所の女性たちは、キリスト教徒はドゥルマのやり方を気にかけないですむとコメントした。

ペンテコスト派のやや年配の一人の説教師は、ドゥルマのやり方についてきわめて詳細な知識をもっており、その話術の巧みさで私をおおいに面白がらせてくれる--ただしいつも私をキリスト教にしつこく改宗させようとする点で、私としてはつい避けがちになる--一人だった。彼の語りは、ある意味で折衷的な性格をもっていた。例えば彼は一方では「ドゥルマのやり方」が提示する出来事の結びつきを認めている。録音していなかったため正確な語り口を再現することは出来ないが、彼はその正しさを経験的に確信しているという。例えばどこかに出かけようとする者にとって、キツツキ(nyunyi)がどちらの方向で啼くかは、旅の幸先を占う意味をもつ。右手で啼いた場合は豪勢な食事を振る舞われるだろうし、左手で啼いた場合は交渉ごとがうまくいく。しかし前方で啼いた場合、行く先で大変な出来事に出会うだろう。後方で啼いた場合には、なかなか帰ってこれなくなる。あるとき彼が遠方の一人の信徒の屋敷を訪れようとしたとき、途中のブッシュで前方でキツツキの声がした。普通のドゥルマ人なら、ただちに旅を打ち切って引き返すところだろう。しかし彼は恐れなかった。自分はイエスに守られている。なにも恐れることはない。こうして彼は旅を続けた。そして目的地に着いたとき、なんと驚くべきことにその屋敷でたった今人が死んだと聞かされたのだった。キツツキが前方で啼くと、大変な出来事が待っているというのはまさに本当のことだった。しかし彼はイエスを信頼してそのまま旅を続けたおかげで、無事に死者の埋葬を司祭するという勤めを果たすことが出来たのである。「イエスの人々」が「ドゥルマのやり方」を無視するといっても、それはより強力な力に支えられているという考えにもとづいて無視しているのであって、出来事の結びつき自体を必ずしも否認しているという訳でもないのである。「イエスの人々」自身の口から、自分たちは「ドゥルマのやり方」の「外」に出ているという発言を聞いたことはない。彼らは自分たちのポジションを「内」と「外」の比喩ではとらえていないようである。しかし別の人々から見ると、彼らがまるで異部族のように「外」にいる--別のゲームをプレイしている--人々に見えないこともない。「イエスの人々」にせよ他部族の人々にせよ、こうした別の秩序を言わばプレイしているように見える人々の存在が、「外」にいることの具体的な姿を提供しているとともに、秩序の「外に出る」という想像にリアリティを与えていることもおそらくはたしかなのである。

「薬(muhaso)」という語り

「外」が具体的に想像可能なリアリティであり、「外に出る」ことが実現可能な行為として想像されていることと、実際にどうすれば「外に出る」ことができるか、それが具体的な行為として実行可能であるかは、また別の話である。しかし、ナヅアや一部の人々が語るように、「親族」や「ドゥルマのやり方」そのものの外に出てしまうとまでは言わないまでも、「屋敷」の「外」へ出ること、出すことに関して言えば、それは実行可能な行為として現実に新生児のキルワの治療や予防において、あるいは家畜のクブォリョーリャにおいて実践されている。それを可能にしているのが「薬(muhaso)」である。「薬」の概念は、屋敷の秩序についての一連の語り口を、別の一連の語り口とそれを流通させるもう一つの想像力の空間--そこでは妖術を核とする人々の葛藤と抗争と激しい運命の浮き沈みの語りが渦巻いている--に接続する。ここまでの一連の論考で考察してきた屋敷の秩序に関する語り口は、首尾一貫した閉じた体系を指向しているように見えて、多くの場所でほころびを見せている。この章で考察してきた、この語りに内包されている「外」の観念も、体系性を内部から否定しにかかるこうしたほころびの一つに他ならないのだが、「薬」をめぐる想像力は、より巨大な開口部をそこに出現させている。ここではそれを簡単に示唆するだけにとどめておこう。「薬」の概念が開いている巨大な想像力の空間の探索と、そこに繰り広げられる語りについては現在の考察とは別に独立した一連の考察を必要とするだろう。

子供のキルワの治療や家畜のクブォリョーリャにおいて、「外に出す」操作によって子供や家畜は父母やその所有者の不適切な性行為によって害されることを免れる。しかし本来それらは屋敷の中にきちんと置かれてこそ、外のブッシュの危険から保護されるはずであった。それらを危険な外部に置くことは、それらが「薬」によって強固に守られているという条件のもとで始めて可能であったのである。キルワの施術師たちが提供するのは、まさにそうした「薬」による保護である。この意味でまさに「薬」こそが「外に出す」という操作を可能にしているのである。これは突き詰めると、本来屋敷の秩序の中で「ドゥルマのやり方」に従うことで可能であるような効果を「薬」で代替してしまえるという考え方に匹敵する。「薬」の魅力と危険性はこの事実に由来する。それはある意味で秩序の効果をなしくずし的に肩代わりしてしまいうるのである。ナヅアの大胆な異端の語りは、彼女自身の「薬」に対する全面的な信頼のうえに成立している。「薬」の力こそがあのように極端な形で「外」に出てしまおうという提言を現実的なものに一瞬見せかけている。

「ドゥルマのやり方」に従うことの「薬」による代替は、キルワの予防や治療以外にもさまざまな場面に見いだされる。例えば1992年以前には聞かなかったことなのであるが、キナンゴの周辺では「なまの弔い」の後の、性交の再開の手順に「薬」が介入している。この地方のドゥルマの女性たちのなかには、ディゴをはじめとする異部族の男性のもとに嫁ぐものが増えてきているらしい。父や母の死に際して、彼女らは「なまの弔い」の期間の後も、自分の順番が来るまで父母の屋敷に足止めされ夫のもとへ帰ることが許されない。ディゴの夫たちの多くは、こうした慣行に対して理解がなく、妻が長期間実家に足止めされることを快く思わない。中にはこの期間に自分の妻が他人と性関係を強いられていると--明らかに「死を投げ棄てる」慣行についての誤った理解に基づいていると思われるが--考えて、強引に妻を連れ戻そうとする者もいるという。という訳で「なまの弔い」の最終日に、婚出した娘たちに「薬」を処方し、ピングを身につけさせて、さっさと夫のもとに帰してしまうというやり方が、見られるようになったというのである。彼女らは本来の性交の開始の順番に従うことは出来ない。しかし「薬」が性交再開の順序の乱れが悪い影響を及ぼすことを防いでくれるのだという。この明らかな<技術革新>がいったい誰によって始められたものなのか、確認することはできなかった。キナンゴ周辺の何人もの施術師が、すでにその「薬」とピングの処方を自らの治療のレパートリーに加えている。

奇妙な話である。もしそんな便利な「薬」が利用可能なのであれば、そもそも最初から性交開始の順序になどこだわる必要がないはずではないか。いったん「薬」を認めてしまえば、なしくずし的にあらゆる「ドゥルマのやり方」が、人々によってきちんと従われる代わりに「薬」によって代替されてしまうということになってしまうかもしれない。これが「薬」の想像力のおそるべき力である。もちろん「薬」は今のところ、こうしたやむを得ない場面でしか介入してこない。多くのまともな夫婦が、「薬」の力に訴えて自分の子供をさっさと「外に出」してしまおうという誘惑に抗して、子供を「産み」自分たちで「保護する」という厄介な道を選んでいるように、ここでも人々は「薬」による解決よりも、順序にこだわり続けることをむしろ選んでいるようである。しかし「薬」は「ドゥルマのやり方」を構成する一連の語り口のかたわらで、一つの誘惑であり続けている。「薬」こそ、ああすればこうなる、こうすればああなるという出来事の連関、秩序の経験を構成する当たり前の出来事の結びつきの「外」についての想像、秩序の「外」に出ようという願望に、実現可能性の幻影をまといつかせる張本人である。

ジュマの日に耕作をおこなうと不作になるという事実の連関の「外」を具体的に想像している男の語りを思い出そう。まさか彼でも高い椰子の木から落下すると怪我をするとか、ナイフで斬られると怪我をするというあまりにも当たり前の事実の連関の「外」までは想像できないだろう、と思われるかもしれない。しかしなんとこうした連関の「外」すら想像させる語りがあるのだ。ナイフで斬られても傷つかず、銃で撃たれても死なないようにする「薬」の存在について、半信半疑の雲をともなってではあるが、人々は飽きることなく語る。動物に姿を変えたり、一瞬のうちに別の場所に移動したり、ありとあらゆる当たり前の事の成り行きをあざ笑う妖術使い(mutsai)たちとは、まさにこうした「薬」を自在に操る者のことに他ならない。おまけにそれは決して単なる空想上の存在ではなく、まさに隣人の一人であるかもしれないのである。ここでは「薬」を核に開ける語りの空間の途方も無さについて、このような形で示唆する以上のことはできない。この一連の考察が一段落ついた後に、その解明に本格的に着手できればと考えている。

もちろん何らかの意味で「薬(muhaso)」あるいは「木(muhi)」を使用しないような施術は存在しない。しかし見ようによっては、種類の異るそれぞれの施術におけるそれらの使用に、特徴的な違いを認めることができるかもしれない。「薬」の材料はさまざまであるが、多くはブッシュから採集してこられた植物性の材料である。ここでの一連の考察で扱ってきたような屋敷におこった過ちを矯正するための「冷やしの施術」においては--クブォリョーリャも、死に際しての一連の施術も大ざっぱにそれに含めて考えることができるだろう--「冷たい木」と呼ばれる一群の植物が主成分である。施術の目的によってはこれに「死の木(mihi ya chifo)」、「キティーヨの木(mihi ya chitiyo)」--ヒツジの第三胃は「キティーヨの木」の一種とされている--などが必要に応じて加えられる。これらの材料は基本的に<なま>のまま--あるいは乾燥させた状態で保存されていたものかも知れないが、とにかく熱を加えずに--水の中で揉みつぶされ、こうしてできた薬液(vuo)を振り撒いたり、それで患者を洗ったりする形で施術は行なわれる。別の一連の施術の系列は、憑依霊によって引き起こされた病いの治療の施術である。そこではこれらの<なまの>薬液の使用に加えて、「木」を壷に詰め少量の水を加えて火にかけた蒸気を吸入したり全身に浴びたりする一種のサウナ療法--「憑依霊の壷(nyungu ya pepo)」--と、「木」やその根を煎じたもの--「煮られた木(mihi ya kujita)」--を飲むことが中心となる。つまりそこで用いられるものは文字どおり<煮られたもの>であり<料理された>--ドゥルマ語ではともにクジタ(ku-jita)--ものである。これらも「薬(muhaso)」と呼ばれることがない訳ではない。しかしこれらに対しては単に「木(muhi, pl. mihi)」という呼称が用いられることが一般である。これに対して悪意ある他人がかけた妖術によって引き起こされた病いの治療に用いられるもの--そして妖術そのものにもちいられるもの--が、特に何の限定もなくムハッソ(muhaso)といった場合に意味されている「薬」である。それは一般的には、さまざまな材料を鉄板や土器片の上で完全に炭化するまで焼くことによって出来た黒い粉である。妖術による病いや災いの治療においては、「冷たい木」を主成分とする薬液--これはほとんどあらゆる治療において不可欠である--に加えて、この黒い粉が剃刀などで患者の皮膚を切った切口から擦り込まれるのである。ここではブッシュ起源の材料はいわば<過剰に料理>されている。それはブッシュのもっとも徹底した加工形態であるともいえる。あらゆる秩序づけの「やり方」を上書きし、あらゆる出来事の決りきった連関の「外」にむかう想像力をとりわけ解き放つのは、なんといってもこの黒い「薬(muhaso)」を中心とした妖術の概念である。

このいわば<薬の三角形>をそれほど厳密にうけとる必要はない。実際の施術においては、この三角形のそれぞれの頂点に属する要素が幾分かずつは含まれているのが普通である。おそらくはむしろその施術が解き放つかもしれない想像力の方向を決定しているのは、その施術のこの三角形の中の位置というよりは、その施術が語られる比喩的な語りのコンテキストにおける位置の方であろう。例えば、子供を「外に出す」キルワの治療において用いられるのは<なまの>薬液と木そのものを削って作った護符パンデであり、黒い粉の使用はそこでは見られない。ナヅアの「ムラーの施術」においても--彼女が彼女の施術のすべてを明らかにしてくれたと考える根拠はないが--黒い粉の使用は言及されていない。キルワの治療のみならず「ムラーの施術」ですら、薬の三角形の位置上では、その他の「冷やしの施術」と同様に、屋敷の秩序の修復にかかわる施術の一種である。そしてたしかにキルワの治療に関してはそのように受け入れられている。これらの施術における薬が、妖術に関連する「薬」をむしろ連想させるのは、それに与えられた役割--秩序を構成する事実の連関を上書きし、秩序内の行為を肩代わりしてしまう--である。これらの施術の解説において、ムハッソ(muhaso)という言葉が表だって繰り返し使用されていることは、これらの施術が喚起する想像力の方向を、暗示しているかのようである。

結語

屋敷の秩序をめぐる一連の語り口のアウトラインの検討はほぼ終わった。屋敷内部の性の序列という秩序への徹底したこだわりと、屋敷の豊穣性にたいする大きな配慮が、最終的には人々にとってこの観点からはもっとも大きな賭金となる人間の子孫と家畜の豊穣性の問題をめぐって、むしろ秩序の否定へと向かう想像力に道を開いてしまっているというのは、ある意味できわめて皮肉な話である。しかしこれが、一見秩序についてのきわめて硬直した語り口に見えるものに、現実的な力動性を与えているのだとも言える。 本章まででほぼ描きだしを終えたこの比喩的な語り口は、恣意的な規約的関係でそれを遂行する具体的な行為に接合している。実は、この語り口に現実へのきわめて柔軟な適応を許しているのが、この一見硬直した恣意的規約的関係であるということを、次に明らかにしていきたい。つまりこの比喩的な語り口をリアリティとして生きることを可能にしている規約的関係の振る舞いをこれから、実際の災いの事例の中で検証していくこと、これが私の次の作業である。

註釈

(註1)
ドゥルマのこれに関する観念を「近親相姦」という言葉によって理解しようとすることが不適切であることはすでに述べた通りであるが、記述が必要以上に煩雑になることを避けるため、ここではこの言葉を用い続けることにする。

(註2)
キルワの治療のみを専門にする者もいるが、多くは家畜に対するキルワの治療や、「まぜこぜ」の治療、その他「冷やしの施術」一般の施術師がそれを兼ねている。

(註3)
まるで産後一週間で子供を「産む」手続きが行なわれるかのように読めるが、もちろん発言者の言いたいのはそういうことではない。キザで予防しておけば、数ヵ月後にその子供を「産む」まで安心できるという意味である。

(註4)
「汚れ(nongo)」という比喩は、日本語よりもはるかに広い意味領域をカバーする比喩である。それはあらゆる存在物の不可欠の構成要素と考えられており、人は妖術使いによって「汚れ」を奪われると病気になったりもする。良い「汚れ」(nongo mbidzo)と悪い「汚れ」(nongo mbii)という言い方もあり、良い「汚れ」をもっている人は人々の人気者になる。逆に嫌われ者や、何をしても事業がうまく行かない者は悪い「汚れ」を持っている者に違いない。また「汚れ」はつけたり、とったり、奪ったり、置き換えたりできる何かでもある。

(註5)
すべての人がこの意見に同意するわけではない。夫一人の場合でも、誰か余所者の女性を相手にその子供を「産む」べきであるという意見もある。これは子供の「死を投げ棄てる」場合と同様な対処法である。

(註6)
少しわかりにくい表現だが、その意味は「ペニスなら誰のペニスでも同じで変ったところなどない。ヴァギナなら誰のものでも同じだ。特定の父親や母親には限定されない。」ということである。

(註7)
この点では、必ずしも意見の一致は見られない。そもそも家畜を新たに手にいれるたびにそれを「産む」必要があるかどうかについても、意見はさまざまで、群れを最初に始める際に「産む」だけでよいという意見もある。後に見るように、「産」まずに最初から「外に出」してしまえばよいという意見すら見られる。

(註8)
この点についても、人間の「まぜこぜ」を治療するクブォリョーリャと同様である。この場合には「性」の問題について知らない幼い子供によって準備されねばならない点が強調されている。

(註9)
下痢は「まぜこぜ」にとらえられた者の典型的な症状の一つであった。この点でも家畜のキルワは、新生児のキルワとは異って、「まぜこぜ」の比喩で語られる領域に接近している。

(註10)
この点のみについて言えば、これはナヅア以外の家畜の群れの所有者たちからもときに聞くことになった見解であり、かならずしも彼女の特異性を物語るものではない。

(註11)
ヤギとヒツジとは対極的な動物だと考えられている。ヒツジはおとなしく「冷たい」のに対し、ヤギは性的に活発で、騒々しく、熱い。「まぜこぜ」を冷やすために用いられるのがヒツジの胃の中の未消化の草、あるいは乾燥した第3胃であるのに対して、ナヅアの施術ではヤギのペニスが用いられるという。この点でも彼女の施術は通常の冷やしの施術の意味論的な対極に位置している。


Mitsuru_Hamamoto@dzua.misc.hit-u.ac.jp