屋敷の壊し方(1):まぜこぜにする

この論文は 1988 年に発表した「インセストの修辞学:ドゥルマにおけるマブィンガーニ=インセストの論理」を全面的に書き換えたものです。もちろん一部の議論はオリジナルの論文からそのまま引き継いでいます。
html化 19/04/1998
最終更新 21/04/1998

要旨

本稿は、別稿「妻を引き抜く方法」で提案された、秩序の仕組みについての見方を、ドゥルマのマブィンガーニという概念をめぐる語りと実践の総体に適用してみる試みである。すでに浜本 1988 において分析ずみの議論を、(1)屋敷の秩序についての比喩的な語り口--屋敷が「まぜこぜになる」と災いが起きる。そしてそれを修復するためにもう一度屋敷の人々を「分け」てやる必要があるという語り口--の水準、(2)比喩的な語り口と実行可能な行為との規約的な接合--「まぜこぜにする」とは具体的には何をすることなのか、何をすればもう一度人々を「分ける」ことができるのか、(3)規約の恣意性を隠蔽するかのように展開する有縁性の水準--しかじかの行為がいかにもたしかに「まぜこぜ」であると思わせるような意味論的な編成、のそれぞれを明確に記述するという形で再提出してみた。同時に 1988 の時点では無視した、マブィンガーニをめぐる互いに対抗する複数の語り口の存在にも正当に注目しようと試みた。

目次

  1. 屋敷が「まぜこぜになる」という観念
  2. マブィンガーニをもたらす行為
  3. マブィンガーニの治療
  4. 区別とまざりあい
  5. マブィンガーニという語り口
  6. 引用・参考文献

屋敷が「まぜこぜになる」という観念

屋敷はさまざまな形で「壊れる」あるいは「駄目になる」(ともに ku-banangika)可能性がある。あるいは屋敷にはさまざまな仕方で「間違いが起こ(ku-koseka)」りうる。屋敷から死者が出たり、屋敷の誰かが事故にあったり、火事が起きたりなどなどの災いそのものが屋敷に生じた間違いとして語られる。必ずしも誰かの過失のせいで起きた災いではない。災いが起ったことそのものが屋敷に生じた過失(makosa)であり、「屋敷には過ちが生じた(mudzini phakoseka.)」と語られるのである。もちろん文字どおり人が過失を犯したために屋敷に間違いが起ると語られることもしばしばある。正しい「ドゥルマのやり方」に従わずにことが行なわれると、つまり「キドゥルマを誤る(ku-kosera chiduruma)」と屋敷に過ちが生じ、それは放置しておくとさまざまな災いをもたらすという語り口である。

人によって犯されるかもしれない過失のもっとも深刻なものの一つが、屋敷があるいはそこで暮す特定の人どうしの間が「まぜこぜになる(ku-tsanganyikana)」という状態である。この言葉 ku-tsanganyikana 自体は、何であれものが混じり合っていることを指すのに用いられる言葉で、「まぜこぜにする(ku-tsanganya)」と対になっている。しかし同じ「まぜこぜにする」といっても特に屋敷内に生じた事態を指す言い方としては「まぜこぜにする(ku-phitanya)」という言い方もある。まぜこぜになった屋敷や人間関係の状態を指すマブィーティヨ(maphityo, sing. phityo)という言葉は、この動詞 ku-phitanya の名詞形である。他にも、語源や派生関係の不明なマブィンガーニ(maphingani あるいはマブィンガーネ maphingane)やマクシェクシェ(makushekushe)マクル(makulu)などの言葉、「間違う、過ちを犯す(ku-kosa)」という動詞からおそらく派生したマコソ(makoso, sing. koso)という言葉などがあり、いずれもマブィーティヨと同様な事態を指すことが出来る。これら一連の言葉の中ではマブィンガーニがおそらく最もよく耳にする言い方である。マコソはどちらかと言えば軽度の過失について、マクルはもっとも深刻な過失を指すのに用いられているようである。マクシェクシェは深刻な過失を指すのが普通であるが、人によっては逆に軽度の過失を指すのにこの言葉を用いる。これらの言葉はマブィーティヨ同様に「まぜこぜに」なった状態を指していると同時に、その状態をもたらす具体的な過失行為を意味してもいる。ギリアマ語起源であると言われるキティーヨ(chitiyo, pl. vitiyo)という言葉も似た意味で用いられるが、過失行為や「まぜこぜ」の状態そのものを指すというよりも、「まぜこぜに」なった結果としてもたらされる具体的な災いを指す言葉として用いられる傾向がある(註1)。もちろんこうした使い分けはけっして厳密でもなければつねに一貫しているというわけでもない。

「まぜこぜに」なった人々にはさまざまな災い--キティーヨ--がふりかかると言われる。それは病気というかたちをとるかもしれない。死に至るひどい嘔吐と下痢はキティーヨに最も典型的であると言われる症状--「糞便で死ぬ kufa na mavi」--である。手足が不自然に折れ曲がる病気や不具もキティーヨに特徴的だとされており、ポリオはマブィンガーニのせいであると言う人もいる。女性の場合はさらに不妊や、流産、死産、あるいは子供が生まれてきてもちゃんと育たずに死んでしまうといった形で顕れるかもしれない。異常児(vyoni)の出産もマブィンガーニの結果でありうる。パフアダーやコブラのようにふだんはめったに人を咬むことのない毒蛇に咬まれるのも、キティーヨである。「まぜこぜに」なった二人の一方が病気になったとき、万一もう一方の人の見舞いを受けると、病状が悪化し、本来死ぬはずもないとるに足らない病気でも命を落としてしまったりすると言われている。とりわけ累積したマブィンガーニのせいで屋敷全体が「まぜこぜに」なっている場合、こうした災いは屋敷のだれかれの区別なしに降りかかるかも知れない。

「もし誰かがマブィンガーニをもたらせば、彼の子供(anae)、兄弟姉妹(nduguze)、親たち一般(avyazie kwa jumula 父の兄弟等)、両親(koloze)、当人とその妻に至るまで(hata yiye phamwenga na achee)、キティーヨにとらえられうる。屋敷全体がキティーヨにとらえられうる。」こんな風に主張する者もいる。マブィンガーニの影響は、そのきっかけとなる行為をした本人をというよりも、彼が属している関係網に対して及ぶのである。さらに屋敷が「壊れ」てしまえば、災いはもはやなんらかの特定の種類の災いには限らなくなる。何もかもがうまくいかなくなるかもしれない。

屋敷が「壊れる」という言い方そのものももちろん比喩的であるし、屋敷やそこに暮らす人どうしが「まぜこぜになる」という言い方も比喩的である。これらの言い方が、単なる気の利いた言葉の綾であるという意味ではない。すでに一連の論考(このウェブ・ページ上で公開されている)で繰り返し注目してきた類いの比喩と同様に、その比喩性がまるで気づかれないままにあたかもごく普通の現実的な過程--それらの言葉でもっとも適切に語られるように見え、またそれ以外の表現ではそれについて語ることが困難であるような現実--について語る表現であるかのように通用している比喩なのである。屋敷が「まぜこぜになる」とか、例えば父と息子が、あるいは兄と弟が「まぜこぜになる」ということでいったい何が語られているのだろう。いったいどんなことをすれば屋敷をまぜこぜにしたり、父と息子をまぜこぜにしたりすることができるというのだろう。「妻を引き抜く」方法を検討した際に明らかにしたように、この二つの問いは、一方では「まぜこぜにする」という表現の比喩的な論理の中での位置を問題にする問いに、他方ではそれを具体的な行為に接合する規約的な関係を問題にする問いにつながっている。

マブィンガーニをもたらす行為

何をすれば屋敷が「まぜこぜ」になるのか、どんな行為がマブィーティヨ、あるいはマブィンガーニにあたるのか、という問いから検討しよう。この問いに対するもっとも簡単な答えは特定の関係に立つ者と性関係をもつことだというものである。その大ざっぱな公式は、男性を主体として考えると、教育を積んだ一人の青年が述べた次のような解説--きわめて要領よく一般的公式の形で述べられたもの--に見られるだろう。

「生れをつうじて(kp'a mavyalwi)、あるいは妻を与えることを通じて(kp'a mahwalwi)、あるいは妻を受けとることを通じて(kp'a mahwali)同じ身内(umbari)となった女性の誰であれ、彼女と寝ると、それはマブィンガーニでありうる。」言い換えれば、親族女性、あるいは姻族女性との性関係がマブィンガーニをもたらす「まぜこぜにする」行為だということになる。特定の女性との性関係がマブィンガーニにあたるかどうかを議論する際に、関係が「近い(phephi)」かどうかが目安として持ち出されることも多い。男にとって母親(mayo)、父の妻(mesomo)、娘(mwana)、姉妹(ndugu)、兄弟の妻(mukaza ndugu)などとの関係はすべて「きわめて近い」ので深刻なマブィンガーニを引き起こすと考えられている。親族であれ姻族であれ「近い」女性との関係は、だいたいにおいて危険である。

 しかしこのことからマブィンガーニを近親相姦のことであると考えるのは必ずしも正確ではない。たしかに日本で近親相姦と見なされるような性関係がここでも禁止されている。しかし注意してみれば、それらの関係がマブィンガーニとして禁止されている理由は、必ずしもそれらが親族との性関係であるからという理由でも、また関係が近いからと言う理由でもない、つまり「近親者」との性関係であるという理由からではないということがわかるからである。まずこの点を明らかにしておこう(註2)。

マブィンガーニとして具体的に禁止されている関係は、実際には上記の大ざっぱな定式化が与える印象以上にこみいっている。そこには日本でいうところの血のつながった親族以外の者が含まれているし、反対にきわめて近い親族が除外されている(註3)。たとえばマブィンガーニをもたらすとされる関係を確認する際に人々のあいだでしばしば議論の的となるのは、祖父母(祖父 tsawe, 祖母 wawe)と孫(mudzukulu)とのあいだの関係である。両者は互いに異性の相手に対して「夫(mulume)」「妻(muche)」と呼び合うジョーキングの関係にある。若い世代をはじめとしてかなりの人々が、「近すぎる」という理由から両者の性関係はマブィンガーニであると主張している。しかし年配者を中心に、そこにはマブィンガーニはないと主張する意見も根強い。彼らはたとえば、祖父がそこにいるとは知らずに祖父の妻(つまり祖母 wawe)の小屋に皆が寝静まった夜間忍び込み、居合わせた祖父に現場を押さえられたのに、結局は何の咎めもなかった孫の事例などを挙げてみせるだろう。彼らはまた、祖父の未亡人(gungu)を孫が相続する際には「ヒツジ(ngonzi)」が必要とされないという事実を思い起こさせるだろう。たしかにそう考えると、祖父母と孫とのあいだの関係はマブィンガーニではない。

これには少し説明がいるだろう。息子は父の残した未亡人と結婚することはけっしてできないとされている。兄弟の残した未亡人を妻とすることは可能であり、実際ごく普通におこなわれているが、それに際してはあらかじめマブィンガーニを取り除いておく手続きが必要となる。その際に必要なのが後述するようにヒツジの供犠なのである。しかし孫は祖父が残した未亡人をヒツジの供犠なしで相続できる。同様に祖父の方でも孫の残した未亡人を自分の妻とすることができる(註4)。

一方孫娘との性関係は、甥や姪の娘であるような孫娘(ZDD や ZSD etc.)であれば何の問題もないことはほぼ共通の了解である。息子の娘、娘の娘(SD, BSD, DD, BDD etc.)である場合、それは「よくないこと(vii)」で「問題(maneno)」を引き起こす間違いであるとされている。これもほぼ共通の了解である。しかしそれがマブィンガーニであるかどうかという点では、しばしば意見は対立する。ある人は、この関係が「近すぎ」、こうした孫娘と寝ることが「自分自身の肛門と性交するようなもの」だと言う。マブィンガーニであることは疑問の余地がないのだと。しかし別の人々は、この関係がよくないのはマブィンガーニとは無関係だと言う。

「孫娘と寝ることは大きな過ちである。とにかく悪いことだ。しかしそこにはキティーヨはない。もしそんなことをしたことが知られると、人々は彼のことを、あの男の心の中は妖術使い(のよう)だ、彼は自分の息子の繁栄を嫌っているのだ、と噂するだろう。だから、このような男は一人でほっておかれ、ひどく扱われる。というのは彼はすべてを駄目にする男だからだ。」「もしお前が孫娘と寝れば、お前の息子はお前を殺そうとするだろう。彼は考える。『私の父は私が新しい義理の息子(mutsedza)を手に入れることを望んでいない。私に嫉妬しているのだ』と。」「その男はお前を義理の父(mutsedza)と呼んではいないだろうか。彼の娘と結婚しようなんてどうかしている。大紛争だ。彼はお前を殺そうとしないだろうか。たとえそこにブィンガーニがないとはいっても。」

妻の与え手は妻の貰い手に対して優位に立つ。夫は妻の父親からのさまざまなサービスの要求に応えねばならない。つまり娘を婚出させることによって、男は義理の息子(mutsedza)という頼りになる支持者を手にいれることになる。祖父が実の孫娘との結婚をめざすということは、その孫娘の父--自分の息子であれ自分の娘の夫(義理の息子)であれ--から彼がこうした支持者を手にいれる機会を奪おうとすることに匹敵する。なぜなら息子も義理の息子も、父親や義理の父親に対してはけっして義理の息子に対するような権威を行使することなど出来ないからである。上記の主張は、祖父と孫娘の性関係が禁じられるのはこうした社会的な理由からなのであって、それがマブィンガーニであるという理由からではないのだと言っているのである。

マブィンガーニを近親相姦つまり近親者との性関係ととると、そこから祖父母-孫関係が除外されているとすれば驚くべきことになろう。関係が「近い」から禁じられるのだという理屈はまったく通用しないことになるからである(註5)。

マブィンガーニの観念と我々の理解する「近親相姦」の観念との乖離は、先に引用した「公式」における「妻を与えることを通じて(kp'a mahwalwi)、あるいは妻を受けとることを通じて(kp'a mahwali)同じ身内(umbari)となった女性」についての禁止においてよりあからさまなものとなる。例えば、妻の姉妹(mulamu)や彼女の娘(妻の姉妹の娘 mwana, mwana wa mulamu)、兄弟の妻(mukaza ndugu)や、彼女の姉妹(兄弟の妻の姉妹 mulamu)やその娘(兄弟の妻の姉妹の娘 mwana, mwana wa mulamu)、息子の妻(mukaza mwana)や彼女の姉妹(息子の妻の姉妹 mukaza mwana)、などとの関係は、すべて深刻なマブィンガーニだとされており、祖父母と孫との関係の場合と異なりこの点に人々の意見の相違は見られない。言うまでもなく、彼女らはそもそも姻族女性なのであるから、すくなくとも我々の考えるところの「血のつながった親族」ではない。親族のつながりをたまたま我々同様に「血」の共有という比喩で語る当のドゥルマの人々にしても、この比喩を姻族に無条件に適用したりしない。人々は、この関係がマブィンガーニをもたらす「近すぎる」関係であると語る。しかし、兄弟がある女性と結婚しているという事実によって、たとえばその女性の姉妹を自分にとっての近親者にするような理屈が、用意されているわけではない。ドゥルマでは姻族女性との性関係は、親族女性との性関係に類するものと捉えられているのだ、あるいは「近親相姦」における「近親」の範囲がいわゆる姻族も含む広がりをもっているのだ、と無理やり想定してみるのは勝手であるが、その根拠はまったくない。

兄の妻の姉妹との性関係がなぜマブィンガーニをもたらすのか、その理由は実際にはこんな風に説明される。「彼女(兄の妻)とその妹とは互いに同じである。だから私が彼女(兄の妻の妹)と寝るというのは、私の兄の妻と寝るようなものである。これはヒツジを必要とする(ような過失である)。」姉妹どうしの近さ、兄弟間の近さが問題とされているだけである。さらに、ではなぜ兄の妻との性関係は良くないのかと問うとしよう。兄の妻が自分にとって一種の近親者--例えば、姉妹--のようなものであるから、といった類の説明はけっしてなされない。むしろ説明はまったく別のラインをたどりはじめる。そしてそのとき初めて、我々はこのマブィンガーニという概念が、我々の「近親相姦」の概念とは異質な概念であることに気付かされることになる。

そこで持ち出されるのは、次のような一般的原理であり、実はこちらの説明の方がマブィンガーニの説明としてはより頻繁に耳にする説明でもある。
「マブィンガーニは、例えば、もしお前とお前の兄弟あるいは息子が、一人の女性、あるいは互いに姉妹、互いに母娘であるような女性たちと寝るとすれば、そのことによってもたらされる。」

兄の妻との性関係が良くないのは、まさに兄弟で一人の女性と性関係をもってしまうことになるからなのである。兄弟の未亡人を妻にとろうとする場合に、マブィンガーニを解消するヒツジの供犠が前もって必要になるのも、この結婚が兄弟で一人の女性を--たとえ兄弟の一方がすでに死亡しているにせよ--共有することにあたるからである。ヒツジの供犠に先だって彼が未亡人と性関係をもった結果のキティーヨは「死体のキティーヨ(chitiyo cha lufu)」と呼ばれることがある。互いに兄弟や父子であるような二人が,女性を性の対象として共有してしまう事態、これがマブィンガーニ、つまり兄弟や父と息子が「まぜこぜになる」ということの内実である(註6)。上で述べた姻族女性との性関係がマブィンガーニとされる場合のほとんどが、これに相当している。問題は、二人(あるいは複数)の親族が性の対象を共有してしまうことにあるのだから、ある女性との性関係がマブィンガーニを引き起こすかどうかは、相手になる女性自身が自分に近い親族であるかどうかという事実には無関係であるということになる。それどころか相手の女性は、性関係に先立って自分とは何のつながりもない女性ですらありうる。単なる一時的な婚外交渉の相手--女性の場合ドゥルマ語では「ブッシュの妻(muche wa weruni)」とか「外の妻(muche wa konze)」などと呼ばれる--との関係がマブィンガーニとなりうるのである。

「ブッシュの妻を通じてもマブィンガーニはとらえる。それはこんなふうにだ。お前とお前の息子が、あるいは兄弟が、ブッシュの妻たちを訪れる。それが同じ一人の女であったり、互いに姉妹であったり、母娘であったとしよう。さて、キティーヨというものは人を殺したり屋敷を駄目にしたりするまでに、随分とゆっくりとしていることがあるものだと知りなさい。さて、お前が病気になったり、あるいは事故で怪我をしたりする。さて、こんなふうに事をしでかした人々がお前を見舞いにやってくる。お前はあっという間に死んでしまうかもしれない。あるいはお前が彼らを見舞うと、彼らは死ぬかもしれない。ドゥルマではこれを、『彼らは父と子、兄弟を混ぜこぜにした(amutsanganya mutu na mwanawe, ama nduguze)』と言うのだ。だからキドゥルマではこうしたことが生じると、相手を死なせることを恐れて、一方が病気のときにもお互いに見舞いにはいかない。」

このように恋人や売春婦、婚外交渉の相手によってマブィンガーニが生ずることは、父子や兄弟が「外でまじりあうこと(kutsanganyika konze)」とも呼ばれている。これを近親相姦として理解することなどとても出来そうにない。「近親」の観念をいかに拡大してみたところで、こうした性交の相手を男にとっての一種の近親者にする理屈はたたない。ここで「まじりあっている」と語られるのが、父と息子、兄と弟のような同性の二人であることに注意しよう。「まじりあう」はけっして男女の性交渉の比喩ではないのである。「ブッシュの妻」とのこうした一時的な性関係がもたらす災厄は、同じ一人の女性と関係をもってしまった父子や兄弟たちのうえに、もっぱらふりかかる。人々は、例えば兄弟が町で同じ売春婦と関係をもってしまうことは、おおいにありうると考えている。しかしキティーヨがその当の売春婦のうえにも及ぶとは全く考えられていない。それは彼女と関係をもった兄弟たちの方にだけにふりかかる。

さらにマブィンガーニは必ずしも不適切な相手との性関係によって引き起こされるとさえ言えない。次のようなかたちでも生じるのだという。
「マブィンガーニは衣服(nguo)を通じても入ってくる。例えば、女性が自分の娘に腰巻(leso)を貸し、その娘がそれを地面に敷いてその上で恋人と寝、帰ってきてそれを母に返す。そうした衣服はマブィンガーニをひきおこす。ベッドや小屋そのものでさえそうだ。例えば兄は弟の小屋のなかで恋人と寝ることはできない。こうしたことがおこると、ヒツジが必要になる。キティーヨのためである。」

ここではマブィンガーニを引き起こすのは、性関係の相手がなんらかの意味で不適切な相手であったという事実ですらない。同性の近親者--母と娘、兄と弟など--が腰布やベッドを性交の目的で共有したという事実が、マブィンガーニを引き起こすとされている。さらに父と息子、兄弟が互いのベッドや寝ゴザ、シーツなどを無断で借用することは、それが性交の目的で使われると否とにかかわりなく、マブィンガーニの始まりとして禁じられている。こうした近親者の衣服、とりわけ腰巻(musare, leso)を借用し洗濯せずに使用したり、洗濯せずに返すことも同様である。息子やその妻が水浴びや用を足した同じ場所で、父やその妻が同じ行為をすることも危険であるとされている。親子の糞便がまじることも危険であり、ピット便所がなかなか普及しない理由の一つだと言う者もいる。水浴びの水や糞尿の混じりあいは、兄弟どうしや姉妹どうしについてはそれほど問題にされていないようである。こうした行為の一つ一つはせいぜいマコソと呼ばれるような取るに足らない行為であるが、累積すると屋敷を「まぜこぜに」してしまい、さまざまな形のキティーヨを引きおこしうる。

 「なまの弔い(hanga itsi)」と呼ばれる服喪期間が水浴びや残された配偶者の巣立ちなどでひとまず終了し、弔問客たちが散会する頃、死の施術師(彼は同時にマブィンガーニを治療することのできる施術師でもあるのだが)が、服喪期間に用いられた寝茣蓙を集めて、そこに後に述べるマブィンガーニの治療に用いられるのと同様な(ただし生きた羊の胃の内容物のかわりに、乾燥し細かくした第三胃を用いているが)薬液(vuo)を振り撒いているのを目にする。服喪期間中に寝茣蓙がさまざまな人々--親子や兄弟が同じ寝茣蓙を用いてしまっているかもしれない--によって共有されてしまったことに対する、キティーヨの予防として行っているのである。何かにつけ、人々は屋敷の中が「まぜこぜ」になってしまわないように細心の注意を払う。もちろん人によって、そのこだわりの程度はさまざまで、やたらと混じりあいの危険に敏感な人もいれば、誰もが重大だと考えるもの以外にはまったく無頓着であるように見える人もいる。

マブィンガーニがどのような事態を指す概念であるか、おそらくもはや誤解の余地はないであろう。それは「まじりあう」こと、ただし「同性」の近親者が互いに「まじりあう」ことである。父と息子、兄と弟のような互いに同性の近親者が性関係の相手を共有--あるいは各々が性の相手としている女性どうしが互いに近い関係にある--してしまうこと、または単に性交と結びついた物を共有してしまうことが、「まじりあう」ことの具体的な内容である。異性の近親者間の性関係、つまり近親相姦が問題になっているのではない。たとえば父と娘の性関係が「父と娘がまぜこぜになった」という言い方で語られることはない。また上田がドゥルマに隣接するギリアマの人々のあいだで報告しているのとは異なって、それを「血」の「まじりあい」として語る語り口も、少なくとも私は耳にしたことがない(註7)。マブィンガーニについて最初にあげた定式化は、男がその女性と関係をもつと、こうした同性親族の「まじりあい」が生じてしまうようなそんな女性についての目安として解釈できるかもしれない。それはマブィンガーニの概念を定義するものというよりも、実践上の良い指針になるという訳である。こうした観点でとらえ直すと、例えば男と母親との性関係は、確かに一人の女性との共通の性関係によって父と息子を「まじりあわせる」ものであることがわかるし、男と姉妹との性関係も、息子が、父が関係をもっている女性の娘と関係をもつということであるので、同様に父と息子を「まじりあわせる」関係でもあることがわかる。特定の親族女性との性関係は、近親者との性関係と捉えることができると同時に、その異性との性関係がもたらした同性の親族との関係の問題として眺めることも可能である。マブィンガーニの概念は、我々が日本語で「近親相姦」という概念によってとらえている諸関係を、後者の、まったく異なったロジックによって再編成しなおした概念なのだと言える(註8)。

マブィンガーニと日本語の「近親相姦」のこの違いを、必ずしも排他的なものととらえる必要はない。異性の近親者との性関係であることに「問題」を見いだしている日本やヨーロッパにおける語り口の内部から、たとえば「トーテムとタブー」におけるフロイトのインセスト・タブー論が生れていることを思いだそう。そこでは母子相姦の問題は、マブィンガーニの概念におけると同様に、父と息子の関係の問題として扱われていた(フロイト 1970)。ジラールが指摘しているように、最終的には母に対するリビドー的愛着の理論によって包摂されてしまったとはいえ、フロイトにとって母子のインセストの問題は「すべての点で、母親にたいしてさえ、父親になり代りたい」という息子のミメシス的欲望の危険と分ちがたく結びついていた(ジラール 1982:267-293)。反対にドゥルマの人々のあいだに広く見られるような、問題を同性の親族の「まじりあい」としてとらえる語り口の内部にも、とりわけ若い層に普通に見られるように、それをまさに「近親相姦」--異性の近い親族との性関係--としてとらえる視点も存在している。自分の実の孫娘との関係を、自分の娘との関係同様にマブィンガーニだと主張したある男は「なぜならお前は自分自身の血を飲んではならない。飲んだらヒツジだ。」と語る。同じ「血」を共有するものとの性関係を「自分の血を飲む」という比喩で言い表している。禁止された性関係を血のつながりの言葉を用いて説明する語り口である。しかしこう述べたあとでこの男は付け加える。「お前の息子がお前のことを義理の息子(mutsedza)と呼ぶなんて。そしてお前はというと彼の母を妻にもっている。そして彼を産んだのはお前だ。そんなことは大きな間違いだ。」これは祖父と孫娘の関係をマブィンガーニではないと主張する者が、にもかかわらず両者の関係が望ましくないことを説明する際に用いる語り口そのものである。一つの語り口はもう一方の語り口の可能性に開かれており、けっして他方を排除しない。にもかかわらず、ある女性との性関係が禁じられているという事実を、一方では性関係の相手に対する親族関係の近さという言葉で語り、他方では同性の親族の「まじりあい」という言葉で語るそれぞれの語り口は、それぞれ別の仕方で対象について一貫して語る語り口なのである。ドゥルマにおいては、後者の語り口がより首尾一貫した語り口として前景に出てきている。日本の近親相姦という概念においては、ちょうど反対になっている。

祖父母と孫との関係が、二つの語り口のぶつかり合う場となっている。「血」の共有と親族関係の近さの語り口においては、この関係が禁止されるべき関係となることは容易に理解できる。しかしマブィンガーニを同性親族の「まじりあい」の問題として語る語り口に立つと、なぜこの関係が許される関係になるというのだろうか。その答えはただちには与えることができない。そのためには「まじりあう、まぜこぜになる」という表現そのものがもつ意味をもう少し明らかにせねばならないだろう。

「まぜこぜになる」という表現は、すでに指摘したように比喩的表現である。あらためて強調する必要もないだろう。父と息子を、あるいは二人の兄弟を「まぜこぜにする」といっても、もちろん物を混ぜ合わせるようにまぜこぜにすることなどできない。なぜ、たとえば共通の女性を性の対象とすることが二人を「まぜこぜ」にすることになるのかという問いには、そうすることが「まぜこぜにする」ということなのだという同語反復によってしか答えられない(註9)。そうした行為はそれが屋敷の中の人々をまぜこぜにするという理由で禁止されている。しかしここまで各章で検討してきた諸事例と同じように、ここでもまさにこの禁止こそが、具体的に何をすることが「まぜこぜにする」ことなのかを定義している。つまり「まぜこぜにする」という比喩的な表現に、実行上の意味をあたえる構成的規則になっている。ここまでの議論で私も、何が禁止されているかを検討することを通じて、「まぜこぜにする」ということが何を意味しているのかを理解しようとしてきた。しかし何をすることが「妻を引き抜く行為」にあたるのか--夫が水甕あるいは炉石を動かすこと、というのがそれだったのだが--を検討するだけでは「妻を引き抜く」という比喩的表現を理解できたとは言えなかったように、ここでも「まぜこぜにする」という比喩的表現は、それが属している比喩的論理のコンテキストがもしあるならば、そのコンテキストでの位置によってはじめてその意味を十分に理解することができる。

マブィンガーニの治療

「まぜこぜ」の状態であるマブィンガーニやマブィーティヨは、クブォリョーリャ(ku-phoryorya)と呼ばれる手続きによって解除できる。この手続きはクブォリョーリャの施術師(muganga wa kuphoryorya)、マブィンガーニの施術師(muganga wa maphingani)などと呼ばれる専門の施術師によってなされねばならない。施術師になるには、クブォリョーリャの術(uganga wa kuphoryorya)とそれを施術する際に必要な知識を、その知識をもっている施術師から購入する必要がある。すでに身内--親や配偶者--に先立たれたことのある者にしかこの知識は伝授されない。正しい知識はギリアマの人々に由来するという観念が広く見られる。施術師の中にはわざわざギリアマの土地--カヤ(kaya)と呼ばれるかつての要塞村のあった森がこうした術の知識のもっとも正しい源泉であると考えられている--まで赴いて手に入れた者もおり、そうした施術師はそのことを誇りにする。クブォリョーリャは屋敷に起こったさまざまな災厄を処理し、屋敷を「冷やす」ための「冷やしの術(uganga wa kuphoza)」の一種だと位置づけられている。一人一人の施術師は、その知識の量も違えば、人々の評判もまちまちである。「冷やしの術」が出来る「冷やしの施術師(muganga wa kuphoza)」の誰もが、クブォリョーリャの知識をもっているわけではない。

クブォリョーリャがどんな風に行われるかは、たいていの人が知っている。施術師のもつ特別な知識とは、そこで用いられる「木(muhi, pl. mihi)」に関する知識、つまりマブィンガーニを解除し屋敷や人々を「冷やす」目的で用いられる種々の植物についての知識である。しかしこれについても多くの人がすでに一定の知識をもっている。その主成分は「冷たい木(mihi ya peho)」として広く知られているものである。「冷たい木」には多くの種類があるが、ドゥルマ語でムコネ(mukone)、キトワジ(chitwazi)またはギタジ(gitaji)、ボゾ(phozo)、レザ(reza)、ムサロ(musaro)、ムゥンドゥ(mwundu)、ムニュンブ(munyumbu)、コンバ(komba)などの7〜8つが広く知られているものである。多くは水の中で揉むと粘りのある液になる。しかしそれぞれの施術師には、それに加えるべき、人々の知らない特別な「木」についての知識があり、その名を簡単には人に明かさない。施術師ごとにその知識は必ずしも同じものではない。黒いメンドリの少量の血とこれらの「木」、それにヒツジの胃の内容物を水とともに混ぜ合わせたものがクブォリョーリャで用いられる薬液(vuo)となる。ヒツジの胃の内容物(ufumba or munyou)は特別な仕方でヒツジを供犠することによって手にいれなければならない。ヒツジは右側を下にして地面に押さえ付けられ、生きたまま脇腹をナイフで突かれ(ku-humbulwa)第一胃(ifu)の中のものを取り出された後に首をかき切られて殺害される。あまり深刻ではない軽度の「まざりあい」の場合には、ヒツジそのものを殺害する必要はなく、別途用意されていたヒツジの第三胃(chipigatutu)--別の機会に屠殺されたヒツジから取っておいたり、食肉店で分けてもらうことも出来る--を乾燥させた物で間に合うこともある。一方、マクルやマクシェクシェのように深刻な場合には、4頭あるいは8頭のヒツジが犠牲になる。薬液は、ムコネの木の枝--特に赤い実をつけない「女のムコネ(mukone uche)」の木が選ばれる--を束ねた物(luphungo)を刷毛のようにそれに浸して、患者の体を撫ぜるように塗り付けたり、あるいは患者に向かってそれをはげしく振り動かしその滴を振り撒くなどの仕方で、患者に施される。

クブォリョーリャに際しては、屋敷の火をすべていったん消してしまわねばならないとされている。もっともこの点に関しては、その必要はないという意見もある。いずれにせよ--その他の実施上の問題同様--施術師がどう指示するか次第である。クブォリョーリャの患者、つまり「まぜこぜ」になってしまった人々、問題の性関係を結んでしまった当人たちは、全員が一列に足を投げ出して、となりあった人と足を互い違いに重ね合わせるようにして、地面に座らされる。施術師はヒツジを連れて彼らの回りをめぐりながら、彼らが犯したすべての性関係についてあからさまに述べ立てる。普段は口にできないようなはしたない言葉(maneno ga kuhakana)で包み隠さず明るみに出すことが重要だと人々は言う。「そいつ(施術師)ときたら、彼の仕事ははしたない口をきくことなんだよ。しでかされてしまったもろもろのこと、それをあけすけに全部喋るのが仕事なのさ。」その後にヒツジが殺害され、完成した薬液が全員の体に振り撒かれる。さらに全員の衣服も積み上げられて、薬液をまぶされる。これでマブィティヨは解消されることになる。屋敷の火が消されている場合には、この後屋敷の長によって火がともされ、それが各小屋に分けられる。さらにこれに加えて儀礼的性交も必要だと主張する人々もいる。

以下の事例は私が最も最近立ち会うことの出来たクブォリョーリャである。私が立ち会ったなかではもっともひどい「まぜこぜ」のケースでもあった。Bの長男B1がN氏の娘M1と結婚する話が進んでいた。それぞれの両親はすでに婚資についても合意しており、N氏はB1が娘を迎え入れるために新築した小屋の屋根材の購入を援助するほどであった。しかしその矢先Bの4男B4がK氏の娘M2を妊娠させていることが判明したのである。N、K両氏とも彼らが暮している屋敷の創始者M氏の子供で、父親M氏の死後も一つの屋敷(Mの屋敷として知られている)を維持していた。B氏は自分の息子たちを問いただし、その結果さらに彼の二男B2もM氏のもう一人の息子J氏の娘M3と関係をもっていることまで判明した。こうしてそれぞれの屋敷に「間違いが起っている(phakoseka)」ことが、それもかなり深刻な「まぜこぜ」であることが明らかになった。Bは息子たちの不始末の責任をとってクブォリョーリャのためのヒツジと施術師に払う費用を提供し、Mの屋敷でクブォリョーリャが行なわれることになった。人々の中には、これでは十分ではなく、Bの屋敷でもこれとは別にクブォリョーリャが行なわれるべきだという人もいた。なぜならどちらの屋敷も、他方に劣らずひどく「まぜこぜ」になってしまっているからである。別の人々は一回のクブォリョーリャでMの孫娘たちとBの息子たちのどちらのマブィーティヨも解除できると考えていた。「だってBの息子たちもそこに行くのではないかい?そちらで(薬液を)振り撒かれて(ku-vungb'a)、またこちらに来てもう一度振り撒かれるべきだとでも言うのかい?とんでもない。」

sexual relations among the children of the two families

このクブォリョーリャには、私が立ち会う機会があった他のクブォリョーリャと比較して、いささか普通でないところがあった。先ず第一に、Bと彼の一族がMの屋敷に出発しようとした朝、肝心の息子たちの姿が見えなかった。B1は自分の結婚話をぶち壊した弟たちの所業に腹を立てたまま、町へ仕事に出ていた。前日までに帰ってくるはずだったのだが当日になっても戻っていなかった。B2は前日、自分はクブォリョーリャで座らされるのは恥ずかしいからいやだと私に告白していたが、案の定、朝には姿をくらましていた。B4も見当たらなかった。彼らが出席することは手続き上は必要だったのだが、いないのでは仕方がない。彼らが普段身につけている洗濯していない衣服が代りにもっていかれることになった。さらにMの屋敷に着いて、いざ儀礼を始めようというときになってM2の父Kが、自分はキリスト教徒だからこの儀礼には関与しない。それよりも私の娘を「台無しにした(ku-bananga)」賠償を支払ってほしい、私が娘の教育に注ぎ込んだ金をどうしてくれると言い出した。この要求をめぐって場は紛糾し--というのは貧しいB氏にはK氏の要求に応えるすべがなかったからであるが--、クブォリョーリャの開始は大幅に遅れたうえ、本来そこにいなければならないK氏自身の出席も望めそうにないことがわかった。そこに来て、Jの娘M3の姿も見えないことに人々は気づいた。老人たちはキリスト教徒や最近の若者の分別のなさを嘆いたが、どうしようもない。おまけに施術にあたって今度は施術師自身が、自分がイスラム教徒であることを理由に通常とははずれた手続きを主張した。喉をかき切って殺害する前にその腹を突いて胃の中身を取り出すのは「罪(dambi)」にあたるからといって、先に殺害することを主張したのである。こうしたいわゆる「儀礼」につきものの実施上の異例さの意味はまた別の機会に再考しなければなるまい。

ともかく午後2時過ぎになってようやくクブォリョーリャが開始された。Mの屋敷の主立った人々、Bの親族、それに近隣のごく親しい数名を加えたけっこうな人数の人々がN氏の小屋の前庭に集まった。

最初に薬液(vuo)が準備された。大きな瓢箪を半分に切った容器の中に、臼でついてつぶした「冷たい木」を入れ、黒いメンドリの爪を切り落として滴る血を容器の中に落とす。3リットルほどの水を加えて、よくかき混ぜる。B1もB2もB4も、またM3も、もはや現われそうにないので、彼らの衣服を代りに二人の女性たちとともに「座らせる(ku-zagazwa)」ことになった。衣服によるこの代用は、人々にあっさり受け入れられた。準備が整うと、施術師はヒツジの頭に薬液をこすり付けながら唱えごとをした。
「お前、ヒツジよ、お前、ヒツジよ、冷やす者よ。それはブィーティヨと呼ばれる問題、マクシェクシェと呼ばれる問題。それを治せるのはお前、ヒツジよ、お前こそ冷やす者だ。洞窟に湧き出る水のように。お前こそ冷やすものだ、池の水のように。今、私はお前を殺そうとしている。なぜならまぜこぜになった問題があるからだ(kuna mambo gotsanganyikana)。一人の男の子供らが、祖父を同じくする者たちをまぜこぜにした。まさにマコソだ。誰かが頭痛に苦しんでいるとき、誰も見舞いに行くわけにいかない。お前は知っているはずだ。こうした行為をなした者は、コブラを招く、パフアダーを招く。
さて、こういった問題は、気づかれないでいると人を捕らえる。しかしそれは明るみに出た。屋敷がもはや瑕疵のない状態ではないとわかった。あわてふためいて、顔を見合わせ、何も出てこないということがあるだろうか。ここにいるこの者たち、こいつらがことをしでかしたのだ。性交しあった(kuhombana tu)のだ。まるでニワトリやヤギのように。そうだろう?お前たち、そんな風にからみあった(mwalingana)んだろう?」(観衆爆笑)

二人の女性は互いに足を絡ませる。青年たちの衣服も足に触れるように配置される。施術師はヒツジを連れて、そのまわりを反時計回りに唱えごとをしながら7回周回する。観衆、回数を数える。

「お前、ヒツジよ。ただ殺したくて意味なくお前を殺そうというのではない。人々の過ちのせいでお前を殺すのだ。人々自身がしでかしたことのせいで。しでかされてしまうと、昔の人々(祖先たち)自身、もしこんな風にしでかしたときには、ヒツジと黒いメンドリがその治療法、人々のまわりを周回させられるのだ。人々というのは他でもない、こいつらのことだ。われわれのやり方を捨てて、ヤギやニワトリの生き方に従った。むやみに性交する、父と性交する、こいつらときたら。隠しおおせて知られずにいたら、それは人を捕えつづける。だが、隠さずに、あからさまに知らしめれば、さあ、消え去るものなら、消え去ってしまえ。」
(人々は唱和する)「消え去ってしまえ!」
(施術師、周回を続けながら)「そうそう、そんな具合い。さて、私が今やっていること、そのやり方は、けっして私自身が思いついたものではない。私はそれを父から教わった。まだ父が生きていた頃に。父は私に、もし自分が死んだら、お前が施術師となって治療をせよと言った。そんなわけで今、私がこの仕方で行なえば、マブィンガーニよ、雀のように飛び去れ。」
(人々)「飛び去れ!」
(施術師)「こいつらは過ちを犯した。しかしそれは過ぎたこと。人間がブッシュの獣のように振る舞った。しかし今やこいつらは気づいた。どうもこれはまずいぞと。兄弟が病気になって、さて見舞いに行こうと。兄弟は床に就いている、快方に向かっている。なのに私が見舞いに行くと、病気が重くなる。なんと私のせいだ、という具合い。だってお前たちはまぜこぜになっているんだから。まぜこぜになった。でもそれは過ぎたこと。今や、私がお前たちを分け(ku-tanya)にやってきた。私はお前たちを分ける。ヒツジはこいつだ。「冷たい木」も用意している。これだ。さあ今、私が命じるように、ブィーティヨよ、立ち去れるものなら、立ち去れ!」
(人々)「立ち去れ!」
(施術師)「今、私は命じる。兄弟が兄弟であり、父が父であり、母が母であらんことを。お前、ヒツジよ、冷やせ。さて、皆自分たちがしでかしたことが悪いことだとわかっている。だのに、今日、ここにいるのは女性ばかりというのはどういうことだろう。男どもは身を隠している。という訳で、仕方あるまい。私は今日この女たちのためにマブィンガーニを取り除いてあげよう。お前、ヒツジよ、彼女たちを冷やせ。彼女らがもし病気になっても、もう見舞いに行っても大丈夫。誰かが妊娠しても。安心なさい。私はニョンゴー(妊婦を襲うとされる病気)の治療も心得ています(笑い)。彼女らが平安のうちに出産しますように。」
(人々)「彼女らが出産しますように。」

ここでちょうど七回目の周回が終わる。施術師はN氏に向かってヒツジの処理について指示を与えた。
「さて、昔はこうしてことがすっかり終わったら、この場で一人の男がヒツジをそこらに据えて、ナイフを突き立て、胃の内容物(ufumba)を噴き出させたものです。でも私はそうはしますまい。7回周回し終えたのなら、さあ、Nさん、ヒツジを屠殺して、胃の内容物を取り出してください。」
(N氏)「先に、屠殺しろって?」
(施術師)「そう。そしてヒツジが完全に死んでしまう前に、誰かが胃を開いて、内容物を取り出し、その容器の中に入れてくれればいいのです。」
(N氏)「私の知っているところでは、私が見たところでは、屠殺する前に、腹にナイフを刺して、先に中身を取りだすと。まあ、人それぞれやり方があるとは言うけれど。」
(施術師)「さっさと屠殺しなさい。生きているのにナイフで腹を切り開くなんて、とんでもない、とんでもない。そんなことをすれば罪(dambi)です。」

人々、ぶつぶつ言いながら同意して指示に従う。

(施術師)「やってこなかった奴らの服に、胃の内容物をぶちまけなさい。あ あ、いっそ浸してしまいましょう。そいつらのしたことの方が、はるかに悪い ことなのだから。」

準備が整う。青年たちはヒツジをもって傍に行き、皮剥ぎと解体にかかる。人々の関心はそちらに向いてしまう。毛皮に傷をつけぬように、といった細かい指示が青年たちに浴びせかけられる。施術師、人々の関心をクブォリョーリャに再び向けさせる。

(施術師)「さあさあ。皆さん、腰を下ろして。治療を終えてしまいましょう。」

施術師はヒツジの胃の内容物を混ぜた薬液に、束ねたムコネの木の枝を浸して、それを刷毛のように用いて、座っている二人の女性に塗り付けていく。最初は頭から始まり、背中、ついで体の正面に塗り付けながら、その都度施術師は大声で唱える。「出ていけ、出ていけ(Navyombolee, navyombolee!)」「背中へ行け、背中へ行け(Navyende mongo!)」「ブッシュ(ko weruni)へ行け。荒れ地(nyika)へ行け。」人々はそれぞれに続いて唱和する。
こうしてクブォリョーリャの手続きは終了する。施術師は人々に向かって諭す。

(施術師)「さて、ブィンガーニは内からやってきました。今や荒れ地に去ってしまいますように。一言申し添えます。万一、再び禁止(mizizo)を捨て、また同じこの道に戻ってしまうとします。この道に戻ると、また災いも戻ってきます。別の人をさがして、その人相手に好きなように性交しなさい。(N氏に)念のために、あなたがたの小屋の中も冷やしておきましょうか。」
(N氏)「まあ、外でやったんだろうとは思うけれど、私が不在の時もあった。たぶん私たちの小屋の中も胃の内容物を受けた方がいいだろう。」
(施術師、座っている女性に向かって)「お前さんたち、立った立った。もう終わりましたよ。それともあなたたち、顔もこれで洗ってほしいのかい?」(人々爆笑)

施術師の唱えごとは普通なら人前では口に出せないような言葉--性交する(ku-hombana)など--で満ちている(註10)。しかしそこではマブィンガーニについての標準的な知識--見舞いすることによる病状の悪化や、毒蛇に咬まれることなど--が提示されている。ほとんどの人が知っている知識ではあるが、それは専門家としての権威のもとで語られたものである。彼のヒツジの処理についての異例な指示が結局従われたことからもわかるように、彼の語りには重みがある。結局は彼は自分のやり方でいくつもの屋敷を首尾よく治療してきているのであるから。クブォリョーリャに限らずすべての施術師は唱えごとの中で、自分の知識が不正な手段で--「盗み(kp'iya)」によって--得られたものでなく、正当に手に入れたものであることを必ず述べたてる。「盗ん」だ術には効果がないという理解は一般的である。また施術師の唱えごとは、「まぜこぜ」になる関係が同性の親族であるということを端的に述べている。一人の男の息子たちによって「まぜこぜ」にされた、祖父を同じくする姉妹たちが治療の直接の対象であると語られているのである。

上の施術において注目すべき点の一つは、「われわれのやり方(chikp'ehu)」、ドゥルマのやり方(chiduruma)、人間のやり方(chibinadamu)が、ヤギやニワトリの、そしてブッシュの獣のやり方に繰り返し対置させられ、マブィンガーニが人間の世界に対するブッシュの獣たちの領分に結びつけられているという点である。単にその行為を動物的と呼んで、その非人間性、非倫理性を強調しようというレトリックではない。クブォリョーリャの手続きは、「内」から生じた「まぜこぜ」をブッシュへと実際に送り返そうとしている。その狙いは、人々を再び「分け(ku-tanya)」ること--再び父を父に、母を母に、兄弟を兄弟にすること--である。「まぜこぜ」が普通であるようなブッシュの世界に対して「われわれの」世界はきちんと「分け」られた世界であるという対照的なイメージが提示されている。

 周回(ku-zunguluswa)の手続きは、この地方ではクブォリョーリャや「冷やし」の術だけでなく、さまざまな病気の治療においても用いられる標準的な手続き、所作の一つである。通常のクブォリョーリャにおいては、「まぜこぜ」になった当事者たち本人の周囲をヒツジを巡らせる。しかし屋敷全体が「まぜこぜ」になってしまったと言われるような深刻なケース(マクルやマクシェクシェと呼ばれる種類の)では4匹、あるいは8匹もの羊が屋敷全体を囲むように周回させられる。周回は境界線を描き出す行為、文字通り空間を内と外とに区分する所作である。それは、クブォリョーリャの手続きにおいては、「内」に生じた「まぜこぜ」をブッシュに送り返す手続きの一部を構成している。

注目すべき第三の点は、マブィンガーニを明るみに出すことの必要性が繰り返し語られているという点である。隠されている限りマブィンガーニは人々を捕らえ続ける。実際、もしクブォリョーリャに先立って、自分たちがしでかしたすべてを告白せずに隠し事をしていると、クブォリョーリャはうまく行かないとされており、当事者がすべてを告白したかどうかはクブォリョーリャの実施に際してもっとも大きな関心事のひとつである。

クブォリョーリャは、人々や屋敷を「冷やす」こと、隠れていた過ちを暴露すること、屋敷の「内」の「まぜこぜ」を「外」のブッシュに送り返すこと、「まぜこぜ」になった人々を「分け」ること、などのさまざまな行為の実行である。そのほとんどが、字義通りにそれを実行することの不可能な行為であるという事実に、いまさら注意を喚起する必要があるだろうか。屋敷を「冷やす」といってももちろん温度を下げることではない。ブッシュに送り返すといっても移動可能な物体が問題になっているわけではない。分けるといっても、「まじりあっている」という状態と見た目にせよ何にせよはっきりした違いを作り出すわけではない。しかし屋敷についての比喩的な論理の内部では、それらがまさに必要とされている行為なのである。人々が「まぜこぜ」になっていることが災いをもたらす危険な状態であるのだとすれば、危険を回避するには、なんとしてでも人々をもう一度「分け」てやる必要がある。なぜヒツジを周回させ、しかじかの仕方でヒツジを処理し、等々をすれば人々を「分け」たことになるのかと問うことは、再び我々を根源的に無根拠であるしかない規約性の基盤へ連れ戻すだけだ。つまり、そうすることが「分ける」ということなのであるという同語反復へと。

区別とまじりあい

親族の「まぜこぜ」になる以前の正常な関係--「父が父であり、母が母であり、兄弟が兄弟である」ような状態、「分かれている」状態--とはどのようなものであり、またどのようなものとして語られているのであろうか。

ある意味では屋敷の親族は「分かれ」ている--つまり互いに分離した存在である--どころか、むしろ共通の実質によって結び合わされた関係、連続した同一性の関係と呼んでもよいくらいの関係でもある。親子関係や兄弟姉妹の関係は、「血(damu, milatso)」の比喩を用いて、実質の共有の関係としてしばしば語られている。子供は父の「血」と母の「血」をともに受けついでいる。親子が、そして兄弟姉妹が互いに似ているのは、このせいであると言われる。子供が父と母のどちらか一方により似ている(lutso)場合、それはいずれか一方の「血」により大きな力があった(kukala na nguvu)ためだと語られたりする。

実質の共有は、上のような生殖のイメージを通じてだけでなく、屋敷内での成員の日々の実践、とりわけ食事をともにするというイメージを通じても語られる。食物は身体(mwiri)を作る。同じ食物--あるいはむしろ同じ鍋(nyungu)で調理された食物--を食べる人々は、身体の組成を同じくする。そんな語り口も存在する。こうした観念は、仲たがいした兄弟を捕らえるとされるチャカ(chaka)と呼ばれる病気の観念にはっきり見てとれる。チャカとは、互いに仲が悪く、ついには口もきかず、ともに食事をとることすらなくなった兄弟がとらえられる状態である。食事をともにしないことによって、彼らの唾液は「乾いて」しまい、それがもとでやがて彼らは病気になってしまう。これがチャカである。チャカは彼らの子供の上に顕れるかもしれない。生れてくる子供が次々に死ぬという、マブィンガーニと同様な結果をもたらしうる。病気が、占いでチャカであることがわかると、仲たがいしている二人をもう一度「まぜあわす(ku-tsanganya)」治療が必要になる。それは具体的には、双方の兄弟がそれぞれ食べ物の材料をもちより、いっしょに--一つの「鍋」で--料理したものを二人に食べさせることからなる。この共食がチャカを解消するとされる。

ここで用いられている「まぜあわす(ku-tsanganya)」という言葉は、マブィンガーニについて論じた際に「まぜこぜにする」と訳した言葉と同じである。マブィンガーニのコンテキストでは忌むべき事態とされた「まぜあわす」ことが、ここでは逆に望ましい手続きとして語られているのだということではあるまい。チャカが示しているのは、兄弟関係の前提となっている同質性、連続性--これは出生の事実と共食の実践によって保証されている--がさらされる危険である。兄弟が仲たがいのあまり共食を拒否することが、両者の同質性、連続性を破壊してしまう。ここで「まぜあわす」と呼ばれる操作は、二人を再び共食させることによって、破壊された連続性を修復する試みであるように見える。この操作は、結婚した夫婦の、あるいは男と彼の未来の妻の両親(mutsedza)との共食を可能にする手続きを思い起こさせる。男は妻を娶る際、当初は夫婦で食事を共にすることが許されていない。妻が実家から雄ニワトリあるいはヤギをもらってきて、夫に差し出すことによって、夫婦は一緒に食事ができるようになる。また男は彼の妻の両親の屋敷で食事をすることが、当初は禁じられている。ヤシ酒とヤギを妻の両親に差し出し、それをともに食べることがその後の彼らの共食を可能にする。この手続きはともに「手をまぜあわせる(ku-tsanganya mikono)」と呼ばれている。食事をつうじて「まじりあう」ということによって、ある種の連続性、接合の樹立が意味されている(註11)。

父子、兄弟などの同性の親族の関係は、実質を共有することに基づく同質性・連続性を踏まえたうえでの、互いに「分かれた」関係である。この同質性・連続性のうえに、次章でより詳しく述べるように、父と息子、兄弟ははっきりと序列づけられており、この序列上の上下関係にはきわめて大きな注意が払われている。保証された類似性、同一性、連続性の前提のうえに、さまざまな差異を設定する表象操作を「換喩的」表象操作と呼ぶやり方に従うならば(クリステヴァ 1984)、これら同性の親族間に見られる関係、食事をつうじて「まざりあう」ことによって維持されたり作り出したりする関係はまさに「換喩的関係」と呼ぶにふさわしい。「血」と「共食」がこうした換喩的連続性を比喩的に構築している。

マブィンガーニの観念は、親族どうしのあいだのこの関係と、性の対象を共有することによって成立する関係を、互いにあいいれないものとして対置させていることになる。両者を対立させているのが正確には何であるのかを押えておかねばならないだろう。

性の対象を共有することによって成立している関係の例は、女性の場合であれば同じ夫を共有する僚妻(mukakazi)どうしの関係に、実際に見ることができる。「血」をともにしない無関係な女性たちが一人の男性の共有によって、妻として互いに等価な存在となる。彼女らのあいだには、結婚の順序に応じた序列があり、この序列には単に権威へのこだわりという以上の意味がある。しかし夫にとっての妻という資格においては彼女らが全く対等であること、夫がけっして特定の誰かをひいきしたりせず、全員と分け隔てなく相手をするべきことが、強調される。彼女らが「まじりあう」ことには何の問題もない。彼女らが同じ相手と浮気をしても平気だと冗談めかして--そして実際にそうしたことがしばしば行なわれているとでも言うかのように--語られる。「Jの妻たち、彼女らはJによって最初からまじりあっているようなものである。何の心配もない。」ある屋敷の妻たちの素行についてのある老人のコメントである(註12)。

男性の場合、一人の女性を共有するという関係は制度的な社会関係としては見られない。性の対象を共有する関係に類するものとしては、姉妹のそれぞれと結婚した男どうしの関係、および母娘のそれぞれと結婚した男どうしの関係--言うまでもなくこちらは妻の父と娘の夫のあいだの関係である--がそれに当たると言えるだろう。

mwanyumba relationship

 一組の姉妹の各々と結婚した男は、互いをムァニュンバ(mwanyumba)と呼びあう関係に立つ。彼らは異なる「生まれを通じての親族」に属し、当然両者の間には何の連続性も想定されていない。しかし彼らは、同じ義理の親(mutseza)をもち「互いに兄弟のよう dza mutu na nduguye」であるとされ、互いを訪問しあい、さまざまな事柄において援助を提供しあう。その関係は相互的、対称的である。つまり一組の姉妹との関係を通じて、彼らの間に一種の等価性が成立していることになる。

保証された差異--同質性、連続性の欠如--の前提のうえに、そうした差異を超えて設定された類似性、等価性の関係を、同じくクリステヴァの定義にならって「隠喩的関係」と呼ぶことにすれば、ムァニュンバどうしの関係はまさに一種の「隠喩的関係」、それぞれが互いの交換可能な隠喩になっているような対称的な隠喩相互の関係に対応していることがわかる。

mutsedza relationship

母娘の各々と結婚した男どうし、つまり妻の父と娘の夫とは、互いをムツェザ(mutsedza)と呼びあう関係に立つ。妻の父は娘の夫に一方的に権威を行使できるので、両者の関係は「父と息子のように(dza mutu na abaye)」非対称的である。しかし互いに相手に対して同じムツェザという関係名称を用いているという事実は、両者のあいだに一種の等価性がうち立てられていることも示している(註13)。これは彼らの関係が、母−娘という換喩的関係から派生した隠喩的関係であると考えれば、簡単に説明がつきそうである。「王」に対して換喩的な関係に立つ「王冠」を破壊する者が、隠喩的な「王殺し」になることからもわかるように、換喩的な関係に立つ二項に同じ操作が加えられるとき、その操作の主体となる二項は、一方が他方の隠喩となるような関係に立つ。これは非対称的なタイプの隠喩的関係である。互いをムツェザと呼びあう者どうしの関係がこの種の「隠喩的関係」にたっていることは容易に見てとることができる。娘は母の「換喩」であり、従って娘と性的関係をもつ者は、母と性的関係をもつ者の「隠喩」となるのである。

マブィンガーニの観念は、換喩性と隠喩性という質の異なる二つの関係の両立不可能性に関係していると言えそうである。換喩的関係、隠喩的関係という用語に抵抗がある向きもあろう。その場合は、一方で同質性、連続性によって特徴づけられる関係と、他方で性の対象を共有することによって成立する等価性、差異の消失とが、相容れないものとして相互に対立していることを確認すれば十分であろう。性の対象の共有によって誤って持ち込まれてしまった等価性、区別の消去が「まぜこぜ」という言葉で指されていたのである。

 祖父母と孫のあいだの性関係をマブィンガーニとは考えない見方が存在するという点は、すでに述べたようにマブィンガーニの観念の最も並みはずれた特徴であるが、それもこの同じ論理の延長として理解することができるかもしれない。たとえば祖父と孫息子が一人の女性との性関係を共有することは、問題ないと多くの人が語る。

「Q:さて、あなたとあなたの祖父は、とても近い関係にある。でも同じ女性と寝てもそこにはマブィンガーニはないと?
A:ああ、ああ。お前の祖父はお前のただの友人さ。(笑い)お前の祖父はお前の兄弟とは違う。同じ外の妻と寝ても問題はない。だってお前がお前の祖父の未亡人と結婚するときにヒツジを差し出したりしないだろうが。」

ドゥルマにおいて祖父と孫は、さまざまな点で等価な存在である。ドゥルマの各父系クランは、そのクランに所属する個人を2クラスの限られた数の名前によって名付けている。隣接する世代は異なるクラスに属する名前を授けられる。つまり命名体系において祖父と孫は同じクラスに属する名前をもつ。とりわけ最初に生まれた孫息子たちは、祖父と同一の名前を与えられ、こうしたクラン名のみでなく、祖父の「あだ名」までもを彼から引き継ぐ。それとともに同時に彼の性格までも受け継ぐのだとことさらに語られすらする。すでに触れたように彼らは相互にジョーキング関係にたち、祖父と孫娘、祖母と孫息子は互いを夫、妻と呼びあい、乳房を触るなどの性的ジョーキングを行う。同性どうしのジョーキングのなかでは、相手に対する自由な悪罵、嘘言が許され、またお互いの所有物を隠したりする行為が許されている。彼らは言わば、相手に対して自らのうちの否定的な要素を提示しあうかたちで向かい合う。こうしたジョーキング関係が互いが互いの反転像、陰画、鏡像となっているような似姿たちのあいだに成立する関係であると言えるとすれば、あいだに介在する世代に対して点対称、正反対の位置に立つ祖父と孫との関係は、ちょうど反義語どうしの関係が「隠喩的関係」のある型に対応するといえるような意味で、一種の「隠喩的関係」にあたると見ることもできる。

GF-GC relationship

一方はこの介在する男性に対して父として関係し、他方は息子として関係している。祖父と孫との等価性は、ムツェザという姻族に対する名称(妻の両親と娘の夫とのあいだで相互に用いられる)の一見異例な適用を説明する。FZH-WBS 間でこの名称が使用されるという問題である。いうまでもなくこの使用法は、孫息子が祖父がムツェザと呼ぶ人物を自分もムツェザと呼んでいるのだと考えると、あっさり理解できるのである。

祖父と孫が同じ女性と性関係をもつことがマブィンガーニをもたらす「まざりあい」とは考えられないのは、祖父と孫との関係を特徴づける隠喩的等価性が、性の対象を共有することによって成立する等価性と矛盾していないためであると解釈することができる。もちろん祖父と孫との関係は同じ「血」を共有する関係でもある。マブィンガーニの概念自体がもつ曖昧さ--それに対して二つの異なる語り口が可能であること--と、祖父と孫との関係を「血」の比喩でとらえるか、ジョーキングの等価性のもとで捉えるかの曖昧さという二重の曖昧さが、祖父母と孫との性関係についてつねに対立する見解が共存しているという事実を説明する。

 すでに指摘したように、フロイトは「トーテムとタブー」において西洋におけるインセストをめぐる語り口の中に、共通の対象に向かう性的欲望が欲望の主体間に引き起こす相互的対立という副主題を見いだしていた。ジラールはフロイトが見いだしたこの副主題を変奏し、ミメシス的欲望から生まれる一種の相互性--私ならそれを隠喩的相互性と呼びたいところだが--が人々を互いの似姿へと変貌させ、そこから奇形の分身を出現させるという、供犠の成立メカニズムをとりだす(ジラール 1982)。マブィンガーニの観念においてこの副主題が第一主題の位置を占めているのだとすれば、同様なミメシス的欲望の論理がドゥルマの語りの中に見いだされたとしても、もはや驚きはしないだろう。

 『空飛ぶ篭』の話として語られている民話は、その予想外の解決で我々を驚かせるドゥルマの民話の一つである。あらすじはこうだ。

 あるところに三人の仲のよい兄弟がいる。実は彼らは一人の女性をひそかに好いていたが、それを互いに告げあっていなかった。ある日、三人は父の言いつけで牛を買いに遠方へ旅立った。途中で杖を売っている男に出会った。その杖はそれで一打ちすると死者を甦らせることのできる魔法の杖である。長男がそれを買った。さらに行くと篭を売っている男がいた。その篭は人が乗ると大きくなり、空を飛ぶことができる魔法の篭である。次男がそれを買った。さらに行くと鏡を売っている男に出会った。それは遠くのところで起こっていることを、まざまざと見せてくれる魔法の鏡である。末の弟がそれを買った。しばらく旅を続けていると、末の弟が言った。『俺の鏡によると、某村の娘が今にも死ぬところだ。私は戻らねばならない。』それは彼らがひそかに愛していた娘であった。他の兄弟たちもそれを見て驚き、次男のもつ篭に乗って、村に飛んで帰った。彼らが帰りつくと、その娘は既に死に、まさに埋葬されようとしているところであった。さっそく長男が自分の買った杖でその娘を甦らせた。しかし三人の兄弟は争い始める。長男は言った。『私の杖がなければこの娘は死んでいた。だから彼女は私の妻となるべきだ。』次男は言った。『私の篭がなければ、ここへ遅れずに帰りつくことはできなかったはずだ。だからその娘は私の妻となるべきだ。』三男も負けずに言った。『もし私の鏡がなければ、彼女の死を知ることができなかったはずだ。だから彼女は私の妻だ。』いったい誰に彼女を妻とする権利があるのだろう(註14)。長老たちはこの言い争いを見ておおいに困り、会議を開いた。そして彼女を三人の父の妻とする決定をした。三人はこの決定に満足し、彼らは恋人であった女性を母として、末永く幸せにくらした。

驚くべき結末である。一人の異性を共通の欲望の対象に持つとき、兄弟たちは敵対する相互性のなかに置かれる。彼らは、けっして同じ場所を同時に占めることのできない、互いの似姿となる。これが日本の昔話であれば、ここで兄弟の知恵あるいは力比べなどが始まって、似姿どうしが相互に戦いあい排除しあうことによって、最後に一人の人物だけを残すのを見ることになるだろう。この争いのなかで、兄弟を相互に関係付ける換喩的な差異が完全に消滅し、結局兄弟などはいなかったのだ、そこには一人の人物と、本物であるその男の前では消えさるしかない隠喩的な他者、単なる影がいただけだったのだと知らされることになるだろう。しかし、この民話においてはそうはならない。恋人を母に変換するという信じがたい離れ業をとおして、兄弟はあっさりともとの兄弟の姿に復帰するのである。兄弟は親としての一人の女性との関係においてのみ兄弟であることができ、性の対象としての一人の女性との関係においては、同時に兄弟であることはできない。マブィンガーニの概念が喚起するのもまさにこの命題である。

 民話の三兄弟はジラール的な暴力の相互性に陥るのを、危ういところで免れる。しかし禁じられた性関係の結果として、マブィンガーニの「まぜこぜ」状態に陥ってしまった兄弟は、すでに逃れようもなくこの相互性の中にある。「まじりあった」人々を見舞う典型的な危険が何であったか思い出そう。その一人が仮に病気にでもなり、彼を彼と「まじりあった」誰かが見舞うと、彼は死んでしまうかもしれない--本来、死に至るほどの病気ではなかったとしても--というのである。似姿たちは相互の消去へと向かうかのようである。

 内部の区別が消滅していくとき、内部と外部を分かつ境界も消滅していく。まぜこぜになった屋敷はその成員を失い、再生産を阻害され、死滅しブッシュにまぎれてしまう。マブィンガーニの典型的な症状は、「死んだ後までも止まらない」下痢や嘔吐ではなかっただろうか。身体は内部を保つことができず、しまりなく外部へこぼれ出ていく。

マブィンガーニという語り口

「分かれている」べき人々が「まぜこぜ」になってしまうと具合の悪いことになる。それはさまざまな形で「分かれて」いるべき人々に災いをもたらす。「まぜこぜにする」行為は、具体的には性の対象を共有してしまうことである。なぜ例えば兄弟のそれぞれが一人の同じ女性と性関係をもつことが「まぜこぜ」なのかと問うことは、我々をおなじみの状況に連れ戻す。つまりそれは、「なぜならばそうすることがまぜこぜにするということだからだ」という規約的な答えによってしか答え得ない問いだからである。「まぜこぜ」になった人々はクボリョーリャの手続きを通じて再び「分け」てやらねばならない。そのためには「まぜこぜ」をそれが本来属しているブッシュへ、荒れ地へ送り返し、人々と屋敷を「冷やし」てやらねばならない。ヒツジを周回させ、犯されたすべての行為を明るみに出し、ヒツジの胃の内容物を加えた「冷たい木」を主成分とした薬液を浴びせる等々で、それができる。なぜヒツジを周回させたり、その胃の中身や「冷たい木」の液を振り撒けば屋敷を冷やし、まぜこぜをブッシュへ送り返すことになるのか、という問いも、「なぜならそうすることが....」という同語反復的な答えによって閉ざされるだろう。その一方で、マブィンガーニをめぐる語りと対処行為の諸要素は、あたかも換喩的に構想された関係の内部の差異が、隠喩的な等価性によって消し去られる危険というテーマによって、互いに関係づけられているかのような様相を示している。

 屋敷の秩序をめぐる一連の互いに結びついた比喩的な語り口の織りなす網の目は、規約的に具体的な行為の水準に接続されている。その接続の規約性、根源的な無根拠性を、埋め合わすかのように、連想の、アナロジーの、意味論的相同性の、修辞性の、さまざまな種類の動機づけの網の目が張り巡らされている。本章の分析において私は、この規約をあたかも意味論的に根拠づけているかのような動機づけの水準に、やや焦点をあて過ぎていたかもしれない。しかし誤解しないようにしよう。比喩的な語り口の網の目の内部での一種の論理的一貫性も、相対的有縁性の網状組織も、このような形で結びつかねばならなかった必然性などなかったのだということを忘れてはならない。例えば、兄弟が一人の女性と性関係をもってしまうことが、「まぜこぜにする」といった表現をもたず、また他のいかなる関係とも孤立して、その想定された結果とむき出しの規約性だけで結びついていたかもしれない場合を、我々は容易に想像することができる。つまり、兄弟が同じ一人の女性と性関係をもつと、彼らは重い下痢になる、とのみ語られ、そしてどうしてそうなるのかという問いには、そうなるようになっているのだ、理由などない、世界はそんな風にできているのだという答えが用意されているだけであるような、そんな場合である。そしてまさにこの規約的な結びつきだけの理由でも、人々はこうした性関係をもつことを慎み続けることが可能なのである。

 この実際には却ってめったに起こりそうにない極限的な想定は、折りに触れて繰り返し思い出す必要がある。なぜなら秩序のこうした構成次元が緊密に結びついてある種の一貫性を示している場合、我々はつい、それはまさにそうなるべき必然性があったのだと錯覚しがちだからである。私は、今たまたま諸要素のそうした配位を、それがその時点でたまたま取り結んでいるパターンを見ているだけである。配位の複数性--たとえばここではマブィンガーニについての語りの二つの異なる編成様式--に気づくこと、パターンにぴったり収まるもの--下痢という症状と、内部における差異の消失、境界の解体 etc.--と同時に、そのパターンにおいては孤立しているもの--毒蛇に咬まれるというマブィンガーニに特徴的な災難は、まさにマブィンガーニについての語りの他のどの特徴とも関係づけようがないという点で際立っている--の存在に注目することは重要である。


註釈

註1)キティーヨが症状そのものに言及していることを示すものとして、たとえばハイエナのキティヨ(chitiyo cha fisi)といった言葉の存在がある。これはマブィンガーニの結果ではなく、妖術によって引き起こされる病気であるが、症状がマブィンガーニのキティヨと同じであることから、キティヨという名前が使われているものである。またキティヨのニャリ(nyari chitiyo)と呼ばれる憑依霊は、それが引き起こすキティヨの症状からそう呼ばれている。火事も、火のキティヨと呼ばれることがある。これに対してマブィンガーニの結果のキティヨは「人のキティヨ(chitiyo cha muduruma)」と呼んで区別される場合がある。

註2)以下の議論は、浜本 1988 における議論と一部重複している。浜本 1988 では、マブィンガーニであるとして禁止されている関係がどのような関係であるかを分析することに重点がおかれ、マブィンガーニという概念自体についての考察がややなおざりにされていたきらいがある。この論考では、この欠点を補おうと努めてみた。

註3)具体的にどの関係が禁じられ、何が禁止から排除されているかは 浜本 1988 を参照されたい。以下の議論では、男にとっての禁じられている女性というかたちで論じるが、もちろん同じことは女性にとってどの男性が禁じられているかというかたちで論じることも可能である。

註4)実際にこうした例が存在する。Ms は Mk の母方のオジにあたるが、Mk の息子 K が死んだとき K の妻を未亡人婚によって娶った。K と彼女の間の子供たちも Ms に引き取られて彼の屋敷で育てられた。

Grandfather inherits his grandson's wife

註5)このことから容易に想像がつくと思うが、ドゥルマのクランは外婚的ではない。父系クランの場合、ニュンバ分節を共にしなければ通婚が可能であるし、母系クランの場合も関係が6世代以上さかのぼると婚姻が可能である。

註6)言うまでもなく、女性の側から述べれば、互いに姉妹や母娘であるような二人が、男性を性の対象として共有してしまう事態であるということになる。

註7)上田冨士子 1993, p.68。上田のこの論考は、ドゥルマのマブィンガーニに関する私の論考(浜本 1988)に言及していないが、多くの点でドゥルマとギリアマとの語り口の違いを示していて興味深い。上田が強調する「血がまじりあう」という言い回しは、マブィンガーニの説明としてはドゥルマではまず耳にしない説明である。しかしそれは姻族を一種の親族に比する語り口には登場する。たとえば「姉妹の夫(mulamu)はお前にとって兄弟のようなものだ。つまり、お前たちが妻を授受するならば(muchiwarirana)、それはお前たちの血(milatso)をまぜあわせたということなのだ。婚資、そう婚資が血をまぜあわせることになる。」

註8)具体的に、男から見て禁じられているカテゴリーの女性との関係が、同性の親族のあいだにどのような「性関係の共有」状態を引き起こすかは、浜本 1988 を参照されたい。基本的な諸関係については次の図を参照。

prohibited combinations of sexual relations

註9)上田の報告するギリアマのように、「まじりあう」とは共通の性関係の対象となった女性を通じて、例えば兄と弟の(あるいは父と息子の)「血がまじりあう」ということだという説明が加えられるような場合もあるかも知れない。しかしここでも、「血がまじりあう」という言い回し自体が、再び比喩的である。なぜ例えば二人の兄弟が同じ一人の女性と性関係をもてば「血がまじりあう」ことになるのかという問いには、再びそうすることが「血がまじりあう」ということだからだという同語反復によってしか応えられないのである。

註10)この事例の施術師は、露骨さと猥褻さの点ではかなり穏健な部類であり、後に人々は彼がこの点で十分徹底していなかったと不満を述べていた。

註11)興味深いことに、何人かの人は、チャカの治療がマブィンガーニの治療とそっくり同じであると主張している。しかしマブィンガーニの治療の場合は、「まぜこぜになった」人々を「分ける」ことであるのに対し、チャカの場合には、同じ治療が兄弟を「混ぜ合わせる」ために行われるのだ。
「挨拶も交さない。一人一人が別々に食事をする。さてこんな風になってしまうと、ヒツジによって二人を『まぜあわせる』ことが必要になる。仲直りするようにと、(ヒツジが)周回させられる。さて次に、ヒツジの腹が穿たれる。二人は胃の内容物を振り撒かれる。まるでマブィンガーニの人々みたいに。そして二人は薬液で一緒に手を洗う。そして二人でいっしょに薬液を手ですくって飲む。ヒツジの糞便を飲む。...さてさて、ふたりは今やいっしょだ(a phamwenga)。あぜあわされた。さて、二人はいっしょに食べる。後は家に帰るだけだ。」

註12)上田によるとギリアマでは「夫を共にする二人の妻...がよその一人の男性と性関係をもつことはタブーである」という(上田 1993, p.87)。私がドゥルマの男たちに聞いた限りでは、このような「タブー」は存在しない。男が、別の男の複数の妻を浮気の相手にする場合、注意すべき点は一つだけ、つまり年上の妻から順番に関係をもたねばならないという点だけである。

註13)彼らの関係の非対称性は、与妻者と受妻者とのあいだの交換の非対称性による関係である。つまり婚姻を抜きにした性関係だけを問題にした場合には--たとえば二人の男がたまたまそれぞれ母と娘の関係にある二人の女性と婚外の性関係を結んでいるだけのような場合--両者の権威的な非対称性を問題にするのはまったく的外れであろう。

註14)同じ話の別の話者による展開では、ここで話してはこの民話の聞き手に問いを出す。さて、誰が彼女と結婚するのが正しいのだろう。一番上の兄か?二番目の兄か?末の弟か?そしてその答えは、これら3人のいずれでもなく、彼らの父親だということになる。


参考文献

フロイト,G., 1970, 『文化論』改訂版フロイト選集 6. 吉田正己訳、日本教文社

ジラール,R., 1982, 『暴力と聖なるもの』古田幸男訳・法政大学出版

浜本 満、 1988 「インセストの修辞学 -- ドゥルマにおけるマブィンガーニ=インセストの論理」『九州人類学会報』第16号、pp. 35-51.

クリステヴァ, J., 1984, 『記号の生成論・セメイオチケ 2』中沢新一他訳・せり か書房

上田冨士子 1993 「ケニア・ギリアマ社会における性のタブーと病気」、須藤健一・杉島敬志編『性の民族誌』、人文書院、pp.57-75.