イデオロギー論についての覚書:イーグルトンの『イデオロギーとは何か』への応答として

はじめに

テリー・イーグルトンの『イデオロギーとは何か(原題 "Ideology: an introduction")は、イデオロギー概念をめぐるさまざまな見解をほとんど網羅的に扱っていながら、それによって議論が拡散してしまわず、著者自身が執拗にこだわり続ける明確な問題意識によって見事な求心力を保っているという点で、われわれが今日イデオロギーの問題を再考するうえで格好のテクストを提供している。筆者は彼のマルクス主義的な政治的実践的関心をかならずしも完全に共有はしていないが、人が特殊な信念を抱き続ける、あるいはそれらに縛られ続けるのはいかにしてであるかという、個別の社会空間における信念の持続と再生産の問題と、そこからの離脱の可能性についてイーグルトンと同じ深い理論的関心を抱いている。一見すると誰にとっても人生をますます厄介で不愉快にしてしまうようにしか見えない妖術の観念---自分の不幸や災いの背後に自分に対する隣人の悪意を見てとる観念---がなぜある社会の人々の日々の生活実践を左右し続けているのか、今日の日本でなぜ誰もが自分がそれをもっていることを恥じるかもしれない差別意識が実際の行為選択の場面ではしばしば人々を拘束し続け、そうした観念の持続に教育がまるでなんの効果も及ぼしていないように見えるのはなぜか。等々。イーグルトンが提出するイデオロギー論をめぐる見取り図は、筆者が取り組んでいるこうした問題を考えるうえでも、大いに参考になる独特の視角を提供してくれた。イーグルトンの論点に対峙する形で、筆者自身の見解にもより明確な姿を与えることができたのではないかと思う。

この覚書は、イーグルトンの議論を解題、解説すること自体を目的にはしていない。イーグルトンの議論を手がかりにして、筆者自身の観点を明示化することが狙いである。

イーグルトンが「イデオロギー」を語る際にこだわっている三つの論点がある:(1)党派的利害(2)集団固有の意識(3)虚偽性。この3点は、実際、従来のイデオロギー論がイデオロギーの特性として問題にしてきたもの以外のなにものでもない。この三つの論点を相互に矛盾なく共存させることは、思いのほか難しいのだが、イーグルトンのイデオロギー論はこのいずれの論点をも守り抜こうとする姿勢に貫かれているように思われる。ここでは各論点に即して、筆者自身の見解を示していきたい。

党派的利害

権力をめぐる関係の中で、特定の党派の利害関心にとって都合のよい(それを推進する)言説としてのイデオロギー。支配者側とそれに対抗する側のいずれであるかを問わない。 つまりイデオロギー、あるいは特定の観念や言説が、政治闘争や社会生活において果たす効果、機能を問題にするという見地。

イーグルトンにとって、こうした意味でのイデオロギーには、単に結果的に特定の立場を利することになるような、人々が抱いている信念(特定の利害を推進するという明白な意図のない)から、自らの利害のために他者を言いくるめようとするような露骨で見え透いた、自覚的な嘘をも含む言説までが含まれているようであり、イーグルトンはしばしば後者の露骨で見え透いた言説を例に持ち出して、読者を説得しようとする傾向がある。しかしそれはイデオロギーの問題を一種の語用論の問題にしてしまう危険をつねにともなっている。

グラムシもイデオロギーの研究において、語用論的な党派的言説の使用に重点をおくことが、問題をゆがめてしまうと指摘している。「イデオロギーの価値を考える際に犯す誤りの一因は、特定の構造がもつ必然的な上部構造にも、特定の諸個人による恣意的捏造にも、イデオロギーという名称が与えられるという事実によるもののように思われる」。つまり「歴史的に有機的な、つまりある特定の構造に必然的なイデオロギー」が重要なのであり、「恣意的かつ合理主義的で『望みどおり』のイデオロギー」つまり個々人の露骨に党派的利害の推進をもくろんだ言説とは区別する必要がある。前者が「『心理的』有効性」をもち、人々の実践を組織し、戦いの場を形成するものであるのに対し、後者は「個人的・論争的な『運動』しか生み出さない」からである。

意図的で見え透いた党派的言説に注目すること、相手の見え透いた嘘を見抜くこと、このことが重要ではないとは言わない。それはなによりも重要な政治的実践の一部でありうる。しかし理論的にはあまり興味深い問題ではない。誰かが自分たちの有利にことを運ぶべく(うそも含めて)巧みな言葉を用いること、これは実際にはごくありふれた話であり、そうした行為が一切行われていないなどと主張するとしたらそれこそばかげている。たしかにあまりほめられた行為ではないかもしれないが、だからといって珍しくもない。それはそれ自体としては理論的にはたいした謎を含んでいない。うそつきには好きなだけ破廉恥なうそをつかせればよい。それらはすぐにばれたり、巧みな嘘の場合でも多くは一時的に人々を騙しおおせるだけだろう。そこには検討すべきなんの問題もない。むしろ問題は、そうした嘘であるかもしれないもののあるものが、そのまま真理として通用してしまう場合である。意図的になされたかもしれない、また特定の党派の利益にもっぱら貢献するかもしれないそうした言説が、まかりまちがって成功するための条件、多くの人がそれらを真に受ける可能性のほうが、むしろ説明されるべきである。しかし、これは問題を語用論的な水準から、逆にある言説が真なる言説として流通する条件という、見え透いた嘘の問題とは正反対の問題---グラムシが言うところの「歴史的に有機的」で「ある特定の構造に必然的な」イデオロギーの問題---へと、焦点を移すことでもある。

したがって私は、この(1)の問題は、発話の意図の問題とは切り離して考えた方がよいのではないかと思う。言説はさまざまな立場にとってさまざまに異なる価値を持ちうる。社会空間は、さまざまな党派的立場に結びついたり、結びつかなかったりする、ときに互いに矛盾するような異質で雑多な言説が流通する場、言説空間としてながめられる。

ある言説が流通することは、結果としてある特定の党派の利害を推進し、別の党派の利害にとっては障害になるといったことが生じうる。問いは、特定の言説を流通させようとするさまざまな党派的立場の意図(それは当然あるだろうが)とは別に、もしある特定の言説が広く流通し受け入れられるといったことがあるとすれば、それはどのようにしてであるかという問いになる。さらに言説の流通の社会的効果を、なにもどこか特定の党派にとっての利益、不利益に限定する必要もあるまい。損得だけしか問題にしないのは、それでなくても狭量な考えだ。

イデオロギーについてのイーグルトンの問題系のこの部分は、したがって、言説空間におけるさまざまな言説の流通状況と、その配位が全体的社会過程に及ぼす効果---それがどのような立場の人々によるどのようなプロジェクトにとって促進的で、どのような人々によるどのようなプロジェクトにとって阻害的であるか etc.を含む---を明らかにするという課題に置き換えることができるだろう。

個人的な利害か、集団的な利害に関係するかで、言説のイデオロギー性を区別しようとするイーグルトンの試みは、発話主体の意図性を問題にし続けるなら、あまり成功しないだろう。単なる個人としての自分に都合がよいということと、集団の一員としての自分に都合がよいということの区別を、発話者はいちいち意識してなどいないからである。しかし、結果としての言説空間上での分布と効果という点だけを問題とするなら、そうした困難はない。「浜本満は無責任だ」という(残念ながら真である)語りは、私にとっては都合が悪く、また別の誰かにとっては都合がよい---したがってそれを意図的に語る意味はある---かもしれないが、おそらくこの島国の一億を越える人々にとってはどうでもよい話であり、それが言説空間で広く流通し、なんらかの効果を発揮するだろうとはとうてい思えない。

そもそも語用論的な意図がどうであれ、そのような意図自体は、その言説が言説空間で繰り返し転送され広がり、一定の社会的効果を発揮することを保証しない。むしろそうした意図の存在が明るみに出ることは、逆にその流通と社会的効果を阻害すると考える方が妥当なくらいである。反対に、伝説のチンパンジーがタイプライターでたまたま打ち出したにすぎない語りですら、特定のコミュニケーション空間の中に投げ込まれるとき、そこに大きな波紋を引き起こすこともありうる。言説の生命にとっては、その誕生よりも、複製と転送の過程の方がはるかに重要である。コミュニケーション空間が、どんな風に特定の語りをひいきし(それを繰り返し複製、転送してやる)、特定の語りを排除するか、それが語りの運命を決めるのである。

集団の経験との固有のつながり

特定の社会集団に固有の観念、ものの考え方、語り口という問題系。階級意識とか世界観、社会的ポジションによる知識・認識の被拘束性などについて議論するとき問題になっているのは、これである。

特定の観念と、特定の社会集団、あるいは社会状況との連動というこの問題は、(1)の問題系とは別個に扱われるべきだろう。もちろん、なぜ特定の語りが特定の社会集団に固有となっているのかという問いの答えとして、それがその集団を利するからという説明がつねに可能であり、それゆえ、この問題系は(1)の問題系と無関係ではない。しかしそれは特定の社会集団とそこに固有な観念とのつながりについての説明としては、ごく部分的なものでしかない。 ある観念は、それを抱いている集団の人々を利するものであるかもしれないし、逆にその集団の人々にとってはむしろ不利になる、他の集団にとって好都合なものであるかもしれない。さらに、どんな集団の利害とも無関係であるかもしれない。

そもそも従来からイデオロギー論は、「被支配者階層」の今の苦境を再生産するだけで自分たちを利するにはほど遠い、単に「支配階級」にとって都合のよいだけの観念が、被支配者集団の人々が抱く観念として流布しているような状況を、好んで問題にしてはこなかっただろうか。

このケースはまた、特定の社会集団に固有の観念を、その社会集団の人々に固有の社会的経験や彼らの構造上の位置から生まれたものとして説明しようとする一般的な傾向に対しても、ひとつの反例になっていることに注目しよう。このケースは---もし事実こうしたことが生じているとしてのことだが---支配階級が創り出した言説が、被支配者たちによって受容され、後者によって抱かれる観念となる、つまり特定の集団に見られる観念が、他の集団に由来するものでありうるという事態の一例でもある(すくなくともしばしばそうした形で分析される)からである。ある特定の社会集団に固有の観念は、他の党派を利するばかりではなく、そうした他の党派に由来するものでさえありうるというわけだ。

グラムシが、党派的な利害から出た恣意的捏造とは区別して、「歴史的に有機的な、つまりある特定の構造に必然的な」ものを指すものとしてイデオロギーという言葉をとっておこうとしたことは、すでに見たとおりであるが、もしこの特定の構造との必然的なつながりを、発生論的に---つまり特定の構造が特定の言説を生むという関係として---理解するなら、それは間違いであったということになる。特定の社会集団の人々は、自分たちに固有の観念を、必ずしも自分たちの置かれた固有の社会的位置とそこでの経験にもとづいて、生み出しているとは限らない。自分たちの経験に基づいてどころか、そもそもそれらが他の集団に由来し、彼ら自身では生み出してさえいない可能性もあるのだから。

再びここでも(1)において見たのと同じように、重要なのは発生関係ではなく、つまりその言説を最初に誰が作り出したのかという問題ではなく、それが何を起源としてもっていようとも(敵の党派、自分自身、あるいは闇雲にタイプライターをたたきまくるチンパンジー)、特定の言説がその特定の社会空間において繰り返し複製され、転送され、そこにとどまり続けているのはなぜかという問題の方である。

語用論的な問題---だましているとかだまされているとか丸め込まれているとか---を度外視すれば(というのは単なる欺瞞であれば、人を何十年にもわたってだまし続けるなどということはまず不可能だからだ)、真の問題は、ある特定の観念が、それを抱いている人々の利害にむしろ反したり、結果的に他の党派を利することになっていたりするときに、いったい何がその観念をその人々に抱かせ続けているのか、つまり何がそれを彼らの所属する言説空間にとどまり続けさせているのか、という問題である。

人々の具体的・構造的な社会経験との関係も、この問いとの関係でとらえられねばならない。答えはその言説が、人々が自分たちの境遇世界に対して不断に行っているチューニングの実践にどのように関与しているか、そこにしか見出せないはずだからである。

ある境遇に生きる人々が生み出す、その人々の集団に固有の観念という構図は、人類学においてはあまりにもおなじみである。そもそも「文化」という概念そのものがその一例に他ならない。なぜある特定の観念がしかじかの集団において見られるのかという問いは、しばしばそうした観念が生み出される理由(あるいは原因)を示すことで答えようとされる。たとえばタウシグは南米の農民のあいだにひろく流通している観念---悪魔と契約し、像(muneco)を用いることによって、他人よりも多くの仕事ができ、多くの収入を手に入れることができる。でも手に入れられた金は不毛で、すぐになくなり、本人の寿命も短くなる、といった---について、プランテーション農業を通じて伝統的なサブシステンス経済から資本主義経済への移行を経験しつつある南米の農民たちの目にうつる、貨幣の獲得を自己目的とした資本主義的交換関係の倒錯性・非人間性を表現したものであり、資本主義に対する彼ら農民による解釈と異議申し立てに他ならないという説明をしている。その謎めいた仕組みについてわからないまま、人々は資本主義システムを経験する。この経験が、悪魔との契約の観念を生み出したのだというのである。ここでは人々は、こうした観念の生みの親、生産者として登場している。

しかしちょっと考えてみると、これは実におかしな説明である。

人々という複数の主語がやっかいなのである。人々がこうした観念を作り出した、というのだが、まさかみんなで頭をつき合わせて作り出したというわけではあるまい。人々全員が、同じ観念を各自独立にそれぞれ作り出したというのもありそうにないことである。人々がある観念を生み出した、という文が具体的にはいったい何を指しているのか、さっぱりわからないのである。各自が同時にというのでも、全員が協力してというのでもないとすれば、どんな風に「人々」は観念であれなんであれ、作り出したといえるのだろうか。実は彼らのうちの誰かが作り出しただけで、他の人々はそれを受け入れたのだということだろうか。そうすると資本主義システムをそのような形で解釈したり、そうした観念によってそれに異議をとなえたりといったことは、この観念の作り手であるその特定の誰かについてはそのとおりであっても、他の「人々」についてはかならずしも当てはまらないことになろう。悪魔との契約の話を誰かから聞いて、びびり、不思議に思い、他の人にそれを転送したり、みんなで盛り上がったりする行為自体は、どう見ても資本主義に対する自らの経験を解釈し、それに異議を申し立てる類の行為ではないだろう。そして実際のところ、人々のほとんどは(可能性としては全員が)この観念の作り手であるというよりは、単なる転送者にすぎないのだ。とすれば観念の作り手についての説明を、彼らに当てはめるのはおかしい。説明すべきは、その観念がどんな風に生まれたかではなく、それがどんな風に受容され、転送され続けているかである。われわれは分析の焦点を、観念の誕生=製作---そもそも誕生の瞬間をとらえることも、その作り手を同定することもほとんどの場合できない相談なのである---にではなく、その複製・転送のプロセスの方に向けるべきなのである。人々の実践や経験との連動関係が明らかになるとすれば、こうした複製・転送の条件の解明においてしかない。極端な話、特定の観念がどこからその言説空間にやってきたのか---その内部で生まれたのか、それともどこかから持ち込まれたのか、それとも伝説のチンパンジーがたたき出したのか---は、この問題にとってほとんどどうでもよい。

人類学者はしばしば、その「特定の観念」の由来、起源を問いたくなる。しかし実際には、起源など問題ではないのだ。おそらく同じようないくつもの観念とそのさまざまなバリエーションがどんな時代においても繰り返し繰り返し登場しているのだ。多種多様な、はるかに荒唐無稽なものから、陳腐なものまで、さまざまな観念が言説空間に繰り返し登場し、そこでの転送過程に投げ込まれる。しかしそのほとんどは単に登場したその場で忘れ去られたり、誰によっても複製されなかったり、誰にも転送されなかったりして消えてしまう。つまりある観念は、それがたまたま登場するタイミングと状況によっては、人々におおいに「受け」、みんなの格好の話題となり、複製転送が繰り返される。一方、同じく受けてもおかしくなかった別の観念は、登場のタイミングの悪さのせいかそれとも状況とのなんらかのマッチングのせいか---こうしたことこそ明らかにされるべきことなのであるが---、まるで受けずに消えていってしまう。言説空間は、さまざまな語りや観念にとっては一種の自然淘汰の場でもある。こんな風に言説空間における「自然淘汰」を潜り抜けたもの、言い換えれば人々によって複製され、転送され、そして言説空間を流通し続けることに見事に成功したものだけが、その集団に固有の観念として人類学者のもとまで届けられるのである。

もしこのように考えてよいのだとすれば、われわれはむしろ人々のコミュニケーション空間において起こっているこの選別過程の解明にこそ力を注ぐべきであるということにはならないだろうか。特定の社会空間において、どのような特徴をもった観念が、どのような経緯で生き残りという結果を手に入れるのだろうか、これが問うべき問いであり、人々にとって都合がよいから、あるいは誰かを利するからというのは、それについての可能な説明のうちのほんのひとつに過ぎない。 おそらくあらゆる流行現象についてそうであるように、特定の観念が登場してくる瞬間においては、何が受け、何が受けないかを前もって予測することなどできない。ある観念は意外にも大うけし、別のものは、それなりにいい線をいっているように見えるのにまるで受けない。でもこうした流行の後になって、なぜそれが受けたのか、まるでそこには状況とのなんらかの必然的な結びつきがあったかのように見えることがある。実際には、その語りの流行こそが、状況のその特徴を可視的なものにしたのであるが。すべてが終わった後で回顧的に眺める人類学者の目に、もし、あたかもそれが当の観念を流通させている人々の現実経験から生まれてきたものであるかのように見えるとすれば、あるいはその観念が人々の経験に対する一種のコメンタリや異議申し立ての表現であるかのように見えるとすれば、この不思議な照応関係も、まさにいわば偶然性を必然性に転化させるかのように見えるこのコミュニケーション空間における転送と選別のプロセスのなかにこそ、解明されねばならないだろう。

イデオロギーの虚偽性

イーグルトンの問題系の三番目は、そしてイーグルトンが本書全体を通じてもっとも多くの議論を割いているのが、イデオロギーの虚偽性の問題である。以上の議論も最終的にはここに収斂してくることになるが、それを明らかにする前に、イデオロギーの虚偽性という問題系そのものが抱えている問題について簡単に整理しておきたい。

(3−1)虚偽性について語ることの困難

ある言説をイデオロギーとして問題にするときには、しばしばその言説に含まれる虚偽性が問題にされていた。虚偽性はイデオロギーの中心的な特徴のひとつとさえ見なされていた。それはけっして誰かをだましてやろうというあからさまな意図のもとでの言葉の使用という、語用論的な問題にとどまらないことに注意せねばならない。繰り返し言っているように、問題は言わば、騙す方の問題ではなく、騙される方の問題だからだ。つまり、あからさまな嘘であれなんであれ、問題はそれが人々によって受け入れられ、複製され、転送され続けるということの方にある。そう考えるとなぜことさら虚偽性が大きな問題になるのかがわかる。「真」なる観念が受け入れられ、複製され、転送され続けるとしても、いっけん何の不思議もないように思える(もちろん「真」であることが言説空間におけるその流通を請合ってくれるわけではないのだが)。虚偽であるからこそ、それが不思議で説明を要する出来事に見えるのだ。

しかし虚偽性の問題はやっかいな困難をかかえている。とりわけそれをせっせと転送している当人たちにとってそれが虚偽でない---虚偽としては把握されていない---とすれば、その虚偽性はいったい誰にとっての虚偽性かという問題である。言説の虚偽性はなんらかの真理との対比によってしか示せないが、その基準となる真理を誰がどう確保しているというのか。客観的で科学的な真理が誰にとっても正しい手順によってアクセス可能と考えられているところでは、基準となる真理の存在を確信することもそう難しい問題ではなかっただろうに。残念ながら、万人が認める形でつねに唯一の客観的な真理へのアクセスが保証されていることは、今日ではそれほど当然だとは考えられないようになってきている。現実を正しく反映したものが真理であるとして、言説の真偽を現実との照合関係に求めようにも、それについてのさまざまな記述(まさにその真偽が問題になっている当の言説たち)とは別に、それらとは独立に現実そのものを捉えるすべがないとすれば、その照合作業なるものはいったいどんなものになってしまうだろう。記述(説明)と、記述される現実との間の反照規定性(相互反照性 reflexivity)として知られている問題である。記述がまさに現実の中に何を見出すべきかを指示している。そこでは記述は、記述される現実の構成的な一部になっており、その意味で、特定の記述が特定の現実を作り出している(その特定の特性を可視化する)と言えるのである。イーグルトンがイデオロギーの虚偽性という観点を保持するのに、客観的な事実との照合という手段に訴えることを避け、虚偽性のそれ以外のさまざまなあり方について長々と述べなければならないのも、まさにこの問題のせいなのである。

彼があげるリストはざっと以下のような具合である。語りはそれぞれ単独での真偽が問題なのではない。個々の語りは、なにか特定の世界観、観点を支えるために動員されているのかもしれない。そうした場合、個々の要素の真偽については問題がなくても、それらの要素が支えている世界観が「間違っている」ことがありうる。あるいは個々の語りは真であると言えても、それを語る動機が「間違っている」こともありうる。つまりそれは邪悪な「間違った」狙いを背後にもっているかもしれない。あるいは信念として表明されることと、実際の行為とのあいだに矛盾や齟齬がある---人種差別は悪いことだと主張する一方で、治安上の問題といった「現実的」な理由からもっぱら白人専用のレストランを利用する、など---かもしれない。あるいは語りの内容についてあれこれ言う以前に、コミュニケーションのあり方そのものが「間違っている」つまり歪んでいるということもある。仮に疑問を感じても、ある人々の、あるいはある場でなされる語りに対する異議申し立てが原理的に不可能にされていることによって、その語りが全員に受け入れられているかのような様相を呈するとか、ある用語が、それが本来指示することになっていただろうものとは別の、正反対のものをシステマティックに指示するように---家庭内で親が振るう暴力が一貫して「愛」として語られ続けるなど---もちいられるといったケースである。あるいは個別の語りは仮に正しいとしても、それが単に部分的な記述にしかなっていない---全体的な連関についての認識が阻まれている---という意味で「間違っている」のかもしれない。あるいは表立って語られたことに間違いはないのだが、その背景に実は不問の前提として、それについて語ったり問題にしたりすることすら阻まれているようないくつかの事柄があるかもしれない。言説は、それがこうした巨大な語られない欠落を抱え、最初から語ることができる内容に極めて大きな制約を抱えてしまっているということで「間違っている」場合があるかもしれない。最後にマルクスが解明した商品の物神性に見られる意識のように、意識が現実を転倒させてとらえているのではなく、実は当の現実そのものが「間違っている」つまりある種の転倒を含んでおり、思考は単にそうした偽りの状況を忠実にとらえているだけであるということもありうる。等々。

イーグルトンによるこの虚偽あるいは錯誤のリストは印象的であるし、その一つ一つが重要な論点を含んでいることは確かである。しかし個々の言説と現実との照合による真偽の決定という問題を、これらによって避けたとしても、それらは結局別のレベルでそれを呼び出さざるをえない。どの水準であれ---動機についてであれ、世界観についてであれ、行為についてであれ、コミュニケーションの形態であれ、あるいは語られる現実そのものであれ---何かを「間違っている」というためには、それは本来の「正しい」ものとの対比において言うしかないからである。そしてそこには客観的な真理についてと同様の問題がもちあがる。

(3−2)言説空間における真偽の問題

特定の言説空間において、真偽の問題がどのような形で現れているか、つまり人々がそこで何を真として扱い、何を偽として扱っているかを明らかにし、そこで真偽をめぐる齟齬や対立がどのような形をとっているかを明らかにするだけではなぜ十分ではないのだろう。そこで真として流通しているものが「客観的にも真」であるかどうか、「ほんとうに真」でもあるかどうかをなぜ問題にせねばならないのだろう。なぜ究極的な真偽がそれほど気になるのだろう。それを問題にしたところで、結局は当の分析者自身が知っていることこそが「客観的な真理」なるものであるといういささか厚かましい仮定か、少なくとも自分たちこそが「客観的な真理」にアクセスする努力をしているのであり、それゆえそこに最も近いポジションにいるというほんの少し控えめな仮定のいずれかを採るしかないのだとすれば(なぜならある語りについてそれが本当に真かどうか、客観的にも真かどうかを問題にすることができる立場とは、客観的真理に実際にアクセスできる立場だけだからだ)。他の人々が、「本当には」---たいていの場合「われわれの知識に照らして」という以上の意味はないのだが---真でないもの、つまり「虚偽」を真と考えているというケースは、そうでない場合に比べて特に解明を要する問題だというのだろうか。彼らが仮にわれわれも真だと考えているものを真だと考えていてくれる場合には、解明すべき問題はなくなるとでもいうのだろうか。特定の観念が、特定の言説空間において真として流通する理由を明らかにしたいときに、その特定の観念がたまたまわれわれの基準から見て真であるかそうでないかで、なすべき説明の種類が変わってくるとでも言うのだろうか。

私は人々が真だとしているものが、本当にあるいは客観的にも真であるかどうかと気にすることには、あまり意味がないと思う。特定の言説空間において何が真として流通しているかを明らかにすれば十分だと考える。ただし同時に、それらがいかなるプロセスによって---後に示唆するように私はこのプロセスということで、人々の社会的実践との連動関係とそこにおける「真理化のプロセス」を念頭においている---その真という地位を自らに確保しているのか、それを明らかにせねばならない。この見方は、観念の真偽を、外在する世界との単なる照合関係として見る通常の真偽概念とは、ほんの少しばかり異なっている。真として流通しているいかなる観念も、それをその特定の社会空間において「真」にする特定のプロセスとの関係でとらえられねばならない。これはその観念が、たまたまわれわれにとっても真であるか偽であるかには関係ない。たとえわれわれにとっての真とそれがたまたま一致していたとしても、その特定の社会空間においてそれを真にしているプロセスを問題にしないでもよいということにはならない。

(3−3)真理化のプロセス

特定の言説空間において何が真とされているかのみを問題とするなどというと、ただちに、それは悪しき相対主義だという非難を喚起しそうである。それは真についての一切の基準を放棄し、なんでもありにしてしまう見方だと。この点について誤解を解いておくことは、ここで提唱したいと考えている見方の性格を明らかにするのに役立つだろう。

悪しき相対主義も、その反対の唯一の客観的真理が存在するという立場も、一見するどく対立しているように見えながら、ともに観念の真偽を世界との照合関係と考える静態的な真理観念に基づいているという点では、実はあまり変わりばえのしない立場である。両者とも、語りの真理性を現実世界との一致だと考えている。悪しき相対主義のほうは、それぞれに相容れない競合する真なる観念は、それぞれの観念に符合する別個の世界に対応していると考える。世界の複数性に前もって制約を認めないとすれば、これはいわゆるなんでもありの立場に近づく。それに対して唯一の客観的真理の存在を信奉する立場は、世界の複数性を否定し、唯一の世界のみを認める。その世界に符合する観念だけが真理なのである。別の言い方をすると、前者の悪しき相対主義として知られる立場は、一種の哲学的観念論に近く、後者の客観的真理派の立場は、経験主義に近い。前者は、異なる観念の体系---これは最近のバージョンではそれぞれ別個の記号体系に由来するものとされるだろう---に対応するだけの異なる世界があると考えるわけで、事実上、観念体系(記号体系)が世界のあり方を決定するという主張と同じことになる。仮に外の客観的世界なるものがあったにせよ、もし世界が、そこに生きている人々の意識に対しては、特定の記号体系を通してしか与えられないのだとすれば、「それらの人々にとっての現実世界」は当該の記号体系が作り出したそれに他ならないということになろう。他方、後者の「本当に真」に拘る立場は、客観的世界があり、その世界のあり方が真なるものの認識を規定するとしているわけであるから、そのまま経験主義の主張となる。

唯一の客観世界か、観念体系(記号体系)に応じたそれぞれの世界を認めるかの違いはあるが、いずれの立場も真偽が問題になる際には、観念あるいは語りと世界の一致不一致を問題にする。前者においてはそれは当然のことであるが、後者においても、そもそも世界の複数性の要請自体がまさにそうした真理観からでているのであるから。しかし観念と世界を照合するというが、それが具体的にどのような行為からなるのかについては、いずれの立場も、奇妙なことにかならずしも明確にしていない。二つのものを見比べて---買い物リストとショッピングバッグの中身を照らし合わせるように---両者の一致具合を見てとるとでもいったようなそんなイメージだろうか。しかし世界を知る、あるいは世界から情報を引き出すというのは、こんな超然とした認識者による観察のようなプロセスではないことは、心理学者たちによって以前から指摘されている(e.g. Nisser が言うところの「能動的知覚 active perception」など)。

たとえば箱の中に花瓶が入っていることを確かめるよう言われたと考えてみよう。つまり「箱の中に花瓶がある」という観念を、現実と照合しようというわけである。ただし諸君は目隠しをされており、手だけを使って確認せねばならないとする。諸君は箱の中に手を突っ込み、その中にあるものに触れるだろう。諸君は手をじっとその物体において、触覚を研ぎ澄まし、その物体から諸君の触覚に伝わってくるものを読み取ろうとするだろうか。おそらくそんなことはしない。そんな受動的な認知では、対象についてほとんどなにもわからないだろう。諸君は、手を動かしまわしてその物体をまさぐらねばならないのであり、実際諸君は言われなくとも箱の中の物体を手で撫で回し始めているはずだ。それもけっしてランダムにではない。「花瓶」という概念に導かれて、手の動きは一定の暗黙のプランに従っている。手は花瓶を予想しながら動くだろう。そしてその手の動きによって、中にある物体についてのさらなる情報が手に入り、諸君はそれが花瓶であることを確信していく。もし中に入っているものについて、何のヒントも与えられていなかったとしたら、諸君の手の動きは最初はいくぶんランダムかもしれない。しかし手の動きはすぐに最初は少しずつ、そして最後には確固たる自信に満ちたものに変っていくだろう。最初のランダムな手の動きによって諸君はその物体についての漠然とした情報を手に入れる。そしてその情報を手がかりにして、ある種の予測のもとに、手の動きは次第に系統だったものに変わり、それによってもたらされた情報が予測を修正/確証していくにつれ、手の動きは断固たるものとなり、予測は次第に確信へと変っていく。我々が世界について知るには、世界に対して、なんらかの探索プランに従った働きかけを行う必要がある。そしてその働きかけに対する世界からの応答が、我々の探索プランの修正/精緻化のプロセスとともに、世界についての認識をもたらす。認識とはこのようにきわめて能動的なプロセスである。

人に世界について真なる観念をもたらすのは、こうした能動的なプロセスである。注意せねばならないのは、こうしてもたらされた真なる観念は、世界に対するこの働きかけと応答の一連のプロセスとの関係においてのみ「真」だということである。そして、このプロセスが必ずしも一つではないという点も忘れてはならない。

たとえば特定の集団の人々について、彼らの友好性を知ろうと考えたとしよう。ちょっと極端な例ではあるが、ある人はその集団の人々に対して些細な挑発を繰り返し、それに人々がどんな風に応答するかを見るという形でこの探索を行ったとする。そして別の人は、その集団の人々に対して、出会う人ごとにとりあえず愛情を込めて抱きついていくという探索プランをとった。さらに別の人は、疑り深く慎重に人々との距離をとりながら情報を得るというやり方をとった。お分かりのように、最初の人は、その集団の人々が敵対的であるという結論を出す可能性が高く、二番目の人は、その集団の人々の友好性に気づく結果となり、三番目の人はその集団の人々が強い猜疑心をもっているという結論をだす公算が高い。確認する方法によって、それぞれ特定の探索応答のプロセスが生じ、そこに何が見出されるかが変わってくる。いずれの場合も、結論はその集団の人々について「真」であるといえる。ただしそれぞれの一連の知識獲得のプロセス<との関係において>のみ「真」なのである。

このいささかできの悪い例は、私がウィリアム・ジェイムズに倣って「観念の真理化のプロセス」と呼んでいるものの特殊例にあたるだろう。ジェイムズのプラグマティズムについてはしばしば、観念の真理性は、それが生活の役にたつかどうかだという主張として理解されているが、これは誤解を生みやすい言い方である。彼の真理過程の概念については、彼自身の用いるたとえ話がわかりやすい。森の中で迷って、牝牛が通ったらしい小路を発見する。あなたは「この小路をたどっていけば人間の住み家があるに違いない」と考える。この観念はそれに基づいた行為を導くだろう。「ウシのたどった小路をたどっていけば一軒の家があると頭で考えてその家の心象に従っていくと、われわれは現実にその家に辿りつく。つまりわれわれはその心象の充分な真理化を得る。そのような単純かつ充分に真理化された導きが確かに真理過程の本源であり原形なのである。」(ジェイムズ 2004[1957]:150)つまり観念は、それによって導かれた行為が、まさにその通りの結果にいたることによって「真」となる。これが真理過程、観念の真理化のプロセスである。認識は、こうした真理過程の特殊例である。花瓶の観念に導かれて、箱の中を探索して、そこに確かに花瓶を見出すという私が最初にあげた例は、そのあまりにもストレートな形態である。あるいは相手は敵対的な人々かもしれないと考えて、相手をあれこれ挑発してみて、まさに相手が敵対的であることを見出すといった場合も。しかしこのような単純なケースはむしろまれであろう。通常は、最初もっとぼんやりした観念から出発し(「箱の中に何かが入っている」といった)それによって導かれた探索が、その結果見出すものを繰り込んで、さらに精緻化された探索を導き....といった複雑な過程をたどるだろう。

「真理過程の領域においては、もろもろの事実は独立してあらわれて、われわれの信念を一時的に規定するのである。しかしこれらの信念はわれわれを行動させる、そして信念が行動を惹き起こすや否や、信念は新しい諸事実を視界内に、もしくは存在内に、もたらしてくるが、この新しい諸事実はそれぞれそれなりに信念を・トび規定するにいたるのである。このようにして真理は、糸毬が巻き糸と毬の両者によって転がるにつれて大きくなるように、ニ重の影響の所産なのである。真理は事実から出てくる、しかし真理はまた進んで事実のなかに浸り入り、事実に何かを附け加える。この事実がまた新しい真理を創造もしくは啓示(言葉はどうでも構わない)する、こうして無限に進んで行くのである。」(ジェイムズ 2004[1957]:165)

このようにジェイムズのプラグマティズムは、真なる観念とは役に立つ観念のことであるという定式化から想像される身も蓋もない功利主義的な考え方ではけっしてない。「真」であることが特定の「真理過程」あるいは真理化のプロセスと独立には問題にできないという考え方である。特定の観念に導かれて行動することによって事がうまく運ぶこと、それがとりもなおさずその観念が真であるということである。それは実践の進行につれて特定の観念が確認され、修正され、精緻化されていく過程であると同時に、そうした随時変化する「真」なる観念に導かれて、実践が方向付けられていく過程でもある。こうした、実践と世界との微細チューニングの過程、それこそが真理化の過程なのである。

プラグマティズムの真理観は、なんらかの具体的な真理化の過程とは独立に、その内容について知ることが可能であるような客観的な現実のようなものを想定していない。しかし、いかなる観念もそれに照合する世界においては真であるという、いわば「なんでもあり」の悪しき相対主義的な真理概念とも無縁である。一連の行為による真理化のプロセスをもたないことには、いかなる観念も真ではありえないからである。ある観念が真であることを認めるためには、単にそれが真であるような世界があるかもしれないと主張するだけでは十分ではない。それを真にするような真理化のプロセスをも示さねばならない。この点でそれはけっして「なんでもあり」の相対主義ではない。他方、逆に真理化のプロセス抜きで直接の照合関係だけで真偽をいうこともできない。経験主義が想定しているように、客観的な世界に前もってなんらかの秩序や構造があり、それによって真理が究極的には保証されていると考えること自体は自由である。ただそうしたものの認識に一気にいたるような秘術は存在せず、もしそうした客観的世界自体の客観的属性が仮に存在するとしても、それはなんらかの特定の真理化のプロセスである一連の具体的な行為連鎖・実践のシステムを通じて開示される、限定的で随時変更可能なもの以外の形では手に入らない。上の引用にもあるように、真理過程は「無限に進んでいく」過程であり、真理はつねに暫定的であるしかなく、またその都度の特定の真理化過程に依存しており、それゆえ、いかなる意味においても最終的・固定的なものではありえない。とするとそうした客観世界の存在をいきなり仮定してしまう経験主義とは、このプラグマティズムの観点から見ると、永遠に確証不可能なものをいきなり前提にもってきてしまう立場だということになるし、そうした客観世界の存在を仮定してみたところで実際にはなんの役にも立たないのである*A。

私が加えてしまった微妙な強調のせいで、真理化のプロセスを、科学における仮説検証の作業に類するものとする誤解が生じるかもしれない恐れがある。言うまでもなく強調点はここにはない。もちろん科学実践における仮説検証の作業は、真理化のプロセスの一種---しかもそれ自体を目的とした---ではあろうが、真理化のプロセス一般は、けっして特定の観念が真理であることの確認そのものを目的とした行為連鎖ではない。ジェイムズが用いている例においても、「ウシが通ったらしい小路をたどっていくと人間の住み家がある」という命題の確認そのものが「目的」なんかではなかった。それは道に迷った者が自分の置かれた状況からなんとか抜け出そうとするサバイバルの行為であった。しかし、まさにそれがとりもなおさず真理化のプロセスでもあるというのがポイントであり、その観念にしたがって行為することによって窮地をうまく切り抜けられることが、まさにその観念が真理であること(真理化すること)と同じことだというのである。真理は、世界の中で実際的に行為すること、世界にうまくチューンをあわせながら生きていくことと不可分である。ジェイムズの別の意味で誤解を招きやすい例の定義---真理とは生活に役に立つこと---は、この点を強調しようとしたもの(誤解を招きかねないほどいささか過剰に)なのだ。いずれにしてもプラグマティズムの真理観において中心となる考え方とは、特定の環境世界の中で、それにチューンをあわせながら、さまざまな問題をクリアし、数々のプロジェクトを実行していくという我々の生活実践が、別の角度から見ると真理化のプロセス、当の世界についての自分たちの知識を再生産し修正し精緻化していくプロセス<でもある>ということである。真理を単なる世界との静的な照合関係によってではなく、常にその真理化のプロセス---人々の生活=認識実践---との関係においてとらえること、これがそれを単なる経験主義とも、悪しき相対主義を帰結しかねない極端な観念論の形態とも、異なるものにしている。繰り返すが、ここでは真理は「なんでもあり」どころか、具体的な実践システムによって支えられねばならないというきわめて厳しい制約の下にある。他方、こうした実践システム---人による世界に対する働きかけ---とは独立に、世界の客観的なあり方が真理を決定してしまうこともない。

(3−4)適応的信念は虚偽でありうるか

真理についてこのような観点にたつとき、イデオロギーの虚偽性、あるいは特定の言説空間において現に流通している観念の虚偽性について、どのような見解をとることが可能になるだろうか。「真理」は随時変更可能なものとして、そしてなんらかの特定の実践システムをその真理化の過程としてもつものとして、扱われねばならないだろう。それを虚偽とする絶対的な基準のようなものは、仮にそれが確かなもののように見える場合でも、括弧に入れる必要がある。しかしそれは問題の観念の真理性を無条件に受け入れよ(この態度自体が、真理の絶対観のようなものを踏まえているのであるが)ということにはならない。なぜその観念がその言説空間において暫定的な真理として流通しているのか、この問いに、それを支えている実践のシステム---真理化の過程---の構造によって答えねばならないことになろう。

たとえば戸田山が「自然界には偽なる信念の方が真なる信念よりも有利になるような状況がいくらでもある」(戸田山 2002:190)ことの一例としてあげる例について考えてみよう。ある霊長類の集団(別に人間でもよいと思うのだが)が舞台である。彼らの環境に生えているキノコ類のなかに、一種類だけ毒キノコがあり、他のキノコはこの毒キノコときわめて似てはいるが無毒である。さて、これらの霊長類たちは、これらのキノコすべてに手を出さない。つまり「すべてのキノコは有毒である」という「偽なる信念」に従って生きているのだ、というのである。

この霊長類たちの信念を「偽」だと断定する際に、世界の客観的に真の知識、世界は「本当は」どうなっているのかを、こちらがすでに手に入れているという根拠のない自信が働いていることは確かである。無毒だとされているキノコに、実はまだ未知の物質が含まれていて、それは20年くらいかかって人間の免疫系を蝕み、たとえばミズムシ菌に対する抵抗力を著しくそこなうといったことが、やがて明らかになり、そのキノコが無毒であるという知識が実は偽であったとわかるかもしれないというのに。もし、ここで対比されている二つの信念の差異が、絶対的なものではなく、いずれもそれぞれの生きる社会空間における暫定的な真理であることを認めるなら、問題は「偽なる信念が真なる信念よりも有利」でありうるかどうかという問題ではなく、すべてのキノコに毒があるという信念を、暫定的に真として流通させている実践システムの特徴がどのようなものであり、それをあるキノコは有毒だが、それと酷似した別のキノコは無毒であるというもうひとつの暫定的な真理への修正・移行をもたらす実践システムの変容がどのようなものだろうか、という問いになるだろう。

彼らが「すべてのキノコは有毒である」という観念に導かれて食餌実践を行っている限り、すくなくとも彼らのあいだにキノコの毒によって死ぬものはあらわれない。そして別にキノコに手を出さずとも<他に食べるものが豊富にある限りは>、それですべてがうまく運ぶ。もちろん、この信念を、われわれにとってより真理らしく見える「特定のキノコだけが有毒である」という観念に修正させるような実践連鎖を考えることはできる。しかし二種の酷似したキノコの区別を学ぶまでに、この霊長類たちが相当数の無意味な死者をださねばならないことは確かである。さて、この状況で、彼らについて彼らが虚偽の信念に基づいて生活していると語ることに、いったいいかなる意味があるだろうか。彼らの全食餌実践システムは、彼らのもつその観念を真理化し、それを虚偽として眺める可能性を一切提供していないのであるから、そこではそれは暫定的・近似的にまさしく真なのである。

「すべてのキノコは有毒である」という語りが「真」なるものとして流通する傍らで、それに対抗する「ある種のキノコは無毒である」という語りが繰り返し、発生したとしても驚くにはあたらない。ただしこの状況においては、後者の語りを真理化する過程は、前者に比してあまりにもリスクが大きいと言えるだろう。しかし<他に食べるものが豊富にある>とは言えない状況のもとでは、問題は微妙である。「すべて有毒」を真理化する過程、つまりこの観念に基づいて食餌実践が営まれた結果、必ずしもすべてがうまくはいかず、多くの餓死者を出すようなことになれば、「あるものは無毒」を真理化する、下手をすると毒による何人もの確実な死者をだしかねないギャンブルにも、それなりの勝算が生まれてくることもありうる。真なる知識と実践のシステムがどのように変貌するかには、さまざまな可能性がある。実践システムと環境世界とのチューニングに次のかりそめの安定状態がもたらされるまでは。そして何が次の安定状態であるかは、もちろん、それが実際に結果的にもたらされるまでは、前もって知りえないのである。こうしたそのときどきの安定的知識状態---ある観念(たとえば「すべてのキノコは有毒」)が特定の言説空間においてドミナントなものとして流通している状態---は、けっしていわゆる外在する客観的世界の状態(それが直接知りうるものだとしても)をそのまま反映したものではありえない。

(4)スケッチ

以上の考察を踏まえて、社会空間=言説空間における観念(信念)・言説の流通と配置に関する問題系の大まかな見取り図を提出することができる。お察しの通り、それはどちらかというと陳腐なものである。

問いは、特定の観念・言説は、どのような条件によって、ある社会空間=言説空間に留まり続けることができているのか、つまり人々によって受け取られ、転送されつづけるのかという形をとり、人々がどのようにして(あるいはなぜ)その観念・言説を生み出したのかという形はとらない。現実問題として人類学者が特定の観念・言説の誕生、あるいは当該言説空間への登場の瞬間を目撃することなどまずなく、人類学者がとらえることができているのはつねにそれらの観念や言説の転送過程であることを考えると、あまりにも当然の話である。逆にこれまで、その説明において人類学者が誕生や生成について語れるかのように振舞っていたことが、むしろ僭越な思い上がりか勘違いだったのだ。

言説空間において世界について真なる観念として流通しているものは、その真理化のプロセスが分析されねばならない。つまりその観念が真であることを踏まえて人々が行う一連の実践の結果として、その観念がいかに真理化されるかの度合いを明らかにせねばならない。その過程で、個々の観念が互いを補強するようにより高次のコンテクストを形成していることは---世界観や文化というタイトルのもとでの研究が主として明らかにしてきたように---大いにありそうなことであるが、そうしたコンテクスト形成も、それら諸観念の真理化のプロセスにいかにそれが貢献するかという角度から、見直されねばならないだろう。さらに、任意の真なる観念とならんで、そのさまざまな変異体や、対抗形態、競合形態(最初の語り口とは共約不可能な語り口)も同じ言説空間を流通しているのが普通であり、これらの相互関係、流通・分布における違い、それぞれの観念がもつ真理化のプロセスの違いが明らかにされねばならないだろう。

イデオロギー概念の基本軸のひとつである、ある言説が特定の党派を利するように機能することがあるという問題は(もし必要であれば)、この真理化のプロセスとの関係であつかうことになるだろう。真理化のプロセスは、その観念に基づいてなされる実践の環境世界や社会空間におけるあらゆる効果の問題と関係しているからである。ある観念に基づいて実践して「うまくいく」とすればそれはまさにそうした諸々の効果を通してなのである。

真理化のプロセスが、その観念の転送・流通を保証する際に、考慮に入れるべきもう一つの要因が、社会空間=言説空間を構成するエージェントの問題である。社会空間に参加しているそれぞれのエージェントの受容能力・転送能力には違いがある。たとえばあるエージェントの語ることは他のエージェントの語ることよりも傾聴され、無視されることが少ない。一方「サバルタン」の語りに対して、社会の中心部は聞く耳をもたない。下位者が上位者の発言の意味を読み取り損ねることは致命的な結果をもたらしうるが、上位者は下位者の発言を平気で無視したり誤読したりすることができる。「権力」として問題にされてきたことの少なくとも一部は、こうした言説空間内での各ポジションにおける力能と効果の点での違いの問題である。こうした違いは、観念の真理化の過程にも当然関与している。

こうした言説空間の内部の差異の構造とそのなかで進行する真理化のプロセスが、個々の観念・言説の言説空間の中での転送・流通・拡散を左右する。つまりそれが個々の観念・言説にとっての淘汰プロセスになる。ここではダーウィン的進化のアルゴリズムとの類似が見て取れる。特定の歴史的・社会的状況が特定の観念を決定したり生み出したりするわけではない。観念は、個々人の夢の中で、ほんの偶然から、あるいは既存の観念に対する偶然的な変形を通じて、あるいは異邦の空間から、あるいは伝説のチンパンジーがでたらめに打ち続けるタイプライターから、つまりありとあらゆる必然性を欠いたノイズ領域から、言説空間に投げ込まれることもありうる。人の脳そのものが、流通している観念を原型をとどめぬまでに変形し、勝手に変異させ、あるいは組み替えて排出するノイズ発生装置のようなものである。観念の誕生や生成について決定論的に論じることがおそらく無意味であるのは、この理由からである。しかしどのような経緯で登場したにせよ、観念はいったん言説空間に投げ込まれると、そこでの選択過程(淘汰)にかけられる。真理化の過程をもつことに成功した観念のみが、またその成功の度合いに応じて、生き残る。つまり言説空間に複製・転送を通してとどまり続けるのである。真理化の過程は、人々の実践と環境世界のチューニングのプロセスでもある。真理化のプロセスをもつことに成功する観念とは、環境とチューニングがあった実践に内在することができる観念であるということになる。このように、回顧的に眺められるとき、そしてそのときに限って、流通している観念があたかも特定の歴史的・社会的状況に合致し、そこからの産物であるかのように見えるのは、生物の形態が特定の環境の産物に見えるというのと同じ、この自然淘汰のアルゴリズムによってなのである。

言説空間で流通するのは、単に「真」なる観念だけではない。さまざまなファンタジーや誰もが真ではないと知っている虚構、限りなく嘘っぽいがもしかすると...という多くのオカルト的な言説、可能性と不可能性の境界に出没する種々の観念も、真なる観念におとらず熱心に転送されている。これらは真なる観念とその変異形や競合形とは違って、実践を通しての真理化のプロセスをもたない。普通は誰もファンタジーを真に受けて、実践を組織したりはしない。これらは通常、人々を実践に駆り立てない(ただしオカルト的な諸観念においては、特定の条件下で、十分実践してみるに値するギャンブルを成立させることがある。したがってこれらはどこまでも境界的なのである)。それゆえ、言説空間における諸観念の流通・分布を説明するためには真理化のプロセスだけでは十分でないことはあきらかである。

この最後の問題点も含め、ここでのべた見取り図は、現段階ではあまりにも荒っぽい素描の域を出ていない。しかし素描であっても、少なくとも新しい研究実践を方向付けるには十分である。とりあえずこうした素描にたって、具体的な言説の分析にとりかかること(さしあたっては特定の社会空間で真なるものとして流通している観念とその変異体)、このこと自体がもたらす結果が、この荒っぽい見取り図を修正・精緻化してくれるだろう。ここでも私はプラグマティズムの真理化のプロセスに自分自身の理論的見通しの今後の展開をゆだねたいと思う。

註釈

(註1)語用論 pragmatics は、意味論 Semantics 統辞論 Syntacs に対して、言語と使用者の関係を研究する言語学の部門であり、言語使用者が特定の効果をねらってどのように言語を使用しているか、つまり言語の効果の側面についての研究部門である。ここでは後に、別の意味でジェイムズのプラグマティズムについて論じることになるので、それとの混乱を避けるために語用論/プラグマティズムを訳しわけている。

(註2)この覚書における一連の議論が進化論的な響きをもっていることに気づかれるだろう。実際、昨年(2005年)の秋から、私が人類学を専攻して以来ある意味で敬遠し、ある意味では敵視してきた進化論について集中して再学習を始め、一連の進化論の議論、とりわけドーキンズの議論に大きく影響を受けたことを認めておきたい。ドーキンズの議論については、反論すべき点も多い。とりわけ彼のミームの概念(これは遺伝子との類比を文化の伝達に見出そうとしたもの)には問題がある。生物学においては、自己複製の単位をなんらかの実体=モノと考えることに問題はないかもしれないが、文化現象、とりわけ表象関係においては、複製の単位をなんらかのモノと見なすことは、まったくの的外れである。そこで複製されるのはパターンであり、パターンはその項を構成する個物がまったく異質なものに置き換わっても、そのまま同一性を維持することをその特徴とする。項よりも、関係態の方に注目せねばならないのだ。にもかかわらずドーキンズと彼の追従者は、文化の領域においてもやはり「自己複製子」を実体として考え続けている。にもかかわらず、私はドーキンズの一連の著作を通じて、ダーウィンの進化論が意味するもの、その最も革新的なロジックについて再発見させられた。そして、自分でも意外なことに、私の前著『秩序の方法』が基本的にはダーウィン進化のロジックと同様な論理で構成されていたことに気づいた。前著の結論において、私が到達したと信じた「出発点」とは、基本的にはこの覚書において提示しているような考え方だったのだが、それはダーウィン進化の言葉でより簡単に言い表せることがわかったのである。
このように大きな影響をうけてはいるものの、この覚書のなかにそれを直接の引用の形でとりこむことができるほど、この影響は私の中にあって十分にはまだ咀嚼されていない。ドーキンズを直接引用することで彼の実体主義的なスタンスをも継承したように理解されては困るのである。この註の形で、ドーキンズの一連の著作に対する謝意を表明するにとどめたいと思う。

(註3)イデオロギーの虚偽性を、通常の意味でのあからさまな「嘘」として、そしてイデオローグを単なる「嘘つき」として解釈する、つまりイデオロギーの問題を語用論の問題にしてしまうことは、それ自体やっかいなパラドクスを抱え込むことになる。これを仮に「嘘つきイデオローグのパラドクス」と呼んでおきたい。
デイヴィドソン(1991:150)にならって、人々の信念が大量の虚偽から成り立っていることがありえない---人は嘘だけを信じては生きていけない---ということを確認しておこう。虚偽とは、定義によると、世界についての誤情報である。誤った情報を基にして行動すると、思わしくない結果に終わる可能性が大きい。それゆえ、世界についての重要な部分における虚偽の信念を保持し続けることは不可能である。アルファケンタウリの第三惑星は固体窒素でできている、といった嘘なら人はいくらでも抱え込むことができるだろうが、日本では新学期は6月から始まる、という嘘がいつまでも信じられ続けうるとは思われない。というわけで、それが実践に大きな違いをもたらす重要な嘘であればあるほど、それを信じさせ続けることが原則的には困難だということを押さえておこう。人間世界において嘘を維持するのは難しいのである。
イデオローグがしたがって、嘘ばかりついている人間であるとすると、彼の嘘が露見してしまう可能性が高い。そして人々はそうした嘘つきの言うことを信じないだろう。したがって、イデオローグの嘘が人々に信じられるためには、彼はほとんどの場合において嘘ではなく本当のことを言う男でなければならない。ひとつの嘘を信じさせるために、いったいどれだけの本当のことを言わねばならないのだろうか。おまけに彼は重要な嘘は何一つとしてつくことができないのである(パラドクス1)
イデオローグは、人々にとっては都合が悪いかもしれないが自分たちにとって都合の良い嘘を、人々に信じさせなければならないことになっている。嘘をつきとおすことが難しいときに、こんな離れ業が可能だろうか。
可能性のひとつ。その嘘がもし仮に当の人々自身がむしろ信じたがっている嘘であればどうだろう。人々は自ら喜んでその嘘を信じるだろう。しかしそうなるとイデオローグは人々が喜んで信じたがる、聴きたがる話をせねばならないのだということになる。それはイデオローグにとって都合の良い嘘というよりも、むしろ聴き手にとって都合の良い嘘だということになる。(パラドクス2)
嘘のもとづいて行動することは、思わしくない結果をもたらす可能性が高い。嘘とは、なんであれ、それを真と仮定してそれを踏まえて行動すると結果に裏切られるような命題であり、真実とは、それを踏まえた行動が期待通りの結果をもたらすものであるといえる。これは、イデオローグがつく嘘が、人々に信じられ続けるもうひとつの可能性であるといえるかもしれない。つまりその嘘を信じて、人々が行動して、なおかつその結果によって裏切られることがないようになっていれば、その嘘は露見することなく信じられ続ける。たとえば「夢はそれに向かって努力すればかならず実現する」と、心にもなく吹聴しているイデオローグがいるとする。彼は心の中では、そんなことを信じる奴は馬鹿だ、実際にお前らのうちで夢を実現できる奴なんか10%もいないんだ、と思っているかもしれない。しかしこのイデオローグの煽りに心を動かされた多くの人々が、自分の夢に対してより多くの注意を払い、それを状況にあわせて修正しつつ、その実現をひたすら目指して努力するならば、ほとんどの人々が夢を実現させたという結果を手に入れるかもしれない。つまりイデオローグは、自分は嘘を言っているつもりでいても、実際には彼は本当のことを言ったことになるのだ。(パラドクス3)

(註4)イーグルトンは第7章において、こうした立場を、日本では必ずしもよく知られているとは言えない二人の社会学者の見解によって代弁させている(もちろん後になってこてんぱてんに叩くために)(イーグルトン前掲書:421-422)。人がもつ認識は世界のありようを反映しており、それに決定されているという経験主義的、自然主義的な立場が、反照規定性によっていかに困難になるかについて、おそらくもっともラディカルに考察したのがエスノメソドロジであることは疑いない。ここではその良質の入門書としてライター 1987 を挙げておきたい(筆者はこの日本語版には目を通していないのだが)。

(註5)イーグルトン前掲書の第一章にこのリストは登場する。そして以下の各章は、それぞれの論点を個別に展開したものにもなっている(もちろん本書は並行するさまざまな縦糸によって議論が構成されており、この虚偽性の諸相の検討が唯一のストーリーではない。)。

(註6)Neisser はこれを能動的知覚 Active perception という名前で呼んでいる(Neisser 前掲書)

(註7)もちろん「客観的世界が存在する」という観念自体は、<その他のことがら>に関する真理化のプロセス、探索実践を導くという点で我々の実践システムにとって「役に立」っており、そうした探索実践がだいたいにおいてうまくいくことによって真理化されてもいる。言うまでもなくこれは、外の客観的世界において客観的世界が実際に存在しているから、この観念が真だということではない。

(註8)環境世界とのチューニングという言い方は、単に従来「適応」と言われてきたものの単なる言い換えに過ぎないのではないかとの批判が予想される。私がこの言葉を選んだ理由は、適応という言葉がしばしば到達した安定した状態を指す含意をもっているように思えるのに対し、チューニングは常に進行中の不断の実践としてそれをとらえるのにより優れているように思えたこと、そして「適応」がともすればある種の「善」を含意しているように思われるのに対し、チューニングという表現にはそうした含意がないことである。言うまでもなく、チューニングは単にそれ自体変動するなんらかの対象に対して自らを変調させつつ追従するプロセスである。歪で邪悪なものに対するチューニングはそれ自体歪で邪悪な実践と実践主体を生成する。かくして、たとえば、クラスでの虐め行為を学校という社会空間に対する生徒たちのチューニング実践の産物として眺めるといったことが違和感なく可能になる。

引用参考文献

デイヴィドソン, ドナルド 1991,『真理と解釈』野本和幸、植木哲也、金子洋之、高橋要共訳、勁草書房
(Davidson, D., 1984, Inquiries into truth and interpretation, London: Oxford University Press)

イーグルトン, テリー 1999,『イデオロギーとは何か』大橋洋一訳, 平凡社
(Eagleton, T., 1991, Ideology: an introduction, London, New York: Verso)

ジェイムズ, W 2004,『プラグマティズム』枡田啓三郎訳、岩波書店

片桐薫編, 2001, 『グラムシ・セレクション』平凡社

ライター, K 1987, 『エスノメソドロジーとは何か』高山真知子訳, 新曜社
(Leiter, K.C., 1980, Primer on ethnomethodology, Oxford: Oxford University Press)

Neisser, U., 1976, Cognition and Reality, San Francisco: Freeman

Taussig, M., 1980, The devil and commodity fetishism in South America, Chapel Hill: University of North Carolina Press

戸田山和久 2002 『知識の哲学』産業図書