民族誌の時制:「民族誌的現在時制」をめぐって

大学院ゼミで喋った話の文章化。もっと大きな議論の一部にしようと思ったけどできなかった。ここに凍結させる。

現在時制と歴史的コンテキストの捨象

「民族誌的現在時制 ethnographic present」という名で知られる現在時制の使用は、従来の民族誌のスタイル上の特徴の一つであった。今日多くの民族誌家にとって、このスタイルはすでに当惑の種である(註1他者についての、人類学的な表象生産の常套的な道具立てに対する一連の批判のなかで、民族誌的現在時制は、人類学者と対象社会との特殊な関係--オリエンタリズム批判が照らし出したような--を反映していると同時に、それを再生産するものでもあると判明したらしいのである。それは社会の営みを「あたかもそれらが、集団の誰にとっても同じやり方で常に反復されるものであるかのように記述」することによって、対象社会を一つの閉じた体系に見せかける記述法である(Rosaldo 1989:42)。それは対象社会を非歴史的で無時間的な瞬間の中に固定し、人類学者が生きる社会との同時代性を拒絶し、時間的に隔たった他者に作り替えてしまう(Fabian 1983:86)。

しかし勘違いしないようにしよう。問題は、人類学が自らの対象の歴史性に対してあまりにも無頓着であったこと(ときにはそれを端的に否認しようとしていたこと)の方であって、現在時制そのものではないということである。現在時制の使用がこの構図の中で、きわめて独特の効果を発揮してきたことをもって、現在時制の使用がこうした構図そのものの原因であるとか、時制に工夫を施せば問題が軽減されるとか考えたりすることは、滑稽である。

報告時においては、調査はもちろん既に過去のことである。過去のことが現在形で語られるのはおかしい、という一見まっとうな批判がある。こうした批判そのものは、ほとんど考慮には値しない。時間上の過去、現在、未来に、時制が直接対応すると考えるのは、あまりにも素朴すぎる。未来を舞台にしたSFが未来形で記述されているのを、私は見たことがない。それは過去形で書かれるのが普通であろう。誰も、未来のことなのにどうして過去形で書いてあるんだと文句を言ったりはしない。また同様に、現在形で語っているということは、必ずしも現在のこととして語っているということと同じではない。バンヴェニストの言うように、実時間とは関係なく、過去時制とは「物語る」時制であり、現在時制は「話(わ discour)」の時制なのである(バンヴェニスト 1983:217-233)。あるいはヴァインリヒのより正確な定式化に基づいて言えば、過去時制が「物語の時制群」に属するのに対して、現在時制は「説明(議論)の時制群」に属している(ヴァインリヒ 1982:17-20)。

一方、時間的ずれの問題は、時制に関係なく存在する。いかなる時制で書かれようとも、記述と記述された出来事のあいだには、つねにそして既に、時間のずれがある。したがって問題なのは、この「ずれがある」という事実ではなく、それに無頓着であったり、それを否認しようとすることの方なのである。従来の人類学に非難すべき点があるとすれば、過去のことを現在形で記述するということそのものよりは、この歴史性に対する無頓着さの方であった。

 人類学に特徴的であった時間的ずれに対する無頓着さは、同じ報告が繰り返し参照され引用される都度、拡大再生産されていく。「現在形」がそのグロテスクな効果を発揮するのはこの構図においてである。言うまでもなく、現在形の記述は現在についての記述としても読まれうるからである。1910年代の調査に基づいて、マリノフスキーは1920年代にトロブリアンド諸島民の暮しを現在形で報告した。1990年に別の人類学者がその論文の中で、再びトロブリアンド諸島民の暮しに言及するとき、その言及は、マリノフスキーの書いたものにもとづいて、あいかわらず現在形のままなされてしまう。これは、たとえて言えば、江戸時代に日本を訪問した人が書き残した記録をそのまま用いて、今たとえば「日本人の多くはまげを結っている」と書くようなものである。これは決して冗談ではない。例えばド・ウーシュは1986年に出版されたアフリカにおける供犠の比較研究の中で、降雨儀礼における人身供犠の慣行について触れた後、「これらの慣行は南部アフリカにおいて広く見られる。ツワナ族のあいだにおいても再び(encore)それは見出される」(de Heusch 1986: 146)と書いている。フランス語版に先立って出版された英語版ではこの箇所は「ツワナ族のあいだではいまなお(still)それは見られる」(de Heusch 1985: 91)となっている。この英語版が単なる誤訳であるとしても、読者が、1985年の時点でアフリカでは人身供犠が広く行われているかのような印象をもってしまうことは避けられないだろう。

民族誌記述のこうした使い方は、人類学においては民族誌記述が歴史的な証言としては滅多に扱われてこなかったという事情をよく示している。時間についての無頓着さ、記述が行われたのが歴史的にいつであって、その記述を参照する今が歴史的にどのような時点であるのかに対する無頓着さが、その驚くべき特徴である。ここではそれが「現在形」で書かれているかどうかは、実は本質的な問題ではない。仮に、それがすべて過去形で書かれていたとしても、その過去形で書かれた事実を、それが置かれた歴史的コンテクストに、そして現在に関係付けて捉えようとしないならば、同じことなのである。

単に、後にそれを利用する人が民族誌記述を歴史的な資料という形では用いていないということではない。実際のところ民族誌そのものが、めったに歴史的な証言としては書かれては来なかった。別の用途に向けて書かれていたのである。広い意味での「比較」という用途である。清水昭俊によると、比較のためには、比較する諸事例を「同一の共約平面上」に置く必要があり、そのため、それぞれの社会はそれらが属している個別的な歴史的環境との結び付きを切断され、捨象され、ある意味で「同時代」に位置付けられることになる。民族誌的現在は、こうした比較のための条件を補強するものであった(清水 1992:431-2)。ここでも現在時制を無理になんらかの「時間性」と関係付ける必要はないだろう。まさか比較をするために「同時代」であることが--虚構の形をとってまでそれを設定する必要があるほどに--必須であるわけでもあるまい。要はそれらが個別の歴史的時間から切り離されればそれでよい。バンヴェニストの区別にならって言うならば、民族誌記述にとって対象社会は、歴史的にとらえられる、つまり「物語」られる対象ではなく、「説明(議論)」されるべき対象だったのである。このこと自体は、現在時制の使用そのものと同様に、非難されるべきことではない。非難されるべきは、歴史性の否認のもとにそれが行われてきたことであった。

現在時制における現在の欠落

民族誌的現在との関連でよくなされる別の批判は、民族誌が、調査の時点で観察されたはずのことをきちんと記述していない--あるいは故意に捨象している--という批判、つまり民族誌のなかで、むしろ調査時点での「現在」が欠落してしまっているという批判である。マーカスとフィッシャーは「実はこれまで民族誌によって、民族誌学者がそのフィールドの現在において実際に見たものなど滅多に報告されはしなかった」(Marcus & Fischer 1986: 96)とまで言っている。ラドクリフ・ブラウンのケースが示唆的である。マクナイトによると、ラドクリフ・ブラウンがオーストラリアでフィールドワークを行なった土地には、病気にかかったアボリジニーたちを各地から集めて男女別に強制収容する施設があったのであるが、この事実はラドクリフ・ブラウンによる現地の社会組織の記述のなかでは一言も触れられていない(McKnight 1990: 90-91)。サンジェクの言うように、そこでは「現在についての民族誌ならぬ、民族誌的現在を創り出すために、周りで実際に起こっていることが意図的にふるい除けられている」(Sanjek 1991: 613)かのようなのである。言うまでもなく、これは上で指摘した人類学における対象社会の歴史性に対する無頓着さの、別の一面である。つまり、こうした民族誌は、その歴史的瞬間の現実性、アクチュアリティを欠落させていることによって、もともと「歴史的証言」としての資格すら欠いていたのだということになる。

このことはしばしば不用意にも、従来の民族誌が「充分に共時的ではなかった」(Marcus & Fischer op.cit.)ためであるとされ、「フィールドワークが実際に行われた歴史的時点を民族誌の中に固定すること」(Marcus & Fischer 1986:185)、つまり本当の意味での「現在についての民族誌」(Sanjek 1992: 622)を目指しさえすればよいという楽天的な宣言によって締めくくられることがある。まさかフィールドで生起しているあらゆる事を記述すればそれで済む--そもそもそんなことは不可能であるが--という楽天性ではあるまいが。そもそもサンジェクらが非難する、民族誌におけるこの歴史性の捨象が、M.G.スミスが「民族誌的現在の誤謬」(Smith 1962: 77)として早くから気付いていた、共時的民族誌記述が直面する一見不可避と見える選択の結果であることを忘れてはならない。共時的記述についてのラドクリフ・ブラウンの有名な定式を思い出そう。

「社会人類学者が関心をもつ具体的なリアリティは、いかなる種類の実体物でもなく、プロセス、つまり社会生活の過程である。研究の単位はある時期の、地球上のある特定地域における社会生活である。...社会生活の過程を特徴づける重要な一般的特性を記述することが、いわゆる「社会生活の形態」の記述となる。...十分な時間を経ると、社会生活の形態そのものも変化や変形を被る。それゆえ、社会生活におけるさまざまな出来事を(社会生活の)過程を構成するものとみなしうる一方で、それをこえて、その上に、社会生活の形態における変化というものがあるのである。共時的記述においては、我々はある一時期におけるあるがままの社会生活の形態を、起こりつつあるかもしれない諸特性の変化をできる限り捨象して描き出す。一方通時的記述は、長期にわたってのこうした変化を描き出す。」(Radcliffe-Brown 1952: 4)

時間の流れにそった通時的記述を、時間の流れの横断面を捉える共時的記述に対比させる不正確な比喩が示唆するところとは異なって、共時的枠組みはけっして、一瞬によって切り取られたストップモーションのように無時間的であることによって、歴史性をとり逃すわけではない。ラドクリフ・ブラウンの上記の引用にもあるように、それが記述するのは過程、プロセスである。プロセスという観念は時間性を抜きにしては考えることができない。共時的枠組みはけっして時間性(temporarity)そのものを消去したりはしない。それが消し去るのは、まさに歴史性を単なる時間性から区別するところの諸特性、出来事や過程の一回性、不可逆性、偶然性である。そしてこの削除は、上の引用に見られるように明らかに意図されたものであった。

ラドクリフ・ブラウンにとっての共時的記述の目標とは、社会生活における「さまざまな出来事」のなかに見て取れる体系性の記述であると言うことが出来るだろう。社会生活の中になんらかのパターン、体系だった性格が存在すること自体を否定する者がいるだろうか。問題は、そうした体系性の記述が、あらゆる一回的な出来事、プロセスにおける特異点、逸脱、異常、要するにパターンの変化につながる諸要素を排除することによって可能となると考えられているところだろう。その場合、歴史性の消去はいわば避けられない選択であったのだということになってしまう。おまけに、この出来事の一回性の排除に恣意性が滑り込んでくるのに気がつくのは容易である。立ち止まって考えてみるまでもなく、厳密に言えば一回的で独特でない出来事など存在しない。心臓の鼓動ひとつとっても、前回の鼓動と今のそれとでは送り出した血液中の赤血球は同一ではない。それは一回毎に「変化」している。いかなる出来事も一回的な生起である点で違いがないとすると、どの出来事をパターンに属さない一回的で特異な出来事と見なすかという選別に、恣意的でない基準がはたしてあるのだろうか。

M.G.スミスは、変化の排除に関する基準の胡散臭さに気付いている。彼が「民族誌的現在の誤謬」と呼んで批判するのはこれである。ラドクリフ・ブラウンの構造機能主義の理論枠組においては、彼の言うところの「社会構造」の維持に貢献していることが示せる過程以外が、変化につながるものとして切り捨てられることになる。民族誌的事実の記述に先立って、何が排除されるべきかが構造主義の理論枠組によって前もって決定されてしまっているのである。このようにして「変化--それが現在進行中のものであれ、歴史的なものであれ--を排除しておきながら、そのことが、逆に変化が起こらないことの証拠とされてしまう」(Smith ibid.)という民族誌的現在の誤謬の構図が成立する。これが、人類学のくだんの博物学的傾向性や、自ら(西洋)がその破壊に手を貸したものに対するノスタルジー(Rosaldo op.cit. pp.81-83)やらの、対象社会の非・歴史化へむかうさまざまな契機と結び付いて、人類学を対象社会の歴史性に対してますます鈍感な学問へとしてきたのであるが、それは今となってはたいして新鮮な話ではない。

秩序の語りとしての現在時制

現在時制と過去時制の区別が、民族誌的現在時制に対する最初に紹介した素朴な批判が考えていたように、現在と過去という異なる時間をさす区別というよりは、調査の時点でまさに観察されているさまざまな出来事に対する上述のふるい分けに、むしろ密接にかかわっているのだという点は、強調しておきたい。ある出来事、例えば私がたまたまある木曜の朝に寝坊した(そして講義に遅刻した)という出来事が、現在形で書かれるときにどうなるかを見ればよい。「浜本満は木曜の朝に寝坊する。そして講義に遅刻する。」まるで(事実に反して)私がとんでもない講師のようではないか。一回性の出来事を物語るには過去形こそがふさわしく、それがあるパターンに従っていることを示すには現在形がふさわしい、という言い方は実は転倒した言い方である。むしろ、過去形で書くことこそが、逆にその出来事を個別の一回性の出来事として提示することになるのであり、同様に現在時制で書くことによって、その出来事がなんらかのパターンに属するものとしてまさしく認定されるのである。一見逆説的であるが、現在形で書くことによって、歴史的な瞬間としての現在がむしろこぼれ落ちてしまい、逆に過去形の使用こそが一回的な歴史的な瞬間としての「現在」を定着させることもある。

ラドクリフ・ブラウン自身は、彼の描いた民族誌のなかで、現在形をやや乱用しすぎるきらいがある。ときにそれは少々滑稽ですらある。たとえば次のような具合だ。「アンダマン北部では、抱擁は、いわば段階を追って、各段階ごとに親密さを増していくといった具合いに、徐々におこなわれる。最初、新郎新婦の二人は隣り合って腰を下ろす。そのうち、二人は互いの腕を相手にまわす。そして最後には新郎は新婦の膝の上に座らされるのである。」(Radcliffe-Brown 1964(1922):236)実際にはあり得ない話かもしれないが、この記述が、ラドクリフ・ブラウンがたまたま観察する機会のあった一回の結婚式の情景をもとに作られたものだと想像してみよう。たちまち、この記述においてパターン化された決りきった行為の手順のように見えるものが、実際には一回きりの偶発的な出来事であって、単に現在形による提示がそれをパターン化された行為に見せかけているだけなのかもしれないという可能性に気づかされるだろう。そして民族誌記述が個別的な事例の観察に基づいているとされる場合には、つねにこうした疑いは忍び込みうるのである。どのような基準に基づいて観察者は、一回的な偶発的成り行きとパターン化された進行を区別できたというのだろう。同種の行為のたかだか数回の観察で充分だなどとは、まさか言うまい。

現在時制と出来事の一回性との奇妙な組み合わせは、初期の民族誌においてはありふれたものであった。ジュノーによるモザンビークのバトンガにおける死の叙述もそのほんの一例である。「死に瀕した男は彼のすべての親族を呼び集め、彼らの前で彼の最後の遺志を伝える。『誰か来てない奴がいるぞ。行って連れてきておくれ』と彼は言う。全員がそろうと彼は皆に告げる。『さて、私の兄弟たちよ、子供たちよ。私は死ぬ前にお前たちにどうしても会いたかった。......』ついで彼は皆に、彼の負債について、彼が誰に借りがあり、誰に貸しがあるか、忘れぬように念をおす。...彼はまた自分が隠し埋めておいた宝物のありかをも人々に明かす。」(Junod 1962(1912)I.:134)さてこの場合、記述されているのが、ある大きな村の長マニバネという個人の死の出来事であることが、読者には前もって告げられている。実際ジュノーはバトンガにおける死にかかわる儀礼的諸手続きの解説を、もっぱらこの一人の人物の死に際して行われたことの記述によって代えている。それは一回きりの出来事だったのである。しかしすべては現在形で記述され、それが一連の一回的な出来事に、まるで決まった台本にしたがって展開している出来事ででもあるかのような不思議な印象をもたせている。すべてが通常通り過去形で「物語」られていたとしても、出来事の記述としては何の違いもなかっただろう。ただ現在形によってのみ、この単一の個別の事例を、あたかも典型的なことの成り行きであるかのように提示することが可能だったのである。もしこれがジュノーも引用しているジャック師の記録のように(Junod op.cit. II.:401-403)、すべてが現実にあった出来事を物語る見聞記特有の過去形で書かれていたとしたら、読者はそこに書かれていることの多く--例えば親族を死の床に呼び集めることなど--が単にマニバネ老の風変わりな要望に応えたものであったのか、より一般的な手順であるのかの判断が出来かねたに違いない。ここでは現在形が、既に読者の判断をある特定の方向に誘導している。この記述を読んだだけで、読者はすでに、死に瀕したものが親族を枕許に呼び寄せるのはバトンガの人々の「慣習」であろうと思いはじめている。にもかかわらず、ここでの現在形は、ラドクリフ・ブラウンのそれのような圧倒的な効果を持っていない。記述には、現在形であるにもかかわらず、あまりにも出来事の個別性が混じりこみすぎている。少なくともバトンガの死者の誰もが生前、宝物を隠し持ったりしていたわけではあるまいと、つい疑問をさしはさみたくもなるのである(註2

ラドクリフ・ブラウン流の共時的な記述は、ある時点での人々の生の体系性を記述するために、観察可能な、それぞれは一回的な諸々の出来事から、偶発的なもの、真に一回的なもの、要するに長期的にはパターンそのものに変化をもたらす要素を取り除こうとする。しかしその選別には恣意性が忍び込む余地があり、現在形の使用は、その選別の結果として採用された記述法であるというよりも、その選別に見せかけの正当性を与える、それ自体がパターンを可視化するための操作ででもあったのである(註3

しかし、共時的人類学のより深刻な誤認は、ある時点におけるパターンや構造を記述するために、こうした個別性、一回性、変化を排除することがそもそも必要であると思い込んでしまった点である。パターンや構造について語るためには、変化は捨象せねばならず、したがって構造とその変化を同時に記述することは出来ないというのは、スミスのような共時的人類学に対する批判者たちをすら捕らえていたジレンマであった。こうした捉え方に立っている限り、出来事のあいだに、一回的なものとパターンにしたがったものを区別することは、避けられない手続きになる。すると結局、その区別の基準の恣意性が再び浮上してきてしまうのである。出発点が間違っていた。

出来事の中に見て取れるパターンとは、実際に生起している諸々の出来事とは別にどこか、それら出来事の生起する現象平面のより深層、あるいは奥、あるいは裏側などに、独立して存在しているわけではない。パターンは、それぞれが一回限り生起する諸々の出来事のなかに、あるいはそれら相互のあいだに--まさにその現象平面上に--見て取られるという形以外では存在しない。一回性を排除することによってそれに至ろうとすることは、ちょうど、あたかも言語体系における音素を、実際に発音される、それぞれがある種のユニークな、そのときどきの一回的な特徴を帯びた音から、そのユニークさ一回性をはぎとっていった残りであるなどと考えてしまったり、それら実際に発音された音を選り分けて、その中に典型的・理想的なその音そのものを探し出そうとしたりするようなものである。音素とは結局のところ、一つのパターン、それら諸々の実現した音を互いに「同じ音」として等置する関係のことであるにもかかわらず。秩序とは、同様に、諸々の個別的な出来事の生起を「同じ決りきった事の成り行き」として等置したり、類別したり、機能的につなげたりする諸関係である。それは、変化を捨象したり、変化がないところにではなく、まさに変化のただなかに見て取られねばならないのである。

共時的人類学の犯したもう一つの誤解は、上の誤解とまさに連動しているのであるが、ラドクリフ・ブラウンのくだんの引用にも見られるように、こうした体系性を観察される生起するさまざまな出来事そのものにそなわった属性であるかのように考えていた点である。しかし実際に取り出され記述された秩序は、それを取り出し記述する方法によって--したがってそれらが前提とする理論枠組によって--そこに作り出されていたのである。現在形で語ることも、パターンを可視化してみせる方法の一つであった。パターンや構造、体系性(議論の今の段階では、いずれの言葉で呼んでも大差ない)は、もちろん観察者の曇った主観性が何もないところに勝手に描き出す幻ではないけれども、なにか出来事そのものにそなわっている属性であるわけでもない。ソシュールが言語学的な対象を「観点のみによって作り出されたもの」と呼んだように、パターンは、それをしかじかのパターンとして見わけることのできる眼差しのもとで、はじめてパターンでありうる。諸々の一回的な出来事の生起は、関係づける精神の働きのもとでのみ関係づけられたもの、つまり秩序として現れる。可視化された秩序を見てとることと、秩序を可視化することは、この場合、二つの別々の実践というよりも、抽象的にのみ区別できる二つの方向性をもった同じ一つの実践である。言うまでもなく、それは誰もが行なっていることであり、人類学者がそれを行なう以前に、彼が現地で関り合いをもつ当の人々によって、彼ら自身のあいだで相互に、日々遂行されている実践でもある。生起する出来事を過去形で「物語り」、またその一方で、現在形でそこに見られる秩序を取り出して見せているのである。

秩序の可視化と現在時制の問題

民族誌的現在をめぐる問題系は二つの相をもつ。一つは、対象社会に対する歴史性の否認と表裏をなす、対象社会の置かれた歴史的コンテキストの捨象の問題である。問題のこの側面は、民族誌における現在時制の使用を対象社会の歴史性に対する人類学者の無関心の症候の一つととらえる読みを許す。しかし現在時制の使用そのものは、この無関心の直接の原因でも、直接の結果でもない。民族誌的現在をめぐる問題のもう一つの側面は、共時的記述における変化の捨象の問題であり、こちらは秩序の可視化の実践、つまりうつろい変わり行く歴史的出来事のなかに「変わらぬ」パターンを見て取ろうとする実践に関係している。現在時制は、そうした実践の道具立ての一つに他ならなかった。

私は民族誌的現在の問題は、対象社会に対する歴史性の否認の問題とのみ結び付けて考えるよりも、秩序を可視化する語りとしての現在形の使用をむしろ主題化する方向で考えたほうがよいと思う。たしかに人類学者が「民族誌的現在形」の使用を通じて対象社会で生起する出来事のなかに「変わらぬ」秩序を見て取ってしまう場合、それはしばしばそこで現に生じている変化を視界の外に排除することを通じてであり、その意味でも結局のところラドクリフ・ブラウン流の共時的記述が対象社会に対する歴史性の否認と結託していたと言うのも正しい。しかしそのことで、現在形の使用そのものを断罪したり、そのときどきの社会的諸現実にパターンを見て取ろうとすること自体を断念しなければならない、ということが帰結するわけではない。民族誌的現在を対象社会に対する歴史性の否認という問題系のなかでのみ問題にしようとすると、こうした極端に否定的な立場に陥る危険がある。さらに具合が悪いことに、人類学者の記述において社会が固定された秩序として提示されていることを非難することに夢中になっていると、当の社会の人々自身もそれぞれがさまざまに同様な秩序の可視化の実践を行なっているということを見逃してしまいかねない。つまり、フィールドにおいて人類学者の耳にも絶えず飛び込んできているはずの、秩序を可視化する諸々の語りを主題化しそこねてしまうおそれがある。

そもそも人類学者がフィールドの出来事にどのような秩序を見出すかが問題になる以前に、その社会を--より正確にはその言説空間を--流れている諸々の語りがどのような秩序を見出しているのかの方が、先行する問題のはずである。それは実際問題として、対象社会の秩序についての人類学的な知識の条件ですらありうる。北アンダマン島のカップルの抱擁に関するラドクリフ・ブラウンの記述を思い起こそう。もちろんこの記述が、この地方での婚礼の場におけるカップルの行動についての何度にもわたっての観察のみから引き出されたという可能性は否定できない。しかし、単純にもっとありえそうなのは、その地方の誰かがそれを婚礼において通常見られる決まりきった成り行き、決まりきった手順として調査者に実際に語ってきかせたという可能性の方である。私一人の経験であると言われればそれまでであるが、フィールドにおいて調査者が出来事のパターンに気付くのは、多くの場合、調査地の誰かれが語ってくれた話によってそれに気付くように仕向けられた結果であることが多い。ある場面に居合わせ、私の方ではせいぜい注意深く観察したつもりでいても、後から「これこれこういうことがなされていただろう?」と指摘されてはじめて、そう言えばたしかにそうしたことが行われていたようである、なるほどそれに注目していなければならなかったのか、などと気付かされることが多い。現地の人々の語りに導かれることなしには、観察者には目の前の出来事のどこに注目したらよいのか、何が重要なのかさえわかっていないのだと言ったほうがよい。観察--あるいは調査者の個としての経験--はもちろん人類学者の知識の独立した源泉であり、そうした個の位置に立脚することによってはじめて、単に語り聞かされたこと以外のことを人類学者が語りうる可能性も開けるのであるが、それ以前に観察という行為そのものが人々の語りに導かれることによってしか、少なくとも意義深いかたちでは、成立しないのである。人々の語りこそが、そこに観察されるはずの「図」について教えてくれる。そのおかげで、観察者は落ち着いて、語り聞かされたことと現実に観察されたことのずれや、「図」を成り立たせている「地」を構成している細目により多くの注意を向けることも、さらにはそこに別の「図」を見て取る可能性すらも吟味してみせることも出来るのである。そして彼の観察を導いてくれるこうした語りは、多くの場合、秩序を可視化させる「現在形」の語りである。

私は、私自身が「民族誌的現在時制」で記述を行なうことを、正当化しようとは思わない。ただ望むらくは、それが単に現在時制による民族誌記述であるのではなく、現在時制についての民族誌ででもあってくれることだけである。


註釈

註1 ためしに1993年に刊行された2冊のかなり成功した民族誌を見てみればよい。ランベクの 'Knowledge and Practice in Mayotte: Local Discourses of Islam, Sorcery, and Spirit Possession.' と、ツィンの 'In the Realm of the Diamond Queen: Marginality in an Out-of-the-way Place.' がそれである(Lambek 1993, Tsing 1993)。いずれの著者も基調となる記述のほとんどを「民族誌的現在時制」で行うことになるのだが、そこには奇妙に言い訳がましい口調が伴っているのである。
 たとえばランベクは序文に先立つ特別な一節のなかで次のように述べる。「本書を書くにあたって私が向かい合わねばならなかったもっとも困難な決定の一つに、記述に用いる時制の問題がある。おそらくこれは、英語でものを書く全ての人にとっての問題でもあろうが、とりわけ民族誌との関連で問題化されていることも確かである。非歴史的で観望主義的な現在時制と自伝的な過去時制のいずれをとるかという選択は、けっして幸せな選択ではない。」(Lambek 1993:xv)同様にツィンも述べている。「言語に関するもう一つの問題が私を悩ませつづけている。いかなる時制を用いて民族誌的記述を行うべきかという問題である。この文法的なこだわりには、馬鹿にならない知的、政治的意義がある。」現在時制で書くことの問題点と、そのかわりに過去時制で書いた際にも同様に生じてしまう望ましくない効果に簡単に触れた後に、彼女は続けていう。「私はこれらのジレンマを逃れることができない。その内部でかろうじて身をかわしているだけである。...私は一貫してはいない。」(Tsing 1993:xiv-xv)
 今手元にある最も最近のものに属する、この2冊の民族誌が示し合わせたかのように見せているこの逡巡は、民族誌を書くという行為が今日置かれている諸々の困難さの徴候に過ぎないともいえる。もどる

註2 ジュノーの場合には必ずしも成功していないとは言え、一回的な出来事の生起を現在形のみで描写していく手法は、ティプトリー・ジュニアが未来の商業世界で偶像が作り出されていく様を現在形のみで、まさに事件の展開を実況報告しているかのような調子で描いた「接続された女」の記述戦略をちょっと思い起こさせる(Tiptree,Jr.J. 1975)。あるいはウェンディ・ジェイムズがエチオピアのウドゥクにおいて観察された儀礼や事件を報告する際に「劇的統一性をもたせるために」現在形で記述されたパラグラフを挿入したりするのも、同様な効果をねらっているのだと言える(James,W. 1988:xvi)にしかし実況報告は、事件を物語るというよりは、それを説明するものだということも忘れてはならない。ティプトリ・ジュニアの上記の小説においても、読者は「接続された」一人の少女の数奇な運命に思いを馳せるというよりは、未来の商業社会において事はどのように運んでいくものなのかに、多いに印象づけられるのである。もどる

註3 「現在形」の使用そのものは、こうした秩序を可視化=提示するさまざまな技法のひとつに過ぎないということを忘れてはならないだろう。メアリ・ダグラスのザイールのレレについての民族誌は、もっぱら過去形のみを用いて書かれているが、しっかり「共時的」である(Douglas 1963)。彼女は調査の時点においてすでに彼女がそこに記述しているような現実が急速に消えつつあり、そこで描かれたシステム解体が不可避であるとの認識から、それを過去形で書くことを選んだ。しかし、その記述自体の中からは、まさに「起こりつつあるかもしれない諸特性の変化」が「できる限り捨象」されており、そこでのパターンの提示は時制を用いてではなく、その他の手段--「レレ人」といった一般的な複数形の主語の多用など--をつうじてなされている。もどる


引用文献

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