寡婦を「巣立ち」させる方法: 儀礼をめぐる二つの問題系

html 化 05/1995
最終更新 21/09/1997

要旨

本論は、ケニア海岸地方のドゥルマで服喪の最終日に死者の配偶者に対してなされる「巣立ち」と呼ばれる一連の手続きを例にとって、儀礼を主題化する際の二つの問題系を正確に取り出すことを目的としている。それらこそ、ある一連の行為を「儀礼的」に見せるものに他ならない。先ず第一は、一連の行為とそれが行なわれるコンテキストとのある種の不整合--内在的な論理的合理的なつながりの欠如--であり、もう一つが儀礼的諸行為が特定のコンテキストを超えて他のさまざまな慣行や事物とのあいだにとりむすぶ意味論的と呼んでよいような類比的(アナロジー的)諸関係の存在である。

目次

  1. はじめに
  2. 「巣立ち」
  3. 決まったやり方の無根拠性
  4. 儀礼における「象徴的」秩序
  5. 結語
  6. 註釈
  7. 参考文献

はじめに

人類学が儀礼と呼んで研究対象としていたものは、やり方の決まった行為--規約的行為--のスペクトラムにおける特異点、行為の規約性がまさに噴出しようとするそばから自然に再び塗りこめられていくような、特殊な均衡点の近傍に成立した問題領域に対応している。この問題領域の性格をもう少し明確な形でとらえる必要がある。

それぞれの研究者が儀礼をどのように定義したとしても、誰もがそれを「儀礼」と呼ぶことに同意するであろうような、一切の曖昧さのない例をとりあげよう。ここでは儀礼は直接観察された単一の機会についての記述ではなく、その儀礼についてなされたさまざまな説明のなかで述べられ、かつ実際の執行の観察によって確認できた手続きを記述するという形で提示する。語られた儀礼の手順--しかるべきやり方として語られたものであれ、実際の出来事の経緯に対するコメンタリーの形で語られたものであれ--と実際に執行されたそれとの関係、儀礼の手順に関する知識の変異などは、ここでの関心の焦点ではない。儀礼一般の問題領域を明確化するために選ばれた一事例にすぎないからである。

巣立ち

例として、死の処理の締めくくりに行われる手続きの一つとして行なわれる「巣立ちすること、飛び立たされること(ku-uruswa)」と呼ばれるものを取り上げよう。その日は「なまの(未熟な)弔い(hanga itsi)」と呼ばれる服喪期間の最終日に当たり(註1)、埋葬後数日間にわたって(さまざまな禁止に加えて)水浴び(koga)を慎んでいた死者の近親者たちが、初めて水浴びを行う日でもある。

服喪に参加している人々は3種類に分けられる。死者の屋敷に属する人々(死者の婚出した娘たちを含む)は「死者に先立たれた当人たち(enye afererwa)」と呼ばれる。実際には「死者に先立たれた当人たち」の範囲は必ずしも明確ではなく、異なる屋敷に属する近親者たち(例えば死者の兄弟はすでに独立した屋敷を構えているかもしれない)もそこに含まれるかもしれない。彼らは原則として、服喪期間を通してそこにとどまり、服喪期間のさまざまな禁止に従わねばならない。2番目のカテゴリーは「ついて来た人々(atuwi)」と呼ばれる人々で、彼らは「死者に先立たれた当人たち」と親族関係や、姻族関係、友人関係などで結ばれた弔問客である。彼らは服喪期間をとおしてそこにいる必要はなく、1日2日の逗留で帰宅する場合もある。3番目のカテゴリーは、服喪期間中毎晩開催されるダンスを娯楽と恋やセックスの相手を手にいれる機会と心得て集まってくる近隣の人々である。昼間は最初の二つのカテゴリーの人々だけであるが、夜になると三番目のカテゴリーの人々であふれ返る。人出を当て込んで、タバコや菓子類、自家製の酒を売る者もやってくる。

服喪期間はそれぞれの父系クラン、さらにはムヤンゴと呼ばれるその分節毎にいくらかの違いがある。例えば同じムァニョータ・クランでも、クツォンガ分節は男の死者に対しては5日の服喪、女性の死者に対しては6日の服喪を義務づけているが、他の分節は男女ともに3日間を服喪として課している。服喪の第一日目は「寝茣蓙を(地面に)たたきつける(kubita chitseka)(註2)」と呼ばれるが、この日を「水の第一日目(madzi motsi)」とし、以下「水の第二日目(madzi phiri)」「水の第三日目(madzi tahu)」という風に数えられていく。水浴びの前夜の最終日は「水に寝る(ku-larira madzi)」とも呼ばれる。服喪の最終日に水浴びをおこなう時間帯についても、クランによっていくらかの違いがある。ムァニョータ・クラン mbari ya mwanyota の場合、それは夜明け直前に始まる。これとは反対に例えばムァカイ・クラン mbari ya mwakai のように太陽の高い午後に水浴びをおこなうクランもある。

水浴びの手続きについては、共通の知識がある。服喪の最終日、「死者に先立たれた当人たち」はそこに居合わせた親族ら(「ついてきた人々」)とともに、男女別々に一列になって近くの水場まで行進する。水場が遠い場合には、屋敷から少し離れたブッシュの中の空き地に水を張った臼を用意しておき、そこで済ますこともある。キナンゴの近辺では、近くの公共の水道栓のところで済ましてしまう場合すらある。男たちの列の先頭には死者の長男が、服喪の間じゅう彼の世話を焼いていた付添人に支えられて立っている。行列はわざとのようにゆっくり進み、水場につくと二人の男によって死者の長男は三度水の中に頭を突っ込まれ、次に体中に水を浴びせられる。それが済むと男たちは各自、順番に水浴び--といっても水を少し掬ってそれで頭と顔を洗う程度であるが--をおこなう。男たちの行列が戻るのとすれ違いに、女たちの行列が未亡人を先頭にして水場に向かう。男の行列と女の行列はわざと少し離れた踏み道をとおり、同じ道ではすれ違わないようにする。踏み道が一本しかない場合、死者が男であれば女たちは男たちの列を右側に避け、死者が女性であれば左側に避ける。声もかわさず顔を背けている。女たちも水場で未亡人を水に沈めた後、めいめい水浴びを行なうのだという。未亡人はまたその際、死者の衣類の洗濯をすることになっている。埋葬以来この日まで洗濯も禁じられていたのである。

「巣立ち」はこの水浴びから戻ってくる際に、死者に先立たれた配偶者に対して行なわれる。5分もかからない手続きである。ここでは夫に死なれた寡婦の場合を例にとろう。水浴びからの帰り道、屋敷に着くちょっと手前で彼女はいったん立ち止まらねばならない。屋敷から彼女の名を大きな声で呼ぶ声が聞こえる。呼んでいるのは、この手続きを主宰する施術者(「死の施術者 muganga wa chifo」)である(註3)。3回呼ばれるまではけっして返事をしてはならない。3度目の呼び掛けに大声で返事をすると、今度は「マサイが来た!マサイが来た!」(あるいは単に「急げ!急げ!」)と急き立てられる。それを聞いて彼女は一目散に走り出し、そのまま近くの木によじ登ろうとする(あるいは小屋に駆け込んで、穀物庫によじ登ろうとする)。施術者は彼女に薬液を浴びせ(ku-vunga)、木から引きずりおろす。そのまま小屋の中まで連れていき、彼女をベッドの上に座らせる(註4)。この間、施術者は彼女に対して「この者をして、上に昇らせ大声をあげさせよう。なぜなら彼女はもう夫を見ることがないだろうから。彼の姿が目に浮んだりする(kudza matsoni)ことがないように。泣くこともないように、気が変になる(kp'ayuka)ことも、夜に昼に身体が痒く(「身体を掻きむしる kudzikuna」)なることもないように。」といった唱えごとを唱えながら薬液を振りまき続けている。この薬液の成分は、「冷たい草木(muhi wa peho)」と呼ばれる数種類の植物と、施術者の報酬の一部として与えられる黒い雌ニワトリの頭部の羽毛などである。ベッドに腰掛けさせられた未亡人は、次に薬液に用いたのと同じ「冷たい草木」の薬草を揉みつぶしたもの(ヴァンダ vanda)とヒマの油 nyono を塗布される。

ここまでが「巣立ち」である。この手続きが済むと、服喪期間中禁じられていた椅子やベッドの使用が可能になり、また同じく服喪期間中きびしく禁止されていた性関係も可能となる。さらに「巣立ち」には、未亡人が全身の痒みにとらえられたり、発狂したりするのを防ぐ効用があるとされ、また「彼女が夫を忘れるように、そして『さびしさ nzuni, uvumbu』に捕らえられすぎないように」するものであるとも説明される。

ku-uruswa は「(鳥を)飛び立たせる、(親鳥が雛鳥を)巣立ちさせる」を意味するディゴ語の ku-urusa の受動形であるという。鳥を飛び立たせるという意味では、ドゥルマ語では ku-burusa (ku-buruka 「鳥が飛び立つ、はばたく」より)を用いる方が普通であり、ku-uruswa はここで述べた手続きを指す以外には用いられない。これを「巣立ち」と訳したのは、この言葉のディゴ語での意味が、この地域の人々にもはっきりと知られているためである。

「巣立ち」が済むと未亡人は小屋の外の椅子に座らされ、頭髪をすべて剃られるが、剃髪は彼女が身内に死なれたことを表示する(「示す konyesa」)のだと説明される。こうして服喪は終了する。服喪に参加していた弔問客もめいめいヒマの油の薬を額や首に施術者につけてもらう。これも身体が痒くなるのを防ぐためだと言われる。施術者は薬液を屋敷の隅々に、とりわけ服喪期間中に用いられた寝茣蓙(kuchi)に念入りに振りまく。客たちは三々五々家路につき、屋敷には屋敷の人々と、ごく近い関係者だけが残る。服喪期間中のゴミが掃き集められて焼かれると、死の手続きはその日の夜(「ホウキに寝る(kularira luphyero)」と呼ばれる)行なわれるはずの、ひとつの極めて重要な手続き--「死を投げ棄てること(kutsupha chifo)」と呼ばれる手続き--を除いて、ほぼ終了したことになる。

ここで紹介した「巣立ち」の手続きを儀礼と呼ぶことに問題はあるまい。この事例を検討することを通じて、儀礼をめぐる二つの問題系を取り出しておきたい。

決ったやり方の無根拠性

何がこうした行為を他から区別して、ことさらにそれを儀礼と呼ぶ気にさせるのだろうか。それは「何かを言う」行為、表現や伝達の行為であるという理由で、儀礼なのであろうか。たしかにここで展開している一連の行為はいかにも意味ありげである。「象徴的」である、と言いたくもなろう。しかしこの場合の--つまり具体的な分析を始めもしていない時点での--「象徴的」という語の用いかたのなかに、「どこか意味ありげで、よくわけが分からない」という以上の内容があるかどうかは、疑ってよい。定義によると、何かを意味しているものが象徴である。しかしバーリーが認めているように、人類学者は(別に人類学者に限る必要もないが)往々にして、あるものが何かを意味していると確認したうえでそれを象徴と呼ぶかわりに、それが何を意味しているかわからないときに、まさにその理由でそれを象徴的と呼んでしまう癖があった。「行動を象徴的と解釈しようという判断は、しばしば人類学者の側で何かを理解し損ねたという事実の産物である」(Barley 1983:10)少なくとも上の記述からこの「儀礼」が何かメッセージを伝える伝達行為である、あるいは何かを意味するための行為であるという結論を引き出そうとするのは、かなり無理がある。人々がはっきりとそれを認めるのは、巣立ちの後の剃髪--それは彼女が近親者に死なれたことを周囲の人々に「示す」ためだとされている--ぐらいのものである。もちろん、あからさまな伝達行為ではないとしても、儀礼が行為で書かれたテキストででもあるかのように、読み取られるべき意味を含んでいると言うこともあり得るかもしれない。しかしそうだとしても、少なくとも現地では誰もそんな意味を気になどしてはいない。儀礼についてよく知っている人というのは、その「正しいやり方」を知っていると称する人であって、決してそれが何を意味するかを知っていたり、解釈できたりする人のことではない。儀礼は、誰もそれを読み取らず気にもかけないようなメッセージを伝達する行為だということになるのだろうか。

またここでは何かが演じられているようにも見えるかもしれない。事実、一連の所作はすべて、もしこのとおりに実行されるならば、いかにも芝居がかっている。「マサイが来た」と脅されて、いきなり走り出す未亡人は本当にマサイが来たと信じて恐がっている訳ではない。19世紀ならいざ知らず、今どきマサイの襲撃などありえない話である。彼らは町で定期的に開かれる家畜市の大切なお得意様である。1980年代末ということであれば火器で武装したソマリの密猟者か盗賊団とでもしたほうが、まだ現実味があっただろうに。もちろん木に登ろうとするのも別に動転しているからではなくて、単にそうするよう決まっているからそうするというだけのことであろう。しかしそれだけに余計にこれは全体を芝居がからせ、彼女の行動をあたかもマサイ来襲の警告を受けて動転した人物を演じているかのように見せることになりはしないだろうか。たしかに「巣立ち」のこのくだりはちょっとした寸劇を思い起こさせる。しかしそれを一種の演劇と呼ぶにしては、そこには観客もいないし、服喪の参加者のほとんどが気づかないうちに、終わってしまっているのが普通なのである。

ある行為を「儀礼的」にする理由を、こんなふうにその行為自体が持つ何らかの性質に求めようとすることそのものが、どこか的外れなのではないだろうか。単に伝達行為や表現行為や演劇であれば、なんでも儀礼になるわけではあるまい。儀礼を儀礼にする(我々の目に、だが)のは、そこで実際に行われている具体的な諸行為--それが伝達行為であれ、歌謡であれ、ダンスであれ、賭事であれ、ゲームであれ、演劇であれ、何と呼びうる行為であれ--それ自体がもつ特別な性質などではなく、そこで行われるそうした行為相互の間の、あるいはそこで行われることと外部のコンテキストとの間に見られる特別な関係--その接合の唐突さ--なのではないだろうか。「巣立ち」を構成する諸行為が仮に、事実象徴的な仕方でメッセージ--行為者自身にもその内容が明らかでない--を描き出す行為であったり、そこで展開する様々な所作が何かの真似事であったり、まさに文字どおり寸劇であったりしたとしても、あるいはそうであれば余計に、我々が気付かされない訳にはいかない接合の唐突さがたしかにある。死者に対して屋敷の人々全員が服する喪の最後の日に、なぜまた寸劇をしたり、誰にも意味の分からないメッセージを発してみたりせねばならないのだろう。行為とコンテキストの間の露骨なギャップである。しかしそんなギャップなら、象徴や演劇を持ち出すまでもなかった。呼ばれて3度目に返事をすることも、木に登ろうとすることも、行為自体としては別に特別な性格をもつ行為ではない。それが、なぜか、死者の埋葬後のこの日に、寡婦(あるいは男やもめ)によって行われないといけないという事実自体が唐突だったのである。ある状況で必ず行なわれねばならないとされていながら、当の状況とのつながりがほとんど見て取れないような一連の行為を我々は前にしている。我々が「儀礼」的行為を目撃しているのだと考えるのは、そんなときなのではないだろうか。

こうした唐突さを見て取ることが私の自文化中心主義的偏見であって、当の人々にとっては、それらの行為は場違いなものでも不自然なものでもなく、必然として受け止められているのだ、などという当たり前すぎることを言い出さないで頂きたい。このギャップを、秩序と儀礼をめぐる現地の人々の語り自身のなかに含まれているかもしれない、一見したところの非合理性や論理の飛躍、不条理や荒唐無稽さ--もちろんすべて我々、その語り口を共有しない人間にとってのだが--と混同してはならない。ここで言うギャップ--行為と状況との接合の唐突さ--は、私が部外者であることによっていっそう目立つものになりはするものの、私が部外者であるという事実自体に由来するものではない。当の人々の儀礼システム自体に実は内在する裂目、いかなるロジックも道理もそれを覆うことの出来ない隙間、つまり当の人々にとっても埋めようのないギャップだからである。もう少し正確にそれが見いだされる場所を特定しておこう。

「巣立ち」が親族の死というコンテキストのなかでどのような行為であるのかをはっきり理解しておく必要がある。なぜなら「巣立ち」は--それを我々が「儀礼」と呼ぶかどうかにはおかまいなく--人々にとっては、親族の死というコンテキストのなかで明確な目的をもって遂行される行為以外のなにものでもないからである。それは具体的な効果を期待して世界に対して働き掛ける実効的な実践である。すでに述べたように「巣立ち」は寡婦(あるいは男やもめ)から、服喪中に課せられていた禁止--ベッドや椅子の使用、性関係--を取り除く手続きである。同時に、それは寡婦の錯乱や全身の痒みや、過度のさびしさを予防するものでもあるともされている。

禁止の解除と、痒みや錯乱の予防というのは一見いかにも奇妙な取り合わせである。この問題の方を先に処理しておこう。少なくとも「巣立ち」の施術者自身について言えば、その実践的な関心はむしろ予防措置の方にあると見えなくもない。「巣立ち」に先だって施術者が薬液(chiza)を用意する際に、薬液に対して小声で唱えている呪文(makokoteri)は、巣立ちの間に未亡人に対して唱えられているものより、さらに一層即物的にその効能を数え上げている。例えば次の例。

(黒い雌鶏の頭部と背中の羽毛を引き抜いて薬液に加えながら)
さて、薬液(chiza)よ。これが黒い鶏だ。薬液よ、お前は目的なしに据えられる訳ではない。お前が据えられるとすれば、何か間違いが起ったからなのだ。私たちの間違いとはD(未亡人の名前)だ。病人はDだ。夫に死なれた。夫はKだ。この理由でお前は据えられたのだ、薬液よ。
(薬液の中の葉を細かく揉みつぶしながら)
お前はDによって浴びられる。さあ、Dの身体を冷やせ。身体を冷やせ。火を鎮めよ。(皮膚が)白く粉をふいたようになることも鎮めよ。(痒くて)全身をかきむしることも鎮めよ。Dの身体がつやつやと輝きを保つように。たとえ一ヶ月水浴びをしなくても美しさを保つように。火を鎮めよ。火を鎮めよ。
彼女がお前を浴びれば、彼女の身体がつつがなきように。足の先から頭まで、つつがなきことを。脚から、腕まで、ありとあらゆる関節まで。

まるで皮膚病の治療--より正確には、予防--でもしているかのようである。
服喪と未亡人の皮膚病の予防の取り合わせは、たしかに奇妙にうつる。服喪の最終日を選んで寡婦の皮膚病予防をするなんて、まるで常軌を逸しているように見えるかもしれない。しかし私が儀礼に特徴的であるとしているギャップとは、こうしたことではない。なぜ皮膚病予防がそこで必要になるのかは、服喪のコンテキストからまったく無理なく--目的合理的に、とすら言いたくなる--理解可能だからである。錯乱と全身の痒みは、寡婦が服喪期間中の禁止を--すでにその時点では禁止は解除されたあとであるとはいえ--真っ先に破らねばならない人物であるということに由来する現実的な危険なのである。

死者の埋葬後の「なまの弔い」と呼ばれるこの服喪の期間中「死者に先立たれた当人たち」はいくつもの禁止に服さねばならない。水浴びや洗濯の禁止もその一つであるが、わけても重要な禁止が性関係の禁止である。これらの禁止を破ることは「弔いを追い越す(ku-chira hanga)」と呼ばれ、違反者は全身の痒み(ku-wawa mwiri wosi, kudzikuna)、さらには錯乱(kp'ayuka)に襲われるとされている。一方、服喪の終了後に寡婦(男やもめ)が真っ先に行なわねばならない最も重要な義務は「死を投げ棄てる」と呼ばれる行為なのであるが、これは具体的には彼女(彼)がブッシュの中の地面の上で余所者を相手に一回限りの無言の性交を行なうことなのである(浜本 1989)。彼女(彼)は服喪中の禁止を最初にしかも最も華々しい形で破らねばならないことになる。もちろん「巣立ち」は彼女(彼)からこの禁止を解除してやる手続きであり、その時点では彼女は禁止を破っている訳ではない。しかし「弔いを追い越」した者を待ち受けている危険が万一彼女に降りかかったりしないようにとの予防措置--皮膚病予防や錯乱予防のさまざまな手段--が、「巣立ち」の手続きの中に念のために含まれていたとしても、けっして驚くにはあたらない。

「巣立ち」に含まれる諸々の目的の関係を正しく理解しておかねばならない。「巣立ち」はあくまでも服喪中の禁止を解除するための行為である。禁止が解除されたおかげで、寡婦は服喪中に禁止された行為を行なったとしてももはや全身の痒みや錯乱にとらえられることはない。したがって、巣立ちの目的を--事実多くの人々が説明するように--寡婦が錯乱や全身の痒みにとらえられないようにするための手続きであると述べることは、まったく正しい。しかしそれがあくまでも、「巣立ち」が実現しようとする最初の目的--禁止の解除--に付随する結果なのだということを--たとえ同時に皮膚病や錯乱の予防の手続きが重ねて付け加えられているからといって--誤解してはならない。「巣立ち」はあくまでも、「水浴び」に始まり、最終的に「死を投げ棄てること」で締めくくられる、一連の禁止の解除の一つの段階なのである。

注意せねばならないのは、ここでいう「禁止」はけっして誰か特定の人々によって課せられた命令や、あるいは合意や取り決めの類とかではなく--これは後に詳しく論じる必要があるが--まるで我々にとっての自然法則のように人を捕らえるものであるので、単に人がその気になれば、あるいは合意によって自由に「解除」したりできる性質のものではないという点である。それは、たとえば20歳を過ぎると喫煙に対する禁止が解除されるといった話とはまったく別物である。喫煙に対する禁止の場合、禁止は単に取り決めに基づいたものであり、禁止の違犯に対して何がなされるかも取り決めによって定められているに過ぎず、したがって取り決めによって解除できる。しかし服喪期間中の諸行為については、しかじかの行為を禁止しよう、もしそれを破ると発狂することにしようと取り決めてあるわけではない。とりわけ後半に関しては、取り決めればそうなるというような性質のものでないことは言うまでもあるまい。やや不正確な比喩ではあるが、ちょうどそれは10階建のビルの屋上に書かれているかもしれない「ここから飛び降りることを禁止します。この禁止を破ると死にます」といった禁止に似ている。この「禁止」を書いたのがビルの管理者であるから、それは同じ管理者によって解除できるはずであるなどと考えることはナンセンスである。たとえ管理者がこの禁止は今日で解除すると宣言したとしても、相変わらずこの禁止を破った人は死んでしまうので、それは少しも解除されたことにはなっていない。服喪の期間の禁止も、同様に単なる取り決めや合意の類ではない。それを破ったものは、契約違反の廉で誰かに罰せられるのではなく、身体的な異常や錯乱に襲われる。そこでは禁止の解除とは、その禁止を本質として含む当の状況そのものを変えてしまうことによってのみもたらされる。それは単なる取り決めの破棄ではなく、より実効的な世界への働きかけなのである。「巣立ち」は状況を変質させるこうした操作つまり、やや不正確な言い方にはなるが、妻や夫に先立たれた者が置かれている『死の状況』とでも呼びうる状況そのものを終結させる一連の行為の一部になっている。「死者に先立たれた当人たち」は「水浴び」、「巣立ち」によって段階的にこの死の状況から離脱し、最後の「死の投げ棄て」でそれに完全に終止符を打つことによって、そこから完全に解放されるのである。

もちろん人々が、「禁止の解除」であるとか「死の状況」であるとかの言い回しを用いてこうした説明をしてくれるわけではない。「巣立ち」をすることによって、寡婦が椅子やベッドを用いたり、性関係をもったりすることが再び可能になる、と語るだけである。あるいは、もし「巣立ち」をしなければ寡婦は全身が痒くなって掻き毟ったり、気が狂ったりする、と語るだけである。あるいは「水浴び」をし、「巣立ち」させられ、「死を投げ棄てる」と、すべてにけりがつく(gakale gasira)と語るだけである。上の議論は、屋敷の成員の死というコンテキストにおいてなぜ「巣立ち」が必要とされ、また「巣立ち」が成し遂げると期待されているものが何であるかが明らかになるように、我々なりの用語で人々の語りを互いに関係付けようとしたものである。そしてこの点に関して言えば、「巣立ち」のもつ意味はかなり明確になったのではないかと思う。それはコンテキストに適合的な行為として今や理解可能である。

しかし「巣立ち」の死のコンテキストの中での意味をこうして明らかにしていくことによって、かえって儀礼の第一の問題系をより正確に提出することが出来る。コンテキストに回収不可能なギャップが露出するのである。なるほど、未亡人を「巣立ち」させねばならない訳はわかった。でも、なぜ彼女を木に登らせたり、走りまわらせたりすることが彼女を「巣立ち」させることになるのだろう。あるいは「巣立ち」が服喪における禁止を解除する行為であるというのもよいとしよう。しかし寡婦の名前を大声で呼んだり、三度目に返事させたりすることがなぜ禁止を解除する--つまり状況をベッドや椅子を使ったり性関係をもったりしても安全なものに変える--のに必要だというのだろうか。状況と、行為との唐突な接合とはこれだったのである。そして、こうした形で提出すると、この問いは当の人々自身にとっても答えようがないものであることがわかる。なぜなら彼らにとって「巣立ち」させるとはそうすることだからだ、それが「巣立ち」の決まったやり方なのだと言う以外にはないからである。そのやり方でやらねばならない根拠は、最終的にはそう決まっているからだ、そうすることになっているからだという規約の事実でしかないことが露呈する。それは根拠がないと言うこととほとんど同義である。

現地で人々とさまざまな場面を共有していくに従って、人類学者が自然に受け入れていく理解のレベルというものがおそらくある。コンテキストの理解である。その結果、成員の死によって、残された親族や屋敷が陥っていると考えられている状態についての感覚を漠然と理解したようなつもりになり、日常のつつがない秩序とでも言える状態(uzima)との落差を理解できたつもりにもなれる。一方から抜け出るために、あるいはつつがない状態を修復するために、何かがなされねばならないのは当然だと思えるようにもなる。つまり「巣立ち」に相当するような行為が、まさにコンテキストが要求している当の行為であると理解できるようになる。この論考を通じて私が目指していることの一つが、こうした理解をできるだけ忠実に提出することである。しかし、このレベルでのドゥルマの語り口に備わるロジック=センスがある程度理解可能になってくる一方で、もう一方の接合の恣意性--「巣立ち」を構成するいわばサブ・ルーチンとしての個々の行為とコンテキストとの--がますます目についてくることになる。やもめが走り回ったり、木に登ろうとしたりすることのどこが「巣立ち」なのだ、なぜそれが死の状況からやもめを離脱させるのだ、とどうしても問いたくなる。そしてこの種の問いのみは--もっともそれが問われることなどまずないのであるが--現地の人々にも答えられないのである。そうすることが「巣立ち」なのだという同語反復的な答以外には。私がこの論考の中でくり返し考えていきたいのは「儀礼」に最も特徴的にあらわれる(というよりも、それによってしばしば「儀礼」が同定される傾向にあるということなのだが)、行為とその外的コンテキストとのこの唐突な結合の問題、逆に言うと必然的な結び付きの欠如、無根拠性=規約性の問題である。

私はこれこそが、観察者に儀礼の中に象徴的で意味ありげなものを垣間見させずにはおかず、それゆえ、彼に儀礼の意味を問うように不断に仕向けてきた原因の重要な一部だったのではないかと疑っている。儀礼におけるような、行為とそのコンテクストとの無根拠で偶発的な接合は、いつだって十分シュールで意味ありげでありうるのだ。しかしそれを象徴性などと勘違いするべきではない。それは単純で根本的なギャップである。手術台の上でのミシンとコウモリ傘の突然の出会いが、ある芸術家の作品として提示されたとき、意味ありげなものとなってしまうように、行為とコンテキストとのこの唐突な接合が、観察者に--ルイスその他の人類学者が主張するように当の社会に所属する観察者をそこに含もうと一向にかまわないが(eg. Lewis, G., 1980:25)--それを「象徴的」だと思わせることはあるにせよ、それはけっして問題の行為を伝達行為とみなす根拠にはなりえない。

一見つながりようのない話をつなげる何かを、それが意味であれなんであれ、探したくなるのも無理もないことである。しかし例えば、やもめを走り回らせることがなぜ彼(女)を死の状況から離脱させることになるのか、という問に答えがあると思い込むこと、行為とコンテキストとのすべての接合に理由と意味を求めることは、はたして問題に対する正しいアプローチだったのだろうか。原理的に無根拠でしかありえない接合というものもあるのではないだろうか。前述したような、ドゥルマにおける秩序のロジック=センスについての理解を提示する作業と同時に、こうした接合が、人々の経験と、時間と秩序の中で占める位置とその効果を、現地における実践のさまざまな局面で考えていくこと、もし以下の論考のなかになにか一貫した方針、あるいは戦略があるとすれば、これである。

やや誤解を招きやすい言い方ではあるが、この問題系を、行為のシステムにおける規約性=恣意性の問題と言うことも出来るだろう。

儀礼における「象徴的」秩序

儀礼が象徴的行為であるという人類学者の基本的な理解が、もっぱらそこに見られる行為とコンテキストとの間のギャップのみに起因したものであったと決め付けるのは、もちろんあまりにも一面的すぎることは確かである。儀礼的諸行為と、それらが埋め込まれている実践的コンテキストとの接合が、観察者の目に唐突に見えるその一方で、儀礼的諸行為は特定の実践的コンテキストを超え出して規則的なパターンを描き出しているようにも見えるのである。その整合性はつい観察者に儀礼をそれが実践的にそうであるところのものとは別のものだと思わせてしまう。きわめて多くの種類の「儀礼」に観察されてきた分離・移行・統合のミメティックな演出や身振りがそれであるし、そこに見いだされるさまざまな二項対立的なパターンもそれである。コンテキストとの接合と、その中で儀礼的行為に期待されている効果の問題を無視しさえすれば、儀礼はむしろ整合的な象徴の織物のようにも見えてくる。

例えば「巣立ち」と「なまの弔い」とを単に並列させて眺めたときに見えてくる明瞭な2項対立的な諸関係は、ドゥルマの人々自身がそれらの対立を主題化して語らないからといって、それを認めずにいることは困難である。「巣立ち」における一つ一つの行為が、さまざまな二項対立的な区別を踏まえたものであることを指摘するのは単純な作業である。

埋葬後の服喪「なまの弔い」の数日間に「死者に先立たれた当人たち」はさまざまな禁止に服さねばならない。すでに述べたように、椅子やベッドの禁止、性関係の禁止、さまざまな日常的行為--水浴びや掃除、洗濯、屋内の炉での調理--の禁止は、もっとも表立った禁止である。それを違犯すること、つまり「弔いを追い越す」ことは、全身の痒みや精神錯乱を結果する。こうした禁止をはじめとして、弔いに参加する人々が服喪の期間を過ごすのには、きまったやり方というものがある。

「死者に先立たれた当人たち」と彼らの弔問に訪れた「ついてきた人々」は、男は男どうし女性は女性どうしにそれぞれ分れて、男たちは屋敷から少し離れた木陰で、女たちは屋敷の小屋の周囲で、ともに地面に敷いた寝茣蓙に寝起きする。彼らの料理は戸外に新たに設置した炉で調理される。「下(地面)で寝る(ku-lala photsi)」と「(足を投げ出して)座らされている(ku-zagazwa)」という二つの言い回しが、彼らの服喪期間中の行動を要約する。

とりわけ死者の配偶者と、死者の子供たちのなかでも特に第一子には、他の人々よりも重い行動上の制約が課せられる。彼らは所定の寝茣蓙だけに座っているべきで、みだりに席を立ったり、激しい動きを見せたりしてはならない。とりわけ死者の小屋の地面の上で起居すべきだとされる未亡人の場合、ブッシュへ用を足しにいく際ですら、一人で勝手に行ったりしてはならず、行くときには連れ立って(死者に複数の妻があった場合だが)さらに誰かに付き従われて、頭からすっぽり白い布をかぶって目立たぬよう行くべきである。また周りの人も彼女らに気付いても、それを示すべきではなく、まして指差しなどしてはならない。このように目立つ動作が禁じられるとともに、大声でしゃべることも慎まねばならないとされる。他人に直接呼び掛けたり話し掛けたりしてはならず、また周りの人々も彼らに用がある際には、けっして直接話し掛けず、彼らの身の回りの世話をする仲介人を通じて用件を伝えねばならない。ちなみに彼らの食べる料理もまた、この同じ仲介人によって他の人々とは別の火で料理されて供されることになっている。この仲介人には、すでに両親を失った者だけがなることができる。大きな声を立てず、できるだけ動かず、動作も控え目に、つまり万事につけて「おとなしく(pore)」という死者の配偶者や第一子に課せられる行動指針は、それ自体をとると死の状況ではいかにもありがちなものであり、それにたいした意味は無いように思えるかもしれない。しかし死者の近親者のこの不可視性は、「なまの弔い」においては実際にはやたらと目立つ不可視性でもあるのである。

「なまの弔い」の主調は、盛大な飲み食いと、徹夜での馬鹿騒ぎである。他の屋敷に属している「死者に先立たれた当人たち」は、「なまの弔い」の大きな出費に対して金銭や食糧の形で貢献することが期待されているが、服喪の間じゅうをここで過ごす人々--もちろん単に徹夜の娯楽を求めてやってくる近所の人々を別として--の飲み食いに対する負担は主として死者を出した屋敷にかかってくる。食事の量が不十分であること、酒が充分に供給されないことは、弔問客たちに容易に不平の声を上げさせる。この馬鹿にならない消費は、キリスト教徒らが「なまの弔い」に反対する理由の一つでもある。「意味のない浪費(garama yotso maana)」だというのである。夜になると連夜、屋敷の庭や周囲の空き地で近隣の主として若者たちが集まってきて騒々しい歌と踊りを繰り広げる。キフドゥ(chifudu)と呼ばれる、特に「生の弔い」を演奏の機会とする卑猥な内容の歌を、男女入り交じって輪になって踊り歌う(註5)。それは一夜の恋の相手を求める絶好の機会でもあり、あからさまな口説きと、それに続いてのブッシュでの密かな関係が「なまの弔い」の夜を、若者たちにとってのわくわくする得難い機会にしている。酔っぱらいどうしの喧嘩も珍しくはない。こんな中で死者の屋敷に所属する人々の「不可視性」は、逆にきわめて特異で観察者の注意を引かざるを得ない。

結局、死者の配偶者が「巣立ち」でとらされる行動は、彼(彼女)が服喪中にとる行動のまさに正反対の姿になっていることがわかる。「巣立ち」において彼らは離れたところからの呼びかけに大声で応答し、あたりを全速力で走りまわり、木によじ登ろうとさえする。この動と騒がしさは、服喪中の不動、沈黙とはっきりした対立を形作っている。さらに木によじ登ろうとした後で、服喪中は使用を禁じられていたベッドの上に座らされるというのであるから、服喪中の地面での(「下での(photsi)」)生活からベッドを用いた「上(dzulu)」への移行も文字どおり実行されている。この「下」から「上」への移動には、実のところさらに微妙なニュアンスもつけ加わっている。理由もなく木によじ登るのは、ドゥルマでは憑依霊などによって引き起こされる錯乱 kp'ayuka の典型的な行動の一つだと考えられており、「心が上にある(roho ri dzulu)」という表現は気持ちが動転していることを意味する慣用表現である。一方、死の状況に縛られている親族、とりわけ死者の子供や配偶者にとっての典型的な危険も、すでに繰り返し述べたように精神の錯乱である。「巣立ち」での「下」から「上」への移動はこの演出によって、よりコントロールされた移動として提示されていることになる。

「下」と「上」の同様な対立は、死とは直接関係のない「冷やし」の施術(uganga wa kuphoza)においても見出される。人を殺害した者は、この施術を受けないと屋敷に入ることが出来ない。彼はブッシュの地面の上で数日間寝起きせねばならない。つまり彼は「足を投げ出して座らされる(ku-zagazwa)」訳である。数日の後「冷たい草木」と黒い鶏を用いた薬液を浴びせられ、彼は「引き上げられる(立ち上がらせられる)(ku-unulwa)」。こうして彼は再び屋敷の生活に加わることが出来るようになる。この手続きを怠ると殺害者はやがて発狂してしまうという。かつてはライオンやバッファローのような大型の動物を殺した際にも、同じ手続きがとられていたらしい。人によっては、この手続きも「巣立ち」と呼んでいる。「下」から「上」への移行が、ここでははっきり「ブッシュ」から「屋敷」、「熱い状態」から「冷めた状態」への移行に関係付けられている。

人類学ではお馴染みのデータ、お馴染みの分析である。ここから「巣立ち」の儀礼がドゥルマ社会における二項対立の体系、象徴的分類体系、あるいはコスモロジーを反映していると結論するのも、ありふれた議論の流れであろう。「巣立ち」における行動が、「動と静」「上と下」などの区別を踏まえたものであることは否定しようがない。そしてこの二項対立的区別が、生と死、秩序と無秩序、内部と外部、屋敷とブッシュなどの、ドゥルマの生活の様々な局面で繰り返される他の二項対立的な区別と密接に絡まりあったものであることも、分析を進めるにつれ次第に明らかになってくる。たとえ人類学者のよい相談相手をつとめる現地の人々が、こうしたことを指摘してもたいして興味を示さないからといって、こうした明瞭なパターンに気付かないでいることの方がむしろ難しいといってよいくらいである。人類学者が、儀礼を「象徴的行為」だとしてきた理由の一つが、こうしたパターンの存在であったことは疑いの余地はない。それはあるものを「象徴」にする類比(アナロジー)的関係の存在を示すものだからである。

かくして「儀礼」は、そこにそなわっている観察者の理解を蹉跌させる行為とコンテキストの間のギャップによって、一方で人類学者を意味の問いにいざない、もう一方で意味作用の根拠ともなりうる「構造」を示唆して見せることによって、ますます人類学者の意味への幻想を確かなものにしてしまうのである。

しかし行為どうしのあいだに対立や類比の関係を見てとることができるという事実が、前節で指摘した行為とコンテキストの間の接合の恣意性の問題を解消するかもしれないなどと勘違いしてはならない。それは、なぜ寡婦に大声をあげさせ、走りまわらせたり木に登らせたりすることが「巣立ち」させること、つまり禁止を解除することになるのかという問いの説明になることはできない。たしかにこれらは服喪の期間に課せられる行為の裏返しになっている。そこに一連の二項対立を読み取ることも出来る。しかしこれは、服喪時の行為の反対のことをさせることが、なぜ「巣立ち」つまり禁止の解除になるのか、という形で問いをそのまま横滑りさせるだけである。そして答えは再び、そうすることが「巣立ち」だからだという同語反復的なものであるしかない。服喪中の行為の反対をすることで禁止の解除を象徴しているのだ、などと的外れなことを言ってはならない。殺人を象徴したり意味したりすることをどんなにやってみても殺人にはけっしてならないように、禁止の解除を象徴することは、禁止を解除することとは別である。

儀礼を構成する諸行為が、その儀礼が行なわれる特定のコンテキストを越えて、さまざまな行為と構造的に、あるいは意味論的に関係しあっているという事実--後に私はソシュールの用語を借りてこれを儀礼的行為における「有縁性(motivation)」の問題として提出しなおすつもりである--は、行為とコンテキストとの接合の恣意性の問題を解消する事実ではなく、この問題に付け加えられるもうひとつ別の問題系なのである。それが儀礼をめぐる本論考の第2の問題系となる。

結語

儀礼についてのこの二つの問題系がどのように交差しているか。行為のシステムの中での各々の問題系が占める位置は何か。ドゥルマのさまざまな「儀礼的」手続きの知識を検討する中で、私はこれをくり返し形を変えて問題にしていくことになるだろう。しかし私が第一の問題系をより重要なものと考えていることは、あらかじめ断わっておかねばならない。この二つの問題系は、人類学者が儀礼と呼ぶ行為において同時に見られることが多いとはいえ、一方の接合の恣意性が必ず見いだされるのに対し、行為どうしを相互に動機付ける有縁性のパターンの方は、かならずしも常に見いだされると期待することは出来ないからである。ある見方からすると、後者はまるで恣意的なシステムの間隙に繁茂する黴の菌糸のネットワークに似ている。しかし、私はかつて儀礼の象徴論的なあるいは解釈学的な理論がそうしていたように、それに過剰な重要性を認めることもしない代わりに、その力を過小評価することも避けようと思う。この二つの問題系を切り離したうえで、両者の関係を冷静に評価するという作業に徹しよう。


註釈

註1) この埋葬直後の服喪に対し、数ヵ月から数年後に(これは死者の属するニュンバ分節 の財政状態とその内部での順番待ちに依存する)「熟した弔い(hanga ivu)」が催される。死者はこの「熟した弔い」を開いてもらってはじめて墓場での供犠によって正式に祀られる祖霊(koma)となる。死者の財産の相続や、未亡人の再婚(相続)も「熟した弔い」の後に行なわれる。この「熟した弔い」との対照で、埋葬直後の服喪は「なまの(未熟の)弔い(hanga itsi)」と呼ばれる。

註2) 寝茣蓙はドゥルマ語では kuchi (makuchi pl.)といい、ヤシ科の植物の葉で編んだマットである。しかし、ここでは chitseka というギリアマ語が用いられている。

註3) 人によっては死の施術者は2名必要だという。一人は未亡人に水場まで付き添い、帰り道もずっと彼女に、半分に割った瓢箪に入った薬液 vuo を振り掛けている。一方もう一人の施術者は、小屋の中に臼にいれた薬液--この場合はキザ chiza と呼ばれる--を用意して待っている。未亡人を大声で呼ぶのはこの呪医であるという。しかし私自身は2名の死の施術者がこうした分業をおこなうのを見たことはない。死の施術者は私が立ち会ったすべての場合、一人であった。

註4) 実はこのような形で執り行われた「巣立ち」を私は1989年以降、一度も見ていない。<ジャコウネコの池>の村での調査を始めて以来私が見たのものは、大声をあげて走ったり、木によじ登ったりは一切なされず、未亡人はただ小屋の中に招じ入れられ、薬液を施されてベッドの上に上らされるという簡単なものばかりであった。こうした手続きの簡略化については後に再び取りあげて論じることにしたい。しかしこの地でも「巣立ち」を説明する際に人々がもっとも熱心にその詳細を語るのは、通常は省略されてしまうこのくだりである。
この最も簡略化された形以外にも、さまざまな変異がある。<青い芯のトウモロコシ>では、大声で呼ばれたあと、そのまま小屋の中に走り込んで穀物庫によじ登るという手順で行なわれたことがあった。実際に見たことはないが、男やもめの場合には、水場から戻る際に弓矢を身につけており、「マサイだ!」という声に、その弓矢を打ち捨てて木に登っていく、などというこった詳細を付け加える人もいる。女性の場合は、木から引きずり下ろされた後、山刀と手鍬を渡され、山刀で木に切りつけ、手鍬で耕すまねをさせられるという説明もある。
「巣立ち」の正しいやり方については、それを行なう施術者の知識が当然もっとも権威を持つ、というより、施術は依頼した施術者の思うとおりに任されるのが普通である。したがってこうした大きな変異はこの施術の知識の伝授の過程におおいに関係していると思われる。この術は、配偶者に死なれたことのない者には伝授できない。この術を獲得する意志のある人は、自らの所属する屋敷で死者が出た際を利用して、そこで行なわれる「巣立ち」の当日に、担当の施術者からこの術を購入する。施術者は、必要な薬草についての知識と呪文を教え、このにわか弟子に自分の後について唱えるように命じ、一通り何をおこなうかを実演して見せる。伝授は30分もかからずに終わってしまう。ある意味で、実にお手軽である。こうして死の施術を購入した者は、次回からは自分が近隣の死に際して雇われて、その知識に基づいて術を施すことになる。したがってある地域で、この伝授のどこかで簡略化などの変更が生じてしまうと、それは不可逆的に広がってしまいうる。

註5) キフドゥの歌の数は多い。また即興で新しいヴァリエーションが生まれたりもする。すべての歌が性に言及しているわけではない。他愛のない歌に始まり、それとなく性関係を当てこする歌から、露骨な表現を含むものまで、その範囲は大きい。3つばかり例を挙げる。

[他愛のない歌詞]
solo & chorus:navina ngoma rero, navina ngoma. hanga rasira kare, sere narira ngoma.
mwenye wivu na muchewe amfunge mudzini.
今日もダンス。弔いはもう終わったけれど、太鼓はまだなっている。
嫉妬深い人なら、自分の奥さんを屋敷に縛り付けておきな。

[軽い当てこすりを含んだ歌詞]
solo: nzooni mulole, kanyama kaiga sikiro, kahenda sirikisa ye agombaye naye
chorus: nzooni mulole, kanyama kaiga sikiro baba, kahenda sirikisa 'hee hee' mo nyumbani
(ソロ)こっちへ来て見てごらん。小さいこの肉は耳に似てる。おしゃべりに耳をすましているよ。
(合唱)こっちへ来て見てごらん。小さいこの肉は耳に似てるよ、にいちゃん。家の中で「へーへー」言う声に耳をすましているよ。
(ここでは「小さい肉」は小陰唇の比喩として用いられている)

[かなり露骨な歌詞]
solo: sukutyumu sukutyumu,baba mbolo ni bomu
chorus: kayiphenya myuu
solo: dong'ola nikudunge, mbolo yangu ni bomu
chorus: kayiphenya myuu
(ソロ)スクテューム(「下着」の意味。英語の costume から)スクテューム。私の男根は大きい。
(合唱)するりと入らない。
(ソロ)お尻を突き出してごらん、突き立ててあげる。私の男根は大きい。
(合唱)するりと入らない。


参考文献

Barley,N., 1983, Symbolic Structures: An exploration of the culture of the Dowayos., Cambridge: Cambridge University Press

浜本 満, 1989,「死を投げ棄てる方法--儀礼における日常性の再構築」, 田辺繁治編著『人類学的認識の冒険:イデオロギーとプラクティス』同文館 pp.333-356

Lewis, G., 1980, Day of Shining Red: An Essay on Understanding Ritual, Cambridge: Cambridge University Press