「民族」誌からの脱出:人類学的対象の再想像

他者表象をめぐる袋小路

人類学は他者表象の産出をめぐる問題に、まるで呪いのようにとりつかれてきた。この過去10年あまりにおいて、それはとりわけ顕著であった。人類学は、なになに族、なになに人と呼ばれる特定の人々について、あるいはその人々の社会、その人々の文化について研究し語る学問であるという風に、自らを理解し、またそのような学問として他からも受け取られてきた。実際には、人類学者がそのときどきに取り組む対象は、つねにより具体的でまた限定されたものであったのだが、上のような漠然とした言い方が、さしたる疑問もなく広く受け入れられてきたのである。もちろん人によっては、そんなことはないという人類学者もいるだろうが、そうした人は、以下で述べる他者表象をめぐる問題とは無縁だったということになるのだろう。しかし現に、他者表象をめぐる問題がまるで今日の人類学の最大の問題の一つででもあるかのように語られる現状を見る限り、自他によるこうした形での規定は、かなり広汎に共有されていたと見てまちがいない。

人類学者が自らの研究をなになに族、なになに人についての研究として語ることがそんなに自然なことだろうか。ある特定の時期に具体的に彼が研究し分析し記述しているのが、例えば、特定の災いに対するある特定の治療法とその実践であったとしても、何人かの人から話して聞かされた世界の始まりについての一連のお話であったとしても、ある期間にどこかの村で行われた一連の裁判の記録であったとしても、それらがすべて結局は、なになに族なになに人についての研究だという形でくくられてしまうというのは、考えてみればあまりにも乱暴な話ではないだろうか。しかし人類学者自身もそれを受け入れて「私はなになに族を研究しています」のような言い方をする。まるで彼の研究すべてが最終的になになに族、なになに人の、いわば肖像画を描くことを目指しているかのように。事実、彼の研究の産物を「民族」誌 ethnography と呼ぶすっかり定着した習慣がある。こうして、彼は知らず知らずのうちに自分で自分を、そこから脱出することすら不可能に見える深い罠に陥れてしまうことになる。

なぜなら彼は突然問われるのである。「あなたがお話しになっているそのなになに族ですが、そんなに明確な、境界がはっきりした集団なのでしょうか。」もちろんたいていの場合、ノーと答えない訳にはいかない。「あなたが実際に知り得たのは、特定のなになにさん、誰某さんたちだけなのに、いったいどのような根拠でなになに族全体について、あなたは語ることができるのでしょうか。」もちろん確かな根拠などめったにない。「あなたがなになに族の見解として書かれていることは、なになに族の全員が等しく持っている見解なのでしょうか?」もちろん彼は実際には個々の人々が持つ見解も知識もまちまちであることを知っている。「あなたは随分また現在形を多用しておられますが、なになに族の人たちはいつでもそうなのだということなのですか?変化はしていないのでしょうか。」もちろん彼は不断の変化を目にしている。

とすると彼は自分でも明確に把握していない、その姿を不完全にしか捉えていない対象について、いかにももっともらしく語っていたということになるのだろうか。幾人かの人々が語ってくれた昔話や、村の裁判の記録を扱っていた際には、彼はそんなに曖昧な対象を扱っていたわけではなかったはずだ。それがいつのまにか、「民族」なる極めてとらえどころのない対象を、きわめて疑わしい手続きと根拠に基づいて扱っていたのだということになってしまっている。こうして失いかけた自信に、最後に矢継ぎ早の批判が浴びせかけられることになる。オリエンタリズム批判のなかから生まれてきた一連の疑念がそれである。「なになに族の人々に代わって、なになに族の肖像を描いて見せようというあなたは、そもそも一体何者なのですか。なぜあなたにはそうする力があるのに、なになに族の人たちの方はあなたによって描かれるだけの存在になっているのだとお考えですか?そうした不均衡が何によってもたらされ、何を意味しているのかを考えることなく、またそれに対して何とかしようとする代わりに、あなたはその不均衡をただただ前提として、それをいいことに語っているのではないでしょうか。そもそもどうして、あなたの提出するなになに族の肖像画には権威があるということになるのでしょう。当のなになに族自身の声が抑圧されているところで、どうしてあなたの描く姿を、なになに族の真の姿として認めなければならないのでしょう。オリエンタリズムの場合と同様に、あなたの提出するその姿が、あなたの属する社会となになに族の人々のあいだの力関係がもたらした虚像でない保証がありますか。そしてそれはそうした力関係を永続化させる装置の一部になっているのではないでしょうか。」こうして人類学は、ほとんど出口の見えない自己吟味の運動の中に--自己吟味自体はけっして悪いことではないにしても--投げ込まれるのである。

これが今日の人類学にとっての最も重要な問題の一つであること自体には、疑いの余地がない。地球上のいたるところで、またそれぞれの時代時代に、人の共同性意識は自らの自画像とともに自分たちにとっての他者のイメージをそれぞれ産出し続けてきた。人類学の活動をこうした文化的他者--ある共同性にとっての他者--についての表象産出の営みの汎時的な広がりのなかで捉えなおすことだけでも、一定の意義がある。さらにヨーロッパにおいて非西洋についての表象が造形され、それが非西洋的他者に対して一方的に押し付けられていく過程が、いかに「近代」という形で進行し完遂されていく西洋による非西洋の周辺化と支配の一部を形成していたか、さらにこうした非西洋についての表象産出が、いかに西洋による非西洋支配を動機づけると同時に、それを可能にしもした装置の一部を成してきたかを明らかにし、そして人類学をそうした支配の装置に組み込まれた表象産出活動の一端として歴史化・対自化することは、今日の世界における人類学の意味を再想像する上でも、きわめて重要であろう。しかし人類学が、こうした近代において極めて特殊な政治的な磁場の中で展開してきた文化的他者表象のゲームの一部であったかもしれないと認めたからといって、ある種の諦念とともに例えば、だから人類学にできることはもっぱら政治的により「正しく」戦略的に効果的な他者表象を提出することに尽きるのだ、といったことを主張するとすれば、それは人類学の可能性についてのあまりにも悲観的で不当な制限であるように思える。自らが巻き込まれ、またその一翼を担ってきた他者表象産出のゲームそのものを、むしろ今後は相対化する方向にこそ、人類学の別の可能性は開けるのではないだろうか。

そもそも本当に人類学において、他者表象産出、文化的他者を描くことがその活動の中心だったのだろうか。私が冒頭からくり返し注意を喚起してきたのもこの点である。「他者」、とりわけ「なになに族」やら「なになに人」やらの集合的他者について語る学問であるという、人類学の自己規定については、本当に疑問の余地がないのだろうか。逆にそこに、なにか根本的な誤解があったのではないだろうか。

こうした疑問をもつことは、集合的他者について語るのを止めて、具体的な個々人について語ろうという安易な選択肢に走ることではけっしてない。個人を越えた全体性としての「社会」や「民族」について語ることに対する根強い疑念自体は、人類学の歴史のなかで珍しいものではなかった。人類学者は、彼の知り合うことの出来た、数も限られた個々の個人についての経験とは別に、いったいいつ「民族」や「社会」なるものを経験したというのだろう。少なくとも私には特定の個々人と御付き合いした覚えは確かにあるものの、民族や社会などと直接お付き合いした覚えはない、具体的な諸個人とは別にそんなものを実体として考えるのは誤りである、というわけである。民族や社会を主人公にした、あるいは民族や社会の標準的成員であるかのように振る舞う匿名の登場人物たちによる物語のいかがわしさに嫌気がさして、いっそのこと現実に出会った固有名を持った個々人を主人公にした物語を書いてしまいたいという誘惑は、民族誌の可能なオプションとして常に存在していた。私が行おうとしている軌道修正は、その方向はとらない。むしろこのように個人--集合態の軸で研究対象を捉えようとすることこそが、最初の勘違いを決定づけていたのだということを明らかにすることになるだろう。

私が提案したいのは、言葉の本来の意味における「社会的なるもの」の領域を記述すること、というごく平凡な選択になるだろう。誤解をおそれつつ言えば、個々人であれ集合態であれ、人々について語る代わりに、そうした人々が実践しプレーしているゲームそのものの個々の出来事とそれが織り成す体系性について語ろう、ということである。さらに誤解を招く危険におびえつつ比喩的に言うならば、将棋の対局において向かい合った二人の対局者に目を凝らす代わりに、盤面のコマの一つ一つの動きとそれが織り成していく棋譜にむしろ注意を集中しようということでもある。これはそのために改めて新しい記述の対象を発見したり新しい記述の世界を切り開くということにはならないはずである。むしろ従来から人類学者が現実に取り組んでいたことを、ほんの少し異なる角度からとらえ直し、自らの対象と方法を位置づけ直すということである。事実、人類学者がこれまでフィールドで直接相手にしていたのは、実際には、人間がそれを生き演じるさまざまなゲーム、「社会的なるもの」のさまざまに異なる具体的な姿であった。ただそれが、たえず個人--集合態の軸のなかに回収されていき、結局は、個人を越えた集合態--さまざまな民族集団--の属性ででもあるかのように想像されてしまっていたのである。

民族という対象

もちろん、民族について語るという人類学のこの自己規定を単なる錯誤や思い込みと考えるわけにはいかない。自分が研究していたのはたとえば、ある村の裁判の記録であって、別になになに族や、なになに人についてではなかったのだ、あるいは、自分は人々がプレーするゲームを研究していたのであって、それをプレーする人々自体を記述しようとしていた訳ではなかったのだ、と突然気が付いてみせさえすれば済むという問題でもない。普通なら、ゲームの記述をプレーヤーについての記述と混同する者などいるまい。将棋について語ることは将棋師について語ることとは別のことであるし、逆もまたしかりである。ゲームを記述していながら、あたかもそれをプレーする集合的主体のようなものについての記述であると思い込んできたとするなら、それはある意味で尋常な思い込みではないのである。単に自らの研究対象の性格を取り違えていただけだと言うには、なになに族、なになに人という形で指されるものの実在性は、あまりにも深く人類学の自己規定の中に根をおろしすぎている。

それについて語ったり、あるいはそれを主語として語ったり、あるいはそれに働き掛けたり(ときに管理・統治したり)する対象としての民族や社会というカテゴリーの実在性が歴史的に作り上げられてきたものであること、そのこと自体は、疑いの余地がない。人類学自身もその形成に一枚噛んでいたというのも大いにありそうな話であるし、また自ら進んで、それらを現実的な対象として語ってみせる役割を引き受けてきたという側面もあるかも知れない。また赴いた先で出会った人々自身が、時に応じて、我々はなになに人だ、あいつらはなになに人だという語り口で、実際に語っているということもあろう。しかしこのように歴史的・社会的にすでに形成されていた対象を、ただ疑いもなく引き受けたというだけでは、なになに族、なになに人が人類学の対象として中心的な位置を動こうとしていないことの説明にはならないだろう。なぜならそもそも民族や社会なる実体を対象として確定することの困難さなら、人類学は比較的早くから十分に気付いていた(Leach 1954, Moerman 1965)のであり、少なくともこうしたカテゴリーの自明性に対する疑念という点においては、いつも吝かではなかったのだから。にもかかわらず、人類学が自らの理論的対象をこうしたいかがわしい集合的実体においていたとするならば、そこには、根深い勘違いが潜んでいるように思える。それを取り除いて、人類学の対象と方法についてとらえ直すささやかな試みが今、必要なのかもしれない。

基本的な問いから考え直してみよう。そもそも、人類学者がフィールドで出くわす具体的個別的な出来事から出発して、そうした「社会」なり「民族」なりといった対象について何かを語るということは、実際にはどうすることなのであろうか(*)。それはちょうど、個々の犬についての事実を一般化することによって「犬」というカテゴリーについて語るようなものなのだろうか。なになに人を構成する個々の人に共通に見られる何かを語ることなのだろうか。この時、我々は「なになに人」というカテゴリーを個に対する類、あるいは自然種に比して語っている。それともそのカテゴリーについて語るべきなのは、そこに属する個々の人についての事実の総和なのだろうか。動物園について語るために、そこにある動物の檻一つ一つについての記述を積み重ねていく、といったものに近いのだろうか。この時、我々はそのカテゴリーを個に対する全体、部分に対する全体の関係に比して語っている。いずれにせよ、こうしたケースであれば、そしてその場合に限って、我々はまさしく「なになに人」というカテゴリーそのものについて語っているのだと言って良い。個人と彼が所属する「なになに人」との関係は、一面では個と類の関係であり、他面においては部分と全体の関係でもあるのだから。「なになに人」というカテゴリーそのものについて語るということは、前者においては、そのカテゴリーに属する個々人に共通に見いだされるものについて語ること、すなわち個々人の間の等置関係(隠喩的関係)について語るということであるし、後者においては、個々人を互いに、そして全体に対してつなぎあわせる換喩的関係について語るということであろう。

「社会的なるもの」と個人-集合態軸の想像力

このように整理してみたとき、人類学者の語り口が、必ずしもつねにこの二つの語り口に尽きるものではなかった、むしろそれらとは根本的に違ったものであったという事実に気が付く。もちろん人類学者の語りのなかにそうした語りが占める位置が皆無であるという訳ではない。なにか人々の共通の特性について語っているような気になる場合もあれば、人々がどのように結び付いてより大きな集合態を作り上げているかを記述している場面もあろう。しかし、人類学の記述がもっぱらこうしたものであったと考えるとすれば、とんでもない誤解であろう。むしろ人類学者が語ってきたことの多くは、この2種類の語り口の中には明らかにおさまりきらない事柄であった。ある村でおこなわれた一連の裁判の記録や、幾人もの人々から手にいれた儀礼の手順に関する知識を前に考えているとき、人類学者は上のような事柄について考えているわけではない。

彼が見ようとしているのは、そうした記録や知識を通して透けて見えてくるパターン、個々の記録や知識の断片にとってはより上位の論理階型に属するある種の体系性であろう。しかしそこでの個とそれに対する上位の体系性との階層関係は、個人とそれが属する類との関係とも、部分としての個人と全体との関係とも異なっている。それを個人--集合態の軸の上にそのまま重ねあわせることはできそうにない。つまり彼は、こうした上位の体系性としての「社会的なるもの」を相手にしていたのである。

20世紀になって社会学や人類学がともに、自らの理論的対象であると気付くことになった「社会的なるものの領域」は、その最初の理論家でもあるジンメルやデュルケームにおいて、「個」との対比において見出されたものであったという点は、くり返し確認しておく価値がある。例えばジンメルによると、それは具体的な個に対して、それら個別的要素の間に見て取れる関係様式のようなものである。「たとえば明白な存在としてのゴシック様式というようなものは、どこにも存在せず、個別的要素の外には別に様式要素を明らかに看取し得ないような、個々の作品のみが存在するとしても、ゴシック様式の発展について論じることを何人も恐れはしない。」同様に社会も、「個別的に羅列された個々の存在からなるものではない」。それら具体的個別的な要素の「統合の形式」なのである。

社会についての命題は、個人についての命題を集積することによっては得られない、それとは別次元の「事実」(集合表象とか社会的事実とかの用語でお馴染みの)についてのものである。これはデュルケームに多くを負う20世紀の社会学と、そしてそれを源流の一つに持つとりわけ英国の社会人類学の基本認識である。「社会的事実」と、個人についての事実との特殊な接合こそが「社会的なるもの」の領域に独特の性格をあたえる。

例えば社会についての事実である「分業」と、個人についての事実として語りうる「職業」との関係をみればよくわかる。「職業」を個人についての事実としても語ることはできるかもしれないが、「分業」を個人についての事実として語ることなどできないであろう。もちろん両者が無関係であるなどと言う人はいるまい。しかしどう関係していると言えばよいのだろうか。個々人の「職業」から出発して「分業」について語ることは、一般化とも、単に個々人についての記述を積み重ねる作業とも、全く別である。分業という事実は個人の職業をいくら一般化しても出てこないし、個々人についての事実の単なる累積は、単に人々が異なった職業を持っているという事実を示すだけである。分業とは、それら個人についての事実である職業がなんらかの上位のシステムの要素として捉えられたとき、そのときに始めて可視化する事実なのである。つまりそれは「個人」についての諸事実が、その下位の要素に当たるような、上位の体系性--ある特定の眼差しのもとで可視化するパターン--である。

この種の上位の体系性--「社会的なるもの」--を理論的対象とすることは、そしてこれこそが社会学、人類学を、単なる「人間についての博物学」から区別してくれるはずであった。「人間についての博物学」は--もしそうした学があったとしての話だが--「なになに人」や「なになに族」といったカテゴリーや「人種」を、あたかも生物学における「種」に類する仕方でとらえ、それらの属性を記述しようとするだろう。人類学に寄せられる批判のなかでは、しばしば人類学はこうした企ての一種とみなされることがある。しかし人類学の対象が、上で述べた種類の体系性であるとするなら、それはこうした「博物学」とはもっとも縁遠いものであり得たはずなのである。こうした体系性について語ることは、カテゴリーの属性について語ることとは、はっきり別のことがらなのであるから。

それなのに、そして対象である「民族」のとらえどころのなさにさんざん苦労していたにもかかわらず、なぜ人類学は自らをこうした対象について語る学問であると思いつづけ、自らをまるで「人間についての博物学」であるかのように見せかけつづけてきたのであろうか。

この種の体系性が記述の対象になっているときに、さらにそこに「なになに族」や「なになに人」というカテゴリーを登場させねばならない必然性があるとでもいうのだろうか。それはまるで、個人という下位の実体に回収できないから、それを回収するために個人とは別の上位の実体が必要だとでもいうかのようである。そして、このような形で回収されてしまったとき、この体系性--「社会的なるもの」--は、「民族」カテゴリーとその外延を共にする一つの具体的な集合態であるかのように想像された「社会」なるものが備えている属性の一つとして語られることになるだろう。実際、ジンメルもデュルケームも、ときにそれを個人が集まってできた具体的で目に見える集合態--群衆や集団--の属性であるかのように語ってはいなかっただろうか。この自然さこそ曲者である。それによってたしかに「社会的なるもの」についての想像が容易になる。しかしそれは逆に「社会的なるもの」の真の姿を主題化することを逆に妨げてしまう。

言語における社会的なるもの

たとえば、個人--集合態の軸にそって「社会的なるもの」を回収するやり方が、「社会的なるもの」をもっとも良く代表しよう言語の存在を、どのように捉え損なうものか考えてみれば良い。私はここで、ソシュールが提出したラングとパロールという対立概念がたどった運命のことを念頭においている。それはこんな具合いだった。

丸山圭三朗が要約しているようにソシュールは一般には「ラングをパロールから切り離すことによって、社会的なものを個人的なものから切り離し、本質的なものを複次的で多少とも偶然的なものから切り離した、と考えられている。」(丸山 1981:267)事実ソシュール自身、講義で次のように語ったとされている。「パロールとは、ラングという社会契約によって自らの能力を実現する個人の行為の謂である。パロールの中には、社会契約によって容認されたものの実現という概念が含まれている」(リードランジュのノート、第二回講義、断章番号 160、 丸山 1981:83)「ラング=受動的で集団の中に存在する。...パロール=能動的で個人的なもの。」(コンスタンタンのノート、第三回講義、断章番号 245-247、 丸山 1981:83-84)これを読む限り、パロールとラングは、はっきりと個人と集合態の軸上のそれぞれの極に対応しているように見える。ラングは一つの社会制度であり、個々人の発話であるパロールが理解可能なものとしてコミュニケーションの中で受け入れられるためには従わねばならない「社会契約」であり、パロールの了解可能性の根拠でもある。ラングこそがパロールを可能にする。「人が語るためには、ラングの宝庫が常に必要である」(リードランジュのノート、第一回講義、断章番号 2560、 丸山 1981:84)という訳である。

しかし語るために必要とされているその「ラングの宝庫」、社会的契約を、人はいかにして参照しうるというのだろう。それは語り手の中に、内面化されたものとして以外のかたちでありえようか。かくしてソシュールは、こんな風にも語ることになる。「個人の頭脳に含まれるすべて、耳に入り自らも実践した形態とその意味の寄託、これがラングである。(パロールとラングという)二つの領域のうち、パロールの領域はより社会的であり、もう一方はより完全に個人的なものである。ラングは個人の貯蔵庫である。ラングに入るものはすべて、換言すれば頭に入るものはすべて、個人的なものである。」(リードランジュのノート、第一回講義、断章番号 2560、 丸山 1981:267) ソシュールの初期の講義におけるラングとパロール、社会的なものと個人的なもののこの奇妙な逆転は、言語における個別的なものと、それに対して上位に立つ体系性が、それぞれ個人と社会(集合態)の属性に振り分けられてしまうときにさけられない一つの結末を、垣間見させてくれるものになっている。「社会的なるもの」を具体的な集合態の属性としてとらえようとする瞬間に、実に逆説的な話であるが、個人は「社会的なもの」を自分のなかに回収してしまうことを通じてしか、それとの結び付きを示せなくなってしまうのである。逆の言い方をすれば、個人--集合態の軸上に配され、集団の所有物だと宣言された「社会的なるもの」は、結局再び個人によって回収されることによってしか集団の所有物たりえないと判明するのである。

チョムスキーは後に、これを更に徹底して推し進めてしまうであろう(Chomsky 1964)。言語は「理想的な話し手・聞き手」として理念化された「個人」に内在する知識だということになり、言語の記述は、その言語の話し手のもつこうした知識(チョムスキーはそれを「言語能力」と名付ける)の理想化された記述によって取って代わられる。そのとき、言語が社会的であるという事実は、つまらぬ自明の話しになる。それは今や、単に同じ知識(能力)が全員によって反復されるということ以上のことを意味してはいない。それは個々人が、類にたいする個として所属する上位のカテゴリーの属性、そこに所属するすべての個に共通の属性でしかない。しかし、すべてのキリンの首が長いという事実が、キリンが社会を持っているということを意味しないのと同様に、そのとき言語は社会的なるものの指標であることを既に止めているのである。そもそもチョムスキーの「理想的話し手・聞き手」の言語能力は、他者を必要としていない。

チョムスキーによるとソシュールの言うラングに当たるとされるこの「言語能力」は、パロールに当たる「言語運用」とは区別されねばならない(Chomsky 1964:10)。現実の発話には、心理学的機構の機能不全、あるいはそれに内在する限界のためにいろいろの間違いや歪みが含まれているからである、という。多くの研究者が、ソシュールのラングとパロールの区別が、彼が行った他の区別に比べて、かなりの曲折を経た一筋縄でいかない区別であることを認めている(ケルナー 1982:230)。チョムスキーの「言語能力」と「言語運用」の区別が、ラングとパロールの区別の、より明確で洗練された言い換えだとみなされるとするなら、これほど皮肉なことはないだろう。単に譜面とその実際の演奏の区別と同様な、この程度の区別の定式化にソシュールが四苦八苦していたと本気で考えるとしたら、随分ソシュールをばかにした話ではないだろうか。それは、もはや個人/社会の軸とすらほとんど無縁な区別になっているのである。

博物学的語り口

こうした形での「社会的なるもの」の回収・解消は、人類学でもおなじみの話である。「文化」の概念そのものがその良い例となる。次のような文化のありふれた定義を見れば、そのことがよくわかる。「物ごと、行動、情緒感情といった現象を、感覚し組織化していく、ひとつの固有な体系が、それぞれの集団に存在している。これこそが文化であり、その文化を秩序づけ組織化するひとつの体系、すなわち認識体系を発見することが、認識人類学の最終的な目標なのである。」(松井 1991:7)集団の「所有物」として取り出されるこの体系は、集団そのものに「認識」する心が備わっているなどという妙な見解を採用しでもしない限り、結局個人へと送り返されてしまうしかないであろう。集団に固有の「体系」である文化は、結局その集団の個々の成員がもっているものの共通部分のような形で想像されるしかなくなる。まるである集団の成員を特徴づける共通属性だとでもいった具合だ。すべてのキリンにそなわった「首が長い」という特性のように。こんな風にして、人類学は個と類の想像力に寄り掛かった「人間についての博物学」になってしまうのである。

集団に帰属するとされるにもかかわらず、あるいはまさにそうであるがゆえに、個人によって共有反復されるものとして文化を捉えるこうした見方が、社会をなにか均質なまとまりのようにみなしそこに属する個人を画一的に捉える見方である点は、しばしば批判されている(eg. Rosaldo 1989)。このような形で想像された文化にとっては--言語にとっても事態は同じなのだが--個人の差異が単なる偶発的な事実、嘆かわしい逸脱でしかないものになってしまうからである。

さらに具合の悪い点がある。こうした文化概念は、人類学者が文化として取り出し、描き出して見せる当の知識の体系の理論的な性格を、きわめていかがわしいものにしてしまう。そもそも、自分が描き出した体系が文字どおり、すべての人々に共有されているなどと大まじめに考える人類学者などいないはずだし、それどころか、その体系を一人で抱え込んでいる個人などおそらくは一人もいないだろうことも、人類学者は知っている。なぜなら、彼が提出するものは、複数の、それもしばしば馬鹿にならない数の人々から手に入れた情報の集積を、その中に見て取られたパターンにそって整理したものであり、そのおかげで、いかなる意味でも何らかの個人の中に回収してしまえるものではなくなっているからだ。人類学者が文化を取り出し描き出すこの当の手続自体が、上で述べたような文化観とは相容れないのである。それを集合態を構成する各個人によって共有されたり、反復されたりするものとして想像することは、まったく非現実的である。

あらゆる「社会的なるもの」は、個人--集合態の軸に配列されることを、そもそも拒んでいるのだとすら言えるかもしれない。たとえば、ごくつまらない「言語的事実」、例えば広辞苑のような辞書なるものの存在を、チョムスキー的な言語モデルがどう扱いうるか考えてみてればよい。日本語を話すすべての人が広辞苑の内容をすべて頭の中に持っているなどと考える人は誰もいるまい。それどころか、広辞苑の内容をすべて抱え込んでいる人など、実際には一人もいないだろう。しかしだからといって、広辞苑の内容が日本語というシステムの一部であることを否定するとすればナンセンスである。しかしそれを「理想的な話し手」の知識として提出するとすれば、再び、それは理想化の度を過ごしているということになるだろう。チョムスキー的な言語理論は、辞書という実にありふれた存在をもてあましてしまうことになる。広辞苑はチョムスキーの「言語能力」の理論の中のどこにも自らの位置を見いだすことができない。辞書を作成する当の手続きが、ある個人--それがいかに理想化された個人であったにせよ--によって回収可能な言語という想定を不可能にしてしまっている。だからといって、それを回収する集合的な主体を登場させねばならないということにもなるまい。文化にせよ、言語にせよ、集合態--個人の軸にそってとらえるには、いささか具合い悪い現象なのである。

「社会的なるもの」は個に対する上位の体系性として現われる。しかし、それは必ずしも個人--集合態の軸とは重なりあわない。言語におけるパロールとラングの関係に戻ってちょっと考えなおすだけでよい。ラングは、個としての発話パロールのなかに見て取られた体系性だったのではなかっただろうか。それを個人とその集合態としての社会の軸上に重ねたりする必要がそもそもあったのだろうか。

それぞれが一回性を帯びた個別の出来事--「個」--の上に見て取ることの出来る創発的な(emergent)上位の体系性、それこそが「社会的」なるものの領分であり、社会的なるものを対象とするあらゆる科学--人類学も当然そこに含まれる--が回収しようとすべきものなのである。そのためには研究対象を、個人と集合態の軸上に想像する習性からはっきり決別する必要がある。この習性は「社会的なるもの」の対象化に向かうよりは、むしろ対象化されるべき「社会的なるもの」の一部として形成された習性なのであるから。この想像力は、社会集団を「種」としてとらえるトーテミスム幻想の延長にすぎないのだ。


参考文献

Chomsky, N., 1965, Aspects of a Theory of Syntax, Cambridge: MIT Press

Leach, E., 1954, Political Systems of Highland Burma: a study of Kachin social structure. London: Athlone Press.

丸山圭三郎, 1981, 『ソシュールの思想』, 岩波書店

松井健, 1991, 『認識人類学論攷』, 昭和堂

Moerman,M., 1965, "Ethnic Identification in a Complex Civilization: Who are the Lue?" American Anthropologists Vol.67(1): 1215-1230

Rosaldo,R., 1989, Culture and Truth: the Remaking of Social Analysis, Boston: Beacon Press