1990年代に入って、妖術信仰を始めとするアフリカのオカルト的実践についての研究が再びさかんになってきている。アフリカのオカルト的実践を植民地化以前の過去の伝統的な社会的コンテキストに属する実践であるととらえ、社会の「近代化」とともに消えていくべきもの、単なる伝統の残存のようなものとしてとらえる傾向があった従来の多くの研究に対し、90年代以降の新しいアプローチの特徴は、そうした実践を、近代化やグローバル化という新しい社会状況に対応したすぐれて近代的な実践、アフリカの現代というコンテキストにまさに属する実践としてとらえようとする点にある。
ムーアとサンダーズ(Moore and Sanders 2001:11)によると、社会変化を強調し妖術を社会変化に対する反応と見ること自体は新奇なものではないが、最近の研究は、それを現代性の一部、その構成要素として捉えようとしている点に新しさがある。またそれらは、さまざまに異なる近代がありうることを認め、そうした多様な近代と妖術の関係を問題にしようとしているのだという。ボンドとチカウィ(Bond and Chiekawy 2001:12-16)は、一連の新しいアプローチの特徴を次の6点に求めている。(1)アフリカ人の思考を一枚岩的にとらえずに、その内部にも多くの異なる相互に矛盾してさえいる観点が存在することを正しく評価する、多声性と多様性への注目、(2)支配的な西洋の知のパラダイムに対する批判、(3)人々の妖術についての信念や実践の中に見出される、近代や、そこでの支配的言説に対する文化批判や抵抗への着目、(4)単にローカルなコンテキストを超えたグローバルなコンテキストへの注目、(5)妖術をめぐる語りと実践に含まれる倫理性と暴力性の解明、(6)フィールドワークの場での知の生成を対象化する反省的視点。最近のさまざまな傾向の寄せ集めのような気がしないでもないが、なかなか立派な決意表明である。アフリカにおける妖術その他の実践を単に過去の遺物や残存、伝統性や未開性のインデクスであるかのようにとらえる一般にも広くいきわたった見方に抗すると同時に、自らの従来のアプローチの限界を超えようとする人類学者の側でのこうした試みの意義は、おそらくどんなに強調してもしすぎではないだろう。しかし私はまず最初に、この新しいアプローチを待ち受けているかもしれない、そしてすでに多くの研究者を餌食にしてしまっているかもしれない、3つの落とし穴に注意を喚起したい。その後で、この新しいアプローチのもつ可能性の一つについての私なりの展望を述べようと思う。
3つの落とし穴についてから始めよう。これは妖術研究に限らず人類学一般につきまとう陥穽でもあるのだが、昨今の妖術研究においては、とりわけ目立つものとなっている。この3つの落とし穴をそれぞれ(1)コンテクスト化の落とし穴、(2)解釈学的スタンスの誤謬、(3)意図性のショートサーキットの誤謬と名づけておきたい。
コンテクスト化はフィールドワークをその作業の中心におく人類学的理解の基本戦略であったし、今後もその位置はゆるぎないだろう。人類学のフィールドワークは、博物学者たちの企てにその歴史的起源のひとつをもっている。彼らは取り寄せられた乾燥標本を相手にその生物種について研究するよりは、それが生きて行動しているセッティングで研究しようとした。その流れの中で人類学も、最初は人種を、次いで人々の慣行や制度を、それらが生きられているコンテクストのなかで、そうしたコンテクストとの関係において理解しようとしたものであった。コンテクスト化がほとんど人類学者の思考習慣となっていたとしても不思議ではない。
しかしこのコンテクスト化という作業が、人類学的理解にとってしばしば諸刃の刃となる。ある制度、実践形態あるいは社会現象(仮に「x」としよう)を理解するために、それがどのような状況において生起するか、誰がその当事者であるか、どんな現象がxと同時にみられるか、何がxに先立ち、何がそれに続くか、こういったことを知ることは重要である。しかしこういったコンテクスト化の努力のなかで、しばしば肝心のxについて、人はすでにわかった気になってしまう。肝心のxそのものが、どういう現象であり、何を特徴とし、それがどのような機制をつうじて成立し生起するかというまさに問題の中心部の解明が放置されてしまう。これがコンテクスト化の落とし穴である(註1)。
これは、妖術信仰を近代というコンテクストにおきなおすことが積極的に志向されている近年の妖術研究においても、まさに当てはまる。
ムーアとサンダーズの論集(Moore and Sanders 2001)に収められた多くの論文は、それぞれのやり方で妖術信仰などのオカルト的実践の背景となる社会状況について多弁する。妖術信仰は、資本主義化、グローバル化にともなう新たな不平等、貧富の差、経済的苦境等々に関係付けて論じられる。それはよい。だが同時に肝心な問いが奇妙にも放置されているかのようにも見える。妖術信仰がいったいいかなるかたちで人々の社会的リアリティとなり、人々の想像力を呪縛しつづけ得るのか、つまりそれらがそもそも信じられ、実践されているというのはどういうことなのかという問いである。当の実践の性格そのものが正確にわかっていないのに、それを状況のさまざまな変数といかに関係付けるかのみに腐心し、それを引き起こした背景についてばかり語り始めるというのは、どこかおかしいのではないだろうか(註2)。
コンテクスト化による理解が、当のxという現象そのものの根拠を問うことをなおざりにして追求されるとき、それはしばしば、xとコンテクストを構成する諸要素とのあいだの隣接性をとおして、xをこうした状況の諸特徴に対する単なるインデクス記号として扱うアプローチに行き着くだろう。
これはかつて機能主義的な妖術研究がたどった道筋でもあった。マーウィックの研究(Marwick 1965)に代表される諸研究がその例である。妖術告発が行なわれる人間関係が、当該社会の社会構造における脆弱な部分であること、つまり構造的に葛藤を起こしやすい人間関係であることが示される。妖術の疑いや告発はそうした葛藤的社会関係のインデクスであり、それを通じて当該社会の社会構造とそれが内在する亀裂について研究することが可能になる。
こうした研究は社会構造の動態解明におおいに貢献したが、必ずしも妖術という現象そのものについて多くを教えてはくれなかった。そもそも多くの社会で妖術は相手に対し憎しみ妬みをもつ人間が行使するものであるとされている。妖術の脅威や疑い、告発の可能性がひそんでいるのが、したがってさまざまな葛藤を含んだ人間関係であるとしても、それは別にわざわざ指摘してもらうほどのことでもない。告発それ自体が争いの表面化した一形態であることは間違いないので、あらためてその背後に争いを引き起こしやすい人間関係があったなどと言われても少しも驚かない。それは実は「葛藤が起こりやすいような人間関係においては喧嘩がおこりやすい」といったほとんどトートロジカルな内容以上のものを含まないものになってしまう。肝心のそうした亀裂がなぜそもそも妖術という想像力に絡み取られてしまうのかという点については、ほとんど申し訳程度の説明しか提供されない。こうした研究の反復は妖術という研究領域自体を陳腐化してしまうことになった。
同じことは、それがもっぱらコンテクスト化の努力に集中している限り、新しい妖術研究についても危惧される。単に解明すべき現象「x」がおかれるべきコンテクストが、伝統的な親族的世界から近代化によってもたらされた世界に入れ替わったというだけであるとすれば。こうした危惧は、ムーアとサンダーズの論集所収の多くの論文にすでに現実化しているように見える。近代化がそれぞれの社会にもたらした状況について詳しい分析がなされている。新しい貧富の差、不平等、一方での失業や貧困の拡大と他方での一部の人々の常軌を逸した富裕化などなど。一方の側からは、彼らの富裕化は怪しげな(妖術の)手段を用いて自分たちの犠牲の上に成り立ったものとして想像され、しばしば妖術告発や集団的な殺人という過激な形をとって噴出する。他方では、富裕化したエリートたちは一般の村人たちの嫉妬からくる妖術による攻撃を恐れる。こうしたなかで、双方で妖術をめぐる、つまりその危険にそなえたり反撃したり防御したりといったことを含んだもろもろの実践が蔓延する。
ところで社会の葛藤は政治的・経済的利害の対立線に沿って生じる。この分析が明らかにするのは近代化とともにこの対立線が推移したという事実である。新たな社会状況があらたな妬みや憎しみの温床を生んだといっているだけの話になる。こうした対立が常に妖術の想像力に絡み取られてきた社会においては、それがここでも再び妖術というかたちをとったとしても何ら不思議ではない。かつての機能主義的研究におけると同様、喧嘩は喧嘩が起こりやすい関係において起こるというトートロジー以上のものは含まれていないことになる。ここでもまた肝心の、そもそもなぜ、またいかにして、そうした対立が妖術というオカルト的な想像力に絡み取られてしまうのかという根本的な問いは応えられないままに残ってしまう。かえってそこにアフリカ的なもの、伝統的なものを再び喚起してしまいかねない危険すらともなう。
とはいうものの、妖術研究が妖術そのものを主題化することを怠り、その背後のコンテクストの解明に集中することによって、当の研究対象そのものをインデクス記号化してしまうとしても、それは少なくとも当の状況の解明には役立っていると言えるかもしれない。妖術そのものについては単にトートロジー的な陳腐な命題を反復することしかできなくなってしまうとしても、このこと自体には誤謬は含まれていない。
真性の誤謬はこのインデクス化に別のより深刻な取り違えが結合してしまうときに生じる。もちろんインデクスは記号の一種であるから、記号としてまさにそれが指示するものを意味している。しかしこのインデクスとして意味するという関係、つまり「症候」の関係が、象徴として意味するという関係、つまり意味する実践・表現行為の結果として意味するという関係に取り違えられるとき、それは真に深刻な誤謬を含むことになる。
症候と象徴とは区別する必要がある。私の喉の痛みや炎症は私が風邪を引いていること、私の体の中でのウィルスの跳梁跋扈について語っている。それは症候である。しかしこのことは、体の内部のウィルスの狼藉について私が語っているということではない。私はそうした事態を表現しようと喉を腫らしたわけではない。あらためて念をおすほどのことではない。
近年の妖術研究では、しかしながら、しばしばこの種の信じがたい誤謬が犯されてしまっているようにみえる。それはコンテクスト化が人類学的理解のもう一つの落とし穴、解釈学的スタンスの誤謬と結びついた結果でもある。症候が象徴と勘違いされ、観察者にとってのインデクスに過ぎないものが当の行為主体による象徴・表現行為だと錯覚される。
解釈学的スタンスの誤謬は、人類学における最も深刻な錯誤のひとつである。それは人々の実践を一種の言説行為のようなものに見立ててしまうという点で、機能主義的妖術研究には見られない近年の研究に顕著な特徴である。
ゲシーレはアフリカの人々は妖術のイディオムを通じて近代や国家、資本主義の関係について「語っている」のだ(Geschiere 1988:37)と言う。今となってはそれほど奇異に聞こえないかもしれない。われわれはここ20年ほどのあいだに人類学におけるこうした言い回しにすっかり馴染んでしまっている。とりわけこれに類する陳述は近年の妖術研究で繰り返されている。
妖術は単に近代化によって活性化されたというだけではなく、これらの論者たちによると、資本主義やグローバル化がもたらした現状に対する論評・コメンタリを提供している。例えばコマロフ夫妻によると、妖術に代表されるオカルト的な実践は、近代に対する不満を表現し、その異形性に対処する」新しいやり方である(Comaroff and Comaroff 1999: 284)。妖術にかかわる言説は「地域的共同体、地域経済、国家体制、グローバルな市場がぶつかり合い、再編成されているプロセスというコンテクスト」のなかに見出される「近代とそれに対する不満についての最も洗練された儀礼的言説」なのだというのである(Comaroff and Comaroff 1993:xv-xvi )。
チカウィとゲシーレによる論文(Ciekawy and Geschiere 1998)も、妖術の語りがいかに雄弁にグローバルな諸状況について語っているかを論じた研究である。またエゼによると「妖術の語りは、アフリカが現在直面しているポスト植民地状況についての語りであり、単にそれが想像的なものの領域に転置されているだけのことに過ぎない」(Eze 2001:274) 。
ムーアとサンダーズは2001年の彼らの論集の序文において「近代の一部であるということと、近代についてのものであるということは論理的には同じではない。妖術は、あるいは一般にオカルトは、本当にグローバル化や近代に対する批判を提示しているのだろうか。妖術は本当に象徴的政治学なのだろうか」(Moore and Sanders 2001:13)と述べて、こうした傾向に疑念を示している。編者たちが示すこの疑念は、しかしながら論集の基調を変えるまでには至らない。同じ論集の中で、たとえばラスムッセンが次のように述べるのをわれわれは見ることになる。
「妖術的諸力は、これらの(近代化、グローバル化等の)プロセスに対する土地の人々のローカルな知覚とそれらのプロセスに対する対処の仕方を示し、かくして、いわゆる『発展』についてのローカルなイディオムとなっているのである」(Rasmussen 2001:138)。
またショーはアフリカのさまざまな社会に流通しているオカルト的な噂話について、それらが「植民地支配にともなう諸関係について議論し評価し註釈を加える一つのやり方を鮮やかに示している」(Shaw 2001:51)と述べる。こうしたオカルト的噂に魅せられ自らその流通に手を貸すことによって、人々は植民地的諸関係について「コメントする」という行為を行っていることになるらしい。
かくしてムーア&サンダーズ自身も、これらの議論を要約したうえで、妖術告発や儀礼的殺害は資本主義経済化のなかで構造的劣位に置かれた人々の満たされない不満の表明であるし、ゾンビー化や吸血の噂話は資本主義や近代化についての人々の創造的・道徳的理解(Moore and Sanders 2001:15)を示している、と断言せざるをえないのである。
しかしちょっと待ってほしい。現実には人々は、隣人や見知らぬ誰かからの理不尽な攻撃の可能性を憂慮したり、現実に加えられたと思い込んで、それに憤ったり、それらに対して対処したり隣人を告発したりといったことを行なっているわけだ。すくなくとも明示的には、そうした行為によってなにか自分の世界理解を表明することを意図していたりするわけではない。とすると上のような読み替え、人々の実践を一種の解釈行為、言説行為であるかのように読み替えることは、何によって正当化されるというのだろうか。
当の行為者の頭越しになされる、表現行為としての読み替え説明は、つねに限りなく胡散臭い。人々は口では表明していないのだが、実践を通じて身体でそれを表明している、そしてそのメッセージはむしろわれわれ人類学者のほうが現地の人々よりも首尾よく読みとることができるのだ...こんなずうずうしい主張をまともに信じろというのだろうか。
なにがこうした主張をもっともらしい、またもっともな説明に見せているのだろうか。おそらくこうした説明に向かう傾向性は、未知の他者の実践に向かおうとする人類学に内蔵されたものである。人類学者の目的は、一言で言うと、対象の社会なり文化なりについて知ることにある。そのためにフィールドワークに行く。そこで人々のさまざまな実践や、そこで起こる諸々の出来事を目にする。さて人類学者にとって、これらすべては理解という彼の目的にとっての貴重な手がかりとして扱われる。つまりそれらを、例えばドゥルマ社会なりドゥルマ文化なりについて何かを教えてくれるもの、ドゥルマ社会について何か「語ってくれる」ものとしてとりあつかうわけだ。人々の実践ももろもろの出来事も、彼にとってはすべてドゥルマ社会について何かを語るものである。
しかし忘れてはならないのは、それはこうした実践や出来事の「人類学者にとっての」あり方に過ぎないということだ。それを、それら実践や出来事の本来のあり方だと(うっかり、あるいは故意に)勘違いしたときに、解釈人類学的錯視が生じる。人類学者にとっての現象のあらわれ方をそれら現象の本来のあり方だと思ってしまう。
ある現象xを近代化というコンテクストに関係付けて、コンテクスト化してとらえようとする。その努力の果てに、いつしかxをこうしたコンテクスト的な諸変数のインデクスとして眺めるようになっている。そしてさらに単なる症候的な関係に過ぎないこのインデクス的意味作用を象徴的な意味作用と取り違える。その瞬間にxはこうしたコンテクスト的変数について『語るための』実践にされてしまう。単に人類学者の目にとってのみ、比喩的に、インデクス的に、それらは状況について『語る』ものにすぎなかった。しかしいまや人々自身が状況について『語る』ためにそうした実践を行なっていることになってしまっている。こんな風に現象の本質を人類学者自らの解釈的スタンスに合わせて誤認してしまうこと、これが解釈学的誤謬である。
奇妙な例で申し訳ないが、仮に私に人前で鼻をほじる癖があるとする(あくまでこれが単なる例であって、事実には反していると強く主張しておきたいが)。それは私の生まれ育ちの卑しさを「物語る」症候・インデクスであるかもしれない。ここまでならおおいにありそうなことである。しかしさらに進んで、もし私がその行為によって自分の属する社会階層について「語っている」のだとされ、さらにそれが周囲の紳士きどりの連中に対する私の「抵抗」であるなどと言われた日には、私はそんな説明には断固として抗議しないわけにはいかない。症候を言表に勝手に読み替えないでほしい。
これは先に述べた二つと自然につながる、もう一つの語り口に我々を導く。これも人類学では近年とりわけ馴染み深くなりつつある語り口である。人類学者によって、近代化とグローバル化というコンテクストについて語るインデクスとして処理される妖術の実践は、まず人々自身が彼らの置かれているそうした状況について語っている実践であることになったわけだが、次いでその状況に対して人々が抵抗したり対処したりする実践でもあるとされることになる。
2−2と2−3の語り口は、コマロフ夫妻のすでに上げた引用にもみられるように、最初から並んで登場することも多い。彼らはポスト植民地状況における神秘的実践を「近代に対する不満を表現し、その異形性に対処する」新たな様式とみていた。
一連のオカルト的実践は単に「近代とその諸帰結に対する懐疑的反応」(Luig 1999:13-14)であるかもしれない。憑依の文脈でではあるが、マスケリエールはニジェールにおけるドド祭祀について、それを文字どおり資本主義に対する民衆の懐疑的反応だと分析する。別の論者にとっては、それは国家や権力に対する抵抗そのものですらありうる。バヤールが言うには、妖術は噂や陰謀の不可知の領域の存在によって特徴付けられるので、妖術のイディオムは国家の権威の支配の及ばない想像的な空間を作り出すことになる。それゆえ妖術は民衆にとって国家に抗する政治の場になると言うのだ(Bayart 1981, 1990 [Geschiere 1997:112 よりの引用])。妖術が人々の生活に対する現実的な脅威と考えられているところでは、人々が自らの身に降りかかるかもしれない不幸を憂慮し、隣人の妖術をおそれ対抗しようとしたとしても無理もない話である。しかしそうすることによって、なんと人々は国家に抵抗していたことにされてしまう。
こうした語り口は近年の日本の人類学においても特徴的である。「妖術は、状況に応じて意味をやりくりしながら、人々が近代を飼いならしていくことを可能にしていく機制として考えることができる」とか、人々は「資本主義が引き起こす不安定な状況を、(平均化もさせれば、蓄積もさせる)妖術の『曖昧な力』によって乗り越えている」といった類の断定に、我々はすっかり耳馴らされているような気がする(註3)。こうした議論に対して、どのような論拠がその正当化を与えるのだろうか。きちんと証明されるというのなら結構なことである。しかしこの種の語り口が、もしかすると実に初歩的で馬鹿げた誤謬の結果に過ぎないということもありうるのである。
事実のレベルでは、妖術をめぐる実践は人々のまさに目先の問題(病気やさまざまな不幸、特定の隣人から行使されていると判明した攻撃に対する防御、反撃など)に対処する実践以外のなにものでもない。これらの一連の主張は、こうした人々にとっては目先の問題に対処する実践を、彼らは自分たちを見舞うより大きな社会変動なるものに対処していると読み替えているわけだ。
もちろんその目先の不幸はその原因をたどれば、結局はグローバル化や近代化という変化のもたらしたものということになるのだろう。コンテクスト化によってそうした関連は明らかにされているとしよう。しかし単にそうした因果関係の事実のみでは、上のような読み替えを正当化することはできない。泥棒に備えて戸締りを厳重にするという行為は泥棒の増加に対処する行為であるとはいえる。そして泥棒の増加がたとえばIMFの構造調整政策の結果だと判明したとする。しかしだからといって、戸締りを厳重にする行為がIMFの構造調整政策に対処する行為だとは言えないはずだ。妖術師の現実的な危険にそなえていろいろ対処している人に対して、あなたがたは近代化に対抗しているのだとか、それを飼いならそうとしているのだとか言ってみればよい。当人たちは目を白黒させるだけだろう。
これが意図性のショートサーキットと私が呼ぶ誤謬の形態である。コンテクスト化にともなう状況の諸変数と、特定の実践xとの隣接的関係を単に無理やり「意図性」の関係に、つまり動機や目的の関係に読み替えてしまっているだけの話なのである。
付け加えるまでもないと思うが、私は人々の実践をインデクスとして読み解いたり言説行為に読み替えたり、あるいは明示されない意図性や目的性と関係付けたりすることがつねに無効であると言うつもりはない。しかしそうする際には、それが単に上で指摘した陥穽と誤謬によるものではなく、正当な理由や論拠があることを示す必要がある。残念ながら多くの研究において、それはなされていない。上で述べた3つの陥穽は単なる落とし穴というよりは、その独特の魅惑によって人を誘惑する罠でもあるので、それだけにいっそうの注意を要する。
もちろんコンテクスト化の作業自体は人類学の中心的なスタイルであって、それを放棄せよと言うわけではない。しかしそれはコンテクスト化される当の現象そのものが何であり、どのようなことからいかにして成り立っているのかを明らかにする作業と平行してなされねばならない。その現象がコンテクストとしかじかの関係で結びついているまさにその原因は、その現象の成り立ちの解明自体の中に求められるはずなのだから、そうすることはむしろ不可欠な手続きのはずなのだ。さらにコンテクストの構築は原理的には無数の仕方で可能であるので(エスノメソドロジーが早くから指摘しているように(e.g. Cicourell 1974))、われわれがコンテクストとして提出するものが単に分析者の恣意的な抽出ではないことにも十分な注意を払う必要がある。なぜグローバル化と資本主義であって、たとえば惑星直列や太陽黒点活動ではないのか(バカバカしい例ではあるが)。ほかならぬそれを問題の現象のコンテクストとして提示した根拠はなにか。
ここには実はもうひとつ根の深い(深すぎて通常の分析作業ではあえて追求しないほうがよいくらいの)問題がある。外部の観察者にとってアクセス可能な、そして記述・同定可能なリアリティ--資本主義化にともなう貧富の差であれグローバル化であれ--がそのまま対象社会の人々の実践のコンテクストででもあるかのように提示されているという点である。部外者である観察者から見て人々が置かれている状況と見えるものと、当の人々自身が自分たちの生活を取り巻いている状況としてとらえているもの--したがって人々の実践のリアルなコンテクストであるもの--との関係は、ア・プリオリに想定してよいものではない。前者はあくまでも「われわれ」にとっての(その眼差しのもとにたち現れる、あるいは我々がそう思い描いている)世界であり、それに対して後者は、同様な意味であくまでも「彼ら」の世界である。両者が一致する保証はない。むしろ本当はこの両者の関係をこそ明らかにすべきなのである。さもなければ、人々のオカルト的実践や語りは、結局のところ、われわれの目にしかじかの状況として見えている状況に対して、人々が奇妙な言葉づかいで語ったり、奇妙な仕方で抵抗したり対処したりしているだけのものであるということになってしまう。多くの論者が妖術をめぐる語りや実践が人々にとっては近代化(例えば)に対するコメンタリや抵抗であるといくら首尾よく主張できたとしても、読者は単にそれを近代化に対する奇妙な(間違った)理解であり、的外れの奇妙な対処であるとしか見ないだろう。なぜなら、それらは最初からそう見えるようにしか提示されていないからだ。それは結局は彼らの他者性を妙に際立てるだけの結果に終わってしまう。そうではなくて我々はそれらの語りや振る舞いがそう奇妙なものではなく、十分にまっとうな無理のないものであるような世界を、彼らの世界として見出すところからはじめねばならないのである。しかしこれもそれだけで終わるなら、奇妙な人々の代わりに奇妙な世界を置きなおすだけのことになる。そうならないためには、そのうえで、我々の世界と彼らの世界とを互いに遮断され無関係な二つの世界としてとらえるのではなく、両者の実践的な交錯関係を解明していかねばならないだろう。独我論に対するウィリアム・ジェイムズの意表をつく解決法を思い出そう。なるほどあなたはあなたの世界に住み、私は私の意識にとっての世界に住んでいる。でもあなたがあなたの世界で蝋燭を消すと、なんと私の世界の蝋燭の灯が消えるのだ。これが私たちが同じ世界にいるということの意味である(ジェイムズ 2004a[1976]:84)。我々が我々の世界において(に対して)行う実践は、彼らにとっての世界におけるどのような変化を引き起こすのか、そして彼らが彼らの世界において(に対して)行う実践が我々にとっての世界におけるいかなる変化なのかを問わねばならない。我々と彼らがが共通の世界の住民であることを確認できるのは、複数の世界を交錯させるこうした「間主観的な」作業をつうじてである。
次節で示唆するように、妖術についての近年の研究は一方でこうした作業の可能性を開いてもいるのだが、多くはその前で躓いてしまっている。すでに述べた三つの落し穴のせいである。人々の社会的実践のコンテクストについてのあまりにも素朴で無反省な想定--われわれの世界を彼らの生活のコンテクストとしてそのまま置いてしまうこと--のおかげで、ほとんどの論者が実にやすやすと目の前に空いた大きな落し穴に我先に飛び込んでいってしまっているのだ。落とし穴に気がついた今こそ、その向こう側に、妖術を生きる人々の世界とわれわれが知っている世界が交錯し、その二つの世界が結局はわれわれが共に住む同じ世界に他ならないのだと判明する場所を垣間見ることが可能になるかもしれない。
近代化やグローバル化のコンテクストに直接かかわるものとして妖術信仰をとらえようとするこれら一連のアプローチが開こうとしている可能性とは何であろうか。上述してきたようなさまざまな問題点にもかかわらず、なおこの問いは検討するだけのことはある。ここではコマロフ夫妻の一連の提言が提示している妖術現象の本性についての洞察と、それがなぜグローバル化の状況の一部となっているのか、その両者の結びつきをめぐる着想から出発して、現在展開しつつある一連のアプローチの含む可能性の一端を示したい。コマロフ夫妻の議論そのものは、上で批判した3つの語り口の特徴をすべて備えている。にもかかわらず、それは同時に、そうした批判によっていっしょに葬り去るわけには行かない魅力的な洞察をたしかに含んでいる。
コマロフ夫妻の一連の議論(Comaroff and Comaroff 1993,1999,2000)、とりわけ 1999年の「オカルト経済と略取の暴力:南アフリカの脱植民地状況からの覚書」(Comaroff and Comaroff 1999)は南アフリカを例にとって、オカルト的な噂の蔓延、それに起因する暴力事件の頻発、そこに見られるオカルト的な手段で私腹を肥やすものたちの活動に対する道徳的恐慌と、それと裏腹のオカルト的実践に対する魅惑を、グローバル化とそのもとでの資本主義の質的変化とその新たな相貌(彼らはそれを「千年紀資本主義」と名づけている)に関係付けている。伝統的社会の急激な変化と妖術信仰などの激化を結びつける古くからの研究と、一見したところ同工異曲の試みに過ぎないように見えるかもしれない。しかし、変化する社会状況と伝統的秩序の崩壊にともなう不安やストレス、富の格差や世代の断絶、都市と農村部の経済的格差などの新たな社会的亀裂の出現、独立(自由化、解放)後に託されたバラ色の世界とその現実に対する失望などを、妖術告発の増加などの遠因として挙げたてる(そこに単純な因果関係を見出すにせよ、人々の側での主体的な対処や抵抗の試みをそこに見出すにせよ)ありきたりなコンテクスト化による説明とは、それは微妙に一線を画している。
コマロフ夫妻はまず40年前のグラックマンの議論(Gluckman 1959)を引きつつ、こうしたオカルト的な語りや実践への傾斜が、近代化に適応できない人々による過去の儀礼的実践への回帰・退行ではないことを指摘する。それはこの新しい状況にまさに対応した新しい対処様式だというのである。たしかにこれは、人々のオカルト的実践や語りを近代に対する不満の表明行為、対処行為に読み替えるというすでに本論考で批判してきた語り口には違いないのだが、その際にコマロフ夫妻がこの新しい状況に対する「新しい意識の産出」(Comaroff and Comaroff 1999:284)に触れている点は注目に値する。そこでは同時に、近代に対する一つの意識のあり方が問題にされている。
2000年に刊行された論集の中では、彼らの関心が「20世紀末の物質的実存条件に触発された一連の当惑、想像行為、投機と思弁」にあることがより明確にうち出されている(Comaroff and Comaroff 2000:298)。彼らが示そうとしているのは、彼らが「千年紀資本主義」と呼ぶ20世紀末以降の物質的実存条件のもとでは、世界は人々にとってきわめて謎に満ちた理解困難な姿をとって顕れているという事実、そしてそれがオカルト的なものを含むさまざまな新しい形式の想像(とそれに基づく投機あるいは賭けと思弁の実践)を喚起しているという事実である。コマロフ夫妻が問題を、意識のあり方と想像力の問題として立てようとしていることがわかるだろう。
コマロフ夫妻の分析のもう一つの特徴は、問題を単に周辺地域特有のものとしてではなく全世界的な問題ととらえている点である。一方に我々にとっては現実的でありまた熟知している近代の資本主義的世界を置き、他方にその現実が理解できず未だその前で当惑している周辺社会の人々を置くという、多くの論者が暗黙のうちにとってきた自他を対比させる図式は彼らにあっては必ずしも支配的ではない。千年紀資本主義は資本主義を熟知しているはずの我々にとっても理解困難な謎めいた相貌をすでに顕わにしているというのが彼らの認識である。こうした理解は、我々の「現実認識」を対象社会の人々の(現実を誤認した)「想像」に対置してしまうという過ちから離脱する一歩となる。言うまでもなく世界がそれ自体として謎めいていたり、異形であったりすることはないからである。それが謎めいていたり異形であったりするのは、ある意識にとって、つまりある仕方で世界を描き出そうとする意識、そこに秩序を見出そうとする意識にとってのことにすぎない。コマロフ夫妻が分析する「千年紀資本主義」の世界には、したがって自他双方における世界に対するかかわり方の想像的性格をあらためて浮き彫りにする可能性が含まれているのである。オカルト的な想像力は、人間についての根源的な事実であるところの、世界に対するかかわり方のこの想像的性格との関係で理解されねばならないだろう。
もちろんコマロフ夫妻の分析が、人々のオカルト的実践を抵抗や注釈行為として読み替えるすでに私が批判の対象としてきた議論の延長上のものであり、今ここで述べたような特徴がかならずしも彼らの分析の主調になるに至っていないのも事実である。以下では私はより自覚的に、問題を世界に対する(そして世界の中での)想像力の問題として定式化しなおす試みを行おう。
妖術をはじめとするオカルト的な実践における「想像的なもの」について語ることが、必ずしも想像的なものを主題化することにただちにつながらないという厄介な問題がある。たしかに妖術があるいはオカルト的な実践や語りが想像的なものだといっても誰もたいして驚かない。それは「現実的」なものと「想像的」なものについての我々のおなじみの二分法にあまりにも忠実であるように見えるからだ。
想像という言葉には、しばしば現実との対比において、非現実的なものを指すという使い方がある。想像上の生き物といえば、現実にはいない生き物のことだ。「想像の共同体」などと聞いただけで、存在すると想像されているだけで実はなんの実体もないような、どこか虚構めいた存在を思い浮かべてしまう人もいるだろう。現実が人の主観的な想像によっては左右できないもの、人の思いとは独立に外在するなにかだと考えられている一方で、想像の方はもっぱら個人のほしいままに任意に行使できるなにかだと考えられている。
このように想像と現実をまるで正反対のものであるかのように区別し、想像を現実の圏外に追いやるとらえ方は、そうすることによって現実なるものの自明性をほかならぬ我々がいかに維持しようとしているかがわかる、という点で興味深くはあるが、当の自明な現実そのものを主題化するうえでは明らかに具合が悪い。それは、我々の言うところの「現実」がいかに想像的に作り上げられているかという事実に目をそむけさせてしまうのだ。オカルト的な想像力について考えるに先立って、かなりな回り道にはなるが、現実と想像の関係について予備的に考察しておきたい(註4)。
現象学が明らかにしてきたように、世界は意識の相関物である。人は何らかの仕方で自らの意識に対して立ち現れている対象に対してしか働きかけることはできず、またそうした仕方で立ち現れている世界の中で生きている。人々がその中で生き、それに対して働きかける現実とは、したがって意識の外部にそれとは独立に存在している何かではなく、意識の対象として意識に対してたち現れた限りにおけるさまざまな存在や、それらがとる諸様態からなっている。私は現実が意識に対してもたらされる仕方を、広い意味で「想像」という言葉で呼んでよいのではないかと考えている。
なぜそれを普通に「認識」と呼ばず、わざわざ「想像」という言葉に言い換えるのかと訝るかたもいるかもしれない。私はこの言い換えには意味があると思う。認識という言葉にはその使い方において、認識に先立って認識の対象が独立に存在するという考え方とどうしても切り離しにくいところがある。何らかの対象の存在がまず前提とされ、それがどう認識されるのかを問題にするという構図である。そこではしばしば認識は「正しい/間違った」というニ項対立と密接に絡み合ってしまう。認識の作業のそのものを通じて対象が成立するのだ(構成されるのだ)という現象学的な考え方がなかなか受け入れられにくい所以である。これに対し、想像はしばしば非現実的ないしは不在の対象を意識にもたらす過程としてとらえられており(e.g., Sartre 2004)、対象の先在性という前提にしばられないという利点がある。同時に想像という言葉のこうした用い方によって、想像と現実の二分法の乗り越えがより容易になる。非現実的なファンタジーという意味での想像や、何の躊躇もなく想像的と言ってしまえるような、いわゆるオカルト的な実践を支えている想像を、「現実」の認識だと考えられているものと共通の理論的基盤に立って---これらを区別している暗黙の境界自体を問題視し主題化することを可能にすることによって---扱うことがむしろ可能になる。
またなによりも想像という言葉は、経験的な与件あるいは現象的なあらわれ(appearances)と、意識にとっての構成された対象---つまり意識に対してそれがもたらされた姿---との間のへだたりと、その構成作業におけるある種の自由度をより正当に評価する。最も直接的な知覚された現実においてすら、現実は実際に経験に直接与えられている以外のさまざまなものを補完した姿で提示され経験される。私たちの現実のなかでは、たとえば実際にはその裏側を見たこともなく、またそれに裏側があることを確認したわけでもない建物が、裏側と奥行きをもった建物としてすでにたち現れている(註5)。厳密には三つの面---しかも歪な平行四辺形---しか与えられていないところに、私たちは6つの正方形の面を持った立方体を見る。もちろん想像という概念をここまで広げてしまうと、下手をすれば猫だって想像しているなどと言わねばならない羽目に陥りかねない。ただこれによって私が強調したいのは、単なる知覚の水準からしてすでに、我々の経験する現実が直接的な所与を超えた一種の補完作業の産物であるということだ。すべての現実的なるものが、それをささえるこうした情報の不在と空白の空間---それについての情報が経験に直接には与えられず、最終的にはさまざまな記号を駆使した複雑な操作によってのみ充当され、また根源的に多様な仕方で補完されうる---によって裏打ちされて成立しており、我々が社会的と呼ぶこのきわめて複雑な現実が同様な補完作業によって充当されるべきその広大な奥行きによって成立しているというのであれば、そこに働いている過程はまさしく想像的と呼ぶにふさわしいであろう。
「想像」つまり「思い描くこと」という言葉を、このような補完作業によって対象が意識にもたらされる仕方であるととらえるなら、現実とは結局のところ人々が自らが生きている世界をどのようなものとして思い描いているかの問題だという言い方は、単なる修辞以上のものになる。世界に対して我々が思い描いていること---この世界において自分や他の人々がどういう存在であるのか、その世界には何が存在しているのか、そこでは何が可能で何が不可能であり、自分にあるいは他者に何ができて何ができないのか、つまり何が現実的であり何が反実的であるのか---我々にとってのリアリティとは、こうした一連の想像内容からなりたっている。これらのほとんどは、所与の事実として経験に与えられてはいないので---ためしに我々が世界がこんなふうにできていると思っていることがらのいったいどれだけが我々の経験に直接与えられているか、実際の経験による検証をうけているかを考えてみればよい---まさに思い描かれたものだということになろう。しかもその思い描き方はかならずしも一通りには限らない。現実はまさに想像的にたちあげられている。
さらに、想像的に成立した現実が想像的に自己を再生するという点にも注意したい。それが実践を動機付けるとき、しばしば想像したとおりの現実がそこに見出されることになるからである。そもそも人間は自分にできると思うこと、すべきだと思うことをやろうとし、不可能だと思うことはやろうとしないものなので、この世界で何が可能であり何が不可能であるかをめぐるこうした想像が、実際に何が社会的に生起しうるかを大きく規定することになるというのは見易い話だ。可能だと思い描かれているものは、しばしば実際に実現されることになり、不可能だと思われていることは実際にもまず実現されない。想像に即して振舞うこと、単にそれらを踏まえそれらに対して振舞うことが、その想像を現実そのものにしてしまうような回路がなりたっている。
繰り返しにはなるが、ここで言う想像は、われわれが現実/想像という二項対立の形でその言葉に往々にして結び付けている意味での想像ではないことを強調しておきたい。それを根拠のない妄想や夢想とは言わないまでも、心のほしいままに自由に膨らませることができる想念、あるいは任意で主観的な精神的活動という意味においてとらえてはならない。ジョン・レノンには悪いが、現実は違う仕方でそれをイマジンすればそれだけで変わるというものではない。というよりむしろ、上で述べたような現実を構成する想像とは、それとは違う仕方で想像しようとすることがたちまち我々が「想像」という言葉に通常与えているような意味での想像、現実離れした非現実的な絵空事の心的描写になってしまうという意味で、唯一自然で現実的な想像、現実そのものに他ならないような想像なのである。想像といってもまるで自分たちの自由にはならない想像、いわば強いられた想像なのだ。自分たちの世界で何が可能であり、どういったことが不可能であるかを思い描いている人は、少なくともそれを単に自分たちの自由な思い描きの産物などとしてはとらえていない。
したがって現実のさまざまな実体や現象が想像的であると指摘すること---たとえば『民族』が想像的なものだということ---は、それが単なる虚構であり、各人がいわば目を覚まし見方を変えて、そのようなものとして考えないことにしさえすれば雲散霧消するような非現実的存在だということを意味するのではない。民族は、自分と他の成員、自分と集合体との絆が、どんな風にどんな仕方で思い描かれているか、それによって支えられている共同性であるが、同時に人はしばしばその絆をそのように思い描かざるをえないという意味で、そして現実に人がその想像に即して振舞い、そのことを通して想像が現実的な効果を常に生み出しつづける結果として、あくまでもきわめてリアルな存在、その虚構性を知りさえすれば消え去ってくれるような亡霊などとは程遠い実体として経験されている。現実的であるということと想像的であるということとなんら矛盾してはいない。
現実の構成にかかわる想像のいわば強いられた性格は、さらに細かく見ると、一つにはそれぞれの主体がこの想像が支えている世界に対する個々の適応=チューンあわせの実践が作り上げている複雑な回路に多かれ少なかれ絡めとられた主体であることに由来し、また一つには、この想像が社会的インタラクションやコミュニケーションの網の目のなかで形成され、その拘束を受けていることに由来する。前者を(やや誤解を招く表現かもしれないが)想像力の物質性という言い方で、後者を間主観性という言い方で呼んでもよいかもしれない。さらに人類学にとっては言うまでもないことであろうが、想像力そのものがその媒体である象徴構造によって拘束されているかもしれない(Comaroff, J., 1985:79)。ただ私は構造による象徴的媒介の理論的な位置についていささか疑念をいだいているので、当面はそれをいちおう前提としつつ括弧に入れておきたいと思う。強調したいのはむしろ最初の二つの拘束性である(註6)。
想像力は、世界に対する人々の実践---それは世界に適応しチューンをあわせる実践でもあるのだが---そのもののなかに埋め込まれ、それらの実践を支えるとともにそれによって支えられている。想像が描き出しているとおりの世界に対して、その想像に導かれて振舞うことで全てがうまく運ぶならば、その想像のもとで立ち上がっている世界をリアリティ以外のなにものかとして考えねばならない理由はなにもないことになる。このような仕方であらゆる日常実践がチューンされているところでは、もはや現実はそれ以外の仕方で思い描かれうるとはまったく思えないだろう。実際には人間の存在とその実践は、彼の境遇=世界とそれほど完全にチューンがあっていることはないとはいえ、チューンがあっていればいるほど、その実践に埋め込まれた想像は、現実についての唯一可能な思い描き方となる。このとき人々は世界をそういうものだと「思い込んでいる」のだというだけでは十分ではない---もしそうなら人々を覚醒させて「思い込み方」を変えさせればよいなどという話になろう。そうではなくて、やや不正確で奇妙な言い回しになるが、このとき人々は世界をそういうものだと「振舞い込」んでもいるのだと言えるだろう。人々が現実として思い描く想像は、別の言い方をすれば、実践が働きかける対象でありまたその条件であるような実存的・物質的状況に、複雑にまた同時にきわめて柔軟な仕方で連動しているのである。
このとき想像はけっして実践とは独立に外在する実存的・物質的状況---実践が向かう対象---を単に「正しく」反映するような仕方で、いわば受動的にそれと連動しているわけではない。W・ジェイムズが「真理化の過程」と呼んだようなプロセスを通して(ジェイムズ 2004b:148)、まさにそうした実存的・物質的状況自体の生成にあずかっている。想像に導かれて振舞っていると、その想像がまさに真となるような現実に遭遇する。単なる幸運によってではなく、想像に導かれて振舞う行為そのものが、自己実現的予言のように、そうした現実を作り出す効果を往々にしてもっているからである。しかしそれは同時に、実存的・物質的状況とそれについての想像の双方に予測不可能な変化がもちこまれる契機でもある。想像的に媒介された実践が生み出してしまうかもしれない実存的・物質的状況における予期し得ない差分・変化が、想像のあり方を規定し、そしてその変容をもたらしうる。チューンあわせの実践はしばしば同時に変調の実践でもある。
こうした連動の一つのあり方がもっとも劇的な形で示されるのが、ある想像力の産物である新しい技術の登場が「予測不可能な仕方で」まったく新たな想像力を触発し解き放つようなケースであろう。B・アンダーソンが「想像の共同体」の中で論じた事例はあまりにも有名である。印刷メディアの普及が(それ単独でではもちろんないが)ある境界を持った空間の内部の互いに未知の人々のあいだに一つのネーションという共同性の絆を想像することを可能にした。シヴェルブシュは「鉄道旅行の歴史」のなかでイギリスにおける鉄道網の発達によって始めて可能になった一つの想像について語っている。19世紀のイギリスにおいては各都市はそれぞれ異なる時間を持っていた。それぞれの時間をシンクロさせる手段もなかったし、そもそもそうすることを考えすらしなかった。しかし鉄道には運行ダイヤが、したがってすべての都市で同じ一つの時間が流れていることが必要であった。それは各都市で流れる異なる時間を可視化した。それに対する対策として、ロンドンであわせられた時計が列車につまれて各都市へ運ばれ、各都市の時計を合わせるのに用いられた。こうして初めてイギリスの各都市で同じ時間が流れるようになり、各地域を同じ時・空間に属したものとして思い描くことが可能になったのである。今日の携帯電話やインターネットの普及に見られる新たなメディアやコミュニケーション手段の登場が、今いかに新しい社会空間に対する想像力を解き放ちつつあるか(それがどのようなものとなるか、現時点ではいまだあきらかではないにせよ)を考えてみれば、我々が現にこうした複雑な連動にたちあっているのだと確信するに十分である。単に新しい技術だけではない。ありとあらゆる変化は新たな想像力を解き放ちうる。ただしつねに前もっては予測不可能な形で(まさにこの予測不可能性がそれを単なる下部構造決定論、技術決定論とは根本的に異なるものにしている)。新たな想像の変質は社会的現実の根本的な変質をもたらしうるし、それはさらに想像力の世界に乱反射する。近代とはこうした乱反射がめくるめく地すべり的な地殻変動を引き起こした時代であったともいえる。
想像の間主観性については、ここではごく簡単にふれるだけに済ませよう。この言葉によって私は想像が複雑な社会的コミュニケーションの諸回路---人々がその中で自己を成型し、それを通じて世界やその中のさまざまな存在に対して関係を持つことが出来る対他的空間---の中に埋め込まれているという事実を指している。現実を構成する想像の社会的生成---それがいかなるコミュニケーションの回路と連動しその中で形成されたものであるか---の解明の多くは今後の研究を待たねばならないが、すくなくとも次の点は確認できるだろう。私は世界についての思い描きのほとんどを、世界との孤独な対峙の中で自前で生成しているわけではない。その多くは他者とのコミュニケーションを通じて、つまり他者の語りを日々中継する実践の中で、他者の語りを重要な源泉として作り上げたものである。中継の過程で人はつねにそれは意図したあるいは意図せざる変更を付け加えてしまうので、このコミュニケーションの空間は新たな想像がそこで形成される場ともなる。それはつねに再び他者とのコミュニケーションの回路に投げ返され、そこで消滅したり、逆にこの社会的空間の中で増幅されてより強度の呪縛力をもって帰還してくるかもしれない。想像はコミュニケーション空間の中で常時更新され、再生産される。この意味において想像の源泉は、個々の主体のなかにあるといえる以上に、彼が属するコミュニケーション空間(言説空間)にあり、またそれに支えられているので、彼ひとりが自由にそれをどうこうできるというものではない。
人々の社会的現実を理解する上で問題となる想像は、こうした二重の被拘束性(構造的媒介も加えると三重の被拘束性)をもった想像である。実際には想像のこの二重の拘束性は切り離して考えるべきものではない。第一の拘束性、つまり想像と実存的・物質的状況---それ自体想像的な仕方で人々の経験に対して「現実」としてもたらされるのだが---との連動は、状況に対する人々の働きかけやチューニングの実践のなかでおこるのだが、この状況への実践的かかわりは、それ自体つねに社会的空間のコミュニケーションの諸回路を介して成り立っているからである。二重の拘束性はこの実践の中で緊密に結びついている。このいずれの拘束性も、社会的想像の一方で柔軟で変化に富みとらえどころのない性格と、他方でその呪縛性、非任意性を同時に説明する。物質的状況との実践的接点は想像の変化のまさに舞台であるし、他者とのコミュニケーションの空間は想像の変調がまさに個人の手を離れた予測不可能な過程にさらされる場である。しかしその想像の個人にとっての非任意的で強制的なあり方、つまり好むと好まざるとにかかわらず外在する現実的なものとして彼をとらえて離さないというその側面も、この同じ二重の被拘束性に由来している。その産物は、民族やその他の概念に典型的にみられるように、あくまでも想像的なものではなく現実的なものとしてしか意識されえないし、また個人によって自由に作ったりキャンセルしたりできるものでもありえない。
こうした想像を「現実構成的想像」とでも呼んでおくことにしたい。妖術をめぐる実践や語りが、そのあからさまに想像的な性格によって特徴付けられるとすれば(単にそれがその外部にいる者の目にとってにすぎないとしても)、それは当該社会におけるこの「現実構成的想像」との関係において理解する必要があろう。
ところで妖術をめぐる語りや実践を支えている想像---これをここでは一応「オカルト的想像」と呼んでおこう---は、この想像にとらえられていない(その内部にいない)者にとっては、別の種類の想像---非現実的なおとぎ話やファンタジーのような想像---とほとんど区別できない。このことが、妖術を「信じている」人々とそうでない「我々」との間のへだたりを、実際以上に大きなものにみせかける。妖術の想像の外部にいる我々にとっては、彼らはまるでおとぎ話を真に受けている人となんら変わらない、いささか理解に苦しむ信じがたい存在に見えてしまう。妖術信仰がしばしば文化的他者性---前近代、未開、後進、無知蒙昧---のマーカーとして機能してきたのも不思議ではない。
しかしこれは誤りである。ファンタジーは、日常性であるところの「至高の現実」からは明確に区別され枠(フレーム)付けられた世界の内部で、つまり多元的リアリティ(Schutz 1962)の一つの内部でのみ自由を許された想像、したがってけっして「至高の現実」そのものの中にあふれ出てくることもなく、それと混同されることもない非現実の想像である。言うまでもなく妖術を「信じている」人々も彼ら自身のファンタジーやおとぎ話をもっている。そして彼らはけっしてそれらのおとぎ話を真に受けていたりはしない。現実構成的想像は、人々の住む世界がどのような世界であるか、そこでは普通どんな風にことが進行し、何が可能で、何が不可能であるかを描き出す。この想像の中で「現実」世界では絶対おこりえないこと、不可能なこととされたものの一部は、舞台や小説など枠付けられた別の現実のなかに具体的な姿を見せる。これがファンタジーの想像であり、この想像は最初から「非現実」へ向かっていることが同意されている想像である。オカルト的想像は、別にこのファンタジーと「現実」の境目を曖昧にし、多元的リアリティのフレームそのものを壊そうなどと考えているわけではない。それは最初から「現実」そのものに向かっている。その対象は、「現実」とは区別された別のフレームづけられたリアリティではなく、まさにこの「現実」のなかの出来事や存在でありうる。この想像の内部にいることは、非現実であったものを突然現実だと思い始めることや、おとぎ話を真に受けることとはまるで別の話なのである。
オカルト的想像をファンタジーと同質の想像と誤認することが、妖術を「信じ」ている人々を過剰に異質な他者にしたてあげ、未開性、後進性、蒙昧、「信じやすさ」などの属性を彼らに負わせてしまうとすれば、その反対にその「想像性」(この論考で用いている意味でではなく、通常の意味における)を過小評価して、妖術を「信じ」ている人々に対して、彼らが我々が生きている世界とは質的に異なる世界に生きているのだと気前よく認め、妖術について語られるもろもろのことがらは彼らにとっては日常的な現実の一部にすぎないのだ、我々にとっての自動車やテレビがそうであるように、彼らにとっては妖術使いや妖術は存在することが当たり前のリアリティそのものなのだと訳知り顔に語ることも、同様に問題がある。前にも指摘したように、奇妙な人々という想定を奇妙な世界の想定に置き換えることによって、理解が飛躍的に前進するわけではない。なによりもそれは、妖術をめぐる語りや実践をとりまいている懐疑や不確かさ、妖術がそれを「信じ」ている人々自身にとっても出来事の不確実性と、そしていかがわしく得体の知れない奇怪で世にも不思議な出来事の経緯に関係しているという事実を、正しく評価していない。ドゥルマのある青年は妖術使いが引き起こす効果を意味するドゥルマ語ミリモ(milimo, chilimo, vilimo, vyama ともいう)を英語のmiracleという語で説明しようとした。「人を驚かせ惑わせること」というのである。奇跡というよりも、その内容のネガティヴな性格からむしろ「怪異」というほうが適切かもしれない。妖術は、当の人々にとっても、日常の現実におけるありきたりな出来事の経緯からの逸脱性を特徴とするまさに「あやしの術」なのである。
したがってオカルト的想像をファンタジー的想像と同一視することも、単なる現実構成的想像に含めてしまうことも、同様に適切ではない。それらの関係を正確に捉える必要がある。今後の研究の課題ではあるが、さしあたっておおまかな見通しを示唆することならできるかもしれない。
すでに繰り返し述べたように、我々が世界をどのようなものとして思い描いているか、何を可能で現実的なものとして、何を不可能でありえないものとして思い描いているか、これらは私が現実構成的想像と呼んだ言わば「秩序の想像」の一部である。オカルト的想像は、この可能と不可能の境界線の上に働く想像だと考えることはできないだろうか。それは「いまや誰もが大いにありうると考えている話」、「嘘のような本当の話」から「そんなことがありえるはずがない。でももしかしたら...」「私にはできないが、もしかしたらほかの誰かなら...」逆に「もしかしたら私の場合だけは...」に到る広大な空間をそこに出現させる。非現実的で、ありえないもの、「夢のようなこと」---その一部はまさに夢物語やファンタジーとして特定のリアリティの枠の中にその居場所を見出すが、おそらく大部分ははっきりした形をもたず可能なることの外部にただ排除されているもろもろの不可能なるものたち---を現実の領分に招き入れる想像、可能性と不可能性の境界線を外に向かって押し広げようとする想像であるという点で、オカルト的想像力はある奇妙な仕方で科学的想像力に類似する。ともに可能性と不可能性の、ありとあらゆる方向に向かって延びている境界線の上に働き、そのいたるところで戯れる想像力なのである。
秩序を描く現実構成的想像の内部には、何をすればどうなる、こうなるためにはどうすればよいといった実践的な連関、自明であたりまえのさまざまな「事の成り行き」に対する想像が含まれている。オカルト的想像は、こうした秩序が知らないやり方で、秩序の想像がみとめない連関の実現を夢想する。「私たちは知らないが、もしかするとあることをすればそれは実現するのだ」「どうしてかよくわからないが、あることをすればそうなることもありえるのだ」。それは我々の社会で次から次に出現する怪しげなネズミ講や投資システムといった新手の一攫千金の手段とあい通じる部分がある。あるいは「免疫力」の上昇といった科学的ともつかぬ語り口をまとった、もしかしたら本当に効くかもしれないと思わせる怪しげなキノコの類や健康食品の数々。人間の行動傾向や能力についてあまりにもお手軽に知る手段を提供する血液型。プラス思考や成功を確実にする意志の力。言うまでもなくそれらは、我々の社会におけるオカルト的想像のまさに一形態なのである。それらは枠付けられたリアリティのなかのファンタジーではもちろんないし、日々の実践を通じて確認されコミュニケーションの回路を通じてわれわれをしっかり呪縛しているような、誰にとってもあてはまるような当たり前の現実そのものでもない。
秩序の想像によって引かれた境界線上で働く想像力として、それはしばしばある種の賭け、投機、ギャンブルの様相をともなっている。絶対に実現しないとわかっていることなら、人は誰もやろうとはしないだろう。この場合賭けは成立しない。が、万一でも実現する可能性があるなら、少なくとも賭けは成立する。勝率がどんなに低くても、掛け金が恐ろしく小さければ、その賭けは取るに足らない賭けとしてそれなりに魅力的になる。境界線上の想像が人を捕らえ始めるのは、それがもちかけるこうした小さな賭けである。たとえば、「念じれば病気の回復は早くなる」という観念。もし普通に治療を続けてもよいということなら、掛け金は0に近いわけで、ためしにちょっと「念じてみようか」という気になる。「念じる」ことで払わねばならない代価はほとんどない。もし「念じる」ことによって回復が万一早くなれば儲けものだ、というわけだ。恐ろしいのは、いったん賭けに引き込まれてしまうと、その後だんだん掛け金が高くなっても引き返せなくなるポイントがあるということかもしれない。「真剣に念じないとだめなんだよ」「西洋医療にたよる気持ちがあるとだめだ」「この壺を使えば念波が増幅される」などなど...入れ込めば入れ込むほど後戻りはできなくなる。思い込みと振舞いこみが複雑に絡み合いながら、彼の想像と実存的状況を切り離しがたく連動させ始める。そのときには、もう当初の賭けの命題の真実性はどうでもよくなってしまう。賭けシステムへの入れ込みによって生活の秩序がささえられてしまっている。現実構成的想像によってもたらされる我々の「現実」というものが、もう賭けであったことすら忘れられた、こうした賭けのシステムだったのではないか、と疑ってみるのもよいかもしれない。
オカルト的想像は、現実構成的想像と表裏一体である。後者が、世界をある形で思い描き、可能性と不可能性の境界線を確定しようとするのに応じて、オカルト的想像はまさにその境界線上に出現する。それは現実構成的な秩序の想像に対してメタレベルで働く想像力であるともいえる。それはつねに過渡的、周縁的、そして相対的である。それが人々を自らが提供する賭けに入れ込ませ、かくして境界線の移動に首尾よく成功したときには、それはもはやオカルト的ではなくなっているかもしれない。
問題はこの過渡的、周縁的な想像力の形態が、ある特定の社会空間、ある特定の歴史的状況において、ときに激しく活性化したり、また逆に鎮静化していたりするかのように見えるという事実である。多くの人々を虜にし、呪縛し、それが切り開いた可能性と不可能性のはざまの広大な領域がもはや、現実を構成する想像にとっても無視できず、その存在、あるいは少なくともその可能性を自らの内部に織り込まざるを得ないほどに見える場合がある。他方、それがその社会空間に属するごく少数の周辺的なメンバーのあいだで稀に出現するだけにすぎないかのような場合もある。我々が問題にせねばならないのはこうした違いが何によるものなのかという問題であり、それは、あらゆる想像---ファンタジー的であろうと、現実構成的であろうと、オカルト的であろうと---が人々を捉える仕方、境遇=世界へのチューン合わせの実践と連動しつつ、また言説空間における他者とのコミュニケーションの回路を経由して、有無を言わさぬ力で人々を呪縛する仕方を特定の社会空間や歴史的状況との関係の中で明らかにすることである。
我々はコマロフ夫妻の問いを再び取り上げることができる地点にようやくたどり着いたと思う。コマロフ夫妻は「千年紀資本主義」という言葉によって、グローバル化という地球上のほとんどの社会にとってかつて経験したことのなかった新しい状況がもたらしたものについて語っている。それは、いたるところで世界についての想像のあり方の根本的な再編成をせまっており、現にさまざまな新たな想像力を解き放ちつつある。グローバル化の状況がもっとも過酷な姿をとっている周辺社会において、それはオカルト的想像力の、暴走とは言わないまでも、常軌を逸した噴出という形をとっているように見える。これが彼らの認識である。
周辺社会におけるオカルト的想像とグローバル化の関係を明らかにすることは、グローバル化が解き放とうとしている想像力の可能な姿についての洞察を手に入れる鍵となりうるのである。
グローバル化がもたらす想像力の変化については、大きく分けて二つの経路を考えることができる。一つは、それがもたらす異なる想像力の空間の交錯である。ある現実構成的想像に即した実践形態が、もう一つの現実構成的想像によって捉えられている現実の物質的・実存的条件に介入し、それを変質させてしまうことによって、それは後者の想像とそれが構成する現実との関係に変調をもちこんでしまう。ジェイムズの比喩を用いて言うならば、あなたがあなたの世界で何かを行ったことによって、私の世界の蝋燭の火が消えてしまう、いやそれはもはや蝋燭には見えないものに変貌してしまっている、といった具合である。しかしこうした変化---サーリンズが分析してみせたサンドウィッチ諸島とクックの航海との交錯によって生じた変化はこの種の変化の一例かもしれない---は、かならずしもグローバル化に固有のものではない。程度の差はあれ、つねにいたるところで繰り返されてきたプロセスである。グローバル化はこれを、はるかに大きな規模で急速におし進めている。
しかしながらこれとは別に、まさにグローバル化固有のかつてない経路での社会的想像力の変化とも言うべきプロセスがある。コマロフ夫妻が「オカルト経済と略取の暴力:南アフリカの脱植民地状況からの覚書」(Comaroff and Comaroff 1999)において、そして2000年の論集「千年紀資本主義と新リベラリズムの文化」において詳しく検討している社会状況を構成する諸特徴とその帰結は、グローバル化のこの新しい側面に注意を促している。
もちろんグローバル化という言葉は、さまざまな意味で用いることができるが(例えば、地球規模での人や資本の移動、生産や資本の地球規模のネットワーク、さまざまな文化要素の混交、単一の制度・理念・価値が世界中に広がっていくこと etc.)、自分たちの生活世界に対する人々の想像、思い描き方にもっとも深刻な変更を迫りつつある、そのもっとも中心的な特徴は、ギデンズがグローバル化の本質としてとらえコマロフ夫妻が繰り返し強調している一つの過程、ギデンズの言葉で「脱埋め込み化」と呼ばれる過程である。
ギデンズによると「グローバル化とは、ある場所で生ずる事象が、はるか遠く離れたところで生ずる事象を方向付けていくというかたちで、遠く隔たった地域を相互に結び付けていく、そうした世界規模の社会関係が強まっていくこと、と定義づけできる。」(ギデンズ 1993:85)このことの結果として「一定の場所に緊密に埋め込まれた関係性」としての秩序が成立しなくなる。これが脱埋め込み化である。
この脱埋め込み化は人々の現実構成的想像のあり方に大きな打撃を加えざるをえない。ローカルという概念に空間的な閉域性を想定するまでもなく、人々にとって秩序とはつねにローカルなものとしてつまり、ある種の関係性の閉域として思い描かれてきたからである。それは、あることをすればこうなる、あることをもたらすためにはこうすればよい等々の、一連の自明の実践的因果関係の閉域として想像されてきた。幸不幸の原因はこのローカルなシステムのうちにあり、そこでおこなったこととその結果とは、このシステムの中でトレースできる。脱埋め込み化とは、まさにこの秩序の閉域性そのものの解体を意味している。いまや、かつてならしかじかの結果を生んだはずの行為は、かならずしもその結果につながらない。はるか遠く離れた、知ることすら不可能などこかで生じる事象によって、それは予期できない仕方で左右されているからだ。因果関係はローカルな場で完結しない。人々を見舞う幸・不幸、運命の浮き沈みの背後に、閉じた意味連関を透かし見ることがますます困難になる。
コマロフ夫妻は、経済的な領域におけるこうした事態を千年紀資本主義の特徴ととらえる。富の産出と損失を生む過程がローカルなコンテクストではとうてい理解不可能な不透明なものになってしまう。「この富の謎、つまり、それがいったいどこからやってくるのかその不透明さ、それがいったい誰の手にはいるのか、その気まぐれさ、それがとる神秘的な形態、そのとらえどころのなさ、そこに埋め込まれた目的-手段関係の不透明さ」(Comaroff and Comaroff 2000:298)、こういった富の謎に対する当惑が世界に対する想像の再編成を促す。
コマロフ夫妻によると地球上のいたるところに蔓延しつつあるオカルト経済は、この富の謎に対する当惑への反応にほかならない。それは「実践的理性からみて通常のやり方ではない仕方での富の獲得」への誘惑と、そうした「呪術的な手段での価値の産出」に対する道徳的非難という二つの側面を持つ。オカルト的な実践の蔓延と、富の生産と配分の領域にグローバル化がもたらすローカルな閉域性の解体を、直接に結びつけるこの分析そのものの当否はわきにおくとして、グローバル化は、その脱埋め込みのプロセスによって、いたるところで人間の生活世界の秩序についての想像に、かつてなかった仕方で亀裂を生じさせていることは明らかであるように見える。現実的で可能なものと非現実的で不可能なものの境界は不安定で流動化する。それがオカルト的な想像力をかつてない仕方で解き放っている。グローバル化の物質的実存条件が、まさに「一連の当惑、想像行為、そして投機と思弁」(Comaroff & Comaroff 2000:298)を触発している。
こうした中で人々の境遇=世界に対する実践的チューンあわせとそれに連動した想像にどのような変調が生じつつあるのだろう。これらはまさに今後の詳細な研究の課題である。我々の社会的想像は、ますますほつれて不透明になりつつある社会的出来事のあいだの因果連関、幸不幸の配分と運命の浮沈、これらを再びわかりやすい全体にまとめるような手立てを手に入れることができるのだろうか。それとも生活はますます見通しの立たない投機とギャンブル、一攫千金の夢と転落のなかで翻弄されていくことになるのだろうか。オカルト的想像の研究は、グローバル化の脱埋め込みが、もっとも激烈にローカルの秩序の想像に打撃を加えつつある周辺諸社会において、こうした社会的想像の変調の動態を明らかにすることを可能にしてくれるかもしれない。そのなかでさまざまな新しい社会的想像がどのような形で出現し、どのような回路を通して人々を現実に呪縛し、人々の生活世界の中に根を下ろしていくのか、そのプロセスと機制を明らかにすることができるかもしれない。しかしそれは、われわれにとっての現実そのものを成立させている想像がいかに首尾よくわれわれを呪縛することができているのか、その仕組みを明らかにすることとともになされねばならないだろう。われわれ自身の想像力を含む多様で異質な想像の空間の、互いの蝋燭を消しあったり灯しあったりする間主観的な実践的交錯のただなかで。
(註1)また、こうした分析はしばしば、コンテクストを分析者自身の持つ概念や用語によって記述することには、まったく無反省である。それは人間の実践についてのコンテクストが、観察者によって対象的にアクセス可能なものではなく、当事者によって想像的に構築されているという特徴を持っている点に十分な注意を払っていない。この点については後に述べる。
(註2)もしアリーが言うように(Urry 2003)、近代化やグローバル化という概念自体が、その本性を充分究明されないままにブラックボックスのような概念として用いられてきたのだとするなら、われわれは結局、二つの曖昧な概念を繋ぎ合わせて、いずれについてもわかったような気になっていただけということになってしまうのだろうか。
(註3)こうした言い回しは枚挙に暇がないので、あえて特定の著者をとりあげるのは不適切であろう。ここで引用符に入れた二つの文章は、ともに最近コメントを求められて読む機会のあったある草稿からたまたまとったものである。
(註4)これは現実とのかかわりの中にいかに「幻想的な」要素がもぐりこんでいるかと言う、いわゆるイデオロギー批判の立場からする立論とは区別せねばならない。ここでは他ならぬ「幻想」そのものもその一部に包摂するような、広義の想像の問題へのアプローチが試みられている。
(註5)知覚において、実際には与件として与えられていない裏側の情報があるという認識自体、すでに知覚の対象が裏側をもったものとして立ち現れている(構成されている)という事実に基づいているのだという点にも注意したい。つまり「見えていないものが存在する」「見えているものがすべてではない」という事実自体が、我々が経験世界についてもつ想像=認識の一部になっている。
(註6)「構造」による拘束としてしられている事態を、この二つの拘束性の効果としてとらえることができるかもしれないという予想もたつのだが、それについては別稿で論じるべきだろう。
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