妖術と近代:三つの陥穽と新たな展望

1.はじめに

1990年代に入って、妖術信仰を始めとするアフリカのオカルト的実践についての研究が再びさかんになってきている。アフリカのオカルト的実践を植民地化以前の過去の伝統的な社会的コンテキストに属する実践であるととらえ、社会の「近代化」とともに消えていくべきもの、単なる伝統の残存のようなものとしてとらえる傾向があった従来の多くの研究に対し、90年代以降の新しいアプローチの特徴は、そうした実践を、近代化やグローバル化という新しい社会状況に対応したすぐれて近代的な実践、アフリカの現代というコンテキストにまさに属する実践としてとらえようとする点にある。

Moore & Sanders (2001:11)によると、社会変化を強調し、妖術を社会変化に対する反応と見ること自体は、新奇なものではないが、最近の研究は、それを現代性の一部、その構成要素として捉えようとしている点に新しさがあると論じる。またこうしたアプローチは、さまざまに異なる近代がありうることを認め、そうした多様な近代と妖術の関係を問題にしようとしているのである。

この5年ほど、私も大学院のゼミで繰り返し、これらの一連の試みを取り上げて検討して来た。ここでは、こうしたアプローチが往々にして陥りがちな3つの落とし穴に注意を喚起するとともに、この新しいアプローチのもつ最大の可能性の一つと思われるものについて、私なりの展望を述べたい。

2.三つの陥穽

まず3つの落とし穴について。これは妖術研究に限らず、人類学一般につきまとう陥穽でもあるのだが、昨今の妖術研究においては、とりわけ目立つものとなっている。この3つの落とし穴を、それぞれ(1)コンテクスト化の落とし穴、(2)解釈学的スタンスの誤謬、(3)意図性のショートサーキットの誤謬と名づけておきたい。

(1)コンテキスト化の落とし穴

コンテキスト化はフィールドワークをその作業の中心におく人類学的理解の基本戦略であったし、今後もその位置はゆるぎないだろう。人類学のフィールドワークは、博物学者たちの企てにその歴史的起源のひとつをもっている。彼らは取り寄せられた乾燥標本を相手にその生物種について研究するよりは、それが生きて行動しているセッティングで研究しようとした。その流れの中で人類学も、最初は人種を、次いで人々の慣行や制度を、それらが生きられているコンテキストのなかで、そうしたコンテキストとの関係において理解しようとしたものであった。コンテキスト化がほとんど人類学者の思考習慣となっていたとしても不思議ではない。

しかしこのコンテキスト化という作業が、人類学的理解にとってしばしば諸刃の刃となりうることにも注意すべきである。

ある制度、実践形態あるいは社会現象Xを理解するために、それがどのような状況において生起するか、誰がその当事者であるか、どんな現象がXと同時にみられるか、何がXに先立ち、何がそれに続くか、こういったことを知ることは重要である。しかしこういったコンテキスト化の努力のなかで、しばしば肝心のXについて、人はすでにわかった気になってしまう。肝心のXそのものが、どういう現象であり、何を特徴とし、それがどのような機制をつうじて成立し生起するかというまさに問題の中心部の解明が放置されてしまう。これがコンテキスト化の落とし穴である。

これは、妖術信仰を近代というコンテキストにおきなおすことが積極的に志向されている近年の妖術研究においては、とりわけ顕著である。

Moore & Sanders の論集に収められた多くの論文は、それぞれのやり方で妖術信仰などのオカルト的実践の背景となる社会状況について多弁する。妖術信仰は、資本主義化、グローバル化にともなう新たな不平等、貧富の差、経済的苦境等々に関係付けて論じられる。それはよい。だが、同時に肝心な問いが奇妙にも放置されているかのようにも見える。妖術信仰がいったいいかなるかたちで人々の社会的リアリティとなり、人々の想像力を呪縛しつづけ得るのか、つまりそれらがそもそも信じられ、実践されているというのはどういうことなのか、という問いである。当の実践の性格そのものが正確にわかっていないのに、それを状況のさまざまな変数といかに関係付けるかのみに腐心し、それを引き起こした背景についてばかり語り始めるというのは、どこかおかしいのではないだろうか。

(もしアリーが言うように、近代化やグローバル化という概念自体が、その本性を充分究明されないままにブラックボックスのような概念として用いられてきたのだとするなら、われわれは結局、二つの曖昧な概念を繋ぎ合わせて、いずれについてもわかったような気になっていただけということになってしまうのだろうか。)

コンテキスト化による理解が、当のXという現象そのものの根拠を問うことをなおざりにして追求されるとき、それはしばしば、Xとコンテキストを構成する諸要素とのあいだの隣接性をとおして、Xをこうした状況の諸特徴に対する単なるインデクス記号として扱うアプローチに行き着く。

これはかつて機能主義的な妖術研究がたどった道筋でもあった。マーウィックの研究に代表される諸研究がその例である。妖術告発が行なわれる人間関係が、その社会の構造の脆弱な部分に対応する構造的に葛藤が起こりやすい人間関係であることが示される。妖術の疑いや告発は、社会関係のインデクスであり、それを通じて、当該社会の社会構造と、それが内在する亀裂について研究することが可能になる。

こうした研究は、必ずしも妖術信仰という現象そのものについては多くを教えてくれない。妖術は相手に対し憎しみ妬みをもつ人間が行使するものであるとされている。妖術の脅威や疑い、告発の可能性がひそんでいるのが、したがってさまざまな葛藤を含んだ人間関係であるとしても、それは別にわざわざ教えてもらうほどのことでもない。告発それ自体が、争いの表面化した一形態であることは間違いないので、あらためて、その背後に争いを引き起こしやすい人間関係があったなどと言われても、少しも驚かない。それは実は「葛藤が起こりやすいような人間関係においては、けんかがおこりやすい」といったほとんどトートロジカルな内容以上のものを含まないものになってしまう。

こうした研究の反復は、この研究領域自体を陳腐化してしまった。

同じことは、それがもっぱらコンテキスト化の努力に集中している限り、新しい妖術研究についても危惧される。単にXがおかれるべきコンテキストが、伝統的な親族的世界から近代化によってもたらされた世界に入れ替わったというだけであるとすれば。こうした危惧は、Moore & Sanders 所収の多くの論文にすでに現実化しているように見える。近代化がそれぞれの社会にもたらした状況について、詳しい分析がなされている。新しい貧富の差、不平等、一方での失業や貧困の拡大と他方での一部の人々の不透明な富裕化などなど。一方の側からは、彼らの富裕化は怪しげな(妖術の)手段を用いて、自分たちの犠牲の上に成り立ったものとして想像され、しばしば妖術告発や集団的な殺人という過激な形をとって噴出する。他方では、富裕化したエリートたちは、一般の村人たちの嫉妬からくる妖術による攻撃を恐れる。こうしたなかで、双方で、妖術をめぐる、つまりその危険にそなえたり、反撃したり、防御したりといったことを含んだもろもろの実践が蔓延する。

ところで、社会の葛藤は、政治的・経済的利害の対立線に沿って生じる。この分析が明らかにするのは、近代化とともにこの対立線が推移したという事実である。新たな社会状況が、あらたな妬みや憎しみの温床を生んだといっているだけの話になる。こうした対立が常に妖術の想像力に絡み取られてきた社会においては、それがここでも再び、妖術というかたちをとったとしても何ら不思議ではない。かつての機能主義的研究におけると同様、喧嘩は喧嘩が起こりやすい関係において起こるというトートロジー以上のものは含まれていないことになる。

おまけに、それはそもそもなぜ、またいかにして、そうした対立が妖術というオカルト的な想像力に絡み取られてしまうのか、という最も根本的な問いそのものの答えは全く提供しない。その結果かえって、そこにアフリカ的なもの、伝統的なものを再び喚起してしまいかねない危険すらともないかねないことになる。

とはいうものの、妖術研究が、妖術そのものを主題化することから、その背後のコンテキストの解明に集中することによって、当の研究対象そのものをインデクス記号化してしまうとしても、つまりXの存在をそれが見出される状況についてのインデクス記号として扱う以上のものではなくなってしまうとしても、単にトートロジー的な陳腐な命題を反復することしかできなくなるという問題を別にすれば、そのこと自体には誤謬は含まれていない。

さらなる問題は、別のより深刻な取り違えがそれに結合するときに生じる。もちろんインデクスは記号の一種であり、記号として、まさにそれが指示するものを意味している。しかしこのインデクスとして意味するという関係、つまり「症候」の関係が、象徴として意味するという関係、つまり意味する実践・表現行為の結果として意味するという関係に取り違えられるとき、それは深刻な誤謬を含むことになる。

症候と象徴とは区別する必要がある。私の喉の痛みや炎症は、私が風邪を引いていること、私の体の中でのウィルスの跳梁跋扈について語っている。それは症候である。しかしこのことは、体の内部のウィルスの狼藉について、私が語っているということではない。私はそうした事態を表現しようと、喉を腫らしたわけではない。あらためて念をおすほどのことではない。

近年の妖術研究では、しかしながら、しばしばこの種の信じがたい誤謬が犯されてしまっているようにみえる。それはコンテキスト化が、人類学的理解のもう一つの落とし穴、解釈学的スタンスの誤謬と結びついた結果でもある。症候が象徴と勘違いされ、観察者にとってのインデクスに過ぎないものが、当の行為主体による象徴行為だと錯覚される。

(2)解釈学的スタンスの誤謬

解釈学的スタンスの誤謬は、人類学における最も深刻な錯誤のひとつである。それは人々の実践を、一種の言説行為のようなものに見立ててしまう。機能主義的妖術研究には見られない、近年の研究に顕著な特徴である。

Geschiere は「アフリカの人々は妖術のイディオムを通じて近代や国家、資本主義の関係について『語っている』」のだ(1988:37)と言う。それほど奇異に聞こえないかもしれない。われわれは、ここ20年ほどのあいだに人類学におけるこうした言い回しにすっかり馴染んでしまっている。とりわけ、これに類する陳述は、近年の妖術研究で繰り返されている。

妖術は、単に近代化によって活性化されたというだけではなく、これらの論者たちによると、資本主義やグローバル化がもたらした現状に対するメタコメンタリを提供している。例えばコマロフ&コマロフ 1993 によると、こうしたオカルト的な実践は、けっして変化を前にしての伝統的なものへの退行などではなく、新しい意識形態を作り出し、近代に対する不満を表現し、その歪さに対処する、新規な様式なのである。妖術にかかわる言説は、「地域的共同体、地域経済、国家体制、グローバルな市場がぶつかり合い、再編成されているプロセスというコンテキスト」のなかに見出される「近代とそれに対する不満についての最も洗練された儀礼的言説」なのだというのである。

Ciekawy & Geschiere 1998 も、妖術の語りがいかに雄弁にグローバルな諸状況について語っているかを論じた研究である。さらにEze によると「妖術の語りは、アフリカが現在直面しているポスト植民地状況についての語りであり、単にそれが想像的なものの領域に転置されているだけのことに過ぎない」。

こうした分析によると、人々は妖術について語りながら、実は彼らが直面している近代の不満、ポスト植民地状況について語っているのだというわけだ。

Moore & Sanders は2001年の論集の序文において「近代の一部であるということと、近代についてのものであるということは、論理的には同じではない。妖術は、あるいは一般にオカルトは、本当にグローバル化や近代に対する批判を提示しているのだろうか。妖術は本当に象徴的政治学なのだろうか」と述べて、こうした傾向に疑念を示している。編者たちが示すこの疑念は、しかしながら論集の基調を変えるまでには至らない。同じ論集の中で、たとえばラスムッセンが次のように述べるのをわれわれは見ることになる。

「妖術的諸力は、これらの(近代化、グローバル化等の)プロセスに対する土地の人々のローカルな知覚と、それらのプロセスに対する対処の仕方を示し、かくして、いわゆる『発展』についてのローカルなイディオムとなっているのである」

またShaw はアフリカのさまざまな社会に流通しているオカルト的な噂話について、それらが「植民地支配にともなう諸関係について議論し、評価し、註釈を加える一つのやり方を鮮やかに示している」と述べる。こうしたオカルト的噂に魅せられ自らその流通に手を貸すことによって人々は、植民地的諸関係について「コメントする」という行為を行っていることになるらしい。

かくして、ムーア&サンダーズ自身も、これらの議論を要約したうえで、妖術告発や儀礼的殺害は、資本主義経済化のなかで構造的劣位に置かれた人々の満たされない不満の表明であるし、ゾンビー化や吸血の噂話は、資本主義や近代化についての人々の創造的・道徳的理解(Moore & Sanders 2001:15)を示している、と断言せざるをえないのである。

しかし、ちょっと待ってほしい。現実には、人々は、隣人や見知らぬ誰かからの理不尽な攻撃の可能性を憂慮したり、現実に加えられたと思い込んで、それに憤ったり、それらに対して対処したり、隣人を告発したりといったことを行なっているわけだ。すくなくとも明示的には、そうした行為によってなにか、自分の世界理解を表明することを意図していたりするわけではない。とすると、上のような読み替え、人々の実践を一種の解釈行為、言説行為であるかのように読み替えることは、何によって正当化されるというのだろうか。

当の行為者の頭越しになされる、表現行為としての読み替え説明は、つねに限りなく胡散臭い。人々は口では表明していないのだが、実践を通じて、身体でそれを表明している、そしてそのメッセージはむしろわれわれ人類学者のほうが現地の人々よりも首尾よく読みとることができるのだ...こんなずうずうしい主張をまともに信じろというのだろうか。

なにがこうした主張をもっともらしい、またもっともな説明に見せているのだろうか。こうした説明に向かう傾向性は、未知の他者の実践に向かおうとする人類学に内蔵された傾向性といえるかもしれない。人類学者の目的は、一言で言うと、対象の社会なり文化なりについて知ることにある。そのためにフィールドワークに行く。そこで人々のさまざまな実践や、そこで起こる諸々の出来事を目にする。さて、人類学者にとって、これらすべては、理解という彼の目的にとっての、貴重な手がかりとして扱われる。つまりそれらを、ドゥルマ社会なりドゥルマ文化なりについて何かを教えてくれるもの、ドゥルマ社会について何か「語ってくれる」ものとして、とりあつかうわけだ。人々の実践ももろもろの出来事も、彼にとってはすべてドゥルマ社会について何かを語るものである。

しかし忘れてはならないのは、それはこうした実践や出来事の、「人類学者にとっての」あり方に過ぎないということだ。それを、それら実践や出来事の本来のあり方だと(うっかり、あるいは故意に)勘違いしたときに、解釈人類学的錯視が生じる。人類学者にとっての現象のあらわれ方を、それら現象の本来のあり方だと思ってしまう。

Xを近代化というコンテキストに関係付けて、コンテキスト化してとらえようとする。その努力の果てに、いつしかXをこうしたコンテキスト的な諸変数のインデクスとして眺めるようになっている。単なる症候的な関係に過ぎないこのインデクス的意味作用を、象徴的な意味作用と取り違えてしまう。その瞬間にXはこうしたコンテキスト的変数について『語るための』実践にされてしまう。単に人類学者の目にとってのみ、比ゆ的に、インデクス的に、それらは状況について『語る』ものにすぎなかった。しかしいまや、人々自身が状況について『語る』ためにそうした実践を行なっていることになってしまっている。こんな風に現象の本質を、人類学者自らの解釈的スタンスに合わせて、誤認してしまうこと、これが解釈学的誤謬である。

奇妙な例で申し訳ないが、仮に私に人前で鼻をほじる癖があるとする。それは私の生まれ育ちの卑しさを「物語る」症候・インデクスであるかもしれない。ここまでなら、おおいにありそうなことである。しかしさらに進んで、もし私がその行為によって自分の属する社会階層について「語っている」のだとされ、さらにそれが周囲の紳士きどりの連中に対する私の「抵抗」であるなどと言われた日には、私はそんな説明には断固として抗議しないわけにはいかない。症候を言表に勝手に読み替えないでほしい。

(3)意図性のショートサーキット

これは(1)と(2)と自然につながる、もう一つの語り口に我々を導く。人類学で近年きわめて馴染み深い語り口である。人類学者によって、近代化とグローバル化というコンテキストについて語るインデクスとして処理される妖術の実践は、まず、人々自身が彼らの置かれているそうした状況について語っている実践であることになったわけだが、次いで、その状況に対して人々が抵抗したり対処したりする実践でもあるとされることになる。

(2)と(3)の語り口は、コマロフ夫妻のすでに上げた引用にもみられるように、最初から並んで登場することも多い。彼らはポスト植民地状況における神秘的実践を「新しい意識形態を作り出し、近代に対する不満を表現し、その歪さに対処する、新規な様式」とみていた。

これらのオカルト的実践はしばしば、「近代とその諸帰結に対する懐疑的反応」(Luig 1999:13-14)として語られる。憑依の文脈でではあるが、Masquelier はニジェールにおけるDodoカルトについて、それを文字どおり資本主義に対抗する民衆の懐疑的反応だと分析する。

またBayart が言うには、妖術は噂や陰謀の、不可知の領域の存在によって特徴付けられるので、妖術のイディオムは、国家の権威の支配の及ばない想像的な空間を作り出すことになる。それゆえ、妖術は民衆にとっての国家に抗する政治の場になると言うのだ。妖術が現実的な脅威と考えられているところでは、人々が、自らの身に降りかかる不幸を憂慮し、隣人の妖術をおそれ対抗しようとしたとしても、無理もない話しである。しかし、そうすることによって、なんと人々は国家に抵抗していたことにされてしまう。

こうした語り口が、もっとも普通にみられるのは、もしかすると日本の人類学界においてかもしれない。「妖術は、状況に応じて意味をやりくりしながら、人々が近代を飼いならしていくことを可能にしていく機制として考えることができる」とか、人々は「資本主義が引き起こす不安定な状況を、(平均化もさせれば、蓄積もさせる)妖術の『曖昧な力』によって乗り越えている」といった断定に、我々はすっかり耳馴らされているような気がする。

この種の語り口に含まれている誤謬は、しばしば実に馬鹿げたものでありうる。

事実レベルでは、妖術をめぐる実践は人々のまさに目先の問題(病気やさまざまな不幸、特定の隣人から行使されていると判明した攻撃に対する防御、反撃など)に対処する実践以外のなにものでもない。これらの一連の主張は、こうした人々にとっては目先の問題に対処する実践を、彼らは自分たちを見舞うより大きな社会変動なるものに対処しているのだ、と読み変えるているわけだ。

もちろんその目先の不幸はその原因をたどれば、結局はグローバル化や近代化という変化のもたらしたものということになるのだろう。コンテキスト化によって、そうした関連は明らかにされているとしよう。しかし単にそうした因果関係の事実は、上のような読み替えを正当化するものではない。

泥棒に備えて戸締りを厳重にするという行為は、泥棒の増加に対処する行為であるとはいえる。そして泥棒の増加はたとえばIMFの構造調整政策の結果だとする。しかし、だからといって、戸締りを厳重にする行為が、IMFの構造調整政策に対処する行為だとは言えないはずだ。

妖術師の現実的な危険にそなえて、いろいろ対処している人に対して、あなたがたは近代化に対抗しているのだとか、それを飼いならそうとしているのだとか言ってみればよい。当人たちは目を白黒させるだけだろう。

これが意図性のショートサーキットと私が呼ぶ誤謬の形態である。
コンテキスト化にともなう状況の諸変数と、特定の実践Xとの隣接的関係を、単に無理やり「意図性」の関係に、つまり動機や目的の関係に読み替えてしまっているだけの話なのである。

(4)まとめ

付け加えるまでもないと思うが、私は人々の実践をインデクスとして読み解いたり、言説行為に読み替えたり、あるいは明示されない意図性や目的性と関係付けたりすることが、つねに無効であると言うつもりはない。しかし、そうする際には、それが単に上で指摘した陥穽と誤謬によるものではなく、正当な理由があることを示す必要がある。残念ながら多くの研究において、それはなされていない。

上で述べた3つの陥穽は、単なる落とし穴というよりは、その独特の魅惑によって人を誘惑する罠でもあるので、特に注意をはらう必要がある。

コンテキスト化自体は、人類学の中心的なスタイルであって、それを放棄するのは得策ではない。しかし、それはコンテキスト化される当の現象そのものの本性とその成立機序の追求と平行してなされる必要がある。その現象がコンテキストとしかじかの関係で結びついている、まさにその原因は、その現象の成り立ちの解明自体の中に求められるはずなのだから、それはむしろ不可欠な手続きのはずなのだ。

3.妖術と近代:新しい展望

近代化やグローバル化のコンテキストに直接かかわるものとして妖術信仰をとらえようとするこれら一連のアプローチは、では、どのような新たな展望を開いているのだろうか。ここではコマロフ夫妻の一連の提言が提示している、妖術現象の本性についての洞察と、それがなぜグローバル化の状況の一部となっているのか、その両者の結びつきをめぐる着想に注目し、その可能性の一端を示したい。

コマロフ夫妻の議論そのものは、上で批判した3つの語り口の特徴をすべて備えている。にもかかわらず、それは同時に、そうした批判によっていっしょに葬り去るわけには行かない魅力的な洞察を含んでいる。

やや強引に私自身の関心に引きつけて述べれば、それは妖術信仰という社会的想像力の一形態を、それを触発する物質的状況と関係付け、それによって、その種の想像力の本性に新たな洞察を加えるきっかけを提供している。

具体的には、それはグローバル化という地球上のほとんどの社会にとって新奇な経験であるものが、周辺社会においてとる過激な形態と、オカルト的な想像力の活性化をポジティヴに結びつけることによって、われわれの社会的想像力の一部を形づくるその種の想像力の本性に我々の注意を喚起している。

(1)現実と想像力

妖術信仰、あるいはオカルト的な思念を、想像的なものと述べても、あまり奇異な感じはしないだろう。ただ、「想像」という言葉のここでの私の使い方には、若干の註釈が必要かもしれない。

「想像」という言葉には、しばしば現実との対比において、非現実的なものを指すという使い方がある。想像上の生き物といえば、現実にはいない生き物のことだ。想像の共同体などというと、存在すると想像されているだけで実はなんの実体もないような、どこか虚構めいた存在を思い浮かべてしまう人もいたりする。現実が人の主観的な想像によっては左右できないもの、人の思いとは独立に外在するなにかだと考えられている一方で、想像はもっぱら個人のほしいままに任意に行使できるなにかだと考えられている。

しかしここでは「想像」を、「思い描くこと」というより広い意味で用い、必ずしも反事実的、非現実的というその特殊な含意では用いないことにする。そうすることによって、むしろ私は、われわれのいうところの「現実」が、いかに「想像」的に作り上げられているかを強調したい。

人々にとっての「現実」とは、結局は、人々が、自分たちが生きている世界をどのようなものとして「思い描」いているかに他ならない。その世界の中で自分や他の人々はどういう存在であるのか、そこでは何が可能で、何が不可能であり、自分に、あるいは他者に何が出来、何ができないのか、つまり何が現実的であり、何が反実的であるのか、こうしたことに関する一連の想像から人々のリアリティは成り立っている。そして人間は、自分にできると思うこと、すべきだと思うことをやろうとし、不可能だと思うことはやろうとしないものなので、こうした想像が、実際に何が社会的に生起しうるかを大いに規定している。

(ある意味でこれは、普通「認知」とか「認識」と呼ばれていたものに近いのだが、これらの言葉は、外部の実在的対象のまえもっての存在をどうしても想定させ、その結果、正しい認知や誤った認知について語る気にさせてしまう。「想像」という言葉は、人々の世界に対する「思い描き」のもつ、より大きな相対的自律性--それ自身のいわば「文法」や「論理」に内的に部分的に拘束されている--と、その柔軟性--その物質的、内的拘束からの逸脱可能性、修正可能性--を表すのに、より適切である。)

しかし同時に、このような想像があきらかに、われわれが「想像」という言葉に往々にして結び付けがちな、根拠のない妄想や夢想、心のほしいままに自由に膨らませることができる想念、任意で主観的な精神的活動とは別物であるという点も、強調しておかねばならない。それは外部の物質的実在の単なる転写であったり、それによって決定されてしまっているわけではないとはいえ、その制約をうけ、あるいはそれに触発されている。同時に、想像力は社会的インタラクションやコミュニケーションの回路を通じて形成され、それらの拘束を受ける。その結果、われわれにとっての現実を作り上げているこうした想像は、ある意味で強いられた想像となっており、人はその呪縛のもとではまさに現実をそのようなかたちで思い描かないわけにはいかないのである。例えば民族が「想像的」なものだということは、それが単なる虚構であり、そう考えないことにしさえすれば雲散霧消するような非現実的存在だということではない。民族は、自分と他の成員、自分と集合体との絆が、どんな風にどんな仕方で思い描かれているか、それによって支えられている共同性であるが、同時に、人はしばしばその絆をそのように思い描かざるをえないという意味で、そして現実に人がその想像に即して振舞い、そのことを通して想像が現実的な効果を常に生み出しつづける結果として、あくまでもきわめてリアルな存在、その虚構性を知りさえすれば消え去ってくれるような亡霊などとは程遠い実体として経験される。

人々の社会的現実を理解する上で問題となるのは、現実的なものを生成させるこうした非任意的で強制的な想像力、つまり、好むと好まざるとにかかわらず現実的なものとして人々をとらえて離さない想像力なのである。その産物は、民族やその他の概念に典型的にみられるように、あくまでも想像的なものではなく現実的なものとしてしか意識されえないし、また個人によって自由に作ったりキャンセルしたりできるものでもありえない。私はこうした想像力のあり方に関心を抱いている。

(2)オカルト的想像力

妖術信仰を特徴付ける想像力のあり方を、一応ここではオカルト的な想像力と呼ぶことにしたいが、それは上述の社会的想像力の内部にあって、特殊な位置をしめる想像の領域である。

我々が世界をどのようなものとして思い描いているか、何を可能で現実的なものとして、何を不可能でありえないものとして思い描いているか、これらは我々の秩序の想像に属している。オカルト的想像力は、この可能と不可能の境界線の上に働く想像力だと、とりあえず考えておこう。それはファブレ=サーダが妖術の語りについていみじくも述べているように「そんなことがありえるはずがない。でももしかしたら...」で特徴付けられるような広大な空間をそこに出現させる。

非現実的で、ありえないもの、「夢のようなこと」を現実の領分に招き入れる想像力、可能性と不可能性の境界線を外に向かって押し広げようとする想像力であるという点で、オカルト的想像力はある奇妙な仕方で科学的想像力に類似する。ともに可能性と不可能性の境界線の上に働き、そこで戯れる想像力なのである。

秩序を構成する想像力の内部には、何をすればどうなる、こうなるためにはどうすればよいといった実践的な連関、自明であたりまえのことの成り行きに対する想像が含まれている。オカルト的想像力は、こうした秩序が知らないやり方で、秩序の想像力がみとめない連関の実現を夢想する。「私たちは知らないが、もしかするとあることをすればそれは実現するのだ」「どうしてかよくわからないが、あることをすればそうなることもありえるのだ」

オカルト的想像力は、秩序の想像力と表裏一体である。秩序の想像力が、世界をある形で思い描き、可能性と不可能性の境界線を確定しようとするのに応じて、まさにその境界線上にそれはつねに出現する。それは秩序の想像力に対してメタレベルで働く想像力であるともいえる。

しかしそれが人々を虜にし、呪縛し、可能性と不可能性のはざまの広大な領域を切り開き、さまざまな程度において秩序の想像力の内部にすら浸潤し、そこに根を下ろしてしまう場合がある。我々が問題にせねばならないのは、それがどういう時に、どういうプロセスで起こるのかという問題である。

(3)想像力の物質性

社会的現実を支える想像力は、その物質的基盤からの相対的自律性によって特徴付けられるが、一方では、ある種の物質性に根ざしてもいる。それが社会的想像力に奇妙な柔軟性を与える。それがもっとも目立つ形で示しているのが、新しい技術の登場が「予測不可能な仕方で」新たな想像力を触発し解き放つといった場合である。B・アンダーソンが「想像の共同体」の中で論じた事例はあまりにも有名である。印刷メディアの普及が(それ単独でではもちろんないが)ある境界を持った空間の内部の互いに未知の人々のあいだに一つのネーションという共同性の絆を想像することを可能にした。シヴェルブシュは「鉄道旅行の歴史」のなかでイギリスにおける鉄道網の発達によって始めて可能になった一つの想像について語っている。19世紀のイギリスにおいては各都市はそれぞれ異なる時間を持っていた。それぞれの時間をシンクロさせる手段もなかったし、そもそもそうすることを「考え」すらしなかった。しかし鉄道には運行ダイヤが、したがってすべての都市で同じ一つの時間が流れていることが必要であった。それは各都市で流れる異なる時間を可視化した。そしてその対策として、ロンドンであわせられた時計が列車につまれて各都市へ運ばれ、そこの時計を合わせたのである。こうして初めてイギリスの各都市で同じ時間が流れるようになり、各地域が同じ時・空間に属したものとして思い描くことが可能になったのである。今日の携帯電話やインターネットの普及に見られるように、新たなメディアやコミュニケーション手段の登場は、新しい社会空間に対する想像力を解き放つ。それがどのようなものであるか、現時点では正確には予測不可能であるとは言え。

単に新しい技術だけではない。ありとあらゆる変化は、予測不可能な形で、新たな想像力を解き放ちうる。それは社会的現実の根本的な変質をもたらしうるし、それはさらに想像力の世界に乱反射する。近代とは、こうした乱反射がめくるめく地すべり的な地殻変動を引き起こした時代であったともいえる。

これが単なる下部構造決定論、技術決定論になりえないのは、想像力の変化へのつながりの「予測不可能性」のゆえである。

(4)グローバル化の想像力

グローバル化という地球上のほとんどの社会にとってかつて経験したことのなかった新しい状況は、世界についての想像のあり方をどのように再編成しつつあるのか、どのような新たな想像力を解き放ちつつあるのか、あるいは今後解き放とうとしているのであろうか。我々はコマロフ夫妻の問いにようやくたどり着いた。グローバル化の状況がもっとも過酷な姿をとっている周辺社会において、それはオカルト的想像力の、暴走とは言わないまでも、常軌を逸した噴出という形をとっているように見える。 両者の関係を明らかにすることは、グローバル化が解き放とうとしている想像力の可能な姿についての洞察を手に入れる鍵となりうるかもしれない。

コマロフ夫妻は 1999 のAmerican Ethnologist の論文、ついで2000年の論集Millennial Capitalism and the Culture of Neoliberalism において、その状況を構成する諸特徴とその帰結について、「千年紀資本主義」という概念のもとで詳しく検討している。

グローバル化という言葉は、さまざまな意味で用いられているが(例えば、地球規模での人や資本の移動、生産や資本の地球規模のネットワーク、さまざまな文化要素の混交、単一の制度・理念・価値が世界中に広がっていくこと etc.)、自分たちの生活世界に対する人々の想像、思い描き方にもっとも深刻な変更を迫りつつある、そのもっとも中心的な特徴は、ギデンズがグローバル化の本質としてとらえ、コマロフ夫妻が繰り返し強調している一つの特徴であろう。

ギデンズの言葉を用いれば、グローバル化とは「脱埋め込み化」の過程である。

「グローバル化とは、ある場所で生ずる事象が、はるか遠く離れたところで生ずる事象を方向付けていくというかたちで、遠く隔たった地域を相互に結び付けていく、そうした世界規模の社会関係が強まっていくこと、と定義づけできる。」
その結果、「一定の場所に緊密に埋め込まれた関係性」としての秩序が成立しなくなる。

ローカルというのは相対的な概念で、かならずしもなんらかの特定の規模の場所を指し示しているわけではないが、にもかかわらず、秩序はつねに関係性のその場所の内部で完結した閉域として思い描かれている。あることをすればこうなる、あることをもたらすためにはこうすればよい、こうした自明の実践的因果関係の閉域として想像されている。幸不幸の原因は、このローカルなシステムのうちにあり、そこでおこなったこととその結果とは、このシステムの中でトレースできる。

しかしいまや、かつてならしかじかの結果を生んだはずの行為は、かならずしもその結果につながらない。はるか遠く離れた、知ることすら不可能などこかで生じる事象によって、それは予期できない仕方で左右されているからだ。因果関係はローカルな場で完結しない。

人々を見舞う幸・不幸、運命の浮き沈みの背後に、閉じた意味連関を透かし見ることはますます困難になる。

コマロフ夫妻は、経済的な領域におけるこうした事態を千年紀資本主義の特徴ととらえる。富の産出と損失を生む過程がローカルなコンテキストではとうてい理解不可能な不透明なものになってしまう。「この富の謎、つまり、それがいったいどこからやってくるのかその不透明さ、それがいったい誰の手にはいるのか、その気まぐれさ、それがとる神秘的な形態、そのとらえどころのなさ、そこに埋め込まれた目的-手段関係の不透明さ」(2000:298)、こういった富の謎に対する当惑は、世界に対する想像の再編成を促す。

コマロフ夫妻によると地球上のいたるところに蔓延しつつあるオカルト経済は、この富の謎に対する当惑への反応にほかならない。それは「実践的理性からみて通常のやり方ではない仕方での富の獲得」への誘惑と、そうした「呪術的な手段での価値の産出」に対する道徳的非難という二つの側面を持つ。

この分析の当否はわきにおくとして、グローバル化は、その脱埋め込みのプロセスによって、人間の生活世界の秩序についての想像に、かつてなかった仕方で亀裂を生じさせている。

現実的で可能なものと非現実的で不可能なものの境界は不安定で流動化する。それがオカルト的な想像力をかつてない仕方で解き放っている。

我々の緊急の課題は、地球規模で我々の秩序をめぐる想像力が大きく変化しようとしているこの時点において、それがどのような形をとり、どのような場合にどのような回路を通して人々を現実に呪縛し、人々の生活世界の中に根を下ろしてしまうのか、そのプロセスと機制を明らかにすることである。


m.hamamoto@anthropology.soc.hit-u.ac.jp