屋敷の壊し方(2):追い越しと後戻り

違犯と不幸 のなかから、屋敷内の序列関係と、それを逆転させることから災厄が生じると いう語り口の部分を取り出して整理するとともに、実際のドゥルマの人々の語 りを引用しつつより詳細に分析したもの。興味のない人にはますますくどいば かりのものでありうる。また、この論文はもっぱら記述的な性格をもっている。
html化 01/07/98
最終更新 04/07/98

要旨

ドゥルマの人々のあいだで流通している構造的比喩--それを通してある経験領 域が思考や行動の対象として客体化するような体系的な語り口--として、「追 い越す」「後をついていく」「先を進む」「後に戻る」「道をあける」といっ た一連の言い回しがある。もちろん、文字どおりに空間的な移動について語る 言葉でもあるが、それは屋敷内での人々のさまざまな実践の相互の関係を語る 言葉でもある。これら一連の語り口が組織化しているのは序列としての屋敷内 での秩序の経験である。
この論考については、これら一連の語り口が可視化する屋敷の序列関係とそれ をめぐる秩序のセンスについて分析する。

目次

  1. 序列の語り口
  2. 人の序列 -- 二者関係としての
  3. 序列のグローバルな構造
    1. 結婚順
    2. 屋敷の移転における序列
    3. 服喪後の性関係の再開
  4. 結論

序列の語り口

 たびたび耳にする一連の語り口が、この地方での屋敷(mudzi)の内部にお ける人間関係の一つの特徴に繰り返し注意を向けさせる。「先を進む (ku-longola)」、「ついていく(ku-tuwa)」、「順に進む(ku-longozana、 ku-tuwizana)」、「追い越す(ku-chira)」、「(道をあけて)通してあげ る(ku-phisa)」、「とり残される(ku-richwa)」、「後ろに戻る (ku-uyira nyuma)」、「上位を返してあげる(ku-udzira uvyere)」などの 一連の言い回しがそれである。ある人はある人に対して「先を進」んでいなけ ればならない。が、ときには「追い越」されてしまうこともある。その後、彼 が「後ろに戻」ってしまうと、さまざまな問題が起ってしまう。こういった語 りが、この一連の言い回しによって構成される。

同様な日本語の表現が比喩的に用いられることなら我々にもお馴染であり、 こうした語り口が文字通りに空間的な移動について語っている訳ではないと知 らされたところで誰も驚かないに違いない。それどころか、それらが人々のあ いだの権威や行動における序列関係についての表現だろうと類推することすら 自然であろう。そして確かに基本的にはその通りなのである。ただ、キドゥル マの語り口では、人は娘に対して支払われた婚資(mali)を「追い越」したり、 服喪(hanga)を「追い越」したり、自分が産んだばかりの子供を「追い越」 したり、家畜を「追い越」したり、病気の際に施された治療すら「追い越」し たりもできてしまうので、これらの表現がある種の序列関係について語ってい ることは確かであるとしても、それで簡単にわかってしまった気になるわけに はいかない。こうした語りが可視化する序列関係の性質について、本稿では検 討しよう。すでに別稿で論じた「まぜこぜにする」という言い方の意味も、そ れによってさらに明確になってくるだろう。

ここで「追い越す」という訳語をあてた動詞クキラ(ku-chira)にはさまざ まな意味がある。「追い越す」「通りすぎる」といった空間的移動を指す以外 に、能力などで一方が他方を「凌駕している」という意味でも、あるいはなん らかの企てに「成功をおさめる」という意味--試験について用いられると「合 格する」という意味になり、まったく英語の pass と同じ用法になるが--でも 用いられる。こうした訳語のいずれでもしっくり来ないのが、ここで検討する 婚資や家畜を「追い越す」といった一連の語り口である。この論考では人を 「追い越す」という比較的分かりやすい問題から始めよう。

人の序列--二者関係としての

 「追い越し」たり「後ろに戻」ったりが問題になる人間関係、つまり「順序 (mulongozano)」が問題になる人間関係は、屋敷内の人間関係のうちでももっ ぱら同性の者どうしの関係である。具体的には、父と彼の任意の息子との関係、 母と娘との関係、男の兄弟どうし、あるいは女の姉妹どうしの関係、一人の夫 の妻どうしのあいだの関係、妻と彼女の夫の母親との関係がそれに当たり、 「追越し」や「後戻り」はこれらの関係のそれぞれの内部においてのみ問題に なる。屋敷の内部の人間関係は、こうした順序づけられた、あるいは序列づけ られた人間関係--それぞれは互いに独立した系をつくっているところの--が組 み合わさってできあがったものと見ることが可能である。

 序列という言葉を用いはするものの、それを屋敷内の権威をめぐる上下関係 と混同してはならない。ここで言う序列と権威の上下関係は、部分的には重な る部分があるものの、まったく別物であると考えたほうがよい。権威の上下関 係であれば、なにも同性どうしの関係に限定される理由はない。一方、夫の妻 に対する、あるいは父親の娘に対するまぎれもない権威的上下関係については、 「追い越す」とか「後ろに戻る」とかが問題になることはけっしてないのであ る。

 序列に対する顧慮は日常生活のさまざまな場面で示される。一人の男の二人 の妻と同時に浮気するときにも、必ず上位の妻から順番に関係をもたねばなら ないなどという冗談のような話まである。単なる序列への配慮とすれば馴染み 深い光景だろうか。たしかに私の周りの世界も、序列にこだわるという点だけ では、けっして負けてはいないところがある。しかし「ドゥルマのやり方」に おける序列へのこだわりの中に、上位の者の対面や面子に対する顧慮だけを見 てとるとすれば的外れである。権威や対面や面子は、序列をめぐるこのゲーム の賭け金にはなっていない。すぐに明らかになるように、ここでの賭け金は、 むしろ人々や屋敷の健康と豊穣性なのである。上の浮気の例ですら、序列に気 を配るのは相手の女性の健康を配慮してのことだ。

序列に対するこだわりにおいてまずわれわれの注意を惹くのは、そこでは下位の者よりもむしろ上位の者の行動に大きな制約が加えられているという事実である。これもこうした序列を、権威や面子の用語で考えることをためらわせる。

例えば我々は別の論考において水甕と妻との結びつきに触れた際にこの問題に言及していた。夫 に複数の妻がいる場合、それぞれの妻は他の妻の水甕の内側を洗浄 (ku-tsukutsa)してはならないとされている。しかしこの禁止は上位の妻と 下位の妻に対しては、それぞれ別様に働いている。上位の妻が下位の妻の水甕 を洗浄することは「彼女にはなしえない(kaidima)」「不可能な (kavidimikika)」行為であると語られる。それは彼女が「後ろに戻る」よう なもので、その行為は彼女自身の健康と豊穣性を危険にさらすのだという。一 方、下位の妻が上位の妻の水甕の中を洗ってしまうことは、彼女が上位の妻を 「追い越」すことだと語られる。それは「よくない(vii)」、つまり非難さ れるべき行為であるかも知れない。しかし彼女がその結果、何らかの健康上の 危険にさらされるという訳ではない。それどころか「追い越し」の結果として、 その水甕は下位の妻のものになってしまうというのである。上位の妻は二度と その水甕を洗うことができなくなる。上位の妻がふたたびそれを使用すること は、彼女自身の健康と豊穣性を危険にさらす「後ろに戻る」行為になってしま うからだ。

 穀物貯蔵庫(chitsaga)に関してもまったく類似した禁止(mviga)がある。 穀物貯蔵庫は、それぞれの妻の小屋の内部の炉の上の空間に設置されている。 各妻は各自で耕す自分自身の畑(koho)の収穫物をそこに保管する。妻たち全 員によって耕される夫の畑(dzumbe)の収穫物は第一夫人の小屋の穀物貯蔵庫 に保管される。大きな問題になるのは、この第一夫人の穀物貯蔵庫である。下 位の妻がそこに上がってしまうことは「よくない」ことである。 それによって下位の妻は上位の妻の権利を奪うことになる。しかし上位の妻が下位の妻の穀 物貯蔵庫に上がることは「できない」ことである。それがもたらす災いを、キ ティーヨ(chitiyo)つまり「まぜこぜ」の結果の災厄として語る人もいる。

「妻とその僚妻(mukakazi)との場合、下位の妻(muche muvaha)がもし上る と、上位の妻(muche muvyere)は二度とそこに上らない。(問い:もし再び 上位の妻が上ってしまうと?)下位の妻が上ってしまったのに、それを上位の 妻に告げなかったというのかい?(註1)上位の妻がもし上ったら、彼女は 落っこちるかもしれない。落っこちて、腰を痛める(chibiru kutoka)かもし れない。そうしたらヒツジの腹を穿たないとならなくなる(註2)。それ はキティーヨ(chitiyo)だ。上位の妻は下位の妻の穀物貯蔵庫にはけっして 入らない(kaphenya kamare kamare)ものだと言うじゃないかい。」

穀物貯蔵庫の禁止は、義理の母と息子の妻とのあいだでも問題になる(註3)。

「義理の母(mevyala)の穀物貯蔵庫に上っちゃいけない。それは過ち (makosa)だよ。義理の母自身がおまえに与えてくれるまではね。『ああ、私 の神経(mishipa)もすっかり年老いてしまった。』というわけで息子の嫁 (mukaza mwana)に道をあけて通してやる(ku-phisa)ときが来る。『ああ、 これまで私には人がいなかった。そんなわけで私自身で上っていた。でも今や 私には息子の嫁がいる。彼女に道をあけて(kuphisa)やろう。彼女に上らせ よう。私はもう結構。二度と上りますまい』さあ、彼女はもう二度とそこに上 らない。その中を覗くことさえしない。でも(こうした許可を得る前に)息子 の妻がものを知らない(kagamanya)女で、義理の母の不在中にそこに上って しまう。で、(その事実を知らずに)義理の母も相変わらず穀物貯蔵庫に入り つづけている。ああ!お前は義理の母を殺しているようなものだ。さあ、(冷 やしの)施術師を探しておいで、施術師を呼んで冷たい木で冷やしてもらわな ければ。」(註4

水甕にせよ、穀物貯蔵庫にせよ、下位者が上位者のものを使用すると、下位 者は上位者を「追い越」してしまったことになり、その結果としてそれは下位 者のものになってしまう。それは言わば権利の侵害にあたり、「よくない」あ るいは「分別のない(ku-tsowa akili)」行為として非難されうる。しかしそ のこと自体が何らかの具体的な災いの引金になるわけではない。上位者が下位 者に「道をあける」ことによって、そうなったのなら、それは権利の侵害にす らあたらない。一方、上位者が下位者のものを使用することが「不可能な」 「なしえない」行為であるのは、そうすること、つまり「後ろに戻る」ことが 上位者自身に災い--主として健康にたいする危険--をもたらすからである。こ れが屋敷の中で序列関係が定式化される基本構文である。ここで働いているの は、権威の上下についての顧慮だけではなく、あきらかに人々の健康に対する 顧慮の方である。

同性の二人の序列についてのこの基本構文が、屋敷内のさまざまな行為や事 物をめぐって--この論考でそれが飽きもせずに反復されているのが些細なこと に思えるほど--なんどもなんども反復的に適用される。

例えば兄弟が互いの小屋を使用できるかどうかについて。

「兄は弟のところには入らない。弟の小屋は兄によっては入られない。薪です らそうだ。兄や父親はそれを使って暖をとってはならない。(問い:小屋を解 体したときの話ですか?)そう、小屋を壊して薪が出る。弟の小屋の(を解体 して出た)薪を兄がもっていってはいけない。(問い:小さい子供でも?)あ あ?独身者は問題ない。もし結婚したら、入らない。」
「お前の兄、結婚しているとしてごらん。彼がやってきてお前の小屋を欲しが るとする。もしお前がまだ結婚していなければ、彼は妻といっしょにお前の家 に入ることができる。でもお前がもし結婚していれば、彼はけっして入らない。 絶対に。しかし、お前の兄の小屋、もしお前がそこにお前の妻といっしょに入 り、妻といっしょにそこで暮すとしよう。お前の兄は、二度とそこには帰らな い。」
「例えばこの小屋にしても、もしこれが私の弟の小屋で、弟には妻がいるとし よう。私にはそこは不可能(tsiyidima)だ。(小屋に使われている)木その ものが私には不可能だ。弟の小屋の(屋根を葺いている)草も、木もどれもこ れも、私が小屋を作るのには使えない。もしそれをもってきてしまったら、お 前は自分の屋敷の中に『まぜこぜ(makushekushe)』を持ち込んだことになる。 しかし...例えば私がこの小屋を空けるとする。たぶんあっちの畑のところの 小屋で暮そうと。そして私の弟がやってきて、(空いている)私の小屋を欲し がる。彼には妻がいる。さて、彼はただ入ってくる(unaphenya tu)。何の問 題もない。だって彼は私の弟なんだから。何の問題もない。彼はそこで寝るこ とができる。しかも妻と二人で。でも私はもうそこへは戻らない。後には戻ら ない。二度と。(問い:もしもう一度そこに入ってしまったら?)ああ!施術 (uganga)がうんと必要になるだろうよ。私たちには健全さ(uzima)はなく なってしまうだろう。あるいは生れた子供が育たない。」

兄と弟について言える上のような関係は、父と息子のあいだについてもそのま ま当てはまる。これらの語りはすべて、上で述べた基本構文を反復している。 しかしそこからは、序列へのこだわりにおいて当事者が既婚であるか未婚であ るかの区別が、顧慮すべきもう一つの要因になっていることもわかる。問題に なるのはあくまでも既婚者どうしの「追い越し」や「後戻り」であるように見 える。

寝台(chitanda)や寝茣蓙(kuchi)の使用についても同様である。父や兄の 寝台を既婚の息子や弟が使うと、その寝台はもはや父や兄には使用不可能とな る。逆に息子や弟の寝台は、彼らが未婚であれば父や兄によっても使用できる が、弟がすでに結婚している場合には、絶対使用できない。しかし既婚/未婚 の区別がなぜ重要なのだろう。

「もしお前が父親の寝台で寝ると、それは大きな過ち(makosa)である。そこ でお前がお前の妻と寝るなどと、とんでもないことだ。お前一人で寝るという のならまだしもだ。しかしもしお前に妻がいて、お前がその妻とお前の父親の 寝台で寝ると、お前は父親を追い越してしまったことになる。とんでもないマ ブィンガーニだ。なぜなら(その事実を知らずに)父親がまたその寝台を使っ てしまうだろうから。兄も弟の寝台で寝ることはできない。なぜなら弟は兄の 寝台で寝てよい者であるが、兄はちょうどお前の父親のようなもの、けっして 弟の寝台で寝ることはできない。兄が弟のところへ行って、自分の妻と寝る。 何日ともたないだろうよ。ヒツジが必要になる。」

既婚/未婚の区別において、実際に問題になっているのが当事者たちの性行為 であることがわかる。父や兄も、息子や弟が未婚であればそのベッドや寝茣蓙 を使用することができると普通には言われる。しかしこれは正確ではない。息 子や弟が未婚であり、しかも彼らがそれらを自分たちの密かな性関係の目的で 使用したことがないと確信できるなら、というのが正確な条件なのである。 「お前の弟に妻がいないなら、まだましだ。お前は弟の小屋で寝るだろう。で もそれだって良くないことには変わりない。お前はお前の弟(が屋敷にこっそ り恋人を連れ込んだことがないということ)を信じられないのだから。」だか らこそ、すぐ上の発言のように、兄が弟の寝台で寝ることを無条件に良くない とする見解にも、一理ある。それは用心深さのあらわれである。一方弟や息子らが既 婚であれば、彼らが普段から性行為を行なっていることは当たり前の話だ。こ れが父や兄による使用を、健康に危害を及ぼす「後戻り」の行為にする。 ある行為が決定的な意味で「追い越し」や「後戻り」になるのは当事者の性行 為を通してなのである。

ある男は、自分の小屋を移築するにあたって、彼の兄が将来新たに小屋を建 てるためにと切り出して庭の片隅に保管していた主柱用の木材を密かに持ち去っ た。これに気付いた兄が問い詰めると、その男は兄に『自分は既に昨夜、妻と 性関係をもってしまった』と告げ、丁重に詫びた。私がこの男から聞いたとこ ろによると、これは実は真っ赤な嘘だったのだが、それは兄にその木材を断念 させるに充分であった。もはや弟のものとなってしまった木材を、兄が用いる ことは兄自身に災いをもたらすことになるからである。兄のものを弟が使うこ とは差し支えないが、その逆は禁止されるという既に見たパターンのくり返し であるが、ここで弟が妻ともった性関係がその禁止を決定的なものにしている という点に注意すべきだろう。

父との折り合いが悪く、隣の村に土地を買ってそこに小屋を建てて暮らして いる一人の未婚の若者が小屋の屋根を葺きかえることになった際にも、同じロ ジックが表面化した。屋根から降ろしたヤシの葉で編んだ古い屋根材の中には 比較的状態が良く、再使用に耐えるものがあり、近所の人々がそれらを譲って もらおうと詰めかけてきた。その中にその若者の父親も混じっていた。しかし 父親は要求を切り出す前に、近所の男と暫く話をしただけでそのまま帰っていっ た。私はこの経緯を見ていていぶかしく思ったのだが、その近所の男は若者の 父に次のように告げただけだと言う。『お前がもしあの屋根材が欲しくて来た のなら帰りなさい。それは(あなたの屋敷に)過ち(makosa)を持ち込むこと になるだろう。いまどきの若い連中は、結婚していないからといって信用でき ない(kaaminika)のだ。』この男はこうして、有力な競争相手の一人に屋根 材を断念させることに成功したのである。

一連の構造的比喩によって、序列の感覚が実に明快に組織されていることが わかるだろう。上位者(muvyere)はつねに下位者(muvaha)の「先を進 (ku-longola)」んでいなければならない。下位者によって使用されたものを 上位者が使用することは、彼が「後ろに戻る(ku-uyira nyuma)」ことである。 この「後戻り」が災いを引き起こすのである。問題となっているのは順序の構 造そのものである。下位の者が上位の者の権利を侵すこと、上位者を「追い越 す(ku-chira)」ことは、上位者にその権利の放棄を促すだろう。あるいは上 位者が自分から下位者に「道をあけ(ku-phisa)」る形でそれを放棄するかも しれない。この時点では順序の構造自体が侵されたとはまだ言えない。それに 対し、上位の者が「後ろに戻る」ことは、それ自体で順序構造を破壊する行為 である。そして、それは「後戻り」した上位者に災いをもたらすのである。こ うした「追い越し」や「後戻り」を決定的なものにするのは、当事者の性行為 である。

 「後戻り」のもたらす災いがキティーヨ(chitiyo)として、つまり別稿で検討し た屋敷内の「まぜこぜ」であるマブィーティヨやマブィンガーニの結果生じる とされる災厄として語られていることに注目しよう。兄弟や父と息子が寝台や 寝茣蓙、小屋をあやまって共有してしまう事態--それは上位者の「後戻り」の 結果にほかならないのだが--は、そこでも紹介した通り、まさにマブィンガー ニそのものとして語られる事態である。私はそこではマブィンガーニつまり「ま ぜこぜ」が、性の相手を共有することによって引き起こされた親族間の差異の 消滅--同質性、連続性によって特徴づけられる屋敷内の同性の成員間の差異の 消滅--として理解できることを示した。そこでは明確に示すことのできなかっ たこの同性の親族間の『差異』とは、今ここで検討を開始した屋敷内の序列に おける異なる位置のことだったのだ。上位者の「後戻り」による局所的な序列 の逆転は、たしかに差異の消滅「まぜこぜ」とも言えるのではないだろうか。 「まぜこぜ」は上位者の「後戻り」によっても引き起こされる。しかし同じく 「まぜこぜ」を引き起こす性関係の相手の共有の方は、今検討しているような 「先を進む」「追い越す」「後ろに戻る」などの語り口では語られない。別稿で 触れたように、腰布などの貸し借りは洗濯して返せばこうした問題を引き起こ さない。寝茣蓙や寝台や小屋も、たとえ下位者が上位者のそれらを使用してし まっても、上位者がその使用を断念することによって、問題は回避される。ま たいずれの場合も特定の上位者と下位者とのあいだの局所的な問題にとどまる。 しかし性関係の相手については、上位者の断念は問題の解決にはならない。例 えば兄と弟の二人が、いずれが先であったにせよ、一人の女性と関係をもてば、 その事だけでマブィンガーニになる。順序は問題にはならない。マブィンガー ニという概念そのものが順序を無化してしまうのである。「まぜこぜ」を引き 起こす性関係の共有は、序列のより深刻な破壊、序列における位置の差異の完 全な消滅、単にそうした共有をしでかした特定の個人だけにとどまらず、屋敷 全体に蔓延していく秩序の崩壊だったのだと言えるかもしれない。序列は、二 つの位置が逆転することで局所的にも破壊されるが、位置どうしの差異を消し 去ってしまう行為によって、はるかに重大なダメージを被る。「後戻り」は前 者をイメージさせ、マブィーティヨやマブィンガーニ、マクシェクシェは後者 のより深刻な屋敷の壊れ方について語るものである。二つの語り口は、さまざ まな場面で相互に交錯しつつ、それぞれの仕方で秩序の崩壊の感覚を組織して いる。

序列のグローバルな構造

 「後戻り」や「まぜこぜにする」行為によって台無しになると語られるとこ ろの、序列そのものの性格についてもう少し詳しく見ていこう。こうした序列 の全体的な構造が目に見える場面がある。例えば兄弟姉妹の結婚の順番とそれ に対するこだわりにおいて、兄弟姉妹の序列が一つの系列の形で対象化される。 兄は弟よりも、姉は妹よりも先に結婚せねばならない。一方、屋敷内の序列の 全系列が最もはっきりと見てとれるのは屋敷を移転する際である。ここでは新 しい屋敷へ参入する順序--各人が小屋を建てる順番とほぼ一致する--が重要で ある。屋敷の長とその第一夫人が最初に新しい屋敷に移動し、第二夫人以下は それに続く。息子はけっして父親の先を越すことはできない。さらに兄弟たち-- 妻帯している者が問題なのであるが--も、兄は弟よりも先に新しい屋敷に移ら ねばならない。新しい屋敷の生成が屋敷内の序列をそのまま反復する。同様に、 屋敷から死者が出た際にも、人々の順序関係が可視化する。例えば屋敷の長が 死んだ際には、残された未亡人たちが「巣立ち」させられ、さらに「死を投げ 棄て」た後に、死者のすべての既婚の子どもたちは--このときに限っては男女 の別を問わず--厳密に出生順にしたがって、服喪期間中は禁止されていたそれ ぞれの夫婦の性関係を一晩に一組みずつ再開していかねばならない。

 繰り返し強調しているように、この序列を上位者の権威や面子の角度からの み眺めるのはまったく的外れである。しつこいようだが、序列にこだわること によって賭けられているのは、面子ではなく、屋敷の人々の健康と豊穣性であ る。例えば、服喪の後の性関係の再開の順序の狂いは、屋敷内に再び死をもた らすかもしれないし、屋敷の成員の錯乱、あるいは女性の不妊や死産や流産、 生まれてきた子供の死、などをもたらすかもしれない。上位者の権威や面子ど ころの問題ではない。一方、こうした切迫した危険がない限り、結婚や屋敷の 移転において起こってしまった順序の狂いは、何もされずに放置されるかも知 れない。結婚順において弟が兄の先を越して--つまり「追い越し」て--しまっ た場合、次に兄が結婚しようとするまでは何の処置もなされないだろう。以下 で述べる通り問題は兄が結婚するときに、兄の妻の健康と豊穣性を損なうとい うかたちで生じるのである。もしかしたら弟の結婚によってすでに損傷を受け ているかもしれない--そして実際、そのような旨のコメントが聞かれることも ある--兄の面目に対する顧慮は、結婚順の問題の重要な一部ではない。

 こうした点を明らかにするために、順序がもっともはっきりと主張される、 これら3つの場面についてもう少し詳しく見ていくことにしたい。

(1)結婚順

 結婚において兄は弟より「先を進む(ku-longola)」、つまり先に結婚せね ばならず、姉は妹より先に娶られねばならない。すでに触れたように、男の兄 弟の序列と女性の姉妹のそれとは相互に独立している。例えば、兄の結婚の方 が妹より先でなければならないという訳ではない。序列はここでももっぱら同 性のあいだの関係である。さらに男の兄弟の場合--一夫多妻のもとでは--この 序列が各人の最初の結婚についてのみ当てはまるということは、いうまでもあ るまい。

 兄弟、姉妹が順番に結婚せねばならないということ自体は、それほど奇異に はうつらないかもしれない。兄弟間の序列の単なる表現として、容易に理解さ れてしまいかねない。しかし順番にしたがって結婚することには、単に兄弟ど うしの上下関係を表現するだけの行為--そもそもこうした行為が序列を表現す という言い方はおかしく、まさにこうした行為が人々を序列づけているわけで あるが--であるとするならば理解できなくなってしまうような実質的な帰結が ともなっている。そのことは、現実に弟の方が兄より先に妻を娶ってしまうケー ス--けっしてそう稀でもない--において確認できる。そのことによって、弟に 何らかの制裁が加えられることもなければ、弟とその妻に障碍が現れるという こともない。逆に、それはむしろ兄の行動を拘束することになる。弟の方が兄 より先に結婚し妻を屋敷に連れて来てしまう--兄が弟に「追い越さ」れてしま う--ことは、後で述べる特別な矯正手続を取らない限り、兄自身が結婚して妻 と屋敷で暮らすことを不可能にしてしまうのである。そうすることが兄の妻を 危険に晒してしまうからだという。「追い越」された兄に嫁いで来るだろう妻 は「健康ではなく(kana uzima)」、屋敷に「座らない(kasagala mudzini)」、 つまり留まることができないだろう。最悪の場合これは彼女の死を意味する。 あるいは彼女は「子供を据えない(kaika ana)」かもしれない。これは彼女 の不妊を、あるいは生れたとしてもその子供が育たずに死ぬだろうということ を含意する。

「追い越」された兄が独身でいる限りは、したがって当然何の問題も起こら ない。後に彼が結婚するにしても、もし彼が屋敷に属さずその外部で別に暮ら すことを選ぶならば問題はないことになる。問題なのは、弟がすでに妻を迎え たその同じ屋敷に兄自身が遅ればせに妻を娶ってくることである。つまり「追 い越」された兄が「後ろに戻る(ku-uyira nyuma)」ことこそが具合い悪いの である。この語り口の中に見られる首尾一貫性に注目しよう。弟が先に結婚し た時点ではなく、それに遅れて兄自身も結婚しようとした時点において問題が 発生する。というのはそのとき始めて兄と弟の結婚の順序が逆転したといえる のだから。つまり兄は弟の後の位置に自分を置く--「後ろに戻る」--ことにな る。この理屈は、さらに序列が問題になるのは一つの屋敷の内部においてであ ることも示している。屋敷の外で妻をとること、つまりモンバサのような都会 であれ、どこであれ、自分の本来所属する屋敷以外の場所での結婚--仮にそれ が婚資を正しく支払った正式な意味での「結婚」であったとしても--は、序列 をめぐるこの理屈においてはカウントされていない。

 私が事情を詳しく知るに至ったいくつかの事例では、弟が自分より先に結婚 したという事実が、兄が父の屋敷からなかば分離して都会などでほぼ独立した 生活を営むことの正当化として持ち出されているとしか思えない例もあった。 単に結婚するという事実だけが問題なわけではないことがわかる。この一連の 語り口が問題にしているのはむしろ屋敷に所属するという事実のもつ意味なの である。弟に「追い越」されることによって、兄は屋敷の内部の順序づけの秩 序からいわば締め出されてしまうかのようである。これは、場合によっては思 いがけず手にすることのできた早々とした自立、自分自身の屋敷を始めるきっ かけでもありうる。しかし親・兄弟が、そして多くの成員が一つの屋敷にとど まっていることには高い価値が置かれている。兄がこうした形で屋敷の秩序の 外へ出てしまうことを望まない場合、兄が「後ろに戻」ってしまうことがない ように彼の結婚に際して、事態を矯正する手続き--兄(muvyere)に「上位 (uvyere)を返してやる(ku-udzira)」と呼ばれる手続き--が必要になる。

 それはけっこう大がかりで念のいった手続きである。それに先立ってまず屋 敷内でのすべての夫婦の性関係が禁止される。子供たちが我慢できそうにない と見ると--ほとんどの場合こうした措置がとられるのだが--彼らの妻は全員実 家に帰されるか、別の小屋にひとまとめに隔離され、夫たちとの接触を禁じら れる。弟に先をこされていた兄も自分の妻を連れてやって来ているかもしれな いが、彼女との性関係や接触は禁じられている。

「冷やしの術(uganga wa kuphoza)」の施術師(muganga wa kuphoza)で もある一人の老人によると、当日の手続きは次の通りである。まず屋敷内の全 ての小屋の火が集められ消される。つづいて屋敷へ通じる全ての道は枯れ枝を 積み上げて作られたサンズと呼ばれる障壁(sanzu)によって閉鎖される。以 後これらの道は二度と再び使用されることはない。屋敷の中の人々は、全員、 屋敷の外に出る。「冷やしの施術師(muganga wa kuphoza)」が屋敷の広場に 薬液(vuo)の入った搗き臼(chinu)を据える。この薬液は「冷たい木(mihi ya peho)」とヒツジの第3胃(chipigatutu)を主成分とするもので、別稿で 紹介したクブォリョーリャに用いるものと同じ内容である。それは人々と屋敷 を「冷やす(ku-phoza)」。まず父親が彼の妻たちとともに道のないところを 踏み分けて屋敷に入ってきて、その薬液を浴びる。つづいて彼の息子たち一人 一人が妻をともなって、同じく道のないところを踏み分けて入ってきて、それ ぞれの妻とともに薬液を浴びる。ついで父親が第一夫人の小屋で火をおこす。 木の棒を台木にこすりあわせて熾す昔のやり方で火は作られる。その火で、屋 敷の人々全員の食事が作られる。なぜなら他の小屋にはまだ火がないからであ る。食事の後、それぞれの小屋の女性は、屋敷の長の第一夫人の小屋のこの火 を分けてもらい、各自の小屋に持ち帰る。こうして屋敷じゅうの小屋に再び火 が行き渡る。その夜父親は妻と無言の性交(matumia)を行う。次の日から一 晩に一組ずつ、屋敷内の夫婦関係が再開されていく。ここでも再び用心のため、 息子たちと彼らの妻とは隔離されるかもしれない。父がすべての妻と済ませた のちに、息子たちは年長者から順番に一組ずつ関係を再開していく。「お前が 終えると、お前は長男を呼びにやる。『誰某をここに寄越すように』と。彼が やってくると、『さあ、妻といっしょに自分の小屋に行きなさい。』次の日に なると、もう一人を呼びにやる。『さあ妻をつれて自分の小屋に行きなさい。』 また次の日になると、もう一人を呼びにやる。『さあ妻をつれて自分の小屋に 行きなさい。』全員がすっかり終わってしまうまで。」( 註5

 ここには二種類の操作が看て取れるだろう。弟に先を越された兄が屋敷の成 員として結婚できるためには、それまでに兄弟の結婚が作りあげてきた順序は いったんすべてキャンセル--「弟の上位(uvyere)が拭い去られる(ku-futwa)」 という言い方で言われるが--されねばならない。兄弟たちと妻との性関係をいっ たんすべて停止し--あるいは妻たちを全員実家に帰し--、屋敷じゅうの火を消 し、屋敷に通じる道をすべてふさぎ、そして最後に人々を薬液で「冷やす」こ となどで、それができることになっている。一方、兄に彼の「上位」を返して やる操作そのもの、つまり兄をそこに含んだ新たな構造としてあらためて順序 づけなおす操作が必要である。屋敷の長である父親の特別な性交(matumia) と新たな火起しが順序の付け直しの口火を切り、新しい道を踏み出し--比喩的 にではなくまさに文字通りに--屋敷の成員が出生順にしたがって性交を開始し ていくことで順序が付け直されていくことになっている。父親から始まる夫婦 の性関係の再開の順序が正しく守られることについて、神経質なほどの注意が 払われていることもわかる。別の老人は言っている。「息子の妻たちは実家に 帰すより、一つ小屋に入れておく方がよい。『さあ、あなたがたこの中で寝な さい。』だって彼女たちを取り除いて、実家に帰しても、夫がそこに行ってし まうじゃないかい。」

 女性の姉妹どうしの間の結婚の順序については、簡単に触れておくだけにし よう。ある意味で、姉妹がめとられる順番は兄弟の結婚の順序以上に固執され ている。矯正の手続きが存在しないからである。妹に先を越されると、姉はた とえ結婚したとしても子供に恵まれず、彼女の健康そのものも脅かされるだろ う。彼女自身の死も可能性の一つである。やり直しはきかない。もしそうだと すると妹に「追い越」されてしまった姉は、一生結婚できないということにな るだろう。しかし、だれもが同意している訳ではないが、この問題に対する解 決法とも解釈できる手続きが流通している。妹が先にめとられた場合、姉が結 婚するまでその妹に対する婚資を受け取らない、あるいは受け取ってもそれを 屋敷にきちんと「据え」ず、「外に(konze)」あるいは「ブッシュ(weruni)」 に置いておけばよいというのである。

「彼女の婚資を屋敷に持ってこないでおく。彼女の姉が娶られ、その婚資がやっ てくるまでのあいだ。Mが娶られた際にもそうだった。婚資はブッシュに置い ておきなさい(naziikp'e weruni)。未婚の姉がおまけに二人もいた。そこで、 姉たちが娶られるまでは(婚資に)屋敷まで来させないように。姉たちの婚資 が先を進んで(zilongole)屋敷に来るように、つまりそれを先に産むように。 その後で彼女の婚資に来させなさいと。」(註6

今は詳しく述べるときではないが、屋敷に置かずブッシュにあるいは外に置い ておくという言い方も比喩的な言い方であり、別に実際に保管する場所の話で はない。

結婚の順序と言いながら、実際には何をするタイミングが問題になっている のかを考えるべきだろう。兄弟の結婚順の場合、本当に問題になっていたのは 妻を屋敷に迎えいれるタイミングであった。上の手続きは、姉妹の結婚順と言 うときに問題になっているタイミングが、婚資を受け取る、より正確には婚資 を屋敷に受け入れるタイミングなのだということを示唆している。後に詳しく 論じることであるが、妻の屋敷への編入も(これについては別稿 ですでに触れた)、婚資の屋敷への受け入れも、ともにそれらを「産む (ku-vyala)」という行為--マトゥミア(matumia)と呼ばれる特殊な性交-- を通じてなされる。この「産む」という概念を検討する機会に、この問題はも う一度取り上げることになるだろう。

(2)屋敷の移転における序列

 屋敷を移転する(ku-tsama)際にも人々のあいだの序列が問題になる。同じ く屋敷の移転といってもいくつか異なるケースがある。人々が屋敷を移転する 理由もさまざまである。土地をめぐる隣人との争いに敗れた結果として、ある いは妖術による攻撃を避けるため、引き続く死や災いが屋敷が修復不可能なま でに「壊れ」た結果であると判断された場合、あるいは単により条件の良い土 地を求めての移動、こうしたさまざまな理由から屋敷がその長の指揮の下にま るごと移動する場合がある。この場合には古い屋敷における序列を正しく再現 することが問題になるだろう。しかし移転(ku-tsama)のより頻繁な形態は、 屋敷内の不和や、そこまでいかなくとも父や兄からの独立をねらった息子や弟 による分離型の移転である。二つの地域に屋敷を分離させるために--経済上の 理由から、あるいは妻どうしの争いを防ぐ目的その他の理由から--妻の一人と ともに別の土地に屋敷を開いたり、係争の予想される土地に対する権利を確保 するために弟や息子の一人にその土地に屋敷を開かせるといった戦略的な移転 も、これに含めることができるかもしれない。こちらはむしろ新たな屋敷の創 設と、新しい屋敷の内部での序列の問題であると言える。移転のやり方につい て人々が語るときには、しかし屋敷全体の移転が範例となるのが普通である。

 屋敷の移転に際しては各成員は一定の順序にしたがって、新しい屋敷に合流 していかねばならない。それは通常はそれぞれの成員が小屋を建てる順序の問 題として語られる。息子は父よりも先に建ててはならない。息子は父が、その 息子の母親の小屋を建てるまで待たねばならないだろう。さらに兄は弟よりも 先に建てねばならず、一人の男に複数の妻がいる場合、序列の上の妻は下の妻 より先に建てねばならない。例えば弟の方が先に小屋を建ててしまうと、兄は もはやその屋敷には加わることができなくなる。「弟(muvaha)であるお前が 先を進んでしまうと、お前は彼(兄)を追い越してしまったことになる (undakala udzimuchira)。そうとも。そこは兄には(来ることの)かなわな い場所になる。」あるいは例えば第三夫人が第二夫人よりも先に移ってしまう と、追い越された第二夫人は夫の新しい屋敷に移り住むことができなくなる。 「追い越」された者があとから屋敷に加わろうとすることは「後ろに戻」って しまうことであり、何よりも当人の健康と豊穣性に深刻な危険を及ぼす。人に よっては、屋敷全体が危険にさらされる、台無しにされると言う者もいる。そ れはしばしば「まぜこぜ」の問題に接続する形でも語られる。

「さて、もしお前が屋敷を移転し、下位の妻(muchetu muvaha)とともに屋敷 に行ってしまう、先を進んでしまうとする。上位の妻(muchetu muvyere)に はもうできない。彼女がそこにやってくると、マクシェクシェ(「まぜこぜ」) にとらえられてしまう。すぐにも死んでしまうかもしれない(unaidima kufa haraka)」

小屋の建造順によってできあがった序列は、結婚の順序の場合以上に矯正が 困難であると言われる。妻どうしの場合なら矯正できなくもないが、それにも ずいぶん厄介な手間がかかる。下の妻は実家に帰され、彼女の小屋の戸口は閉 鎖されて壁に作り替えられる。そしてかつての戸口の反対側の壁に、新たに戸 口が開かれる。これは伝統的なタイプの小屋--細い木の枝で編んだ小屋のフレー ムに草だけを葺いて屋根と外壁にしたもの--であれば比較的容易であるが、近 年ますます増えつつある泥壁のスワヒリ風の小屋の場合には、あまり現実的な 話には思えない。が、ともかくそうしないことには矯正できないのだという。 その後、夫は先を越された上の妻との無言の性交(matumia)によってその小 屋を彼女の小屋として「産み」なおす。この手続きは、屋敷の移転の場合だけ でなく、より頻繁にあることだが、夫と仲違いし夫のもとを去っていた妻が、 夫が屋敷を移転した後に、あるいは夫が別の妻を娶った後に再び戻って来るこ とを望んだような場合にもとられる手続きである。

「さて、お前はもう一人の妻を娶る。あるいは屋敷を移転する。だって、たぶ んそこにうんざりする(さまざまな問題のために)ことがあるからだ。一方、 あの(別れた)妻は彼女の実家に帰っている。すでにここを去ってしまった後 だ。やがてあとになって、『私は家に帰ります』などと言い出す。帰ってこよ うにも、この場所は彼女にはすでに不可能な場所だ。火を殺し(消し)、扉を 塞いで、別の扉を開け直さなければ。」

こうしたやり方で、先を越されていた上の妻に「上位(uvyere)」を返してや ることができる。

兄弟どうしの場合は、なかには小屋を完全に解体すれば良いという--ほとん ど実行可能とは思えない--矯正法を示唆する人もいるが、私は実際にそれが行 われたという話は聞いたことがない。多くの意見では、先を越された兄が屋敷 に後から加わることは--小屋を解体してしまおうとどうしようと--まったく不 可能であると主張されている。「追い越」されてしまった兄が、後に同じ土地 に遅れてやってきて小屋を建てている例がいくつもある。彼は実質的にはその 屋敷の生活に参加していると言えるのであるが、当の屋敷の人々は「彼は我々 とは別の土丘(tsulu)に自分自身の屋敷をもっている」のだと語る。彼は彼 らの屋敷の外に--屋敷には目に見える物理的な境界はないので観察によって彼 の小屋がその屋敷に属しているかどうかを判定することはできない--別の屋敷 を構えているということになっている。父親が、息子が最初に開いた屋敷に後 から移ってくるというのも同様に考えられない話であり、これには現実味があ ろうとなかろうとを問わず矯正法を示唆する人もいない。

 屋敷の移転と小屋の建造の順序は、実際問題としてキャンセル不可能な序列 を作り上げてしまうと考えてよいだろう。このことは一つの明白な社会的含意 をもつ。つまりそれはいったん生じた屋敷の分裂と分散を恒久化する。いくつ かの家族の歴史は、過去の移動とそれに伴う屋敷の分散を雄弁に物語っている。 例えば「青い芯のトウモロコシ」のラロで私が滞在していた屋敷の創始者--ペ レ(「電気」)というあだ名で呼ばれていた--は、このラロに再び戻って19 70年代末にそこで死ぬ までの間に4度屋敷を何十キロも移動させているが、その都度彼の6人いた妻 の年長の誰かが都合良く、移動先に合流し損ねている。少なくともそのように 語られている。彼女らは、夫の年少の妻に「追い越」されたせいで新しい屋敷 に合流できず、そのまま自分の子供らとともに各地にとどまったのであると。 すでに一部はペレの孫の代に移った長をいただくそれぞれの屋敷の人々は、今 なお緊密な協力関係を維持し、ペレの墓での供犠にもともに参加し、何か問題 が生じるたびに集まりをもっている。そうした場面では、人々は今なお「ペレ の屋敷」という名称を--実際にはそれぞれが今日では独立した屋敷と見なされ ているにもかかわらず--口にする。序列の規則のせいで屋敷の移動から落ちこ ぼれることが、結果としてペレとその子孫を各地に分散した広い土地を占有す る一大勢力にしている。ペレの屋敷はけっして特殊な例ではない。この地方の 大きな屋敷の多くは、とりわけ今世紀半ばにかけて、類似した移動の歴史をもっ ている。それは、あたかもこの時期にそれぞれの屋敷が先を争って陣取りゲー ムを展開したかのようで、序列の規則のこうした運用が効率良く広大な土地を 自分たちのコントロールに置くための戦略であったのではないかと思えてしま うほどである。言うまでもなく、序列へのこだわりが、ある歴史的状況におい て持っていたかもしれないこうした効果によって、当の序列の規則そのものを 説明できるわけではない。それは所与としての秩序が実際に従われ生きられる 際にとりうる多様な可能性の一端を垣間見せてくれるだけである。

話を移転の際に従うべき順序に戻そう。移転に際して合流する順序は、小屋 の建造順序として語られる。しかし具体的に小屋建造のどのタイミングが問題 になっているのかは、やや微妙な問題である。屋敷の移転のやり方として語ら れる具体的な手順が、もっとも重要なタイミングがいつかを明らかにしてくれ るが、それでも人によって、飛び越された上位者の合流が不可能になるタイミ ングについて異なる意見がみられる場合がある。

 屋敷を移転する際に最初になすべきこととして繰り返し耳にするのは次のよ うな一連の手順である。屋敷の長は屋敷をそこに移転する候補地に、まず第一 夫人と二人で出かけねばならない。これに先立って彼はすでに、ブッシュの中 に一定の空き地を伐り拓き簡単に整地しているかもしれない。その日にすべき 第一のことは「キツツキを試す(ku-heza nyuni)」ことである。キツツキ (nyuni)はその鳴き方で旅や企ての吉凶を占う予兆の鳥であるが、「キツツ キを試す」という言い方が、予兆読み一般をさしている。敷地(chanzo)の4 つの方位と中心とにトウモロコシの粒を置いておく。あるいは敷地の隅にヒヨ コを一羽つないでおく。その夜、二人は性交抜きにそこで一夜を過ごす。翌朝、 トウモロコシの粒がノネズミに食べられていないか、あるいはヒヨコがマングー スに食べられていないかをチェックする。もしそれらが食べられていたらそれ は「悪いキツツキ(nyuni mui)」つまり凶兆である。「そこは屋敷ではない」、 つまり屋敷を開くには適していないことが分かる。「キツツキ」の試し方には 他にもさまざまなやり方がある。しかしそれ以外の凶兆も見逃さないように細 心の注意を払わねばならない。

「私たちは、ほら今あのGさんの屋敷、Gさんの第2夫人の小屋のあるあたり に最初に行った。そこが私たちの最初の敷地だった。で一夜寝て、夜が明ける と、なんと地面がツチブタに掘り返されていたのさ。ツチブタはキドゥルマで は悪い(獣)だ。ツチブタが掘り返したところには、人は屋敷を建てない。と いうわけで私たちはいったん家に帰ったのだ。」

何の凶兆も無いことが確認されると、そこで第二日目を過ごす。この日に行な うのが「宿営地を開く(ku-piga chengo)」ことである。屋敷の長は第一夫人 と二人で火をおこす(ku-phekecha moho)。マッチなどは使わず、木の板(バ オバブの実の外皮)に木の棒をこすりあわせる(ku-phekecha)昔の仕方でお こす。この火は以後けっして消してはならない。この火を使って、その日の料 理が作られる。その夜屋敷の長は第一夫人と地面の上で一回きりの性交 (matumia)を行って「屋敷を産む ku-vyala mudzi」。これで屋敷は第一夫人 のものとなる。もう「追い越」される心配はない。彼らはいったん現在の屋敷 に戻り、この日から屋敷の他の人々も加わってブッシュの開墾と小屋の建造が 徐々に始まっていく。

小屋の建造順といいながら、この時点では実際には小屋はまだ一つとして建 てられていない。しかし第一夫人の順位は確定している。実際に問題になるの は物理的な小屋の有無というよりは、屋敷を「産む」行為として語られる特別 な性交が行われるタイミングであることがわかる。実際に一つの小屋が建てら れていく過程も、小屋の所有者となる夫婦がおこなう同様な特殊な性交--これ らも「産む」行為として語られる--によって繰り返し節目がつけられていく。 整地されたとき、主柱(mulongohi)が据えられたとき、戸口がつけられたと きなどがそうした機会で、人によってはそれぞれの機会に繰り返し「産」まね ばならないとしたり一度で十分だとしたりする違いはあるが、いずれにせよこ うした性交の実施によって、自分たちの小屋を「産む」必要があるとされてい る。小屋の建造順において実際に問題になるのもこの性交のタイミング--どの 時点でのそれがまさに小屋の建造順を確定することになるのかについては人に よって意見は一致しない(註7)が--なのである。まだ未婚の息子については、彼がいつ小屋を建てるかが--若者の性行動は信用できないとはいうものの-- 大きな問題とされないのもこのためである。たしかに、彼が誰かとの性関係を 通じて間違って自分の小屋を「産」んでしまうことによって、兄を追い越すと いう可能性は低い。

 この特別な性交を実施するタイミングが、各自の小屋を「産」んでいくとい う形で、屋敷の成員が新しい屋敷に合流していくタイミングになっているとい う事実は、高齢の長をもつ屋敷の移転に、しばしば厄介な問題を付け加えると いう。<ジャコウネコの池>のある屋敷群の創設者Dが、この地に初めて屋敷 を移してきたときのエピソードは、彼の孫の代に当たるこの屋敷群の今の長老 たちの間での語り草である。Dの息子たちが最初に牛囲い(chaa)を作り、自 分たちの父親Dを連れてきて、新しい屋敷を「整え(ku-tengeza)」てくれる ように--つまり「産」んでくれるように--頼んだのだが、老齢のためDにはす でに妻たちと性交する能力が萎えていた。二晩つづけて、彼は失敗した。そこ でDの孫であったKがDの代わりにDの妻の一人と関係をもつことによって、 その屋敷を「産」んだのだという。孫が祖父の代理になるという考え方は、ドゥ ルマのマブィンガーニの観念の中では、可能な選択である(註 8)。Mdの屋敷で も移転に際して同じような問題に直面した。こちらでは老齢のMdの妻たちも すでに閉経期を過ぎていたため、Mdの長男は新しい屋敷を自分の屋敷として 「産」むことにした。人々はそこをMdの屋敷と呼んでいたが、実はMdとそ の妻たちは「子供として屋敷に置かれていた(aikp'a dza mwana)」のであっ た。つまり新しい屋敷ではMdを除外して順序がつけ直されたのであり、Md が屋敷内で妻たちと性関係をもつ可能性はもはやなかったので、彼が「後ろに 戻」ってしまいそれがもとで災いがもたらされることはないと判断されたので ある。

(3)服喪後の性関係の再開

屋敷内で暮らす人々だけでなく、屋敷から婚出した娘たちまで含めて、さら に一方の性だけに限定されない形で順序が問題になるときがある。屋敷から死 者が出た際の、性関係の再開の手順においてである。死者の埋葬後に数日に渡っ てもたれる「生のハンガ(hanga itsi)」と呼ばれる服喪期間--すでに紹介し たようにこの期間には日常のさまざまな活動に加えて、とりわけ寝台やイスの 使用、夫婦の性関係が禁止されている--の終了後、それぞれの夫婦は一定の順 序にしたがって性関係を再開していかねばならない。

埋葬後の服喪が死者の親族たちの水浴びで終了した後、死者が既婚者であれ ば、配偶者を「巣立ち」させ死を「投げ棄て」させる仕事が残っている。「死 の投げ棄て」と呼ばれる死者の配偶者によるブッシュでの余所者相手の無言の 性交が終わった翌日から、死者の既婚の子供たちによる性交が再開されていく。 死者の既婚の子供たちは、現にその屋敷に暮らしているいないにかかわらず、 また男女の区別を問わず、厳格に出生の順番にしたがって(ku-tuwiriza uvyere)性関係を再開していかねばならない(註9)。 この順序の維持には 細心の注意が払われる。自分に先立つペアが無事、性関係を再開することがで きたという知らせを受けてはじめて次のペアの順番が来る。慎重な人々は、婚 出した娘を服喪の終了後も彼女の順番が来るまでは夫のところへ返さないかも しれない。早めに帰してしまった場合に、夫婦が決められた番が来るまで自制 するかどうか信用がおけないからである(註10)。 まんいち順序が狂ってし まったことが判明すると、「死を投げ棄てる」ところからすべてをやり直さね ばならないことになるかもしれない。

「子供たちはとどめられる。娘たちは夫のところには帰らない。で、ひとりず つ帰ることになるだろう。自分の兄・姉(muvyere)が終わったとわかったら、 彼女は立ち去る。行って自分の夫と行為をする。たとえば...例を挙げよう。 私の父は死んだ。そうだろう?さて、いるのは(長兄)J、それに (次兄)G。 G の次に U 姉さん。さて、まず J にやってもらう。次に G 。さあ U 姉さん の番だ。もう行ってよい。つづいて Mj 姉さん。でやっと私の番。私がそれを すませる。という訳で私は Mj 姉さんが立ち去るまでは我慢しているという訳 さ。(質問:娘は関係ないという人々もいますが?)それは間違いだ。女は勘 定に入らないというけれど、女は産まれていないとでも言うのかい?ああ、そ いつらは間違っている。お前は問題がなんどもなんども戻ってくるのを見るこ とになるだろうよ。お前は『ああ、女は勘定に入らない』と言う。で、彼女は お前の姉だ。お前は彼女を追い越してしまう。『追い越し(chirwa)』だ。彼 女が行く先(嫁ぎ先)で、彼女は結果を見ることになるだろう。悪い結果を。 彼女はこんな具合でありうる。子供を据えない(産んだ子が育たない)という 具合。子供を産む、するとその子は死ぬ。あるいは流産してしまう。あるいは 腹に病気が入り、二度と子供が産めなくなる。で、また呼び戻されることにな る。『皆さん、戻ってきてください。』」

この再開の順序において、下位の者に先を越されてしまうと、上位の者は二 度と誰とも性関係をもつことができない。もし性関係をもってしまうと、彼、 あるいは彼女にはさまざまな災いがふりかかるのだと言われる。上の証言は女 性の豊穣性に対する障碍を挙げているが、もっともよく挙げられる症状は、全 身の痒みや気鬱、錯乱である。彼あるいは彼女が、性行為から完全に縁を切る ということでない限り、最初からもう一度すべてをやり直すことがどうしても 必要になる。順序の狂いが気づかれないまま、性関係が再開されていってしまっ た場合、やがて屋敷にはさまざまな災厄が舞い込むだろう。人々は全身の痒み、 気鬱、精神錯乱、豊穣性の障碍などに見舞われる。とりわけ屋敷の成員の続け ざまの死は、こうした手続きがどこかでうまく行っていなかったことの結果で ある可能性がある。

性関係の順序だった再開は、死者の子どもたちの範囲内でなされる。孫の世 代は関係してこない。死者が既婚である場合、同じ屋敷に属している死者の兄 弟や親たちは、服喪期間の性の禁止には従うが、その後の性関係の再開は、死 者の子どもたちのそれとは無関係に行う。特に順序が問題になるという話は聞 かない。死者が未婚の子供の場合は、「巣立ち」はなく、「死の投げ棄て」は 死者の両親によって行われる。死者に子供がいないために、順序だって再開す べき性関係もない。性関係の再開の順序がもっとも大規模に問題になるのは、 したがって屋敷の長でもある既婚者、あるいはその配偶者の死に際してである ということになる。

 残された配偶者による「死の投げ棄て」は、死の処理の最後の手続きである と同時に、この順序だった性関係の再開の出発点としてみることも可能である。 年老いた未亡人はしばしば「死を投げ棄てる」余所者とのブッシュの地面の上 での無言の性交を拒むことがあり、彼女が再婚できないほど年老いている場合、 結局それが免除されることがある。もし「死」の処理だけが問題なのだとする と、この免除は理解できない。「死を投げ棄て」なかった未亡人は性交の再開 において下位の者に先を越されることになる。彼女はその後いっさい誰とも性 関係をもつことができなくなる。彼女は「子供として(屋敷に)置かれ (kp'ikp'a dza mwana)」た状態になる。

しかし、これは潜在的に危険な状態であると人々は言う。「年取ったホロホ ロチョウでも、焼けばうまい」などと冗談めかした言い方で、レイプの可能性 が仄めかされる。たとえ少々身持ちが良かろうとも、あるいはどんなに高齢で あっても--「たとえ歩けないほどであっても」--この可能性は排除できないと いう。その場合彼女を待つのは錯乱と死の運命なのである。

「私には祖父がいて、この祖父が死んだとき、彼は二人の妻を後に残した。一 人は Mj で、もうひとりは Mk といった。さて Mj は言われた。『さあ、行っ て死を投げ棄ててきなさい。』しかし彼女が言ったことには、『ああ、私はこ れからは誰も(夫として)もつつもりはない。死んだ Bn で終りにしました。 もうおしまいです。』彼女は屋敷に子供として置かれた。一方 Mk の方は後に K に(未亡人相続で)娶られて、子供をもうけた。...さて Mj がMn(地名) に出かけたときに、カンバ人たちに襲われて、無理やり組み敷かれ、犯されて しまった。帰ってきて言うことには『ああ、私は組み敷かれてしまった。私は 二度と(性交は)するつもりはないと言ったのに、今こうして組み敷かれてし まった。』『ああ、あんたは下位に戻ってしまった!』施術師を呼んできて、 冷たい木と死の木を彼女に振り撒いて、すべてがやり直させられた。そうとも 彼女は死を投げ棄てた。」

順序にしたがって性関係が再開されていくというよりも、まさに性関係を順 番に行なっていくことが当の順序を作り上げていっているのだと考えた方がよ いかもしれない。かつて故人を起点として出来上がってきていた順序構造が、 故人が舞台から退出してしまった今、新たな起点から出発してそっくり作りな おされるのである。「子供として置かれる」という言い方は、実に含蓄が深い。 性行為を拒むことによって順序からはずれた者は、性交を知らない「子供」の ように、序列の外に置かれてしまうのである。彼あるいは彼女が後から性関係 をもってしまうことは、「上位者(muvyere)」であった彼あるいは彼女が「下 位者(muvaha)」として「後に戻る」ことに他ならない。そして彼らには災い が降りかかるのである。

結論

未亡人を「巣立ち」させたり、妻を「引き抜」いたりといった言い回しの比 喩性は、私と似たような日本語で話が通じあえる人々なら、誰も見落としたり しないだろう。いずれも日本ではそれほど頻繁に耳にできる言い回しではない。 鳥の成長や、物を移動させる動作によって、なにかが--たとえそれが何である か即座にはわからないとしても--譬えられているのだろうとは見当がつく。 これに対して、弟が兄より先に結婚することが兄を「追い越」すことになると 言ったところで、別段それは比喩的でも何でもない当たり前の「事実」を述べ ているだけのように映るに違いない。 まさにニーチェはリアリティとは比喩であることを忘却された隠喩、字義通り の真実として通ってしまう隠喩だと我々にすでに教えてくれてはいなかっただろ うか。 語り口をいまだ自らのものにしていない者だけが、その比喩性にたじろぐので ある。 未亡人の「巣立ち」や妻の「引き抜き」といった言い方が我々を驚かせ、弟に よる兄の「追い越し」という表現がそうしないのは、両者に何か根本的な違い があるからではない。 単に後者の場合にはこちらも似通った比喩を用いているというだけの偶発的な 事実によっている。 このことは、まさにニーチェが指摘しているように我々が字義通りのものとし ている言い回しが実は十分に比喩的であり、我々の目に何をたとえているのか すら定かでないように見えるとんでもない比喩的な言い回しが、当たり前の事 実について述べる言い回しとして通用しうるのだという可能性を、あらためて 思い出させてくれる。

兄より先に結婚すれば、兄を「追い越」したということになるという関係の 一見した当たり前さ--しつこいようだがこれは単に我々もこの「追い越す」と いう表現を類似した仕方で比喩的に用いているせいである--にだまされてはな らない。 夫が水甕を持ち上げることが、なぜ「妻を引き抜く」ことになるのかという問 いが、その語り口を自らのものとはしておらず、その比喩性にたじろぐ我々が つい問うてみたくなる問いであるなら、我々は同様に、なぜ兄より先に結婚す ることが兄を「追い越」したことになるのか、とも問うべきなのだ。 そして前者に答えがないように、後者にも答えはない。両者の結びつきは恣意 的なのである。そしてこの恣意性こそ、比喩性が忘却されることによって、同 時に忘却されるものなのである。

明らかに誤解を招くやり方ではあるが、試しにいかなる語り口にも絡みとら れていない「水甕を持ち上げる」という行為そのものを考えることができると してみよう。 そんな風にそれ自体として眺められたこの行為そのものは、なにかたいした結 果を引き起こしうるような行為ではない。せいぜい腕の筋肉を疲労させるくら いの効果しかない。 しかしそれは妻を「引き抜く」行為であることによって、とたんに恐るべき効 果をもった行為になる。 「引き抜く」という比喩的な語り口が属する論理的帰結の内部でそうした効果 を付与されるのである。同様に弟が先に結婚すること自体は、なにかたいした 結果を引き起こすようなことではない。 弟が先に結婚したからといって、それがなんだというのだ、それだけのことで はないか。 しかしそれはまさに兄を「追い越す」行為であることによってとてつもない結 果を引き起こす。 それは屋敷内の序列を乱し--兄が弟より後から結婚しようとする時に現実化す るのであるが--、さらにそれは屋敷をだめにし、屋敷内の豊穣性を危険にさら す行為となる。 それが「追い越す」ということの意味、この比喩的言い回しが属している、一 定の論理的帰結をもった語り口の内部での位置なのである(註11)。 「追い越し」の結果、もし序列が狂うと、屋敷は「壊れ」てしまうことになる。 「壊れ」ていながら、そこに何事も起こらないなどと考えるとしたら、それこ そ正気の沙汰ではない。 この比喩的な語り口の内部での論理的帰結が、その語り口によって絡みとられ た行為に効果を付け加える。

この論考と、それとペアをつくっているところの「まぜこぜ」をめぐる論考の二つを 通じてあきらかになった屋敷の秩序をめぐる語り口について、ここで整理して おこう。一連の比喩的な表現によって構成された語り口は、重層的に組織され ている。この二つの論考では屋敷の「壊し」方を検討したわけであるが、この「屋敷を壊す」とい う表現自体が、まず比喩的である。ハンマー片手に解体作業をするという意味 ではないからである。「屋敷が壊れた(mudzi ubanangika)」といっても見た 目にはどこも壊れてなどいない。ではどうすることが「屋敷を壊す (ku-bananga mudzi)」ということなのか。「まぜこぜにする(ku-phitanya)」 こと、あるいは「追い越(ku-chira)」したり「追い越」されて「後に戻 (ku-uyira nyuma)」ったりすることである。「屋敷を壊す」こととこれらと の結び付きは恣意的、構成的である。なぜ「まぜこぜ」になったら屋敷は「壊 れる」のかと問うても無駄である。そうなることが「屋敷が壊れる」というこ となのだとしか答えようがない。ではしかし「まぜこぜにする」というのはど うすることなのだろうか。字義通りに、二つのものを混合したりするわけでは ない。例えば兄弟や、父と息子が一人の女性と性関係をもつことが「まぜこぜ」 にすることである。なぜそうすれば「まぜこぜ」になるのかという問いも、そ うすることが「まぜこぜ」にするということだからと言う以外に答えようのな い問いである。再び両者の結び付きは恣意的、構成的である。こうした重層的 な比喩によって構成された一連の語り口が現実をからめとり、その語り口によっ てそれを組織し、そして現実そのものとなる。さまざまな行為が、順序にした がって実践され、それが序列を顕著に経験可能な秩序にする。 実際には人々の順序だった実践が、そしてそれのみが作り上げてきたこの序列 は、しかし、まるで実践に先行し外在し、実践がそれを参照しつつ組織されね ばならない非人格的な秩序、日常の暮らしの可視的な客体化された特徴、大文 字の秩序そのものになる。兄(muvyere)のもつ上位性(uvyere)について、 まるでそれをキャンセルしたり、返却したりできるモノででもあるかのように 語ることが可能になる。この秩序の中に言わば太字で書き込まれた兄と弟との、 父と息子との差異が、まんいち消滅したり逆転するようなことがあれば、それ は秩序に対する許しがたい変則なのである。

屋敷の序列をめぐる一連の語り口は、そうした語り口がなかったら存在しえ なかったであろうような行為を創出する。例えば弟が「追い越し」によって序 列に加えた変更をキャンセルする行為--弟の上位性を「拭い去る(ku-futa)」 といった言い方が用いられるが--は、まさにこの語り口による秩序とそれを構 成する差異の客体化なしには、そもそも考えることすら不可能な行為である。 この語り口の外で、例えば日本の私の周りにいる人々のあいだで、弟が兄より 先に結婚したことを「拭い去る」あるいはキャンセルするということに、どの ような意味があるだろうか。意味をなさない。そもそも結婚順をキャンセルす るといっても、どうすることがキャンセルすることになるのか、我々には見当 もつかないのだから。兄に「上位性(uvyere)」を返してやるなどという行為 についても同様である。それらは、この語り口の内部でしか存在し得ない行為 なのである。しかしそれは具体的な実践として実行されねばならない。行為の システムにおける恣意性、無根拠性がもっともくっきりと姿を顕すのはこうし た行為においてであり、兄と弟が一人の女性と寝てしまうことを、屋敷を「ま ぜこぜ」にする儀礼とはけっして呼ばないであろう我々も、屋敷に通じる道を 塞ぎ、屋敷の火を消し etc. の一連の実践--それが弟の上位性をキャンセルす る行為なのであるが--を喜んで順序を矯正する儀礼といった形で呼びたくなっ てしまうのである。

これらの行為がこの比喩的な語り口の中にしか存在できない行為であるとい うことを、例えば三振するという行為が野球というゲームのなかにしか存在で きない行為である、といったこと--構成的規則と制度的事実をめぐる議論を思 い出そう--と、安易に同一視してはならない。この秩序は、けっして約束事に よって作られた秩序としては生きられていない。「追い越」された兄が「後戻 り」すると、彼の妻の健康が損なわれる。きまりで、そうなるようになってい るというのではない。それは高い木から愚かにも飛び降りると死ぬようになっ ている、というのと同質の、所与の秩序内での出来事の「あたりまえの」結び 付きとして生きられている。野球の場合、三振すればアウトになることになっ ているのが「きまりによって」そうなっているというのとは、話が違うのであ る。リアリティそのものとして生きられてしまっているゲームと言うと、あま りにもレトリカルであろうか。しかし人間の生きている秩序とは、それを特徴 づける無根拠な規約性が「規約」として顕在化することなく、規約性の事実が 隠蔽されたまま生きられている虚構、リアリティそのものであるような虚構だ といえるのではないだろうか。

秩序のこうした性格について、より突っ込んで論じる前に、キドゥルマの屋 敷をめぐる比喩的な語り口についての分析をさらに進めておく必要がある。す でに繰り返し言及されてきた「産む」という行為も、まさに比喩的な語り口の 内部でのみ具体的にイメージされうるような、「儀礼的」な行為の一つである。 これについて検討するのが次の課題である。


註釈

註1
これは、もし告げられていたら上位の妻がそこに入ろうとするはずがないとい う含意である。

註2
別稿で触れたように、「まぜこぜ」の解消の施術においてはヒツジの供犠--生 きたまま腹をナイフで突いて第一胃の内容物を取り出す--が重要な一部となっ ている。

註3
娘は母親の穀物貯蔵庫に自由に出入りできる。その理由は、簡単に類推できる。 彼女が未婚の場合、屋敷内で彼女が性関係を誰かと結ぶ可能性はない。彼女が 既婚である場合、彼女はすでに母親の屋敷には所属していない。夫が妻の穀物 貯蔵庫にもし出入りしたとしても問題はないとされている。また息子も母親の 穀物貯蔵庫に自由に出入りできる。序列関係は性をまたがっては問題とされな いのである。

註4
これはある母親が娘に対して行ったアドバイスの一部である。娘は自分が足を 挫いたのを、許可なく夫の母の留守中に彼女の穀物貯蔵庫から夕食ためのトウ モロコシを運び出したせいではないかと心配して、実家の母に相談に来たので あった。母によると娘の足の捻挫はこのことのせいではない。娘が穀物貯蔵庫 に入ってしまったことで、健康上の危険にさらされるのはむしろ彼女の義理の 母親の方である。それを説明したのが引用した箇所である。

註5
 後の論考での議論のために一つ補足しておくと、私はここで述べられた通り のやり方で実際に兄に「上位が返」された例を見ていない。手続きの知識とそ の実際の実行との、避けられない不一致の問題は別に問題にするつもりで あるが、その際に、兄弟の結婚順の矯正についてのこの手続きを再び例として とりあげることになるだろう。言うまでもないことかもしれないが、手続きの 知識--やり方の細部--そのものについても、説明する人ごとにいくらかの違い がある。上の手続きを説明してくれたこの老人自身、最近の人々は「無知 (kaamanya)」で、必ずしもここで述べた「正しいやり方」に従わない--たと えば火をマッチでつけてしまったりする--ことを認めている。逆に、彼の言う ようなヒツジの第3胃の使用では不十分で、クブォリョーリャの場合と同様に ヒツジそのものを殺すことが必要だ、それが「正しいやり方」なのだと主張す る人もいる。現実に直面しているケースではなく想定されたケースをめぐって なにが正しい手続きであるかが語られる場合--とりわけドゥルマのやり方のよ り正確な知識をもっているということが人に権威を付け加えてくれるところで は--たしかに言葉のインフレーションは避けられないのかもしれない。しかし、 例えば「弟の上位を拭い去る」行為--その比喩性をあらためて強調する必要が あるだろうか--とその具体的な内容、いったい何をすれば「弟の上位を拭い去」っ たことになるのか、とのあいだには、すでに繰り返し指摘してきたように、恣 意的な規約--構成的規則--によって繋がれるしかない際限のない空間があいて いる。そのすき間に、任意の内容をいくらでもぶちこむことができてしまうほ どである。言葉のインフレやデフレを測るべき適正値--どうすればたしかに 「弟の上位が拭い去」れたといえるのかについての一意の解--などそもそも存 在しないのである。おまけにここでは、弟が実際にしでかしてしまったことを キャンセルしよう、なかったことにしようという、過去を作り変えることにも 匹敵する途方もない--現実には実現不可能ともいえる--企てがもくろまれてい るのであるから、比喩的に語られるしかない企てられた行為と、その具体的な 実行形態とのあいだには、まさしくとてつもない虚空が顔をのぞかせてしまっ ている。それが、もっともらしい手続きでそれを埋めてしまおうという欲望と 想像力をかきたてる。一意の解など存在し得ないにもかかわらず、正しい解、 弟の上位を拭い去り兄に上位を返す本当に正しいやり方を求めることには大き な賭け金がかかっている。正しいやり方でそれがなされたときにのみ、兄の妻 の健康と豊穣性が保証されるのであるから。こうした儀礼的知識の根源的な頼 りなさや不確実性が、現実での手続きの実行形態に対してもつ意味については、 機会があればあらためて問題にすることになるだろう。

註6
しかしこのやり方が不十分であると述べる意見も多い。「とはいうものの、や はり間違いであるには違いないだろう。だって、お前さんたち(嫁取りの交渉 の際に最初に支払われる)ヤシ酒を飲まないということがあるだろうか。そう とも。(妹が先に結婚するのは)よくないことなんだよ。」

註7
小屋に新たに扉がつけられるときはいつも、黒い鶏を供犠し、その血を戸口に 流し、さらに扉を「産む」必要がある。これをもって小屋を産んだタイミング だとする意見もある。しかし別の意見によると、整地した後にもつ性交がそれ にあたる。主柱を重要視する意見もある。

註8
また孫と祖父の妻(=祖母)との性関係が許容されていることも、別稿で論じ た通りである。「産む」ことができない祖父の代りを孫がつとめることができ るという話は、よく耳にするが、実際にそれがなされた例としては、私はこの Dのケース以外に知らない。

註9
人によっては、死者の既婚の息子たちだけで行なうと主張する人もいる。死者 の娘たちは服喪が終了したら、それぞれの夫の元へ一斉に帰してよいのだと。 これは次の註釈(註10)で述べる「便法」を施した結果である。既婚の息子 たちのみでよいと主張する人も、その死が「悪い死」の範疇に属するものであ る場合には、男女を問わず死者のすべての子供によって性交の順を辿り直す必 要があると認めている。

註10
婚出した娘を屋敷に引き留めておくことは、娘がドゥルマ以外のところへ婚出している場合、困難である。隣接するディゴの人々は同じミジケンダに属しているがこの「死の投げ棄て」やその後の順序だった性交再開の手順をもたず、ドゥルマのやり方を変な風に誤解していることがある。服喪の後「すべての女性」が余所者と性関係をもつと。このため服喪が終わるとすぐに帰って来ないと承知しない夫がいる。しかし、こうした夫が性交の再開を、決った順番がくるまで待つとはとても考えられない。この困難を抜け出す方法が近年広く採入れられており、それは後述するように、この一連の手続きを無化してしまう可能性を秘めている。

註11
私が親しんでいる日本語的言いまわしにおいては、弟が先に結婚することを 「兄を追い越す」こととして捉えることは、威信や「面子」や「顔」--同 様に比喩であるが--の語り口の内部にそれを位置づけることになっている。 弟の方が先に横綱になる。それは兄の先を越すことであって、なんとなくおに いちゃんが「かわいそう」だったりするのである。なぜ弟の方が先に横綱になっ たら、おにいちゃんがなんとなく「かわいそう」なのかと自問してみよう。 「だって弟に先を越されたらかわいそうじゃないか」などと答えることになる のだろうか。 ここでも経験が徹頭徹尾比喩的な語り口の網の目に絡みとられていることに注 意されたい。


Mitsuru_Hamamoto@dzua.misc.hit-u.ac.jp