コスモロジー概念における3つの誤認

コスモロジー概念の問題点

コスモロジーといっても、今日天文学が扱っているような宇宙についての思弁や理論、あるいは宗教が扱っているような「他界」や他界と現世の諸関係をめぐる想像などの、狭い意味でのコスモロジーあるいは宇宙論だけが問題でないことは言うまでもあるまい。人類学者でいうコスモロジーは、より広い含意を持った概念である。長島信弘は「広義の『宇宙論』というのは、任意の人間集団が全体として保有している、人間と事物、時間と空間、存在と力に関するさまざまな理論とそれに基づいた行動様式の集大成を意味する。」(長島 1987:1)と規定している。果たして行動様式をそこに含むのが普通であるかどうかを別にすると、これは多くの人類学者のこの問題領域に対する見解をよく代表しているだろう。それには3つの特徴がある。第一に、コスモロジーは理論的な知の一種であり、第二に、それは集団によって保持されている。そしてこの集団によって保有されている理論的な知は、人々の実践(行動様式)を基礎付けるものと位置づけられる。これが第三の特徴である。ある集団の人々が持っている、世界についての理論的な知識と、それに基づいた実践という構図である。実はこの構図そのものが問題なのである。それは儀礼的実践と秩序との関係についての大きな誤認を含んでいる。

理論的知としてのコスモロジー

人類学でいうコスモロジーが、宇宙についての思弁や理論、他界についての宗教的言説などに比べて「広義」であるといっても、それはその思弁や理論が対象とするものの範囲に関してである。それが一種の理論的な知として考えられている点では、狭義のコスモロジー(宇宙論)と同質である。しかし人類学者が実際に個別の研究においてコスモロジーの名のもとに記述してきたものについてはどうだろうか。実のところそれに「理論」という性格を与えることがほんとうに適切であるかどうかには、多くの場合おおいに疑問の余地がある。

たしかに宇宙や世界についての理論が明示的に語られ流通している場合がある。おそらく適当な条件のもとでは、人間は自分の周りの世界や出来事に思弁を巡らしたりするようにできているかもしれない。しかしそれが誰もがいつでもどこでもやっているようなことでないことも確かである。フィールドでこうした明示的な理論的言説に出会うことがむしろ稀であることは、多くの人類学者がさんざん経験してきたことである。メアリ・ダグラスの次のような発言は、人類学者たちによって幾度となく繰り返されてきた同様な発言のほんの一例に過ぎない。「他の多くの未開民族と同様にレレ族には、それを通して彼らの宗教が研究できるような体系的な神学はおろか、なかば体系化されたと言える程度の教義の集まりすらない。」(Douglas 1975:9)レレを持ち出すまでもなく、我々にしたところでいきなりそのような理論を語って見せろと言われれば、困惑するだけであろう。幸いにして、そういうことを考えたり書いたりしてくれている誰かが比較的身近にいてくれたり、そういった人々の語りがさまざまな媒体を通じてアクセスできるおかげで、あたかも我々には体系的な理論があるかのように考えることがかろうじてできるというだけである。実際には人類学者がコスモロジーとして記録してきたものが、明示的に語られた世界や宇宙についての思弁であることなど、めったになかったのである(註1)

もちろんレレの場合のように理論が表立って語られない多くのケースにおいても、人類学者はその社会のコスモロジーについて語ってきた。そうした場合の「コスモロジー研究」とは、調査者が直面する資料の「ごちゃまぜの集合体」(リーチ 1985:268)から人類学者自らが、そうした理論を取り出して、あるいは組み立てて見せることだったのである。レレ族における明示的な理論体系の不在は、けっしてメアリ・ダグラスの探求にとっての障碍にはならない。体系だった教義の代わりに彼女の前にあるのは、うんざりするほど多様な禁止規則であったり、些細な日常的な衛生上の規則であったりする。しかしまさにこれらが「レレ族にとって宇宙がどのように組み立てられているのかに合理的に結び付いたものであると判明する」(Douglas 1975:4)。こうしてごちゃまぜの集合体のなかから、特定の社会のコスモロジーを鮮やかに取り出して見せることは、1970年代の多くの民族誌(eg.Gell, Hugh-Jones)において、まさに人類学者--なかでも構造主義という「技法」を自在に使いこなし得た者たち--にとっての腕の見せ所であった。

けっして表立って語られることはないが、にもかかわらず人々によって保有されており、実践を通じて暗黙のうちに語られる理論という観念は、魅惑的に響くかもしれない。が、ずいぶん胡散臭い。そもそも当の人々が明示的に語りえないものに、たとえ暗黙のという制限つきでではあれ、「理論」という位置づけを与えることができるだろうか。「ごちゃまぜの集合体」のなかに、そこそこ体系的でそれなりに一貫したパターンが見て取れることがある--というよりも多くの場合それを期待してよい--ことは確かである。人類学者が対象社会のコスモロジーとして記述してきたものは、まさにそれを源泉としている。しかしそうしたパターンを一群の命題として語り、理論的な言説として提示することが果たして妥当な手続きかどうかは、バーリーが警告しているように、いささか疑わしい(Barley 1983:67-68)。関係はそこにある。しかしそれを命題化するのが、現地の人々ではなく人類学者だけなのだとすればどうであろう。そもそも関係は命題ではない。たとえばコスモロジー研究においてもっとも頻繁に見出されてきた二項対立図式にしても、それ自体は命題ではないし、また特定の命題的知識にも対応していない。右と左を区別することは別に何か命題を述べることではないし、またそれを特定の理論的命題内容(例えば「右は左とは異なる」?)に置き換えてみたところでなんの意味もない。二つ以上の二項対立図式が関係付けられるとき(例えば、右/左と男/女)、それは命題風のものを産出するかもしれないが(例えば「男は右であり、女は左である」)、そうした命題もそれ自体をとると無意味である。「男は右である」という命題が何を意味するか考えてみればよい。それはそれ自体としては、二つの二項対立図式が関係付けられているという事実以上のことは何も意味していない。バーリーが揶揄しているように、それを命題化して語ることによって何か暗黙の哲学でも取り出したような気になるのは滑稽である。

まるで人類学に内在する傾向性のようにすらみえる、この主知主義的、解釈的スタンスには、コスモロジー研究の出発点である「ごちゃまぜの集合体」の構成要素の多くが「象徴」として扱われたことも大いに関係しているかもしれない。少なくとも定義では、意味を伝える事物が象徴である。人類学者が扱う「ごちゃまぜの集合体」は、象徴によって書き記されたテキストに見立てられ、それを解読することによってそれが伝えようとしている「理論」が取り出されるというわけである。

人類学者のコスモロジー概念のなかでいっしょくたにされている諸々のレベルを、きちんと区別する必要がある。世界について、つまり人間と事物、時間と空間、存在と力などなどに関して、理論的な言説が提出され、体系化の試みが現実に見出されるところでは、そうした言説の流通については無論、正しく評価する必要がある。しかし、理論的体系化が人々自身の手によって試みられてはおらず、単に人々の語るさまざまな語りがそれ自体で相互に首尾一貫性をもっているだけであるような場合を、それと混同してはいけない。例えば、義理や人情という言葉を「用いて」我々が常日頃おこなう語りが、ある一貫性をもっており、その体系性を指摘することが可能であるという事実は、我々が義理や人情という概念「について」体系的理論的言説を行っているということも、またそうした体系を理論としてもっているということも、けっして意味していない。我々が義理やら人情やらの言葉を使ってあれこれ語るとしても、それは義理やら人情やらについて理論化するためにそうしているわけではなく、具体的な自己のあるいは他者の実践に対する、ある種の意図をはらんだコメンタリーとしてそれらの語りを行っているだけである。この場合、それら個々の語りが互いに関係しあって、全体としてある体系性を示しているようにみえたとしても、その体系性自体が語りの対象となっているわけではない。語りの体系性は語り自体の中では対象化されていないのである。こうしたケースを安易に「理論」の比喩で語ることは慎みたい、というのが私の第一の提案である。上の例で言うならば、我々が義理とか人情とかの言葉を使っておこなう語りの中に、あたかも暗黙のうちに存在し、ただ人々によって明示的に語られることを待っているかのような形で想像された「義理人情理論」を見て取ろうとするのは止めたい、ということである。

さらに区別すべきもう一つ別の水準がある。慣習や出来事相互の、語りにすら回収されない諸関係の水準である。さまざまな慣行が相互に関係しあって、多かれ少なかれ明確なパターンがそこにまさに見て取れるのに、当の人々の方にはそれらについての言及がないばかりか、あたかもそれらに気付いてさえいないかのように見える場合がある。土地の人々自身が、誰もそのパターンについて語るどころか、個々の関係すらそれとは指摘してくれないとしたら、こうしたパターンが結局、観察者である人類学者の産物であるのかもしれないという疑いがおこったとしても無理はない。コスモロジー研究につねに付きまとってきた問題である。しかし私は、こうした水準の体系性の存在を認めること自体には(それをいかに正当に記述しうるかという難問は別にして)、何の問題もないと考える。ちょうど人が自らの語りの文法性を対象化することなく、文法的に語ることができるように、人は自らの生の文法性(体系性)を対象化することなく、文法的(体系的)に生きることができるのである。語られることのない関係性の領域とは、こうした生の体系性の領域である。語りは、この生の体系性に対する対象化の実践であるが、語りそれ自身も一つの実践として、自らが対象にしているものが服する同一の構図に従う。つまり語りそのものの体系性は、かならずしも対象化されているとは限らない。体系的に語ること自体は、自らの語りの体系性を対象化することなしになされうるという訳である。この語り自体の体系性を対象化する営みが理論的な営みである。

こうした異なる3つの水準--(1)さまざまな慣行の間に見て取られる、語られることのない諸関係の水準、(2)出来事や事物についてのさまざまな語りの間に見て取られるが、対象化されることのない諸関係の水準、(3)それらを対象化する理論的スタンスによって生み出される理論的語りによって可視化された諸関係の水準--のそれぞれにおける体系性の事実と、その相互の関係こそ、コスモロジー研究において主題化されるべき対象である。人類学の従来のコスモロジー概念は、こうした区別にあまり慎重ではなかった。それらを混同し、すべてを最後のもの、明示的な理論に見立ててしまっていたのである。それは人間の行為や、さまざまな慣行をいかに理解し説明するかという人類学の作業に、やっかいな理論的偏向を持ち込むことになる。実践の主知主義的構図がそれである。

実践の主知主義的構図

コスモロジーが世界についての理論的な知識のような形でとらえられる程度に応じて、それは理論とそれに基づいた行為という形で人々の実践に関係づけられてしまう。これが実践の主知主義的構図である。

「実践がコスモロジーに基づいている」という言い方自体には曖昧なところがないわけではない。それは(1)コスモロジーが特定の慣行を根拠づけている--しかじかの振る舞いは、世界についてのしかじかの命題の帰結として理由つけられる、といった具合に--ということかもしれない。この場合、世界についての理論的な知の総体として捉えられたコスモロジーは、なぜある場面であることがなされるかの理由を提供することが期待されている。それは個々の行為に意味を与える。とすると、異なる社会の人々の振る舞いを理解しようとする人類学者にとって、まさにその社会のコスモロジーを知ることがすべての問いに答えを出してくれることになる。

あるいは「実践がコスモロジーに基づいている」というのは、より強い意味で(2)コスモロジーが実践を産み出す--ちょうどプログラムが実行プロセスに渡されるように--ということかもしれない。この観点からすると、行為の表象、行為についての理論的な知、規則などがいわば行為の青写真かプログラムのような位置を占め、行為はちょうどこうした青写真を実現させたり、プログラムを実行したりすることになぞらえられるのである。

この主知主義的な構図こそ、私がコスモロジーという名のもとに主題化しようとしている実践や語りの諸水準に見て取れる体系性の性格をはなはだしく誤認させる元凶である。私のこの論考の全体が、この構図にたいする執拗な批判の試みとしてなされるのだと言ってもよいくらいである。もちろん、この主知主義の構図に対する批判は、人類学に限らず、さまざまな方位から展開されてきた。(1)についての批判のもっとも徹底した立場はヴィトゲンシュタインがフレーザーの「金枝篇」に対する批判(Wittgenstein 1979)の中に見いだされる。そこではフレーザーの呪術論に対する批判の形を借りて、まさに実践を理論的に根拠づける可能性そのものが問われている。一方(2)の構図の方は、哲学者、社会科学者を問わず、より広範に論じられてきている。例えばブルデューの実践論は、もっぱらこの構図の批判の上に立っている(Bourdieu 1977)。

私が後の諸章において取り組むのは(1)の構図である。ヴィトゲンシュタインの批判をさらに発展させる形でこの構図を清算することが、そのねらいである。(2)についてはそれを正面切って論じることはこれ以降あまりないであろう。ここで簡単に(2)に対する批判の大まかな要点を整理しておきたい。

よく充分に考え抜かれた行為においては、状況についての正確な認識や分析に基づいてとるべき行動のプランが前もって立てられ、しかる後にそれが実行に移されるということが珍しくない。我々が日常生活の中で行為そのものを主題化することがあるとすれば、そこでは往々にしてこうした意思決定がらみの行為が問題になっている場合が多い。こうした経験が、行為一般について考える際に、プログラムとその実行というモデルをごく自然に採用したくなる背景にあるのかもしれない。しかし特殊なケースにすぎないものを全体のパラダイムにするのはやはり具合が悪い。実際それはライルが「主知主義者の説話」あるいは「機械の中の幽霊のドグマ」と名付けて論駁した立場を帰結してしまう。これはつまり「なにかを理知的に遂行することは、二つの過程、すなわち実行過程と理論化過程とを含んでいなければならない」という立場であるが、ライルはこれがただちに無限背進に陥ってしまうことを示すことによって、それを退けている。理論化の過程も、それ自体一つの心的な行為であるとするなら、それは再び、それを遂行するうえで自らについての理論化過程をさらに必要とすることになってしまうからである(Ryle 1949:)。

ライルの批判は、批判としてはそれでもう充分であるが、やや不親切なところがある。なぜ慎重な意思決定などとはおよそ無縁であるようなあらゆる行為にまでこの二重化の構図が忍び込むのか、その理由を明らかにしてくれていない。主知主義の哲学にそそのかされるまでもなく、我々はごく自然にこの構図に滑り込んでいるところがある。それはどうしてだろうか。

次のような例で考えてみよう。ある人がチェスを差している。もちろん彼はチェスの規則に従ってもいる。しかしこれを「彼はチェスの規則にしたがって、チェスを差している」と言ったときに、我々はすでに二段がまえの行為の構図に滑り込みかかっている。言うまでもなく彼はこのとき2つの行為、チェスを差すことと同時に、それとは別のもう一つの行為--チェスの規則に従うという行為--を行っているわけではない。チェスを差すという行為が、同時にチェスの規則に従う行為なのである。同じ行為を、それぞれ別の仕方で記述しているというだけで、二つの別々のことを記述しているわけではないのだという点に注意せねばならない。主知主義的な誤認は、この記述の二重性が行為の二重性に取り違えられたときに生じる。チェスを差すという行為そのものと平行して(あるいはそれに先行して)、あたかももう一つの別の行為、規則に従うという行為が行われているかのように考えてしまうのである。規則に従うというメンタルな行為が遂行され、しかる後に駒を動かすというフィジカルな行為が遂行される、こんな風に一つの行為を2本立ての行為として捉えてしまう、ライルが「機械の中の幽霊」理論として批判する構図がこうして入り込む。

あるいは赤信号を見て立ち止まる人の行為を例にとったほうがわかりやすいかもしれない。もちろんこれは交通規則の一つに従う行為でもある。「彼は赤信号を見て、交通規則に従って立ち止まった」という言い方もごく自然な言い方である。しかしだからといって、赤信号を認めることと立ち止まることの間の一瞬のうちに、彼がもう一つの別の行為--規則に従うこと、つまり交通法規の参照とそれに対するなんらかの心的な操作--を遂行したのだと考えるとすれば、かなり馬鹿げたことになる。ここでも記述の2重性が、行為の2重化に取り違えられようとしている。実際には「赤信号を見て立ち止まる」という行為が「しかじかの交通規則に従う」行為として記述できるという関係なのであって、赤信号を見て立ち止まるという行為の他に、それとは別に「規則に従う」という行為が行われているわけではないのである(註2)

たまたま規則に従う行為を例にとったが、これは決して規則に限ったことではない。家に入る際におもむろに履物を脱いでいる人は、もちろん「内と外」の区別を行なっている。だからといって彼が家に入る行為とは別に、もう一つの行為--内と外を区別する行為--を行っているわけではない。そうしたやり方で家に入るということが、すなわち内と外を区別しているということなのだ。ここでも問題になっているのは、二つの別々の行為ではなく同じ行為に対する二つの記述--同じ一つの行為が二つの異なる記述のもとで眺められているということ--なのである。しかし主知主義の構図のもとでは、これが2段階の行為と勘違いされてしまう。まるで、区別するという認識行為がまず行われ、ついでそれを踏まえた家に入るというプロセスが実行されるのだとでも言うように。記述の2重化が、プロセスの2重性と取り違えられている。日曜日に犬小屋を作ることが、家族サービスをすることとも記述できるからといって、彼が異なる二つの行為を行なっているなどということにはなるまい。同じように、ある行為が、規則に従うこととか区別することとかとも記述できることが、その行為を二つの別々の行為の同時遂行あるいは段階的遂行にするわけはない。主知主義の構図が犯しているのは、こんな馬鹿げた誤認なのである(註3)

「機械の中の幽霊」についてはこれで充分であろう。しかし、行為をまさにその瞬間ごとに理論的な知によって生成されるような2重のプロセスとして捉える見方を、こうして退けたとしても、(1)の構図、つまり理論的な知が行為の「理由」あるいは「根拠」であることを退けることにはもちろんならない。そして実際、規則についての知識や、世界について知っていることが、特定の行為の理由として提出されることはごく普通のことなので、この構図を否定することなど思いもよらない企てに見えるかもしれない。実際、私はそんなことを意図してはいない。私が反対したいのは、この構図が行為一般のモデルの位置を占め、理論的な知に人間の経験する現実の究極的な根拠のような位置が与えられてしまう場合である。そして人類学においてコスモロジーが占めているのが、まさにそうした位置なのである。私は、むしろ究極的な無根拠性をそれに対置させるだろう。そしてこの無根拠性こそが、様々に変化しうる秩序の源泉であることを示したいと思う。

コスモロジー概念に対する私の修正の提案は、ここまでのところ2つの点に関していた。コスモロジーを理論になぞらえてとらえる従来の見方を退け、この見方が共犯関係に立つ主知主義的な実践理解の構図から距離をおくこと、そして人々の実践および語りのそれぞれの水準で見て取ることができる体系性を主題化することである。人類学におけるコスモロジー概念のもう一つの特徴、つまりそれが集団によって保有されている知識だとされている点も、きちんと清算すべき点である。しかしこれはコスモロジー概念そのものの問題というよりは、むしろ人類学と民族誌自体の対象規定の問題にかかわっている。少々の回り道が必要である。

集団がもつ知識

コスモロジーに限らず、人類学ではさまざまな知識体系を集団が保有する知識と見立てている。なによりも文化の概念からしてそうである。しかし、そもそも「集団」なるものが、いったいどんな形でどのようにして知識を持ったりすることができるというのだろう。素朴な問いではあるが、きちんとした答えはあるのだろうか。それは集団の全員がそれぞれ同じ知識を保有するという形で「集団」のものとなるのだろうか。それとも集団が持つ知識とは、その成員がそれぞれ持つ知識の合算なのだろうか。あるいは誰か特別な人がその知識をもっていれば、そのことが集団がそれを保有しているという意味になるのだろうか。それともそれは個人の知識である必要はなく、知識はどこかになんらかの形で保管されていればよいのであって、集団はその保管装置を所有し、そこからの知識の引き出し方を握っているということなのだろうか。集団が保持している知識とか文化とかの観念には、よく考えてみるとどこか不明瞭なところがつきまとっている。そもそもそれら知識を「集団」との関係で問題にせねばならない理由が本当にあるのだろうか。

人類学は、なになに族、なになに人と呼ばれる特定の人々について、あるいはその人々の(作り上げている)社会、その人々の(保有している)文化について研究し語る学問であるという風に自らを理解し、またそのような学問として他からも受け取られてきた。これはそんなに自然なことだったのだろうか。ある特定の時期に具体的に彼が研究し分析し記述しているのが、例えば、特定の災いに対するある特定の治療法とその実践であったとしても、何人かの人から話して聞かされた世界の始まりについての一群のお話であったとしても、ある期間にどこかの村で行われた一連の裁判の記録であったとしても、それらがすべて結局は、なになに族なになに人についての研究だという形でくくられてしまうというのは、考えてみればあまりにも乱暴な話である。人類学者の側でも、民族や社会なる実体を対象として確定することの困難について、さんざん繰り返し語ってきた(Leach 1954, Moerman 1965)にもかかわらず、「私はなになに族を研究しています」といった形で自分の研究を手っ取り早く紹介することがごく普通である(註4)。まるで彼の研究すべてが最終的になになに族、なになに人の、いわば肖像画でも描くことを目指しているかのようではないか。事実、彼の研究の産物は「民族」誌 ethnography と呼ばれている。なにか根本的に勘違いしてはいないだろうか。

基本的な問いから考え直してみよう。人類学者がフィールドで出くわす具体的個別的な出来事から出発して、そうした「社会」なり「民族」なりといった対象について何かを語るということは、実際にはどうすることなのか考えてみればよい。それはちょうど個々の犬についての事実を一般化することによって「犬」というカテゴリーについて語るようなものなのだろうか。つまり、「なになに人」を構成する個々の人に共通に見られる何かを語ることなのだろうか。この時、我々は「なになに人」というカテゴリーを個に対する類の関係に比して語っている。それともそのカテゴリーについて語るべきなのは、そこに属する個々人についての事実の総和なのだろうか。つまり、動物園について語るために、そこにある動物の檻一つ一つについての記述を積み重ね、個々の檻が互いにどう関係しあっているかを記述する、といったことに近いのだろうか。この時、我々はそのカテゴリーを個に対する全体、部分に対する全体の関係に比して語っている。いずれにせよ、この二つの場合に限って我々はまさしく「なになに人」というカテゴリーについて語っているのだと言うことが正当である。個人と彼が所属する「なになに人」との関係は、個と類の関係であるか部分と全体の関係であるかの、いずれかの形をとるしかないからである。「なになに人」というカテゴリーについて語るということは、前者においては、そのカテゴリーに属する個々人に共通に見いだされるものについて語ること、すなわち個々人の間の等置関係(隠喩的関係)について語るということであるし、後者においては、個々人を互いに、そして全体に対してつなぎあわせる換喩的関係について語るということであろう(註5)

人類学の対象を「なになに人」や「なになに社会」といった集合態であると規定することは、したがって、人類学を一種の「博物学」--そこでは「なになに人」なる対象は誤って自然種になぞらえられる--か、さもなければ一種の「解剖学」--そこでは「なになに人」なる対象は誤って一つの有機体になぞらえられる--にしてしまう危険と背中合わせである。人類学は事実こうした方向に、とりわけ博物学に近い形で想像されることが稀ではなかった。明らかに人類学の形成期は博物学的なパラダイムによって特徴づけられていた(Thomas 1995: 89)し、文化相対主義のある形態は博物学的な構図の偽装としてよりよく理解できる。そこではそれぞれの民族集団は、まるで自然種が相互に区別されるように、互いに独自の存在だと想像される。それぞれのカテゴリー間の差異は、もちろん自然種におけるような生物学的な諸特徴の差異ではなく、「文化」的な種差であるというわけである。一方、個人を彼が所属する家族に、そして親族集団、地域集団その他の社会集団に関係付けることを通じて全体社会に接続させる社会構造の分析は、ラドクリフ・ブラウンの有名な有機体の比喩を思い出すまでもなく、個人を上位のカテゴリーにつなげるもう一方の想像力の軸を示している。

しかし「なになに人のコスモロジー」、「なになに族のもつ知識」などが実際に指し示しているものや、そこに到達するために具体的にとられている手続きを見てみれば、それらが本来こうした個と集合態の構図--要素と類の相で捉えられたものであれ、部分と全体の相で捉えられたものであれ--に回収できないものであることはあまりにも明らかではないだろうか。たとえばある事柄をめぐっての「なになに人の知識」について書こうとしている人類学者が実際には何を記述することになるのかを考えてみよう。それは複数の、それもしばしば馬鹿にならない数の人々から手に入れた情報の集積、つまりさまざまな人々がさまざまな機会に語ってくれたことの集積を、その中に見て取られたパターンにそって整理したものであろう。それは単に共通項を取り出すこととも、平均を求めることとも、またすべてを単にただつなぎあわせることとも異なっている。さまざまな人々から得た断片を関連付け、それらがある体系性を持ったより大きな全体の一部になるように組み立てるという方が近いだろう。しかし彼が取り出し描き出してみせるこうした「なになに人の」知識体系は、まさに彼が用いるその手続きによって、特定の単一の個人の中に回収することが原理的に不可能なものになる。それを一人でそっくり抱え込んでいるような個人など、ちょうど広辞苑の全語彙をすべてもっている個人が非現実的であるのと同じく、おそらくは一人もいない。ましてやそれがすべての人々に共有されている可能性など皆無である。したがって、彼の記述したものは、少なくとも、類としての「なになに人」に関する記述の一部ではあり得ないことになる。それはまた部分に対する全体としての、つまり類ではなく、個に対する全体としての「なになに人」についての記述の一部にも、もとよりなりえない。彼はたしかに一つの全体を描き出そうとすることになるが、それは個人や彼に関する事実を構成要素とする全体ではないからである。その体系に個人の集合態としての「なになに人の」という修飾語を冠することの理論的な意味は皆無である(註6)

記述の対象を「文化」と言い直してみたところで当然変わりはない。その場合でも人類学者は、同じような素材--フィールドで多くの人々が語ってくれたこと--を同じような仕方で扱っている。しかし文化の概念ほど「博物学」の構図に絡めとられている概念もまたない。例えばそれはこんな風に語られる。「物ごと、行動、情緒感情といった現象を、感覚し組織化していく、ひとつの固有な体系が、それぞれの集団に存在している。これこそが文化であり、その文化を秩序づけ組織化するひとつの体系、すなわち認識体系を発見することが、認識人類学の最終的な目標なのである。」(松井 1991:7)ごくありふれた語り口である。文化は集団の保有する、その集団に固有のものであるとされている。しかしそもそも集団なるものは認識したりせず、結局認識とは個々人がおこなう作業なのであるから、認識体系のようなものがあるとすれば、それは少なくとも個人が持っているものでないことには話にならないだろう。さらに行動し、感情を持ち、感覚するのも、結局は集団ではなく個々人なのであるから、こうした「固有の体系」も個々人が各自もっているという形でしか想像しようがない。要するに「集団に固有の」ということは単に「集団の誰もがもっている」という意味なのだということになる。この定義では文化とは、個に対する類としてのカテゴリーの属性、その成員の共通属性とされるしかないことがわかる。しかしそこで実際に記述されるものは、複数の人々の語りの共通部分をとったものであることなどめったになく、むしろその中に体系を見出すべく出所の異なる複数の人々の語りを総合するという手続きの産物であり、とても一人の個人に回収できない代物である。つまりこうした文化概念は、とんでもない自己撞着を含んだものになってしまっているのである。それとも、それをあくまでもその集団の成員全員がひとしく持っているものだと強弁することになるのだろうか。これは単に事実に反する主張であるというだけではない。そのときこそ、人類学は文字通り、人間についての一つの歪んだ「博物学」となり、一つの集団を均質で硬直したものに描いているという批判をまさに甘んじて受けるべきものになる(eg. Rosaldo 1989: 43)。

多くの人から話を聞きながら、それを総合し、しかも単に個々の語りを加算するだけではなくその言説の集積の中にパターンを見出していくというやり方は、人類学のやり方の可能な一つの選択肢、一つの方便などではない。私は、まさにこれこそがフィールドで人類学的な知が構築されていく方法であったと考えている。しかし皮肉なことに、文化にせよ知識体系にせよ、体系がこうした形で取り出されるという事実が、おそらく何らかの集合態をその体系の保有者として要請する原因の一つになってしまっているのかもしれない。こうして描き出された知識体系が、どの具体的な個人のもつ知識にもなり得ないのだとすると、それはいったい「誰」の知識なのだろうか、という訳だ。人類学者の知識だ、というのでは冗談にもならない。知識保有の主体としての集合態を召喚して、「なになに人」の知識だと言ってしまいたくなるのも無理はない。そして、いったんこうした主体が呼び出されてしまうと、それは今度は博物学的な構図か解剖学的な構図を通してしか、その集合態を構成する個に接続することができない。こうして自己撞着をかかえたままの堂々巡りが繰り返される。個人と集団、個と集合態の軸上で想像するのを止めたとき、人類学は自らの対象と方法を、もう少しありのままに見ることが出来るようになるだろう。

語りにおける陳述と文

前項の議論は一言で片付けてしまえば、フィールドで人類学者が収集した(主として人々の語りに由来する)資料--リーチの言うところの「ごちゃまぜの集合体」--の中に見出される体系は、集団の属性でもなければ、集団成員個人の属性でもない、というだけの話に過ぎない。もしこの体系性を個々人に内蔵された体系の属性のような形で--それゆえ集団によって保有されたものとして--考えることができないというのなら、その体系性は何に由来するものであり、どのような権利をもっているものなのかが問われるべきであろう。あるいは改めて問うまでもないことかもしれない。それは語りの秩序である。

語りはそれぞれが一回性の、具体的で個別的な出来事である。それはつねに特定の場所、状況で、特定の意図や狙いをもって特定の個人の口をとおしてなされ、その語り手である個人と結び付いている。つまりそれはつねに、特定の個人「だれそれさんの語り」である。しかしこの「だれそれさん」と彼の語りとの結び付きは、それを制作者と作品の関係ととろうと、あるいは少々まと外れであるが、所有関係と考えようと、いずれにしてもそれほど絶対的なものでも独占的なものでもない。語りのうちには、その出来事としての個別性、語り手の固有性を超え出ていく部分がある。そもそも私の語りの意味自体、私以外の者によって語られるしかないような他のもろもろの語りとの関係においてしか決定されない。私は私一人で私の語りの意味を決定するすべてを語るわけにはいかないからである。私の語りは常に他者の語りの存在を前提としている。さらに、当たり前すぎてつまらないことだが、私の語りを構成するどの言葉をとっても私自身の発明によるものなどなく、さまざまな他者から手渡された語りに由来するものだという事実がある。身の回りのさまざまな事物や出来事について私が語れること、つまり世界についての私の知識にしても、その大部分は私が他者の語りを自らに引きとる形で手に入れたものにすぎない。私が自前で世界そのものから調達したものなど、仮にあるとしてもたかが知れている。私自身が貢献している作業はといえば、他者から引き取った語りの諸断片を組み替え、引用し、つなぎ直して、別の他者に投げ出すこと程度のものかもしれない。語りという出来事そのものが、それを他者に対して投げ出したり、引き渡されたりすることであって、まるで出したからにはもう引っ込めるわけにいかない贈与のように、つねに私と他者との間隙における出来事なのである。

語りにおける、特定の誰かによる特定の場所と時間における実践・出来事としての側面と、そうした個別性を越え出ていく側面の区別を、オースティンは陳述 statement と文 sentence の区別というかたちで捉えようとしている(Austin 1961:119-121)。彼によると、例えば「それは私のだ」という「文」は異なる話者によって--例えば私によっても、あなたによっても--語られることができ、それ自体は「真」であるとかないとか言うことができない。特定の誰かが特定の状況で言う「それは私のだ」という「陳述」についてのみ「真」であるかどうかを問題にできるのである。主体は「陳述」に対しては特権的な位置を占めていると言えるかもしれない。陳述は、それぞれが一回的な出来事であり、ある歴史的瞬間における他ならぬその語り手にしか結び付くことができないからである。それに対して語り手は「文」に対しては、その様な特権を要求すべくも無い。「私の陳述」をあなたが行なうことは出来ない相談だが、私の語ったまったく同じ文を、あなたも口にすることが出来る。

オースティンの、実は当たり前の事実の指摘にすぎないこの区別は、語りが一方で特定の状況、特定の具体的な語り手に結び付いた反復不能な一回性の出来事でありながら、他方でその特定の状況から離脱し異なる語り手、異なる状況に反復的に移植されうるという、語りの持つ特性を浮き彫りにしてくれる。オースティンの言うところの「文」を必ずしもその名で呼ばれる言語学上の単位に限って理解する必要はない(ましてや文法書の例文として登場するそれにまで貧弱化して考える必要など毛頭ない)。ここで言う「文」とは要するに、陳述の個別性や出来事性を取り去られ、他者の陳述に移植可能となった語りの姿である。組み替えられたり変形されたりして、その都度の陳述を形成しながら人から人へと受け渡され流通してゆくという、この「文」としての側面は語りにとって付随的なものであるどころか、その本質である。この移植可能性こそ、コミュニケーションを可能にする根拠でもある。我々はこうした「文」が、個別的な陳述を介して流通、転移、変形、結合していく空間を想像してみることが出来る。その都度の陳述が形作るコミュニケーションの、絶えず形を変える網の目状の連鎖からなるその空間には当然、明確な境界もないし、地理的な空間と同じ広がりを共有するわけでもない。こうした想像上の空間を「言説空間」とでも取り敢えず呼んでおこう。それはある点で、社会的空間ということの別の言い方に過ぎない。「文」の流通という角度から見たとき、この空間での我々の語りの行為は一種の「伝言ゲーム」に似た側面をもってくる。

変形したり組み替えられたりしながら流通していく語りを主人公に据えて眺めてみたとき、語る主体はどこかからもたらされた無数の語りを受け取り、それを自らの貯蔵庫に一時保持したり、組み替えたり変形させたりしながらさらに別のポイントに送り出す中継ポイントのようなものとしてイメージされるだろう。それぞれの「文」たちは、中継点となる人間たちを用いて、その言説空間を姿を変えつつ渡り歩き、広がり、この空間に留まり続けようとする。こうして「文」たちは、この仮想空間上に複雑な模様を描き出す(註7)。人類学者が取り出す体系性とは、まさにこのパターン、流通する「文」たちを個とする上位の体系性なのである。

ただこの「文」の転写・変態・流通・拡散を単純に「伝言ゲーム」と言ってしまったのでは誤解が生じるだろう。子供たちの集まりなどでよく遊ばれる伝言ゲームの場合、それぞれの語り手はメッセージの産出には一切かかわっていない。彼は直前のプレーヤーが彼に語ったことを、ただそのまま次の人に伝える。もちろんご存じのように、このゲームの面白さは、実際にはどの語り手によっても意図されていないのにメッセージが形を変えていってしまうという点にある。実は「陳述性」がしっかり紛れ込んでおり、「文」の転写の不正確さという形で、それぞれの語る主体はやはりメッセージの創造者でもあるのだ。一方、言説空間を構成する複雑な枝分かれやループを含んだ「伝言ゲーム」では、この関係はむしろ裏返しにして捉えるべきだろう。つまりそれぞれの語り手が積極的な陳述者、一回きりの語りの出来事の創造者としてプレーしながら、結局は「文」の移植と転写に精を出してしまっているという、言わば裏返しの伝言ゲームである。こうしたとらえ方が語りの陳述としての側面、つまりそれがつねに具体的な個人による具体的な実践であること忘れることであってはならないという点は、あらためて強調するまでもあるまい。個々人は語ること自体を目的に語っているわけではなく--ましてや単なる語りの複製の流布を意図していたりするわけではなく(もちろんそれが目的とされている場合もあるだろうが)--自己や他者の行為についての是認や正当化や批判のコメントとして、あるいは忠告や意見や嘆願や命令として、あるいは自己と他者の行為や出来事に対する影響力の行使の一形態として語っているのだと、わざわざ強調する必要があるだろうか。私がここで指摘したいのは、まさにこうした陳述行為が、一方で「文」の伝言ゲーム的な流通という側面を同時にもっているという事実である。

遊戯の伝言ゲームでは、個々の語り手はただ受け取った語りをそのまませっせと反復転送しているつもりでいる。受け取っては次に転送している一連のメッセージが、後から振り返ってみれば互いに関係しあっていたと判明したとしても、それはメッセージの中継ポイントに過ぎない個々の語り手のあずかり知らぬことである。現実の言説空間においても、個々の主体がそれぞれ一回きりの陳述行為のつもりでおこなっている、反復・移植可能な「文」の転送ゲーム--裏返しの伝言ゲーム--が浮かび上がらせてしまうパターンや体系性を、語る個々の主体に帰すことは出来ない。それは個人にも、集団にも回収させることの出来ない体系性であり、まさにそのことこそ体系性が「社会的に」形成されたものであると言うことの意味なのである(註8)

おそらく、こうした言説空間とそこを流れる語りたちが作り上げる体系性をトータルに対象化しうるような特権的な位置は存在し得ない。言説空間は、その外部からは単なる無であり、そこに接続することを通じてのみその姿を開示する。それは目の前の群衆の演じるパントマイムの光景を眺めることしか出来ない行き摺りの旅人には、けっしてうかがいしれない、しかしひとたびそこに接続するとすべての光景をまったく別の色彩に染め上げてしまう、濃密な空間である。そして言説空間への接続はつねに、歴史的に限定された個別の実践であるので、その姿は特定の接続点からの特殊な景観以上のものにはなりえないのである。まさにこれこそが人類学者の実践であり、その結果彼に与えられるものである(註9)。人類学者はフィールドにおいて、語りを求めて多くの人との出会いと交流を繰り返しているわけであるが、その一つ一つ--あるものはつかの間で浅く、あるものは深く反復的な--がそれぞれ、そこに広がる言説空間への接続の瞬間である。こうした接続を通じて人類学者が職業的に遂行している、さまざまな観測点における測量作業のような実践は、この空間に帰属しそこを流れる「文」たちを同定し、その相互の関係を明らかにしようとする作業だったのだと言えるかも知れない。

たかだか数人の人から聞いた話Pをもとに、「人々によるとP」「〜人のあいだではP」などと書いて後ろめたさを感じたことのない人類学者がいるだろうか。Pをあたかも全員に共通の見解、誰もがもっている知識であるかのように提示することに対する後ろめたさであるが、その割には、本気で全員の裏付けをとろうとしたり、多数決や〜人100人に聞いてみるといったタイプの調査に訴えたりする人類学者は、けっして多くない。本当に人類学者が求めていたのは、人々全員に共通の見解や知識のようなものだったのだろうか。もしそうだとすれば、たかだか数人についての確認では充分でないことはあきらかである。しかしPがある言説空間に帰属し、そこで流通していることを確認することだけ--現実には単にそれを問題にするだけでは終わらないであろうが--が目的であれば、数回の互いに独立した接続を通じて同じPが確認できれば確かに十分なのである。人類学の作業はむしろこちらに近いものだったのではないだろうか。

私は私のフィールドを、人々が暮していく上での諸問題の処理にかかわる手続きについての知識が互いに交換され、同時にそうした手続きの具体的な実践に対する相互の観察が行なわれる(したがってそれについての批評的なコメンタリーが交換される)場として--ここでの言い方を用いれば、そうした言説空間として--とらえている。この言説空間のなかでこうした実践についての語りにどのような体系性が見出せ、儀礼的な手続きについての知識がそこでいかなる性格をもちどのような位置を占めているのかを明らかにすることが、私のコスモロジー研究の基本的な作業となる。「ごちゃ混ぜの集合体」が少しずつその体系性を明らかにしていくのは、まさにこうした過程をつうじてなのである。

註釈

註1たとえばグリオールやディーテルランによるドゴンの神話の記述などは、それがはっきりと現地の誰かによって明示的に語られたものであることを示す数少ない例外の一つである。人類学者が対象社会に、なにやら深遠な思想を見出すことは稀ではないが、それが実際に現地の人々の誰かの口から出たものであると信じてよい例は、私見によるとけっして多くはない。

註2赤信号で「交通規則に従って」停止した人と、交通規則は知らないがただいっしょに歩いている人がとまったのでそれに合わせて停止している人がいる場合、前者のみを規則に従う行為として記述できる理由は、その行為そのもののなかにはない。実際、後者の人と話をしてみて、彼が「規則」のことをまったく知らなかったと判明しない限り、彼の行為を「交通規則に従った行為」と記述することを妨げるものは何もない。しかし彼が、赤信号では止まらねばならないという規則を知らないのだと判明してしまえば、彼の行為を規則に従う行為と記述することはもはや不可能である。が、誤解しないようにしよう。この二人の違いは、赤信号に際して停止した際に、一方が信号で停止するという行為に加えて別の何か--規則に従うという行為--を密かに遂行していたかどうかによる違いなどではない。
同様に、たとえば野球である男が一塁から二塁に走塁する行為を「しかじかの野球規則に従う行為」として記述してよい条件は、けっして彼が一塁から二塁へ走ることに加えて、規則に従うという何か特別な行為をおこなっているかどうかなどではない。彼が野球を知っているかどうかは重要な基準である。つまり彼がかつて一連の規則を教えられ、その規則を身につけるよう訓練されたという事実は、彼の問題の行為が「規則」に従った行為だったのかどうかを判断する際に、重要な知識である。しかし彼がその行為の遂行において何か特別な心的行為を同時に遂行していたかどうかは、まったく場違いな問いである。

註3もちろんこの揶揄はいくぶん不当である。アンスコムが論じているように(Anscombe 1957)、いかなる行為も複数の記述のもとでとらえられる。しかしこの記述の複数性が、いつもプロセスの複数性に取り違えられるという訳ではない。どのような場合にこうした取り違えが起るのかは興味深い問題であるが、ここではそれには深く立ち入るわけにはいかない。複数の記述が、それぞれ論理階型の異なるタイプに属する記述である場合に、そうした取り違えが生じているということは、少なくとも言えるかもしれない。

註4 これに関連して言えば、民族や社会といった集合態を対象とした、あるいは民族や社会の標準的成員であるかのように振る舞う匿名の登場人物たちによる物語のいかがわしさに嫌気がさして、いっそのこと現実に出会った固有名を持った個々人を主人公にした物語を書いてしまいたいという誘惑は、民族誌の可能なオプションとして常に存在していた。人類学者は、彼の知り合うことの出来た、数も限られた個々の個人についての経験とは別に、いったいいつ「民族」や「社会」なるものを経験したというのだろう。少なくとも私には特定の個々人とお付き合いした覚えは確かにあるものの、民族や社会などと直接お付き合いした覚えはない、具体的な諸個人とは別にそんなものを実体として考えるのは誤りである、というわけである。しかし具体的な諸個人について書こうとしたこの人類学者も、それら諸個人がすでに個人を越えた体系性の中におり、そうした体系性に絡めとられた存在であり、それを無視することが非現実的な抽象に過ぎないと悟ることになる。そしてその個人を越える体系性を、再び集合態の属性と勘違いして、振り子を大きく振り戻すことになる。個人−集合態の軸上に研究の対象を捉えようとすることが、そもそも不毛なのである。

註5 カテゴリーを構成する唯一の仕方が、それに属する要素から構成するというやり方だと主張しているわけではないことを、一応断っておこう。カテゴリーは他のカテゴリーとの対立や、それらとの位置関係によって規定されているという事実を無視しているわけではない。それを一応考慮にいれた上で、ここでは要素との関係に絞って問いを立てているのである。

註6論点先取の危険を犯して言うならば、彼がとりだすこの全体性、体系は、「社会的なるもの」についてかつて想像された全体性、体系性に似ている。「社会的事実」と、個人についての事実との特殊な接合こそが「社会的なるもの」の領域に独特の性格をあたえる。例えば社会についての事実である「分業」と、個人についての事実として語りうる「職業」との関係をみればよくわかる。「職業」を個人についての事実としても語ることはできるかもしれないが、「分業」を個人についての事実として語ることなどできないであろう。個々人の「職業」から出発して「分業」について語ることは、一般化とも、単に個々人についての記述を積み重ねる作業とも、全く別である。分業という事実は個人の職業をいくら一般化しても出てこないし、個々人についての事実の単なる累積は、単に人々が異なった職業を持っているという事実を示すだけである。分業とは、それら個人についての事実である職業がなんらかの上位のシステムの要素として捉えられたとき、そのときに始めて可視化する事実なのである。つまりそれは「個人」についての諸事実が、その下位の要素に当たるような、上位の体系性--ある特定の眼差しのもとで可視化するパターン--である。

註7まるで「文」に意志でもあるかのような荒唐無稽なイメージではあるが、私が人類学の作業をそこに接合しようとしている言説空間という場を想像してみる手助けにはなるだろう。風邪のヴィルスにしても別に広まろうとか生き永らえようとかの意志があるわけではないが、そうした想像を引き受けうるくらいだから、言説空間についてのこの比喩の荒唐無稽さも見掛けほどのものではない。

註8 しつこいようであるが、個を超えるこの体系性を個と集合態の軸に重ねてしまい、それについて語ることが個人を超えた集団について語ることだと勘違いしてしまうのは避けねばならない。既に「文化」の概念について見たように、この勘違いのなかでは、体系性は「なになに人」のような集合的主体のうちに首尾よく回収できたと見えて、結局は再び個々人に内在し、共有されているという形で、個に還流してしまう。社会的なるものが個人に吸収されるという理論的転倒が起ってしまうのである。ちょうど出来事としての語りであるパロールの上に/背後に見て取ることの出来る体系性ラングが、まさに出来事としてのパロールの個別性を超出しているその存在性格のゆえに「社会的なもの」とされていながら(eg. コンスタンタンのノート、第三回講義、断章番号 245-247、 丸山 1981:83-84)、後々のチョムスキーらの言語学において顕著なのだが(Chomsky 1965)、同時にまるで個々の語り手に内在するシステムででもあったかのように扱われてしまったように。そのとき、言語が社会的であるという事実は、つまらぬ自明の話になる。それは今や、単に同じシステム(能力)が全員によって反復されるという以上のことを意味してはいない。それは、そこに所属するすべての個に共通の属性、類の属性でしかない。しかし、すべてのキリンの首が長いという事実が、キリンが社会を持っているということを意味しないのと同様に、そのとき言語は社会的なるものの指標であることを既に止めているのである。事実、チョムスキーの「理想的話し手・聞き手」のモデルは他者の存在をまるっきり必要としていない。
実際にはソシュールが思い描こうとしていたラングにせよ、人類学者がフィールドからつかみとろうとしたコスモロジーや文化にせよ、それは個人であれ集団であれ、なんらかの主体を立ててそこに回収するというかたちでは原理的に把握不可能であるような体系性であった。そこでは、博物学的な眼差しがその前でまさに挫折せざるを得ないもの、真に社会的なるもの、が問題になっていたのである。

註9 言説空間自体を対象化することを可能にするような特権的な位置がありえない理由の一つは、言説空間そのもののがどのように出来ているか、それがどういうネットワークとして出来ているのか、などについての知識も、その当のネットワークを流れてくる語りを通じて手に入れるしかないという点にある。人類学者の手に入る眺望は、特定の言説空間のネットワーク上の具体的な一ノード=接合部からの眺望であるという点で、他のすべての人の手に入る眺望と同様に特殊であり、それなりに特権的であり、また限定されており、変りばえがないという点は、はっきり自覚しておく必要がある。


参考文献

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