秩序と災厄:ドゥルマの屋敷における順序とその乱れ |
ミジケンダの人々のあいだでは、病気やさまざまな災厄が、ある種の命令や禁止規則の違反と関係付けて語られることがある(註1)。本章ではドゥルマの事例にもとづいて、ドゥルマ語で「ドゥルマのやり方(chiduruma)」と呼ばれているこの種の規則について検討する(註2)。数ある「ドゥルマのやり方」のなかでも屋敷をめぐるものに絞って、規則の違反を災因として語る語りの特殊性について、およびこれらの規則がどのような秩序を前提とし、また提示するものであるかについて、の2点を明らかにしたい。
男:ほら、つい先日、そこであったことだよ。あのカーチェに、ルブノのための婚資が支払われた。ルブノの婚資が届いた際に、それはそのままンジラに持っていかれてしまったんだよ。
筆者:ああ、ズマさんの奥さんのね。
男:さて、娘(ルブノ)は、最初の子供をやどした。その子供は死んだ。二番目の子供をやどした。その子も死んだ。ほらね。そこであちら(婚家)のムバブさんが、占いに行った。行って言われたことには、『この婚資に間違いが起こった。婚資そのものにね。だからこの娘はここでは子供を産むことは決してあるまいよ。』
筆者:ルブノさんね。でもいったい、どう間違いが起こったというのですか?
男:誰にも産んでもらえなかったんじゃないか!そんな訳でルブノは連れ戻された、あちらからこちらに連れ戻された。母親に産んでもらうために。母親が、あの娘を産むようにと。
ドゥルマの一村落での1993年の調査の際の事件であった。カーチェは夫と死別した後再婚せず、そのまま父ズマの屋敷に身を寄せている未亡人であった。彼女の娘ルブノは数年前に結婚していたが、子供に恵まれず2回の妊娠は何れも死産に終わっていたらしい。またルブノ自身も病気だといわれていた。夫の両親によって占いが諮問され、それはおそらくルブノに対して支払われた婚資が「追い越されている」せいであろうとされた。この結果はただちにカーチェの住むズマの屋敷に伝えられた。
婚資(mali)の受け渡しにはさまざまな手続きが伴うが、決定的に重要だとされる一つのきまりがある。娘の婚資を受け取った両親は通常の性交渉に先立って、一夜の禁欲とそれに続いて一度きりの特別な性交--マトゥミア(matumia)と呼ばれており、無言で行われねばならないとか、ときにはベッドを使ってはならないとか、さまざまな制約によって日常の性交とは区別されている--を行うことによって、その婚資を正式に「産(ku-vyala)」まねばならない、というのがそれである(註3)。これによって婚資は、ドゥルマの言い方を用いれば、娘の両親の「からだの内(mwao mwirini)」にきちんと「置かれる(ku-ikp'a)」ことになる。この手続きがとられないままに、娘の父親が別の妻と関係をもったり、あるいは娘の父母のいずれかが愛人と関係を持ったりしてしまうと婚資は「追い越され(ku-chirwa)」てしまう(註4)。婚資が「追い越」されると、娘の健康がそこなわれたり、子供が産まれなかったり、また婚資として支払われた家畜も病気になりすべて死に絶えてしまうといった災いにみまわれる。
はたして、夫のいないカーチェはルブノに対して支払われた婚資を「産む」手続きをとってはいなかった。婚資はそのままズマの家畜の群に加えられていた。
<ところでズマが自分の妻たちと性関係をもたなかったなどということがあり えようか。婚資はカーチェの代わりに、父とその妻の「からだの内に置かれ」 てしまったのだ。ルブノは彼らの子供だったとでもいうのだろうか?>
問題の解決のため集まったズマの屋敷とつながりのある長老たちはこんな風に語りあった。このとき陰でささやかれていた噂は別の解釈を主張していた。
<ズマの第2夫人ンジラはズマと折り合いが悪く、外に恋人をもっており、婚 資が支払われたおりにもこの恋人と関係を持ったのだ。これが婚資に「間違い をもたらした」のだ。>
いずれにせよ婚資はたしかに「追い越され」てしまっていた。これが人々が出した結論だった。婚資として支払われた家畜に何が起こったかは問題にされていなかったし、私も確認し損ねた。しかしルブノの病気と死産に関してはルブノに対して支払われた婚資を正しく産む手続きをズマの屋敷の人々が怠っていたせいだったことが、ともかく確認されたわけである。ルブノは屋敷につれ戻され、しかるべき「治療(uganga)」の後にあらためて夫側から形ばかりの婚資(ヤシ酒と小額の金)が払われた。これで婚資は支払いなおされたものとみなされた。ズマは金で一人の男を雇い、カーチェはその男と性交を行った。こうして婚資は彼女自身によって無事「産み」直された。やがてルブノは健康を取り戻し夫のもとに帰っていった。私が調査地を去ったときルブノはまだ妊娠していなかったが、人々はそれが程遠くないことを期待していた。
単純に考えるとこの事例は、婚資の受け渡しに関する規則の違反の結果、婚出した娘に災いがもたらされた例、規則の違反が災いをもたらすことのきわめて明白な実例ということになろう。実際、私の調査期間中人々が好んでこの例を引き合いに出して語ったのも、一見些細に見える規則違反がいかに人に災いをもたらすものであるか--人々自身の言い回しでは、「ドゥルマのやり方がいかに人を捕らえるものであるか」--だった。冒頭で引用した男は続けて言う。
「そうとも。それが(産む手続きが)とられなかったために、婚資に間違いが 起こった。あのカーチェにしても、彼女の娘がめとられて、訪ねてみれば(娘 が)いつも泣いてばかりいるという具合だった。そう。実際、ドゥルマのやり 方は人を捕らえるからね。それぞれは小さい、とるに足らないことだ。でもそ れは捕らえる。そうとも、それはそれは完璧に捕らえるんだよ。それでいて、 一体それがどうやって捕えたのかは、けっしてわからない!」
カーチェのケースが、規則違反がいかに人を捕らえるものであるかの例証として引き合いに出されている。そこでは規則の違反が、その後に起こった災厄に先行する出来事として語られる。原因が結果に先行するのは当たり前である。その語り口のなかでは、不幸はまさに起こるべくして起こったものになる。しかしここには少し奇妙な点がある。違反は本当に先行していたと言えるのだろうか。婚資が支払われた時点では、そこでなされたこと、あるいはなされなかったことを違反の事実として語ること自体が、不可能だったのではないだろうか。さもなければ、ズマの屋敷の人々は既にその時点で、嫁いでいったルブノの不妊をおおいに懸念すべき立派な理由があったということになろう。実際には、一年以上が経過しルブノが直面している問題が誰の目にも明らかになる以前には、だれ一人それを問題にしていなかった。ズマの屋敷の人々がとりたてて規則に無頓着な人々であったとか、規則に無知であったということではない(註5)。むしろその時点では、そこで起こっていることを「規則の違反」という角度から眺める視点が、端的に欠けていたのではなかったのか。違反の事実は、ある行為や出来事が規則との関係で問題にされたときに初めて生じる。この意味では、カーチェのケースにおいては違反の事実はいかなる意味でもルブノの災難に先行していたなどとは言えないのである。ルブノが何の問題もない結婚生活を送り、順調に子供に恵まれていたという仮定的な場合を想定して見よう。十分にありえたことである。その場合にはズマの屋敷では何の規則違反もなかったのだということになろう。ルブノの不幸こそが違反の事実を遡及的に発生させたのである。
ズマの屋敷の人々がそむいたとされる当の規則は具体的には何だったのだろう。娘の両親は娘に対して支払われた婚資を「産」まねばならない。しかし、母が未亡人の場合はどうなのだろう。そもそも夫に死なれた未亡人(gungu)は--最終的には彼女の意志が尊重されるとはいえ--普通は夫の兄弟、あるいはそのクランの誰かと「再婚(ku-walwa gungu)」しているべきである。もしカーチェがこうした慣例にしたがっていたなら、娘の婚資をめぐる規則にはなんの曖昧さもなかっただろうに。しかし彼女にはげんに夫--いっしょに娘の婚資を「産む」べき相手--がいないのであった。もちろんこうした未亡人が娘の婚資を「産ま」ずにおくことが危険なことだというのは人々に広く共有された知識である。しかしそれは普通彼女が男性関係の点で「信用が置けない(kaaminika)」からという理由と結び付けて語られる。
<夫のいない女性は、不特定の男性と関係を持つ。それゆえ婚資を「産」まずにいると、その結果として婚資は「追い越」されてしまうことになる>
というのがそのロジックである。しかしこの同じロジックは、当の未亡人が婚資を「産ま」ずにおくことをも正当化しうるのである。カーチェ自身、次のように語っている。
<自分は男にはもう用がなかったので、婚資を「追い越す」心配はなかったの だ。自分に信用がおけない人間なら、婚資を産む必要もあっただろうに。>
この正当化の論理をカーチェが後になって思い付いたのか、かつてルブノに対する婚資が支払われた際に彼女が実際に行った推論なのかは、さしあたって重要ではない。重要なのはその時点でカーチェの選択を規則の角度から問題にすることが原理的に不可能であったという点である(註6)。
しかし事態は今や違ってしまった。カーチェは上の説明に続けて言う。
「ところがなんと婚資は、自分の父や母によっても「追い越され」うるものな のだねぇ。私は知らなかった。」
知らなかったのはカーチェだけではない。ルブノの不幸が誰の目にも明らかになるまでは、実際には誰も--少なくともはっきりとは--知らなかったのだ。今や占いがはっきりと「婚資に間違いがおこった(Mali yakoseka.)」、つまり「婚資は追い越された(Mali yakirwa.)」と示している。これこそが、婚資受領の時点ではおそらくは誰も知らなかった、婚資が追い越されるこの別の可能性--つまり婚資は娘の両親だけによってではなく、屋敷の他のメンバーによっても追い越されうるという--に目を向けさせたのである。婚資を「産まないでいること」の是非は、単に当の未亡人の身持ちのよさなどで左右されることではなかったのだ。いくら彼女が身持ちが良くとも、産まないでいれば婚資はいずれにせよ追い越されてしまう。産まないでいたこと自体がよくないことだった。その当時は誰も知らなかったのに、今や近所の誰もが知るようになった規則とはこれである。まさにこの瞬間に規則違反の事実は、過去においておこった事実として発生した。
後に近所の人々がカーチェの件を引き合いに出す際の語り口は、この経緯を逆転させたものであることがわかる。<ルブノの婚資が支払われた際に、しかじかの規則に対する違反がなされた、その結果、ルブノは子供をもうけることができなくなった>という具合に。これはダントが歴史家の語り口の特殊性について行った指摘を思い出させる。「歴史家は、『<ラモーの甥>の著者は1715年に生まれた』と書くだろう。だが誰かがその1715年に『<ラモーの甥の著者がいま生まれたところである』と言ったとすれば、どんなに奇妙に聞えるか考えてみればよい。」(ダント 1989:25)1715年に生まれたその赤ん坊が「<ラモーの甥>の著者」であるという事実は、遡及的にのみ成立する事実であり、その赤ん坊が生まれたまさにそのときにそれを事実として語ることは原理的に不可能である。しかし歴史家はそれを過去のその時点における事実として語る。時間の流れにそって出来事を語るという歴史の語りに内蔵された方向性が、一つ一つの歴史記述文の遡及的性格を隠蔽する。規則についての語りも同様な性格をもっている。カーチェのケースにおいて、婚資が受け渡された時点で、「娘を不妊にしてしまう規則違反が今犯されたところだ」と語ることも、同様に不可能だった。にもかかわらず今や人々は、違反の事実を過去のその時点に存在していた事実として語る。規則の語りのもつ因果的な方向性が、その遡及的な性格を隠蔽する。規則はそれが含意する因果性を、常に過去から未来に向けて働くものとして語るからである。
カーチェのケースがとりわけ微妙で規則の観点から見て曖昧なケースであったからだなどと考えないようにしよう。むしろ、具体的な災厄に際して規則の違反が持ち出されるときには、いつもこうなるしかないと言ったほうがよい。もしその災厄が生じてさえいなければ規則の違反も当然なかったことになっていたはずなのだから。原因としての規則の違反は、災厄という結果を契機として、遡及的に発生させられるしかない(註7)。
では、誰の目にもあからさまな規則違反の事実なるものなど、存在しないというのだろうか。もちろん存在する。しかし明白な規則違反の事実が先行している場合には、逆に、人々は災厄の発生を待ったりはしない。それはただちに何らかの形で「正しく」対処される。これが主張される結果との結び付きを前もってキャンセルしてしまう。
明白な違反がほとんど放置されてしまったように見える場合ですら、当事者は、違反の因果的な結末をただ待っているという訳ではない。当事者にとっては、違反はなんらかの形でキャンセルできているのである。一例をあげておこう。
ルワが三番目の妻を娶ろうとしていた矢先、彼の第二夫人ムベユの浮気が発覚した。彼女の浮気の相手はルワの分類上の息子(正確には FFBSSS )で、これはマブィンガーニ(maphingani≒近親相姦)にあたる(註8)。「父」と「息子」が同じ一人の女性を共有することは、「父」と「息子」を「まぜこぜにする」典型的なマブィンガーニである。「父」と「息子」の双方が健康上の危険にさらされることになるばかりでなく、より深刻な問題として、子供に恵まれなくなってしまう(死産や生まれた子供が育たないなど)危険がある。怒ったルワは彼女を、ルワと彼女の間にできた子供ともども、彼女の実家に追い返してしまった。ただちにヒツジの供犠を伴う治療クブォリョーリャ(kuphoryorya)が開かれねばならなかった。関係者が集まった第一回目の話し合いには、ルワはモンバサでの仕事を理由に欠席した。そこでは治療の日時が相談されただけであった。約束の日、ムベユの相手の男の親族はクブォリョーリャの施術師と供犠用のヒツジを連れて現われた。ルワの屋敷に関係のある主だった長老も全て参加していた。しかしルワは、マル(malu 姦通の賠償)のヤギが来ていないことを理由に治療の執行を拒んだ。これは人々の間に論争を引き起こした。ムベユの代理人は彼女をいつまでも置いておくのは食費の負担も馬鹿にならないと不平を漏らした。長老たちの話し合いは、あたかもこの問題がそこでの最も重要な問題ででもあるかのように進行したが、実際には治療を直ちに開くべきかどうかが争点であった。ルワは結局、食費の負担を自分で引き受けてでも治療の執行延期を主張した。ルワの第三夫人との婚礼の日も迫っており、婚礼をこのような治療でだいなしにしたくないというのがその表立った理由であった。しかしこの日を逃すと次がいつになるかは誰にも明らかではなかった。結局、実施の予定もたてられないままこの日の治療は中止になった。すでに参加者の中には、ルワにはムベユを再び屋敷に迎える意志がないのではないかという疑いを私にもらす者もいた。その後の事態の展開はこの疑念を確認するものであった。ほどなくルワはムベユの使っていたベッドを第三夫人に使わせはじめたのである。これは、マブィンガーニ解除の治療が開かれないままに、ムベユが屋敷に足を踏み入れることをますます不可能にした。それは今や彼女を殺してしまうかもしれないからである(註9)。ルワは食費の負担の約束は完全に無視していた。彼のムベユとの絶縁の意志はもはや疑うべくもなかった。
<もしムベユが二度と屋敷に復帰しないのなら、ムベユのせいでこの父と息子 が「混ぜ合わされる」こともない。解除の治療は行う必要はない。>
ルワの父親らは、やがてそう語りはじめた(註10)。ムベユの相手の男が屋敷の成員ではなかったことを考慮すると、ある程度筋は通っている。ムベユの犯した規則違反はこの場合、ムベユの追放によって一応「正しく」対処されたということになる。地域の老人のなかにはこの解決に批判的な者もいた。
<ムベユを追い出してもマブィンガーニをごまかすわけにはいかない。解除の 治療なしではすまない。「あいつらにもそのうちわかるだろう。Andamanya enye!」>
しかし事件はそれきりになった。その4ヶ月後私が調査地を去るときまで、この事件は私の知る限り二度と近所の人々の口に上ることはなかった。最後の老人の言葉通り、その後なんらかの災厄が生じてルワたちの対処法が誤りであったと明らかになるかもしれない。しかし「そのうちわかる」ことになるのはこの老人の方かもしれないのである。その後ルワの屋敷に何の不幸も起こらなければ、彼はルワの対処法で十分だったと認めることになるだろう。ケースは未来に向かって開かれたままである。ムベユの犯した明確な違反も、それに対するルワの対処も、あるいは何がなされたにせよなされなかったにせよ、いずれもそれ自体で特定の結果との直接的な結び付きを自らに保証することなどできない。それらの地位は、不確定な未来の出来事によって左右されるのである。
かくして規則の違反とそれがもたらす災厄とのあいだの因果関係の図式は、二重に捩じれたものであることがわかる。原因としての明白な違反の事実が存在する場合には、それに対して当然とられるであろう「なんらかの」対処のおかげで、それは結果としての災厄との直接的な結び付きを欠いてしまうことになる。逆に結果としての災厄がまず存在する場合は、それは不在の違反の事実を遡及的に発生させることによってしか、原因としての違反の事実には結び付かない。いずれにしても原因と結果の結び付きが自らを完全な形で提示することは決してないのである。
にもかかわらず、人々が特定の違反や特定の災厄とは別に、規則としての規則について語る際には、人々が語り主張するのはこの結び付きそのものである。以下の節ではこの種の語りが何を語っているのかを明らかにしよう。
「ドゥルマのやり方」はドゥルマの暮らしのきわめて広範な領域にわたる細々とした規制を含んでいるが、その多くに、屋敷の秩序、なかでも屋敷構成員のあいだの順序付けに関係したものがある。本節で扱うのはこれである。
ここで「屋敷」と訳したムジ(mudzi)は、ドゥルマの社会生活における最も中心的な単位である。屋敷は経済的・社会的にもほぼ自律的な単位であり、屋敷内の問題の多くはその内部で処理される。典型的な屋敷は、一人の長とその妻たち、および彼の子供たちからなる居住単位である。物理的には屋敷は、中心となる広場ムハラ(muhala)の周囲に各妻たちの小屋を配した構造をもつ。幼い子供たちは母の小屋で暮らすが、男児は成長するとこれらの小屋が形作る円環の外縁部に、自分自身の小さな小屋を立てて住み始める。妻を娶っていくに従い、息子の一人一人は、こうして父親の小屋の円環の外縁に、自分たちの小屋の円環を形成して行く(註11)。こうしたやや発展した構造をもつ屋敷においては、中心になる父親のムハラは、しばしばロメ(rome 大きな焚き火)と呼ばれ、屋敷の男性成員がいっしょに食事をとり、屋敷全体のさまざまな行事が行われる空間となっている。屋敷は通常その長の名前をとって「誰某の屋敷」という形で呼ばれる。
息子たちは結婚後も通常は自分たちの父の屋敷に所属するものとみなされ、父の権威に服する。父の死後、屋敷は、兄弟のそれぞれを長とする独立した屋敷に分裂する傾向にあるが、父の死後もまとまりを維持しつづけ、周囲からは死んだ父親の名を冠して呼ばれつづける屋敷もある。ディゴと境界を接する東部のドゥルマのあいだでは、屋敷の規模は比較的小さいが、牧畜が経済的に重要な位置を占める西部では、こうした大きな屋敷が1993年の時点でも特徴的であった(註12)。
屋敷はまた「一つの炉(figa mwenga)」あるいは「一つの鍋(nyungu mwenga)」とも語られる。息子の妻は結婚当初は夫の母とともに料理をするが、何人かの子供を作り、屋敷にすでに新しい嫁が来ているなら、「鍋を分け(ku-tanya nyungu)」あるいは「炉を分け(ku-tanya figa)」てもらうことができる。こうしてやがて一人一人の妻たちが自分の炉をもち、各自で料理を作ることになる。このように分けられてはいても、一つの屋敷に炉そして鍋が「一つ」であることはくり返し強調される。各自が作った料理は男たちが食べるロメに、そして屋敷の長の妻のところに持ちよられねばならない。「だって鍋はあくまでも一つなんだから。二つだなんて言ってはいけない。鍋は一つだけだ。鍋が二つになることなどない。鍋といっしょに嫁いでくる妻はいないと言うじゃないか。」
屋敷はズンベ(dzumbe)と呼ばれる大きな共同の畑を持っており、屋敷の長の妻たち、屋敷の長の息子たち全員によって耕作される。収穫物は屋敷の長に属するが、それは彼の第一夫人の小屋の中の穀物貯蔵庫(chitsaga)に収納され、彼女によって管理される。このズンベとは別に妻の一人一人はそれぞれコーホ(koho)と呼ばれる個人の畑をもち、その収穫物はそれぞれの妻が自由に処分できる。ドゥルマは4日を一サイクルとする週にしたがって農耕を行う。第一日目と二日目はズンベでの耕作、3日目にコーホでの耕作が行われる。市の立つ日でもあるジュマと呼ばれる4日目には農作業は禁止されている。息子たちは妻をとった後も、父親の畑の耕作に協力するかもしれないが、それとは別に自分自身で土地を開いてそれを自分のズンベとして妻たちに耕作させることも普通である。広大なブッシュの広がりがあるドゥルマの西部では、息子たちが父親の畑とは別に新しい畑を開くことには何の困難もない。人口が比較的稠密なドゥルマ東部では、結婚した息子たちは父親の畑の一区画を自分たちのズンベとして使わせてもらうことになる(註13)。
こうした単位を指す言葉の例にもれず、ムジもそれが指す範囲はしばしば相対的である。最も一般的な意味では、それは日本語の「家」や「郷里」、英語の home などと同様、漠然と人の帰属する場を指し示す。一方、妻帯者は実質的には完全に父親の屋敷の従属成員である場合でも、自分の「屋敷」について語ることができる。人々がよく言うように「妻を持つことによって人は自分の屋敷を持つ」のである。ここに、あるいは鍋や炉を分ける習慣の中に見られるように、屋敷がその内部に萌芽状態の屋敷をかかえた自己増殖する単位としてイメージされていることは、一見あたりまえのようであるが重要な事実である。それはドゥルマの父系出自集団の構造についての表象を提供する。
ドゥルマの14ある父系クラン(ウクルメ ukulume)のそれぞれについて、その内部分節の各段階を指す名称は、屋敷の空間構造にちなんだ名前である(註14)。クランはそれぞれの分節の創始者の名をとって「誰某の戸口(muyango wa 〜)」と呼ばれる集団にまず分かれる。各「戸口」は、さらに「誰某の小屋(nyumba ya 〜)」と呼ばれる5ないし6世代の系譜深度をもった集団に分かれ、それぞれの「小屋」には更に複数の「誰某の屋敷(mudzi wa 〜)」と呼ばれる実際の屋敷が属することになる。この名称は一見奇異な感を与える。「小屋」が「屋敷」より大きな集団を指し、「戸口」はさらに「小屋」よりも大きな集団を指すといった具合に、各分節段階を指す名称が対応している空間的単位のスケールと、各分節段階の集団規模のスケールとは、あきらかに逆転しているようにみえるからである。この不一致はもちろん我々自身の錯覚に基づいている。それが示しているのはむしろ、ドゥルマでは上位のクラン分節は下位の分節を包摂するより大きな集団として形態論的に捉えられているというよりは、下位の分節に「先行」し、下位の分節がそこから出て発展する先駆として生成論的に捉えられているのだということである。「戸口」も「小屋」も今日の「屋敷」に至るそれぞれの発展段階が刻印された里程標である。クランの生成的な内部構造のイメージのなかでも「屋敷」は最も充実した社会単位のイメージを提供しているのである。
屋敷の秩序の最も目立った構造的特徴は「順序」である(註15)。一人の男の妻たちは彼に娶られた順序にしたがって区別されている。「彼が産んだ」子供たちは、どの妻から生まれた子供であるかは問わず、生まれた順番によって序列づけられる。父と息子、母と娘あるいは息子の妻といった隣接世代も、順序付けられた二項を構成する。屋敷内での振る舞いに関する「ドゥルマのやり方」の多くは、こうした順序構造そのものの維持、とりわけ同性間のそれにかかわるものである。
もちろん、この序列が権威の序列でもあることは言うまでもない。男の兄弟どうしの場合、年上の兄弟(muvyere)は年下の兄弟(muvaha)に対して「父親のようなもの(dza kp'amba ni abayo mwenye)」であり、年少者が年上の兄弟の言うことを聞くのは当然だとよく言われる。兄弟関係が父子関係のアナロジーで捉えられており、そこでは権威の関係がより強調されている。しかし、屋敷内の順序付けの構造を単純に権威の序列として理解するわけにはいかない。実際、「ドゥルマのやり方」の多くは、権威の序列関係以上に、むしろある場合には権威の問題抜きに、順序の構造それ自体に関心を示しているかのように見えるからである。
例えば穀物貯蔵庫(chitsaga)に関する規則を例にとろう。女性が彼女の夫の母の小屋の穀物貯蔵庫に許可なく入るのは良くないことだとされている。しかしそれは「分別のない(ku-tsowa akili)」振る舞いではあっても、その行為自体が不可能であるといった類の行為ではない。いずれ夫の母は彼女にそこに入る資格を正式に与えるであろう。いけないのは夫の母親によって正式に許される以前に、無断でそこに入ってしまうことである。この禁止はしたがって、どちらかと言えば屋敷内の隣接世代の権威の問題にかかわっているといえるかもしれない。しかしいったん息子の妻に貯蔵庫に入る資格が与えられると、今度は義理の母の方が貯蔵庫に入るのを禁止されることになる。今やその貯蔵庫は「息子の妻のもの」だからである。こちらの禁止の方は明らかに前者とは性格が異なっている。許可なく自分から夫の母の貯蔵庫に入ってしまった息子の妻は、非難され叱責されるかもしれないが、彼女自身や屋敷の人々の健康がそれによって脅かされたりはしない(註16)。しかし夫の母の場合には、その禁止を侵すことは非難に値するというよりも、むしろそれがとりわけ彼女自身を、そして潜在的には息子の妻までもを病気にし、極端な場合には死すらもたらすかもしれないという理由で「不可能な(kavidimikika)」行為なのである。いったん息子の妻に貯蔵庫に入られてしまうと、それが正式な許可に基づくものであったかどうかには無関係に、夫の母の方では二度とこの穀物貯蔵庫に入ることができなくなる。たとえそれが息子の妻の「無分別」の結果であったとしても、それによって母はその貯蔵庫の管理を息子の妻に譲り渡し、そこから永久に手をひいてしまわざるをえなくなるのである。たがいに僚妻関係にある二人の女性も互いの穀物貯蔵庫に入ることを慎まねばならない。そしてこの場合も禁止は上位の妻の方により大きくかかってくる。彼女が下位の妻の穀物倉に入ることは不可能である。それは彼女自身の健康を危険にさらす。一方、下位の妻に対する禁止にはこうした側面はない。
いずれにせよ、穀物貯蔵庫に関する禁止は非対称的で、上位者の下位者に対する権威を維持するという目的にむけられたものとは解釈しがたいのである。
この穀物貯蔵庫に関する規則は、順序付けられた同性の二人--父と息子、母と娘あるいは息子の妻、第一夫人と第二夫人、兄と弟、姉と妹など--がある種のものを共有することを注意深く妨げる一連の規則の一つである。これらの規則の対象となるのは、開墾した畑、小屋やその材料、ベッドや寝具、衣服、女性の場合にはさらに水甕や穀物貯蔵庫など細々としたものにわたる。とりわけ重要な規制の対象は性交の相手である。
性関係の相手の共有の問題をひとまず別にすれば(註17)、これらの規則に共通した注目すべき特徴は、第一に上の穀物貯蔵庫に関する規則にも見られるように、下位者よりも上位者の行動により大きな制約が加えられているという点である。例えば、兄弟は相手のベッドやマットを使用してそこで性交を行ってはならない。父と息子の間においても同様である。しかしここでも穀物貯蔵庫の場合と同様に、弟が兄の、息子が父のベッドを用いることがそれ自体で災厄を引き起こすとはされていない。一方、兄が弟のベッドを用いたり父が息子のベッドを用いたりすることは、それだけで災いをもたらす重大な過ちである。上位者は自分のベッドやマットが下位者によって使用されてしまうと、それに対する権利を放棄せざるを得なくなる。それらは今や下位者のものとなる。
ここに見られる原則は、ドゥルマの人々の言い方を用いるならば、父あるいは兄は、息子や弟に対して「先行し(ku-longola)」ていなければならない、という形で要約することができる。下位者によって使用されたものを上位者が再び使用することは、彼が「後ろに戻る(ku-uyira nyuma)」ことだといわれる。まさにこの「後戻り」が災いを引き起こすのである。問題となっているのは順序の構造そのものである。下位の者が上位の者の権利を侵すことは、上位者にその権利の放棄を促すだろう。その限りでは、権威の構造にとっては問題であろうが、順序の構造自体が侵されたとはまだ言えない。それに対し、上位の者が「後ろに戻る」ことは、それ自体で順序構造を破壊する行為である。
第2の特徴として、これらの規則が問題にする順序の観念が、性の観念と密接に結び付いている点を指摘できるだろう。
ある男は、自分の小屋を移築するにあたって、彼の兄が将来新たに小屋を建てるためにと切り出して庭の片隅に保管していた主柱用の木材を密かに持ち去った。これに気付いた兄が問い詰めると、その男は兄に<自分は既に昨夜、妻と性関係をもってしまった>と告げ、丁重に詫びた。私がこの男から聞いたところによると、これは実は真っ赤な嘘だったのだが、それは兄にその木材を断念させるに充分であった。もはや弟のものとなってしまった木材を、兄が用いることは兄自身に災いをもたらすことになるからである。兄のものを弟が使うことは差し支えないが、その逆は禁止されるという既に見たパターンのくり返しであるが、ここで弟が妻ともった性関係がその禁止を決定的なものにしているという点に注意すべきだろう。小屋やベッドやマット、衣服や畑などの共有の禁止においても、兄の「後戻り」を決定的に不可能にするのは性関係である。例えば、弟がただひとりで兄のマットやベッドを用いて眠ることは差し支えないが、そこで彼が性交を行ったとすれば、それらは兄にとっては使用不可能となる。この意味で、これらの禁止は兄弟の中でもとりわけ既婚者どうしのあいだに厳密に適用される。例えば、未婚の弟のベッドを兄が使用することは、それほど危険ではないし、また未婚の弟が自分のために建てた小屋を兄夫婦が用いることも、そこで弟が実際に性関係を持ったことがないことが確実であれば、可能である。とはいえ実際には「若者は信用できない(kaaminika)」ものと相場が決まっており、弟の小屋の使用は、兄夫婦にとってはやはり避けるべき選択である。
父との折り合いが悪く、隣の村に土地を買ってそこに小屋を建てて暮らしている一人の未婚の若者が小屋の屋根を葺きかえることになった際にも、同じロジックが表面化した。屋根から降ろしたヤシの葉で編んだ古い屋根材の中には比較的状態が良く、再使用に耐えるものがあり、近所の人々がそれらを譲ってもらおうと詰めかけてきた。その中にその若者の父親も混じっていた。しかし父親は要求を切り出す前に、近所の男と暫く話をしただけでそのまま帰っていった。その近所の男は彼に次のように告げたのだという。
<お前がもしあの屋根材が欲しくて来たのなら帰りなさい。それは過ち (makosa)を持ち込むことになるだろう。いまどきの若い連中は、結婚してい ないからといって信用できない。>
こうして彼は、有力な競争相手の一人に屋根材を断念させることに成功したのである。
順序へのこだわりは、兄弟、姉妹が厳格にその順序にしたがって結婚せねばならないという規則にも見られる。兄は弟より「先を進む(ku-longola)」、つまり先に結婚せねばならず、姉は妹より先に娶られねばならない。男の兄弟の系列と女性の姉妹の序列とは相互に独立している。例えば、兄の結婚の方が妹より先でなければならないという訳ではない。順序は同性のあいだに設定されている。男の兄弟の場合、この序列が各人の最初の結婚についてのみ当てはまるということは、いうまでもあるまい。
もし弟の方が兄より先に結婚し妻を屋敷に連れて来てしまうと、このように先を越された兄は、特別な矯正手続が取られない限り、結婚して妻と屋敷で暮らすことは不可能となる。<もし彼がそうしたとしても、彼の妻は死んでしまうかあるいは子供をもうけることができないであろう。>もちろん兄が独身でいる限り、たとえ屋敷内で暮らしていたとしても何も問題は起こらないし、後に彼が結婚するにしても、もし彼が屋敷に属さずその外部で別に暮らすことを選ぶならば問題はない。弟が結婚したことは、兄の存在を軽んじているという点で非難されるべきかもしれないが、そのこと自体が違反と見なされているわけではない。そのことだけで屋敷に災厄がもたらされたりはしない。問題は弟に先を越された兄が「後ろに戻」ろうとする、つまり屋敷で結婚しようとする際に生じる。ここに見られるロジックの首尾一貫性に注目しよう。確かに、兄が弟のあとを追って結婚したときに初めて、兄弟の結婚の順序が逆転してしまったと言えるのだから。災いをもたらすのは、兄の「後戻り」の結果のこの順序の逆転なのである。
この事態を矯正する手続きは、人々の話によると、かなり込み入ったものである。まず兄弟たちの妻は全員、実家に帰されるか、別の小屋にひとまとめに隔離され、夫たちとの接触を禁じられる。弟に先をこされていた兄も自分の妻を連れてやって来ているかもしれないが、彼女との性関係も接触も禁じられている。さて、この手続きが行われる当日、屋敷内の全ての火が消され、屋敷へ通じる全ての道は枯れ枝を積み上げて作られた障壁(sanzu)によって閉鎖される。以後これらの道は二度と再び使用されることはない。屋敷の中の人々は、全員、屋敷の外に出る。「冷やしの施術師(muganga wa kuphoza)」が屋敷の広場に薬液(vuo)の入った搗き臼(chinu)を据える。この薬液は「冷たい木(mihi ya peho)」とヒツジの第3胃(chipigatutu)を主成分とするもので、これは後述するマブィンガーニの治療に用いるものと同じ内容である。それは人々と屋敷を「冷やす(ku-phoza)」。まず父親が彼の妻たちとともに道のないところを踏み分けて屋敷に入ってきて、その薬液を浴びる。つづいて彼の息子たち一人一人が妻をともなって、同じく道のないところを踏み分けて入ってきて、それぞれの妻とともに薬液を浴びる。ついで父親が第一夫人の小屋で火をおこす。木の棒を台木にこすりあわせて熾す昔のやり方で火は作られる。その火で、屋敷の人々全員の食事が作られる。なぜなら他の小屋にはまだ火がないからである。食事の後、それぞれの小屋の女性は、屋敷の長の第一夫人の小屋のこの火を分けてもらい、各自の小屋に持ち帰る。こうして屋敷じゅうの小屋に再び火が行き渡る。その夜父親は妻と無言の性交(matumia)を行う。次の日から一晩に一組ずつ、屋敷内の夫婦関係が再開されていく。ここでも再び用心のため、息子たちと彼らの妻とは隔離されるかもしれない。父がすべての妻と済ませたのちに、息子たちは年長者から順番に一組ずつ関係を再開していく。「お前が終えると、お前は長男を呼びにやる。『誰某をここに寄越すように』と。彼がやってくると、『さあ、妻といっしょに自分の小屋に行きなさい。』次の日になると、もう一人を呼びにやる。『さあ妻をつれて自分の小屋に行きなさい。』また次の日になると、もう一人を呼びにやる。『さあ妻をつれて自分の小屋に行きなさい。』全員がすっかり終わってしまうまで。」最も若いカップルがその順番を終えたとき、屋敷内の結婚順の乱れは解消されたことになる。
ここには二種類の操作が看て取れる。弟に先を越された兄が屋敷の成員として結婚できるためには、それまでに兄弟の結婚によって成立した順序構造は、いったんすべてキャンセル(ku-futa)されねばならない。兄弟たちの妻を全員実家に帰し、火を消し、道をふさぎ、そして最後に兄弟を薬液で「冷やす」ことによって目指されているのは、これである。さらに兄(muvyere)に彼の「上位性(uvyere)」を返してやることによって、兄をそこに含んだ新たな構造として作りなおされねばならない。屋敷の長のマトゥミアの性交と新たな火起しが、順序の付け直しの口火を切り、屋敷の成員が出生順にしたがって性交を開始していくことによって、順序は文字どおり付け直されていく。
女性の姉妹どうしの間の結婚の順序については、今は簡単に触れておくだけにしよう。ある意味で、姉妹がめとられる順番は兄弟の結婚の順序以上に固執されている。矯正の手続きが存在しないからである。妹に先を越された姉が後に結婚したとしても、彼女には子供が産まれないか、ひどい場合彼女自身も死ぬことになるだろう。やり直しはきかない。しかし、だれもが同意している訳ではないが、そこに対処法がない訳ではない。妹が先にめとられた場合、姉が結婚するまでその妹に対する婚資を受け取らない、あるいは受け取ってもそれを屋敷には持ってこず、それを「産む」こともせず、「外に置いておく(kp'ika konze)」のである。こうしておけば、後に姉が結婚しても何の問題もない。もちろんこれはそれほど簡単なことではないし危険でもある。こんな風に産まずに「外に」置いておかれる家畜は、群れごと一気に死んでしまうということがよくあると言われている。ここに見られるロジックについては「産む」という行為を論じる際にとりあげることにする。
屋敷が移転される際にも、屋敷内の順序構造に対する顧慮が大きな位置を占める。古い屋敷の内部の順序構造を移転を通じて保存することが問題になるのである。
屋敷の長は移転予定地で第一夫人と性交抜きに一夜を過ごす。翌朝、何の凶兆も無いことが確認されると、そこで一日過ごした後、その夜第一夫人と地面の上で無言の一回きりの性交、マトゥミア、を行って「屋敷を産む(ku-vyala mudzi)」。これが移転の第一段階である。ついで屋敷の人々によるブッシュの開墾と小屋の建造が始まる。順序が問題になるのはここである。小屋は成員の序列にしたがって建てて行かれねばならない。屋敷の長の第一夫人の小屋から始まる建造順は、父の世代は息子たちの世代より先に建てねばならず、兄は弟よりも先に建てねばならず、一人の男に複数の妻がいる場合、序列の上の妻は下の妻より先に建てねばならないというものである。まんいち下の者に先を越されてしまうと、その屋敷に加わることができなくなってしまう。それは上位者が「後戻り」することであり、何よりも当人に、そして可能性としては屋敷全体に災厄をもたらすからである。注意すべきは、これが単に小屋の完成した時間そのものの問題ではないという点である。小屋はその都度その持ち主によって「産む」必要がある。折角小屋をいち早く建てても、それを「産」まずにおけば、後から小屋を建てた下位者に先を越されてしまうことになる。
小屋の建造順によって作り出された順序構造は、結婚順の場合以上に矯正が困難であるとされる。妻どうしの場合なら矯正できなくもない。下の妻は実家に帰され小屋の戸口は閉鎖されて壁に作り替えられる。そしてかつての戸口の反対側の壁に、新たに戸口が開かれる。その後、夫は先を越された上の妻とのマトゥミア性交によってその小屋を彼女の小屋として再び「産みなおす」。この手続きは、屋敷の移転の場合だけでなく、より頻繁にあることだが、夫と仲違いし夫のもとを去っていた妻が、夫が屋敷を移転した後に、あるいは夫が別の妻を娶った後に再び戻って来ることを望んだような場合にもとられる手続きである。先を越されていた上の妻に「上位性(uvyere)」を返してやらねばならない。冒頭で上げたルワの妻の浮気の事例を思い出そう。上の妻ムベユが近親相姦的な浮気のせいで追放されている間に、ルワは第3夫人と結婚してしまい、ムベユが使っていた小屋に住まわせ彼女のベッドを使用させた。もしムベユが屋敷に戻ることにでもなれば、まさにこの手続きが必要となるだろう(註18)。
兄弟どうしの場合は、なかには小屋を完全に解体すれば良いという人もいるが、多くの意見では、先を越された兄が屋敷に加わることはもはやまったく不可能である。この場合小屋の建造によってうちたてられる順序構造はキャンセルできないのである。実際には兄の望みにしたがって、屋敷の生活に事実上参加していると言えるほど近くに小屋を建てている場合もあるが、こうしたケースでも、屋敷の人々によると彼はあくまでも「我々とは別の土丘(tsulu)に自分自身の屋敷をもっている」のである。兄弟間での小屋の建造順の問題が、既婚の兄弟どうしについてとりわけ厳格であることを再び指摘しておこう。この場合にも順序づけを最終化するのは「産むこと」つまり性交である。したがって、まだ妻を持たない弟については、彼がいつ小屋を建てるかは大きな問題ではない。もちろん若者の性行動には信用がおけないという理由から、大いに警戒すべきことには変りない。
結婚の順序にせよ、小屋の建造の順序にせよ、問題になっている順序づけは物理的な空間としての屋敷に暮らす人々についてのみのものである。結婚の遅れた兄の場合のように、先を越された者は、その空間に所属しようとしない限りは、この順序構造のなかに改めて位置づけなおす必要はないし、屋敷の移転に際して先をこされた兄の場合のように、そもそも二度とその空間に所属できず、屋敷内の順序付けからははみ出たままとなる。しかし順序構造が屋敷という物理的空間を越えて、親族としての屋敷の成員全員に主張される場合がある。服喪(ハンガ hanga)の後の性交開始の順序がそれである。死の問題はそれ一つで独立に論じるべき複雑な問題であるが、ここでは屋敷の順序構造に関係する側面についてのみ簡単に触れておこう(註19)。埋葬後の服喪が死者の親族たちの水浴びで終了した後、死者が既婚者であれば、配偶者を「巣立ち」させ死を「投げ棄て」させる仕事が残っている。「死の投げ棄て」と呼ばれる死者の配偶者によるブッシュでの余所者相手の無言の性交が終わった翌日から、死者の子供たちによる性交が順を追って再開されていく。そこでは現にその屋敷に暮らしているいないにかかわらず、また男女の区別を問わず、ただ出生の順番にしたがって死者の既婚の子供たちは性関係を再開していかねばならない。婚出した女性たちも、服喪が終了した後も自分の順番が来るまでは夫のもとへ帰ることは許されない(註20)。かつて故人を起点として出来上がってきていた順序構造が、故人が舞台から退出してしまった今、新たな起点から出発してそっくり作りなおされるのである。こうした手続きに違反すると、違反者は全身のかゆみ、気鬱、精神錯乱などに見舞われるとされる。とりわけ屋敷の成員の続けざまの死は、こうした手続きがどこかでうまく行っていなかったことの結果である可能性がある。
残された配偶者による「死の投げ棄て」は、死の処理の最後の手続きであると同時に、新しい順序の付け直しの出発点としてみることも可能である。年老いた未亡人はしばしば「死を投げ棄てる」無言の性交を拒むことがあり、彼女が再婚できないほど年老いている場合、結局それが免除されることがある。もし「死」の処理だけが問題なのだとすると、この免除は理解できない。ここでも問題は順序の付け直しである。「死を投げ棄て」なかった未亡人は、以後いっさい他人と性関係をもってはならず、「子供として(屋敷に)置かれる(kp'ikp'a dza mwana)」と言われる。順序は彼女を除外してつけ直されたという訳である。<まんいち彼女が誰かと性関係をもちでもしようものなら、彼女を待つのは発狂と死の運命であり、屋敷の他の人々にも災いが及ぶかもしれない>。たとえ少々身持ちが良かろうとも、あるいは高齢であっても、レイプの可能性が排除できるわけではないとは、冗談めかしてしばしば指摘される。こうした問題が生じると、あらためて大掛かりな治療が必要になる(註21)。屋敷のメンバーは婚出した者も含めて再び集められ、屋敷全体が「冷や(ku-phoza)」された後に、彼女から始めてすべての性関係の順序をたどり直さねばならない。
上で述べた例の多くは、結婚順にせよ小屋の建造順にせよ、新たにうちたてられる順序構造の中で下位者に先を越された上位者が「後に戻る」、つまり下位者より後に組込まれようとすることが引き起こす問題について語るものであった。それは順序構造の局所的な逆転と矛盾の問題である。しかし順序構造にとってよりいっそう深刻な打撃は上下の区別そのものの消滅である。もちろんこの二つの問題は実際にはそれほど明確に区別できるものではない。局所的な順序の逆転は、結局は順序づけられた2項の区別の消滅につながるものだからである。とはいうものの結婚の順序や小屋の建造の順序などの場合に注目されているのが、区別の消滅というよりは順序の局所的な逆転の問題であるのに対し、あきらかに区別の消滅そのものに注目が向けられているといえる問題領域が存在する。
「ドゥルマのやりかた」が禁じるところの、順序づけられた二人によるある種のもの--マットや衣服やベッド、性交の相手など--の共有が関係しているのが、それである。これらを共有してしまうことの結果を、ドゥルマの人々は、兄弟や父子、母娘や姉妹のような順序付けられた二人が、そしてその挙げ句には屋敷の人々が、たがいに「まぜこぜになる(ku-tsanganyikana, ku-phitanya)」という言い方で語る。これがマブィンガーニ(maphingani)あるいはマブィーティヨ(maphityo)と呼ばれる状態である。
共有が引き起こす問題にもさまざまな程度の違いがある。兄弟や父息子で、あるいは姉妹や母娘のあいだで衣服(や腰布)を借りあうことは、そう珍しいことではない。洗濯されていない下の者の衣服を上の者が使用することや、下の者が上の者から借りた物を洗濯せずに返すことだけが問題である。それはマブィンガーニをもたらす。しかし逆に言えば、衣服などのこうした共有は、洗濯を介しさえすればマブィンガーニをもたらさずに済むということである。ベッドやマット、小屋の建設材料などの場合は、すでに見たようにやや異なる。たとえば兄や父が弟や息子のマットやベッドを使用し、ましてやそこで性関係をもつことは、それだけでマブィンガーニである。逆であれば、つまり下位者が上位者のものを使用するのであれば、例えそれが性交の目的であれ問題ないが、いったん下位者が性関係をもってしまった後では、こうして下位者に使用された物を上位者が再び使用することは問題外である。しかし上の者がその使用を断念する限り、これもマブィンガーニには至らない。すでに述べたように、ここでは上位の者が「後ろに戻る」ことがマブィンガーニを引き起こすのであり、順序構造の局所的な逆転と区別の消滅とが直接結び付けられている。
しかし性関係の相手の共有ということになると、もはや上位の者の断念は問題の解決にはならない。父と息子、あるいは兄弟どうしが、同じ一人の女性と関係を持つことは、どちらが先かには関係なくマブィンガーニをひきおこす。あるいは相手がそれぞれ別の女性であっても、もし彼女たちのあいだに母娘、姉妹などの関係があれば、それもマブィンガーニである。たとえば二人の兄弟が一方がその女性と関係を持ったという事実を知らずに、同じ一人の娼婦とそれぞれ一回きりの関係を持ったとしよう。
<(これだけのことで)二人はすでに「まぜこぜに」なっている。マブィンガーニは直ちには災厄をもたらさないかもしれない。しかし一方が病気になった際に二人が顔を会わせようものなら、病状はたちまち悪化して、何でもない病気でも死に至ってしまうかもしれない。あるいは普通なら滅多に人を噛んだりしないヘビに噛まれる。こうして二人は「まぜこぜ」になっていたという事実を知る。>
二人が関係を持った女性が一方の妻であるような場合には、事態はより深刻である。これはこの二人の兄弟の一方が死んでいても同じく当てはまる。未亡人は通常夫の兄弟と再婚するが、その際にはマブィンガーニを取り除く治療クブォリョーリャ(ヒツジの供犠と「冷たい木」を用いる)を前もって行ってからでなければならない。
マブィンガーニをもたらす、あるいは端的にマブィンガーニとして禁じられる関係の極には近親者との性関係が含まれることになる。自分の姉妹や母との性関係は、彼らが単に自分の近親者であるというだけでなく、父がいつも関係を持っている女性(母)の娘(姉妹)との関係であり、また父の性的パートナー(母)を父と共有してしまうことであるという点で、人々によると父と息子をまぜこぜにする最たるものである。それらはもっとも深刻なマブィンガーニ(マクル、マナネなどとも呼ばれる)となる。ここに至って、この観念を「近親相姦」というありふれた角度から理解したくなる誘惑は大きい。しかしそうすることはドゥルマのこの観念に対する我々の自文化中心的な歪曲以外の何でもないだろう。むしろ我々が「血のつながりのある異性との性関係」であるという点に最大の問題があると見る領域に、ドゥルマは「順序づけられた同性の二人の差異が消滅する」という問題の方を見てとっているのだといった方が正確なのである。
この点に関して詳しく論じた別の論文の中で、私はマブィンガーニという観念の本質を、(同性の)親族相互の「換喩的」つまりある連鎖の中での連続性と隣接性によって特徴づけられる関係と、性による媒介が作り出す「隠喩的」つまり異質なもののあいだに等価性をうちたてる関係との両立不可能性という形で論じた(浜本 1988)。それによってより広い理論的な射程に問題を位置付けようとしたのであるが、ここでは同じ問題を「順序づけられた2項の差異の消滅」という、あえて限定した形で提出しなおしたことになる。しかし、順序付けられた系列における2項の関係は換喩的関係の典型ではないだろうか。したがって、この二つの定式化の違いは実際にはごくわずかである。そもそも兄弟どうしや父と息子(姉妹どうしや母と娘)は、ドゥルマの生殖に対する考え方(子供は母親の経血が父親の精液と混ざって子宮の中で食い止められることによってできる)によって、また身体を作り上げる材料である食事を共有するという事実によって、「同じ身体」を持つ存在として捉えられている。つまり同質性と連続性のもとに眺められている。この点を考慮に入れると、この順序づけられた系列の持つ意味は自ずと明らかになる。
仲の悪い兄弟が捕らえられるというチャカ(chaka)という病気の観念が、それを明確に物語っている。チャカとは、互いに仲が悪く、ついには口もきかず、ともに食事をとることすらなくなった兄弟がとらえられる状態である。そうなると
<彼らの唾液は乾いてしまい、(一方、あるいは双方が)病気になるだろう。占いでチャカのせいだ告げられる。二人をもう一度「まじりあわす(ku-tsanganya)」ことが必要となる。>
それは具体的には、双方の兄弟がそれぞれ食べ物の材料をもちより、いっしょに料理したものを二人に食べさせることからなる。この共食がチャカを解消するとされる。同じ「まじりあう(ku-tsanganyikana)」という言葉が、ここではマブィンガーニのそれとは正反対の価値をもっている。それは兄弟の正常な関係を指す。性関係の相手をともにすることによって「まじりあう」ことは危険であり、一方、食事をともにすることによって「まじりあ」っているのは必要なことである。同質性、連続性の前提のうえに順序という差異をうちたてたものだというのがこうした関係の特徴であるとするなら、これがいわんとするところは明白である。マブィンガーニが、とりわけ性交の相手の共有によって、項どうしの差異が消滅し「まじりあう(ku-tsanganyikana, ku-phitanya)」危機を指示しているのだとすれば、チャカはそれとは正反対の危険、2項の同質性、連続性が解体する危機を指示しているのである。二人は「混じりあう」ことで再び同質性、連続性を取り戻さねばならない。
しかし、なぜ性関係の相手の共有が順序構造にとってとりわけ危険だとされているのであろうか。おそらくそれは、すでにくり返し指摘して来た事実--屋敷内の成員の順序づけを決定的なものにするのに、他ならぬ性行為がきわめて重要な役割を果たしているという事実--と無関係ではあるまい。次にこれを検討せねばならない。
ここまで屋敷の秩序が第一に順序の構造であることを、それを危険にさらす諸行為の検討を通じて指摘して来た。問題となる順序は、出生の順序であり、夫に娶られた順序であり、小屋を建造する順序であり、妻を娶る順序であり、嫁いで行く順序などなどである。それらを紹介する過程で、私は便宜上「出生の順序」を基準に置いたかのような書き方をして来た。しかし出生の順序そのものが問題ではないということは、例えば、結婚において弟に先をこされた兄の存在が、その兄が屋敷の外で結婚する場合には何の問題にもならないという事実からも明らかであろう。順序付けは、つねに屋敷との関係における順序付けなのである。一体何がここで問題となっているのであろうか。言い換えれば、これらの順序は結局のところ「何」の順序なのだろうか。
それをはっきりさせてくれるのが、順序が、あるいはより正確には順序の付け直しが問題になるこれらすべての過程に必ず伴う「産む」、ドゥルマ語でク・ヴャラ(ku-vyala)と呼ばれる手続きである。
ク・ヴャラはけっして特別な言葉ではなく、通常の赤ん坊の出産も指す普通の言葉である。しかしドゥルマでは「産む」ものは何も子供だけには限らない。既に見たように、屋敷を移転する際には、移転先のブッシュを開いてそこで「屋敷を産(ku-vyala mudzi)」まねばならない。毎年、新しい畑を開く際には、ブッシュの開墾の第一日目に男はその第一夫人とともに「畑を産(ku-vyala munda)」み、播いたトウモロコシが芽をふいた際にも、また最初の収穫の際にもくり返しトウモロコシを「産」んでやらねばならない。小屋を建てた際には妻とともに「小屋を産(ku-vyala nyumba)」まねばならず、さらにそれに扉を新たに付ける際にはその扉も「産」まねばならない。家畜を手に入れて新たに群をはじめる際には(人によっては家畜を手にいれる都度)妻とともにそれを「産」まねばならず(これは「財産を産む(ku-vyala mali)」と呼ばれる)、息子が町から金を持ち帰った際にもそれを「産」まねばならない。息子が最初の妻を娶った際には、息子が彼女と屋敷内で性関係をもつ以前に、両親は彼女を「産む」必要があるし(これは「子供を産む(ku-vyala mwana)」と呼ばれる)、男が2番目の妻を娶る際には彼は第一夫人といっしょにこの新しい妻を産む(これは「妻を産む(ku-vyala muche)」と呼ばれる)。屋敷でなにかのおりに人手が足りなくなった場合、妻の親族などから少女を借りて身の回りの世話をしてもらうことがある。こうした手伝い娘も、きちんと「産」んでやる必要がある。また長期にわたってナイロビや外国などの遠方の地や、牢屋に投獄されていた者が戻ってきた際にも、彼を「産」んでやらねばならない。彼はすぐには屋敷に入れず、屋敷の外にしばらく「座らされ(ku-zagazwa)」、「巣立ち(ku-uruswa)」させられた後に屋敷に入る。そして彼の両親に「産」んでもらうのである。
本章の冒頭の例でも見たように、娘が嫁ぎ婚資が支払われた際にも娘の両親はその「婚資を産(ku-vyala mali)」まねばならない。多くの人の意見によると、娘の結婚に際しては2回(人によっては3回ともいう)にわたって婚資は「産」まれる。最初は婚資の交渉が始まる前にキテテ(chitete)と呼ばれる大きな瓢箪に入ったヤシ酒がもたらされたとき。娘がそれを注ぐことに同意することが婚資の交渉を始める条件である。その日のうちにその酒は飲み干され、キテテは娘の両親のベッドの下に置かれて一晩過し、翌晩に娘の両親はそれを「産む」のである。その後キテテは花婿側の両親に引き取られる。次は婚資の本体が引き渡されるとき。これは「主柱のヤギ(mbuzi ya mulongohini)」と呼ばれる母ヤギとその仔ヤギが引き渡されるときだとする意見と、「祖霊を眠らすヤギ(mbuzi ya chilaza koma)」が引き渡されるときだとする意見に分かれる。さらに瓢箪に詰めた大量のヤシ酒とともに娘が引き取りに来られた際にも再び「産む」必要があるという意見もある。この念入りさは注目に値する。あたかも出て行く娘と、入って来る婚資との困難な等価性を打ちたてるのに腐心しているかのようである。本章の冒頭でカーチェのケースを述べる男の話の中にも登場しているように、婚資を産むことがしばしば「娘を産む(ku-vyala mwana)」という言い方でも言及されるのは示唆的である。姉妹の嫁ぐ順序のところで触れたように、姉が妹に先を越された場合、妹の婚資を「産」まずにおき、後に結婚した姉の婚資を先に「産む」ようにして災厄を回避しうるという考え方がある。実は娘の結婚順において問題になっていたのは娘たちが屋敷を出て行く順序そのものだというよりは、これらの娘たちの等価物として入って来る婚資を「産む」順序だったのである。それが娘を順序づけることになる。
これら一連の「産む」行為を考える上で重要なのは、現実の出産との関係である。「産む」を本来文字どおりには現実の出産を指す言葉であると考え、同じ名前で呼ばれるその他の行為については単にその言葉が比喩的に拡張して用いられているのだとか、これらの「産む」行為によって出産が象徴的に演じられているのだなどと勘違いしてはならない。というのはドゥルマでは実際に子供を出産した際にも、この文字どおりの出産とは別に、その子供をさらに「産」む必要があるからである。字義通りに出産がなされているときにその同じ行為をさらに「象徴的」に演じてみせる必要がどこにあるというのだろう。「産む」行為は比喩的に、あるいは象徴的に出産をする行為などではないのである。
子供を「産む」に先立っては夫婦の性行動は長期にわたって規制をうける。それは妻が妊娠したときから始まる。彼らは「外(konze)」での、あるいは「ブッシュ(weruni)」での性関係--要するに婚外性関係のことであるが--を慎まねばならない。妻は他の男性と、夫は妻以外の女性との性関係を禁じられる(もちろんそれ以前なら良いという訳ではないが)。妊娠中の婚外性関係は生まれて来る子供に深刻な害を及ぼすとされるのである。夫に彼女以外に別の妻がいる場合、こうした他の妻との性関係は通常通り続けることができる。妊娠中の妻との性関係は特に規制されないが、妊娠後期になるとあまり好ましくないとされている(註22)。子供が出産するとさらに厳しい禁止が課せられる。夫は一切の性関係を--たとえ彼の正規の妻との性関係であれ--慎まねばならない。これは子供を産んだ妻が完全に「乾く(ku-uma)」まで続く。産まれてきた子供が「水を落とす(ku-gb'a madzi)」つまり皮膚の色が濃くなる頃、あるいは「壺に蓋がされる(ku-finika dzungu)」つまりひよめきが閉じる頃まで、という意見もある。この期間が終わると、夫は出産した妻と一回きりの性交、マトゥミアを行い、その子供を「産」む。これによって通常の性関係--自分の他の妻たちとの性関係も含め--が再開されるのである。こうして初めてその子供は本当に「お前(たち)の子供(ni mwanao kamili)」になる。<子供はこうやって「産」んでもらうことなしには、生き長らえることはできない>。
これらここで扱ったすべての「産む」行為の例は、「産む」という手続きが、実は何ものかを屋敷の中に取り込む編入の手続きに他ならないことを示している。文字どおりの出産もたしかに子供を両親に、そして屋敷にもたらす行為である。しかしそれは、本当に「産む」ことによってそれを確実なものにしない限り、不完全な行為である。「産む」行為が現実の出産を不完全に象徴しているというよりは、現実の出産の方が「産む」ことのいまだ不完全な実行形態なのである。屋敷の秩序の基礎である出生の順序は、より正確には「産む」行為を通じての編入の順序だったということになる。
「産む」ことはしばしば「きちんと置く(据える)こと(kp'ika to)」だとも語られる。「ただ持って来るだけではいけない。それはきちんと置か(据え)ねばならない。」これはなぜ「産む」必要があるのかという問いに対する決まり切った答えの一つである。「お前の身体の中に置くこと(ku-(mw)-ika mwako mwirini)」という言い方もよく用いられる言い回しである。編入という観念をこれほど明確に表わす言い方はない。「産」まないでいればどういうことになるのだろうか。<畑は収穫が得られず、トウモロコシは成長せず、家畜は流産、死産をくり返し、妻は子供をもてず、生まれた子供は死んでしまう。身の回りの世話をする少女は、ただ「産」まずに屋敷に住まわせていると、病気になってしまう。「お前の子供」として「お前の身体の中に置い」てやらねばならない。「産」んで「中」に置くことは、「守る(ku-rinda)」ことでもある>。
<「産」むことなく屋敷に持ち込むくらいなら「外に置(kp'ika konze)」いておいた方がまだましだ>。しばしばこんな過激な意見が聞かれる。これは先程の手伝い娘のケースを考えてみれば納得できよう。彼女はその屋敷に連れてこられなかったとしたら別に病気になることもなかったのだから。実は「産む」のとは反対に「外に置く(kp'ika konze)」あるいは「外に出す(ku-lavya konze)」と呼ばれる治療的手続きが存在する。家畜に対して(そしてときには子供に対しても)しばしばとられる措置である。しかし「産む」ことに代わるこの治療的な手段を講じることなく「ただ外に置いておく(kp'ika konze bure)」ことなど論外である。<そんなことをすれば、それはまず第一に「お前のものではない」。そして、群れ全体が一気に死滅してしまうような急激な死にみまわれる>。「ただ外に置かれた」だけのものは「守られていない」のである。一見したところ不思議なロジックを我々は前にしている。「外」はきわめて危険である。しかし屋敷の中にただ持ち込まれることも、持ち込まれた当のものにとってはやはり危険なことである。ただし「産む」手続きを通じて「きちんと置かれる」、つまり屋敷に組込まれることによってそれは「守られ」ることになる。本稿ではあまり触れてこなかった危険な外部と安全な内部というドゥルマで一貫して見られる区別自体は、さほど珍しいものではない。しかし、屋敷に持ち込まれたものにとっての当初の危険をどう考えればよいのだろうか。
こうした一連の「産む」手続きは基本的にはまったく同じ行為からなる。それは無言のうちに、手短に一回限り遂行される性交(マトゥミア、ウトゥミア、クトゥンギヤなどと呼ばれる)である。特別な場合には(註23)、それをベッドの上でではなく地面の上で行うという点が強調されることもある。重要なのは、この性交に先立って、最低一晩の禁欲を先行させねばならないという点である。ドゥルマの言い方では、夫婦は一晩「背中を見せあって」眠り、次の晩「産む」のである。禁欲は多くの場合一晩だけであるが、トウモロコシの発芽の場合のように、種を播いた後、芽が出て来るまで続くといった具合に長期にわたる場合もある。子供の出産に際しては「産む」ことに先立つ禁欲の期間は数ヵ月にも渡る。この期間においては子供であれ、家畜であれ、「産む」ことなくただ屋敷に持ち込まれている状態と少しも変わらないのだという点に注意しよう。これはとりわけ危険な期間である。その危険を言い表す言葉が、すでに冒頭の事例の中で登場していた「追い越される(ku-chirwa)」という言葉である。「産」んでもらわない限りこの危険がいつまでも続くことになるのである。
「産むことができるものは追い越すことができる」という言い方は「ドゥルマのやり方」を説明する語りの中でしばしば耳にする言い方である。家畜であれ、婚資であれ、それらを「産む」前に、男がそれらをいっしょに産むべきしかるべき妻以外の女性と(女性にとってはしかるべき夫以外の男性と)性関係をもつと、それらは「追い越される(ku-chirwa)」と言われる。<追い越されたものは衰弱し、死滅する>。これがとりわけ問題になるのは、子供の出産の場合であり、追い越されたものの病的な状態を指す言葉キルワ(chirwa)は、特に限定なく用いられた場合には、もっぱら夫あるいは妻の婚外性関係に起因する新生児の病気を指している。キルワを治療する専門の治療者がおり、彼らはキルワを何通りにも分類している。「外のキルワ(chirwa ya nze, chirwa ya konze)」は、夫あるいは妻の婚外性関係に起因するキルワである。妻が出産後、夫が他の妻と性関係をもつことによって生じるキルワもこれに数えられる。「介助者のキルワ(chirwa ya muphokeri)」は、夫婦がきちんと禁止を守っているにもかかわらず生じるキルワである(註24)。出産に際して介助役をつとめた女性(muphokeri)は、産まれてきた子供が「産」んでもらえるまでは夫婦と同じく一切の性関係を慎まねばならない。彼女がこれを破った結果として生じるキルワがこれである。
屋敷に持ち込まれたものに降りかかる危険は、屋敷の人々の「外」での性関係に由来している。冒頭のカーチェのケースで、夫のいない彼女が他の男性と関係をもつ意志がないという理由で、娘に対して支払われた婚資を「産」まずにすますことを正当化できたのは、まさにこれに基づいていたのである。そもそも婚外性関係を行う可能性がないなら、「追い越され」ようもないという理屈である。しかしより安全なのは、もちろんきちんと「産むこと」である。「産」んで「きちんと置き」完全に「お前のもの」つまり内部に所属するものにしてしまえば、それは「守られた」ものになり、危険はひとまず回避される。
しかし、それにもかかわらず屋敷の人々の婚外性交渉は、相変わらず屋敷に取り込まれたばかりのものに危険を及ぼしつづける。生まれたばかりの子供が一人歩きできるようになるころまでは、夫婦の浮気、つまり「外で寝ること ku-lala konze」は子供の健康に害を及ぼしうる。<子供はやせ衰え、泣いてばかりいるだろう。>すでに「産」んでもらった後であるから、「追い越される」危険はもうないはずであるが、これもキルワと呼ぶ人々は多い。家畜の場合も同様である。<飼い主が「好色(mudiya, muzembe)」で浮気ばかりしていると、彼の家畜は乳の出が悪くなり、その肉も味が落ち嫌な匂いのする肉になる。ひどい場合、家畜は流産(ku-lavya)をくり返すだろう。外で浮気をしたときには、家畜より先に屋敷に戻ったりすることのないよう気を付けねばならない。家畜が屋敷に戻って来るときに彼の(あるいは彼女の)足跡を踏むと、それだけで家畜は病気になってしまう。>子供と家畜以外のものに関しては、「外で寝ること」の危険が「産」んだ後にまで及ぶという観念はない。
こうした場合にとられる手段が「外に置く(kp'ika konze)」あるいは「外に出す(ku-lavya konze)」と呼ばれる手続きである。用いられる薬液の成分や手続きから、これがキルワの治療の中にも含まれている手続きであることがわかる(註25)。この手続きの目的は、家畜や生まれたばかりの子供が、「屋敷の問題(maneno ga mudzini)に捕えられぬよう」することにある。一部の人は「自分(の振る舞い)に信用のおけない人(mutuariye kadzamini)」がやる事だと軽蔑するが、とりわけ家畜の所有者たちのあいだでは、群の管理手段の当然の一部としてこれを行っている者も多い。この手続きの意味するところは、キルワの治療の際の唱えごとに含まれる「子供を外に出す」くだりを見れば一目瞭然である。
「子供の身体は石。子供は石の如く重し。子供はガンジ(植物の一種)の如く重し。子供にキルワなし。....子供に母なし。子供に父なし。誰もが父、誰もが母。父に追い越されず、母に追い越されず。子供はブッシュの獣の仔。子供はニワトリの雛。子供はヤギ。キルワなし。ニワトリはその母と交わる。その兄弟姉妹と交わる。その父と交わる。されど子供を産みてキルワなし。ヤギはその母と交わる。その父と交わる。....」
「外に置く」手続きによって家畜や子供は「ブッシュの獣」のように屋敷の秩序の外に置かれる。彼には特定の父も母もいない。ブッシュの獣が誰とでも交わりそれでいてそれが産む仔獣に何の悪い影響も与えないように、父母が誰と性関係をもとうとも彼らの性的な振る舞いはもはやその子供にはなんら悪影響を及ぼさない。もちろん子供は屋敷の秩序によっては「守られ」ていない。したがって代わりに子供には特別なキルワの護符(pingu)が与えられ、それが子供を「守る」ことになる。
屋敷をめぐる「ドゥルマのやり方」についての人々の語りのなかに、きわめて一貫したロジックが看て取れる。順序構造によって秩序付けられた屋敷(mudzi)は、すべてが混じりあっている混沌としたブッシュによって代表される「外部(konze)」と明確に区別されている。「産む」行為はなにかを内部に編入し、内部に「きちんと置く」行為である。この「産む」行為を通じて編入される順番が、屋敷の順序構造となる。屋敷の成員は出生の際に「産」んでもらうことによって、最初にこの秩序の中に位置付けられる。その後、結婚や小屋の建造などの諸々の機会に、その都度新たに順序付けなおされる。ただし既存の構造と矛盾しないように。ブッシュと屋敷の区別として可視化されるこの外部と内部の境界が、相対的なものでありうることに注意しよう。たとえば「家畜を産む(財産を産む)」際の「内部」は、その所有者がたとえ父の屋敷に属する一成員であったとしても、その所有者と妻たちからなる単位であって、それを「産む」のに屋敷の長である父の手をわずらわせる必要はない。彼自身が自分の第一夫人と「産」めばよい。出産にあたって「子供を産む」際には、「内部」は夫とその子供を出産した妻を頂点とする単位である。夫が彼自身の他の妻ともつ性交渉でさえ、産まれてきた子供を「追い越す」外部の性関係である。最初の順序構造の中にネストしていくように、下に向かって複雑化していく諸系列は、そのまま屋敷の、そして出自集団の生成的発達の可視化されたモデルを提供している。
しかし「産む」行為がもつこの順序づけ、つまり秩序の中での位置確定の働きは、性行為一般に人々が認めている機能であるともいえる。屋敷内の順序構造を検討する際に見てきたように、成員の性行為は順序の構造に直接影響を及ぼすのである。下位の者が先へ進み、妻との性行為によってその位置を確保してしまうと、上位の者はもはや「後ろに戻る」訳には行かなかった。さらに誤った性関係は、それがマブィンガーニをもたらす近親者との性関係であれ、周辺的成員(新生児と家畜)に危害を及ぼす「外で寝ること」であれ、この秩序に少なからぬ打撃を与えることができる。そのとき「守」られて安全な内部に、災いが入り込むのである。これに対し正しい性関係、つまり正当な配偶者との日常的な性関係はこの秩序を維持し、内部と外部との結界を維持する行為だと言えるであろう。「産む」行為が行われるとき、つまり何ものかの内部への編入に際して、それが一時停止されねばならない理由もそこにある。外部に属する存在を内部に入れるためには、結界は一時的にせよ開かれねばならないのだ。そして「産む」行為がそれを再び閉ざすことになる。
「産む」行為には2種類あると人々は言う。「置くための産む行為(ku-vyala kp'a kp'ika)」と「捨てるための産む行為(ku-vyala kp'a ku-tsupha)」である。本章では、もっぱら前者を紹介してきたのだが、今述べた最後の点に関して、後者の「産む行為」についてもごく簡単に触れておこう。服喪の最終日に行われるべき「死の投げ棄て(ku-tsupha chifo)」や、火事で小屋を焼失したり、屋敷の成員が事故--とりわけ一括してムヴァンガ(muvanga)と呼ばれる流血などを含む忌まわしい事故--に遭ったりした際に行われる「産む行為」がこれに当たる。行われる行為は「置くための産む行為」の場合と同じ禁欲+マトゥミア性交である。一見同じ行為が正反対の目的に用いられているように見えるかもしれない。一方は屋敷で代表される内部への編入であり、他方は屋敷の外への排除である。しかしこれは矛盾でもなんでもないのかもしれない。入れるためであれ、出すためであれ、結界は開かれねばならない。そして再びそれが閉ざされて秩序が再始動させられる。「産む」という行為は外部との境界についてのこの操作そのものなのである。
当面する何らかの違反や災厄との関係においてでなく、規則をただ規則として提示する語りは、治療や紛争の裁定やらの特定の場面での「正しいやり方」をめぐる同輩との議論や、若者たちに対するアドバイスなどを主な舞台とする。それらは「〜する際には〜せねばならない、あるいは〜してはならない。さもないと...、そうすれば...」の、お馴染みの規則の語りのフォーマットで提示される。しかしそれは単に「公式」として提示されるわけではなく、語り手が知っている具体的な過去の実例によって「実証」された主張として提示されるのである。「婚資を産まねばならないこと」を述べる際にカーチェの事例が持ち出されるのも、こうした文脈においてである。規則を規則として語るこうした語りの中では、規則とその違反がもたらす災厄との因果的な結び付きは、規則そのものに内在する要素としてきわめて直接的に提示される。それは常に理論的な語りである。
この節では違反と災厄の因果的な結び付きを主張するこうした「規則の語り」が可視化する秩序を、人々自身の語り口にできるだけ沿う形で提示するよう努めてきた。若者の問いに答えて規則を述べる老人は、別に相手に対して命令を発している訳でもなければ、禁止を課している訳でもない。文字どおり自分たちにとって世界はどんなふうにできているものであるか、を述べているのである。私の作業はそれらが提示する秩序を、それらの語りの背後の暗黙の前提を共有していない非・ドゥルマ人である我々自身にとっても目に見えるものにすることであった。こうした秩序の提示には反照規定性(reflexivity)がつきものである。一方で、それは既にそこに存在するある秩序を前提とし、それについての語りのように自らを装う。しかしその実、当の秩序を創り出し可視化させているのは、より正確には、こうした規則の提示や規則の実践そのものなのである。ドゥルマの人々にとっては、屋敷内の序列、順序の構造は世界にそなわった客観的な特徴である。そのようなものとしてそれについて語ったり、それを踏まえて行動したりすることができる。しかしそうした秩序を可視化するのはそれについての語りそのものであるし、順序を踏まえて行動することがまさに実際に順序を付ける行為なのだ。私自身によるドゥルマの屋敷の秩序の提示もまた、この同じ性格を共有せざるを得なかった(註26)。ここでは規則の語りと、実際のさまざまな出来事は互いに支え合って、秩序をあたかも一貫したゆるぎない論理的な構築物であるかのように見せかける。そしてそれはつねに「見せかけ」なのである。
具体的な出来事の展開の中で「ドゥルマのやり方」はどのように実践されるものだろうか。そしてそれは第一節で論じた「災因としての違反」がもつ人を困惑させる特徴--規則そのものが主張する因果関係が現実の災厄のなかでは決して直接的に与えられないという--とどのように関係しているのであろうか。最後に結婚順の乱れとその矯正が問題になった具体例を一つ取上げ、この点について考えて見よう。
調査期間中、兄よりも弟が先に結婚した何件ものケースを目にしたが、そのほとんどは、兄が屋敷を離れて町などで暮らしている(独身の場合も女性と暮らしている場合も含めて)ケースであった。屋敷から離れていたがために弟に先を越されることになったのか、弟が先に結婚したために屋敷から離れるようになったのかは、微妙なところである。少なくとも一見すると、これらの「先を越された」兄たちは屋敷へ戻ることを拒んでいる、あるいは断念しているかのように思えた。にもかかわらず、兄が屋敷へ戻ることを望んだときには、結婚順の矯正の手続きが不可欠なものとなる。私が出会ったケースは一件のみであった。
憑依霊関係の病気の施術師をしているメローチャには二人の息子ローチャとキメラ(ともに仮名)と三人の娘がいた。彼女は正式な夫を持ったことがなく、二人の男性と婚資のやり取りのない関係を持ったことがあるだけである。二人目の「夫」と別れた後、後に彼女を施術師の道へ進ませる原因にもなった病気を長年にわたって患い、それがきっかけで子供たちとともに自分の父親の屋敷で暮らすようになっていた。その父も数年前になくなり、その屋敷には亡父の年老いた身体の不自由な未亡人とメローチャの家族だけが残った。亡父の他の未亡人たちは既にしかるべきクランの男と再婚していた。メローチャの兄弟もすでに父の屋敷から独立し、歩いて数分のところに別々の屋敷を構えていた。メローチャの住む屋敷は未だに亡父の名で呼ばれてはいたが、事実上メローチャの屋敷であった。上の息子ローチャは早くからモンバサで賃労働に従事し、屋敷にもほとんど戻らず、いつまでも独身の生活を続けていた。そうこうするうちにキメラが結婚して、メローチャの屋敷に妻を迎えやがて子供をもうけた。その後兄のローチャはモンバサで結婚したが、まもなくモンバサでの職を失い、突然メローチャの屋敷に戻って来る意向を伝えてきた。1991年のことであった。
結婚順矯正の手続きは、近所の人々にもことさら知らされることなく、きわめて事務的にあっさり行われた。キメラの妻はすでに数週間にわたって子供とともに実家に帰されていた。ローチャは予定していた日になっても屋敷に戻ってこず、一週間、二週間とただ日にちだけが過ぎて行き、キメラは生活の不便にいらだっていた。ローチャが帰ってきたら連絡をくれるという手筈にもかかわらず、その三週間ほど後に私が再びメローチャの屋敷を訪問すると、すでに全ては終わっていた。ローチャは数日前に帰ってきていた。すぐに炉の火は消された。そして日をおかずしてメローチャは金で頼んだカンバ族の男性と性交を行ってローチャとその妻を「産」んだのだという。キメラはさっそく、実家に戻っていた妻を連れ戻しに行っていた。多くの人から話に聞いていた手続きとはいろいろな点で違っているように思われた。「火は火起こしの木(ndindi)でおこしたんでしょう?」「なんで?マッチでに決まってるだろう。」屋敷へ通じる道が封鎖された形跡もなかった。「ヴオ(薬液)は?」「何のための?何か間違いがあったとでもいうのかい?いやいや。ローチャに『彼の上位性(uvyerewe)』を返してやるというだけのことじゃないかい。」
このメローチャの見解は、一見したところ、他の人々の話とはかなり異なっているように思える。もちろん基本的なロジックは同じである。既に見たように、結婚順矯正の手続きは、既にある順序構造をキャンセルし、兄にその「上位性」を返した新たな順序に作り直すという2種の操作からなる。メローチャも他の人々も、順序のつけ直しを強調する点においてはほぼ一致している。違いは、多くの人々が、弟によって作られていた古い順序付けを、新しく作りなおされるべき順序付けの観点から、矯正されるべき「過ち」であると捉えなおして、それを「冷やし」キャンセルするのに大いに気を配るのに対して、メローチャは古い順序のキャンセルという問題をわりとあっさり片付けているという点にある。どちらが正しいやり方だったのだろうか。この例は第一節で提示した問題--規則の不確定性の問題--に別の角度から照明をあててくれるだろう。
弟によってつけられた順序をキャンセルし、兄にその上位性を返して順序付け直さなければならない。しかしそもそも古い順序をキャンセルするといっても、具体的にはいったいどうすればそうしたことになるのだろうか。その旨宣言すればよい、などといったものではないとされていることは確かである。メローチャの場合も、ローチャが妻を連れて屋敷に入る前にキメラの妻を実家に帰しておき、さらに屋敷の火を消してもいる。他の人々は、さらに屋敷に入る道を全て塞げ、とかヴオで念入りに洗って「冷やせ」といったことを付け加えている。しかし、ただ宣言するだけではだめで、あるいはメローチャのやり方では不充分であるが、屋敷に通じる道を塞げば十分だなどということが、どのような根拠に基づいて言えるのだろうか。古い順序をキャンセルするということが「どういうこと」であるのかを、それを行う特定のやり方とは独立にそれ自体でとらえることができてはじめて、それに照らしてどのやり方が正しくてどのやり方が間違っているのかを確定することができる。だが「古い順序をキャンセルする」という行為を、どうすることがキャンセルすることであるのかを定義する当の規則とは独立に、取り出して考えることができるだろうか。私自身が「古い順序をキャンセルせねばならない」ような状況に直面したと仮定しよう。そして「とにかくどんなやり方ででもいいから、できるだけ効率良く古い順序をキャンセルしなさい」と告げられたとする。私はそもそも何を試みればよいかもわからないだろう。どうなれば古い順序がキャンセルされたことになるのかがわからないからである。より効率的にも何もあったものではない。そもそも「順序」なるものは、結局何かが行なわれる「順序」でしかなく、ある順序を踏まえて既に行われてしまった行為の中から「順序」だけを取り出してキャンセルすることなんかできる訳がない、などという理屈をこねてみても無駄である。「順序」は「秩序」が供えている客観的な構造として経験されてしまっている。だからこそ、単に別の順序でなにかを行ないなおすだけでは駄目で、まずそれをキャンセルしなければならないということになるのだ。でもそんなものをどうやってキャンセルするというのだろう。結局私は何をすれば「順序をキャンセルすること」になるのかを尋ねるはめになる。すると例えば「屋敷に入る道を全て塞ぐこと....etc」といった答えが返って来ることになる。結局根拠は、循環的なかたちでしか主張できない。古い順序を打ち消すための「ドゥルマのやり方」はしかじかであると主張する人に、その根拠を尋ねてみよう。なぜしかじかのことをすればキャンセルしたことになるのかと。<しかじかのことをすれば順序をキャンセルすることができる、なぜならそうすることが順序をキャンセルするということだからだ>。さらに、なぜそうすることが順序をキャンセルすることになるのかと問うたとする。昔からそう「決まっている」からだという答えが返って来るだけである。これが「ドゥルマのやり方」を提示する人々の語りである。
これは日本で、結婚するためには婚姻届を提出せねばならないと聞かされて、その理由を尋ねたとしたら直面するだろう状況に似ている。なぜ婚姻届を出したら結婚したことになるのか?なぜなら婚姻届を出すことが結婚するということだからだ。さらに問うと「そう決まっているのだ」という答えが返って来ることになろう。「規約」の問題である(註27)。それ以外のところになにか別に根拠がある訳ではない。
しかし「ドゥルマのやり方」の場合には、実際には、このメローチャのケースが示しているように、必ずしも「そう決まっている」とすら言えないのだ。意見にはばらつきがある。その場合どれが正しいかを決定することは原理的に不可能となる。極端な話、何をしたところでけっしてキャンセルなどできない、という立場と、何もしないでもいいという立場の両極のあいだの、いかなるポイントも、それ自体では自らの正しさを根拠付けることはできないという点では等価なのである。どの立場も同じ言葉を繰り返すことしかできない。「キャンセルするためにはしかじかのことをせねばならない、なぜならそうすることがキャンセルすることだからだ、そう決まっているのだ」と。
不確実さは、ほとんどすべての「ドゥルマのやり方」に内在している。たとえば、娘の婚資は「産」まねばならないと誰もが言う。だがいつ何をすればそれを「産んだ」ことになるというのだろうか。両親が性交をすることであるとは誰もが知っている。しかしある人がしかるべき時期に合計3回行わねば「産」んだことにはならないとするのに対して、別の人は2回で良いとし、またある人が地面の上で無言で行うべきだとするのに対して、別の人はベッドの上で普通にやればよいと言う。どの人に聞いても、そうすることがなぜ「産む」ことになるのかの根拠は、「そう決まっている」という形で以外には与えようがない。そもそもどうなれば、「産」んで「身体の(あるいは屋敷の)中にきちんと置」いたことになるのかなど、どうすることがそうすることなのかを定める当の規則とは独立には、定義しようがないからである。にもかかわらず、まさにこの意見のばらつき自体が、それがけっして一つには「決まって」いないのだということを立証してしまっている。それは決定不能である。誰もが「産」まねばならないことは知っている。だがどうすれば「産」んだことになるのかは、決して満場一致の確実な知識ではない。
誤解を避けるために付け加えておこう。問題は知識についての合意そのものではない。少なくとも当の人々自身にとってはそれは決して合意で片付く問題ではありえない。人々がとるべき手続きの点で合意に達して、こうすることでキャンセルできたということにしようと仮に『決めた』ところで、古い順序が本当にキャンセルできていなければ何にもならない。それは屋敷に災いをもたらしてしまう。古い順序をキャンセルしたり、それに失敗したりすることは、人々にとってやはり、未来の結果に結び付いた実在的な状態変化をもたらす実在的な行為なのである。そうだとすると、そんなものを規約によって決めたりすることなど当然できる訳がない。「ドゥルマのやり方」が規約的であるとしても、それは自らの規約性を完全に隠蔽しきった規約なのである。言い換えれば、「ドゥルマのやり方」のなかに我々が見出すのは、規約性と非規約性との信じがたい結び付きであるとも言える。行為(屋敷へ通じる道を閉鎖すること、などなど)とその目的(古い順序をキャンセルすること)の結び付きは規約的であるしかない。しかしそこで同時に主張される因果連関は非規約的であらざるを得ない。古い順序をキャンセルしなければ災いが起こるのは、別にそう決めたからではない。必然的にそうなるのである。ある出来事がある出来事の結果になることを規約によって決めることなどできる訳もない。そこではキャンセルする行為は、単に「〜することをもってキャンセルしたことにする」などという規約などで単に「決めた」だけのものであってはならないことになる。それは実際の効果と結び付いた非・規約的で実質的な行為でなければならない。同様に「〜することをもって婚資を産んだということにしよう」と全員で勝手に決めたところで、本当に「産」めていなければ、娘は不妊になってしまう。「婚資をちゃんと産んでいなければ娘は不妊になる」、これは必然の結び付きだ。にもかかわらず、そもそも「両親が無言の性交をすること」がどうして「婚資を産」んだことになるというのかといえば、そこには規約的な根拠以外のものは見出されないのである。
規約性と非・規約性、必然性のこの信じがたい結び付きが、「ドゥルマのやり方」にさらなる不確定性を付け加える。ドゥルマのやり方をめぐる意見の相違が、そのどの一つをとっても自らの正当性を根拠づけることができないというだけではない。それは自らが主張する因果性によって常に裏切られる運命にある。規則つまり「ドゥルマのやり方」についての満場一致など、たとえそれがあったとしても、未来の不確定性自身に対しては何の役にも立たない。判定は、結果に、つまり未だ起こっていない未来の災厄にゆだねられるしかない。結婚の順序を付け直す際に、いくら念入りに道を塞ぎ、ヴオで洗ったところで、その後の展開で屋敷に不幸が続けば、その手続きは十分ではなかったということになるし、極端な場合、何もしなくてもなんの不幸も起こらなかったとすれば、それで十分キャンセルできていたのだということになる。確実性は未来からしか受け取れないのである。規則が唯一一時的な確かさを獲得するのは、こうした不確定性の中で災厄が遡及的に不在の「違反を」発生させたときだけである。それは人々にとって規則の経験的な根拠となる。規則の語りが過去の実例を引き合いに出しつつ行われる理論的で実証的な語りであることは既に指摘したとおりである。しかし第一節で論じたように、それは自らの遡及的性格を隠蔽した語りであることによってのみ経験的な根拠になりえるだけであった。同時にそれは規則の知識そのものの無限のばらつきの可能性を用意してしまうことにもなる。メローチャの場合、彼女の手続きで十分だった実例を知っている。道を塞ぐ必要性を力説したムァゾンボ氏の場合、そのせいで順序の付け直しに失敗した実例を知っていた。
明白な規則違反が生じたり、あるいは現実に「ドゥルマのやり方」にのっとって対処が行われねばならないような場面では、人々のこうした知識がすり合わされ、ともかく「正しい」とされたやり方が採用される。しかしただの「合意」には何の意味もないということは既に見たとおりだ。おまけに第一節の2番目の事例、ムベユのマブィンガーニのケースが示しているように、見解の相違は完全には回収されない。とられた対処に対する疑いが必ず誰かによって抱かれている。ここでは最終的にとられたやり方の「正しさ」は、逆に、未来の不確定性によって辛うじて支えられている。この「正しい」手続きの中で主張される因果関係は、未来の出来事によってはっきりと「否」が出されるまでのあいだの、必然なのである。
にもかかわらず、例えば、人々が古い順序構造がとにかくキャンセルされねばならず、また兄に「上位性(uvyere)」を返してやって新しい順序をとにかく打ちたてねばならないと考えている限り、それを行う「何らかの仕方」が用意されていなければならない。かくして人々はそれを規則として語ることになる。未来の不確定性によって自らの根拠の欠如を露呈しつつ、なおその都度「絶対」として語られねばならないもの、これこそが、これらの規則の本質なのである。なぜなら秩序とはそのような語りによって提示し確認されるしかないものなのだから。
(註1)
本章における中心となる作業は、規則や出来事に対する人々の語り口の分析である。それはいわゆる会話分析ではない。別に私は出来事を語る人々の独特の口調や、間合い、対話者との呼吸などを問題にするつもりはない。出来事がどのような言葉=概念によってどのように関係づけられ語られるかが、ここで言う「語り口」に当たる。したがって人々の語りそのものは分析者によって要約された形で提示されることになるだろう。人々の語りを逐語的に引用する場合には通常の鍵括弧「」を、要約的にまとめた形で引用する際には<>を用いることにする。なお本文中にあげるドゥルマの人物名は全て仮名である。
災因論という用語は日本の人類学者に今日では広く用いられているが、この語を最初に用いた長島信弘によると、一つの社会の人々がもっている「人間にふりかかる不幸や災いを解釈し、説明し、そしてそれに対処するための行動を指示する、個人に外在する文化システム」(長島 1982)として定義されている。私はここでは、この定義の中に一部分として含まれるやや限定された意味で、つまり「災いや不幸を他の諸事象と関係づける語り口」という意味で用いることにする。これは行動の部分を除外している点で長島の定義よりは狭い。しかし他方では不幸をめぐる語りに「解釈」や「説明」という限定された性格づけを与えない点で、長島の定義をやや拡張したものにもなっている。
(註2)
「ドゥルマのやり方(chiduruma)」を「規則」という概念で捉えることがはたして適切であるかどうかは問題である。しかし本章ではこの点には深く立ち入らず、慣例的な扱いを踏襲することにする。「ドゥルマのやり方」は文字どおり「やり方」なのだという点は、しかしながら、強調しておいた方が良いかもしれない。それはあることを行う正しい、安全なきまったやり方のことである。そのやり方で事を行う限り、万事が順調に行くものと期待される。さもないと様々な災厄や障害が起こる。本章で私が「規則の違反」という言葉で指しているのは、したがって、正しいやり方以外の仕方で物事を行うことであると言った方がより正確であるということになる。それは規則とその違反という概念によって指されるものよりも柔軟な、ある程度の幅をもった概念である。しかしこの「正しいやり方」が常にただ一つしかないかのように語られているとすれば、このように語られる「正しいやり方」と規則という概念との隔たりは、そして「正しいやり方以外の仕方で行うこと」と規則違反という概念との隔たりは、結果的にはそれほど大きくないということになろう。ドゥルマの人々自身も「ドゥルマのやり方」をスワヒリ語で「法」や「掟」を意味する(sheria)と言う言葉で置き換えてみせることもしばしばある。法や規則と、法則性や規則性、さらに、あることをなす際の「ならわし」や「やり方」、こうした諸概念の相互関係については別の機会に詳しく検討することになるだろう。
(註3)
マトゥミア(matumia)、ウトゥミア(utumia)などと呼ばれる手続きで、一回きりの無言で行われる性交。この行為はク・トゥンギヤ(ku-tungiya)と呼ばれることもある。儀礼的性交と呼んでも良いかもしれないが、日常的に行われている性交とは区別されているという以上の意味を「儀礼」という形容が含んでいるとは思われないので、ここではこの用語を避け、単にマトゥミア、マトゥミア性交などと呼んでいくことにしたい。
(註4)
ここで「追い越す」と訳した動詞 ku-chira は、文脈に応じて「通り過ぎる」「追い越す」「(相手に)勝つ」「(〜より)優れる」などと訳すことが出来る動詞である。かつて私はこの動詞を「陵駕する」と訳したことがある(浜本 1989)。ここでは、そのもっともありふれた用い方に即して訳し改めることにした。
(註5)
他ならぬズマ氏自身がこの地域では、こうした規則について人々から相談を受ける立場にある長老の一人であった。
(註6)
おそらく読者にとって現時点では、この論理そのものが意味をなさないものに見えるかもしれないが、この点は本章の以下の記述の中でおって補っていく。
(註7)
この指摘を、規則というものは多様な解釈を許すなどという月並みな理解と混同しないでほしい。ある結果を前にしての規則の違反という事実は必然的にこのように遡及的な形でしか発生しえないのであり、これこそが逆に多様な解釈を許す規則自体の曖昧性の原因なのである。またこのことは、規則が当事者たちの利害関心に応じて操作されうるものだという月並みな指摘とも混同されるべきではない。政治性が介入しようとしまいと、意図的な操作が紛れ込もうと込むまいと、ここで述べているこの特徴は、災いを規則と関係付けて語る語り口そのものにそなわった内在的な特徴である。語り口に備わったこの特性こそが、政治性が紛れ込む隙間を用意してやっている当の特性に他ならない。この関係を錯覚してはなるまい。
(註8)
後述するようにドゥルマのマブィンガーニは近親関係にたつ男女の性関係というよりも、一言で言うと、一人の異性と同時に性関係をもつことによって生じる同性の近親者どうしの関係を問題にする概念である。このケースでも問題になっているのは、かなり遠いとはいえ、父と息子の関係にたつ二人の男が一人の女性と関係をもったという事実である。これにより、父と息子が「混同」された(ku-tsanganyika)ことになる。これは双方にとっても、またその一方との恒常的な性関係の故に、媒介となった女性にとっても危険な事態である。詳しくは浜本 1988 を参照のこと。
(註9)
このロジックについてもここでは詳しく説明することはできない。後述する。
(註10)
ルワはモンバサで定職をもっており、この屋敷の人々の生活は彼の収入に大きく依存していた。この屋敷は、名目的にはルワの父親の屋敷であり、ルワは父親の権威にしたがっているのであるが、実質的には屋敷の運営はルワの言いなりになっていた。父はルワの収入を当てにしており、また性格的にも気弱な父は、押しの強いルワに面と向かっては反対できないようであった。ここでも父は、ルワのかなり常軌を逸した解決策を弁護する側にまわっている。
(註11)
今日、教育や賃労働の機会と必要性から屋敷を離れて遠くの町で暮らす若者が増えている。しかしこれらの若者も多くは、自分たちのムジ mudzi はやはり父親の暮らすムジであり、町での住いは一時的な住いに過ぎず、生活の基本はムジでのトウモロコシの耕作だと主張する。独身で、たとえ町に暮らす期間のほうが長くとも、父の屋敷に自分の小屋をもっていることが必要である。結婚すると、自分は町で暮らしていても妻子はムジにおいて畑仕事で自分たちを支えねばならない。実際には、こうしたすべての若者がすみやかに父の屋敷に自分の小屋を建てるとは限らない。しかしこれが余りに遅れ、ムジに残っている弟たちが先に小屋を建ててしまうまで事態を放置しておくと、この兄の立場はきわめて厄介なものになりうる。さらに結婚後も父の屋敷に自分たちの小屋を持たないまま妻とともに町で暮らしているうちに、ムジに残った弟が結婚しようものなら、そのこと自体が面倒な「治療」と矯正措置の手続きを必要とする状況である。この兄は自らの健康と生命を危険にさらすことなしには、二度と再び妻をともなってムジに足を踏み入れることはできないであろう。にもかかわらず、こうしたケースは近年ますます目だってきている。その度にそれを矯正する「治療」手続きが、熱心に論じられることになる。
(註12)
東部と西部における生態学的、経済的差異と屋敷の規模の関係は、パーキン(Parkin 1991)が隣接するギリアマにおいて指摘している事実に、ほぼ並行している。
(註13)
その形態は実際にはケースごとにさまざまである。現金収入のある者は、その金で困窮した近隣の女性たちや、鋤を持っている隣人、さらにはトラクターを雇うことによって、広大なズンベを耕作できる。西部ドゥルマでは、このようにして父のズンベよりも大規模なズンベを所有している息子もいる。また、個人土地所有権の登記がすでに完了しているドゥルマの東南部では、現金による土地の売買が行われ、ますます個人の屋敷からの独立性がおおきくなっている。これらは現金収入の機会を与えるモンバサに近い東部のドゥルマにおける、息子たちが父親の屋敷から早期に独立する傾向を一部説明できる。
ズンベは、またしばしば女性にとって、彼女の配偶者という意味でも用いられる。娘に対して「お前がズンベを手に入れたおりには...」と言うことは、彼女の未来の結婚に言及する慣用的な言い回しである。
(註14)
本稿ではドゥルマの出自集団についてはあまり詳しく論じることはできない。ここでごく簡単に紹介しておこう。ドゥルマは二重単系出自を認め、ウクルメ(ukulume)と呼ばれる父系出自集団のシステムとウクーチェ(ukuche)と呼ばれる母系出自集団のシステムが併存している。14ある父系クランは、それぞれ7つのクランからなるムリマ(murima)およびムエジ(mwezi)と呼ばれる二つのグループを形成している。かつてはすべての土地はクランによって所有され、クランの成員は自由に自らの属するクランの土地を耕すことができた。同じムリマあるいはムエジ・グループに属するクランの土地を耕すことも許されていた。土地に対する個人所有権の整備は近年急速に進んで来てはいるが、未だにかなりの土地がクラン所有の形態である。母系クランについては正確な数は不明であるが、30を越える母系クランがあり、そのあるものは明らかに隣接する母系のディゴのクランに一致している。1950年代までは、土地や狩猟道具は父から息子へと相続され、家畜やその他の動産は母の兄弟から姉妹の息子へと母系的に相続されていた。また殺人の賠償などは母系集団間でその従属メンバー(男児一人と女児一人)を相手側に支払うことで決済されていた。土地の相続や屋敷への所属が父系であることに加えて夫方居住婚であることから、父系出自集団は地域的にまとまった単位になる傾向にあり、一方母系出自集団はドゥルマ全域に広く拡散する傾向にある。1960年代以降の母系相続の廃止により、母系クランの力はおおいにそがれたが、今日では牛や現金で支払われるようになった殺人賠償については、その決済はいまだに母系クランの手にある。各母系クラン(あるいはその分節)は、キフドゥ(chifudu)とよばれる壺をめぐる祭祀をもっている。またキラブォ(chirapho)と呼ばれる、効き目の点で連鎖性のあるある種の呪詛は母系集団の人間に対して次々と効果を発揮するといわれている。
(註15)
これは、ドゥルマの他の生活領域を特徴づける男女の区別が屋敷においても基本的な構造上の区別になっているという事実を否定するものではない。小屋の内部が女性と子供の空間で、炉の火が女性の火であるとすれば、屋敷の広場であるムハラとそこでの焚き火(コメ kome、ロメはその指大形)は男性の空間、男性の火である。屋敷内での活動に男女の明確な分業が見られるだけではない。男女の分離や、両者の関係を定めた細々とした規則が存在する。男女の区別や、その他の重要な構造的区別については、稿を改めて別に論じる機会があるかもしれない。
(註16)
私は一人の若い女性が実家の母に相談している場面に出くわしたことがある。彼女は嫁ぎ先で、夫の母の留守中どうしても必要に迫られて、つい夫の母の穀物貯蔵庫に入ってしまった。そしてそこから降りてくる途中で足をくじいてしまった。彼女はこれが違反の結果の災厄の前触れかもしれないと気に病んでいたのである。彼女の母はこれを一笑にふした。そして付け加えて言った。<本当にいけないのは、夫の母の貯蔵庫に入ってしまった嫁がそれを、夫の母に告げずに黙っていることである。夫の母がその事実を知らないまま、穀物貯蔵庫に入ってしまうと、そのときにこそ本当の災厄を怖れねばならない。>
(註17)
これについても後に詳しく触れる。
(註18)
ムベユのケースが単に小屋の建造順を矯正するケース以上の問題を含んでいることは言うまでもない。ムベユの浮気によって「父と息子」が「混じりあ」ってしまった問題が解消されていない。さらにかつてムベユのものに他ならなかった当の小屋とベッドが、新たに娶られた第3夫人によって使用されたという点もある。単に順序の逆転だけの問題ではなく、すでに二人の妻が「まじりあって」いるという問題である。したがってムベユのケースではここで示した単に「上位性」をかえすだけのことですむとはとても思われない。ところで、論点先取を避けるために、ムベユのマブィンガーニをとりあえず近親相姦と訳しておくが、これがいかに不適切であるかはおって明らかにするつもりである。
(註19)
死者の埋葬終了後の数日間(クラン毎にその日数は異なる)がハンガと呼ばれる服喪の期間である。この間、死者の親族は夫婦の性関係を禁じられ、参加者はベッドや椅子を使用せず戸外の地面の上で寝起きする。死者の屋敷の人々は激しい動きをしてはならず、大きな声を出してもならない。水浴び、洗濯や掃除などの日常的な作業も禁止される。「巣立ち」は服喪の最終日、参加者全員による水浴び(このときに死者の衣類の洗濯が行われる)が終わった後に死者の配偶者に対して行われる。彼、あるいは彼女に「大きな声」をださせ、「走らせ」最後にベッドの上に上げる手続きである。つまり服喪期間中の禁止の多くが解除されるのである。これによってベッドと椅子の使用も解禁される。「巣立ち」が服喪期間を特徴づける「下」から日常生活の「上」への移行の手続きであることが看て取れよう。そのとき服喪の期間の「混じりあった」状態--兄弟や親子のマットが共有されるなど--を「冷やす」手続きが同時に行われる。その日の夜、死者の配偶者が「余所者」とブッシュの地面の上で無言のマトゥミア性交を行うことによって「死が投げ棄て」られる。死者の子供たちによる性関係の再開は、その翌日から始まる。「死を投げ棄てる」儀礼については、浜本 1989 に簡略な分析がある。
(註20)
近年他の部族、とりわけ隣接するディゴの男性と結婚した女性たちの場合、服喪終了後も妻を返さないことが夫の理解が得られず困難な場合、特別の護符(pingu)と治療を施して、早期に夫のもとに返すというやり方が一般化しつつある。また一方で、この順序のつけ直しが、男性のみに関するものであり、女性は関係ないのだという意見も聞かれる。
(註21)
夫が死んだ日と同じ曜日(4日で一巡する「ドゥルマ暦」で)が選ばれ、定められた服喪の期間と同じ期間、彼女はたった今夫にしなれたばかりの配偶者のように「座らされる」。その後に彼女は「巣立ち」させられ、屋敷は「冷やさ」れ、彼女は選ばれた余所者と無言の一回きりの性交を行い死を投げ棄てなおす。その後に順序にしたがって屋敷の人々の性関係がたどりなおされるのである。
(註22)
妊娠は二つの血、つまり妻の経血と夫の精液の混合によって起こるといわれる。経血は子宮の中で食い止められ胎児となる。はっきりとした確証はないが、妊娠後の性関係が妊娠初期においては子供の肉体の形成にあずかっていると考えられている節がある。少なくともそれは悪いことだとは考えられていない。しかしすでに子供が「固まっ(ku-komala)」た妊娠後期になると、夫婦の性関係は余計な行為になる。出産した赤ん坊が身体に「白い油」をべっとりまとって生まれて来ることがある。これは夫がいつまでも性交したために、余分な精液が付着したものだとされ、夫の好色が嘲笑される。
(註23)
「死を投げ棄てる」際に行うマトゥミア性交は、ブッシュの地面の上で行わねばならない。この行為が「産む」ことであると語られることはまずない。しかし、死が余所者相手に投げ棄てられる前に屋敷の中で誰かと性関係をもってしまうことは「死を屋敷の中に産んでしまう」ことになると語られる。「死を投げ棄てる」とは死を「外に産む」行為にほかならないことがわかる。同様に火事で家を焼失したのちに開かれる屋敷を「冷やす」治療の後でも焼けた小屋の持ち主は焼け跡の地面の上で儀礼的性交を行わねばならない。また婚資を産む際にも地面の上で行うべきだとする人も多い。マトゥミアには、このほか、無言であること、手を使わないこと、射精を一回きりにすることなどの決まりがある。浜本 1989 を参照のこと。
(註24)
「死者の世界のキルワ(chirwa ya kuzimu)」と「ムニェレラ(排泄者・射精者)のキルワ(chirwa ya munyerera)」は、ともに夫婦の婚外性交とは無関係で、憑依霊によって引き起こされるキルワに類似した症状を指す。前者は「祖霊の憑依霊(p'ep'o k'oma wa kuzimu)」と呼ばれる憑依霊や「ニャグ(nyagu)」と呼ばれる憑依霊によって引き起こされる。夫婦には何の責任もない。ただしニャグの場合、ニャグにとり憑かれている女性やその夫が婚外性関係をもつと、帰宅して子供に触れた途端に子供が病気になると言われており、全く無関係であるとは言えない。一方ムニェレラの方は、性交が禁じられている期間に妻が夢の中で性関係をもったことによって生じるキルワである。夢の中に現われて性関係を持つ憑依霊として、スディアーニ導師(mwalimu sudiani)、ペーポ・ムルメ(p'ep'o mulume)、ベライ(berai)などの他に、正体不明の多くの霊がいると言われる。
また夫婦の性の禁止に由来する「外のキルワ」もさらに下手人が夫であるか、妻であるかによって区別される。キルワにかかった赤ん坊は足を絡ませることが知られており、どちらの足を上にしているかによって、それが夫のせいであるか妻のせいであるかがわかると言う。右足を上にしていれば夫、左足を上にしていれば妻の婚外交渉が原因とされる。やや混乱させる名称であるが、治療者によっては女性の妊娠中のことが原因で生じるキルワを「内のキルワ(chirwa ya ndani)」と呼ぶ者もいる。
(註25)
治療師のなかには、キルワの治療に「子供を外に出す」手続きが含まれていると明言する者もいる。それによるとキルワの治療とは、子供が屋敷の問題(maneno ga mudzini)、父や母の性的な振る舞いによる影響を受けることのないように、「子供を外に出すこと」と、子供の成長を促進する(「子供を太らせる ku-nonesa」)薬液浴び治療(chiza)の組み合わせだと言う。
(註26)
以上の二つの節における記述において私の分析者としての語り口と、規則を述べるドゥルマの人々の語り口が、ときに混じりあって判然としていないのに気付かれたかもしれない。たとえば「外に置く」ことに触れたくだりの「しかし『産む』ことに代わるこの治療的な手段を講じることなく『ただ外に置いておく』ことなど論外である」に続く一連の文章などは徴候的である。だれが論外といっているのか?もちろん分析者としての私ではない。ドゥルマの人々がそう語るのである。あるいは私がドゥルマの語り口を模してそう語っているのである。しかしこうした記述は「屋敷の秩序の基礎である出生の順序は、より正確には『産む』行為を通じての編入の順序だったということになる」といった明らかにドゥルマの人々が語りそうにない分析者の文章と、何の区別の指標もなく同居している。私はその区別を常に立てるよう気遣うべきだったかもしれない。ドゥルマの秩序の語り口に対しては、その都度「〜とされている、〜と彼らは言う」などを付け加えることによって。しかし私にはそれは、「私」と「彼ら」の間に区別を引き、あくまでそれをその都度再確認しようとするあざとい語り口に見えた。そもそも私がここで行ってきたことは、規則について、そして秩序についての人々の提示の語りを「再演」して見せることでしかなかったのだから。
(註27)
あるいはサールの用語を使って「構成的規則(constitutive rule)」だといえば、より正確になる(Searle 1969)。この問題については浜本 1989 でも論じた。
ダント, アーサー・C 1989『物語としての歴史:歴史の分析哲学』(河本英夫訳),国文社
長島信弘 1982,「解説」,『ヌアー族の宗教』(E.E.エヴァンズ=プリチャード著・向井元子訳),岩波書店
浜本 満 1988,「インセストの修辞学:ドゥルマにおけるマブィンガーニ=インセストの論理」,『九州人類学会報』Vol.16 35-51
浜本 満 1989,「死を投げ棄てる方法:儀礼における日常性の再構築」,田辺繁治編『人類学的認識の冒険1』pp.333-356,同文館
Parkin,D. 1991, Sacred Void: Spatial Images of Work and Ritual among the Giriama of Kenya, Cambridge: Cambridge University Press
Searle,J.R. 1969, Speech Acts, Cambridge: Cambridge University Press
付録 |
最初に一つのことを指摘しておきたい。それは妖術(邪術)をめぐるさまざまな知識や手続きに関して、ギリアマの妖術信仰、ドゥルマの妖術信仰というような語り口自体がもしかしたら的外れであるのかもしれない、という点である。妖術をめぐる知識も技法もけっして特定の地域に限定され、その内部で完結した体系ではない。むしろ、まさにそのように限定されず完結していないという点に最大の特徴があると言ってもよいほどである。これは実際に人々が妖術に関してとる行動を少し観察してみればただちにわかる。
慶田氏の報告(慶田 1994)にもあるように、ギリアマの人々が妖術告発に最終的に決着をつけるために諮問する「パパイヤの試罪法」は、実はドゥルマで(私の調査地の隣村)行われているものであり、200キロ近く離れたところから多くのギリアマ人がバスを乗り継いで泊りがけで訪れてくる。また近年、ドゥルマで猛威をふるっている妖術に「キブリ(魂・影)切り」の妖術があり、それは犠牲者のキブリ(魂・影)を呼び出して器に張った水面に映ったその姿を切ることによって、犠牲者に一瞬のうちに死をもたらす恐るべき術であるとされるが、この術は、ジネと呼ばれる憑依霊を使い魔のように送り付けて犠牲者の血を吸わせるジネの妖術と並んで、イスラム系の術であるとされ、その行使は海岸の大都市モンバサに住んでいるイスラム教徒やディゴの妖術使いたちの専売特許である。なぜそれをドゥルマの人々が恐れるのかというと、もちろんそれら海岸部の妖術使いに攻撃を依頼しに行く悪い隣人がいるだろうからであり、またこうした術の犠牲になったと考える人々は熱心に海岸部の治療師たちの治療を仰ぐのである。ドゥルマの私の調査地周辺では地域から妖術を一掃するという触れ込みの反妖術の治療運動がほぼ10年前後の周期で起こっているが、最近の最も有名な施術者であったマジュトはディゴ出身で、その術は伝統的なギリアマのムバレ(mbare)と呼ばれる薬束とイスラムの術を組み合わせたものであったとドゥルマでは語られている。妖術関連の知識や技術の源は、ミジケンダ地域内にすら限定されない。タンザニアや、真偽のほどは明らかではないがモザンビークまでもが新手の治療手段の起源の地として人々の口にのぼる。
妖術の手段によって攻撃したりされたりする間柄が、ほとんど例外なく近隣の顔見知りの関係であり、こうした間柄での嫉妬やいさかいに結び付いたものであることを考えると、その治療においてドゥルマの地域を越えた遠方の治療者が熱心に求められ、また敵対者が遠方の得体の知れない手段に訴えていると疑われるというのは皮肉な話である。誰かが妖術の犠牲になったと判明したとき、犯人探しに広域捜査は必要とされない。身内か顔見知りの犯行と決まっているからだ。しかしその犯行手段と救済手段について言えば、それは手近なところに見いだされるとは限らないのである。妖術の攻撃手段も治療手段も、地域を選ばない。強力であるとわかれば、人は何のためらいもなく他地域の治療者の治療をあおぐ。つまりギリアマの、ドゥルマの、ディゴのといった地域限定にはほとんど意味が無いのである。本書における慶田氏の報告に描かれている「ギリアマにおける妖術」の諸観念や治療手段は、そのままそっくり--もちろん細部の違いを挙げはじめるときりがないが--「ドゥルマにおける」それとして提示することが出来るほどである。もしかしたら慶田氏は「ギリアマの」というところにややこだわりすぎたところがあるかもしれない。「海岸部のもの」であることが明らかな--つまりギリアマのあいだにおそらくその専門家が存在していない--キブリ切りや、ジネ系の妖術に関する言及がないのもそのせいであろうか。
この妖術の脱領域性は、妖術が基本的に「薬(muhaso)」あるいはより一般的に「木(muhi)」を中核に据えた技術として考えられていることにも関係しているかもしれない。やや図式的ではあるが、ドゥルマにおける主だった不幸の原因を、災いを引き起こすことができる「力」(これは分析者自身の比喩で現地の人々は「力」の比喩を用いない)の源泉という角度から整理してみよう。規則の侵犯が不幸を引き起こす場合、その不幸をもたらす力の源泉は秩序そのものの内部にある。撹乱された秩序が解放する力が、そこにいる人々の上に不幸をもたらすのである。祖霊および憑依霊は、少なくともドゥルマの場合には、社会的秩序の周縁部に位置している存在である。祖霊は、社会的秩序にかつて所属していたものが離脱していく形態であり、憑依霊は外部の存在が内部に干渉してくる形態である。祖霊は、生者とのあいだに適切な距離をおきつつ、供犠による制度的な交流の回路を設定してやることで対処できる。一方憑依霊は、「子供」という形で取り込むことによって一定の制御下に置くことができる(浜本 1991)。これに対して、妖術は薬という形で加工、抽出され、かくして誰にでも利用可能な形で解放された「外部」の力そのものであると言うことができるだろう。
慶田氏が強調しているように、妖術の治療に用いる薬は、妖術使いが攻撃に用いる薬とおなじものであり、治療はその薬に患者を再度とらえさせる--患者自身に薬を仕掛けた罠(mihambo)を踏ませることによって--ことからなる。慶田氏はこれを「クロガ(妖術をかける)過程の人工的な再現」ととらえている。私はむしろ妖術とその治療は、どちらかが他方のもとになっているというよりも、単に方向が違うだけで、まったく同じ仕方での薬の利用だと見た方が良いと考える。つまり薬そのものは、善悪の価値判断にとっては中立的な純然たる力であって、それは、慶田氏が強調している通り、身体的な接触を通じて働くのである。妖術の治療に当たるドゥルマの治療者の唱えごとが、それを良く物語っている。彼は患者に彼の罠を踏ませた後、こうして患者に接触した薬に次のように語りかける。「木(薬)よ、奴隷よ、使役される者よ。捕えよと命じられれば、お前は捕える。離せと命じられれば、お前は離す。今、私は命じる。離せと。」つまり、治療者は妖術使いが用いた同じ薬を用いて、妖術使いがこの薬に下したであろう命令を上書きしてしまうのである。これが「ひっくりかえし」--クブェンドゥラ(ku-phendula)--と呼ばれる妖術治療の要である。
妖術に限らず、さまざまな不幸の治療においてブッシュの草木やさまざまな材料が治療手段として利用される。ここでも妖術の薬は特別な位置を占めている。屋敷の秩序の矯正に用いられるのは、一言で要約するとすべて「なまのもの」である。基本は「冷たい木(mihi ya peho)」と呼ばれる一群の植物を、水中でそのまま揉み砕いた薬液(vuo)--それにしばしば羊の胃の内容物(糜粥)や第3胃の切片が加えられる--を、患者や屋敷のほうぼうに振り撒くという形で処方される。一方、憑依霊の治療においては、こうした薬液を浴びるのに加えて、草木を壷に詰め少量の水を加えて火にかけた蒸気を全身に浴びる一種のサウナ療法と、草木やその根を煎じたものを飲むことが中心となる。つまりそこで用いられるものは「煮られたもの」であり、材料は適切に「料理」されている。これらに対し、妖術の治療に用いられる薬は、さまざまな材料を鉄板や土器片の上で完全に炭化するまで焼くことによって出来た黒い粉である。この黒い粉が、剃刀などで患者の皮膚を切った切口から擦り込まれるのである。この処置はしばしば病院における注射--ドゥルマの多くの人々がその効力におおいに信頼をおいている施術--に譬えられている。ここではブッシュ起源の材料は「過剰に料理」されている。妖術の薬は、自然のもっとも徹底した加工の形態に対応している。
しつこいようだが、こうした薬はそれがどこで作られたかを問わない。ドゥルマ人にはドゥルマで作られた薬だけが有効だ、などということはない。それどころか、遠い外国で作られたものとされることで、いっそう強力だと見なされたりする。これは屋敷の秩序の違犯が、ドゥルマ人にしか影響を及ぼさないというのと対極的である(浜本 1996)。
薬の脱領域性は、一つの文化内部のさまざまな境界線も横断する。例えば、ドゥルマにおいては父に死なれた既婚の子供たちは、最初の服喪の終了後は年長順に一日に一組ずつ性関係を再開していかねばならない。しかし異なる人口集団に嫁ぎ、この習慣を共有しない夫を持つ場合、順番が来るまで夫に我慢してもらうよう説得することがしばしば難しい。このような女性に対して、最近では特別な薬を処方することによって、この性交再開の順序を無視しても、それによる害が及ばないようにできるという。これは、過去10年ほどの間に起った「技術革新」である。薬はこのように、屋敷の秩序の規則の領域にまで介入して、それをキャンセルしてしまう力がある。あたかも、薬はこの地域の人々にとって、あらゆる既存の儀礼的諸制約を補填してくれる地域の違いも、システムの違いも超越した「普遍的科学技術」ででもあるかのようだ。
(註)このコメントは慶田氏の担当する章の、われわれの研究会で配布、発表されたヴァージョンに基づいている。その後慶田氏が書き直した部分には必ずしも完全に対応していないかもしれない。
慶田勝彦 1994 「ギリアマにおける妖術告発とパパイヤのキラホをめぐる噂」『国立民族学博物館研究報告』 Vol.19(2):311-348
浜本 満 1991 「マジュートの噂--ドゥルマにおける反妖術運動」『九州人類学会報』Vol.19:47-72
浜本 満 1996 「差異のとらえかた--相対主義と普遍主義--」清水昭俊編『思想化される周辺世界』岩波講座文化人類学 第12巻 pp. 69-96
以前ドゥルマの祖霊(koma)について、ある研究会で発表したことがある。その際に、ドゥルマで人々が祖霊をいかに、災いをもたらす煩わしい存在であると見ているかを紹介したところ、上田氏から隣接するギリアマ社会では、祖霊に対するそのような態度は考えられないとの指摘を受けた。ギリアマでは祖霊は、むしろ人々を災厄から守る保護者として受け止められているというのである。私の発表(浜本 1992 はその口頭発表をもとにした論文である)は、祖霊の「表象」としての性格についてのものであったが、その際、たしかに人々の主観的な受け止め方に引っ張られ過ぎた嫌いがある(実際多くの人がいかにも疎ましい存在として祖霊について語っていたのである)。しかし、おそらく死者に対する儀礼的に定まった取り扱い方を検討した方が、より正確な祖霊像を抽出する道であったに違いない。というのは、この上田氏の論考を読んで、件の研究会の折には単にギリアマとドゥルマにおける「祖霊」に対する態度や受け取り方の主観的な違いと思えたものが、この2地域における死者に対する制度的扱い方の違いに結び付いていることがはっきりしたからである。
まず埋葬の場所そのものが違っている。ドゥルマでは赤ん坊と第一子(結婚前に死んだ)だけが屋敷の空間(戸口の横)に埋葬されるが、それ以外は屋敷から離れたところに埋葬される。「悪い死」とされる事故や、特殊な病気による死者は、そこからもさらに離して--通常はブッシュの中に--埋葬される。例えば水死者は、川のすぐ傍に埋葬される、といった具合いである。屋敷の成員が埋葬される場所は、昔屋敷があったところだとされることもある。しかし実際問題として、屋敷の空間内に墓があるケースを私は一度も目撃していない。仮に、かつて屋敷の近くに墓を作っていたとしても、その後人々はまるで墓から逃げるかのように、もっぱら遠くへ遠くへと屋敷を移動させてきたということなのである。
埋葬後の服喪--「なまの服喪(hanga itsi)」と呼ばれる--における手順でもドゥルマとギリアマは、さまざまな逆転を示す。水浴びについての規則はその代表である。ドゥルマではこの服喪の期間中水浴びは禁止され、最終日に水浴びを解禁することで服喪に終止符を打つ。ギリアマではこの期間、水浴びが繰り返される。
ドゥルマでもギリアマでもこの最初の服喪の数ヵ月から数年後に、より盛大な2度目の服喪儀礼--ドゥルマでは「熟した服喪 hanga ivu」と呼ばれる--を行わねばならない。この2度目の服喪を開くことは、ドゥルマでもギリアマでも死者の霊のもっとも執拗な要求である。ドゥルマでは「熟した服喪」が終了しない限り、死者の財産も、寡婦も正式には相続されない。死者と生者との関係そのものも、「熟した服喪」の前後で大きく変化する。埋葬終了後、この2度目の服喪が開かれる以前は、生者と死者の間には最大の隔たりが作り出されている。この間、ドゥルマでは死者の墓を訪れて、そこで直接死者に語りかけることが、禁止されているのである。このような禁止は、死者の墓が屋敷内にあるギリアマでは、実践上まったく不可能であろう。ドゥルマではこの間、死者が災いをもたらした場合などに死者とコミュニケーションの必要が生じても、墓場での供犠によってそれを行うことはできない。水で溶いただけのトウモロコシの粉--ムブア(mvua)と呼ばれる--を用意し、夕方、小屋の戸口に立って墓の方向にそれを振り撒きながら、干渉をやめてくれるよう祈願できるだけである。とりわけ深刻な問題の場合、死者の息子はムブアをもって屋敷のはずれにおもむき、そこで墓の方向を向いて同様な祈願を行うだろう。彼が死者に近づける限度はここまでである。死者との間には大きな象徴的へだたりがもうけられている。しかし、この期間がまた死者が生者に対してもっとも危険な期間でもある。すでに述べたように、死者のもっとも執拗な要求--そのためには生者に最大級の不幸すらもたらしかねない--は、「熟した服喪」の実施の要求だからである。死者は生者の夢の中に頻繁に現われ、その要求を繰り返す。
2度目の服喪の際に、始めて死者に対して家畜の供犠が行われる。これが生者が死者の埋葬後、始めて死者の墓を訪れる瞬間でもある。そして以後は、死者とのコミュニケーションは墓場での供犠(sadaka と呼ばれる)を通じて行われることになる。これにより、死者と生者の間にはコントロールされた制度的なコミュニケーションの回路が開かれる。一方、その最大の要求をかなえられた死者の側でも、生者に干渉する場面はこの機を境に、劇的に減少することになる。供犠において死者に捧げられる料理は、それ以前の完全な「なまもの(水で溶いただけのトウモロコシの粉)」から、生の血と、塩を加えずに煮た肉、ゆでたトウモロコシの団子、つまり「中途半端に料理されたもの」になる。ギリアマでは、死者には一貫してまったく料理されていない「なまもの」だけが供される。
これらの相違を簡単に表にしてみると、その対比がはっきりするだろう。
ドゥルマ | ギリアマ |
---|---|
墓は屋敷の外に作る | 墓は屋敷の中に作る |
hanga の間水浴び禁止 最終日に水浴び |
hanga 期間中水浴びを(儀礼的に)繰り返す |
hanga ivu まで墓を訪問してはならない | 屋敷の中にあるので日常的にいつも墓に接触 |
komaに捧げる食事は生血と塩を入れずに煮た肉 | koma には「なまもの」のみをささげる、料理は禁止 |
祖霊は保護も与えるが基本的にはどん欲で災いをもたらす迷惑な存在 | 祖霊は罰も下すが基本的には善で慈愛に満ちた道徳の守護者 |
ドゥルマの死者に対する儀礼的手続きは、死者との距離を可能な限りたもちつつ、相互のコミュニケーションの回路を保証するというテーマをめぐるものであるように思える。死者に対して供される料理における「なまもの」と「料理されたもの」の対立軸にそった注意深い操作は、死者との距離がドゥルマにとってはもっとも困難で繊細な問題領域であることを物語っているように見える。
同一の民族グループに属し隣接する二つの地域で、このような対照的な違いが生じるのは驚くべきことである。人間に不幸をもたらす、さまざまな原因のなかで祖霊が占めている位置は、ドゥルマではどちらかというと曖昧である。生きた人々の領域に近接し、生者との社会関係をしっかり維持している--つまり社会的な存在であり続けている--ように見えるギリアマの祖霊に比べて、ドゥルマの祖霊は生者との間に大きな距離を設けられている。ある点で、死者たちは憑依霊たちと同じような周縁的な存在に近づいているのだとも言える。
(註)このコメントは上田氏の担当する章の、われわれの研究会において配布・発表されたヴァージョンに基づいており、上田氏の最終稿の内容とは必ずしも一致していない可能性がある。
浜本 満 1992 「ドゥルマにおけるコマの観念」『九州人類学会報』 Vol.20:33-51
最初に憑依をめぐる知識--個々の霊のアイデンティティや治療方法などに関する知識--のもつ性格について、述べておきたい。
ある種の儀礼的知識--例えばドゥルマにおける屋敷の秩序をめぐるさまざまな対処法の知識--は、相互に緊密に関係しあった全体を形作っており、その知識の一部を全体から抜き出して、別のところに移植したりするとまったく別物になってしまう。それに対し、別の知識の領域は、部品のように移植したり追加したり可能な相対的に独立したコンポーネントから出来ていて、つまりいわばモジュール化されており、全体にそれほど大きな影響を及ぼすことなく、そこに新しいモジュール(移植可能な部品)を追加したり、古いモジュールを削除したりできる。さらに、相互に相対的に独立したモジュールは、それだけを変更したり、まったく別のコンテキストに移植してしたりも可能である。私の見解では、憑依霊をめぐる知識はこうしたモジュールの複合体としてとらえるのがもっとも適切である。
あるいはこの特徴は、ディゴと比べてドゥルマにおいてより顕著な特徴であるのかもしれない。ドゥルマでは憑依霊の治療師のキャリアは、おそらくディゴにおけるそれとは異なり(小田氏との個人的会話による)、次々に新しいモジュールを追加していくのに似ているからである。治療師は生涯最初の就任儀礼において、「神の子供(mwana mulungu)」と呼ばれる筆頭の憑依霊の瓢箪を授けられ、この霊についての治療師となる。神の子供はもっとも重要な霊で、これがすべてのキャリアの出発点となるが、にもかかわらずそれは彼(彼女)に、その他のすべての霊に対するコントロールと治療の力を与えるものではない。例えば、ライカ(laika)と呼ばれる水辺や洞窟と結び付いた霊たちは、他の霊とは異なる一組の儀礼や治療法をもっているが、その治療を行うためには、治療師はこの霊たちについての就任儀礼を受けて、新しい瓢箪を手にいれる必要がある。主立った霊(あるいはそのグループ)には、それぞれ独自の瓢箪があり、それらの霊に対する治療の資格を手にいれるためには、それぞれについての就任儀礼を経て、それらの瓢箪を一つづつ手にいれていく必要がある。憑依霊の治療師のキャリアとは、こうした瓢箪を--そしてそれとともにそれぞれの憑依霊についての儀礼的知識のモジュールを--累積していく過程である(浜本 1992)。小田氏の論文のなかで中心となっているシェラ(shera)--別名ンキリク(nchiliku)--も、ドゥルマではそんな風にして、治療の知識が獲得されていく霊の一つである。
単に個人のキャリアのなかで、それぞれの霊とそれについての知識が追加可能なモジュールであるだけではない。憑依霊信仰全体においても、それは当てはまる。シェラに限らず、多くの霊は最近になって登場してきたと言われている。その一方で、古くからいたとされる霊のいくつか--例えばニョエ(nyoe)やスンドゥジ(sunduzi)など--は、すっかり人々に憑依することを止めてしまっていると言われる。独特の治療法を要求する新しい霊も、それがポピュラリティを獲得するかどうかは別として、頻繁に登場してくる。主立った霊は別として、治療師ごとに知っている例の種類も大きく異なっている場合がある。同じドゥルマの地域内でも、ある地域ではポピュラーなのに別の地域では全く知られていない霊や、治療法がある。憑依霊の体系全体に大きな流動性や地域的個人的変異、モジュールの複合という様相が見られる点は、憑依霊についての知識の「源泉」と他の儀礼的知識の源泉との違いとも関係しているだろう。例えばドゥルマにおいて屋敷の秩序の維持修復に関する知識の源泉は、社会内部にある。それは長老が持っている知識であり、さらにそれは究極的には、ドゥルマがかつて暮していたとされる森のなかの要塞村カヤに由来すると考えられている。ドゥルマの共同性の中心にその源泉があるのである。この点で、カヤの伝統を今日も維持しているギリアマには一種、尊敬の眼差しが向けられており、治療師なかにはわざわざギリアマのカヤに赴いてもっとも「確実な」知識を手にいれようとする者すらいる。一方妖術の治療に関する知識の源泉は、慶田氏も指摘しているように、社会の外部にある。タンザニアやモザンビークなどの遠方に源泉をもつとされる技術革新は、それが遠方に由来すればするほどこの世界では攻撃手段としては恐れられ、治療手段として歓迎される。これらに対して、憑依霊の知識の源泉は社会におけるもっとも無定型な周縁部分--すなわち個人の夢--である。霊はもっぱら夢を通じて治療師に、自らのアイデンティティを明かし、新しい治療法を教えるのである。屋敷の秩序についての儀礼知識が、多様性を憎みオリジナルという幻想に執着するのに対し、妖術についての儀礼的知識は外部から多様性を引き込み、憑依霊についての儀礼的知識はその内部から多様化する。それはノイズにあふれている。
ところで、憑依霊に関する知識のこうした特徴を考えるとき、それをより広いコンテキストのなかでとらえる際には、慎重さが必要だということにはならないだろうか。知識がモジュール化されているということは換言すれば、それがコンテキストから比較的独立しているということでもある。コンテキスト化をもってある現象の説明とするという、人類学の従来の戦略がここではむしろ過度のコンテキスト化の危険になりうるのである。小田氏が分析されているシェラやライカに関する儀礼的手続きは、そのままそっくりドゥルマにおいても見いだすことができる。シェラ(ンキリク)による病気の治療における中心的な手続き「重荷下ろし(kuphula mizigo)」の儀礼においては、ディゴにおけると同様に婚礼の手順が--婚資のやり取りまでも含めて--念入りに、しかしおどけて演じて見せられる。だがここでは、ディゴにおけるイスラムの浸透の事実は存在しない。イスラムはキリスト教と並んで、ドゥルマではけっして中心的な位置を占めるにはいたっていないからである。この事実はイスラムというコンテキスト「によって」この儀礼の特徴を説明しようとしているように見える小田氏の分析の一部を、過度のコンテキスト化として疑問視させる。しかしこのコンテキストの違いが、それぞれの「重荷下ろし」モジュールの意味や性格にどのような違いを生んでいるかを分析しようというのであれば、それは正当であるし、また実りある成果を産んでくれるだろう。さらにより広い東アフリカ全体のコンテキストにおいて、憑依霊信仰のポータブルで移植可能なモジュールが、異なる土壌に運ばれて根付くときどのような特徴をそこで発達させるかという問いをたてることもできるだろう。
私が小田氏と見解をやや異にするもうひとつの点は、憑依という現象の何が問題であるのかにも関わっている。憑依の中心的ドグマは、憑依している霊と、憑依されている人間の人格の完全な分離と区別である。憑依の儀礼の輪のなかで、大声で恥知らずな口をきき破廉恥は振る舞いに及んでいるのは、その患者本人ではなく彼(彼女)の口を借りて喋り身体を借りて動いている「霊」である、という解釈図式あるいは虚構は、憑依という文化現象を成立させる基本構文である。かくしてドゥルマにおいても「お悔やみのカヤンバ」は、患者が身内に死なれて悲しんでいるのを理解できず、自分が嫌われたと思って患者を病気にしてしまった憑依霊に、患者の身内の死という現実をわからせるために開かれる、と言われるし、「重荷下ろし」での婚礼の念入りな演出も患者にとりついているシェラに、その重荷を下ろしてやるとともに、誰某の妻であるということを悟らせるためなのだとされる。小田氏がディゴについて紹介されているのとほぼ同様である。憑依信仰の記述においては、まずこうしたドグマにそった言説を正確に記述する必要がある(ここで正確にという意味は、その体系性とほころびをともに評価すると言うことであり、それを外挿や補完によってそれに本来備わっていなかった首尾一貫性をもたせたりしないということである)。しかし同時にこうしたドグマにそった言説が、憑依という現象そのものではなく、それについての語りであるという点を忘れないようにせねばならない。そして現実にすべての憑依において、このドグマが主張するほどに、「霊」と「患者」の二つの主体の区別は当事者たちにとっても明確ではないのである。「お悔やみのカヤンバ」においては、患者にとり憑いている霊に対して「お前の(例えば)夫はもう死んだのだ。死んだ者は帰ってこない」と繰返し語りかけられる。霊に対して語っているのだという。しかしこのメッセージは夫に死なれた後、悲しみが尋常でなく、そのまま病気になってしまった当の患者に向けられたものであったとしても、何ら不思議ではない。「重荷下ろし」においても、患者に憑依しているシェラに向かって「お前の夫はこの男だ。怠惰さを捨てて、料理を作れ」などなどと語りかけているのだが、これがシェラにとり憑かれたために家事をする気をなくしてしまっている患者本人に向けられていないと確信を持って言えるだろうか。私は、憑依という現象の核心にあるのは、この人称性の揺らぎ、決定不能性であるように思えるのである。
(註)以上のコメントは、実は小田氏の最終稿の前の原稿に対するものである。最終稿ではいくつかの点が全面的に書き改められたため、上の批判のいくつかはすでに無効に見える。しかし憑依についての基本的な事実を確認する意味でもそのままの形で提出する。
浜本 満 1992 「子供としての憑依霊:ドゥルマにおける瓢箪子供を連れ出す儀礼」『アフリカ研究』 Vol.41 1-22