正しさの問題「悪い死」の冷やし方

First coded: Thu Mar 11, 1999
Last modified: Fri Mar 12 13:29:50 1999

要旨

目次

  1. はじめに
  2. ンドゥリャ老人の死
  3. 「悪い死」の処置
  4. マハナの死を処理する手続き
  5. ンドゥリャ老人の埋葬
  6. 正しさの根拠と知識の組み替え
  7. 変異と反復
  8. 引用・参考文献

はじめに

屋敷をめぐるさまざまな問題のひとつひとつに対して、決まった正しい対処の仕方--「ドゥルマのやり方」--があるはずだという確信の根拠はいったいどこにあるのだろう。仮に自分にはよくわからなくても「ものを知っている人に聞けばわかる」などと、なぜ無邪気に想定することができるのだろう。実際には、特定の状況で特定の行為Aをすべきことがわかっているのに、具体的にどうすればその行為Aをしたことになるのかがはっきりしない、なにがその正しいやり方であるのかに不確かな点があるという場面は、そう珍しくないことがわかるのである。むしろこの自明性--Aという行為を実際に実行する何らかのやり方があるという点に対する確信--は何かによって根拠づけられているというよりも、一連の生の形を人々が生きることができるための前提であると考えたほうがよいのかもしれない。例えば屋敷を「産」んだり「冷や」したりすることについて語り得るためには、そもそも屋敷が「産」んだり「冷や」したりできるものでないことには話にならないだろう。それはこの語り口の文法的条件--ウィトゲンシュタイン的な意味での--に属している(註1)。「産」んだり「冷や」したりの具体的なやり方が存在していなければならないという条件も、同様な文法的条件である。それをやるいかなるやり方も存在しないなら、当の行為が存在しないということになってしまう。「どうすれば正しく屋敷を『冷やす』ことができるだろうか」という問い自体が「屋敷を『冷やす』ある仕方が存在している」ということを前提として初めて可能になる。その語り口の中にいる限りは、これらの前提について疑うことはできない。

ある行為Aを実行するやり方がよくわからないという当面の状況が、どのような形でその都度解消され、あるいはやり過ごされていくのかを確認することは、ある特定の語り口を生きるということが、状況の不確定性に対するどのような態度を意味しているのかを、我々に理解させてくれるかもしれない。

以下では、そうした状況の中で人々がどんな風にそれぞれの知識をすりあわせて「正しいやり方」の知識に到達するのか、そしてこうして到達された正しい知識が現実にどんなふうに実施されるのかを、一つの具体的な事例のなかで見ていくことにしたい。そしてまさにこうした仕方で正しいやり方が決定されるという事実の含むパラドクスについて検討したい。

ンドゥリャ老人の死

1994年の一月のある日、憑依の治療に一日つきあって疲れきって--そして少々酔っ払って--帰宅した私を待っていたのは、近所のンドゥリャ老人(仮名)がついに--というのはこの孤独な老人はもう2カ月ちかく病いにふせっており、数週間前あたりからは誰もがその死を疑わなくなっていたからであるが--亡くなったという知らせであった。カタナ氏はこの知らせを伝えるために寝ずに私の帰りを待っていた。彼によるとンドゥリャ老人が昨夜のうちに息をひきとったという知らせがその朝私の小屋に届いたとき、私はすでに出発した後だった。カタナ氏は、私の小屋でテープの書き起こしに従事していた二人の若者と3人で、近隣の義務として墓掘りと埋葬に参加しに行ったのだが、その際に私の代わりに埋葬の際に親族が払うべき援助金を払っておいてくれたと言う。ンドゥリャ氏が暮らしていたムカラの屋敷は、ンドゥリャ氏のすでに死亡した父親ムカラ氏の名前で呼ばれ続けてはいたものの、実際には、事実上独立したいくつもの屋敷の集合体で、それらの屋敷の長はほとんどがムカラ氏の孫や曾孫の代になっていた。ンドゥリャ氏はムカラ氏の息子の代の最後の一人であった。彼らはたまたま、私が<青い芯のトウモロコシ>のラロにいた当時に私を編入したクランと同じクラン--ただし異なる分節(「戸口」muyango)--であったので、私は彼らに対して一種の親族の権利と義務を負っていた。埋葬(kuzika)と弔い(hanga)の互助は、同じクランに属するものの最も大切な義務の一つである。私はカタナ氏の気遣いにおおいに感謝した。しかしカタナ氏の話には少し腑に落ちない点があった。墓は午後早い時間に掘り終わっていたのに、埋葬が明日に延期されたというのだ。具体的には何が問題だったのかカタナ氏は知らなかったが、ンドゥリャ氏の死が「悪い死(chifo chii)」と分類される種類のものであることに関係しているに違いないと推察していた。

ある種の死因による死は「悪い死」と分類されている。「悪い病い(ukongo ui)」と呼ばれるある種の病気による死も「悪い死」の一つである。ンドゥリャ老人は、まだ若い頃こうした「悪い病い」の一つであるマハナ(mahana)と呼ばれる病気--おそらくはハンセン氏病--にかかり、手足の指をすべて失っていた。マハナは端的に「(手足の)指が切れ落ちる病気(ukongo wa kutosatosa vyala)」であるが、ハンセン氏病と完全に一致するわけではない。あきらかにハンセン氏病とは無縁と思われる皮膚病や潰瘍の広がりも、マハナと呼ばれる場合があり、放置すると--実際には治ってしまうことになるのであろうが--手足の指が落ちると怖れられている。マハナは一度かかったらけっして治らない--一生マハナを「もち続け」ている--と語られたりもするが、それは指が切れ落ちるなどの元に戻らない症状を示して以降の話で、一方ではそうした症状の出ていない段階であれば--それを治療する施術師の存在からもわかるように--なおりうるとも考えられている。とは言うものの、病気がうつるのを怖れて、周囲の人々はマハナにかかった者との接触を避ける。日々の付き合いはあるが、マハナにかかった者と食事をともにすること食器を共有することは避けねばならない。マハナは食事を通じて人に感染する(kp'ambukiza)とも言われている。

「食事もその人は傍で一人で食べる。何を食べるにしても。食べるものに応じて、その人一人に傍でよそってやる。ワリ(主食のトウモロコシの練り粥)も他の人とは別に一人で食べる。おかずも他の人のとは別に一人で食べる。水も一人で飲む。その人の飲んだ水をお前は飲まないし、その人が残したワリもお前は食べない。いっしょには食事をしない。」

この地方では食事は一皿にもったワリと呼ばれる練り粥と一椀のおかずを全員がいっしょに食べるのが普通であるので、マハナの人に対するこの扱いはとりわけ目だった光景になる。

「いっしょに暮すことは別に問題ない。でも握手したりするのはよくない。もしお前の血に問題があると、握手でうつることもある。そうとも。この病気はそうした形でうつる。その人が(手などを)洗った水で、お前は洗ってはならない。」

マハナはこうした形で伝染する以外にも、また「薬(muhaso)」によって--つまり妖術(utsai)によって--も引き起こされると言われる。ンドゥリャ老人のケースがまさにそれであったことは、近所では誰知らぬ者はない話であったらしい。

彼は若かった頃、この土地で最も豊かな男の一人であった。多くの家畜をもち、広大な畑は毎年豊作に恵まれていた。このことがもとで彼はある男--「だいぶん前に亡くなったBmだよ。彼はマハナの妖術(utsai)そのものをもっていた。自分を『蛆ライオン(tsimba mabulu)』と名乗っていた。彼に不用意なこと(mabishi)をしてごらん。たちまちそいつを注入されてしまう。そもそもBmは、もと住んでいたS地方を妖術使いだということで追い出されて、Mcさんの屋敷に身を寄せていたんだよ。」--によって妖術をかけられてしまったのだというのである。ある年この地の多くの畑は不作で、人々の多くは次の植え付け季節が来る前に食料が底をついてしまうありさまだった。種用にとっておくべきトウモロコシにまで手をつけてしまう。この男Bmも例外ではなく、植え付けの季節を前にンドゥリャ氏に種用トウモロコシを分けてくれるよう乞う仕儀となった。ンドゥリャは快く種用トウモロコシを分け与えたばかりか、さらに当座の食料にと袋一杯のトウモロコシをこの男に気前良く贈った。しかしこれがこの男の妬みをかきたてた。「いったい奴はどんな風に耕したというのだろう。こんなにたくさんのトウモロコシを手に入れるとは。この若造が!」ンドゥリャのマハナがBmのせいだと判明したとき、McはBmに詰め寄ったという。なぜならンドゥリャはMcにとって孫息子(分類上の)にあたっていたからである。「『お前はお前の妖術のせいでS地区を追われてきた。そしてもう二度と妖術を使わないと言った。なのに今、お前は後に戻って私の孫に妖術をかけた。今度また誰かに妖術をかけたら、私はお前を追い出す。』ってね。Bmは賠償を払わされたけれど、いったんかけたマハナは解除できなかった。だって指は切れ落ちてしまっているのだから。」ずいぶん昔、40年以上前の話である(註2)。その後、彼の妻たちを始めとする家族の誰からも発病者はでていなかった。

死因ということで言えば、ンドゥリャ老人はもちろんマハナが原因で死んだわけではない。しかし切れ落ちた指がもとに戻らないように、マハナは一生もち続けるものであり、こうしたマハナ「病者」の死も「マハナをもった死(kufa na mahana)」として「悪い死」に数えられる。「悪い病い」と分類される病気には他に、天然痘(utonyi)、ムァヅル(mwadzulu)と呼ばれることもある腹部の膨満(ndani kufutuka)を特徴とする病気、「咳の病い(ukongo wa kukohola)」--今日ではティビー(tibii)つまり結核と同一視されている(註3)--などがある。こうした病気で死ぬことは「悪い死」である。「悪い死」は常習性があるとされ、それが屋敷に繰り返し起こることを防ぐためには、「冷やし」の施術が必要とされる。またそれと関係して「悪い死」の死者は埋葬に際しても通常の死の場合とは異ったやり方がとられる。ンドゥリャ老人の埋葬の延期に、これがおそらく関係しているだろうということは、私にも容易に見当がついた。

「悪い死」の処置

「悪い死」と考えられるものは、「悪い病い」による死だけではない。ヤシの木からの墜落死、水死、交通事故死、ナイフや弓矢による出血をともなう死(chera)など、一般に「事故(mvanga)」とされる死も「悪い死(chifo chii)」である。「悪い死」はいずれも「冷や」して「外」に「投げ棄」ててしまわねばならない。

「なぜなら、たぶんそれはたてつづけに起るかもしれない。例えば、人が結核のような病気で死ぬ。それはたてつづけに3人出るかも知れない。悪しきことはかなたへ立ち去りますように!(註4)(カタナ氏に対して)例えば、お前がそれで死ぬ。さらにお前の弟のMsも、そしてあちらのもう一人も。この病気は『戸口(muyango:ここでは親族集団の意味)』の中に『馴染』んでしまう。中に入り込んでしまう。という訳でこんな風に死んだ者を埋葬するときには、まず(薬液を)振り撒く。『冷たい木』とヒツジの第三胃。この問題(utu)がそこで停止するように。続いていかないように。『事故』も同じ。マハナも。」

「冷やし」の施術そのものは、「冷たい木」とヒツジの第三胃を主成分とする薬液を振り撒くことからなる。ある施術師は言う。

「私自身が先日そこのNgさんの屋敷で振り撒いたばかりだ。人々がどうもこの死はよろしくない(kachisawa)と思いあたる。単なる死ではないと。そこで『冷たい木』を振り撒くことを知っている施術師が呼ばれる。施術師に(屋敷内で)徹底的に振り撒かせる。ついで墓のところでも振り撒く。その病気が『とりのぞかれる(wuswe)』ようにと。」

埋葬の前後に念入りに振り撒かれねばならない。

「墓のところで『冷たい木』をぶちまけなければならない。まずお前(施術師)が先導して『冷たい木』を注いでいく。その後で、埋葬が済んだら、その上からもう一度『冷たい木』をぶちまける。」

「悪い死」は「冷やし」の施術を施される以外にも、遺体の扱いの点でもその他の死とは区別される。遺体は屋敷の他の人々が埋葬される墓所(vikutani)には埋葬されず、「外(konze)」あるいは「ブッシュ(weruni)」に一人離れて孤独に埋葬される。水死の場合は川のほとりに、ヤシの木からの墜落死の場合はヤシ林の中に、交通事故死や刃物による死亡の場合は街道の傍に埋葬される。事故死の場合、死体は屋敷内にもちこまれることなく、持ち帰られたその日のうちに埋葬してしまわねばならない。通常の死の場合以上に、屋敷からの分離が強調されている。また「悪い死」一般にあてはまることであるが、埋葬後の「弔い(hanga)」も、マハナや天然痘の死者の場合のようにまったく開かれないか、その他の「事故」の死者の場合のように日数を半分にされる。「弔い」が開かれない場合、ただちに死を「投げ棄」てる(マトゥミアの性交を行なう)。近親者や配偶者のみで数日間、性関係を慎み「座らされ(ku-zagazwa)」た後に、「巣立ち」「死の投げ棄て」をおこなうのだという人もいるが、これを「弔いのまねごとをしている(anaiga hanga)」といって非難する人もいる。

「悪い死」の場合、埋葬そのものの仕方にも特徴がある。一般に「悪い死」の死者は、死体をくるむ布も、通常の白い布(sanza)にかわって「黒い」(実際には紺色)布(nguo ya mulungu)が用いられる。「咳の病い(ukongo wa kukohola)」あるいは結核(tibii)の死者は、通常の死者が横臥の姿勢で埋葬されるのに対して、うつぶせに埋葬される(註5)。埋葬前に胸を切り開いて中を調べ、腫瘍(iphu)が見つかると取り出してブッシュに捨てるというのも、この病気の死者に特有の手続きであった。天然痘(utonyi)の患者の場合、まだ生きているあいだからブッシュ(森)のなかに隔離されていた。別名「ブッシュ(森)の病い(ukongo wa tsakani)」とも呼ばれる所以である。一度天然痘にかかって治ったことのある者だけが、彼に近づくことができ、彼の皮膚の潰瘍を洗ってやったり食事を与えたりすることができた。天然痘の患者が死ぬとそのままブッシュの中に放置され、埋葬すらなされず「弔い」も省略されたという。

死の「投げ棄て」も「悪い死」の場合は、つねに余所者を相手に行なわれねばならない--配偶者が死んだ場合だけでなく、子供が死んだ場合でも--と主張する人もなかにはいる。

「死んだのが未婚の子供であれば、父親が『投げ棄て』る。ただし自分の妻を相手には『投げ棄て』ない。他の女性を探してくる。(外部の者とではなく)家の中でそれを取り除いてしまうと、お前はそれ(その死を引き起こした病気)を『置』いたことになる。それは引き続く(unaenderera)。」(註6

こうしたもろもろの区別に対するこだわりはすべて、「悪い死」を間違いなく「冷」やし「投げ棄て」るためのものである。ほんのちょっとした過ちが「冷」やしと「投げ棄て」を失敗に導き、深刻な結果をもたらす。

「お前はそれ(悪い死)を『植え付け』てしまった(udziuphanda)ことになる。それは戻ってくる。(たとえば)『弔い』を開いてしまうのはものを知らない者、まさにその後でとらえられる者だ。Ny さんのところである女性が亡くなったときのことだ。私は反対した。あなた方、彼女の『弔い』を催しなさるな。でも彼らは『弔い』を開いた。なんてこと!彼女の母親も同じ病いで死んだ。そして今度はその夫、Mさんもその病いにかかってしまった。(質問者:何の病いですか?)マハナじゃないか。という訳で『弔い』を開いてはいけない。」

マハナの死を処理する手続き

「悪い死」のなかでもマハナによる死は特別な位置を占めている。「『悪い病い』でもとりわけ悪いのは例の指が切れ落ちてしまう病い(ukongo wa kutosa tosa vyala)だ。」しかしその処置について、私が--「以前は(chipindi)」という断わりつきで--聞かされていたその手続きは、あきらかに今日では実行不可能な部分を含んでいるように思われた。死者が生前暮していた小屋に火をかけるというテーマが繰り返し語られた。なかには--昔の話だと断わった上で--死体ごと小屋を焼いてしまうという見解を述べる人もいた。

「(自分の妻に言及しながら)こいつの母親は、小屋を焼かれたということだよ。昔のことだ。現在ではもうなくなった。(質問者:小屋をそんな風に焼いて、すっかり(病気を)終わらせてしまおうと?)当事者たちが言うことには、自分たちは病気を徹底的に投げ棄ててしまったのだと。今どきは、やらないよ。昔の慣習だ。マハナの人を小屋とともに焼いてしまう。昔の慣習だ。(質問者:小屋といっしょに焼かれたのですか?それとも小屋だけが焼かれたのですか?)つまり、こんな具合だ。お前は小屋の中で死ぬ。そうだろう?さて家財道具を外に運び出す。そして小屋に火をかける。でも昔のことだよ。」

ある年老いた「冷やし」の施術師によると事態はこんな具合だった。

「昔はね。マハナの人は屋敷には置かれなかった。屋敷の外れに小屋を建ててもらった。彼専用の食器とともに。ワリ(トウモロコシの練り粥)もこんな風に差し出されて、容器の中によそってやった。さて彼が死ぬと、その小屋の中(の地面の下)に、その場に埋葬される。その後でこの小屋に火がかけられる。それが済むとヒツジだ。それと冷たい木が用意される。そこにぶちまけられる。ヒツジの胃の中の内容物を全部。さてさて、この病気には、こんな風に処置した後で、制作(matungiyo、マトゥミアの性交)がともなう。それがもどってこないように。再び戻ってきて子供たちを捕えないように。」

小屋に火をかけるというのが「昔の」やり方であるとすれば、今はどうなっているのだろうか。その点に関しては、人々の話はきわめてあいまいであった。ンドゥリャ老人が死ぬ以前に私がこれに関して意見を求めた人は、誰も実際にマハナの死者の埋葬に当事者として立ち会った経験をもっていなかった(註7)。彼らはマハナの死の「今」について語る根拠となる経験を欠いていた。ただすでに小屋に火をかけることが、キナンゴ近辺の多くの屋敷ではもはや実行不可能であることは明らかであった。小屋のますます多くが、昔ながらの楕円のドーム状の草壁の小屋に代わって、スワヒリ風の長方形の土壁の小屋になっているが、言うまでもなくこうした土壁の小屋に火をかけるのはそう容易ではあるまい。死亡したンドゥリャ老人が一人で--息子たちは近くに独立した屋敷を構えていたし、妻たちも息子たちと暮す方を選んでいた--暮していた小屋も土壁のスワヒリ風の小屋であった。またそれは屋敷のはずれにではなく、一族の屋敷の敷地内に立っていた。多くの人はマハナの患者も、今日では他の「悪い死」と同じ扱いを受けるのだろうと類推していた。

マハナの死者をその隔離小屋の中に埋葬した後に小屋に火をかけるのがかつてのやり方だったと教えてくれた上の施術師にしても、今日ではマハナの死も他の「悪い死」と同じように「冷やす」だけであると述べる。

「昔は人々は臆病者(aoga)だった。ただ冷やしても、また(悪い病いが)戻ってくるのではないかと。お前は冷やして、終わったといって立ち去る。でも人々は満足しない。で言う。『あいつは本物の施術師じゃない』と。でも、大事なのは「冷やす」ことなんだよ。(質問者:小屋を焼いたのは人々の気が済むように(atosheke)と?)そう。ただ満足するように。(質問者:では、埋葬も普通に行なってよいと?)だめだめ、(死者は)独り離して埋葬されねばならない。でも大事なのは『冷やし』て、それが二度と戻ってこないようにとすることさ。」

しかしその一方で、小屋を焼くという話は相変わらず「昔の慣習」として語り回されていたし、マハナの死がその他の「悪い死」と区別されるべきだという見解も繰り返し耳にした。マハナの死者の処置に関する知識のこうした不確かさ、曖昧さのなかで、ンドゥリャ氏の死は、<ジャコウネコの池>の人々の多くにとってははじめて直接立ち会うマハナの死者の埋葬の機会となったのである。実際、彼の埋葬が翌日に延期された理由は、そのやり方をめぐっての意見の不一致であったことが判明した。私は私で、小屋を焼くという部分が、今日どのように処理されることになるのかおおいに気になっていた。翌日の朝9時、埋葬を手伝うためにムカラの屋敷におもむくと、地域の主立った長老たちが集まってこの問題をめぐっての討議の真っ最中であった。

ンドゥリャ老人の埋葬

当初、人々は前日のうちにンドゥリャ氏を埋葬するつもりであったらしい。「冷やし」の施術師もすでに呼ばれてきていた。しかしその直前になって、集まっていた長老たちのあいだから、この施術師--年配の女性であった--の具体的なやり方に対して疑問が向けられたのだという。彼女は通常の「悪い死」に対するのと同じやり方で、ことを終えようとしていた。これが埋葬が今日にまで延期された理由であった。私が討論の末席に加わったとき、私にとっては幸いなことに、ちょうど同じときに場に現れたNg氏(ンドゥリャの兄の息子であり、<ジャコウネコの池>のラロの「諸屋敷の長老(muzee wa midzi)」を務めていた)に対して、ことの説明が行なわれ始めた。

C:私たちはあなたにお話します。おわかりかな。というのは、昨日あなたはあちら(墓)の方にむしろ顔を出しなさっていたが、ここでは我々は随分議論していたのですよ。この種の病気で死んだ何人もの人の名前を挙げました。おわかりかな。我々は、この種の病気で死んだ人の名前を挙げました。しかし我々の話は「私たちはディゴの人々によって、すっかり駄目にされてしまった。」というところに落ち着きました。ディゴの人々が言うことには、「死は死だ。どれでも同じだ。」ついには「事故」や「悪い死」の問題までなおざりにされてしまいました。おわかりかな。

Ng:そのとおり。あいつら(ディゴの人々)は間違っています。

C:おわかりかな。(中略:C氏は「弔い」の後の水浴びのやり方が最近いかにずさんになっているか--水場まで行列して行かずに汲んできた水で間に合わせる--という例を挙げる。)それでいいとお思いですか?もちろん、何の問題もない病気がもとで死ぬ場合もあるでしょう。でも、子供が麻疹(ukambi)で死んだり、水疱瘡(tetemaji)で死んだりした場合はどうでしょう。こうした病気は「事故」をもっています(註8)。さあ、どうすればいいんでしょう?その病気はきちんと我々のやり方(chikp'ehu)で「制作(utungiywe)」され(マトゥミアの性交を行ない)、「取り除」かれねばなりません。こうした病気が屋敷の内に「馴染んで」しまわないように(utsiphabare)。こうした病気には「言葉(manenoge)」(特有の処置)があります。まさにマハナの病気もこれです。おわかりかな。

Ng:わかっておりますとも。

C:さてさて、こうした病気は...出費の問題ももちろん気になります。でも私たちとしては...

Ng: ええ。

C:私たちとしては施術が気になるのです。ぜひMwさんに来ていただいて、お尋ねしたい。「Mwさん、あなたならどんな風におやりになりますか。そうすればどうなりますか。」と。おわかりかな。こうした問題は、後で良く知っている人に出会って、その人がやって来て「ああこいつ(施術師)は、そこのところは取り除いたけれど、ここのところはやり残している」などと言う。私たちは、後になってこの病気が戻ってくるのが気がかりなのです。こう言うことになるのが。「この問題はいったいどうなったんだろう。なぜ当事者たちは取り除いたと言っているのに、今になって、まだここにあるのだろう。」だからあの女性(施術師)に、問題をちゃんと問いただしたかったのです。
(中略、Cは自分の屋敷で多くの長老の意見を聞いた結果、いかに成功裡に「事故」を取り除くことが出来たかを語る。)
おわかりかな。埋葬とは、ただ墓を掘りに行くことではありません。埋葬とは、お金(援助金)を拠出するだけのことでもありません。埋葬とは、問題を徹底的に議論することです。この「事故」が取り除かれれば、2年経っても3年経っても屋敷からはまだ死者が出ないでしょう。それでこそ埋葬の席にたしかに長老たちがいたということです。それに対して、ただ埋葬してウシを提供する、そして明日になればまた別の死者が出て、またウシを連れて行く有り様。それではちゃんと(長老の)仕事をしたと言えるでしょうか。さてさて、こんな風に私たちは話し合っていたのです。私たちはこんな風に話し合いました。というのは死んだNmさんのことがあるからです。病気はこのマハナでした。この病気はそれに先立ってMkの屋敷にありました。Mkのところということは(Nm氏の父の)Mtの屋敷ということではないでしょうか。そこで(この病気は)Btさんを殺し、Bkさんを殺していました。(別の長老に向かって)彼らがこんな風であるのをあなたはごらんにならなかったでしょうか。

Bc:たしかに見ましたとも。

Ng:では彼女(施術師)にあらためて質問しましょうか。

C:いえいえ。私たちはMwさんの自身の言葉を待っているのです。

Ng:Mwさんのところに呼びに人を遣ったのですか?

C:そうですとも。

Nz:私はあの女性(施術師)にはもう尋ねる気にはなれません。私は彼女自身が気に入りません。

Ch:ああ、彼女は施術師なんかじゃない。(薬液を)撒き散らすだけ。まるで出獄した人(の「事故」)を取り除くのが問題だとでもいうかのように。

Ng:それぞれの施術師には、人それぞれのやり方というものがあります。

Bc:いやいや、これは憑依霊の施術とはわけが違う。

Nz: これは施術師ごとにやり方があるという種類の施術じゃないんですよ。とんでもない。

ここで中心となって発言しているC氏は、地域でもかなり指導的な立場にいる長老の一人で、彼の娘はムカラの屋敷に嫁いでいる。Bc氏も地域の長老の一人であるがムカラの屋敷と直接の関係はない。Nzはンドゥリャ氏に対しては兄弟の息子にあたり、Chはンドゥリャ氏の兄弟の息子の息子にあたる。途中何人か出入りはあったが、ただ輪の外で会話に耳を傾けている若者たちを除いても20名近くの男たちがこの場に居合わせていた。

「正しいやり方」についての知識の不確かさが明らかになっている。この種の不確かさを隣接するディゴの人々のせいにする語りは、別の機会にも耳にしたことがあった紋切り型の言い訳である。

「まず第一に、あちらのディゴのほうでは『悪い病気』というものはない。ディゴではどんな病気で死んでも『弔い』がもたれる。さてさて我々はディゴと交じりあってしまった。ディゴの人々が我々を駄目にした。そんなわけで我々はあの昔からのやり方をもはや知らない。」

いずれにせよ、マハナ病者の現実の死に直面して、人々の知識の欠如が露呈した。「悪い病気」であるマハナは「取り除」かれねばならず、しかもそれは通常の「冷やし」とは違う特別なやり方でなされねばならない。この点では意見は一致している。さらに、たった一つの正しいやり方が問題なのである。施術師ごとにさまざまなやり方があったりするような種類の施術ではないと断言されている。何人かが過去のいくつかの事例について自分たちの知っている知識を出し合ったらしい。しかし、何が正しいやり方であるのかの結論にはいたっていない。それぞれの知識に食い違いがあったためか、「正しい」やり方で行なわれなかった失敗の事例ばかりだったのか、それとも「正しい」やり方の事例そのものが遠い過去に属していたせいであったのか、その理由はわからない。出費の点で懸念が表明されたらしいことも窺われる。ともかく何の結論も出るにはいたらず、結局は、Cさんが信頼をよせている施術師Mw氏の助言をあおぐことになったらしいのである。

11時近くになって施術師のMw氏が到着した。Mw氏に対して再び事情が説明されたが、その中で、ヒツジを実際に供犠するべきか、乾燥したヒツジの第三胃で充分かという点も争点のひとつであったらしいとわかった。

C:彼女(施術師)は死を「冷やす」ための薬(mihi 木)をもってきました。でもそれは「事故」をとりのぞくためのものではありませんでした。というわけでMwさん、あなたに来ていただいたのです。あなたに「ドゥルマのやり方」をお尋ねしようと。私は何度も見てきたのですが、これら三つの材料(chiryangona)についてはけっこうです。でも4番目の材料のことで、私たちはこの施術を台無しにしたくなかったのです。というのは問題は、もっと難しいもののように見えるからです。彼女がもってきた薬(木)のなかには、私は隠し立てしますまい、ヒツジが入っていました。この施術はヒツジを必要としています。そうでしょう?

Mw:そのとおり。

C:ヒツジの第三胃(chipigatutu)でよいのなら、「私は第三胃で行なう」と言ってください。もしヒツジそのものが引きすえられ、子供(若者)によって引っくり返されねばならないのなら「私はヒツジそのもので行なう」と言ってください。ヒツジを連れてこさせ、あなたに差し出しましょう。私がこう言うのも、この問題(utu)は深刻だからです。処置されるからには処置されて、その問題が取り除かれるように!瑕疵のある仕方では処置されないように、冗談半分で処置されることのないように!私が言いたいのはこれです。

Mw:なるほどお父さん(Mw氏はC氏より年配であるが、C氏の分類上の息子にあたる)、あなたがおっしゃるその点についてですが、私はここに来るように呼ばれたとき、尋ねました。そこにはすでにCさんがいる(私が行くまでもない)のではないですかと。

C:ふむふむ。

Mw:というのは、その点についてですが、たしかにこの場にはヒツジそのものが必要です。そしてヒツジの傍に、(「冷やし」の薬液を入れるための)臼(chinu)が据えられねばなりません。

C:ほら!さてさて、これこそ本当の言葉です。「ドゥルマのやり方」の言葉です!

Mw:あなた方が臼を据えたら、まず彼(ンドゥリャ氏)の小屋の中で未亡人とその子供たちから(薬液を)浴びます。Bさん(ンドゥリャ氏の息子の一人、キリスト教徒)のように浴びたくないという人も、同じく浴びねばなりません。Bさん、いらっしゃいますか?

人々:いるいる。

Mw:さらに別の材料。あなた方はむこう(墓)で私たちがサボテン(mwatsa)とムァンバニャマ(mwambanyama ヨモギに似た草)で、問題にけりをつける(ku-sindika)のを見ることになるでしょう。

人々:サボテンとムァンバニャマ!

Mw:そう。私はけりをつけてしまうでしょう。というのもわたしは「事故」の問題についてはすべてを知っているからです。私の曾祖父こそ私にそれを与えてくれた人で...

C:あ、ちょっとその話はひとまずおいて。(別の長老に向かって)Bcさん!

Bc: ええ?

C:私たちはこんな風に話しました。私たちの話はあなたに届きましたか?

Bc: ああ、届きましたとも。

C:これは「ドゥルマのやり方」でしょうか、それとも私たちは法(sheria)からそれようとしているのでしょうか。

Bc:これこそ「ドゥルマのやり方」ですとも。

Mw氏の登場によって正しいやり方が一気に確定したのは驚くべきことである。しかしこれを単にMw氏の権威によるものと考えるのは必ずしも正確ではない。Mw氏が人々の尊敬を集めている施術師の一人であることは確かであるが、私の知る限り、彼の意見が常に異論の余地なく誰からも受け入れられているという訳ではないからである。Mw氏の「間違い」がそこに居あわせたもう一人の施術師によって指摘され、周囲の人々が後者の意見に同調している場面を、私は別の折に目撃したことがある。おそらく昨日来の議論の中で人々はそれぞれの見解をすり合わせたが一つの結論を出すことはできなかった。Mw氏の見解に最終的な判断を委ねるというのが、長い議論のなかで彼らが到達した唯一の合意であったのかもしれない。

屋敷内でヒツジが手に入らないことがわかったので、ただちに一人の若者がヒツジを手にいれてくるように遣わされた。差し当たってなすべきことはなくなった。場の雰囲気はすっかりくだけたものになった。人々は、ドゥルマのやり方を守ったおかげでうまく行った経験談を競うように次々に話し出した。最後は、性関係を慎まねばならない際に、いかにきちんと慎むことができたかについての自慢話のような様相を呈した。「ドゥルマの人々が言うように『柔らかい肉を食べることができるのは、我慢した者だけ』なのさ。」

やがてこの時期には珍しく雨が降りだした。人々は雨を避けてちりぢりになった。私はその機会を利用して、Mwさんにくっついて行き、いくつかの点を確認しようと思った。

質問者:それは?

Mw:サボテンとムァンバニャマだよ。これに火をつけるのさ。

質問者:墓の上で火をつけるのですか?

Mw:たとえ墓の上だろうと火をつける。それ(問題)が当人(死者)とともに立ち去るように。

質問者:この施術ではヒツジの第三胃だけでは不十分なのですか?

Mw:だめだめ。ヒツジそのものが殺されねばならない。

若者:血を撒かないといけないんでしょうか。墓へ行ってヒツジの血をぶちまける?

Mw:ちがうちがう。撒くのはヒツジの第三胃と冷たい木だけだよ。

質問者:とするとヒツジは殺されるが、必要なのは第三胃だけだと?

Mw:いるのは第三胃だけ。

質問者:でもヒツジそのものを殺さねばならないと。

Mw:殺さねばならない。それを横たえて、腹を穿ち、例の胃の内容物を取り出さねば。それで小屋の中の臼(にいれる薬液)を用意するのだから。胃の内容物と「冷たい木」。あの人たち(遺族)に浴びてもらう。

質問者:なるほど。死体もそれで洗うのですか。

Mw:死体?いやいや。死体は(薬液を)振り撒かれるだけだ。あの人たちにまず浴びてもらわねば。そうとも。だって彼らは一昨夜以来泣いているじゃないかい(註9)。これはよくない。あれは「悪い病気」なのに。

質問者:泣いてはいけない?

Mw:施術が終わるまで泣いてはいけなかった。

質問者:じゃ、彼らはすでに過ちを犯した?

Mw:そう。という訳で、彼らに最初に浴びてもらってけりをつけてしまうのさ。それがすめば、さあ泣きたいというのなら泣くがいい。でもまず彼らは「冷たい木」を与えられなければね。

彼の一連の発言から、私は彼が本当にヒツジをこの場で供犠することが不可欠だと考えているのかどうかいささか疑問に思った。最初に雇われた女性の施術師が主張していたのと同じく、Mw氏ももしかするとヒツジの第三胃(chipigatutu)があれば十分だと思っているのかも知れない。しかし現実には彼はこの日の長老の集まりの席で、マハナの死を取り除くためにヒツジを実際に殺害することが不可欠であることを、正しいやり方の知識として確立することに一役かっている。Mw氏はあきらかに状況について自分自身の独自の判断をもっている。Mw氏は屋敷の人々が彼の目から見てすでに「間違いを犯している」という事実を、別に人々に対して指摘していない。なにも言わずにその過ちを矯正する手段を講じようとしている。Mw氏によるとヒツジの供犠はまさにこのために必要なのである。しかし屋敷の人々はMw氏の目から見て自分たちが過ちを犯してしまっているのだという事実を知らずじまいであろう。Mw氏は人々に対する説明の中では、それをあたかも「悪い死」を「冷やす」手続きの一部であるかのように提示しているのであるから。Mw氏と人々の状況理解の間には明白なずれがある。

その後、一時的に激しくなった雨のせいでさらに何人かが我々の雨宿りの会話の輪に加わった。ンドゥリャ老人が若い頃マハナの妖術にかけられたという冒頭で述べた話もこの際に聞かされたものである。やがて雨は上がったが、ヒツジはいつまで待っても届かなかった。屋敷の別の一角ではキリスト教徒の若者とイスラムに改宗した若者との間で埋葬のやり方をめぐって口論のようなものも起こっていた。老人たちは昼寝でもしているのかすっかり静かになっていた。参加者たちは朝から何も食べていなかった。ただ漫然とヒツジの到着を待ちながら無為な時間を過ごしていた。皆がしびれを切らし始めていた。午後4時を過ぎた頃、Mw氏は施術の準備にとりかかった。どう話がついたのかは不明であるが、これ以上は待てないということで、結局ヒツジなしに施術を行うことになったらしかった。私は友人たちと馬鹿話をしていて、この決定にいたる細かい経緯をうっかり見落としていた。臼がすぐに用意され、未亡人とその息子、娘たちが薬液を浴びた。Mw氏の指示でンドゥリャの小屋の屋根材(ヤシの葉で作られた)が一筋抜き取られた。サボテンとムァンバニャマといっしょに墓の上で焼かれるのだとMw氏は人々に説明した。

ンドゥリャ氏の遺体は、通常の埋葬と同じように、裏返しにした寝台に載せられて小屋の外に運び出され、女たちの陽気な歌に送られながらブッシュの中に掘られた墓へとゆっくりゆっくり進んでいった。


ほら自動車!

ほら自動車が来るよ

コカ・コーラの自動車が

ほらソーダの自動車が

コカ・コーラの自動車が

どんなソーダがいいんだい

私はファンタが飲みたいわ



殿方の皆さん、ここにいらっしゃる

なんとここにいらっしゃる

クリトリスは池で小魚を釣っている

ヴァギナは傍で、爛れを掻きむしっている



ダラムシ(バス会社)の戦争のせいで目が醒めた

かぶと虫、かぶと虫、高く飛べ

ンドゥリャをお家につれてって

平行イトコの女の子はジャエジャエ(意味不明)

むしろ自分の娘と寝たいものだとお父さん

かぶと虫、かぶと虫、高く飛べ

ンドゥリャをお家につれてって

行列の先頭には、Mw氏が立って、少し進むごとに薬液をあたりに振り撒いた。埋葬が済むと、墓のうえに再度念入りに薬液を振り撒いた後、墓の上でサボテンとムァンバニャマの草、一筋の屋根材に火をつけた。

「兄弟よ。この火はおまえのものだ。神(mulungu)はお前を憎んだ。そして今、この火だ。この火とともに立ち去るように。やって来て、すべての人を捕えるなどということがないように。とんでもない!孫たち、子供たち、兄弟たち、はてはオジ、オイにいたるまで。さあ、ンドゥリャさん、これがお前の火だ。」

ンドゥリャ氏の息子(兄弟の子供)のR氏がふいにおいおい泣き出した。彼はすっかり酔っぱらっていた。火は一瞬で燃え上がり、そしてすぐ消えた。あたりは暗くなり始めていた。人々は解散した。

正しさの根拠と知識の組み替え

ンドゥリャ老人の埋葬は結局ヒツジの供犠なしに行なわれた。間の悪いことに、埋葬終了の直後ヒツジを連れた若者が到着し、その不要となったヒツジをどうするか--とりわけ誰が代金をもつかをめぐって--一悶着があった。しかしすべては終わった後で、Mw氏もすでに去っていた。施術がやり直されることはなかった。マハナの死を「取り除く」ためにはヒツジの供犠が不可欠であるという結論に到達するために、埋葬を一日遅らせてまで重ねてきた議論はいったい何だったのだろう。ヒツジが間に合わなかったのだと関係者は言う。そんなものだったのだろうか。結局マハナの「取り除き」には彼らは成功していないと言う人もいる。もともとヒツジの第三胃でよかったのだと言う人々もいる。ンドゥリャ老人の埋葬前と、この点での知識の状態はなにも変化していないのだろうか。

ンドゥリャ老人の埋葬の経緯は、正しいやり方の知識に介入してくる偶然や時間性の問題を考える手がかりになるだろう。

経験的根拠

「正しさ」の根拠の一つに経験の占める重要性はあらためて強調するまでもないかもしれない。ンドゥリャ老人の埋葬をめぐる議論のなかでも、過去の実例--誰それのケースではしかじかのやり方で行なわれてうまくいった、誰それのケースではしかじかのことがなされなかったため同じ病いに引き続き見舞われた--がさかんに持ち出されていた様子がうかがわれる。各人は自分が知っているこういった実例を、特定のやり方の正しさの根拠として提示する。「悪い死」の埋葬の場合に限らず、ドゥルマのやり方について人々が議論する際の常套手段である。「私はしかじかのことがしかじかのやり方で行なわれるのを確かにこの目で見た」というのは、自分の知識の正しさの最も強力な論拠として持ち出される(註10)。

「ドゥルマのやり方」における諸行為--その比喩性を忘れ去られあたかも字義通りに実行される何かであるかのように語られる「産む」「投げ棄てる」などなどの諸行為--とそれらの具体的なやり方との結つきが、結局のところ本質的に無根拠で規約的な結つきでしかないことは繰り返し指摘してきた。例えば、本当のところ、なぜ未亡人がブッシュで余所者と無言の性関係を行なえば死を「投げ棄て」たことになるのか、誰も理由をあげて説明することなどできない。それは原理的に不可能なのである。その場合、その正しさの根拠が過去に正しく行なわれたことの反復であるという事実に求められるとしても無理もないことである。

これは誤って、人々の伝統主義的態度などと勘違いされて主題化されることがある。しかしこれは何らかの精神的な傾向性や態度の所産とは全く無縁である。単に秩序を構成する無根拠な規約性の帰結に過ぎない。内在的な根拠の欠如が、反復の事実を唯一の支えとして召喚する。

おまけにこれは経験主義的な態度ですらある。例えば、死は「ブッシュ」にちゃんと「投げ棄」てれば「戻」ってこないという道理があり、まさに過去においてたしかに死が「戻」ってこなかった--あるいは少なくともさしあたってのところ戻ってきてはいないようにみえる--成功した「投げ棄て」をこそ、人々は反復しようとしているのである。それが正しいやり方であるのは、過去において実際に成功したやり方であるからだ。ここには、単に伝承されたものを掟としてただ闇雲にふりかざす伝統主義と共通する部分は何もない。

しかし実際に行なわれた手続きの反復であることをあえて主張せねばならないということ自体の中に、一つのジレンマが潜んでいる。もし誰もが同じことを見たことがあるならば、わざわざ「私はこの目で見た」と言い立てるような場面は存在しないはずである。したがってこうした主張が行なわれるときにはいつも、その目撃経験は稀で特権的な経験でなければならないことになる。しかしそうであればあるほど、それが同意を得られる可能性も減少してしまう。

単にそれが特異で孤立した経験であるだけであれば、目撃経験は容易に却下されうる。ある男が自分の目撃経験をもとに、独身女性が死んだ場合にも、独身男性が死んだ場合--独身男性の死に際しては火のついた木の棒をもった男が死体を墓まで先導し、死体とともに墓穴に入り、そこで棒の火を消して、死体の背中に添えるのである--と同様に焼けぼっくい(chinga cha moho)といっしょに埋葬されると主張したことがあった。しかし周囲の者たちには受け入れられなかった。

質問者:女性の場合も焼けぼっくいなのですか?

男M:焼けぼっくいだ。

K:ほんとう?

男M:子供を残さなかったのだから。焼けぼっくいさ。男であれ女であれ、独身者(andaka)だ、そいつらは。

K:まさか!初めて聞いたよ。

男M:そうとも。いずれの場合も焼けぼっくい。あとに残す者がいないのだから。

質問者:祖霊(koma)になることはできない?

男M:ああ、彼らは祖霊に変わることはできない(註11)。

R:ちょっと問題をごっちゃにしているんじゃないかい?

C:そもそもね、娘の場合には何もいっしょに埋葬されたりしないよ。

K:そうそう。私も初めて聞いたよ。

男M:死んだKは焼けぼっくいを入れられた。私はこの目で見なかったことは口にしない。

C:双子の片割れだったのではないかい(双子の一方が死ぬと、生き残った片割れの代理としてバナナの木の幹、杵、ムニャラの木などを添えて埋葬する)(註12)?

男M:とんでもない。普通の少女だった。ほんの女の子。背丈はこれくらい。病気になって死んだ。あのKyさん、Mgの息子のKyさんの姉(あるいは妹)だよ、死んだKは。焼けぼっくいを添えて埋葬された。私はこの目でこんな風に見ている。『行ってしまえ。お前は誰もあとに残さなかった。やって来て我々の夢にあらわれるな。』ってね。

R:何か特別な理由があったんじゃないかね。

C:今日にいたるまで、私は(娘が)焼けぼっくいを添えて埋葬されるなんて見たことがない。

この例においては、目撃経験の特異性が他の人々の経験と矛盾しているために却下されている。未婚の娘の死と埋葬に立ち会った経験なら多くの人がもっている。しかし特権的な経験つまり問題の経験自体の頻度がきわめて低い--例えばマハナの死者を埋葬するような--ものである場合、一人の人間が自らの経験として語る証言の意味は簡単には決定できない。何人かの人々が集まっていて、その中の一人だけしか実際にマハナの死者の埋葬を経験していないとすれば、彼の言うことは自動的に正しい知識として受け入れられるのだろうか。他の人々は彼の証言と比べるべき自らの経験をもっていない。だが彼の思い違いや、記憶の不確かさの可能性が問題になるのではないだろうか。いや、それが彼一人だけの経験であるなら、彼の語りと実際に行なわれたこととの一致や不一致を問題にする方途すら閉ざされている。それを受け入れるにせよ、却下するにせよ、いずれの場合もそうするはっきりした根拠などどこにもない。さらに彼以外にもう一人、彼とは別の機会にマハナの死者の埋葬を経験したことのある者がその場に居合わせており、二人の知識が相容れない場合はどうなるのだろうか。しかもそこに招かれていた施術師まで、さらにまったく別のやり方を主張しはじめるとすれば?ンドゥリャ老人の埋葬に際して見られたのは、こうした状況であった。

合意形成のパラドクス

あるやり方がもう一つのやり方よりも「正しい」とする根拠が原理的に存在し得ない--マハナなる悪い病気を屋敷から完全に「投げ棄て」「取り除く」方法をその目的から演繹して導き出すことなどけっしてできない--ときに、行為とそのきまったやり方とを結びつける知識にこうした不確かさがいったん忍び込んでしまうと、この不確かさは決定不能性そのものになる。何がとるべき行為であるか--例えばマハナを「投げ棄てる」ために一体何をすればよいのか--が一気に決定不能になってしまう。我々が「マハナが二度と戻ってこないようにせよ」と言われても困ってしまうだろうのと、たいして変わらない事態になる。

ンドゥリャ老人の埋葬のケースは、こうした場合に実際には何が起こるのかをはっきりと教えてくれる。話し合いを通して人々の知識の擦りあわせが行なわれ、その結果として人々は唯一の正しいやり方についての合意を形成するのである。当たり前の話だろうか。もしそう見えるとすれば、この過程自体がかかえているパラドクスを見落としていることになる。なぜなら「正しいやり方」は、その性質上とりきめによってそう決めたりできる類のものではないからである。それは人々にとっては現実的な深刻な帰結と結びついている。「悪い死」を正しく「冷やし」「取り除く」ことができたならば、それは「戻」ってこない。しかしもし正しく「取り除」けなかったとしたら、それは屋敷に「馴染」んでしまう。同じ種類の死が繰り返し「戻」ってきて、屋敷の人々を殺すだろう。それを「冷やし」「取り除く」やり方については、意見が一致すれば良いという問題ではない。現実に死が戻って来ないようにすることが問題なのである。「取り除」けるかどうかが人々にとって経験的な問題であるときに、こうすればそれを「取り除」けたことにしようと全員が一致してとりきめればよいと考えることは、ビルの10階から飛び降りても死なないということにしようと全員でとりきめたら、まるで実際に飛び降りても死なずにすむと考えるようなものだ。

こうした場合には取り決めるという手続きにはなんの意味もない。にもかかわらず現実には、なぜそれが正しいやり方であるのかについての内在的な根拠がないまま、一つのやり方--このケースでは呼ばれてやってきたMw氏の提示したやり方--が正しいやり方であると満場一致で宣言されてしまう。発言者の権威や信頼性に大きく依存した知識のすりあわせ、つまり合意によって正しいやり方が決まっている。まさにこの事実がパラドクスなのである。規約的な秩序を現実的に生きるということは、秩序の構成要素を互いに結びつける恣意的で規約的な結びつきから不確定性が排除しえない以上、ある意味でこうしたパラドクスを繰り返し生きるということなのである。

ンドゥリャ老人の埋葬のケースは、さらにこのパラドクスを生きることが一種の茶番である可能性をすらほのめかしている。なぜならこうして到達された「正しいやり方」が--ヒツジが間に合わなかったという不可抗力でもありばかばかしくもある理由で--実際には行なわれなかったのであるから。事はめったにこちらの決めた通りには運んでくれない。実行に介入する偶然性が「正しいやり方」の話し合いを通じての決定という逆説的な出来事そのものを無効にしてしまいうる。

しかしいったん現実に実施されてしまった埋葬は、その内部にこうした偶然の結果を大量にかかえこんだまま、マハナの死をどのように処理するかの最新の具体的な目撃経験を地域の人々に提供することになる。こちらのほうがむしろ「正しいやり方」の<事実上の>決定となる。もちろんそれはその後にさらなる災いを招来した過誤についての目撃経験となるかも知れない。しかし、ムカラの屋敷にこの後何年たっても--おおいにありそうなことであるが--一人のマハナの患者も出なかったとしたら、ンドゥリャ老人の「悪い死」はまさに正しく「取り除」かれていたのだということになるだろう。その場合、この事例自体がマハナの死の「冷」やし方「取り除」き方の「正しいやり方」の知識の根拠の役割を演じ始めるだろう。まるでダーウィン流の進化論の突然変異のように、偶然の変異--それが生じた時点では瑕疵とすらみなされうる--がその後の出来事の経緯によって承認されてしまいうるのである。

創意と即興

ヒツジをめぐっておおいにもめたンドゥリャ老人の埋葬には、別のところでMw氏による創意の要素も付け加えられていたかもしれない。

死者の小屋--死者はその床に埋葬された--を焼き払うというかつての手続きに、死者の墓の上で死者の小屋の屋根の一部を燃やすという手続きがとってかわっているのがわかる。火とブッシュの結びつきという繰り返し登場するパターンが、いずれの手続き--「悪い死」をブッシュに投げ棄てることがその目的である--をも動機づけている。もちろんこれがMw氏の考案によるものだということを示すものは何もない。しかし少なくともその場に居会わせた私の友人たちには、そのやり方は初めて知ったやり方であったし、極めて大きな印象を--つねづね聞いていた昔はマハナの死者の小屋を焼いていたという知識に照らしあわせてのことであろうが--与えているように思えた。

この点は別にしてもムァンバニャマの草とサボテンを燃やすという点に関しては、私にはそれがMw氏独特の工夫ではないかと疑う大きな理由がある。別の施術師たちの話から、この二つの草がむしろある種の妖術の治療に対して用いられる草であることを私は知っていた。ザイコ(nzaiko)という薬(muhaso)を用いてかける妖術によって引き起こされる症状は全身の痒み--人を発狂に導きかねない--であり、犠牲者は身体をかきむしって夜も眠れない。ムァンバニャマとサボテンはいずれもその治療にもちいられるのである。この二つの草がマハナの埋葬に用いられるという話は--身体症状の類似性から両者が結びつけれられたとしても驚くにはあたらないが--その後別の地域に住む何人かの施術師に尋ねてみた限りでは、誰からも確認が得られなかった。単にヒツジが手に入らなかったという偶然の他に、正しいやり方として同意された手続きの中にも、すでに偶然的な--単なる一個人の創意の可能性の--要素が組み込まれていたのである。

伝言ゲーム

ンドゥリャ老人の埋葬が、<ジャコウネコの池>に住む人々にマハナの死の処理について直接立ち会った経験を提供することを通じて、人々の知識に影響を与えなかったとすればむしろ不思議なくらいであろう。実際、その後の地域の人々の語りのなかにそれは目につく形で反映していた。しかしその知識にはすでにばらつきがあった。例えば次の二つのセッションは、いずれも埋葬に来ていた人物に対するインタビューの一部である。最初の質問相手Bc老人は埋葬に先立つ議論の場にも居合わせて意見を述べていた人物の一人であった。

Bc:マハナの病気の場合、まず一人離れた場所に埋葬されねばならない。そしてさらに墓の上にはサボテンを置かねばならない。わかるかな?さらに墓の上で火をつけられねばならない。

質問者:はい。ンドゥリャさんが埋葬されたとき、Mw老がサボテンとムァンバニャマをもっていって、墓の上で燃やしましたよね。

Bc:まさにそのとおり。お前もそこにいたじゃないか。そうとも、その病気を「殺す」わけだ。二度と人を捕えないようにと。

質問者:殺す?

Bc:そう。我々はそれ(病気)を「殺す(kuolagira)」と言う。人にうつることがないようにと。

質問者:そこにヒツジもいなければならないと聞いたのですが?

Bc:そうとも。だってその墓を冷やさねばならないんだから。

Bcの妻:あそこにヒツジがいましたっけ?

Bc:でもヒツジが必要だった。というのはこんな風に指が切れ落ちてしまう病気で死んだんだから。それが必要な成分(viryangona)なんだよ。

明らかにBc氏にとっての「正しいやり方」はンドゥリャ老人の埋葬に直接由来している。転写は明瞭だ。しかし経験の知識へのこうした転写はすべての人に同じような仕方で行なわれる訳ではない。次のインタビューの相手Dは少なくとも埋葬の日の午後にその姿を目撃している人物であるが、彼が主張するマハナの死者の正しい埋葬の仕方はBc氏の理解とはすでに微妙に相違している。

質問者:マハナのような悪い病気の死の場合も、他の人とは別の場所に埋葬されるんですよね。

D:そのとおり。そして彼の小屋の屋根が壊される。戸口の上の部分。さて、埋葬が済むと、墓の上で燃やされる。ああ、ほんの小さい部分だよ。ただ「しるし(alama)」としてね。戸口の上のところから抜き取った草が燃やされる。ムカラのところでそうされたじゃないかい。お前は見なかったのか?

質問者:はい。私もそこにいました。墓で燃やすのは屋根の草だけ?他の「木」は用いないのですか?

D:ああ、他の「木」は用いない。

質問者:ヒツジは?

D:ヒツジも必要ない。

まるで一種の「伝言ゲーム」を傍らで眺めているような気分にさせられる。それぞれのプレーヤーが自分に与えられたメッセージをそのままの形で忠実に次のプレーヤーに伝えようとしながら、その実、メッセージはその都度微妙に姿を変え、最後には似ても似つかないものになってしまう。この後、再びマハナの死者を埋葬する必要が生じた場合に、「この目で見た」正しいやり方として主張されることになるのは、この二人が行なっているような証言なのである。それは20年後、あるいは30年後かもしれない。そのときには、この二人の老人すらすでにこの世を去り、現在は若者である例えばカタナ氏のような人が、このンドゥリャ老人の埋葬に立ち会った経験をもとに長老として「正しいやり方」について語ることになるかもしれない。彼の証言の中ではヒツジはなくても済むことになっているだろうか。屋根材の一部を墓で燃やすこと、サボテンとムァンバニャマの草の使用はどうだろうか。どのような変異が生じていたとしても、それは正しいやり方の「この目で見た」忠実な反復として提示されるだろう。オリジナルからのずれを可視化することはできない(註13)。誰かがカタナ氏の記憶違いを指摘して「いや、そうではなかった」と主張したとしても、そう主張する彼自身には同じような記憶違いがないことをどうやって示せるというのだろう。過去の正しいやり方を反復しそれを未来に転送するのは、当事者の記憶と語りだけである。そしてそこではいかなる変化が起こっていたとしても、それを可視化するすべはなく、過去から伝承されたと称するすべての語りがそうであるように、その都度唯一のオリジナルの忠実な反復として演じられるのである。「正しいやり方」の個別的なひとつひとつの実行も、変異を含みつつ反復される伝言そのものである。

遊技としてプレーされる伝言ゲームにおいては、何がオリジナルのメッセージであったかを知っている観客がいて、彼らはメッセージが姿を変えていく様を確認して笑いながらそれを楽しむことができる。そして各プレーヤーも最後には最初のメッセージが何であったのかを最初の人に尋ねて、自分の受け取ったと思ったメッセージとのずれに笑い転げたりする。しかし「正しいやり方」の知識をめぐる伝言ゲームにおいては、まさにこのメッセージの反復におけるずれは、プレーヤーたちから隠されたままである。誰も自分に先行するプレーヤーに、そのメッセージが何であったのかを尋ねなおすことはできない。過去に戻って、本当はどうだったかを確認できるわけもない。誰もが複雑に分岐する伝言ゲームのネットワークの中の一プレーヤーに過ぎず、誰一人として特権的にメッセージのずれを判定できるような位置にはいない。

正しいドゥルマのやり方が、ちょっとした偶然で気まぐれに変わっていくなどと認める人には出会ったためしがない。さまざまな領域で--マハナの死者の埋葬のやり方についてもそうなのだが--昔(pho pindi)と今(rero)との歴然たる違いの存在について繰り返し語られている一方で、隣接する二つの実行--前回正しく行なわれた機会と、今あらたに直面している機会とでのあいだのように--のあいだでは、あたかも唯一の正しいやり方がその都度反復され、その知識が忠実に伝承されているかのように装われる。この点でもそれは伝言ゲームに似ている。

施術師の知識

施術師と彼の知識はこの伝言ゲームの中で、もちろん際立って重要な役割を果たしている。しかしこれは彼らの知識が、他の人々に比べてより確固な支えをもっているということを意味していない。憑依霊の治療にあたる施術師には見習いの期間とでも呼べる期間がある。妖術関連の治療を行なう施術師にも見習いがいる場合がある。しかし皮肉なことにいずれの治療においても唯一の正しいやり方に対する固執はない。憑依霊関係の施術の場合、憑依霊が個々の施術師の夢にやってきては次々と新奇なやり方を伝授する。彼らの施術のやり方の源泉はこうした夢に媒介された領域である。妖術関係の施術においても、遠方からやって来たと称される新しい技術が流行現象さながらに次々に現れ、しかも新奇なやり方ほどその効き目に人々は群がる。一方唯一の正しいやり方に対する拘泥を特徴とする「冷やし」の施術に関しては、逆に、その知識の伝達は文字通りの伝言ゲームにおけるメッセージの伝達に劣らないほど頼りない。それは教育の期間も、練習も抜きに、その場で伝授される知識である。実際に施術師が呼ばれて「冷やし」の施術を行なう機会が、しばしば希望者にその施術を伝授する機会でもある。例えば「巣立ち」を始めとする「死の施術」は、弔いの最終日に、実際に「巣立ち」を終えたその場で、一定の支払と引換に希望者--この施術は自ら配偶者に死なれたことのある者にしか伝授されない--に伝授される。施術師は施術に用いる「木」を見せ、その名前を教え、施術の手順とその際に唱える言葉を教える。

施術師:さて、(水の中で薬として用いる葉を)よく揉みます。「ぺっ!火を冷ませ」

見習い:「火を冷ませ」

施術師:「私はお前を盗んだのではない」

見習い:「私はお前を盗んだのではない」

施術師:「私はお前をサリムさんから購入した」

見習い:「私はお前をサリムさんから購入した」

施術師:そうそう、その調子。「ここで、私はザメさんのためにお前を用意する」

見習い:「ザメさんのためにお前を用意する」

施術師:ザメと言いましたが、そこには配偶者に死なれた人誰の名前を言ってもよいのですよ。けっしていつもザメと言えということではありません。とんでもない。

見習い:配偶者に死なれた当人の名前を言うのですね。

施術師:さて「ザメは夫に死なれた」

見習い:「ザメは夫に死なれた」

施術師:「彼女がお前を浴びると、お前は火を冷ませ。火を鎮めよ。」

見習い:「彼女がお前を浴びると、お前は火を冷ませ。火を鎮めよ。」

こんな具合に教授は進行する。繰り返し練習させたりはしない。手続きを単に一通り示し、そこで唱える言葉を一回ずつ復唱させて終りである。このいいかげんさの背後には、「冷やし」の手続き一般がある意味で誰にでも知られている知識であるという想定があるのかも知れない。伝授では、細部の再確認を行っているだけのような風情もある。ここでは、金銭の授受によって確かに術が授けられたという事実の方が大切であるように見える。しかし誰もが知っているはずの知識に実はばらつきがあり、不確実さが忍び込んでいるのが常態であるのだとすれば、この伝授は正しいやり方の転写過程としてはあまりにも心許ない。これでどの程度、正確な転写が保証されるというのだろうか。一方、施術師が密かに自らの手続きの中に加えたかも知れない革新があったとしても、その事実には気づかれないままに、それは正しいやり方としてその他の部分といっしょに見習いによって引き継がれていってしまう。まさにあぶなっかしい伝言ゲームである。

変異と反復

口頭で伝えられる知識がその過程で変わっていってしまいうることも、知識を現実に実行に移す際に偶然的な状況的要素の介入を受けてしまうことも、それだけをとればどちらも当たり前の話であり、くどくどと指摘する必要のないことにも思えるだろう。しかしそう思ってしまうと、これらが当たり前に見えるのは誰にとってであり、またどのような条件がこれらを当たり前の事実と見ることを可能にしているのかという点を、見逃してしまうおそれがある。もちろん私にはあまりにも当たり前のことである。しかし知識が伝達の過程で変化してしまうことの不可避性や、偶然的な要素に多分に支配された実行過程が、伝達される知識そのものを変化させてしまうことの不可避性は、いずれも知識の転送過程そのものを主題化しない限りけっして目には見えてこない。それを主題化し、転送された知識どうしの差異を殊更に言いたてているのは私である。さらに--すでに繰り返し述べたように--当の変化そのものが伝達前と伝達後の知識を比較することによってしか可視化できないのだが、過去そのものを現前化させることが不可能である以上、このような原理的には不可能であるはずの比較を可能に見せかけている技術--例えば書字技術--の存在をぬきにして、こうした変化の可視化について考えることはできないのである。それを書き留めることによって変化を目に見えるものにしてしまったのも私である。

知識の転送過程を主題化することは、知識というもの自体についての一つの特別なとらえ方を強調するということでもある。それは知識を、社会的主体によるその生産、転送、獲得の過程からは切り離し得ないものとして概念化する。知識とは--あまりにも当たり前の話だが--誰かがもっている限りにおいてのみ存在する。誰によってももたれていない知識などという概念は、自己矛盾である。知識の転送あるいは反復の過程が、当の知識そのものの存在の構成部分なのである。転送されえない知識とは、結局誰によってももたれることのない知識、つまり不在に他ならない。

知識のこうしたとらえ方は、知識についてのもう一つの根強い見方--知識を人間による生産、転送、獲得の過程から独立した一つの対象であるかのようにとらえる見方、それを作り出したり伝達したり保持したりする当の主体からは独立に外在する客観的実体としての知識という概念--に対立する。まだ誰も知らない、発見されるのを待っている知識、あるいはもはや誰も知らない失われてしまった知識、などというものを想像する際に我々が訴えかけているのがこうした物象化された知識概念である。知識はそれが転送されるかどうかには無関係に、ただそれ自体で客観的に存在しうる何かである。「ドゥルマのやり方」の知識も、まさにそんな形で語られている。言うまでもなく、こうした物象化された倒錯した--人間の社会的な実践の産物があたかもそれを生み出した当の主体たちから独立した力や存在としてたちあらわれるという意味でマルクスの物象化理論を思いおこさせる--知識概念の方がはるかに広く見出される見方なのである(註14)。もちろんそこでも知識の転送過程を問題にすることはできる。しかし、それは知識の産出や存在そのものにとっては付随的な2次的な過程として問題にすることができるだけである。なるほど、転送の過程でエラーは生じうるが、本来の知識は別のところにちゃんとあり、知識そのものの存在が個々の転送によって影響を受けることはない、という訳である。こうした物象化された知識概念のもとでは、知識の生産、転送、獲得の一連の過程を知識自体にとって構成的なものとして主題化することはどうしても妨げられることになる。

さらに、過去の現前化を可能に見せかける技術の一つである書字技術の<不使用>は、転送過程において生じた即興的な創発性や、変容を、ますます見えにくくする。埋葬や弔いに際して、若者が書記係をつとめさせられることは珍しくないが、彼らが記録せねばならないのはそこでの金銭の出入りなどであり、そこでなされたことの手順そのものを記録しようという発想は見られない。書字技術の影響についてはグディの刺激的な研究が、すでに多くのことを明らかにしてくれている。例えば彼は、口頭に頼る社会においても個人の創造という要素が欠けているわけではないという事実を強調する。「個人の口承の創作はいっそう絶え間のないものであり、しばしば演じるということに内在する。」(グディ 1986:50)創造自体は存在しているのだが、単にそれが見えにくくなっている、創造の事実が可視化されないということなのである。絶え間のない創作とバージョンの変容にもかかわらず彼が調査したロダガアの人々は「しばしば神話というものには正しい物語はひとつしかないかのように語る」(グディ前掲書:54)。

「その場にいる者の多くは彼らが聞いたり語ったりしているものが同じ話であると思っている。しかし彼らはそれを比べてみることができるようなテクストを持っていないし、バグレの神話に関する私の経験によれば、彼らが比較したり、さらに重要なことには、それを訂正したり(というのは朗誦者はその定義からしてそれを「知っている」年配者たちであるから)する能力は非常に限られている。いずれにしても人々は新たな変形を受け入れているのであり、そっくりそのままの写しというものも存在せず、その変化が実際は本当の以前の話の一部であると彼ら自身確信しているかも知れないのである。」(グディ前掲書:218)

神話に限らずあらゆる口頭での伝承形態がこうした特徴を示すだろう。ある「冷やし」の施術師が、自分は曾祖父に教えられた通りに唱えごとを行っているのだと主張したとしても、彼の主張を裏付けるために、曾祖父の伝授したオリジナルと比べて見たりすることはできない。変化を対象化しえないのである。

こうした認識の一方でグディが「話し言葉の文化が文化的恒常性を保とうとする傾向」について語ろうとするのは奇妙なことである。彼は書字技術のない社会においては変化は抑圧され、一方書字技術を持つ社会においては変化それ自体を目的にした活動が行なわれると論じる。しかし、むしろ逆の可能性を考えねばならない。書字技術の使用のもとでは変化はただちに目に見えてしまうために、それをチェックし抑圧することが--変化を明確な目標として追求することに劣らず--可能であるが、書字技術を使用しないケースでは変化は可視化されず、同一性のみせかけのもとにありとあらゆる変化を許容してしまいうるのである。話し言葉の文化の文化的恒常性について語ること自体が、話し言葉の文化のこのトリックに引っ掛かっている証左である。

その獲得や転送の実践から切り離された存在として知識がとらえられており、また過去を仮想的に現前させる書字技術が使用されていないという条件の下では、知識の目まぐるしい変容の可能性とその不可避性は、当の人々にとってはけっして当り前の話にはなりえない。むしろ同一性の反復が規範となる。その都度同じ正しいやり方が反復されて来ているはずであるにもかかわらず、昔のやり方として知られているものと、今のやり方の間に大きな隔たりが存在しうることに誰もが気づいている。しかしそうした変化をもたらす要因が、自分たちが行っているそれぞれの実践のなかにあることは見えない。そうした変化はまるで説明不可能なものとして--我々は昔のやり方を忘れてしまった--、あるいは自分たちの与り知らない外部からもたらされたかのように--イスラム化されたディゴの連中と混じりあってしまった--語られるしかないかのように。知識の生産、獲得、転送の実践は、ここでも<疎外された>実践となる。社会的主体は自らの実践の産物の中に自己の労働を見てとることが阻まれている。つぎに、そしておそらくこの一連の論考の最後のステップとして、この知識の変容の不可避性の問題をドゥルマのやり方を特徴づける秩序の規約性との関係において考えてみなければならない。


註釈

註1) ここでの「文法的」という表現は、言うまでもなく言語学的な意味でではなく、ウィトゲンシュタイン的な意味--使用規則--で用いられている。

註2) 言うまでもないことであるが、この一連の物語において、我々にとって確かなことはンドゥリャ氏が実際にマハナあるいはハンセン氏病にかかったという事実、それがBmのせいであるとされたという事実、Bmが賠償の支払いを同意させられたという事実だけである。その他の事柄は、この物語を妖術の物語にするために挿入された物語要素にすぎない。Bmが実際にンドゥリャに妬みを感じたか、そしてその感情から何かの行為をンドゥリャに対して仕掛けたか、を事実に関する問として問うことは的外れなことである。それは上の3つの事実が確定したときには当然の想定となる。

註3) この「咳の病い」が今日呼ばれている名称 tibii が T.B. つまり tuberculosis から来ていることは言うまでもあるまい。

註4) 自分がこれからおこなう不吉な発言が呪詛でないことを明示するために、そうした発言を行なう前にさしはさむ表現。

註5) 通常の埋葬においては男性は右を下にして、女性は左を下にして横臥の姿勢で埋葬される。これは性交時の体位と同じである。頭をどちらの方向に向けて埋葬するかはクランによって異る。自分たちがやってきた方角を向けて埋葬するのだと説明されている。布ですっかりくるまれた遺体は墓穴の底の溝に横たえられ、上に向いた耳の部分の布が切り開かれる。丸太が死体の向きに直行するような形で何本も渡され遺体が納められた溝に蓋をする。そのうえにさらにヤギの皮や、マットが敷かれ、穴は土で塞がれる。

註6) この主張は「産むこと」/「投げ棄てること」をめぐる一連の語り口が示すパターンからやや逸脱しているように思える。ここでは「外部性」というテーマが推論を牽引している。

註7) これは単に私がそうした経験をもった人を探すのに熱心でなかっただけの結果だと言えるかもしれない。ンドゥリャ氏の埋葬の際の議論にも見られるように、探せばマハナの死の埋葬の具体例を知っている人もいたはずなのである。しかし同時に、そうした経験がンドゥリャ氏の埋葬に際して正しい「ドゥルマのやり方」を曖昧の余地なく決定することが出来なかったこともあきらである。彼らの知識や経験も「正しいやり方」の今について語る充分な根拠を提供してはいないのである。

註8) 私は mvanga という言葉に対して「事故」という訳語を当てきている。事実それは、我々が事故とみなす事象を含む。自動車事故、木からの落下、水難、刃物による傷害など。しかしこの訳語がこの言葉の正確な範囲をカバーするものでないのは当然である。mvanga には、投獄や遠方に長く暮すことなどが含まれるが、これを「事故」という概念に含めるにはちょっとした想像力が必要となる。一方、ここの発言に見られるように「悪い病気」との関連で mvanga という言葉が用いられるときには、それはむしろその病気の症状の特定の特徴をさしている。つまり皮膚に「ぼつぼつ穴があく、破裂する(ku-humbuka humbuka)」という特徴である。人によっては mvanga をこの特定の症状をともなう病気の名前であると言う人もいる。私はこの用語の使用について、まだはっきりした結論に到達していない。

註9) 死がアナウンスされたときから死者の身近な親族は、唄うような独特の抑揚をつけて「泣く」。しかし死者がキフドゥの壷を管理する役職であるボラである場合や、若干の特殊な死の状況では、特定の手順が済むまでは「泣く」ことが禁止されている。Mw氏によるとマハナの死も「泣く」ことが禁止されるケースであるということになる。

註10) 私の質問に対して、自分で実例を見たことのないケースについて正しいやり方を語るのは「気の触れた長老ぶり(utumia wa jimu)」だとして回答を避けた長老のことが思い出されるかもしれない。「問題というものはまずそれを見て、それで説明できるものだろう。それはこんな風になる、あんな風になると。(質問者:そのとおりです。)だが私が気のふれた長老ぶり(utumia wa jimu)を発揮したとしたら、私は嘘つきになってしまう。」人々にとって「やり方」の知識は経験的知識なのである。

註11) 死者は自らの子孫に対してのみ、夢を通じてコミュニケーションし、その要求を伝えることができる。こうした存在が祖霊(k'oma)である。k'oma は「夢」という意味でもある。祖霊の要求は執拗で、その要求をかなえさせるために子孫を病気にしたり、その財産を奪ったりする。独身男性が死んだ場合にともに埋葬される焼けぼっくい(chinga cha moho)は、彼が残すことのできなかった子孫の「代用(badala)」である。墓の中で火を消された木の棒は死者の背中に並べておかれ、「誰某よ、お前は後に誰も残さなかった。お前の相棒はこの焼けぼっくいだ。立ち去れ。戻ってきて我々に夢を見させるな。」と語りかけられる。現実にはしばしば独身者の死者の夢を見てしまう--とりわけ彼の両親や姉妹が--ことがあるのは、どうしようもないことである。夢を見せられた者は怒って、死者に対して「お前は私たちに付きまとう資格はない。お前はあとに誰も残さなかったのだから」と諭すのだ(夢の中で)という。

註12) 双子の一方が死んだとき、埋葬に際して生き残った片割れを「代用」するもの--人によってそれは杵、ムニャラの木、バナナの幹などさまざまな意見がある--をいっしょに埋葬するというやり方は、あきらかに独身者の埋葬の仕方と関係がある、比較的新しい方式である。というのは人々の記憶にまだ残っている過去において、双子の一方はビョーニ(vyoni)と呼ばれる異常な赤ん坊--逆子、奇形、上の歯が先に生えてきた子供など--と同じやり方で、殺害されていたからである。その殺害方法は、水甕や淵に沈められたり、バオバブの木の根元やゴミ捨て場でおぶい紐で鞭打たれた後に放置されたりであったが、それはその子供を産んだ女性の母親によって執行された。「ビョーニよ、もしお前がビョーニなら、お前のいるべきところへ帰れ。もしそうでないなら生きながらえよ」と唱えられながら。
今日では双子の出産はむしろ「一度に二人の子供を手に入れられる」よい出来事と考えられている。しかし双子の一方が病気になると、他方も病気になるなどとも語られており、そのために「心を分ける(ku-gavya maroho)」という施術によって二人を分離することもしばしば行なわれている。双子を殺害しなくなったことにともなう「やり方」の革新である。双子の一方の埋葬に際する上述の手続きも、こうした革新の一部である。

註13) そもそも偶然的な変異をこれほど抱えこんだンドゥリャ氏の埋葬の出来事自体がオリジナルと呼ぶのをためらわせる出来事であるが、これに参加した若者たちのうちのかなりの人々は、なぜ埋葬がこうしたやり方で実施されるにいたったかの経緯について何も知らずに、後になって、ただ自分が見たことを「正しいやり方」の目撃証言として語るだろう。

註14) ランベクは「知識の人類学」を意図した著作の冒頭で、コモロのある民話を引きながら、こうした知識概念について触れている。そこでは「知識は一人一人の人間の意識に先だって存在する。人間にとって問題なのは、その知識にどこまで迫れるかということである。」(Lambek 1993:4)「知識は、その持ち主の経験とは独立に、リアルな意味において存在している...知識は外的で客在的な実質をもつ。」

参考文献

J・グディ, 1986,「未開と文明」(吉田禎吾訳)岩波現代選書(Goody,J., 1977, The Domestication of The Savage Mind, Cambridge University Press)

Lambek, M., 1993, Knowledge and Practice in Mayotte: Local Discourses of Islam, Sorcery, and Spirit Possession, Tronto:University of Tronto Press


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