記号の有意味性 : ソシュール言語学における意味の概念 |
エーコに代表されるパースの後継者をもって自認する記号学者たちのあいだでは、パースの記号理論の真の価値は、彼の提出した解釈項という概念にあるとされている。彼の対象の概念について言えば、それは従来どおりのわかり切った指示対象について語っているものとされ、単に軽視されるか、極端な場合にはそれを体系から放逐してしまおうとさえ試みられている。しかしパースの記号理論において最も謎めいているのは、実はむしろ彼の対象概念のほうだったのである。
彼は記号過程を表面的には特徴付けている、記号とその解釈項との置き換え、転移の関係の根拠を、一つの項という形で、その体系の外部にではなく内部そのものの関係として保持しようとした。しかし、こうして項として立てられた「対象」はそのきわめて謎めいた性格によって、我々をとまどわせる。それは結局、一体何なのだ、と我々は尋ねたくなる。そしてその答えは容易には得られそうにないのだ。記号過程を通じて、同一でありつづけながら、しかも刻々その姿を変えていく何か。それはそもそも項として立てることが適切な何かだったのだろうか。
我々は後にこうした疑問に答えることになるだろう。しかし、その前に、意味という言葉「によって」我々は何を語っているのか、という中断された問いを再開することにしよう。意味という言葉によって、我々は置き換えや、その根拠について語る。また、既に論じた記号学理論によっては正面切っては問題にされていないことであるが、意味によって我々は、関係付けてもいたということも思い出しておくべきだろう。しかしそれのみではないのである。我々は意味の問い、つまり「それは何を意味するのか」という問いから出発した。しかし、そもそも何故、どのような状況においてそうした問いが発せられるのだろう。次に検討するべきはこれである。
「意味」はなぜ問われるのか。もちろんそれは「意味」がわからないからである。しかし意味がわからないというのはどういう事態を指しているのだろう。あるいは「その意味がわからない」と語ることによって、我々は何を言おうとしているのであろう。我々が「その意味がわからない」と語り、「その意味はなにか?」あるいは「それは何か?」と問うとき、我々はもちろん「それには意味があるはずだ」あるいは「それは何かであるはずだ」と考えてもいる。しかしこの「意味のあるなし」が問題になっている状況というのは、どのような状況なのであろうか。
これは我々には充分馴染深い状況ではあるが、かといって、我々がいつもいつも直面しているといった状況でもない。私の視野の片隅にひとつのコーヒーカップが見えている。それは私の乱雑な机の上で、周囲のさまざまな物に混じって、他人がそれをどう見るにせよ、それらとしっくりした関係をとり結んでいる。それは単に「ひとつのコーヒーカップ」である。私はそれに対して、「それは何か?」とか「その意味はなにか?」などと問うてみたりしない。それは私がその「意味」を知っているからだ、と哲学者なら指摘することであろう。しかしそもそも私は、私がおかれているこの状況を、「意味のあるなし」というかたちで、つまり「意味」という言葉「によって」語ろうという気にはなっていないのである。
しかしある時、私はそのコーヒーカップが妙に気にかかる。それはただのコーヒーカップではない。それは何か。それは「ある人からのプレゼント」であった。私は不履行のままに過ぎたその人との約束を思い出す。
あるいは哲学者がこっそりと私に教えてくれる。それは「無機質の物体」でもある、あるいはそれは一つの「射映像」でもある、という訳である。なるほど、と私は納得する。それはただのコーヒーカップではない。それは何か。それは例えば、「無機質の物体」あるいは「射映像」であったのだ。しかし、この哲学者はあわてて、私を訂正する。いやそうではなくて、あなたの見ているのは「ひとつの射映像」なのですが、それを単なる射映像としてではなく、あなたは「ひとつのコーヒーカップ」として見ているというのが正しい言い方です。「コーヒーカップ」というのはその「射映像」にあなたが与えた意味なのです。こうした形で世界は意味に満ちあふれているのです。私はすっかり感心してしまうことになる。この哲学者は有無を言わさず、私を「意味のあるなし」が問題になる状況に引きこんだわけであるが、それが若干倒錯したやり方でであることを認めないわけにはいかない。
ある物がただそこにあるという状況、何かがある物として与えられているという状況は、哲学者なら上述のしかたでそれを意味が問題になる状況に作り変えてしまうであろうけれど、例えばただのコーヒーカップがそこにあるという場合のように、それは通常は「意味」が問題になるような状況ではない。単にそれはコーヒーカップであって、それをさらに「それは何か」とか「それは何を意味するか」などと問うてみる必要はないのである。そうした問いが問題になるのは、それが単なるコーヒーカップではないと私が気付いたときである。例えば、それはある人物と私を関係付けるような特殊な関係性のなかにとらえられる。それは相変らずコーヒーカップでもあるのだが、この新しい関係性の事実がそれを単なるコーヒーカップではなくする。それは何か。私はそれをこの新しい関係性に即して「ある人からのプレゼント」であるととらえる。この瞬間それは異なる二種類の関係性を生きていることになる。
私がコーヒーを飲んでいるところに、妻が入ってくる。彼女はめざとく問いただす。「それは何?」「ただのコーヒーカップさ。」「そんなことわかってるわよ。私が聞きたいのは、それが何かっていうこと。」彼女は「意味」の問いを発しているのである。私は答える。「Aさんからのプレゼントだよ。」こう答えることをつうじて、私は妻の意味の問いに対して、「それ」をAさんと関係付けつつ、「Aさんからのプレゼント」という言葉に置き換えてみせたのである。彼女はなぜ問うたのであろうか。彼女はそのコーヒーカップのなかに、それをただの「コーヒーカップ」としてとらえさせる関係性から逸脱するなにかを見てとった。それをその他のただのコーヒーカップに等置することを許さない、そのコーヒーカップのみがおかれている特別な関係性に気付いたとき、彼女の意味の問いは発せられたのである。
ある有名な芸術家が、あるとき手術台のうえにミシンとこうもり傘を並べて、それを作品として展示したことがあった。誰もが、例えばこうもり傘を指差して「それはいったい何を意味しているのだろう」と問うことになる。しかしそもそも私たちは何故そんな問いを発する気にさせられるのだろう。それはもちろんこうもり傘である。もしそれが傘立てのなかに置かれてあったとしたら、誰も、それは何か、それは何を意味しているかと問うたりはしない。しかしそれは今や、ミシンや手術台、それを作品として提示した芸術家、さらには美術作品なるものなどと関係付けられてある何かである。まさにこの関係性の故に、それは単なる「こうもり傘」以上、以外の何かとして我々の前に現れている。それをその他のただの「こうもり傘」に等置することを許さない、このこうもり傘のみが置かれているこの特別な関係性の事実が、我々に意味の問いを発せさせるのである。先程のコーヒーカップの例との唯一の違いは、この場合には、誰もこの新しい関係性に即して、このこうもり傘をしかじかのものに関係付けつつ、何かと置き換えてみせることなどできないだろうという点だけである。我々はこの珍奇な関係性に即してそれを語るべき言葉など持ちあわせていない。かくして意味の問いは答えを与えられないまま、宙ずりにされてしまうが、にもかかわらず、我々はけっして満足させられない問いをひきずったまま、「それは意味ありげである」などと語るのである。
我々は既に、意味の問いが関係付けること、置き換えること、あるいは関係付けつつ置き換えることを求める問いであることを見てきた。そしてこの問い自体は、あるものが、それをそれとして捉えさせる関係性以上、以外の関係性のなかに置かれていることが気付かれたとき、この独自の関係性のなかで、単にそれ以上、以外の何かであるかのように与えられているときに発せられるのである。我々が「それは意味ありげである」とか「その意味がわからない」といった形で、意味のあるなしを問題にする際の賭金は、何か理念的あるいは実体的なものとしてとらえられた、それがもつところの「意味」などではなく、こうした関係性そのものなのだ。
パースが記号過程の例としてあげた「ひとりの黒人の将軍」の例に戻ってみよう。パースによると、それはまず「ひとつの黒いもの」であった。次いで「それは何か」と問われる。そしてそれは「ひとりの人間」であったということになる。しかしなぜそもそも「それは何か」と問うたりする必要があったのだろう。それは図と地の関係において「ひとつのもの」であり、さらに周囲のものとの色彩の差異、対立の関係のなかでとらえられるとき「ひとつの黒いもの」であった。もしそれを「ひとつの黒いもの」として捉えさせるこうした関係以外のなにも含まれていなかったとすれば、それは結局ただの「ひとつの黒いもの」であり、それ以上、以外の何ものでもなく、「それは何か」と問うたりする必要もなかったはずである。実際には、それが置かれている関係性はこうした形では閉じておらず、「ひとつの黒いもの」という記号による代置によっては示されない関係性を含んでいたのである。かくして「それは何か」と問われ、それを「ひとりの人間」と置き換えることを通じて、「ひとつの黒いもの」によっては示されなかった関係性の一部が開示されることになる。この置き換えによって、それが「ひとつの黒いもの」であることをやめたわけではないが、それは今や、生物/無生物、人間/他の動物などといった対立の関係のなかでも同時にとらえられている。解釈項は記号の対象を、その都度新たに関係付けつつ置き換えているのである。
私がある男のある行為を目撃している。それは「両腕に力をこめる」行為である。しかしそれは「紐の両端を引張る」行為でもある。紐との関係においては、それはまさに紐の両端を引張る行為でしかない。しかしそれは「首を絞める」行為でもある。今やその行為は絞められている首との関係においてそうした姿であらわれているのだ。それは「殺人」の行為でもある。今やその行為の結果との関係で見られているのである。さらにそれは「復讐する」行為でもある。この男の父親が相手に殺されたという過去の事実との関係においては、それは「復讐」以外の何ものでもない。個々の記述は別の記述に対し、その都度新たな関係付けを示しつつ、それを置き換えているのである。
「両腕に力をこめる」行為は単なる「両腕に力をこめる」行為ではなく、それ以上、以外のあるもの「紐の両端を引張る」行為であり、それはまた単なる「紐の両端を引張る」行為ではなく、それ以上、以外のなにか「首を絞める」行為であり、こうして続いて行き、「殺人」は単なる殺人ではなく、それ以上、以外のあるもの「復讐する」行為でもあったということになる。この系列は行為とその目的がかたちづくる系列と見ることも可能であるが、この場合「目的」といっても、ある行為の結果得られる、それとは別の何かではない。例えば、復讐は殺人という行為の結果得られる、それとは別の何かであるというよりは、殺人することが、この場合すなわち復讐することでもあるという点に注意せねばならない。これらはすべて、異なる関係のもとでとらえられた、ある意味では「同じ」行為の見せる異なる姿なのである。こうした系列を構成する項どうしのあいだの関係は意味の関係として語られうるし、実際そのとおりである。パースならそれを記号と解釈項の関係として問題にすることであろう。「その殺人にはどういう意味があるの?」「それは復讐を意味している。」といった具合である。
あるものの意味を問う問いは、それを他の何かと関係付け、あるいは置き換え、あるいは関係付けつつ置き換えることを求める問いだと言った。しかし、今や、これらがすべて結局は同じことであったことがわかる。置き換えることは、同時にいつも関係付けること、関係を示すことであり、また関係付けつつ置き換えることでもあったのである。あるものの意味を問う際に問題になっているのは、実はそれが置かれている関係性だったのだとわかる。あるものの意味が問題になる際、つまり「意味のあるなし」を我々が問題にしようとする状況では、それは少なくとも二つの異なる関係性を生きている。それはすでに一つの関係性のなかで「それ」として現れている。しかし同時にそれは、その関係性とは別の一つの関係性のなかにも置かれている。意味の問いは、置き換えによってこの別の関係性を示してくれるようにと、求める問いだったのである。
ところで、コーヒーカップを前にした私に、「意味」の秘密をそっと耳うちしてくれた先の哲学者は、いったい何をしていたのだろうか。私にとっては、それはただのコーヒーカップであり、私はそもそも意味の有無を問題にするつもりになどなっていなかった。それはそれをコーヒーカップとする特定の関係性のなかに安住して、馴染深いコーヒーカップの姿でそこにあったのである。しかしこの哲学者は、それを強引に「無機質の物体」あるいは「射映像」に置き換えてみせることによって、それをコーヒーカップとして出現させる関係性にとっては異質な関係性を示し、そのもとでそれが示す姿を示してみせてくれたのである。よく考えてみると、確かにそれはただの「無機質の物体」にすぎないとも言えるし、私の目に映る「射映像」にすぎないとも言える。私はすっかり感心させられてしまう。その対象の示す相貌がすっかり変わってしまったのである。こうしてそれは今や二つの異なる関係性のなかを同時に生きはじめる。それは「意味」の問題がまさに問題になりうるような状況である。こうして私は「コーヒーカップ」というのが、私の前にある単なる「無機質の物体」「射映像」に与えられた「意味」なのだと納得させられるということになる。しかしこの両者は、異なる関係性のなかで捉えられた、ある意味では「同一」のそれが示す異なる二つの姿、微妙に違う二つの相貌にすぎないのである。
広松氏の言葉を使えば、両者はともに「所識態」である。私はこれを、あるものがある関係性のなかでそれとして現われる仕方と規定しておこう。意味するもの−意味されるもの、所与−所識などの関係は、このような二つの所識のあいだに後から哲学者が設定してみせる二次的な関係にすぎないとも言える。これを第一次的な関係、基本的な事態と錯覚する点に、多くの意味「についての」言説が陥っている倒錯の原因が認められるだろう。
読者はすでに私の議論の遅々たる進みにしびれをきらして、また私があくまで意味「による」語りに執着するのにうんざりしていることだろう。我々が日常において「意味」という言葉を用いて、何について語っているかを検討するのもよいだろう。しかし、それは結局のところ、我々が「意味」とは何かを考えもせず、無反省にその言葉を使っているさまざまな事例を示すだけのことにすぎない。君は事物や出来事の意味がどのように問題にされ、それにどのように答えられるかを扱ってきた。しかしコーヒーカップであれ殺人であれ、それらが置かれている、君の言うところの関係性は、それらがそれとして語られることによって、つまり言葉をそこに持ち込むことによって示されているではないか。君は言葉の「意味」と、そうした言葉によって汲み出すことのできる対象の「意味」を混同しているのではないだろうか。しかしそもそも言葉に意味があるということが問題なのである。この問題を君はどう考えるのか、という訳である。前節までの議論にはまだ多くの問題が残されているが、ここで一旦立ち止って、「言葉の意味」の問題に言及しておくことにしたい。
もっとも我々は、言葉の意味について語られるある仕方について、既に検討している。ヤコブソンにせよ、彼がその意味の観念を借りてきたとされるパースにせよ、彼らの意味の概念は、我々が「意味」という言葉によっておこなう語りの特定の特徴に基いたものと考えることができた。それは、置き換えと、置き換えの根拠として語られる「意味」の観念である。Aという記号がBという記号に置き換え翻訳されるとき、我々は、AはBを意味すると語ったりするが、それと同時に、AはBと同じ意味をもつ、つまりBはAの意味を換えないように言い換えたものであるといった具合に語りもする。こうした二とおりの「意味によってなされる」語りに根拠をおく意味の概念である。しかし我々は、これらとは異なる伝統の中から提出されたもう一つの意味の観念を知っている。それはパースとならんで、今日記号学と呼ばれている分野のもう一人の創始者とみなされているフェルディナン・ド・ソシュールによる「所記」あるいは「価値」の概念である。以下では丸山圭三郎によるソシュール研究にもとづいて、これらの概念を紹介し、それらを簡単に検討してみたい。
丸山氏によると、ソシュールがまず第一に否定しようとしたのは、「言語名称目録観」つまり言語記号を、その外部に自存する対象なり概念なりを代行、再現する記号であるとみる立場であった。
「心理的に言語を捨象して得られる観念とは何であろうか。そのようなものはたぶん存在しない。あるいは存在しても、無定形と呼べる形のもとでしかない。我々はおそらく、言語の助けを借りずには二つの観念を識別する手段をもたないだろう。(......) 次のようなものは存在しないのだ。
(a) 他の諸観念に対して、あらかじめできあがっていて、まったく別物であるような観念。
(b) このような観念に対応する記号。
そうではなくて、言語記号が登場する以前の思考には、何一つとして明瞭に識別されるものはない。」(断章 1821 〜1824 丸山 1981:120 )
しかし同時に、それが言語記号である限りにおいて、同時に分明な概念でもないようなただの音あるいは聴覚映像としての言語記号などもありえない。「シーニュというものはは一連の音節などではなく、それらの音節が一定の意味を担う限りにおいて構成される二重の存在でもある。」( 断章: 1834 丸山 1984: 190) 「いかなる場合にも、arbor がシーニュと呼ばれるのは、それが概念を担っている限りにおいてでしか絶対にありえないのだ。そこに解決すべき用語上のポイントがある。」(断章:1112-1114 丸山 1984: 190) あきらかにソシュールは、ヤコブソンがきわめて唐突なやり方で切り捨ててみせた一つの西洋的伝統のなかで語っている。言語記号がある意味では単なる音にすぎないという事実に覚醒し、この覚醒をてこにして、概念、観念、意味を言語記号の外部に押しやり、そこで自存する何かとして、単なる音でもある言語記号と事後的に関係を結ばせようとする、記号学の長い西洋的伝統のなかにあって、ソシュールはその伝統に必死に抗して語ろうとしているのである。
相互に区別可能な概念は言語記号とともにしか存在しない。また同時に概念ででもないような言語記号は存在しない。かくして言語記号はソシュールにとって、同時に概念でもあるような音、<音−観念>、表現と意味とを同時にそなえた二重の存在、「聴覚映像」であると同時に「概念」であるような存在、「意味するもの」であると同時に「意味されるもの」であるような存在などとして捉えられることになる。彼はその表現面をシニフィアン(能記)と呼び、その内容面をシニフィエ(所記)と呼ぶ。両者は分離不可能なものである。「第一の秩序である音と、第二の秩序である意味を選り分けることができるなどと考えることは大いなる幻想である。」( 断章:3303 丸山 1984: 191-2)
しかし一方で分離不可能性を強調しながら、なおそれを関係の二つの項として語ろうとする語り口に矛盾はないのだろうか。ましてや、ソシュールが両者の関係を「恣意的」と規定するとき、我々の当惑は大きい。そもそも分離不可能なものが互いに「恣意的」であれ何であれ、何らかの関係にたっていたりもするなどということが、いったいありうるのだろうか。このように語ることにおいて、ソシュールは自らが厳しく拒む抽象、西洋における「意味について」の言説の伝統に、彼自身身を委ねてしまっているのである。少なくとも、彼が禁じる「抽象」によらずしては、言葉を「二つの」側面をもった存在として捉えることすらできないはずではないか。ともあれ、ソシュールが単なる音あるいは聴覚映像と、それに対する概念あるいは意味という把握が、不自然な「抽象」によらずしては不可能であり、しかもそうした抽象を行なった瞬間、そこには当の言語記号が見失われてしまうのだ、という認識に到達していた事実は認めておかねばならない。「両者の一方だけを、一方の部分だけをとらえるとしたら、すでに言語の単位を偽造したことになる。その場合には一つの抽象を行なったのであり、もはや我々の目前にあるものは具体的対象ではなくなっているのだ。言語記号内で結びつけられているものを分離してはならない。」( 断章:1690 丸山 ibid.)
言語記号を分離不可能な二つの側面の結合としてとらえるソシュールの言語記号の本質についての理解が、一方で両者を分離させる抽象を禁じておきながら、「二つの側面」という形で、一旦は禁じておいた抽象を我々に余儀なくさせているという点で、仮りに不充分な点を含んでいるにせよ、それに続いて彼が展開した「体系性」と「価値」をめぐる見解は、記号の意味についての言説の真の突破口となる可能性を秘めたものであった。
それは上のような形でとらえられた個々の言語記号が、実はそれ自体として自立的に存在するものではなく、それ自身、一種の関係の産物に過ぎないという視点である。「ある語の価値は、共存するいくつかの辞項の協力によってしか決定されないであろう。その語の境界を確定するのは、他の諸記号の共存なのである。」( 断章:1847 丸山 ibid.:196) 例えば、フランス語の mouton と英語の sheepは同じものではない。食卓上の mouton を語るときには、 sheep のかわりに mutton と言わねばならないからである。「sheep と mouton の間にみられる価値の相違は、英語には sheep のかたわらに第二の辞項があり、フランス語にはそれがないという点からくるのである。」( 丸山 1981:320)
しかし、ここで問題とされている「価値」が、シーニュにおけるシニフィアン=聴覚映像とシニフィエ=意味、概念、意義の二面性に関する議論とどのような関係にあるのかは、ソシュール自身のなかにあっても必ずしも明確ではない。少なくとも「価値」はシニフィエそのもののことではない。ソシュールは、「価値は、意義ではない」と明言し、「価値はまさしく意味を生み出す源である」と語っているのである( 丸山 1981: 327 )。このように価値と区別されるところの意味について語るとき、その「意味」はヤコブソンやパースの記号学を動機付けていた意味の観念に、いささか似かよったものになっている。というのは、この文脈においてのみ、いささか唐突にソシュールは「交換」の概念をもち出してくるのである。「ある語の意義は、交換可能なものだけを考慮に入れている限り、なかなか決定することはできないだろう。それと比較しうるいくつかの語の、同じような系列に目を向けなければならない。」( ibid.:322 ) 後半は価値に言及している。しかし、前半の「意義」に関連付けられるところの「交換」とはいったい何なのだろうか。そこに見られる「意味」の概念は、交換すなわち置き換えと、それを根拠付けるものとしての意味以外の何ものでもない。
ソシュールの原資料を詳細に読み込み、ここでの「意義」あるいは意味を「価値」の実現、具体化としてとらえてみせた丸山氏において、それは一層明確に見てとれる。彼は言う。「フランス語の airのもつ<価値>は、文脈次第で、「空気」、「曲」、「様子」という複数の<意義>に具体化されることができる。」(ibid.:339 ) air はそれぞれ「空気」、「曲」、「様子」などといった日本語の言葉に置き換えられるという訳である。とすると、air の「意義」はこうした置き換えそのものとは言わないまでも、それを根拠付ける何かなのだ。こうした置き換えを可能にする何かとして想定された「意義」は、うっかりするとさらには、それ自体として比較されたり同定されたりできさえする何かになってしまいかねない。価値は違っていても「同じ」意義をもつ、などと語られ始めるのである。「『羊の毛を刈る tondre un mouton 』という連辞のなかでたまたま実現された mouton の<意義>が英語の sheepと同じであり、『羊の肉を食べる manger du mouton 』という連辞のなかでたまたま実現された mouton の<意義>が英語の mutton と同じ」( ibid.:340 ) でありうるという訳である。しかし、それ自体を取り出して独立に比較したりできるような概念などないというのが、ソシュールの出発点ではなかったのだろうか。こうした自存する何かを再び見い出すことは、言葉を関係性の産物として捉える視点にとっては、確かに痛手であるはずだ。言語記号を二面的存在としてとらえる視点は、それを関係性の産物としてとらえる視点にとって、危険なものになりうるのである。
もちろんソシュールの強調点は、いまや完全に「価値」のほうに移っている。そしてそこにこそ彼の革命の真に革命的な部分がある。あらゆる辞項は、共存する他の諸辞項によってその境界を決定される。そしてあらゆる辞項がその存在を、自分自身に本来そなわっている何かに負うているのではなく、他の辞項の共存に負うているのだとすれば、結局辞項とは、対立という形で組織された差異の織りなす関係の網の目のなかの個々のポジションにすぎない。言葉とは、言語という自立体系の中で占めている位置にすぎないのだ。かくして「厳密に言うと、シーニュがあるのではなくシーニュ間の<差異>があるだけ」( 断章: 1911 丸山 1984:212)だということになり、「aとかbという辞項は、そのままでは意識の領域に達することができず、意識が知覚するのは常にaとbの間の差異でしかない」( 断章: 1903 ibid.:213 )ということにもなる。
この見解の革命性はいくら強調してもしすぎということはあるまい。しかし同時に我々は、こう述べることによってソシュールが、とうてい受け入れ難い一つの極端な立場へと突き進んでいったのを確認することができる。確かに、他の辞項との一切の関係に依存しない自存的な辞項などというものを考えることはできない。しかし同時に、そもそも何かと何かの関係でないような関係、何かと何かのあいだにあるものだとは言えないような差異などというものも、同様に考えることができないのである。我々がとらえるいかなる辞項も、常に、何らかの関係のなかでとらえられた辞項でしかないが、同時に関係も、そうした関係のなかでとらえられた、つまり関係性をいわば「受肉」した、何らかの辞項どうしの関係として以外にはとらえようがないはずなのである。この点を考慮するとき、言葉とは一体何なのかを、より明確に示すことができるだろう。それは自ら相互の関係として、それが置かれているところの関係性を示し、同時に、そうした関係性に規定され、それによって存在させられてあるような何かだということになる。
私は前節において、我々が経験するあらゆるもの、あらゆることが、こうしたものでありうると示唆しておいた。何かが何かであるのは、それをそれにするところの関係性のなかでそれがとらえられている限りにおいてでしかないという事実である。ある男の振舞いを「復讐」にしているのは、あるいは我々が「復讐」という言葉をそれにあててみる以前に、我々のなかに「やったね!」とあるいは「そうまでしなくても!」といった思いをおこさせるような相貌をもつ何かにしているのは、それを例えば相手の男の非道な過去の振舞いと関係付け、「無差別殺人」や「物盗り目あて」などの相貌をもった別のものと区別させるところの関係性そのものである。「復讐」とはこうした関係性のなかにおいて見てとられたその振舞いの相貌に他ならない。逆にそれが置かれている関係性は、それが示すこうした相貌のなかに見てとられるのである。
ソシュールの言うところに従えば、我々の経験に与えられる言葉についても同じことだったのだということになる。言葉をまさに我々が経験するところの言葉ならしめているのは、それが置かれている関係性、連辞的、範辞的な関係そのものに他ならない。言葉とはこうした関係性のなかでとらえられた限りでの存在、関係性のなかでそれがそれであるところの何かなのである。しかしこの事実は、それのみをとると、けっして言葉をソシュールが言うような二重の存在にするものではない。「復讐」が単に「復讐」として、「復讐」以外の何ものでもないものとして与えられているように、あるいはコーヒーカップが単にコーヒーカップとして現われているように、言葉は単に言葉として現われている。我々が日常つきあっている限りにおいては、「イヌ」という言葉は単に「イヌ」という言葉なのであって、それ以上のものでも以下のものでもない。「意味について」語ろうとする哲学者は、言葉には「意味」があるというけれども、言葉との普段のつきあいにおいて、我々は「意味のあるなし」を問題にすることはめったにない。それはコーヒーカップとの普段のつきあいにおいて、それは何か、とかその意味は、といったことを問題にする気になっていないのと同様である。ちょうど我々が、コーヒーカップをそれをコーヒーカップとしているところの関係性のなかで単にコーヒーカップとして経験し、けっして、「無機質の物体」あるいは単なる「射映像」とその意味であるところの「コーヒーカップ」という二重の存在としては経験していないように、言葉も、それが言葉である限りにおいてはけっして二重の存在であったりはしない。
コーヒーカップを前にしている私の耳元で、「それは単なる射映像でもあるのですよ」と哲学者がささやきかける。私はそれをコーヒーカップとしているところの関係性から無理矢理引きずり出され、それを「射映像」とするところの関係性のなかでそれをとらえるよう誘われる。その瞬間それはコーヒーカップではなくなってしまう。異なる関係性のなかで現われた二つの異なる相貌を前にして、私はいまや「意味」を問題にする気にさせられている。言葉において「意味」が哲学的に問題になってくるのも、実は同じ状況、人為的に引き起こされた同じ状況においてなのだ。「それは単なる音ででもある」と気付かされた瞬間、言葉はそれが本来そうでなかった二重の存在となる。私は当の言葉をその言葉にしているところの関係性から、無理矢理引きずり出され、それを単なる音声とするところの関係性のなかでそれをとらえるように強いられる。さまざまな物音や音声のおりなす差異の関係のなかで、あるいは言語学者が音韻体系として取り出してみせる対立の関係のなかで、見られたとき、それは確かに「単なる音」などとして現われてくる。しかしそのとき、実はそれはもはや言葉ではなくなっているのだ。
言葉を「音声」として経験するとき、私はもはやそれを言葉としては経験していない。ある人の発話を「音声」の事実にもっぱら注意を払って聞いているとき、しばしば彼が何を話していたのかがわからなくなるという経験は、誰にでもある。印刷された活字の形に注意を向けすぎると、まさに字面のみを追って、その内容が頭に入ってこなかったりする経験も多い。そのときそれは言葉ではなくなっているのである。我々は、それをまさにその言葉とするところの関係性とは別の関係性のなかで、それを単なるしかじかの「音声」や「紙のうえのインクの模様」にするところの関係性のなかでそれを経験しているのだ。逆に言葉を言葉として経験しているとき、我々はそれをけっして単なる「音声」、「紙の上のインクの模様」としては経験していない。我々が「イヌ」という言葉を聞いているとき、我々はけっして「イヌ」という音声を聞いているのではない。単に「イヌ」という言葉を聞いているのである。
二重の存在である言葉の二つの側面シニフィアンとシニフィエを分離する抽象についてソシュールは語った。しかし実際に分離できるのは、その音声的側面だけなのだと気付くことは重要である。言葉を単に音声として経験することはできる。初めて耳にする外国語の例を考えてみればよい。しかし概念の側面だけを分離することなど、どんな抽象によってもできるわけがない。自分が何をしているのかについて少しでも注意深くありさえすれば、それができたと人が主張している際にも、実際には彼はせいぜいそれを別の言葉に置き換えてみせているだけのことなのだ、と気付くことができるはずである。分離しているのは、実は「音声」としてみられたそれと、当の言葉そのものだけなのである。
二つの異なる関係性のなかに置いてみられた、それが示す二つの異なる相貌を我々は前にしている。一つは「音声」、ひとつは当の言葉そのもの。それらは、異なる関係性のなかでとらえられた二つの所識態にすぎないのである。今やそれらが事後的に関係付けられ、それを言語学者は、「意味」の関係として語ってみせてくれる。実はこの場合「意味」とは言葉そのもの、それを「イヌ」なら「イヌ」という言葉にしているところの関係性のなかに置かれた言葉そのもののことだったのだ。もし「意味」という言葉をこの文脈で使い続けたいのなら、「言葉が意味である」というのが正しい。「言葉に意味がある」という言い方は、コーヒーカップの場合にみられたのと同様の倒錯、記号論的倒錯のもたらした産物にすぎないのである。
あるものをそれとして、さまざまな所識態として経験させるところの関係性が問題なのだ。ソシュールは彼の言語記号をめぐる第二の視点を展開する際に、まさにこの真に問題とすべき問題に接近している。しかし彼をつなぎ止めている、記号論的錯視の伝統が彼のさらなる歩みを妨げているのである。
「意味とは何か?」あるいは「意味とはどういう意味か?」という問いは奇妙な問いである。それは「意味」という言葉の正しい使用をすでに前提としたうえで成立する問いだからだ。「意味について」の言説は、この奇妙な問いの周囲に組織された言説である。私はこの言説は、「意味による」語り、つまり意味という言葉を用いて組織されている語りの検討を通じて、最終的には廃棄されるべきものと考えている。実際それは実に単純なことだったのだ。意味による語りの示してくれるものをまとめると次のようになる。
あらゆる物、ことは、つねに何からの関係性のなかにおいてとらえられたそれでしかない。それは常に何らかの相貌をもって我々にあたえられている。それが関係性のなかでとらえられたそれの姿なのである。それは、言葉によって置き換えうるような何かであるかもしれない。ソシュールの説がよく示しているように、言葉はその存在をとりわけ自らがおかれた関係性のみに負っている存在であり、まさにこの特性のゆえに、自らの相貌のうちに関係性を示し、あるものについて語ることによって、まさにそのものの置かれている関係性とそこでそれがとる姿を明るみに出すことができるのである。語ること to relateは関係付けること to relate でもあるのだ。かくして私の目の前にあるそれは、コーヒーカップとして語られ、コーヒーカップとして私の目の前にある。それはそれ以外、以上の何ものでもなく、そして、そこにおいては「意味」が問題となることはけっしてない。
しかし人はあるもののうちに、それをそれとする、そして何らかの言葉によって置き換えることによって示しうる関係性とは異なる、別の関係性を見てとることがある。手術台の上で、ミシンとともに提示された「こうもり傘」は、それを「こうもり傘」とし、またそう語られることによっては汲み尽せない関係性のなかに見てとられている。それがこの関係性のなかで示す相貌は、単なる「こうもり傘」のそれではない。このとき我々は「それは意味ありげである」「その意味がわからない」と語り、「それは何か?」、「それは何を意味するのか?」という意味の問いを発する。我々はそれが置かれた関係性そのものを問うているのだ。あるいは我々はある聞き慣れない言葉を耳にする。それは言葉であり、その限りにおいて何らかの関係性のなかで見てとられているが、私はそれを確信することができない。それは意味ありげである。つまりそれは言葉なのだ。しかしその意味がわからない。こう我々は語る。そして意味の問いを発する。我々はやはり関係性を問うているのだ。これらの問いは、従って、それを他の何かに関係付け、あるいは別の言葉に置き換えることによって、関係を示すことによって答えられる。今や、それはこうして示された新しい関係性のなかで異なる相貌、姿をとって現われている。我々はこれを、かつてそれがそれであったものの「意味」であると語るのである。
ある男が右手を上げる。それは、他の身体動作との関連においてのみ見られているならば、まさに「右手を上げる」行為である。それ以上のものでもそれ以下のものでもない。しかし別の観察者は、それを最初から別の関係のなかで見ている。それは例えば「発言を求める」行為である。この観察者にとっては、それはそれ以上のものでも以下のものでもない。しかしこの二つの関係性に同時に気付かされたとき、この観察者は、ある意味では、つまりある関係性のなかでは、「右手を上げる」行為でもあるところの「発言を求める」行為を見ていることになる。彼は実は、二つの関係性を行き来しているのである。彼は今や「この男の右手を上げる行為は、発言を求める行為である」あるいは「発言を求めることを意味している」などと語り始めるかもしれない。彼は、それを「右手を上げる」行為としてしか、それをそれにする関係性のなかでしか見ていない人に対して、その行為が置かれている別の新しい関係性に気付かせようとしているのである。
従って「意味とは何か?」という問いは、実は空しい問いなのだ。というのは意味とはけっして「何か」ではないからである。それは何かが置かれているところの関係性の複数性が問題にされ、それが問われ、答えられる際に展開される一連の言説をそれによって組織するところの言葉である。それは通常の名辞の多くとは異なり、「何か」に言及する言葉ではなく、こうした言葉によって言及されうる「何か」どうしの独特な関係について、二つの独特な仕方で関係しあう所識態相互の関係について、語る言葉なのである。それは「何か」そのものに言及する通常の名辞とは異なる論理階型に属する言葉である。
独特な仕方で、と私は語った。同一であると同時に異なったものであるところの「何か」と「何か」の関係という意味で、それは独特である。「右手を上げる」行為ととらえられようと、「発言を求める」行為ととらえられようと、それらは同じ一つの行為であるという意味で「同一」であり、「右手を上げる」行為として現れているそれと「発言を求める」行為として現れているそれは同じではないという意味で異なっている。確かに、これは更なる検討を加えるべき問題ではあるが、だからといってそれを必要以上に謎めいたものととってはならない。それが置かれている関係性の複数性が、同一性の根拠を保ったまま、その都度それを異なる「何か」として出現させているのである。そしてこれこそが、「意味」によって語られる状況なのである。パースが変貌する「対象」を好んで持ち出す際に問題にしていたのも、まさにこの状況だったのだ。パースはこうした性格をときとして示す「対象」なるものを、記号と解釈項の転移をその都度根拠付ける第三項として立てようとした。しかし、それは項として立てるにはふさわしくないものだったのだ。記号とその解釈項の転移を根拠付けるもの、それは異なる相貌をもって立ち現われるが同時に同一性の根拠を保持している奇妙な何かではなく、我々が常日頃「意味」という言葉「によって」語るところの、そうした何かが置かれている関係性相互のあいだに成立している同一性と差異の関係そのものだったのだから。
意味「についての」言説、「意味」を通常の名辞がそれについて語るような「何か」としてとらえようとする言説は、関係性の特性にすぎないものを、そうした関係性のなかに立ち現れる「何か」に帰属する何かとしてとらえてしまうという陥穽に落ち込んでしまう危険を犯している。あるものが、それが置かれている二つの関係性のなかで、各々「右手を上げる」行為、「発言を求める」行為として立ち現われているとき、こうした言説は、これを「右手を上げる」という行為に「発言を求める」という「意味」がはりついたものであるかのようにとらえてしまう。「発言を求める」行為という、しかじかの関係性のなかで現われる所識態を「右手を上げる」という行為にそなわった、あるいはそれに「付与」された何かとしてとらえているのである。しかし別の関係性のもとでは、それは「しかじかの筋肉を伸縮させる」行為として現われる。そうなると今度は、「右手を上げる」ということ自体が「意味」であった、「しかじかの筋肉の伸縮」に付与された何かであったということになる。そろそろこうした不毛な言説から抜け出してもよいのではないだろうか。「意味」をこのように、何かに貼り付いた「何か」として語ろうとする限り、それは理念的な何かとして以外には語ることができないであろう。「対象」を記号過程を根拠付ける項として語ろうとした際にパースが、そしておそらくはフッサールも、陥った罠は、これだったのである。「意味」とは何かについて答えることは難しいと誰もが言う。あたりまえのことである。意味とは「何か」ではなかったのだから。「意味」という言葉そのものには何の難しさもない。我々は常日頃その言葉を難なく用いているのだから。それは関係性の複数性、あるいは「ゆらぎ」が問題になっている状況で、そうした問題を明るみに出し、それにけりをつけてしまおうとする言説を組織する言葉なのである。
意味は、あるものが置かれている関係性の複数性あるいは「ゆらぎ」を問題にする語りを組織する言葉である。あるものに「意味がある」と我々が感じるのは、それが置かれている関係性の複数性、ゆらぎに対する、我々の側での反応なのだと言ってもよい。かくして、「言葉に意味がある」と我々がもっとも鮮明に感じるのは、我々がその言葉を、それを言葉にするそれとは異なる関係性のなかで、同時に、単なる音声でもある何かとしてとらえるときである、ということになるのである。もっとも、言葉に意味があると言うとき、我々は必ずしも、それが単なる音声でもあることをことさら意識してはいない、と主張するむきもあろう。確かにそのとおりである。しかしそれは、言葉というものが、そもそも多かれ少なかれ、ずれやゆらぎを含んだ錯綜した関係性のなかにおいてとらえられた何かであるからに他ならない。こうした言葉のとる姿、関係性のなかで見てとられる相貌が、互いのずれやゆらぎを通して、その言葉のもつ「意味」として感じられ語られるのである。これを確認するためには、一切のずれやゆらぎを含まない一意的な関係性によってのみ規定された「言葉」がどのようなものであるかを考えてみればよい。数学者やある種の哲学者が永年にわたって希求してきたこうした言葉が、どのようなものであるかは、ヴィトゲンシュタインの初期の言語論のなかにはっきりと見てとることができる。
ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は、言語についてこれまで書かれたあらゆる書物のうちでも、最も魅惑的な書物の一つである。それは「理想的」な言語、世界の状態を一意的に、なんの曖昧性もなく、完全に自らのうちに写し出すような理想的な言語が成立するための条件と、そうした言語がどのようなものであるかについて語った書物であると、一応は言うことができよう。しかしそれを、日常的な言語とは異なる厳密な科学的言語を構築しようとする試みだと決めてかかることは誤りである。そうすることは、「哲学の正しい方法とは、(....)哲学となんのかかわりももたぬものしか語らぬこと」( ヴィトゲンシュタイン 1968 6.53) であると語り、「わたしを理解する読者は、わたくしの書物を通りぬけ、その上に立ち、それを見おろす高みに達したとき、ついにその無意味なことを悟るにいたる」(ibid. 6.54)と告げる彼の真意を、完全に誤解することになるだろう。『論考』を書いたヴィトゲンシュタインと、例えば『哲学探求』を書いた彼とが結局は同じヴィトゲンシュタインであるという事実を見逃すことになる。一方これに対して、『論考』を単に、そうした理想言語の不可能性を示そうとしたものだととらえるのも、これに劣らず誤った理解である。こうした理想言語の不可能性なら、そんなことは書く前からわかりきったことなのだ。彼が示しているのは、単にこうした「理想言語」がどのようなものであるのか、ということだけであり、まさにそこにこそこの『論考』の最も衝撃的な部分があるのである。そのエッセンスだけを示そう。
「理想的」な言語とはどのようなものであるはずか。これを「この世界」を過不足なく自らのなかに写しとる理想的な言語とはどのようなものかという形では、考えるわけにはいかない。ヴィトゲンシュタインによると、こうした理想的な言語が可能であるためには、そもそも「世界」そのものがある条件を満たしているような世界でなければならない。かくして、彼は世界について語るところから始める。
「事態は対象(事物、物)の結合である。(....)もし、ある物が事態のうちに現われることがありうるならば、事態のそのような可能性は、当の物の中にすでに予定されていたにちがいない。(.....) わたくしが対象を知るとき、わたくしはまた、それが事態の中に現われるすべての可能性を知る。(かような可能性のどれもが、対象の本質に属するに相違ない。)(.....) すべての対象が与えられたならば、それとともに、すべての可能な事態も与えられている。」(ibid. 2.01 〜2.0124) 事実とは、いくつかのこうした事態の成立に他ならず、世界はこうした事実の全体からなる。
有限個の対象の、前もって与えられているあらゆる可能な結びつきの総体が一気に与えられている。世界は成立した事態の全体、すなわちこの総体のなかで成立したしかじかの対象の結び付きの全体である。「言語」は、こうした世界の「映像」である。
「映像の中では、映像の要素が、対象に対応している。(.....) 映像はその要素が、一定の仕方でたがいに関係するところに、なりたつ。(.....) 映像の要素が一定の仕方でたがいに関係することは、事物がそれと同じ仕方でたがいに関係していることを表わす。(....)描写の形式とは、映像の要素がたがいに関係しあうのと同じ仕方で物がたがいに関係しあう、その可能性にほかならない。」(ibid. 2.13 〜2.151)
かくして我々は、世界の状態を、世界において成立している対象相互の関係を、自らの要素のあいだに見てとられる関係として正確に再現する「理想的」な言語を前にしていることになる。世界のあらゆる状態に、過不足なく、一対一で対応しているような言語である。名辞が対象を代理し、命題が、成立しうる個々の事態に対応する。
しかし、ここで奇妙な問題が発生する。ヴィトゲンシュタインは述べる。「対象は名ざしうるにすぎない。記号が対象の代理となる。わたくしはただ、対象に言及することができるだけで、対象自体をいい表わすことはできない。命題は、物のありかたをいうにとどまり、その物のなんであるかをいうことはできない。」(ibid. 3.211) 対象は記号によって代理されるが、「記号の中では表現されない」(ibid. 3.262) こう語ることによって、ヴィトゲンシュタインは、いったい何を言おうとしているのだろう。「名ざす、代理する、言及する」ということと、「言い表わす、表現する」ということを区別することによって、彼はいったい何を区別しようとしているのだろうか。ヴィトゲンシュタインは実在に正確に対応する、言わば透明な「言語」を構想してみせた。しかしその瞬間、彼は彼が構想する言語における名辞に、我々がごく普通に、言葉には「意味」がある、と語るような場合の「意味」が欠けていることに気付いたのである。この言語を構成する名辞においては「意味のあるなし」がそもそも問題にならないのだ。それは対象をまさに代理するが、けっして対象を「表現」したり、言い表わしたりしない。つまりそれは対象を「意味しない。」
もっと単純な例で考えたほうがわかりやすいかもしれない。仮りに我々が、二値的にしか外部の情報を受容できない三つの感覚器官のみをもった生物であったとしよう。この生物にとって、世界はわずか八つの異なる事態としてしか現れない。さてこの八つの事態に各々一つの記号(例えばA〜H)が対応していたとする。きわめて単純化された「理想言語」の状態であろう。しかしこのとき我々は、A〜Hの記号があまりにもきちんと世界に対応しているが故に、逆にA〜Hに、この対応の事実とは別に、ちょうど「イヌ」という言葉に現物の何かとの対応とは別にそれがそなえていると感じるような、「意味」を感じとる必要もないし、またできないはずだ。単に世界の各々の状態を代理するものとしてそれに対すだけでよいのである。我々は、A〜Hは世界の各々の状態に対応しているが、これらの記号は別にそれ自体としては意味をもっていない、と語るであろう。
あるいは私が、紙の上に並んだ複雑な模様を、一枚の暗号解読表をてがかりにして解読しているとしよう。この解読表は、模様の一つ一つを日本語の単語に一対一に正確に対応付けているとする。私はこれを手がかりにして、その暗号を読みといていくが、この過程で私はその模様の一つ一つに「意味」を認めたりはしていない。私はそれらを日本語の単語を代理するものとして扱ってはいるが、それを表現したり言い表わしたりしている何かとしては扱っていない。それらはそれ自体としては意味をもっていない、と私は語ることになる。
あるいはヴィトゲンシュタインの例により近づけて、たかだか有限個の対象が前もってその可能性の総体が知られているような仕方で結びついたものが、世界の異なる状態となっているような世界のなかで、その状態の各々を、やはり有限個の記号の同様な結びつきに対応させることのできる「情報処理機械」を考えてみよう。火災報知器のような機械がその最も単純な例となる。こうした自動機械が、我々がもっているような「意味の経験」をもっていないことはあきらかである。それは所詮機械にすぎないのだ。しかし、理想的な透明な言語が成立している世界において、我々が世界について行なうだろう語りは、こうした自動機械のすること以上のものではないはずだ。とすると、そこでは「意味の経験」も同様に存在しないことになる。何かを何かで代理させることが問題で、しかもそれだけが問題であるのであれば、「意味」のような何かをそこに介入させる必要など、そもそもないはずなのである。
私はこうした例を挙げながら、もどかしさを禁じることができない。我々の生きている世界がこうした世界ではないという、まさにその理由で、こうした世界に身を置いたと考えてそこから得られるだろう帰結について考えることが、我々にはおそろしく困難になっているのだ。ヴィトゲンシュタインは理想的な言語を構想することを通じて、この困難な作業をやってのけ、そうした世界に身を置いてみて、まさにそこには「意味の経験」が成立しないことに気付いたのである。これは一つの覚醒であった。
もちろんその後においてもヴィトゲンシュタインは「意義」や「意味」という言葉の使用をやめてしまった訳ではない。しかしそこでの「意義」とはフレーゲ流に、単に名辞の代理する対象のことにすぎない。名辞には「意義」があるが「意味」はないと彼は語る。そして「命題のみが意味をもつ。」(ibid. 3.3) しかし今や、「意味」は命題にそなわっている、我々がこの文には「意味」があるなどと言う場合のような、理念的な「何か」ではない。それは命題を構成する要素のあいだの関係、結びつきとして示された、事態を構成する対象のあいだの関係、結び付きにすぎない。その諸要素が関係付けられてあることによって示される関係付けそのもの、ヴィトゲンシュタインはこれを「意味」と呼んでいるのだ。かくしてまさしく「命題はその意味を示す」(ibid. 4.022) のである。この関係性、つまり「言語のうちにおのずと現われるもの、われわれはそれを言語によって表現することができない。命題は実在の論理的形式を悟らせる。命題はそれを示す。」(ibid. 4.212) しかし、「示すことができるものは、語るわけにはいかない。」(ibid. 4.1212)
語ることのなかに現われる、その語りの諸要素の関係としておのずと現われる関係性は、まさに語りを通じて示されるだけである。「意味」をこのような関係性としてとらえたとき、それは、それについて語りうるような「何か」ではなくなる。こうしてヴィトゲンシュタインは、その理想言語の構想の試みを通じて、意味をそれについて語りうる何かであると考える「意味についての言説」から自らを解放することに成功したのである。我々は、自らの諸要素の関係として示される関係性をまさにつくり上げるところの、語りそのもの、言葉の使用へとその関心を移していった後期ヴィトゲンシュタインの姿をここに見てとることができる。
私はヴィトゲンシュタインの研究家ではないので、『論考』のなかで成し遂げられたこの覚醒が、その後の『論考』の読者たち、あるいはヴィトゲンシュタイン研究家たちにどの程度まで共有されていたのかはしらない。しかしそれは彼にとってはどうでもよいことであっただろう。というのは、上の箇所に続けて彼は、珍しく興奮した調子で書いているのである。「記号言語においてすべてが適正となりさえすれば、われわれは正しい論理的把握をおこなっていることを感じる。いま、じじつわれわれにもこの感情がわかる。」(ibid. 4.1213)孤独な思索者としての最も幸福な瞬間を彼は経験したのである。
対象がとりむすぶ一意的な関係性によって構成された世界、そしてそうした世界に対応する名辞がとりむすぶ一意的な関係性によって組織された言語、こうしたところには「意味」として語られるような現象は成立しない。そして語りは、自らを構成する諸要素の関係として、世界を構成する諸要素がどのように関係付けられているかを示すものである。これが『論考』が我々に突きつける結論である。とすると「意味」として語られる現象を我々が経験しているということは、我々の世界がこうした一意的な関係性によって組織された世界ではなく、そこでは対象はつねに複数化しゆらぐ関係性のなかでとらえられた限りでの対象でしかなく、そして言葉はこうしたゆらぎつつある関係性をその都度自らの関係性として示すべく、それ自身ゆらぎつつある存在であるということである。「意味」とはこうした関係性のゆらぎ、複数性に対して持ち出され、それを問題にする語りを組織する言葉だったのだ。
近年、記号学者のなかには情報理論のモデルを借用して、それによって意味について語ろうとする人々がいるが、これ程倒錯した企ては、およそ考えることができない。というのも情報理論があつかっているのは、ヴィトゲンシュタインが構想した理想言語の状況そのものだからである。ある素材のなかで確定される差異が、別の素材のなかの差異に変換される。この両者の対応関係を問題にするのが情報理論である。こうした変換によって相互に転写され、従ってそれ自身は変化することなく保存されるような関係性、差異や対立が問題なのだ。コードとはそうした対応付けを与える規則である。そこにはそれ自身で「何か」であるような「意味」などというものの入り込む余地などないのである。しかしこれらの記号学者は、コードによって記号と意味が対応付けられるなどと語る。実際には対応付けられているのは、差異の体系としてとらえられた特定の信号系のなかの信号=記号と、ニューロンの電気的信号であれ何であれ、それとは別の信号系に属する別の信号=記号である。ヴィトゲンシュタインは、『論考』の最後で、それを読んだ読者にその無意味であることを悟らせるという方便によって、解明を行なおうとしたのだと語った。「読者は、いうなれば、梯子を登りきったのち、それを投げ捨てなければならない」(ibid.6.54) という訳である。残念ながら、これらの記号学者は、情報理論の助けを借りてヴィトゲンシュタインの梯子を登りかけたものの、その途中で立ち停って、それを投げ捨てられないでいるのだ。
我々は、「意味とは何か」という不毛な問いをそろそろ後にしなければならない。意味とはけっして「何か」ではない。「意味」が問題にされる際に、問われているのは「何か」が置かれている関係性そのものであり、意味「による」語りは、それを問いかつそれにけりをつけようとする語りなのである。次に問題にすべきは、ここまでの議論において、単に関係性のゆらぎだとか複数性だとかとして語られてきた事態について、さらに詳細な検討を加え、それ自身がゆらぎやずれを含んだ関係性のなかに現われる言葉によってそれが語られるというのはどういうことであるのかを明らかにすることであろう。
廣松渉, 1982, 『存在と意味』、岩波書店
Husserl, E., 1950, Ideen zu einer reinen Phaenomenologie und phaenomenologischen Philosophie, Erstes Buch, Husserliana Bd. III, Nijihoff. (邦訳『イデーン』渡辺二郎、みすず書房)
丸山圭三郎, 1981, 『ソシュールの思想』岩波書店
丸山圭三郎, 1984, 『文化のフェティシズム』勁草書房
Peirce, C.S., Collected Papers Vol.1, Cambridge: Harvard University Press (文中での引用に際してはパラグラフ番号を使用)
Wittgenstein, L., 1971, Tractatus Logico-Philosophicus, London: Routledge & Kegan Paul. (邦訳『論理哲学論考』坂井秀寿訳、法政大学出版局)