差異のとらえかた:相対主義と普遍主義(註1)


一、はじめに

あるものの見方が、特定の歴史的・社会的な状況によって産み落とされ、そうした状況のおかげで広く信奉者を獲得するということは、それほどめずらしい話ではない。そして状況の変化に応じて、その内実を変え、姿を大きく変えていくということも、またよくある話である。その挙げ句に、そのものの見方が、それを産みだし、あるいは変形した状況自体を構成する要素になっていくというのも、おおいにありうる話である。私がこれから論じようとする一つのものの見方--文化相対主義--も、そんなふうに状況と結び付きその構成部分となった経緯をもつものの見方の一つである。

文化相対主義とは、通常理解されているところによれば、人間は、それぞれが独自の価値を持った異なる文化に所属しており、一つの文化の価値や認識の基準を別の文化に単純に当てはめて理解することは出来ない、という考え方である。こうした考え方が、人間が--それぞれの国民国家の内部においてさえ--実際にさまざまに異なる共同体に分断されており、しかもそうした共同体相互の関係が現実的な問題として浮かび上がってきているような歴史的・社会的状況と無関係だ、などと本気で考える人はいないだろう。

しかし私はここではあえて、文化相対主義を当面の歴史的・社会的状況と関連させて論じることはしない。いかなるものの見方も、特定の歴史的・社会的状況にしばられ、それに規定されていることは確かであるが、ただその点にすべてを還元してしまうことは、そのものの見方の息の根をとめてしまうことでもある。ある思想、あるものの見方の真の価値は、その思想が、特定の状況に縛られつつも、どれだけそこからずれ出し、離脱しうるか、そして自らを縛る当の状況を相対化しうるかという点ににあるのであって、けっしてそれがいかに特定の状況にマッチしているか--縛られてしまっているか--というところにはないからである。 ものの見方が--そして一人一人の思想的営みが--状況によって規定され拘束されていることを強調するあまり、それがそうした拘束から離脱し得るという可能性さえをも否定し去ることは、そのまま、そう論じる論者自身に跳ね返ってきて、自らの可能性すらを封印してしまうことになる。私は文化相対主義を特徴づけていたものの見方のもつ価値と可能性を、あらためて主張しようとしている。

文化相対主義の最も重要な特質であると私が考えているのは、一言で言えば、自文化の自明性と絶対性によりかかった「自文化中心主義」に抗する「反・自文化中心主義」という側面である。反・自文化中心主義は、だからといって、もちろん他文化中心主義になる訳ではない(註2)。それは自文化の自明性と絶対性に対する疑いから発する他者への関心、他者が示す差異への関心に突き動かされた脱中心化の運動である。上のパラグラフとの関係で言えば、文化相対主義は、まさに状況の拘束から離脱し、それを相対化しようとする懸命の努力そのものなのである。

文化相対主義は、しばしば普遍主義との対立において捉えられている。しかしこの対立の意味は、見かけほど単純ではない。私が以下で論じたいのは、文化相対主義はたしかに普遍主義に対して互いを牽制するような仕方で自らの主張を展開するが、実際には両者は相互に依存しており、文化相対主義に含まれる「反・自文化中心主義」的契機は、普遍主義の伝統によってはじめて可能になったものだという点である。文化相対主義も、普遍主義も、その本来の可能性の中心にはいずれも自己の相対化の運動があり、他者を自己を相対化する契機とするというその構図は、もともと普遍主義をこそ特徴づけるものだったのである。結論を先取りする形で言えば、文化相対主義とは「普遍」という幻想から醒めた普遍主義なのだと言ってもよい。

もちろんこうした議論が、今日文化相対主義が問題とされる理論的文脈からかなりはずれた議論であることは承知している。というのは一方において、おなじく文化相対主義、あるいは普遍主義の名の下に展開される「自文化中心主義」の様々な主張が存在しており、むしろこちらの方が今日の相対主義をめぐる理論的文脈を形成してしまっているからである。

相対主義..
普遍主義..
.自文化中心主義反・自文化中心主義

このように4つのます目のそれぞれの位置に対応する異なる種類の相対主義・普遍主義が区別されることになる。しばしば理論攻撃は同じ列内の相手に対してだけではなく、対角線上の相手に対しても展開される。実際の攻撃相手が対角線上の相手であるのに、それを同じ列内の相手だと思い違えたり、またその逆があったりといった具合に、話は単純ではない(註3) ギーアツが、自文化中心的な普遍主義に対する批判を、文化相対主義をストレートに名乗ることによってでなく、「反・反相対主義」という形で提示せざるをえなかった理由も(Geertz 1984)ここにある。この錯綜した交差関係がまた、文化相対主義をめぐる論評の多くに見られる混乱を説明する。

実際には相対主義と普遍主義の対立の軸よりも、自文化中心主義と反・自文化中心主義の対立軸の方が、圧倒的に重要である。しかし議論はしばしば、相対主義と普遍主義という表面的な差異に惑わされて、問題の本質を捉えそこなってしまう。他者に--より正確には、自分たちとは異なる共同性に所属する文化的他者に--自分たちとは異なった存在であることを許し、自文化において不問に付されている諸前提を対象化することを通じて、こうした他者に対する理解と対話の可能性を模索する知的態度。これこそが、普遍主義の双生児の片割れである本来の文化相対主義であり、それは自らの自明性のうちに安住しているあらゆる自文化中心主義--文化相対主義の語り口で語られるものを含めて--にするどく対立するものなのである。

二、歴史的・社会的状況としての文化相対主義

特定の歴史的・社会的状況との関係での「文化相対主義」のいくつかの様相について、最低限のおさらいをするところから始めよう。

後に見るように、文化相対主義は、その気になればギリシャにまで遡ることさえできよう。しかし今世紀の文化人類学の一種のスローガンにまでなった文化相対主義に直接、間接につながる出発点はドイツの哲学者ヘルダーに求められるのが普通である。デュモンによると「肯定的な意味でも、否定的な意味でも」彼は「私たちの直接の先祖である」(デュモン 1993: 301)。ヘルダーはあらゆる文化共同体に、それぞれ固有で独自の価値を認めるべきだと主張した。彼によると、普遍主義は表面的で画一的であり、ドイツ文化のような具体的な文化の生きた統一性に対しては、抑圧的に働くものである。彼のこうした主張は、「啓蒙時代の、主にフランスの普遍主義に対する、熱のこもった異議申し立て」(op.cit.:302)、中心によってその共同性が分断され危機にさらされていると感じた辺境ドイツからの、異議申し立てであった。それは一つの権利--自分たちが他者とは違った存在でいられる権利--の主張にほかならない。差異にたいする権利を自らの権利として要求したのである。それは当時のヨーロッパにおけるドイツの位置と歴史的状況からまさに生まれた思想であった。

文化人類学における相対主義は、たしかに、ヘルダー以来のドイツのこうした思想伝統を受け継いだ一人の巨人、アメリカにおける「文化人類学の父」フランツ・ボアズによって人類学の中にしっかりと植え付けられた。しかし、そこには一つの大きな逆転が含まれていた。ボアズがとったのは、西洋中心主義的普遍主義のとてつもない形態である進化主義に対する徹底した批判の立場であった。進化主義は、西洋にとっての文化的他者が示すあらゆる差異を、単に錯誤と不足に見せかけてしまう。つまりあらゆる違いを西欧に対する劣等性に還元してしまうことによって、諸文化を西欧を頂点とする一つのスケールの上にならべて見せたのである。文化相対主義は、これに対して、差異を優劣のしるしとしてではなく、差異そのものとして認めようとする立場であった。あらゆる文化には、それぞれ固有で独自の価値がある。しかしこれがヘルダーの主張とは逆向きのベクトルをもっていることに注意しよう。差異に対する権利を、自らの権利としてではなく、他者の権利として要求しているのであるから(註4)。それは他者に、自分たちと違った存在であることを認める立場である。これがそのまま、一国民国家内部で異なる集団が文化の差異を保持しつつ共存することを積極的に推し進める文化多元主義の立場を代弁する主張になりうることは、容易に理解できるだろう。この逆転には、こうした見掛け以上に重要な意味もある。この逆転によって、はじめて相対主義は自文化中心主義に対する有効な批判、自文化の諸前提の相対化の運動になりえたからである。それは他者の行う慣行に対して、我々自身が価値判断することに反対する。彼らの価値の基準がまったく異なっているかもしれないからである。事実判断すら差し控えるべきである。彼らはそれらをまったく異なる仕方で捉えているかもしれないからである。これは確かに、他者が自分たちとは絶対的に異なった存在でありうるという想定である。もし本当に他者が絶対的に異質な存在である場合、そんな相手を理解することは不可能であろう(註5)。しかし実際には、この想定は、他者の理解を断念するためにではなく、他者理解に至るためのものであった。それは、自らのものの見方と基準をただ相手に押し付ける自文化中心的な他者理解を徹底的に排し、自らのものの見方と基準を相対化することを自らに命じる。そうした自己の相対化を通じて相手との対話を開始するための出発点が探られる。こうした他者理解の戦略として要請された想定であった。

しかしながらそれが文化人類学の中心的なイデオロギーとなり、誰もが無反省に標榜するスローガンになっていくにつれて、文化相対主義の危険性もまた目についてくることになった。それは、生半可な態度で考えもなしに振り回すには危険過ぎる刃物のようなものだ。文化相対主義は、自らの正反対のものにすらなってしまうことが出来る。そのとき、文化や差異について語ることは、理解と対話の出発点ではなく、理解の停止と対話の断念を正当化する語りになる。ある表面的な差異や齟齬を認めたとき、それらを文化が違うせいであると述べるだけでは、ほとんど何も説明したことにはなっていない。文化が違うということで、具体的に何がどう違うと言おうとしているのか、明らかにされていないからである。それはさらなる理解に向けての出発点にすぎない。そこから問題の齟齬や差異のコンテクストの理解へ向けての努力が始まるのである。しかし、多くの人は「文化が違うからだ」と言われると、それだけでわかった気になってしまう。そこが理解の停止点になる。当初の表面的な差異や齟齬は、そのとき解消不能なものとして固定されてしまう。「文化が違うから仕方ないのだ」という訳だ。こうして自他の区別は絶対化され、人間は解消不能な文化の差異によって分断される。文化相対主義は、自らの差異の中に閉じこもる一種の自文化中心主義になってしまう。他者に対してもそれは、それぞれの文化の内部に他者を固定し閉じこめる「文化的アパルトヘイト」(スペルベル 1984)のようなものになり下がる。このような文化相対主義は、独自の文化を保持する権利を盾にとって外国人を排斥しようとするネオ・ナチやフランスの国民戦線などの差別的人種主義と、自らを区別することができなくなる。事実、文化相対主義はこうしたヨーロッパの極右勢力の理論的より所にすらなっているのである(梶田 1993)。ここでは文化相対主義は、いつのまにか再びそのベクトルを逆転させ、ヘルダー的な、差異にたいする権利の自己主張となっている。文化相対主義そのものがまさに、今日のさまざまな民族対立の状況の構成要素になってしまったかのようである。こうした診断は、再び普遍主義への回帰すらを望ましいものに見せるだろう(フィンケルクロート 1989)。今度は一切の差異を切り捨てて、一方的に一つの見方、一つの価値判断の優越が「普遍」の名の下に主張されてしまうのである。

三、文化相対主義と普遍主義:4つの類型

歴史・社会状況的おさらいは、この程度で充分だろう。上の簡単な紹介の中で、すでに文化相対主義は2種類の正反対とすら言える姿を垣間見させている。文化的差異について語ることは、自文化中心主義の主張にも、反・自文化中心主義の主張にもなりうるのである。それに対して普遍主義の方ではどうであろうか。上の紹介の中では、こちらの方はそれ程はっきりした像を結んでいない。この節では、文化相対主義と普遍主義の4つの類型の違いを、異文化認識の態度の違いとしてもう少しはっきりさせるよう試みよう。

話が抽象的になりすぎないように、まず最初に、人類学において極めてありふれた異文化理解の型を具体的に取り上げよう。ただし、違いを明確にするための単なる、そしていささか極端な、たとえ話にすぎないということを忘れないよう。

「人々はXをAとして見ている」という構文で表現されるタイプの理解、これは人類学者が自分の理解を伝達しようとする際に、どこかで必ず顔をだす、ほとんど常套表現といっていい表現形式である。この異文化理解の基礎構文を仮に命題(1)としよう。もちろん、人々自身は単にAを目撃しているだけなのであるから、彼ら自身の理解が表明される構文がこんな形を取るわけではない。それは単に「我々はAを見ている」という形をとっているはずである。これを命題(2)とする。では命題(1)にいきなり登場するXは、いったいどこからやってきたのだろうか。言うまでもあるまい。それは人類学者が問題の対象をその記述のもとで捉えるカテゴリーである。つまり本来それは、人類学者自身によるもう一つの命題(3)「私はXを見ている」の中に登場するのである(註6)

 このことは、命題(1)の地位を著しく曖昧なものにする。たしかに(2)と(3)がともに真である限り、(1)は私にとっては常に真である。しかし、それは全くの誤り、ナンセンス、でもあり得るのである。

 次のようなたとえで考えてみよう。見方によっては壺とも、向い合った人の顔とも見えるレヴィンの壺とよばれる有名な図がある。それを壺としか見ることの出来ない人が、仮にいたとしよう。あるいは彼はそれを壺として以外見たことがなかったし、またそれが壺以外の何かに見えるかもしれないとは考えたこともないし、考えるつもりもない。

ところで、もし彼が、それを向い合った人の顔と見る人々について、「彼らは壺を人の顔として見ている」と語ったとしたら、どうであろうか。確かにレヴィンの壺の絵を見るたびに、彼は「X=壺」をそこに見ることになるし、人々は「A=人の顔」を見ていると語ることになる。したがって、彼にとっては次の推論は全く正しい。「それは壺である」=真、「彼らはそれを人の顔として見る」=真、故に「彼らは壺を人の顔として見る」=真。しかし、彼が、とんでもない間違いを犯していることは明らかであろう。そして彼がそれを得意げに、自分が彼らに対して得た「異文化」理解として開陳するに及んでは、もはや滑稽を通り越して悲惨ですらある。

実際、笑いごとではない。例えば「〜においては、人々はトランスを--あるいは狂気を--霊による憑依として解釈する」という類の表現は、人類学者の一部では今でもしっかり流通している。上のやや極端な例が我々に示してくれるのは、(1)の形式の命題は、仮に誤っているとしても、当の命題の持ち主には全く明らかではない仕方で、誤っているということである。この異文化理解の基本構文自身の中に、何か問題がある。

ところが自文化中心的な相対主義と普遍主義においては、自分自身の相対化へ向かう志向が欠けているというまさにその理由から、いずれもこの異文化理解の基本構文を疑問視することができないのである。たとえば相対主義は、こうした形で示される差異、つまり自文化の側から見たときに見えてくる差異を、そのまま絶対的な差異として認めてしまう。「彼らには壺が人の顔にみえるのだ。奇妙だけれど、彼らが誤りを犯しているのだとは考えまい。彼らには確かにそう見えているのだ」と。しかしこの気前の良い寛容さは、このままでは文化的アパルトヘイトに行き着くだけである。それは「壷をどうしても顔と見る人がいるが、それは文化の違いだから仕方がない。尊重しよう(=ほっておこう)。」ということに他ならず、逆に「お前たちにどう見えようと、私たちにはそれは顔に見えている。ほっておいてくれ。」という主張も可能にしてしまう。あるいはさらに「理解」を進めて、「仮に壺が顔であるという前提に立とう。その場合他の同様な命題との関係はどうであろうか」などと問い始めることも有り得る。うまく行けば--あるいは具合の悪いことにか--このやり方で首尾一貫した「人々の世界」を描き出してしまうことすら可能かもしれない。そこに住む人々をますます奇妙な存在に見せかけるだけのそんな記述を読むことだけは、願い下げであるが。かなり戯画化されているとはいえ、自己相対化を伴わずに他者との差異を絶対化するというのは、こういうことなのである。

自己の相対化をともなわない普遍主義の方も、この点では似たりよったりになる。そこではXは無条件に普遍的なカテゴリーの地位を占める。普遍主義は単に、この構文で定式化された差異を誤謬として位置付けるかもしれない。「人々は壺を顔だという。そしてそれは誤りである。」という訳である。あるいはこれに「彼らももっとよく見ることを学べば--あるいは真理に目覚めれば--それが壷であることに気付くだろう。」などという説教がもっともらしく付け加えられるかも知れない。別の普遍主義者は、あるいは「彼らのカテゴリー『顔』は、じつは壺を意味しているのであって...」という翻訳をやってのけ、見事に人々のカテゴリーが普遍的なカテゴリーに翻訳できたことを得意そうに示すかもしれない。これもかなりな戯画化ではあるが、他者を自己のカテゴリーによって捉えるというのは、基本的にはこうしたことなのである。

こうやって見ると、こうしたいいかげんな文化相対主義と、いいかげんな普遍主義は驚くほど互いに似ていることがわかる。前者に見られるのは、自文化の自明性を全く疑いにさらさない楽観主義であり、後者においては自文化のカテゴリーを普遍的なカテゴリーだとする傲慢さである。違いがあるとすれば他者に対する姿勢が、優越性に裏打ちされた非関与の姿勢か、他者を飲み込もうとする攻撃の姿勢かの違いだけである。そしていずれにおいても、他者との真の対話が成立する余地はない。それは最初から放棄されているか(文化相対主義)、こちらからの一方的な宣言(普遍主義)にとってかわられている。こうした相対主義と普遍主義が仮に対決のポーズをとっているとしても、せいぜい強盗と掏摸がなじりあっているようなものだ。自文化中心主義どうしの衝突にすぎない。

この異文化理解の基本構文「人々はXをAとして見ている」のどこがおかしいのだろうか。それを考えることが、自文化中心主義でない文化相対主義と普遍主義について考えることを可能にしてくれるだろう。命題(2)と(3)がともに真である以上、この命題は真であるしかないことになる。しかしそれでは、上の壷の例のように、この主張がなおかつ根本的にまちがっているなどということが、いったいどうして可能なのだろう。この奇妙さはこの基本構文の命題が、世界を記述する(認識する)ためのカテゴリーのセットという点でも、そうしたカテゴリーの使用の基準という点でも、それらが一致しているという保証がない二つの共同性にまたがった命題であることに由来しているに違いない。やや大雑把な言い方ではあるが、この命題は、同じである保証のない二つの意味世界にまたがっているのである。

 もし私の世界だけに限ってよいのなら、「私はXを見ている」と「私の見ているの(それ)はXである」とは互いに全く等価で、ともに真である。しかし相手の世界から眺めるとこの二つの文はそれぞれ「彼はXを見ている」と「彼の見ているの(それ)はXである」となり、二つはもはや等価ではない。前者は真であるかもしれないが、そのことは後者が真であることを帰結しない。「その人類学者は壺を見ているという。どうやら壺が見えているらしい。しかし彼が見ているの(それ)は壺ではない。それは顔だ。」ということになる。上述の異文化理解の基礎構文の誤謬は、これを無視して、二つの世界をまたいでしまったところから生じているのである。

したがって、私には壷としか見えない図の前で、人々が人の顔について語っているのを知った場合の私の課題は、まず人々が「何を」顔として見ているのかを明らかにしようとつとめることである。けっして「人々は壷を人の顔として見ている」と言う命題から出発して、なぜ彼らには壷が人の顔に見えるのだろうという的はずれな問いを発することではない。しかしそのためには、同時に、私自身の側でも「私は壷を見ている」のだから「私の見ているの(それ)は壷である」という、私にとってはほとんどトートロジー的とも思える推論を一時停止せねばならない。「私は壷を見ているが、私は何を壷として見ているのか」という問いが、あらためて問われねばならないことになる。

自文化中心主義に抗する文化相対主義の態度とはこれである。(1)「人々はXをAとして見ている」において「人々はAを見ている」という命題の真理を保持しつつ、(1)そのものを却下すること。それは、人々が「何を」Aとして見ているかについての性急な判断を停止することであり、逆に--ここでの「何を」にあたるXは、我々の自文化の文脈での判断であるのだから--自分たちが「何を」Xとして見ていたのかを改めて問題にすることに等しい。答えは、我々自身の自然的(主義的)、客観主義的態度を括弧に入れることによって見出されるフェノメナルな領域のなかに求められるかもしれない。その結果として、見ようによってはそれを壺とも向き合った人の顔とも見ることができるような図をそこに見出したとすれば、そのときお互いの認識を橋渡しする、共通の足場が手に入るのである。これが自己を相対化するということの--いささか図式的に過ぎはするが--具体的な内容である。こうした形でいったん、共通の足場を作り出すことに成功したならば、対話の相手をそこに誘うことが可能になる。それは相手との対話の足場ともなりうるのである。他者を前にして、あるいはより正確には他者の判断を前にして、自分にとって自然とおもわれる判断を停止すること、他者の判断に寄り添おうとすること、こうした作業によって開けてくる新しい地平に両者の判断を仲立ちする共通の足場を求めること、これが文化相対主義が意味するすべてである。

しかし、これは見ようによっては、文化の差異をなにか共通の普遍的なもののレベルに送り返す普遍主義にきわめて近いともいえる。判断の停止によって見えてくるフェノメナルな領域というのは、結局、それぞれの文化での事実判断に先立つ、より原初的で基底的な領域だったのではないだろうか。もしそう考えるなら、上で述べた自己相対化の手続きはそのまま、異なる文化に共通する普遍的な基底を求める普遍主義の探求手順そのものだということになる。もちろん相対主義は、こうした普遍的な基底が前もって存在しているという前提にはたっていない。相対主義にあっては、上述の例でXそしてAという二つの相容れない判断を橋渡しする、両者に通底するフェノメナルな領域とは、XなりAなりに先行する、始めからそこにあった共通要素などではなく、その都度の橋渡しの実践の中で構築された2次的構築物である(浜本 1985)。それは、我々が「それ」をXという記述のもとで見る以前にそれがもっていた姿ででもあるかのように想定された普遍的な何かであるというよりも(そもそも以前とはいつのことか?)、Xという記述のもとでそれを見ることをあえて拒絶してみるという操作の結果として現れてくるものであって、それはX以後でこそあれ、それ以前ではありようがない。さらに重要な点として、相対主義にあっては、そもそもこの橋渡しの作業が成功するかどうかも、前もって保証されてはいないのである。この点で、共通の地平の存在が前提され、前もって保証されている普遍主義とは、確かに違っている。つまり相対主義がアド・ホックにその都度の理解の作業の中で構築されるものと考えている共通の足場が、普遍主義にあっては、見出されるべき普遍そのものとされているという違いである。

にもかかわらず、ここで示された文化相対主義における自己相対化の手続きが、どこか普遍主義を思い起こさせることも確かである。おそらくそれには理由があるのだろう。もし本来の普遍主義が、真の普遍にいたろうとするまさにその探求によって特徴づけられるものであるとするなら、そこでは自文化の諸概念を、根拠もなく普遍的な諸概念とみなしてしまうような、安易な態度が占めるべき場所はない。その作業の中心は、自らの使用する概念が真に普遍的なものであるのか否かの厳しい吟味となる。普遍主義には、必然的に自己相対化の契機が含まれているはずなのである。実際--多くの相対主義が単なる自文化中心主義であるのと同じように、多くの普遍主義的主張も単なる自文化中心主義であるとしても--そもそも自文化中心的な普遍主義など単なる自己矛盾である。

その相互牽制と表面的な対立にもかかわらず、自己相対化と差異に架橋する足場の探求という点で、反・自文化中心主義的な文化相対主義と、同様な普遍主義とは、ほとんど区別しがたいほどに類似していることになる。両者とも気がついてみれば文化的な差異にわたされた同じ橋、差異を等距離に眺めうる共通の足場、同じ一つの地平を前にしていることがわかる。両者はその対立する部分よりも、むしろ共通する部分の方がはるかに顕著である。そして両者とも、同じく普遍主義、相対主義の名で語られる自文化中心主義的な語り口にこそ、くっきりと対立しているのである。

四、相対主義の母体としての普遍主義

以下の議論においては、自文化中心主義的な相対主義と普遍主義について言及することはもはやすまい。それらが今日政治的にどれほど重要な問題になりつつあるとしても、どれほど今日の社会状況の構成部分を形づくっていようとも、それについて、人類学の理論的な問題として言えることはたかだか限られている。所詮それらは単なる自文化中心主義にすぎず、人類学の理論的根幹にかかわる問題ではないのだと言い切ってしまってよいと私は思う。しかし、もう一方の人類学的認識の基本的な戦略である方の文化相対主義と普遍主義との関係については、両者の思いのほかの類似性が明らかになった今、その意味をもう少し立ち入って考察してみる必要があるように思われる。

相対主義が、複数の文化、文化的他者という概念抜きに考えられないことは自明である。しかし普遍主義にとってもそれが同様であることは、しばしば見逃されやすい。普遍主義はたしかに、単一の全体性といったものの存在を主張する立場である。にもかかわらず、それを主張すること自体が、そうした全体性に対する懐疑を背景としてはじめて意味をもつのである。外部を知らない単一の世界に生きる人が、その世界で成り立つことを、同時に「普遍的」であると宣言することには何の意味もない。なるほど、他者を知らない普遍主義にとっては、自らについて真であるものは、そのままで普遍であるということになるはずである。しかしそれを検証することもまたできない。普遍という言葉自体が、外部と他者の存在をすでに前提とした言葉なのである(註7)

普遍主義にとって、他者とは偶然的な障害であるというよりは、その運動の不可欠な一部であったと言ってもよい。それは、自己との差異を示すことによって、単一の全体性を揺るがし疑いに晒す。しかし同時にそうした他者との出会いを通じて始めて、自分たちにとってのみ真であったものに「普遍」としての地位が検証/反証され、それによって拡大された新たな意味が、単一の全体性に対して与えなおされるのである。例えば、因果的な関係を例にとろう。自分たちの世界で認められ、実際に成り立っている因果的な関係が、他者によって否定され、しかもそこでは成立していないことがわかったとすれば、どうなるだろう。その因果的な関係の普遍性はただちに疑問視されるはずである。そして逆に、なぜそうした関係が、自分たちのところでは成り立つのかを、改めて問題にせざるをえなくなるだろう。普遍=全体性の領域は再想像されねばならない。西洋において、その都度よりはっきりした姿をとりながら、くり返し出現する一つの区別--最終的にはヨーロッパに「社会」についての学問を独自の領域として出現させることになった区別--ノモスとピュシス、社会と自然、つまり経験世界を約束ごとによって出来上がった領域と自然の領域に分けるこの区別を、私は、普遍を求める欲求が他者と出会うことによって生じる自己相対化の運動と切り離して考えることはできないと考えている。「自然」は単一の全体性であり、一方それとは別に多様な還元されない差異が支配する領域がある。こうした区別と共に、相対主義もはっきりとした姿をとり始める。それはノモスとピュシスの、約束事と自然との間で、境界線をめぐって普遍主義と攻防を繰り広げる相手として姿をあらわす。

アリストテレスのニコマコス倫理学における有名な議論(第五巻第7章)がそれをはっきり示している。彼は「ある哲学者達は、正義はその全領域にわたって規約的であるという意見を抱き、自然法則にはなんら変化はありえず法則は至るところで正確に同じ仕方で働く(従って、ペルシアでもここでも火は燃える)のに対し、正義の規則は我々の目の前で変わりつづけると主張する。」と述べた後で、実際には正義にすら自然的な正義と規約的な正義の2つの形態があるのだと論じる。「正義が至る所で同じ様に妥当し、人々の考えによってその正義がゆるがせにされることのない場合、それは自然的な正義である。」という訳である。アリストテレスはここで、普遍の、したがって「自然」の境界変更を企てているのである。この議論が、他者との出会い(ペルシャ)がギリシャの普遍主義にもたらした自己相対化を経由していることは、ほとんど疑いの余地が無い。

普遍主義にとっては、相対主義にとってと同様に、他者とは自己相対化の契機であり、それのみならず全体性へと至る--全体性を再び見出す--道ですらある。言い換えれば普遍主義とは、単一の全体性の内部で自分自身を検証しようとする運動であり、その検証は、同じ全体性に属しているはずであるにもかかわらずその差異によって自己を魅了する他者を介することによって、始めて可能になるのである。こうした意味においては、普遍主義も、相対主義がそうであるように、他者にとり憑かれている。その単一の全体性に対する信念のゆえに、よりいっそう他者にとり憑かれているのである。

ヘロドトスはエジプト人について書く。「エジプト人はこの国独特の風土と他の河川と性格を異にする河とに相応じたかのごとく、ほとんどあらゆる点で他民族とは正反対の風俗習慣をもつようになった。例えば女は市場に出て商いをするのに、男は家にいて機織をする。機を織るにも他国では緯を下から上へ押し上げて織るのに、エジプト人は上から下へ押す。また荷物を運ぶのに男は頭に載せ、女は肩に担う。小便を女は立ってし、男はしゃがんでする。.....(パンをこねるにも)エジプト人は穀粉を足でこね、泥は手でこねる。」(ヘロドトス 1995:183-4)よくこれだけ、どうでもいいような、エジプト人であることにとってとても本質とは言えないような細部ばかり選びだしてきたものだ。しかし、これこそまさに他者に憑かれた語りの特徴である。ケニア海岸部で「白人」の霊にとり憑かれた者が模写してみせる白人像が、意味もなく水に飛び込みたがる、旅が好き、威張り散らし、卵をスプーンを使って食べるといったどうでもいいような細部からなり、白人の植民者が自らの本質であると信じ、現地人に模倣してもらいたかったはずの、例えば、合理性や時間厳守の精神などではなかったように。表層的な差異が、すなわち自己を否定するものばかりが目を引くのである。ここは分水嶺である。憑依した霊を除霊するように、この語りが他者を追放し否定する語りに落ち着くか、異族の霊を自己の一部として慰撫し取り込むように、その他者を含む新たな全体性を想像するか。普遍主義には、通常、後者の選択肢しかない。そして相対主義は、おそらくその先に向かう。相対主義は、普遍主義が信奉する単一の全体性を放棄し、自分たちに対してと同様に、他者にもそれぞれの全体性を認める。そのときはじめてエジプト人は、ギリシャ世界と違っているという点以外には何の統合原理ももたない、雑多な諸特性の単なる集合体であることを止め、それ自身のシステムになる。

したがって次のように言ってよいであろう。人類学がその基本的な立場とするところの文化相対主義は、実のところ、こうした西洋の普遍主義のいわば双子の弟のようなものなのである。相対主義は、自らの世界を相対化することを通じて、他者の世界を一つのシステムとして眺めることの出来るような共通の理解の地平を構築しようとする立場である。しかし、他者が自己の相対化の契機となる--他者を知ることが自らの世界の相対化につながる--という構図そのものは、普遍主義自体の中に組み込まれていた構図にほかならない。いや、むしろこうした普遍主義の背景のないところでは、他者はけっして自己の相対化の契機になどならないのだとすら言えるかもしれない。他者を知ること自体の中には、世界の相対化を導く必然性などどこにもない。

実はこの節の内容を書きながら、私が常に念頭に置いていた一つの考え方がある。それは私が何年かにわたって付き合ってきたケニア海岸地方のドゥルマの人々の間に見られる驚くほど一見「文化相対主義的」な見解である。それは人類学者の誰もが想像すらしなかったほど極端に相対主義的である。彼らの考え方に触れてみれば、私がここで論じた普遍主義のもつ背景としての意味がはっきりするだろう。

五、ムラー=外に出す呪術:普遍主義なき相対主義

ドゥルマには屋敷の秩序をめぐって事細かな規則群--一括して「ドゥルマのやり方 chiduruma」と呼ばれている--がある。それは屋敷の秩序を守り、したがってそこでの人々の暮らしを守っている諸規則なのであるが、それらを全て守ることがしばしば困難であることから、かえってそれが「災因」となるという奇妙なジレンマが存在している。「ドゥルマのやり方 chiduruma」は難しいと人々は口をそろえて言う。そしてこれらの規則が違反されると「ドゥルマのやり方」は人を捉える、つまり様々な災厄をもたらすのである。しかしそのジレンマから逃れる一種の最後の手段として「ムラー mulaa」と呼ばれる、その性格上一種反社会性を帯びた呪術が知られている。ムラーという名前は「外に出る」を意味する動詞クラー ku-laa から来ており、この呪術は文字どおり人をドゥルマ文化あるいは人々の言葉を使うと「ドゥルマのやり方」の外に出してしまう呪術である。こうしてドゥルマの文化の外に出てしまうと人は近親相姦をおかそうと、その他ありとあらゆる屋敷の規則に違反しようと、もはやそうした規則違反の結果を心配する必要はなくなる。文化は文化の内部にいる者のみを捉えるのである。このちょっと奇妙で同時に魅力的でもある考え方をめぐって私は折りに触れてさまざまな人々に説明を求めた。ある男は、次のような例をあげて説明してくれた。最初に彼の話を理解するための最小限のバックグラウンドとなる知識をあげておこう。

ドゥルマのみならず、東アフリカの諸社会が外部との交流を欠いた閉じた社会であったりしたことは一度もない。それはつねに異質な他者たちと境界を接する諸集団からなり、それらの間で、刻々と変化する交流の回路と境界が維持されてきたのである。しかし今日の状況はやや特殊である。ドゥルマの土地には周辺のカンバやディゴが土地を購入して住み着き、ドゥルマの人と隣り合わせに畑を持つようになってきた。かつてもドゥルマは多くの異人を受け入れてきたが、かつてなら彼らは、土地のクランや特定の屋敷に編入され、カンバとしてあるいはディゴとしてドゥルマと隣り合わせに暮らすなどということはなかっただろうに。またまだまだ少数であるがキリスト教に改宗して「ドゥルマのやり方」を(他の人々の見方では)捨ててしまった人々もいる。ドゥルマは4日を一週間とする独特のカレンダーを持っており、4日目毎にジュマと呼ばれる休日が訪れる。このジュマの日には一切の農耕が禁じられており、ジュマの日に耕すと収穫が得られないとされている。もちろんカンバやキリスト教徒たちはこの規則には無頓着である。

さてこの男の言うことには、ドゥルマの男の畑に隣接した畑をもつカンバの男はジュマの日に耕しても、立派な収穫を得るはずだ。しかし隣接した畑でドゥルマの人間がジュマの日に耕すと、隣のカンバの畑が十分な収穫を得ていても、ドゥルマの畑は不作になるであろう。なぜならカンバの男はドゥルマのやり方の中にいないので、ドゥルマのやり方に捉えられることはないが、ドゥルマの男はドゥルマのやり方の中にいるのでそれに捉えられることになるからである。「ムラーもこれと同じだ。ドゥルマのやり方の外に出てしまえば、おまえはもうそれに捕えられることはない。」

私にはこれはめちゃくちゃな議論にみえる。もし自分が成り立つと考えている因果法則が、他の誰かのもとでは成り立たないことがわかれば、それだけでもう立派な「反証」である。この同じ事例--隣接する畑のカンバの男はジュマの日に耕作しても立派な収穫をえる--から、私なら、ジュマの日に耕すかどうかは、作物の出来不出来には関係ないという結論を下すはずである。しかしこの男にとってはそうはならない。むしろなぜ私にとってこれが立派な反証になってしまうのかと問うべきだろう。それは暗黙のうちに私が「因果性」の観念を「自然の因果性」に、したがって普遍の領域に設定しているからこそなのである。私はこの領域では、単一の全体性の存在を当然のように受け入れている。それに対してドゥルマのこの男は、いわば「因果律もまた体系に対して相対的である」と主張しているのである。もちろん私には、とても受け入れられない命題である。それは私が暗黙のうちに寄り掛かっていた普遍を明るみに出す。

しかし次のような--いささか荒唐無稽ではあるが--例はどうであろう。我が国では婚姻届を赤インクで書いて提出するとおそらく受理されず、結婚は成立しない(註8)。試したことはないが、ピンクや黄色でもだめだろう。しかし青か黒のインクで書くと結婚を成立させる。インクの色と結婚の成立(には限らないが)の関係は明らかである。しかし仮にここで誰かが例えばヨーロッパの某国では赤インクで書いても婚姻が成立するという事実をあげて、それゆえインクの色と婚姻の成立のあいだには何の関係もないのだと私に告げたとしても、私は一笑に付すであろう。私は他の国がどうであれ、日本ではそうなっているのだと答える。このとき、たしかに私はジュマの日と作物の収穫量の相関関係について語るドゥルマの人々とまったく同じ語り口をしてはいないだろうか。

もちろんインクの色と婚姻の成立の関係を「因果関係」として語ったり、あるいは「青いまたは黒いインクには結婚を成立させる力がある」と語ったりすることは、同じく馬鹿げた話にみえる。それを「因果関係」の言葉で捉えることが極めて不適切に思えるのだ。でもどうしてだろう。それが社会的な規約によってそうなった関係、つまり「約束ごと」の関係だからである。おわかりのように、ここで私は暗黙のうちに経験の中に、お馴染みの一つの区別を持ち込んでいる。つまり因果の言葉で語ることがふさわしい「普遍」が支配する自然の領域と、それがまったくふさわしくない人為的で相対的な「社会」あるいは「制度」の領域という区別である。これこそ、ドゥルマの男の語り口に欠けていたものではないだろうか。

私が今、当然のように受け入れているこの区別は、より直接には、ギリシャにおけるそれよりも、十七世紀における「社会」の発見に由来する。もちろん社会だけではなく、「自然」も実はそのときに発見されていたのだ。あるいは不自然で、人為的で、人工的で、契約に基づいたものにすぎないものとしての社会の発見と、自然の発見は同時的であらざるを得なかった。そして、ギリシャにおける同様な区別と同じく、それが当時のヨーロッパにもたらされていた大量の他社会についての情報が引き起こした自己相対化の契機によって可視化してきた区別であることは、改めて指摘するまでもなかろう。それは普遍主義の伝統の中で見出される区別なのである。

ドゥルマの男の発言に見られる、ある意味で徹底的な相対主義が欠いているのはこれである。規約による世界と、自然の因果性が支配する世界の区別は、ここでは曖昧であるというよりも、むしろそもそもそうした形では立てられていない。そこではあらゆる関係性が、システム相対的なものとして捉えられ得る。特定の日に耕作することと収穫との関係が、規約によって結び付いた関係--例えば、婚姻届のインクの色と婚姻の成立との関係--と同じ仕方で語られる。他者、すなわちシステムの外における事例は、何の検証も反証も提供しない(註9)。普遍主義との内的な結び付きを欠いた相対主義にあっては、他者は自己の相対化の契機を別に提供したりしないのである。

六、結論

他者を自己相対化の契機とし、単に他者が自分たちとは異っていることを承認するだけでなく、他者に一つの全体性を認める、人類学における一つの認識態度としての文化相対主義は--自文化中心主義的なそのバリエーションを除外すると--西洋の長い普遍主義の伝統のうえにたった一つの立場であることが分かる。他者が自己相対化の契機になるという点で、それは普遍主義に対立するどころか、後者と同じ根をもっているのである。それが対立する普遍主義は一貫して、むしろ自文化中心主義の一バリエーションにすぎないまがいものの普遍主義の方であった。しかし相対主義は、普遍主義を特徴づけていた単一の全体性への希求は、もちろん共有していない。が、それは捨て去られたわけではない。他者をどんなに異質な存在として捉えようと、あくまでも自分たちと同じ全体性を共有していると暗黙に想定されているからこそ、共通の足場を求めての自己相対化にも意味があるのである。単一の全体性は、もはや目標そのものとされることはないが、自己相対化を支える背景の位置に退いているだけなのだ。

普遍主義は、単一の全体性を夢見、それに向かって突き進もうとする。おそらく相対主義は、夢から覚めた普遍主義なのだとも言える。この夢から覚めることによって、単に自己の相対化だけではなく、他者に一つの全体性を認めることが可能となったのである。夢を見ることは美しいかも知れないが、かなわない夢なら見ないほうがましである。何よりも、夢を見ている者はしばしば事を急ぎ過ぎる。


注釈

(註1)この論考は一九九四年七月九日に東京大学で行われた日本民族学会関東地区例会における口頭発表メモ(オリジナルは http://www.higashi.hit-u.ac.jp/~jwijwi/hamamoto に公表されている)に若干の手を加えたものである。また、ここで展開されている議論は「文化相対主義の代価」と題して十年以上前に公表した論考(浜本満 1985)における議論とその考え方の基本は変わっていない。それはその後の、鷲田清一氏(鷲田 1989)や小田亮氏(小田 1994)の議論とも共通する部分が多い。これが意味しているのは、ただ一つのこと、つまり文化相対主義をめぐってなしうる妥当な議論というのは、結局ありきたりな一点に落ち着くしかないということかもしれない。

(註2) このように自他という区別を立てること自体は、人間を諸「文化」、つまり相互の差異によって隔てられた複数の単位に分断し、その内部に閉じ込めてしまう語り口につながるものとして、大いに批判されうる。文化というイディオムを用いた語り自体に内蔵された危険である。ここでは、この点にまで立ち入ることはせず、自他の区別や、文化のイディオムを用い続けることになろう。ただし、自他の区別を立てることにおいて、その区別を絶対的なものとはせず、諸文化について語ることにおいて、それを完結し相互に孤立した単位であるかのようには考えない、という点は強調しておく必要がある。文化相対主義が、自他の区別を立てるのは、それによって対話を断念するためではなく、むしろ対話を開始してその区別を乗り越えるためであり、文化という単位を想定するのも、人々を分断し囲い込むためではなく、境界を対象化し、再度その境界を流動化するためなのである。

(註3) 現在における文化相対主義をめぐる諸議論をバランス良く論じるということは、この錯綜した状況を細かく紹介するということを意味する。しかし私はこの状況の紹介そのものにはあまり意味を見出さない。数々のレベルの低い議論をいちいち紹介していくことを考えただけでも意気阻喪させるに充分である。

(註4) 自分が他者とは異なっていることを主張することと、他者が自分とは異なっていることを認めることとは、結局同じことだと言われるかも知れない。差異は結局、両者の間にあるのであって、それをどちらから眺めようと同じことであると。しかし文化的差異は、つねに非対称性を含んだ磁場のなかでしか捉えることが出来ないのだということを考えに入れると、差異をどちら側から眺めるかは、決定的に重要な違いであることがわかる。

(註5) この点は理論的なレベルで、いわゆる普遍主義の立場から文化相対主義を批判する際に、しばしば持ち出されるアポリアである。文化相対主義における、絶対的な他者の想定を論理的に押し詰めれば、それは異文化理解の不可能性を帰結する、というのである。浜本 1985 は、この問題に関する一つの解決を提案している。問題は「体系内での位置」を質的に異なる体系間で相互に比較することは「原理的」には不可能であるという形で定式化できる。ある種の相対主義はこの事実を字義通りそのまま主張し、不可知論に陥り、一方普遍主義はこれが「実際上」は可能であるという事実から、二つの体系は実際には異なっておらず、そのあいだには共通のデノミネータがあるはずだという主張を導く。
浜本 1985は、ここでの相対主義/普遍主義の対立が、体系についての硬直した見方に由来する擬似問題であるということを明らかにしたものである。自分自身からずれだす体系の能力によって、異なる体系間に、共通の理解の地平を開くことは、常に可能である。これと似た見解は、鷲田 1989、小田 1994 を参照。

(註6) ここでは言語の違いと、言語間の翻訳の問題をとりあえず捨象することにする。実際にはXとAは異なる言語体系に属した概念であることが普通で、この異文化理解の基本構文はそのことによってかえって自らの異常さを隠しおおせることが多い。例えば、このレヴィンの壷の例を、たとえばAに当たる部分にスワヒリ語を用いて「人々は壷を sura ya mtuとして見る」といった形で提示するとき、その間違いは容易には目立たないものになる。一方、言語間の翻訳という作業自体が、この基本構文に依存している面がないわけではない。

(註7) ここでは、個に対する全体としての普遍、ウニベルシタスの概念は(全く無関係とは言わないまでも)とりあえず考慮の対象から外ずすことにする。本論考全体を通して「普遍主義」そのものの扱い方がやや素朴過ぎるという批判は、甘んじてうけるしかない。普遍概念の一神教のもとでの展開、その他のニュアンスは無視されている。基本的に啓蒙主義的な普遍観念しか扱われていない。

(註8) これについて私は実際の裏付けなく書いている。日本であてはまらなければ、どこか架空の国の話しだとおもって読んでいただきたい。

(註9) この事例から、ドゥルマに見られるのが偏狭で硬直した自文化中心主義だけであるという結論を引き出さないでほしい。まず第一に、異なるシステム相互のあいだに共通項を求めることが困難なほど各システムが孤立しているのは確かであるが、一方ムラーの考え方に見られるように、人はかなり自由にシステムの外へ、あるいは他のシステムへと移動できる。第二に、この事例で示した見解が数ある立場の中の一つの立場でしかないことにも注意したい。多くの若者(に限らないが)は軽やかに自文化の境界を越境している。そしてそれを苦々しく思う人々がいる。こうした若者たちが「ドゥルマのやり方」捉えられないことを、彼らがムラーを施された結果であると語る人々である。上の発言はこうした人々の側に属する一人の長老のものであった。たとえ、こうした考え方をする人々がドゥルマの圧倒的多数を占めているにしても、このようなパロキアリズムは現実の交通によって、常に無化されていくしかないのかもしれない。ドゥルマのパロキアリズムが傲慢な普遍主義的形態ではなく、極端な相対主義的形態を取るのは、その無力さの表明であるとさえ言える。


引用参考文献

アリストテレス、一九九五、『ニコマコス倫理学』(上)(高田三郎訳)岩波文庫

ルイ・デュモン、一九九三、『個人主義論考:近代イデオロギーについての人類学的展望』(渡辺公三・浅野房一訳)言叢社

A.フィンケルクロート、一九八八、『思考の敗北あるいは文化のパラドクス』(西谷修訳)河出書房新社

Geertz,C.,1984, 'Anti Anti-Relativism', American Anthropologist Vol.86(2):263-278

浜本 満、一九八五、 「文化相対主義の代価」『理想』八月号(No.627):105-121

ヘロドトス、一九九五、『歴史学』(上)(松平千秋訳)岩波文庫

小田亮、一九九四、 『構造人類学のフィールド』 世界思想社

梶田孝道、一九九三、 『統合と分裂のヨーロッパ』 岩波書店

D・スペルベル、一九八四、 『人類学とはなにか』(菅野盾樹訳) 紀伊国屋書店

鷲田清一、一九八九、『分散する理性』 勁草書房