記号の三項関係 : パースの記号論をめぐって



総序


これは『象徴性の一般理論へ向けての試論』と題して、福岡大学人文学部研究紀要『人文論叢』に3回にわたって書いた論考の第一回目にあたる。この総序はこの『試論』全体の序章に相当する。
本来継続的に書き続けるはずであったのだが、3回でストップしてしまった。

1−1.

 この論考は、今から私が企てようとしている一連の考察の、第一段階を構成するものである。その企てとは何であろうか。まずそれを明らかにするところから始めたい。

 私の専門分野は文化人類学である。それは一言で言えば、異文化の人々が現実として経験しているさまざまな制度を比較研究することを通じて、ある文化に生きるということは具体的にはどのようなことであるのか、人間にとっての文化内経験とはどのような存立機制に基づいているのかといった問いを、主として探求する研究分野であると言えよう。かくして人類学者たちは自らが生れ育った文化とは遠く隔たった文化に身を置き、当該文化の諸制度を、つまり人々がリアルに経験し、当然のものとして受けとり、それが自らの行動を規制するままにすすんでそれに身をまかせ、またそうした行動を通じて再生産していくところの、さまざまな制度を、当の人々の経験のありようと関係付けなおすことによって理解しようと企てる。

 よく言われているように、それは一種のジグゾー・パズルを解くようなものだ。人類学者はジグソー・パズルのさまざまな断片を手にする。彼の仕事はその個々の断片が全体の絵の中でどのような位置を占めるのかを決定すること、その断片と全体の絵の関係を明らかにすることである。ただ違っているのは、人類学者はその全体の絵がどのようなものであるのかを前以っては知らされていないということである。

 諸制度がそれに関係付けられるべき当の人々の経験がどのようなものであるのかについて、人類学者は知ったかぶりをする訳にはいかない。いくら現地に出かけて行ったからといって、そこで生まれ育った人々になり代わることなど出来はしない。そこで生まれ育った人々はというと、彼らは問題となる関係性をすでに生きてしまっているので、あらためてそれらを関係付けなおして、提示してみせたりはしない。こうした必要のない知識を知識として持つという無駄をあえてしてみせるほど、人間は無駄を楽しむようには、おそらく出来ていないのだ。

 かくして人類学者にできることは、問題の諸制度との関係において、「自ら」の経験の成り立ちを問いなおすことだけなのである。それが異文化の理解といわれることがらである。

 しかし人類学者はこの課題に対して、これまでどれ程忠実でありえただろうか。私も含めた多くの人類学者にとって、それが中途半端なままに終っていることは非難されても仕方ないことである。とは言うものの、それはある意味で無理もないのだ。もし本気でこうした作業にとりくむとなると、哲学者たちがそれぞれの仕方で自らに引き受けてきたような、まったく気の遠くなるような内への遡行を強いられるであろうことはほぼ確実なのだ。それが私を怖気付かせる。またそれは今日の学問の分業体制のなかで、ときとして非難に値すると見做されかねない領域侵犯と、またそれ以上に恐ろしい、不慣れな場所でえてしてしでかちがちな不様な失態の危険を犯すことでもある。私はこうした危険をすすんで避ける程度には臆病で繊細で、また分をわきまえた人間であると思っていたし、また今もそうであることには変りはない。

 にもかかわらずこの一連の論考で、恥をかくことを覚悟で、私はこの危険をあえて犯そうとしている。考えてみれば、人類学者は「素人」であることにかけては、おおいに自信がある人種である。「玄人」が特定の領域で軽やかに自在に振舞うすべを修得している人々だとすれば、いかに振舞ったらいいかもわからない異文化にのこのこ出かけて行って、そこで恥をかきかき生活することばかり飽きもせず繰り返している人類学者は、さしずめプロの「素人」なのだ。何も知らない素人の強みといったものも確かにあるはずだ。

1−2.

 私が現在最も頭を悩ませている問題は「儀礼と象徴」の問題、とりわけ一般に「占い」とか「呪術」とかの名前で知られている諸制度の問題である。まさに文化人類学の専売特許とでも言うべき問題領域だ。これは、さてそれを明確に定義しようとするとたちまち困難に陥るとは言うものの、人類学者が現地で頻繁に出くわす他の諸制度や行動領域とはどことなく違うことがひと目で見てとれるような、独特の行動領域である。

 おおざっぱに言って、異文化で出くわすかなりの行動は、それが当初いかに奇妙に思えたとしても、そのコンテクストを理解し、人々が共有する状況認識や彼らが前提としている命題を明るみに出し、それらに基づいて推論を組たてさえすれば、その推論がたとえ人類学者の頭で、つまり日本人として身につけたやり方で行なわれたとしても、ちょうど世界じゅうの誰にとっても1+1が2になるように、「従って、その振舞いがここでは適切なものである」という形の結論を人々と共有することが可能な、そんな行動からなっている。あるいはそうした形で最終的には理解可能であるという予想を抱くことが充分可能であるような行動からなっている。

 これは我々に異文化理解に関するやや楽観的な期待を抱かせる。何が前提とされているのか、その状況について人々が事実と考えているのは何か、こうしたものさえわかれば、そこで観察された行動は理解可能なものとなる。異文化理解の問題とは、結局しばしば言われているように、より良く知ること、相手をもっとよく知ることなのだ。それはけして簡単な作業ではないかもしれないが、それでもプログラム可能な作業であるということになろう。

 しかしながらこうした楽観的な期待は、常に裏切られる運命にあった。異文化理解に関するそうした期待を粉砕してきたもの、それが「儀礼」である。あるいは人類学者はそうしたものに出くわすと、それを「儀礼的」と名付けてみたりするのだ。例えば次のフィールド・ノートからの抜粋を見よ。括弧内は私が後で付け加えた補足である。

1983-8-18 のフィールド・ノートより
2:45 墓穴が掘り終えられた。かなりの遅れであった。(人々の集りが悪かったのと埋葬に必要な品々を整えるのに手間どったためであるが、これは死者の息子が親族の義務を果すのを怠りがちであったため、人々が非協力的な態度を示していたのだと後で判明する)食事が準備される形跡はまったくない。(死後埋葬が完了するまでは料理が禁じられている)男たちは木陰で雑談しながら休んでいた。
3:20頃 にぎやかな歌声が聞こえ、女たちが一列になって踊りながらやってきた。先頭の女性はトウモロコシをふるうのにつかう winnowing basket のなかに何かを入れてそれを楽器がわりに用いている。女たちの歌う歌の内容は、聞きとれる限りではきわめて猥褻なものである。(現実の性行為や性器に直接言及した内容をもつ)彼女たちは踊りながら性交の身振りを交えている。ある女性は近くの棒きれを腰巻の中に入れてペニスに見たてている。女達はおとなしく座っている男たちの周囲を踊り回りながら、男たちの持ち物をすきを見て取りあげる。その度に奪われた男は女たちによって大声ではやしたてられる。私も帽子を取られたが、それを取った女性は別の老女になにごとかさとされて、すぐ私に返してくれた。他の男たちは、しぶしぶお金と交換に奪われた物を取り戻している。この間も踊りと歌は絶えまなく続いている。ひとしきりこの馬鹿騒ぎにうち興じた後、女たちは屋敷の方へ戻っていった。葬式だからせいぜい神妙にしていようと思っていた私にとって、この場の馬鹿騒ぎは驚きだった。Kによるとこの踊りは musego といい、埋葬に際しては必ず催されねばならないものだという。これは死者を喜ばせるためのもので、けっしておもしろがってやっているわけではない。もしこれを怠ると、死者が「なぜ私の親族は私のために musego をやってくれなかったのだろう」と言って、屋敷に災いをもたらすだろうという。(別の機会に女達に聞いた結果得た答もこれと同じであった。女たちは悲しいのだが、やるべきだと決っているのでやるのだと言う。なかには悲しみのあまり musego に加わりたがらない女性もいるが、そうした場合も無理やりにでも加わらせる必要がある。)
4:00 Kとともに屋敷のほうを見に行く。屋敷では先程の女たちが泣いている。やがて 死体のある小屋の入口で山羊が一頭屠殺され、その血が入口の地面に流される。jenesa (ベッドを逆さまにして布で周囲を覆ったもの)に載せられた死体が四人の男によって戸口に流された血の中を通って運び出される。他の人々とともに女たちも泣きながら後に続き、我々も葬列に加わった。(以下省略)
    

あるいは次の例も見て頂きたい。

1987-4-16 のフィールド・ノートより
5:30 起床。一人の男 chilongozi (最近近親者を失った男あるいは孤児が勤める役目、死者の長男に付きそう)が屋敷から chinga cha moho(火のついた棒)をもってやってくる。彼を先頭に一列になって ndalani を出発する。ブッシュの空き地の木の下に水を貯えたつき臼 chinu が用意してあり、chilongoziはもってきた火をその中の水に入れて消す。死者の息子たちは chilongozi によって頭と顔、ついで全身を洗われ、その他の参列者たちは顔だけを右手のみをつかって各自洗う。一列になって屋敷まで行進し、死者の小屋に入り、そこに数秒とどまった後出る。男たちと入れ代りに女たちが一列になって、水に向う。彼女たちは我々が進んだ道の我々から見て左側にあたる道を選んで、水場へ行かねばならない。二人の未亡人は白い布を頭から被ぶり、洗濯物をかかえている。(服喪の期間中は洗濯も禁じられている。)水のところで全身を洗った後、洗濯をし、また一列になって戻ってくるのである。(中略)
8:10 屋敷の庭で二人の未亡人は長老によって順に頭を剃られ、呪医の調合した呪薬( mafuha ga nyono と muhaso wa mwada を混ぜたもの)を全身に塗られる。次いで死者の息子たちが順に剃られ、その場に集っている人々全員に呪薬が少量ずつ塗られる。この呪薬は人々が死者について考え、その結果死者が夢に現れるのを避けるためのものだという。この後屋敷外からの参列者は、三々五々家路についた。
昼頃までには、死者の近親者、屋敷の人々、別の屋敷に住む死者の兄弟たちを除いては誰もいなくなった。分別のある者ならもはやこの屋敷でいつまでもぐずぐずしているべきではない。しかし私は残った。私の執拗なあつかましい要求は、またしても拒まれ、そのあと行なわれるであろうことはただ話して聞かされただけである。
 夕暮どきに男たちはこの六日間にでた残りものやゴミ、飲み食いに用いられた kuni (薪) の残りなどを掃き集めて、それに火をつけるだろう。この日は従って kularira lupyero 「ほうきに寝る日」と呼ばれる。日が暮れると二人の未亡人は、長老の指図に従って、屋敷の外のブッシュのムコネの木の下の地面に横たわり、長老が前夜のダンスの出席者のなかから選んだ一人の若者がやって来るのを待つだろう。その若者はあわただしく無言のうちに彼女らと性交を行なう。それが済むと彼らは呪液 vuo で下半身を洗い、残った呪液を道の分岐点にぶちまけるだろう。明日から死者の近親者たちは、そのセニオリティに従って一日に一組ずつ、その妻あるいは夫を相手に今までどおりの性生活を開始していってよい。これは「死を投げすてること kutsupha chifo 」という。これを怠ると、屋敷には次々に死が訪れるだろうという。要するにマトゥミア(こうした形でなされる「儀礼的」性交一般を調査地の人々はマトゥミアと名付けていた)についての標準的な説明が得られたにとどまった。(以下省略)

 これが「儀礼」である。いつだって一度目はそうであったのだが、具体的に何が行なわれるのかを詳しくは知らないままに、こうした場に出くわしたとすれば、全く「思いもかけない」行為の展開にただ驚くことになる。何が私をそんなにも驚かすのだろうか。

 こうした儀礼的行為は、特定のコンテクスト、状況でのみ生起する一連の行為である。特定のコンテクストにしか結びついていないという意味では、それは最も完璧にコンテクストに依存した行為である。しかし一方、それはコンテクストによって全く規定されてはいない。なぜしかじかの行為が他ならぬそのコンテクストで行なわれねばならないのかという、内在的な理由はどこにもないのである。あるいは少なくとも、観察者にとっては、その結び付きは皆目検討がつかない。埋葬の場で女たちが卑猥な踊りを踊ることが埋葬の場にふさわしいというのなら、あるいは未亡人が余所者とブッシュで無言の性交を行なうことが服喪期間の終りに特にふさわしいというのなら、他の何がふさわしいとされたって驚くにはあたらない。なぜ他の行為ではなく、まさにその卑猥な踊りでなければならないのか、なぜ未亡人が無言の性交をすることでなければならないのか、さっぱり合点がいかないのである。両者の結び付きは、必然であるのだが、同時にきわめて恣意的なのだ。

 コンテクストは明確に規定されている。従って、そのコンテクストで他ならぬその行為が適切なのだという結論に至る考え方の筋道を完成させたい、そのために必要とされる諸前提を知りたい、我々はそう願う。しかし同時にそんなものが存在しないことを薄々と感じてもいる。つまり我々は、通常の諸行為、儀礼的行為との対比で「技術的」とか「目的合理的」とか呼ばれるような諸行為を理解するような通常のやり方が、「儀礼的」な行為の理解には通用しないことを、なんとはなしに知っているのである。

 当の人々にしても、我々と比べて特別に特権的な場所にいるわけではない。なるほど、彼らは我々と違って、特定のコンテクストでしかじかの行為が行なわれるであろうということを前もって知っている。それも具体的な細部に至るまで。彼らの目には私のフィールドノートの記述など穴だらけにうつる。しかしこうしたことは私もそのうちに彼らと同じ程度には知るようになる。また、彼らはそうした行為が何を目的として行なわれるかも知っている。私もそれをすぐに知ることになる。つまり女たちは死者を喜ばすことを目的として卑猥な踊りを踊るのであり、未亡人は「死を投げすてること」を目的としてブッシュで余所者と無言の性交を行なうのである。しかし、さらに問うて、なぜ女たちが卑猥な踊りを踊ることが死者を喜ばすことになるのか、なぜ未亡人の余所者との性交が「死を投げすてること」になるのか、ということに関しては、彼らも答えようがない。当の目的とその目的にむけてなされるしかじかの行為を繋ぐものは、彼らにとっても我々にとってと同様知られていないのである。それは単に、昔からそうすることになっていたこと、あるいは祖先が決めたことなのだ。彼らが知っているのは、しかじかのときにしかじかの行為をすべきであるということ、そしてそれが死者を喜ばすことであり、死を投げすてることなのだということ、これだけなのである。

1−3

 読者は、人類学者が「儀礼は象徴的な行為である、」と語るのをおそらく聞いたことがあるはずだ。さらには、儀礼は解読されるべきメッセージを含んだ一種のコミュニケーションだと語られることもある。いずれの発言も儀礼を遂行する当の人々の口からは、けして聞かれそうもない見解である。

 「儀礼がコミュニケーションの手段であることは明らかであるが、それは何をコミュニケートしようとするのか。あるいは、そのコミュニケーションはいかなる性質のものなのか。」『儀礼の象徴性』と題された青木保の儀礼論の一節はこのような書き出しで始まっている(青木保 1984:48 )。何をコミュニケートするのか、どのような性質のコミュニケーションであるのかもわかっていないのに、コミュニケーションの手段であることだけは確実だとは、いったいどういうことなのだろう。この確信はいったいどこからくるのかと問いたくなる。手放しの確信に満ちた断言と自信なさが同居するこの奇妙な文章は、儀礼はコミュニケーションであるという命題が、しっかりとした理論的裏付けをもった命題というよりは、人類学者が安心して彼らなりのやり方で儀礼に取り組んでゆくために、進んで身を任せる一種の根拠のない信念にすぎないのかもしれない、という事実を疑わせるのに充分である。

 儀礼が読み解かれるべきメッセージを含んだ「象徴的行為」であるというのは、いまや人類学者の共通の了解事項、常識となっているが、儀礼の当事者である人々の常識とこうまでかけ離れた常識も珍しい。当の人々にとっては儀礼はあくまでもある目的に仕える手段なのであって、ドゥルマにとって未亡人が行なう余所者との無言の性交は、彼らの言い方を借りれば、まさに「死を投げ棄てる」ために必要とされているのであり、けっして自らの社会に対する深遠なメッセージを伝える(いったい誰に対して?)ためのものではないのである。

 グーディは、人類学における「象徴的」という言葉の使用が「往々にして、単に観察者がある行為を内在的な手段−目的関係、『合理的』な因果連関の観点からは理解することができないということを告げる一つの方便にすぎないと判明する」と早くから指摘している( Goody 1961:156)。ある行為が象徴的であるとされるとき、そこには当の人々に従ってその行為を手段−目的関係の観点からとらえることに対する、人類学者たちの側での当惑とためらいがあったはずなのである。彼らは、儀礼的行為を「呪術 magic」という名で呼ばれる倒錯した技術的企てと見做すことからくる、現地人に対するフレーザー流のいわれのない中傷に組するわけにはいかなかった。そこで儀礼が置かれている手段−目的連関から、むしろ目をそらすことを選らんだのである。しかし、もしそうだとすると、これはあまりにも安易な選択であった。

 儀礼は何らかのメッセージを伝える象徴的行為であるという命題が、人類学者のあいだで単なる方便から一つの信念にまで高まるに至る過程で、 E. リーチの儀礼をめぐる言説はきわめて興味深い位置を占めている。彼はその命題を単に前提として受け容れるだけに止まらず、それに説得的な根拠付けを与えようと腐心しているのである。そしてその後の人類学者が書いたものを見る限り、その目論見はかなりな成功を収めたようなのだ( Tambiah, Lewis, Turner) 。

 1954年に彼は、ほとんどすべての社会的行為が、手段−目的関係で理解できる「技術的」な側面と、行為者についての何か(彼によると行為者の社会的地位)を語る表現的なあるいは伝達的な communicative 側面をあわせもっていると論じ、後者を「儀礼的」側面と呼ぶことを提唱している( Leach 1954:10-14)。後者を「儀礼的」と呼ばねばならない必然性などどこにもないではないか、という疑問はさておき、彼のこの議論は、儀礼を行為のもつ伝達的な側面と関係付けたうえで、この「行為には二つの側面がある」という一見妥当な命題によって儀礼がコミュニケーションであるという主張を補強しようとした試みとなっている。かくしてリーチは1968年に次のように語ることができた。

 文化的に規定された状況で生じるあらゆる人間行為はこうしたやり方で分割可能である;何かをなすという技術的な側面 technical aspectと何かを言うという美的、伝達的側面 aesthetic, communicative aspectである。以上で検討したいかなる定義によるにせよ、儀礼と名付けられた種類の行動においては、美的、伝達的側面がとりわけ顕著である。
(Leach 1968: 523)

よく引用される別の論文では、彼は人間の行動を、技術的、伝達的 communicative、呪術的の三つに分類し、後の二者をまとめて「儀礼的行為」と呼んでいる(Leach 1966) 。そこでは儀礼はなんらかの目的に向けられた行為としての技術から完全に切り離され、もっぱらコミュニケーションとして扱われることになる。

 行為に技術的と表現的(あるいは伝達的)の二つの側面があるという命題が、リーチにおいて、なぜこうした儀礼とコミュニケーションとの同一視を可能にしているのかについては、もう少し立ち入った検討が必要である。

 意外なことにリーチの議論のなかには、行為の伝達的な側面なるものがどのようなものであるのかについての、積極的な規定を見い出すことはできない。それは二つの仕方で読者に提示されている。第一に「技術的」側面の残余の部分として。第二に2〜3の印象的な例を通じて。

 カチンの稲作を例にとって彼は語る。土地を開墾し、植えつけ、除草するといった面を見る限りそれは単純な技術的行為である。しかしそういったすべての活動は同時に「ありとあらゆる種類の技術的には余分な装飾物 technically superfluous frills and deco- rations 」によって彩られている。こうした技術的には余計な要素こそ当の人々について「何かを語る」伝達的あるいは「儀礼的」側面なのだ(Leach 1954:11-12) 。ただし次のことは注目に値する。何が技術的に余計な要素なのかという点は人類学者の判断に基づいているという点である。ともあれ、行為の伝達的側面は行為からその技術的側面を差し引くことによって得られることになる。

 あらゆる行為に伝達的な側面があることは、また次のような例によっても示される。確かに空腹を満たす目的でなされる行為が、例えばナイフとフォークの使い方などを通じて、はからずもその人の育ちや社会的地位を語ってしまうといったことがある。また、寒さを防ぐ目的で着る洋服が、何をどのように着るかを通じて着る人についての情報を与えるといったこともある(Leach 1968)!こうした例から「伝達的」な側面が何であるのかを推し測ることができるかもしれない。

 しかし、いずれのやり方にしても伝達的なものを同定するための非常に良い方法だとはとても言い難い。純然たるコミュニケーション行為に他ならぬ発話行為を考えてみよう。リーチの用いた例が示していることから判断する限り、発話行為の「伝達的側面」は、しかじかのメッセージの「伝達」そのものに関わる部分ではなく、発話行為がイントネーションその他を通じて発話者の身分や態度、聞き手との関係などを表現してしまうといった現象、つまり言語学者が言語の心情的機能などと呼んでいる側面に対応することになってしまう。もちろん、それもまたコミュニケーションであると言って言えないこともない。しかしそれは発話行為をつうじて行なわれるコミュニケーションのなかでは、せいぜい副次的、随伴的なものである。もしリーチが発話行為をとりあげていたとしたら、彼は逆に、多くの行為は言語によるコミュニケーションが「何かを語る」ような仕方では何かを語っていない、という結論を出さねばならなかったはずなのだ。しかしこの相違はコミュニケーション=何かを語ること、という曖昧な規定によって無視されてしまう。

 一方、純然たる儀礼的行為を論じる際に援用されるのが、行為マイナス技術的側面という規定である。そのためには技術的側面の同定がまず必要であるが、すでに見たように、リーチにとってはそれは別段難しいことではないらしい。それは観察者が判断する問題なのである。かくしてカチン族の宗教的供犠の「技術的側面」について、その「目的」が食肉の獲得と分配であるという、文化唯物論者ならおおいに喜びそうな驚くべき言明に我々は出合うことになる(Leach 1954:13)。技術的側面は手段−目的関係からとらえられるものに関しているが、当の人々がその行為をどんな手段−目的関係のなかに位置付けているかは、その際考慮する必要がないのである。このように一たび儀礼がおかれている当該文化における意味連関を排除し、観察者の側でそれを設定してやればよいのだとすれば、所謂「儀礼的行為」のほとんどが「技術的には余計な装飾物」からなり、儀礼をもっぱらそれ以外の側面−−そしてそれは既にリーチによって伝達的側面だということにされている−−に関わるものだとするのは、実に容易なことである。

 こうして「儀礼」と「言語」は、本来一致する保証のどこにもない伝達的な側面に関する二つの規定のうす暗い空隙の中で出会い、ひそかに結びつくことになる。コミュニケーションすなわち「何かを言うこと」という曖昧な規定を頼りにして、2〜3の例によって示された、ほとんどすべての行為がコミュニケーションの側面をもっているという指摘が、行為マイナス技術的側面というやり方でもっぱら伝達的なものだということになった儀礼について、あたかも言語のようにそのメッセージを読みとったりできる伝達行為であるかの如く語りうるという錯覚を与えているだけなのである。

 以上簡単に見てきたようにリーチの議論は、儀礼が何らかのメッセージを伝える象徴的行為であるという命題に理論的裏付けを与えるようなものではない。むしろそれは、現地の人々が儀礼を位置付けている手段−目的関係には目をつぶって、儀礼をコミュニケーションの行為として分析していこうという、古くからおなじみの根拠のない選択を再び繰り返しているだけのものなのである。

1−4

 儀礼において、人類学者は行為についての通常の理解のやり方が通用しそうもない一連の行為に直面する。それは、死者を喜ばすことであれ、死を投げすてることであれ、明らかにある目的に向けられているのだが、その目的とのあいだには内在的な意味連関が欠けているように見える。つまり特定のコンテクストや目的との関係において理解することが困難なのである。他方、儀礼を構成する諸行為はいかにも「意味ありげ」に見えるため、それを「象徴」と呼びたくなるのは、無理もないことなのかもしれない。服喪の終了に際してなされねばならない未亡人の余所者との性交は、なるほど性交であるには違いないが、明らかに単なる性交ではない。それは単なる性交以上、以外の何かであるはずだ、つまり象徴的なのだ。

 定義によると、何かを「象徴する」もの、意味するものが「象徴」である。しかし人類学者は逆に、あるものが何を意味しているのかわからないという理由で、それを「象徴」と呼んでしまったのである。

 しかし彼らはこの出発点を忘れてしまう。次には「象徴である以上、何かを意味しているはずだ。従って、それを解読することが我々の勤めである」という、ピントはずれの目標に邁進してしまう。儀礼は何か解読されるべきメッセージを含んだコミュニケーションだということになってしまった。

 我々が犯してきた過ちは明らかである。しかしでは一体、「儀礼」とはそもそも何だったのであろうか。儀礼を構成する諸行為は相かわらず意味ありげである。本当にそれは「象徴」ではなかったのだろうか。もしそれが「象徴」ではないとすれば、それはいったい何だったのだろうか。

 儀礼がコミュニケーションであるということが仮りに間違いだったとしよう。そのことはこれまでなされてきた儀礼研究をすべて無効にしてしまうことになるのではないだろうか。もしそうであれば、話は実に単純になるところだ。我々に必要なのは、従来の分析とは全く異った分析の方法だということになる。しかしそう単純な話ではないのだ。私は人類学者による従来の儀礼研究が実り多いものであったことを認めている。それらは儀礼を構成する諸要素が象徴であるとして、その「意味」の解読を目指したものであった。しかし今や、「儀礼は象徴によって構成されており、そうした象徴的行為を用いて何かを伝達するコミュニケーションである」という前提にあまり根拠がなく、またむしろそれが誤りであろうことも私は十分の確信をもって述べることができる。私が当惑するのはこの点である。あやまった前提も正しい結果を生むことがあるという事実を、単に認めてやればそれですむという問題ではなかろう。むしろこう考えるべきなのだ。人類学者が「象徴」の「意味」を解読すると称して行なってきたこと、それは「象徴」でも「意味」を解読する行為でもなかったのだと。人類学者は自らのプラクティスの性格について誤認してきたのだ。しかしそうだとすると、それは何だったのだろうか。

 以下において展開される一連の論考が向けられている問題系は、ざっとこのようなものである。漠然と「儀礼的」と称されている一群の慣行が、いったい何であるのか。それが人間の経験のどのような側面にかかわるものであるのか。その分析において実際に行なわれていることは何か。

 一連の論考は必ずしも組織だったしかたで配列されることはないであろう。一つひとつは特定のテーマに関する独立した論考の形をとることになろう。この総序は、そうした一つひとつの論考−−それ自身をとれば人類学の通常の問題系から大きくはずれたものにうつるだろう−−がどのような人類学上の問題系との関連でとらえられるべきかを示すという目的でおかれている。それはこれから展開されるはずの論考の見取図ですらない。それは進むべき方向だけを示している。そして私は自分が最終的には行きつくかもしれない場所についてまだ知らない。この意味で、この総序は一連の論考が完結した時点で、またそのときに限って書き換えられるべき性格をもっている。


記号の三項関係 : パースの記号論をめぐって


儀礼は確かに「象徴的」な行為によって構成されている。つまりそれは「意味ありげ」な行為からなっている。しかし「象徴的」であることと、「象徴」つまり何かを意味する記号であるということとは別のことである。では象徴的であることとは、どういうことなのであろうか。
この問いに答えるためには、「意味」の問題を避けて通ることはできない。この概念こそ儀礼や象徴について語る人類学者が、しょっちゅう口に出す言葉でありながら、一度としてまともに考察の対象に上ったことのない概念なのである。

第一論考では、パースの記号論の検討を中心に据えて、意味の問題への足掛かりをつけたいと思う。

はじめに

 意味とは何か、とちょっと問うてみよう。こんな問いは普段の生活ではめったにお目にかからないし、またちょっと問うてみる気にもならない問いだということに、すぐ気付くはずだ。ある言葉や、誰かの発言や、なんらかの出来事をつかまえて、それについて「その意味は何か」と問うことなら、かなり頻繁にやっている。またそれらの問いに対して「その意味は..... ということさ」といって答えることも、またごく普通のことだ。我々は「意味」という言葉をそれなりに正しく使うすべは充分心得ているようである。小学生用の国語の問題集を見れば、「下線を引いた言葉の意味を変えないように、別の言葉に言い換えなさい」などという設問があったりする。これから考えると、「意味」という言葉の使い方は随分早いうちから我々に身に付いていることなのである。こうした我々の言語センスから判断すると、「意味とは何か」と言う問いは、何か余計な問いのような気がしてくる。あるいは、より正確に言うと、この問いには、ここでは「意味」という言葉がちょっと普通でない仕方で用いられているのではないか、と感じさせるものがある。

 この問いが人々の口にのぼることが、普通にはまずないということだけからも、この問いは「意味」という言葉の普通ではない使い方にもとづいているものだと、わかることはわかる。もちろん「文法的」には別にどこといっておかしいところはない。また、それに答えてみようという気にはまずならないけれども、仮りにこうした問いを問う人がいたとしても、それはそれで悪くはないという気もする。しかしやはり奇妙な問いなのだ。我々が普段問うてみようとしない問いは他にもたくさんあるし、中には日常生活の惰性のなかでの怠慢その他正面きって認めたくないさまざまな理由で、単にそれから目を背けたり誤魔化たりしている、真に問うべきでありながら誰もが問わずに済ましている、そういった問いもある。しかしこの問いは、どうもそれらとも違っている。

 結論をはっきり言ってしまおう。「意味とは何か」という問い「意味の意味は?」などという悪い洒落にすらならない問いは、我々をどこにも導くことのない、それを問うてしまうことが単に障碍にしかならないような種類の問いなのだ。私はこの第一部で、「意味」という言葉を使用する際に我々は何を実際にはしているのかについて、考えてみようとしている。それは「意味とは何か」という問いの答えを与えようとする試みとは区別されなければならない。事実、それはこの問いの無効性を示そうとする試みなのだということがわかるはずである。

 とは言うものの、どのような問いでもそれを問うのは当人の勝手である。そして哲学者とか言語学者とか意味論学者とか呼ばれる、けっこう多くの人々が「意味とは何か」と問い、それに答えてみせてくれている。それをざっとおさらいしておこう。それが「意味とは何でないか」を確認するためのことになってしまうだろうとしても、それは第一部の議論がその上に組み立てられることになる共通の了解事項を読者と共有することには、なるはずだ。

言葉の意味とは何か

 言葉の「意味」とは言葉に結び付いた「何か」だと考えられているのだろう。それを「内容」と言えば、さらに実体的なイメージが強まることになる。容器とその中身という比喩で語っているのだ。それは伝えたり、与えたり、込めたりできる何かでもある。やはり容器と運搬の比喩で語っているのだ。しかし、これらの日常的な比喩的表現は、容器に入れられ運搬される当のものについては何も教えてくれない。しかしそれは「何か」ではあるに違いない。だからこそ「それは何か?」とか「どんなものか?」と問うたりすることができる訳である。

 言葉の意味についての言説は、こうした比喩を少なくとも、意味が「何か」であるという点では無条件に受けいれ、そのうえでその「何か」が何であるかを明らかにしようと試みている。それは問うている本人にとっては、「経験に根ざした」まったく正当な問いに見えてしまっている。という訳で、ともかく、いくつかの答えがすでに出されている。そしてその各々について、その答えが不充分なものであることが誰かによって既に指摘されている。ここでは私自身によって付け加えねばならないことは、ほとんどない。その各々の難点を理論の精緻化によって救い出そうという企てについては、言及しないでおこう。例えば、語の水準、文の水準、発話の水準を区別したりするのがそれである(eg. 竹内芳郎 1981 )。私は語の水準に限って、語に結び付いているとされる「意味」が何であるかに、直接答えようとしたもののみをとりあげよう。語に意味があるということ自体を否定しようというのでない限り、語の水準で救い出せないものが、他の水準では救い出されたりするなどとはとても考えられないからだ。また各々の見解とその批判について、一々出典を明記したりもしないでおこう。この章には、予備知識の確認以上の意味はないからである。従って「意味とは何か」という問いに答えなどあるはずがないと、既に御存知の方は以下はとばして読み進んで頂いても差しつかえない。

意味=指示対象

 言葉の意味とは、その言葉が指示する対象のことだ。

 言葉が指示する対象なるもの自体、実はやっかいな問題を含んでいる。しかしこの説の有効性は、そうしたやっかいさを無視したところに、もちろん成立している。部屋のなかで「窓を開けてくれ」と言われた人は、「窓」という言葉が指示している対象が何であるかを思い迷ったりはしない。

 しかし言葉の意味が、それが指示する「実在」する対象であるとすると、「一角獣」とか「ネクター」(もちろん缶入りのジュースのことではない)のように実在する指示対象をもたない言葉には「意味」がないことになってしまう。これが第一の批判である。また「明けの明星」と「宵の明星」は同じ指示対象をもっているけれども、各々の「意味」は違うではないか、などということも生じる。これが第二の批判である。また「イヌ」といっても一匹一匹の犬はそれぞれ違ったところをもっている。こうしたそれぞれ異なる犬を指示しているその都度、「イヌ」という言葉の意味は違っているということになるのか、またそばに犬がいない場面で「イヌ」という言葉を使っているとき、いろいろいるだろう犬のうちのどの犬が指示対象になっているのか、などという上げ足取りをすることもできるだろう。

 という訳で、意味=指示対象説を維持しようとすれば、「指示対象」なるものを「実在」する対象とは別のものに作り変えてしまわねばならない。例えば「すべての犬の集合」が「イヌ」という言葉の指示対象であるとか、ひとつの文化において存在物として規定されているものを、それが空想上のものであれ何であれ、存在する対象と考えようとかいった解決が図られることになる。これは知覚的、感覚的に「存在」しているとは言えないような形での存在を「存在」として認めることである。「一角獣」という言葉にも、ちゃんと指示対象がある。それはもはや知覚的に「ある」とは言えないような、それとは別の仕方で「ある」指示対象ではあるが。目の前に犬がいないときにも「イヌ」という言葉の指示対象は「いる」。それは特定のしかじかの犬が目の前に「いる」というのとは違った仕方でではあるが。こうして指示対象そのものが、とらえどころのないものになってしまうと、意味=指示対象説が当初もっていた簡明さは失われてしまう。それは次に述べる「意味=観念説」と、たいした違いのないものとなってしまっているのだ。

 もっとも意味=指示対象説に向けられたこれらの批判の方も、それほど分がいいとは言えない。例えば、「一角獣」という言葉には実在する対象が対応していないが「意味」はあるではないか、と語る人に、何故意味があると言えるのか聞いてみよう。あるいは「明けの明星」と「宵の明星」では、指している物は同じでも「意味」が違うと語る人に、何故意味が違うといえるのか聞いてみよう。結局のところ「わかるでしょう。だって、そうじゃないか。」という以上の答えは得られそうにない。「意味がある」という判断、「意味が同じである」という判断には間接的証拠以上の根拠をあげることはできないし、「意味が違う」という判断についても同様なのだ。「意味」とは「ほら、ごらん。このとおりあるよ。」とか「このとおり同じものだよ(違っているよ)。」とかいった具合に示してみせることのできないものなのだろう。しかし、それがあること、同じであったり、違っていたりすることは、あまりにも明らかではないか、という訳である。それ自体根拠付けようのない経験が根拠となっているのだ。とすると、こうした批判をあまりにも自信たっぷりに振り回すのも、ちょっと考えものだという気がしてくる。

 しかし意味=指示対象説の最大の難点は、実は、それが「意味」という言葉の誤用に基いているという点にある。誰かに「犬という言葉の意味は?」と尋ねられたとき、いちばん手っとり早いのは、手近にある犬を指し示すことであろう。しかし仮りにその犬が死んだからといって、「犬という言葉の意味が一匹死んだ」とは誰も言わない。意味を問われて指示対象を示すことは、意味という言葉の正しい使用に属している。しかし「言葉の指示対象がその言葉の意味である」と語ってしまうと、「意味」という言葉を誤って使用したことになるのである。

意味=心像(イメージ)説

 意味とは言葉に対応する心像、あるいは心の中で思い描かれた、言葉に対応する対象のイメージのことだ。

 文字どおり心に浮かぶ像という点で考えるなら、この説は全くナンセンスとなる。我々は、例えば「千角形」と「千一角形」の意味の相違を、それが喚起するそうした心像の相違から知ったりする訳ではない。そもそも「千角形」と「千一角形」について各々異なる心像を描いてみせることのできる者などいない。いずれの場合も単に「多くの」辺を有する、なんらかの多角形を想像しているにすぎない。

 何も視覚的なイメージに話を限定する必要はないと言われるかもしれない。その言葉によって引き起こされる連想やら記憶された経験やらの複合的なイメージとして意味を考えればよいではないか。こうした拡大された意味で、「意味」とは心像であると言えばよいという訳である。しかし、このようにしたところで、「千角形」と「千一角形」の意味がはっきりと違っている程の明確さで違っている二つの心像を、各々の言葉が喚起できるとは、とても思えない。さらに心像は、きわめて移ろいやすいものである。ある言葉を聞いて、何らかの心像が浮び、そして消えていったとする。このとき我々は、その言葉の「意味」が一瞬浮んで、そして消えていった、などとはけっして語らない。意味とは心像である、と語ることは、意味とは指示対象であると語るのと同様、「意味」という言葉の明らかな誤用なのである。

 しかしそれにしても、「意味」の異なる二つの言葉が、我々の心の中に異なる二つの何かを喚起しているとぐらいは、いえないだろうか。それなら、何もイメージなどと言わずに、いっそ次のように言えばよかろう。

意味=刺激・反応説

 言葉の意味とは聞き手のなかに引き起こされる反応のことだ。

 これはしばしば、「意味」の行動主義的解釈として知られている説である。この説は、ときに悲しいくらい「行動主義的」でありすぎて、このため単なる嘲りの的として扱われることすらある。「君の家が燃えているよ。」と告げられても、「君の奥さんが浮気してるよ。」と告げられても、聞き手が全く同じように血相を変えたからといって、この同じ「反応」から二つの発話の意味が同じであるなどと言い出す人がいたとすれば、それこそ我々のあいだに笑いという反応を引き起こすのがせきの山である。しかし、もし反応ということで、大脳神経系の反応を考えているとすれば、これはもうまとも過ぎるくらいまともな話である。人間の精神活動のすべてが大脳によって担われていることは、否定しようのない事実である。とすれば「意味」を、こうした大脳の活動と見做すことは、完全に筋が通っているように思えよう。

 しかしそう考えるには都合の悪い事実がある。我々が、ある言葉の意味について考えることができるという事実そのものが、「意味」を大脳神経系の反応だとする説にとっては、いささか具合が悪いのである。例えば我々は、「二つの言葉の意味の違いを考えてみなさい。」などと言われて、実際考えてみたりする。我々はこの時、二つのものを比べているのだろう。その二つが何であるかを言うことはできないにしても、少なくともそうするとき、我々が比べているのが、我々の大脳の中に生じている二つの反応ではないことだけは、あまりにも確かなのである。同様にある言葉の意味を尋ねる人は、けっして、その言葉が相手の大脳に引き起こす反応について尋ねている訳ではない。大脳神経系の反応が意味である、と語ることも、明らかに「意味」という言葉の誤用であると思われる。

意味=用法説

 言葉の意味とはその用法である。

 ある人がある言葉を奇妙な仕方で使用している、例えば、「抽象的」という言葉を「今日の私の服は抽象的だ」とか「昨夜の夕食はとっても抽象的だった」といった形で使い続けているのを見れば、我々は最後には、彼は「抽象的」という言葉の「意味」を知らないで使っているのだと判断せざるを得ないであろう。逆に言うと、ある言葉の「意味」を知っているということは、その言葉の使い方、用法を知っていることに他ならないということである。とすると結局、言葉の「意味」とはその言葉の使い方のことだったのだと言えそうである。これが意味=用法説である。しかし本当にそう言ってよいのだろうか。

 もしそうだったとすると、『広辞苑』のような国語辞典にも、もっと別の書きようがあっただろうにということになる。それは個々の言葉の使用法を教えるマニュアルのようなものでもよかったはずだ。実際には、それは個々の言葉を別の言葉で言い換えてくれているだけである。そして我々が誰かにある言葉の「意味」を尋ねるときにも、我々が求めているのは、せいぜいこうした言い換えであり、またこうした言い換えが答えとして与えられたときに、それじゃあ使用法の説明になっていないなどと、不平を漏らしたりはしないものである。もちろん言葉の使用法は説明されるべきものではなく、単に示すことしかできないのだ、ということであれば、こうした言い換えが、その手掛りを与えてくれている以上、あえて文句をつけることもないということになろう。しかし問題なのは、我々がある言葉の「意味」を問うているとき、我々としては自分がその言葉の「用法」を尋ねているのだとは全く考えていないという事実である。

 ある言葉を知っているということが、その言葉の使い方を知っているということであるというのは明らかなことである。それがその言葉の「意味」を知っているということでもある。これらの指摘は完全に正しい。しかしだからといって、言葉の「意味」とは、その言葉の用法である、と言ってしまうと話がおかしくなってしまうのである。

 我々はある出来事が「意味ありげ」であると語ったりする。我々はその出来事の「用法」について語っているのであろうか。またある何かが何かを「意味している」などとも語る。少なくとも「用法する」などという言葉を私は聞いたことがない。それでもやはり我々は「用法」について語っているといえるのであろうか。

 意味=用法説の前半の正しい指摘については私は全く異論がない。ある言葉を知るためには、それがどのように用いられているかを知らねばならない。「意味」という言葉についても、同じことがなされるべきであろう。そして「意味」という言葉についてそれをやってみれば、言葉の意味はその用法であると語ることが、「意味」という言葉の間違った使用以外の何ものでもないとわかるのである。

意味=観念説(概念説)

 言葉の意味とはその言葉の概念である。

 結局我々はここに戻ってくることになる。しかし、これが「意味」という言葉の説明になっているかどうかは大いに疑わしい。というのは「概念」という言葉は、「意味」という言葉をたくみに言い換えただけのものにすぎないからである。従って、意味が概念であるということについては、そもそも異論のとなえようがない。確かに「意味」は「概念」なのである。だからこそ却ってそれは、意味について何も教えてくれないのだ。

 例えば、「イヌという言葉の意味とはイヌについて我々が持つ概念である、」などと言われたりする。これは「意味」についての言説としては、ごく普通の言い方である。しかしいったいここで何が言われているのだろう。この文の中には「イヌ」という言葉が二回でてくる。最初の「イヌ」は言葉としてのイヌである。ちゃんとそうことわってある。しかし二回目の「イヌ」は何だろう。もしこれが言葉としてのイヌだとすると、この文は、「イヌという言葉の意味とはイヌという言葉について我々が持つ概念である」ということになって、単なるトートロジー的な言明となってしまう。もちろん二回目のイヌは、言葉としてのイヌではなく、現実にいるイヌのことだということになろう。つまりこの文は、言葉の指示対象という考え方に暗黙のうちに訴えているのだ。指示対象をめぐるやっかいな議論が当然入り込んでくる。それは現に目の前にいる特定の犬のことではあるまい。実際今私の前には犬などいない。とすると、それは現に知覚的に与えられているイヌではない。知覚的に与えられうるどの特定のイヌでもない。それはオスだともメスだとも言えない、毛並が長いとも短いとも言えない、寝ているとも起きているとも言えない、白だとも黒だとも言えない、そんなイヌだということになろう。しかしそもそもこんなものについて我々が持つ概念というのはいったい何だろう。もちろん我々はイヌなる生き物を知覚的に経験してきているではないか、と言う人もあろう。しかし、そうした経験がいかにしてイヌという言葉が指示しているものの経験であって、単なる色や音の経験ではなかったと言いうるのだろうか。それは「イヌという記述のもとでとらえられた何か」の経験である限りにおいてイヌの経験であったと言いうるのみなのである。つまり「言葉としての」イヌの経験でもあって初めて、それは生き物としてのイヌの経験であったと言うこともできるのである。

 ところで、先程の文でイヌを一角獣に換えて、「一角獣という言葉の意味は一角獣について我々が持つ概念である」と言ってみたとせよ。この文で二回目に出てくる「一角獣」を現に存在する一角獣だと強弁することはもはやできまい。一角獣について我々が持つ概念とは、結局、一角獣という言葉について我々が持つ概念以上のものではありえない。とするとイヌについても同じことだったのだとは言えないだろうか。つまり、こうした言い方は、「〜という言葉の意味は、〜という言葉について我々が持つ概念である」というトートロジー的な言明にしかすぎなかったのである。

 しかも単にトートロジー的であるというだけではない。もし仮りに「イヌという言葉の意味は何ですか」と誰かに問われたときに、「それはイヌについて我々が持つ概念です」と答えたとすれば、それはその問いの答えには全くなっていないし、相手を怒らせてしまうのがせきの山である。意味は概念であると語ることも、やはり「意味」という言葉の誤用と呼んでよい使い方だったのである。

 もしこれがトートロジーではないとしても、むしろ困難な問題を生じさせるのがおちである。そもそも「意味とは何か」と問うことが正当であるとすれば、それと同じ正当さで、「概念とは何か」と問うことも可能なはずである。しかしその結果は、我々がここでおさらいしてきたことを、逐一再演するだけのことになると予想してよい。概念とは概念であるという、「意味」については持ち出すことのできた最後の解決だけは、問題にならないが。

 以上、「意味」についての伝統的な諸説をざっとおさらいしてみた。いずれの説も一面の真理をついているようでありながら、満足のいく答えとはなっていない。すべての答えに共通しているのは、いずれの答えにおいても「意味」という言葉が誤用されてしまっているという点である。誤用という言い方が強すぎるとすれば、「普通でない使い方」と言い直してもよい。「意味」という言葉を、それが普段使われるときにはみられない仕方で、しかもそうした普段の使い方に抵触してしまうような仕方で、使用してしまっているのである。そもそも「意味とは何か」と問うこと自体が、「意味」という言葉の使用における逸脱だったのではないか、という疑問をもつことは、おそらく正当であろう。

「意味の問い」

 このように正面きって「意味とは何か」と問うてみても満足な答えは得られないし、事実たいていの人は答えることができない。しかしこの事実は、我々が「意味」という言葉を用いていろいろなことを語るのを、なんら妨げない。そもそも我々が常日頃用いている言葉の多くは、それによって( in terms of)何かを語るようにはできていても、それについて( about ) 語ることがおそろしく困難なようにできているのだ。例えば、我々は「義理」という言葉を用いてさまざまな事柄について語ることができる。「私は彼に義理がある」とか「彼は義理がたい」とか「それでは彼に対して義理を欠くことになる」とかいった具合である。しかしいざ正面きって「義理」とは何かと問われるとたちまち答えに窮してしまうのである。ある言葉「によって」何事かを語るというのと、その言葉「について」何事かを語るというのは、しばしば全く別のことだ。「意味」という言葉も、数多くあるこうした言葉の一つにすぎない。こうした言葉について考えようとすれば、いきなりそれについて語ろうとするよりも、それによって何が語られているのかを見たほうが、実際手っとり早いはずだ。よく言われているように、光源を見つめても目がくらむだけだが、光源がそれを見つめるためにではなく、それによって照らされるものを人がみつめるためにこそそこにあるのだという事実に気付きさえすれば、誰も光源を見つめるなどという愚かなことをしようとは思わないだろう。

 もちろん哲学者や言語学者、記号論者たちは「『意味』について」の数多くの言説を残してくれていた。それらがすべて愚かだという訳ではない。しかしそれらは、光源が照らし出してくれているものからあえて目をそむけて、光源そのものに目をこらそうとしている度合に応じて、愚かなものでありうる。というのは「意味」という言葉は、とりわけこうした性格をもった言葉だからである。それは他の言葉、物、出来事「について」の言説がそれ「によって」組織されるような類の言葉である。我々は、「意味」という言葉そのものについて考えることなしに他の言葉や物、出来事についてその「意味」を問うことができるし、その問いに対する答えがどのような形をとるべきかも知っている。その限りにおいて我々は「意味」という言葉をよく知っているのである。「『意味』という言葉の意味は?」とか、「『意味』って何?」という問いは、従って、そもそも問いとして奇妙な問いだということになる。そうした問いを発することができるという事実そのものが、彼がすでに「意味」という言葉についてよく知っているということを物語ってしまうのである。「意味」という言葉「についての」言説は、「意味」という言葉「によっての」言説によって支えられるべきなのであり、通常考えられているようにその逆ではない。

 とすると、まず「意味」という言葉「によって」我々が何を語っているのかを、実例に即して検討することから始めねばならない。

 我々はよく「それはどういう意味ですか」といった問いを発する。この問いは一つの言葉について発せられることもあれば、発言の全体に向けられることもあるし、あるいは事物や行為や出来事に対して発せられることもある。まず手始めに、次のような例を考えてみよう。

「選択とはどういう意味ですか。」
「いくつかある中から一つ選ぶということさ。」
「いや、そうじゃなくて、どういう意味かと聞いているのです。」
「それは僕が君にすべておまかせするということさ。」
男が右手を上げた。それはどういう意味か。彼は部屋の電灯を消そうとしているのだ。それはどういう意味か。彼は追跡者に彼の居場所を知られたくないのだ。
男の左手の人差し指にペンだこがあり、そこにインクが染みついている。それはどういう意味か。彼は物を書く仕事についており、左ききであることを意味する。
「ウヨクってどういう意味?」「あいつらのことさ」と言って、車のなかから拡声器でがなり立てている人々を指差す。
「こんなことをして何の意味があるんだい?」
「僕のような人間がいたってことの証明くらいにはなるだろう。」

 「意味」という言葉を用いることによって、いったい何が語られているのだろう。こうした例を挙げると、きまって、これらの諸例においては「意味」という言葉がそれぞれ異なる意味で用いられているのである、などと訳知り顔で言い出す人がいるものである。こうした方にはしばらくのあいだ御退席願うことにしよう。「〜とはどういう意味か」という問いを発することをつうじて我々が相手に求めているものは何か、ということがまさにここで問題となっているのだ。「意味」という言葉のもつ異なる意味について語ろうとする人は、「しかじかの文における『意味』という言葉はどういう意味か」という問いを既に前提としてしまっている。そこには問題とすべきことがらに対する驚くほどの無反省な態度を見ることができるだけである。

 我々はさまざまな機会に、「〜とはどういう意味か」と繰り返し問うてみせるが、その都度、自分たちが実際にはそれぞれ異なった問いを問うているのかもしれないなどと思い悩んだりしないものである。というのは我々には、ここであげた「意味」という言葉「によって」語られる問いと答えが示している共通性、一貫性は疑いのないものに見えるからである。それは実に単純なことである。「意味」の問いは、いずれの場合においても、問題となる言葉や発言、行為や出来事等を、それとは別の何かに置き換えること、あるいはそれとは別の何かに関係付けること、あるいは関係付けつつ置き換えることを求める問いだということである。

 「選択」という言葉を「いくつかの中から一つを選ぶこと」に置き換え、あるいはその発言を話手の意図に関係付けてやれば、それがその問いの答えである。「ウヨク」という言葉を窓の外の人々に置き換えてやれば、それも立派に答えとなる。「右手を上げる」行為とも記述できたその行為を、壁のスィッチと関係付けつつ「電灯を消す」という記述に置き換えてやれば、あるいはそれをさらに、彼をひそかにつけねらっているかもしれない追跡者の存在と関係付けつつ「所在を隠す」という記述に置き換えてやれば、それがその問いに対する答えなのである。それをそれとは別の何か、意図であれ、目的であれ、動機であれ、原因であれ、結果であれ、彼の立場であれ、彼の置かれた状況であれ、ともかく何かと関係付けて示すことができれば、それらはいずれも「意味の問い」に対する答えとなりうる。

 別の何かとの置き換え、あるいは関係付け、あるいは関係付けつつ置き換えること、これが「意味の問い」が求めているものだとさしあたり言えそうである。置き換えと関係付けとの関係についての立ち入った議論は後にまわして、ここで、意味「についての」言説のよく知られたタイプについてちょっと考察しておこう。「意味を問う」問いが求めている答えがこうしたものであるというのならば、「意味」とは結局は、答えとしてあたえられたこうしたもののことなのだ、と人が考えたとしても実に当然のことである。あるものの「意味」とは、それが置き換えられ、関係付けられる別の何かのことである、と考えてどこがいけないというのだろう。かくして「意味」についての極端な一つの立場が生まれることになる。

ヤコブソンによる「意味」の意味

 「『選択』の意味は?」と問われて「いくつかあるものの中から一つを選ぶこと」と答えるとすれば、単純に考えて、「いくつかあるものの中から一つを選ぶこと」が『選択』の「意味」であるということになる。しかしこれはそれ自身、言語記号からなる記号列である。とすると言語記号の意味とは、その記号と置き換えられるもっと別の記号(列)のことであるということにはならないだろうか。これが高名な言語学者ヤコブソンによる「意味」の定義である。なんともストレートな定義ではないか。意味とは別の記号への翻訳である。それが同一言語内でなされる場合を「言い換え」、異なる言語間でなされる場合を「翻訳」、言語以外の記号でなされる場合を「移し換え transmutation」と呼ぼうと彼は提唱する。「意味」のこの定義は、彼によると、「情報をあらゆる可逆的符号化あるいは翻訳操作における不変なるもの、つまり『そういったすべての翻訳の等価クラス』と定義しようとするシャノンの提案とも一致」する。

 この定義は、意味を概念であれ心像であれ、何か実体的なものとしてとらえる定義よりは、はるかに洗練された定義となっている。むしろそれは、従来「意味」なるものの候補にあげられてきたあらゆるもの、概念であれ、心像であれ、指示対象であれ、を包摂する定義となっている。例えば「イヌ」という言葉の意味は、広辞苑におけるように「食肉目の獣。よく人になれ、嗅覚と聴覚が発達し....」であろうと、頭に描いたイヌのイメージであろうと、絵であろうと、示された現物のイヌであろうと、およそその言葉に置き換えうるあらゆるものでありうる。それはこうしたあらゆる置き換えの「等価クラス」として定義されているのだ。

 しかしこのスマートな定義にはどこか人を欺くものがある。確かに我々は置き換えをもって「意味の問い」に答えることがある。しかし我々はそうする際に同時に、さまざまな置き換えを「意味」によって逆に正当化してもいるのである。こうした置き換えが「意味を変えずに言い直すこと」でもあることは小学生でも知っている。『選択』を「いくつかあるものの中から一つを選ぶこと」と答えるかわりに、広辞苑のように、「よいものをとり、わるいものをすてること」と答えてもよかったはずである。ヤコブソンなら、この二つの置き換えが、『選択』に関する置き換えの同じ「等価クラス」に所属しているのだ、と澄まして答えることだろう。しかしこうした等価クラスが前以って我々に与えられているわけではあるまい。むしろ、どちらも『選択』という言葉の意味を変えずに言い直したものだから、というかたちで人々は両者の等価性について語るほうが普通であろう。これも、『意味』という言葉「によって」我々がおこなう語りのよく知られた形態であることには間違いない。ヤコブソンの定義は、意味「によっての」言説のある型、意味の問いとその答え、には一部忠実でありながら、その別の型を裏切るものとなっているのである。 ヤコブソンが彼の意味の定義を負っている「記号の本質の最も深い研究者」パースの、一見謎めいた記号理論は、この点において、我々が行なう意味「によっての」言説により忠実であろうとしたものだと評価することができるだろう。

パースの三項図式

1

 パースの記号論は、「意味の問い」がしばしば置き換えを求める問いであり、また置き換えによって答えられうるという事実を正面からとらえ、それを記号の定義の本質的な要素として組みこんだ最初の試みである。彼によると、記号は他の記号に置き換えられる、あるいは他の記号を「生む」ことによって、はじめて「意味」を伝える。他の記号によって置き換えられるということは、記号に付随的などうでもよい事実ではなく、まさに記号を記号たらしめる本質であるとパースは考えたのである。パースの記号に関する錯綜した思考の全貌を解き明かし、それを体系的に示すことは、私の力を超えている。ここではその基礎概念に限って問題にすることにしたい。手始めに彼の比較的初期の論文に現われる記号の定義から見てみよう。

 そこでは記号は次のように定義されている。「記号はそれが生み出し、あるいは修正する観念に対して、何かの代理をするものである。あるいはそれは外部から精神の内部へ何かを運びこむ乗り物である。それが代理するものは『対象』と呼ばれ、それが運ぶものがその『意味』と呼ばれ、それが生じさせる観念は『解釈項』と呼ばれる。」(1.339)

 なにげなく読みとばせば、これは記号のありふれた定義とたいして変わらないではないかということになる。『対象』とは、一種の現物、所謂外在する「指示対象」のことであるかもしれない。とすると対象を代理するものが記号であるというのは、記号についての我々の常識的な見解以上のものではない。『解釈項』とは、記号が聞き手のうちに喚起する観念のことかもしれない。とするとそれは意味=観念説が記号の「意味」として考えてきたものと少しも変わるところがない。唯一奇妙な点は、『意味』が解釈項とは別のもの、解釈項を生じさせることによって運びこまれる何か、として考えられている点だけである。しかしこれもパースの混乱にすぎないのかもしれない。事実パースが「意味」を記号の定義のなかに登場させているのは、この定義においてだけなのである。

 しかしこうした単純な解釈は、その直後に続く彼の注釈によってただちに否定されることになるだろう。というのはパースは、続けてこう言っているのである。「表象の対象とは、最初の表象がその解釈項であるような表象でしかありえない。しかし、一つの表象がまた他の表象を後に従えるという形での表象の無限の系列も、その限界として絶対的な対象を有していると考えられるだろう。」(ibid.) それだけではない。「解釈項は真理の松明が受け渡される別な表象にすぎない。そして表象としてそれはまたそれ自身の解釈項を有する。またしても無限の系列である。」(ibid.) 後にパースは、この「解釈項」の無限の連鎖にも一つの限界のようなものを設定しており、それを「最終的な解釈項」と名付けている。(eg.8.184)

 パースの言っていることに素直に耳をかたむけよう。すると、ある種の無限遠点として想定された「絶対的な対象」や「最終的な解釈項」を除けば、そこには「表象」以外の何も登場していないということがわかる。「対象」といい「解釈項」といっても、結局は表象が他の別の表象との関係においてそう呼ばれているだけのことなのである。「対象」や「観念」といえば、我々が充分良くわかったつもりになっているありふれた言葉である。パースはこうしたものから出発して彼の記号概念を構築しようとしているのではない。むしろ記号の概念をつうじて、これらについて考えなおそうとしているのだ。そしてその中核をなしているのが、さまざまな表象が「記号」「対象」「解釈項」の三項関係をつくりながら、次々と連鎖していく無限の記号過程なのである。

 さらに重要な点は、パースによるとこの三項関係が「真正」なもの、つまり二項関係を組みあわせることによってできたものではない(1.346) とされている点である。もっとも二つの項のあいだの関係をそれとして語ることができないわけではなかろう。「対象」とは何か。それは「記号」が代理し、それについて語るもののことである。「解釈項」とは何か。それは記号が精神のなかに作り出す、それと等価な記号、あるいはより展開された記号のことである(2.228)。しかしこう語られる際にも、直接言及されていない第三項が前提とされていることを忘れてはならないのである。

 記号とその解釈項との関係は、対象との共通の関係を介してのみ成立する。解釈項は、「ある外国人が自分が言っていることと同じことを言っているのだと語る通訳」のようなものである(1.554) 。それが解釈項がもとの記号と等価な、あるいはより展開された記号であるということだ。つまり「外国人」がもとの記号であり、「通訳」が解釈項であり、両者が語っている「同じこと」が対象だという訳である。記号が解釈項をもつのは、それがそもそも何かを代理するという限りにおいてなのである。

 一方記号とその対象との代理関係も、第三項である解釈項に媒介されてはじめて成立するものである。「記号とは、ある第三項つまりその解釈項をして自らが関係する同じ対象と関係付けるような形で、ある第二項つまり対象と関係付けられるもの」(2.92)のことである。「解釈項を現実的に規定するまでは、記号はそもそも何かを代理するものとしては機能することができない(2.275) 。」もしある人の脳裏に「キリンギーリョ」という音が浮びはしたが、その人がそれについて何も言うことができず、考えることができないとすれば、例えば「それは得体の知れない何かであろう」という思考すらそれが喚起できないとすれば、もはやその「キリンギーリョ」は何かを代理しているとは言えないであろう。解釈項という形で別の記号に転移することなく何かを代理できるような記号など、ありえないのである。

 最後に、記号とは、「何か別のもの(その解釈項)が、それ自身がそれについて語るもの(その対象)に同じやり方で言及するように規定するもの」(2.300) でもある。自ら記号でもある解釈項が、その記号としての資格で持っているはずの「対象」との関係が、もとの記号によって規定されているという訳だ。かくして解釈項と対象との二項関係もまた第三の項である記号によって規定されたものだということになる。このようにパースにとっては記号過程を構成する三項関係は、二項関係の総和には還元できないものと考えられているのである。

2

 第三項である解釈項を強調することによって、確かに、記号が従来考えられてきていたように、代理される対象と代理する記号という二項関係ではないという点に関しては誤解の余地がないものになっている。しかしこの三項関係は、パースが繰り返し注意を促しているにもかかわらず、別の仕方で二項関係に還元されてしまう危険をはらんでいる。パースの見解のなかには、字義どおりとると、真正な三項関係という観方を維持するには都合の悪い記述が相当含まれているのである。

 パースが繰り返し指摘しているように、結局のところすべてが記号=表象であり、また既に引用した、「対象」は最初の記号がその解釈項であるような別の表象にすぎない、という彼の見解を、もし字義通りにとってよいのであれば、対象と記号との関係も結局は、記号とその解釈項の関係に等しいことになろう。既に見たようにパースから多くを学んだと自認するヤコブソンは、「対象」からパースがそれに与えた特別な地位を奪い、記号の関係を記号とその解釈項との関係、つまり記号とそれが置き換えられる別の記号との関係に限って問題にしていた。記号の意味とは、その解釈項、あるいはその諸々の解釈項がかたちつくる置き換えの等価クラスであるとして、澄ましていればよかったのである。同様にエーコもこの三項図式が問題を単に「望ましくないやり方で融通のとれないものにしてしまう」だけのものであり、記号とそれに対する一連の解釈項の間の慣習的な関係のみをコードの理論として問題にすれば足りると主張している(Eco 1976:93-5) 。記号が他の記号に置き換えられ転移することが記号にとって本質的なことであると気付いた点に、パースの記号論の最も画期的なところがあるとすれば、こうした解釈にも充分な正当性があると言える。しかしパース自身は、二項関係に還元不能な三項関係こそが、記号を特徴付ける最も重要な事実だと考えているのであり、「対象」はその不可欠な第一項なのである。

 記号の「対象」について語る際に、パースはいったい何を問題にしようとしていたのだろうか。パースの真意を汲みとるためには、この点の検討を避けて通るわけにはいかない。つまり「対象」はどのようなものとして考えられているのか、である。

 第一に記号過程を構成し、それを根拠付ける不可欠の要因として。パースによると記号は解釈項によって媒介されて初めてなんらかの対象を代理できるのであるが、一方そもそも、対象との関係を抜きにして、記号と解釈項の関係を問題にすることも同様にできないというのである。記号とその解釈項の一種の等価性は、それが同じことを語っている、つまり同じ対象について語っているといいうる限りにおいて成立するからである。我々はある記号の意味は何かと問われて、その記号を別の記号に置き換えたり、詳しく説明する別の記号を提出したりして、その問いに答える。それがその記号の「意味」である。我々は、その記号の解釈項を提供しているのだ。しかし同時に我々は、そうした言い直しを、どちらも同じ「意味」をもっているから、意味を変えないように言い換えたものだから、同じことに言及するものだからといって正当化してもいる。パースはこうした形での等価性の根拠としての「意味」を記号の「対象」というかたちで、その都度、保持しようとしているのである。

 しかしそうした役割をいつも担っていると言えるためには、対象はどのようなものでなければならないのだろう。もしオグデンやリチャーズが行なったように、いきなり独立した現物としての「指示対象」をもちだしてくれば済むというのであれば、話は随分単純になったことであろう。しかしそうすると、「一角獣」や「ネクター」のように対応する現物のない記号の対象を問題にできなくなってしまう。「指示対象」の教義に対してなされてきた数多くの反論を、ここで今更逐一再現してみる必要はあるまい。

 あるいはエーコのように、記号とその解釈項の無限の連鎖、際限のない転移を通じて、そのかなたに漸近的に限定されてくるような「文化的単位」としての対象を一回きり持ち出してやることによって、この問題にけりをつけようとするのも、なかなか魅力的な解決である(Eco op.cit.2.7)。パース自身「絶対的な対象」「最終的な対象」あるいは「最終的な解釈項」について語る際に、この解決に傾きかけているようにみえる。しかしそうすることは、記号とその解釈項を等置するプラクティスの根拠を、そうした等置のプラクティスの最終的な産物に求めるという、それ自体やっかいな問題をかかえこむことになる。

3

 「対象」についてのパースの記述は、ある点では謎めいており、別の点では一見矛盾しているように見える。

 パースは記号の「対象」はそれ自身「表象」にすぎないと述べた。これがまず我々を当惑させる。これはけっして、所謂「指示物」が記号の対象ではないという意味ではないはずだ。事実パースは記号の対象ということで、そうした具体的な指示物を繰り返し取り上げている。「記号とみなされた思考は何を対象とするのか、何をさししめすのか、つまりその指示対象は何か。実在的な外物が思考されているときには、いうまでもなくその外物である(5.286) 」と彼は述べる。「らくだ」という言葉で目の前にいる一匹の生き物が語られているとき、「らくだ」の対象は言うまでもなく、その現物のラクダである。彼が記号の対象もそれ自身記号だというとき、彼は記号の対象が、現物の対象という意味での指示物ではないなどと言っている訳ではない。こうした所謂指示物も「表象」である、つまり、それ自身三項的なあり方をするものなのだと言っているのである。つまりこの状況で「らくだ」という記号の対象である目の前にいる一匹の生き物も、それ自身記号としてその「対象」と「解釈項」をもっているという訳だ。解釈項は、最初の記号、つまり「らくだ」という言葉である。しかしこの現物のラクダが、それ自身「記号」である限りにおいてもっているはずの「対象」はいったい何だろう。

 具体的に何が「対象」として考えられるかに関して言えば、パースは驚くほどの気前よさを発揮する。「記号はいくらでも対象を持ちうるが、それぞれの対象は、単一の知られた現存物、以前現存していたと信じられているもの、現存すると期待されていたもの、あるいはそういうものの集合、あるいはまた知られている質や関係や事実などであり、そのような単一の対象は集合であったり、部分からなる全体であったり、あるいはまた、それが許されているからといってその否定が許されないことはない行為だとか、一定の一般的な諸状況のもとで欲求されたり、要求されたり、不変的に見い出されるような一般的な本性を持つものなどのように、もっと別の存在様式を持っていてもよい。(2.232) 」対象は、記号によって代理されている、つまり、記号があたかもそれであるかのように扱われるところの、あらゆるものでありうる(2.273) 。但し、こうした対象も、それ自身記号であるという点だけは、忘れてはならない。「すべての記号は..... ある対象を代理する。しかしその記号は、その対象それ自身が記号または思想の性格を有する限りにおいてのみその対象の記号であり得る」(1.538) と言う訳である。「対象」について、それが何であるかを分からしてくれるはずだったこの気前よいリストも、再びそれら自身が記号として持つ「対象」を考えねばならない破目に我々を追いこんでしまう。これらの「対象」が、それら自身「記号」である限りにおいてもっているはずの「対象」とは何だろう、ということになるのである。

 またフェニックスは実際は存在しないけれども、「フェニックス」という言葉には「対象」があるとパースは言う(2.261)。フェニックスについてのリアルな描写が話し手と聞き手によく知られているからだという。それが「フェニックス」の「対象」なのだろうか。しかしとすると、そのリアルな描写の「対象」は何だ、と再び問うことができそうである。それは何だろう。またしても我々には釈然としないものが残ってしまうのである。

 ところで対象と記号との関係についてはどうだろう。対象は記号によって代理されるものである以上、それを代理する記号とは区別されて、それとは独立に知られている何かであるはずだ。対象はそれを代理する記号からは独立に存在する(1.153) とパース自身語っている。「記号は対象を代理し、対象について語ることができるだけである。記号はその対象の直接知や認知を供給することができない。というのも本書では記号の対象はそういうものだと考えているからである。つまりここで考えている記号が対象に関するそれ以上の情報を伝えるためにはその対象を直接知っていることが前提とされているのである(2.231) 」とも書いている。

 しかし、そうだとすると、この「対象」についての直接的な知はどこから来るのだろうかという疑問が当然生じてこよう。これに対してパースが与えてくれる答えは再び我々を当惑させる。そもそもパースによると「認識しうることと存在することは、形而上学的に同じものであるだけでなく、それらは同義語である。(5.257) 」つまり「存在するものはそれ自体思考の対象でなければならない」(MS 379.6-7)。そして「いかなる認識も、代理された対象についての意識である(5.225) 」というのだ。結局、対象とは直接知りうるような何かではない、それはつねに何らかの記号を通じて、その記号のうちにその姿を現わす限りにおいて知られるのみなのである。対象はそれを代理する記号から独立に存在し、またその記号とは独立に直接知られていなければならないとは言ってはみても、一方で、対象を知るということは、常に何らかの記号の対象として、何らかの記号を通じてそれを知るということにすぎないのだということになる。

 さらに「記号の対象は記号によって作り出されたものでもよい。(8.178) 」こう述べてパースは「ハムレット」を例にあげる。確かに「ハムレット」については、記号とは別のそれについての直接的知などありそうにない。一方で「対象」が記号によって作り出され、あるいは記号を通じてのみ認識しうるものだとすれば、対象が記号とは区別される別個の存在であるという考え方と、それはどう折り合いをつけることができるのだろうか。

 最後に、記号が対象を直接代理しているさえ言えないと考えさせる議論すら彼は提出してみせる。記号としての思考を論じながらパースは書く。「すべての思考−記号は、その思考の対象と同一の対象をもつ先行の思考−記号によって規定されているのであるから、思考はこの先行の思考を指示することを通じてしかその対象に言及することはできない(5.285) 。」つまり記号は、それ自身他のそれに先行する記号の解釈項であるという資格においてはじめて、対象をもつことができるという訳だ。

4

 このように、論文集の中に散りばめられた「対象」に関するパースの見解のほんの一部を突きあわせてみただけでも、パースの「対象」概念が混乱していて厳しい検討に耐えうるものではないと、ほとんど言い切ってしまいたい気になるかもしれない。「対象」が記号から独立した存在だと言ってみたり、記号を通じてはじめて存在すると言ってみたり、解釈項をもつことを通じて記号ははじめて対象をもつと言ってみたり、逆にそれ自身解釈項であることによってはじめて対象をもつと言ってみたり、具体的な外物として対象を考えたかと思えば、その対象もまた記号でありそれ自身の対象をもつと言って、我々を煙にまいたり、こうした混乱をみれば、パースの記号論の一切を投げ捨ててしまいたいという誘惑に駆られるのも無理はない。

 しかし何か大事な点を忘れてしまっているのではないだろうか。記号と対象の関係がパースにあっては、一回きりの代理し代理される二項関係からなっているのではなく、解釈項に媒介された三項関係としてとらえられていたということ、またそのようなものとして、無限に連鎖していく記号過程のなかにおいてしか見てとることのできない関係であること、これである。そしてこの三項関係のなかでは「対象」は当初から謎めいた性格を持たざるを得ないものとなっている。

 記号は解釈項が存在することを抜きにしては、そもそも何かを代理しているとは言えないものであった。解釈項があってはじめて、記号は何らかの「対象」をもつのである。他方、解釈項は「対象」との同じ関係によってはじめてその記号の解釈項でありうるともされていた。つまり「対象」とは、自らが根拠付けるものによって生み出される根拠だったのである。

 さらに解釈項こそが、先行する記号によって特定の対象、つまりその記号の対象を、自らの対象としてもつよう規定されているものであるから、記号は何らかの先行する記号に対する解釈項であることによって、はじめて「特定の」対象をもちうるということもできる。しかし一方、そのためには先行する記号によって代理されている対象が既に存在していなければならない。それはその先行する記号の解釈項であるところの当の記号自体によって保証されている。

 「記号」「対象」「解釈項」の任意の二つの関係それだけを取り出して、始めがあって終りがある過程として語ろうとすると、互いに矛盾しているかのように見える陳述を導かざるを得ないのも、パースの三項関係そのもののなかに仕組まれたこうした相互反照性を念頭に置く限り、何ら驚くにはあたらない。「対象」に関して言えば、それは記号過程を通じて、あたかも存在するものであるかのように当の記号のなかで考えられている何かである。しかし、それは記号があたかもそれであるかのように扱われるところの一つの存在として、記号過程を根拠付けてもいる、という訳である。要するに、対象と記号との関係についてのパースの記述に見られる矛盾とも言える要素は、パース自身の矛盾というよりも、対象そのものの相互反照的な性格のせいだったのである。

 もちろんこう述べたからといって、事態は少しもわかりやすくなったとは言えないが、少なくともパース自身は、一見したほど混乱した思索を展開してはいなかったのだという点だけははっきりする。

5

 しかし記号の「対象」というのは、本当にそんなにやっかいなものなのだろうか。例えば、我々が「イヌ」という言葉を用いて語っているとき、「イヌ」という言葉「によって」何かについて語っていることは確かだと感じる。そのとき我々は「イヌ」という言葉について語っているのでもないし、その「意味」について語っている訳でもない。文字通り「イヌ」という言葉によって指されている何か、つまりその言葉の対象について語っているのである。つまり記号には対象があるのだ。そして幸運にもそこに当の生き物がいてくれれば、「ほら、それだよ。こいつについて語っていたのだ。」ということになる。もし運悪くその場にいなければ、なんなら一匹連れてきてあげてもいいよ、という訳だ。実に簡単な話なのだ。一見したところのこの簡単さこそが曲者である。他の少々やっかいなケースまで、この事例の一種の拡張として考えられてしまう。例えば「フェニックス」という言葉にも対象が「いる。」それはこの現実世界において犬がいるように、虚構世界あるいは伝説世界などにちゃんといるのだ。あいにく、なんなら一匹連れてきてあげるというわけにはいかないけれども。

 しかし目の前に一匹の犬がいて、それを「イヌ」という言葉によって語っているというこの幸運なケースも、よく考えてみれば、けっしてそう簡単な話ではない。このケースで我々が見ているものは何だろう。もちろん我々は犬を、「イヌ」という言葉の対象を見ているのだと言いたくなる。しかし我々が見ているのは実はシェパードであるという言い方も可能である。誰かがそう指摘したとしよう。我々は、「もちろんそれはシェパードだ。でも僕らは今、そいつを『犬』の一つのサンプル、一例として見ているのだ」と答えるだろう。別にテリアでも秋田犬でもよかったのだ。つまりその生き物は、『犬』の代表、犬について考えたり語ったりする際の一種の「代理」だという訳だ。奇妙なことになってしまった。最初その生き物は「イヌ」という言葉の対象そのものだということであった。しかし今や、そいつは「イヌ」という言葉の「対象」を代表する、つまり「イヌ」という言葉の対象を自らの対象としてもつ一つの記号だという訳だ。しかし、そいつは「シェパード」という言葉の対象ではある。そのとき飼い主が入ってきて、実はそいつはポチというんですよ、と教えてくれる。となるとこのポチはシェパードを代表する一例、「シェパード」という言葉の対象を自らの対象としてもつ一つの記号であったということになる。

 では「イヌ」という言葉の対象は、このシェパードなどによって代表される「集合」であるとすればどうだろう。これでここで述べた奇妙さは取り除かれる。しかし「イヌが走ってくる」と我々が語るとき、我々は集合について語っているわけではない。集合はどだい走ったりすることはできない。「イヌが走ってくる」と我々が語るとき、我々は実際に走ってきた一匹の生き物について語っているだけである。つまりやはりそれが「イヌ」の対象なのだ。

 ところで、今や差し当って「イヌ」という言葉の対象であると考えられている、目の前にいるそいつは、また「動物」、「茶色の塊」などの言葉の対象でもありうる。「一匹の動物が走ってくる」とか「茶色の塊が全速力で近づいてくる」とか語られて、目の前にそいつがいる場合がそうである。「茶色の塊」が近づいてくる。それは何だろうか。それは「一匹の動物」であった。それは何だろうか。それは「一匹のイヌ」であった、と言う訳だ。

 我々はこうして「茶色の塊」から「ポチ」に至る一連の記号の連鎖を前にしている。それらの記号のいずれもが各々何かについて語っている。つまりそれぞれ「対象」をもっている。「茶色の塊」「一匹の動物」「イヌ」「シェパード」などの言葉が語られるとき、それらの言葉はその都度、目の前にいるそれをその対象として持つ。しかしここで注目すべきことは、今問題にしている一連の記号連鎖の中では、その都度各々の記号の対象として考えられたそれが、常にそれに先立つ記号の対象にとってはその代理として現れており、またそれに後続する記号の対象によって代理されるべきものとして現われているという事実である。

 そうは言っても結局それは「同じ一つの対象」ではないか、こう我々は言いたくなるだろうが、これは最終的には正しくない。問題の記号連鎖を最後まで辿らされた我々にとっては、つまり近づいてきた茶色の塊が実はポチであったと知るに至った我々にとっては、目の前にいるそれが、今や「茶色の塊でもある、一匹の動物でもある、イヌでもある、シェパードでもあるポチ」という複合記号の対象としての自己同一性を当初から持っていたかのように錯覚しがちである。しかし、ひとつの「茶色の塊」としては考えられているが、つまり「茶色の塊」という言葉の対象ではあるが、未だ「シェパード」としては考えられていないそれは、すでに「シェパード」として考えられているそれ、「シェパード」の対象であるそれとは、考えようによっては全然別物なのである。枯尾花を「幽霊」として見ている人にとっては、それはもちろん単なる「幽霊」なのであり、けして「幽霊に見える枯尾花」などではない。彼はそれを単なる「枯尾花」として見ている人とは全く別の物を見ているのだ。同様に、ある物を「茶色の塊」としか見ていない人と「シェパード」と見ている人がいたとすれば、我々は彼らがそこにめいめい別の物を見ているのだと語るだろう。いずれの場合も同一性は結局事後的に現われる。ある記号の対象であったそれが、当の記号の解釈項である別の記号の対象として自らを譲り渡し、それによって代理される結果にすぎないのである。

 仮りに一歩譲って、目の前にいるそれが終始同じ一つの物であったとしても、少なくとも、それは異なる記号の対象であったその都度、異なる相貌をもってたちあらわれていたのだということは認めねばならない。「対象」とは結局そのようなものなのである。「対象」の対象としての性格、「対象」の「対象性」は、目の前にある「物」としての自己同一性にあるのではなく、その一つの相貌としてのありように関係しているのだ。後に「枯尾花」だと判明する一つの物体、その意味では最初からそこにあったもの、それが「対象」なのではなく、「幽霊」だと、あるいは「枯尾花」だと語られる際に、そのことによって目の前にあるそいつのなかに見てとられるもの、それが「対象」なのである。

 このように具体例に即して考えてみると、パースの謎めいた「対象」概念について少しはわかった気にさせられる。パース自身が示す次のような例も同様である(5.285) 。

 一つの何か黒いものがある。それは「一つの黒いもの」として考えられている。つまりそれは未だ人間としては考えられていない。それは何か。それは一人の人間である。いまやその「一つの黒いもの」は「一人の人間」として考えられている。我々は「一人の人間」として考えられた「一つの黒いもの」を前にしている。それは何か。それは「一人の将軍」であった。

 これを「思考という記号」とその解釈項の連鎖として考えてみよう。彼が言おうとしているのは「すべての思考は、その思考の対象と同一の対象をもつ先行の思考....を通じてしか、その対象を指示することはできない。」(ibid.) という事実である。記号は先行する記号、当の記号がその解釈項となるところの先行する記号から、その対象をうけとる。そして対象はこのように別の解釈項へ受け渡されるなかで変貌する。この変貌は、最終的には「一人の黒人の将軍」であると判明するところの、目の前にいる「それ」のなかで展開する。「一つの黒いもの」から「一人の人間」「一人の将軍」へと続く解釈項の連鎖のなかで、「それ」は先行する記号から後続する記号へと受け渡されていきつつ変貌をとげる。もう明らかなように「それ」そのものが「対象」だという訳ではない。「一つの黒いもの」あるいは「一人の人間」などという、各々の記号をつうじて見てとられる「それ」、当の記号を通じて独特の相貌とともにとらえられた限りでの「それ」が、各々の記号の「対象」なのである。

 これを今度はパースが別のところで行なっているように、例えば「一人の人間」という解釈項を喚起するところの、それ自身記号(現物記号)であるところの「それ」と、「一人の人間」という解釈項との関係として考えてみよう。「それ」の対象、「それ」が代理するものとして「それ」自体のなかに見てとられている対象は、「それ」の解釈項である「一人の人間」の対象として見てとることのできる何かだということになる。「それ」は『一人の人間』の一例、その代理なのだ。我々が「イヌ」に関して行なった議論を思い出して頂きたい。「解釈項が当の記号の代理関係を規定する」と彼が述べる意味がよくわかるだろう。

 いずれにせよ「対象」は、何か現存する外物である必要はない。いやむしろ、仮りにそれが目の前にある現物であるという幸運な場合ですら、それがもつ「対象性」は、それが現存する外物であるという点にあるのではない。パースにあっては、「対象」は記号とその解釈項の転移を、その都度根拠付けつつ、逆にそれによって根拠付けられてあるところの何かである、という以上のものではない。

 エーコに代表されるパースの後継者をもって自認する記号学者たちのあいだでは、パースの記号理論の真の価値は、彼の提出した解釈項という概念にあるとされている。彼の対象概念に関して言えば、それは従来どおりのわかりきった指示対象について語っているものとされ、単に軽視されるか、極端な場合にはそれを体系から放逐してしまおうとさえ試みられている。しかしパースの記号理論において最も謎めいているのは、実はむしろ彼の対象概念のほうだったのである。しかし、それは一体何だったのだろう。それはそもそも「項」としてたてることのできるような代物だったのであろうか。彼の対象概念を検討しおえた今、かえってこうした疑問がわきあがってくる。我々は後にこの疑問に答えることになるだろう。

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