インド洋に面したケニアの港湾都市モンバサから車で2時間ばかり内陸に入ったあたりにキナンゴという町がある。人口1000人ちょっとの小さな町である。私はこのキナンゴの町と、そこから半径約30キロ以内の近傍に位置する2つの土地を中心に、1983年から1998年まで断続的に、通算すると4年あまりに渡ってフィールドワークを行なってきた。

book cover この地域に暮している人々のほとんどは自らをドゥルマ人(単数形 Muduruma、複数形 Aduruma)と呼び、トウモロコシを中心とする農耕と牧畜を主な生業にしている。人々の生活の主な舞台は「屋敷(mudzi)」と呼ばれる集団である。男と彼の複数の妻、その子供たちからなるものが「屋敷」と呼べる基本単位であるが、屋敷は、しばしばこうした単位が2〜3世代にわたって集まったかなり大規模な生活集団のかたちをとる。それぞれの屋敷は叢林や草地、開墾された畑によって互いに隔てられ、独立性は大きい。屋敷には、そこで暮らしていく上で守らねばならないさまざまな規則や『儀礼的』手続がある。それらに従うことは屋敷の豊饒性と繁栄の維持に不可欠であるとされている。私が本書で扱うのは、「屋敷」の維持や修復を目的として人々が行なっているこうしたさまざまな『儀礼的』実践とそれに関わる知識、およびそれらについての人々の語りである。

『儀礼的』という言葉は、ここでは漠然とした意味で用いている。さまざまな活動が屋敷とその内部の秩序を維持し、そこに生じた綻びを修復するのに必要とされる。そのなかで、ある一群の実践がその特殊な性格によってわれわれの目を惹くだろう。例えば妻たちの不和を恐れて、衣服や食べ物がそれぞれの妻の子供たちに平等に行き渡るよう夫が配慮しているとき、あるいは乾期の水不足に備えて溜め池を掘り広げているとき、屋敷の平和と繁栄維持のための彼のこうした努力にはなんら特別なところはない。しかし屋敷の人々が頻繁に刃物で怪我をすることを憂慮して、一頭のヒツジが屋敷の周りを引き回された後にその腹が割かれ、取り出された胃の内容物を含んだ薬液で、問題の刃物や屋敷の人々が丁寧に洗われるのを見れば、そしてそれが「屋敷を冷やしている」のだと語られるのを聞けば、私たちはそこでは何か特殊な性格をもった行為が遂行されているのだと考える。私がここで『儀礼的実践』と呼んでいるのは、この種の行為のことである。

この種の『儀礼的実践』のどこが、我々にそれを特殊な行為だと思わせるのだろうか。これらの実践には明確な目的や意図がある。それらは特定の問題に対処し、状況に対して有効に働きかける現実的な実践として営まれている。当事者たちにとってのこれらの行為の意味とその現実性を、もし部外者である私がにわかには共有できないとすれば、このすき間はいったい何によって出来ていると考えるべきなのだろうか。これらの実践に従うことで、彼らは身の回りの世界の秩序を、私が経験するのとは異ったどのような秩序として構築しあるいは経験していることになるのだろうか。あるいは逆に、人々が現実をいかなるものとして、いかなる秩序として経験していることが、これらの実践を大まじめに遂行するに値する実践にしているのだろうか。儀礼的実践やそれについての知識や語りは、経験世界の秩序を可視化し対象化する点で、なんらかの特権的な位置を占めているのだろうか。もしそうだとするとそれはどのような位置なのだろうか。

私は、これらの儀礼的実践が相互にどのように関係しているか、儀礼的実践とそれについての語りや知識が互いをどのように参照しあっているか、さらにどのような特殊な性格がこうした関係を特徴づけているかを具体的に検討する作業を通じて、上の問いに答えていきたい。そして相互に絡まりあった諸々の儀礼的実践や知識が、出来事の時間的展開の中で、どのような仕方で変貌していくか、その瞬間を捉えてみたいと思う。

しかしこの研究は『儀礼』なるもの一般の説明や理論を目指す、いわゆる儀礼論ではない。『儀礼』という範疇には、すでにあまりにも雑多なものが、あまりにもまちまちな理由で放り込まれてしまっているので、ナンセンスに陥ることなくそれを統一的な研究対象として語ることはもはや不可能であるように見える。文化的他者に特徴的であると考えられた諸慣行を名指すための、『呪術』をはじめとする諸々の範疇に同様に見られる困難である。人が『儀礼』と呼ぶことを同じく躊躇しないであろうような、踊りや歌やさまざまな見せ物的要素に彩られた死者のための祝祭と、新たな畑を開墾するために開墾予定地で開墾に先だって夫と妻が地面の上で行なう無言の性行為とのあいだには、共通するものはあまりないし、両者をともに『儀礼』として同時に理解することを可能にするような理論がありうるとは思えない。屋敷の維持と修復の手順として実行される諸行為から得られた理解を、『儀礼』という名の革袋に放り込まれうる他の雑多な慣行に同様に適用しようとは私は考えていないし、儀礼一般についての理解として提出するつもりもない。私はむしろ、なぜそもそもこれら屋敷をめぐる諸手続きに『儀礼的』という言葉を当てはめようという気になったのか、その理由を自問するところから始めるだろう。そして先に進むにしたがって読者は、『儀礼』という言葉自体が本書の議論の中からやがて姿を消していくことに気付くに違いない。私の議論は、最終的には諸慣行を『儀礼』という視座からむしろ解放することを目論んでいる。

この研究は、対象と問いの設定そのものからして、他者性にとことんとり憑かれた営みである。なにも隠しだてするつもりはない。それは見慣れぬ場所で遭遇した見慣れぬ人々の見慣れぬ振舞いや耳慣れぬ語り口に、まさに魅せられた問いと探求である。この一見無邪気な探求に潜んでいる落とし穴については多くの人が指摘している。それは自己と他者との対立を固定し、それもしばしば非対称的な力関係を前提とした隔たりの中に固定してしまう危険をはらんでいる。しかし他なるものに反発したり、その一方でそれに強烈に魅惑され引き寄せられたりすることは、ほとんど人間の性(さが)のようなものではないだろうか。問題はむしろ、この傾向性が往々にして共同性をめぐる想像力に絡み取られてしまうという点にある。我々はいわゆる他の社会の人々やその暮らしにふれる都度、一見矛盾した感想を抱くことがある。人間のやること考えることなどどこでも似たようなものだと思ったり、反対に、ところ変われば人間はよくもこれだけ思いもよらないようなことを考え出したりしでかしたりするものだと思ったりする。他者に対する、同じでありしかも違っているというこの意識こそが、反発と魅惑によって同時に特徴づけられている他者に対するミメティックな関わり方を規定している。異質でなければ真似る必要はなく、同質でなければ真似ることはできない。厄介なのは、同じであることと違っていることのこの――実際にはきわめて微妙でまた入り組んでいる――絡まりあいが、しばしば実に易々と共同性の輪郭の構築と重なりあってしまうことである。私は、共同体の表象にからみとられた想像力からは出来るかぎり距離を置き、自己と他者の対立を硬直させてしまいかねない二項対立的な諸々の図式に、徹底して批判的な吟味を加えるというありふれたやり方で、この陥穽に落ちることを極力回避する努力をはらおう。同じであるという判断も、違うという判断も、とことん突き詰めねばならない。拙速に中途半端にくだされた判断――あるいはむしろ判断停止――がいつのまにか張り巡らしてしまう想像力の半透膜の所在を探知して、それをつき破る努力が必要である。

言うだけなら容易い、他者の差異に魅惑された探求など、どうせ同じ落し穴に落ちてしまうに決まっている、と訳知り顔で語る人もいる。しかし私は人類学の作業を徹底的に、過剰にといえるほどに忠実に遂行すること、読者の期待や理解に一切妥協することなく、ひたすら具体的な細部に拘泥し続けることのなかに、この危険からの離脱の可能性を見出しうると考える。具体的といっても、数字を挙げたり、エピソードを並べたり、写実的な細部を膨らませたりすることではない。手持の物語り、あるいは自から進んで身を任せようという気になる流行の物語りに回収できる細部や具体性なら、読者はいくらでもよろこんで引き受けることができる。人類学が拘泥する細部は、むしろこうした物語りに容易には回収できない細部、その増殖が人の神経に触れ、忍耐の限界を脅かす、読者にとって知りたくもない細部や具体性である。それは即席の理解や共感を求める努力に水を差す。しかし他者とつき合うというのは、実際にはこういうことでもある。自らの獰猛な想像力がその前で挫折を余儀なくされるこうした細部に拘り続けることが、この想像力が用意している落し穴から我々を遠ざけてくれる。

こうした作業のなかで、私は同時に、人間存在の基本的なありように関する一つの問いを問い続けることになるだろう。それは、徹底的に無根拠で恣意的であるような秩序を、人がリアリティそのものとして生きるということが如何にして可能なのかという問いである。他者性の魅惑のなかでその問い追求していくという点で、人類学はエスノメソドロジーとは逆の方向からこの同じ問いにアプローチしていることになる。エスノメソドロジーが、われわれの社会において自分たちが現実そのものとして生きているものがいかに虚構的に構築されたものであるかを暴き出してみせるとすれば、人類学は、われわれの目には現実離れした虚構的なものにしか見えない秩序が、当の人々によって如何にしてリアリティそのものとして生き得るものになっているのかを問うことになるからである。他者のもとで見出される事実は、結局は自己のもとで発見される同じ事実の裏側からの眺めであり得る。

文化的他者についての対比的な語り口が信じ込ませようとしていることとは異なり、人類学的あるいは民族誌的理解は、自分たちとは飛び越えることも出来ないほどの隔たりによって特徴づけられる他者を一気に理解のもとにもたらすような離れ業の類であったことなど一度もない。共約不可能なパラダイムというのは、少なくとも人間の生き方に関する限りはたちの悪い幻想である。微分的な差異の累積を調停不可能な隔たりに見せかけているだけである。それは言われるほどには隔たってはいないし、同時にただそこで暮らしてみることや、違いから目をそらし、生活の実感に訴えれば安易に埋められるような隔たりでもない。異なる語り口を一つ一つ受け入れ、自らが他者や差異について語る際の語り口を慎重に吟味し、なじみのない比喩で世界を眺めるすべを少しずつ学び、こうしてそれぞれは細く短い繊維をよりあわせるような作業を通じて綯ったロープによってのみつなぐことが出来るそんな隔たりなのである。私がこの論考において行おうとするのは、まさにこうした作業である。

本書の構成

本書は13章からなり、それは大きく3部に分けられる。

第1部第1章では調査地での人々の暮らしや、人間関係、さらに「屋敷」についての簡単な紹介を行なうと同時に、社会空間を知識が交換され流通する言説空間ととらえ直したうえで、本書における研究対象の存在性格を確認する。

続く2〜4章では、『儀礼的実践』の特徴と問題点を浮彫りにするための、理論的見取り図を提出する。第2章では、何が「屋敷」をめぐる諸手続きや実践を我々の目にとりわけ『儀礼的』に見せているのかを問うことから出発する。弔いに続いて行なわれる「巣立ち」と呼ばれる手続きを例にとって、『儀礼的実践』と、それらが埋め込まれた手段−目的のコンテキストとの結つきの特殊な性格を明らかにする。それは、特定の行為をそれがなされる一定の仕方に結びつける絆の規約性・恣意性、それを隠蔽するように張り巡らされた意味論的な相関関係の網状組織、およびこの両者の結つきの問題として提出されるだろう。第3章は、同じ問題系がヴィトゲンシュタインのフレーザー批判の中ですでに提示されていたことを検証する。第4章は、屋敷内で夫に水甕に触れることを禁じた禁止規則を例にとって、儀礼をめぐる問題の配置を、より正確に提示する。

本書の中心部分をなす6つの章からなる第2部は、第1部で提出された『儀礼的実践』のモデルをふまえて、「屋敷」をめぐる諸手続きとそれらについての語りが、互いにどのように関係しあっているかを明らかにする民族誌的作業にあてられる。「屋敷が壊れる、台無しになる」というのがどういう事態であるか、それを引き起こす「混じり合わせる」「追い越す」といった行為が何であるか、それを修復するための「冷やす」という行為で何がなされるのか、「産む」「外に出す」などの一連の手続の意味は何か、などが検討される。それは、ある首尾一貫性をもった『比喩的な語り口』の存在を示し、それがいかに現実を絡みとっているかを明らかにすることでもある。比喩がリアリティをもっているところでは、リアリティそのものが比喩的になる。他者におけるこうした比喩的秩序に気付くことは、同時に我々の秩序の比喩性にも気付くことである。こうして『儀礼的実践』とその他の現実的な行為との境界は曖昧になり、一見大きな隔たりとしてあらわれる他者性を構成しているところの差異の性質が明らかになる。また同時に比喩的秩序を構成する語り口の一貫性が部分的なものでしかないことも示されるだろう。一つの言説空間内において、互いに共約不可能な語り口が共存し、あるいは一つの語り口が自らの延長上に、自己を否定する語りを生成する様が明らかにされる。

第3部は儀礼的実践とその知識が、時間とのからまりあいのなかで示す不確定性について考察する。第2部の記述が、恣意的な秩序をもっぱら非歴史的な体系性として眺める見方に傾いていたとするなら、第3部は、恣意的な秩序のもう一つの側面であるところの歴史への屈服――偶然的な変異への服従という意味での――を描くものとなる。第11章では現実の出来事の展開と屋敷の秩序をめぐる比喩的語り口の内部の帰結との絡みあいを示す。儀礼的な知識が内蔵する因果性の捩じれを分析し、不確定の未来に対して投げ出されれているという儀礼的実践のあり方を明らかにする。第12章では、儀礼的実践についての知識そのものにひそむ不確定性と、その実行上の曖昧さを「悪い死」の処理において実際に見られた事例を中心に検討し、知識の伝達の過程を主題化することの意味を明らかにする。本論考全体の結論にあたる第13章では、最後に全体の議論を要約すると同時に、比喩的な語り口と実践される行為との接合の規約性・恣意性の意味を、時間性との関係において考察する。

謝辞

(本書は1999年10月に一橋大学に提出した学位論文に基づいている(註1)。以下に学位論文に添えた謝辞の一部を再録する。)

この研究は、フィールドワークを資金面で援助してくださった諸機関はじめ、さまざまな方々の協力と援助の上にようやく完成したものである(註2)。それらのお力添えの一つ一つをここで数え上げるわけにはいかないが、すべてのお世話になった方々にここで感謝の意を表したいと思う。

しかし私を現地で支えてくれた人々については、特別に言及しておかないわけにはいかない。このような場でのこうした感謝の表明が、私の自己満足の域を出るものではないことは承知の上である。

スティーブン・カタナ・ジャフェトStephen Katana Japhet氏とは1983年の調査のおりに知り合った。その前年にも町ですれ違ったそうだが私は覚えていない。まだろくに言葉も喋れない私に、当時25才だった彼はドゥルマ語の教師の役割をかってでてくれ、私の最初の調査地であった[青い芯のトウモロコシ]にも同行してくれた。後に彼は正式に私の助手となり、その後のすべての調査において、私の最良のパートナーとなっている。彼は地域ではけっして数の多くない熱心なメソディスト系のキリスト教徒であったため、憑依霊や妖術の施術や、弔いその他の「ドゥルマのやり方」のあるいは「ドゥルマ風の」行事に参加することはできなかったが、すばらしい教師であると同時に信用のおける相談相手、最高の友人であった。カタナ氏は、彼の信仰が禁じるさまざまな活動を自らには厳しく禁じていたが、他者に対してはきわめて寛容な姿勢をもち、地域の老人たちや施術師たちに対しても常に敬意をもって接していた。私の友人の施術師たちは皆、口をそろえてカタナ氏を称賛していた。「他のイエスの人々と違って、カタナには傲慢さがない(kana ngulu)」というのである。その温厚な性格のため地域の人々からも信頼されており、彼らと私が円満な関係を取り結ぶことができたのは、彼のおかげであるといってもよい。調査のまだ初期の段階で、その後の私の調査のやり方の基本的な態勢ができあがった。彼の仲介で、いったん私の存在がインタビューを行なったり儀礼が行なわれたりする屋敷の関係者に紹介された後は、私が原則として単独で儀礼や人々の集まりに出かけ、そこから持ち帰った録音資料を彼が書き起こしながら、私に言葉の解説を行なうというパタンである。ドゥルマ語修得の初期にはこれは、私にとってはけっこうきつい経験――はじめのころの私は、独りでやってきたはいいが、何をしたらよいかも何をどう聞いたらよいかも、周囲で進行している出来事が何であるかもわからず、ただ凍り付いていたこともしばしばであった――だったが、コミュニケーション修得にはたいへん効果的なやり方であると判明した。

その後、私が次第に単独のインタビューや調査に熟達してくるにしたがい、カタナ氏一人では私が持ち帰る資料の処理が不可能になった。カタナ氏と私の調査チームに、何人かの新しいメンバーがその都度加わることになった。1986年から1987年の調査においては、ラファエル・ムカラ・ンドゥリャRaphael Mkala Ndurya氏。1989年からは、ウマジ・ニャレUmazi Nyaleさん、ハミシ・ニャレHamisi Nyale氏の姉弟、ガブリエル・ハリ・ジョージGabriel Hali(Ngoloko) George氏, ハミシ・ルワ・ニャマウィHamisi Ruwa Nyamawi氏らが、私のチームにそのときどきにおいて加わり、いずれも私の調査の強力なサポートを行なってくれた。ムァエガ・ジャワMwaegga Jawa氏とムドエ・カエマMudoe Kayema氏も、短期間ではあるが協力者となってくれた。ムカラ氏は、現在は聖書翻訳協会(BTL)の正規の職員として新訳聖書のドゥルマ語訳に従事している。ウマジさんは1994年に嫁ぎ、現在はクワレにある役所で働いている。彼女の弟のハミシ氏はセカンダリー・スクールを卒業後モンバサで職についている。ハリ氏は1994年にセカンダリー・スクールを22才で苦労しながらようやく卒業した後、教師養成の単科大学に進み、1997年に無事教師の資格をとった後、現在はキナンゴから30キロほど離れた村の小学校で働いている。ハミシ・ニャマウィ氏は、セカンダリー・スクールをきわめて優秀な成績で卒業した後、学費の不足のため私の手伝いをしてくれていたのだが、その後モイ大学に進み化学工学を専攻した。カタナ氏も、1996年に結婚し現在は2児の父として長老の仲間入りをしつつある。すでに触れたように、彼らにお願いしたのは録音資料を逐一ドゥルマ語に書き起こす仕事であったが、彼らはときにはその内容について互いに議論しあう研究者仲間のような存在でもあった。それらの録音資料の内容は、若い彼らにとってもときには未知の興味深い事柄を含んでいたのである。また、遠方に調査旅行の計画をたてて、彼らの誰かと珍道中することになったことも何度もある。この研究は、ある意味で彼らとの共同研究であると言ってもよいかもしれない。彼らとの交流は、手紙のやりとりを中心に今もずっと続いている。

彼らとは別に、私が熱心にその話を聴いて回った地域の多くの人々にも感謝したい。私が調査を始めてからすでに15年以上がたっており、この間に亡くなった人々も多い。この論考にはそうした故人たちの語りもふんだんに登場している。またその名前をいちいち挙げることもできない数多くの施術師の方々、知的で議論好きで、おまけに自分のもっている知識を喜んで余所者の私に伝えてくれた、これらの知識人たちには、最大級の感謝を捧げたい。私の小屋の近所に住んでいる、私がちょっとした疑問を感じる都度、気軽に行って尋ねることのできた隣人たち、互いにしょっちゅうお茶や食事に招待しあい、その地域のゴシップなどで盛り上がったこれらの気楽な隣人たちにも、同じ感謝を捧げたい。この論考のほとんどの議論は、あなた方の語りによって構成されている。ありがとう。

(註1)学位論文は、1995年3月に、浜本のホームページ(当時は http://www.higashi.hit-u.ac.jp/~jwijwi/ 現在は http://dzua.misc.hit-u.ac.jp/~hamamoto/)に公表した「違犯と不幸」というタイトルの論文を出発点に、1996年から1998年にかけてホームページ上に公開してきた11の論考がもとになっている。第四章は一部を削って短くしたものを『民族学研究』誌上に発表している(浜本1997)。第六章の議論は『九州人類学会報』に発表した議論(浜本1988)を発展させたもので、内容的に一部重複する部分がある。第五章の一部に関しては、1998年2月における国立民族学博物館の共同研究会(杉島敬志代表)で口頭発表し、後に研究会の報告論集に収められた(浜本 2001)。

(註2)フィールドワークは1982年8月〜9月のキナンゴにおける予備調査に始まり、1983年3月〜9月(トヨタ財団の助成による)、1986年9月〜1987年8月(福岡大学在外研修)、1989年9月〜1990年2月(文部省科学研究費(単年度)研究代表者:吉田禎吾)、1991年8月〜1992年3月、1992年8月〜10月、1993年9月〜1994年3月(文部省科学研究費(3年度計画)研究代表者:吉田禎吾)の数次にわたって行なった。さらに1995年9月〜11月、1996年8月〜10月、1997年12月〜1998年2月のそれぞれに追跡調査(文部省科学研究費(3年度計画)研究代表者:長島信弘)を行なっている。


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