病気の表情:ドゥルマにおけるニョンゴー治療の呪文 |
スーザン・ソンタグは、その著書『隠喩としての病い』のなかで、特定の病気が病気としての本来の在り方には余計な、しばしば荒唐無稽な意味を纏った固定したイメージをもって語られることがあると指摘している。例えば、19世紀における結核がそれだ。彼女によると、結核にはどこか異常なまでの性的魅力を人に付与するところがあると考えられていた。結核とは情熱過多からくるもので、官能に惑溺する人々を悩ますとされていたのである。一方結核は、「人生を愛して生き続けてゆこうとすることのない繊細で受身な人のかかる病気」としても見られていた。それはまさしく人を霊化する、繊細な病気であり、19世紀の文学は、殊に若い人が結核によって「美しく」死んでいく描写に溢れていた。一言でいうと、それは感受性が強い若者の命をつみとる「ロマンティック」な病気だったのである。結核病みの容色こそ、地位と育ちのよさの印、上品で、繊細で、感受性の細やかなことの指標だということであれば、バイロンが鏡をのぞきながら、「顔が蒼いな、肺病で死にたいものだ」などと言ったというのも、わかろうというものだ。「ご婦人がたが仰るからさ。『バイロンさまをご覧になって。おなくなりになる姿まで興味つきない御方ね』と。」結核を患う経験が実際にはどんなに悲惨なものであれ、結核は感受性が鋭いと自ら思い込みたがっている者が、思わず憧れてしまうくらい、「かっこいい」ものでもあったのだ。
結核がこうしたイメージで語られねばならない必然性など、もちろんどこにもなかった。しかし、この結核神話が当の病気の示す姿とは、全く無関係に形成されたという訳でもなかろう。既にこの神話的イメージの側からの造形を受けてしまっているとはいえ、結核とその症状自体があたえる特徴的な印象が、そうしたイメージ形成のもとにあったと考えることは決して的外れではない。ソンタグ自身が指摘しているものによると、結核は「両極端の間をゆれ動く病気で、蒼白い顔が紅潮したり、元気溌剌としていたのが無気力になったりする病気」であり、この病気がこうした揺れを繰返しながら進行していく様のよい見本が、結核の基本的な症状とされる咳である。患者はまず咳に苦しめられ、それからぐったりして息をつき、普通の呼吸状態に戻る。すると、また咳だ。(p.16)さらに、「その症侯の多くが判断を誤らせるのが特徴で---活力の喪失ゆえに生々してきたり、熱病ゆえの頬の赤みが健康の目印に見えたりする---元気が戻ったと見えるのが、死の前兆だったりする。(pp.18-9)」また「結核は時間の病気である。結核は生をせきたて、際立たせ、霊化する。(p.20)」「比較的に苦痛が少ないとされている(p.23)」ことも、それが死を「霊妙なものとする」のに与っていた。そして最後に、結核が主として侵すと考えられている肺は、伝統的に「息、生命」と結びついている、という訳である。
こうした記述を読むと、それが結核に特徴的な症状のあれこれの単なる指摘を越えて、結核という病気がもつ独特の「表情」のようなものについての記述になっていると言いたくなる。上述の「結核神話」も、つまるところ、こうした「病気の表情」を肉付けし、それに豊かな意味をになわせた産物なのだ。
ソンタグによると、20世紀に入ってもこの結核神話は依然として力をもっていたが、「1944年のストレプトマイシンの発明及び1952年のイソニコチン酸ヒドラジッドの使用によって、ついに正しい治療法が確立され」るに及んで、神話はぷっつりと終熄してしまったという。
病気の神話化が手におえぬ正体不明の病気に対する反応であり、その原因が究明されて効果的な治療法が見つかりさえすれば、容易に非神話化されるだろうという、いささか楽観的な展望をもっているソンタグにとっては、結核の神話をめぐるこうした推移は、まさに彼女の確信を裏付けてくれる例以上のものではない。しかし私がここで注目したいのは、「正確な原因と正しい治療法の確立」によって消え去ってしまったものが、結核を精神の繊細さと感受性の印とする神話だけではなかったという点である。その神話とともに、結核に特徴的とされた症状に対する独特の注目そのものも消えてしまったのだ。正しい治療法が確立したからといって、結核は別にその特徴的な症状を失ったりはしない。それらの症状は相変らず結核にその独特の「表情」をあたえつづけている筈である。しかし、今やそれはもはや注目するには値しないものになってしまったのである。
たしかに19世紀以来の結核の神話はとんでもない価値転倒の産物、倒錯そのものであったといえる。しかし、この神話にとどめをさした20世紀半ばの出来事のなかに、神話そのものの倒錯とは別の意味での一つの転倒が含まれていたとは言えないだろうか。病気からその表層的な意味作用を奪ってしまうような一つの転倒が。
ケニアのコースト・プロビンスに住むドゥルマの人々の間で知られている病気の一つに、ニョンゴー(nyongoo)と呼ばれる一群の病気がある。ヤシ酒ですっかりいい気分になった女呪医から、ニョンゴー治療の呪文の一つを初めて教えてもらったときのことはよく覚えている。別に深奥な哲学や、複雑なシンボリズムを期待していた訳ではなかったとはいえ、その呪文は、一見余りにも単純明快に「呪術的」であり、ほほえましいほどに幼稚なものと私には響いたのである。それはコウモリのニョンゴー(nyongoo ya nundu)と呼ばれるニョンゴーに対する呪文であった。
ぺっ。お前、コウモリのニョンゴーよ。お前、飛び回るものよ。お前は飛び回る。お前は家のまわりを飛び回った。お前はこの家のまわりを飛び回った。飛び回って、お前は家の中に入ってきた。一晩じゅうバタバタ。一睡だにしない。しかし夜が明けると、そこには何もいない。
彼女は言う。私は一体なんの病気なのかしら。なんと、それはお前、コウモリだったのだ。
さあさあ、私自らがやってきた。私はお前を盗んではいない。ちゃんとMさんから買い取ったのだ。ぺっ。お前、コウモリのニョンゴーよ。もう争うことはない。私がお前にこの薬を啜らせると、もうばたばた飛び回ることもない。もういざることもない。時には、お前は尻で後ずさりする。でももう尻でいざることもない。お前はいざった。でもそれは過去のこと。私はお前に命ずる。真っ直ぐ立上がれ。私自らがやってきたのだ。
ぺっ。
一般には、ニョンゴーは妊娠中の女性がかかる病気であるとされている。主な症状は手足や顔のむくみ、吐き気、貧血などであるが、それに伴う他の特徴によって、ニョンゴーは何種類もに細かく分類されている。このコウモリのニョンゴーもその一つである。ドゥルマでは人々を見舞う問題の多くは、占いによって初めてその正体が明らかになり、従ってそれに対する対処の方法も定まるというものであるが、そうしたなかでニョンゴーは、占いのお世話にならなくとも、症状やそれを取巻く状況から何が問題であるかを知ることが出来る、そんな数少ない病気のカテゴリーの一つである。
ニョンゴーは、妊婦に敵意を抱く妖術使いのしかけた呪薬によって引き起こされる病気であると考えられている。きわめて重篤な症状を伴うものでもあり得るが、一方妊娠中の女性におこる身体的不調は、「悪阻(つわり)」程度のものも含めて、広く一般にニョンゴーとして語られる傾向もある。こうした軽い場合にはあえて専門家の力を仰いだりはしない。ある占いにおける次の様なやりとりのなかに、ニョンゴーに対するこうした態度の一端を見ることが出来るだろう。
占い師:お前の妻は妊娠中から心臓の問題を訴えてはいなかったかい?
諮問者:そのとおり
占い師:でもお前はそれをほっておいた。たぶんニョンゴーだと思ってね。
諮問者:そう。だって、私は彼女が妊娠してると知っていたんだから。内側から圧迫されているんだろうとね。
占い師:で、彼女は出産した。でも症状は相変らず。今に至るまでね。
諮問者:そうなんだ。だからこそ驚いているんだ。
普通、女性は妊娠したと分ると呪医のもとを訪れ、ニョンゴー予防の術 kufinywa nyongoo を施され護符を身につける。普通はこれでことなきをえる。またニョンゴーに効くとされる薬草も2〜3知られており、広く利用されている。症状がこうした対処の手に余るとわかったときに、初めて専門の呪医の治療が仰がれることになる。
ニョンゴーの呪医には、望みさえすれば誰でもなることが出来る。治療に必要な、ニョンゴーの各々の種類に応じた薬草や、呪文(marumi)などの知識を、そうした知識を既にもっている呪医から買い取ればよいのである。たとえ伝授者が自分の肉親であっても、ただで教えてもらう訳にはいかない。きちんと金を払って、それと引換えに手に入れたものでなければ、治療の効果は生じないとされているからである。上の呪文の中でも、このことはちゃんと言及されている。
病人のもとを訪れた呪医は、必要な薬草、しかるべき種類の木の根や、葉を集めてくると、持参した黒い粉薬を加え、水を入れた容器の中でそれをもみくだきながら、それに唾液を吐きかけ、呪文を唱える。祝福や、怒りの解除の儀礼(ku-hatsa)の場合と同じく、ここでも唾液が、口に出された「言葉」に効力を与えるものとして用いられている。呪文を唱え終わると、患者はこうして調合された薬を飲まされ、身体に剃刀の刃でつけた切傷に黒い呪薬をすり込まれ(ku-tsodza tsoga と呼ばれる施術)治療は終了する。実にあっけないものである。呪薬の成分はニョンゴーの種類に応じて異なるが、共通して用いられるものもある。黒い粉薬 mureya は、その不可欠の成分としてオオヤスデ jongoloを炒めて黒い炭にしたものを含んでいる。同じく黒い粉薬の成分でもあり、また治療の都度作られる飲み薬の成分でもあるものには、胸のつかえを下げる効果があることからムツェレレ(mutserere; ku-tserera「下りる」より)の別名をもつムジョンゴロ(mujongolo)の木がある。ニョンゴーという名前自体、このオオヤスデ(jongolo、スワヒリ語で jongoo)と関係があるともいう。
さて、呪文の問題に戻ろう。その「痛いの、痛いの、飛んでいけ」的な素朴さと、コウモリに命令するという発想に、その当座は唖然とさせられたものの、そのテキスト自体は、意外と一筋縄ではとらえられない問題を、実は含んでいるのである。
一見したところ、コウモリのニョンゴーの呪文が語りかけている相手は、「コウモリのニョンゴー」あるいはより直截に「コウモリ」である。そしてこのコウモリは、患者の病気を引き起こした張本人であるとされている。繰返しを除いた呪文の大部分は、コウモリの生態の記述である。コウモリは夜になると家の中に入ってきて夜どおしうるさく飛び回る。しかし地面に下りると、いかにもぎこちなく不器用そうに尻を地面につけて後ずさりする。コウモリとはそんな生き物なのだ。しかし続いて呪文は、このコウモリに向って、もう飛び回るな、もう尻でいざらずに立ち上がれと命じているのである。コウモリとしては、そんなふうに命令されても困ってしまうだろうに。
これが病気とどう関係があるのかは、その後の同じ呪医とのインタビューで明らかになってきた。と同時に、なぜそもそも「コウモリ」なのかも。
それによるとコウモリのニョンゴーにとらえられた者は、歩行困難になり、また夜ごとに大きな不安に襲われる。夜どおし不安のために寝台の上で身悶えする。ごろごろ寝返りをうつばかりである(このことからコウモリのニョンゴーは nyongoo ya kugalagala とも呼ばれることがある。 ku-galagala は「転げ回る」の意)。そして一睡も出来ない。しかしその不安は朝になると消えている。また患者は立って歩くことが出来ず、辛うじて這うようにして移動することが出来るだけである、というのだ。コウモリの振る舞いと患者の症状の間にはあきらかな並行関係がある。
コウモリがばたばた飛び回る--患者は不安で落着きなく動き回る
コウモリは夜どおし活動する--患者は夜どおし眠れない
コウモリは朝にはどこにもいない--朝になると不安は去る
コウモリは尻をついていざる--患者は足腰が立たなくなる
もちろん単なる類似が問題になっている訳ではない。コウモリのニョンゴーにおける「コウモリ」は、おたふく風邪における「おたふく」とは、いずれも類似性に注目しているという点では同じであるが、他のあらゆる点で似ても似つかぬものである。少なくとも「おたふく」は、おたふく風邪の症状に責任を負わされたりはしない。
しかし、だからといってここに、フレーザーならもちろん文句なしにそう結論するであろうが、単なる類似の関係を因果関係と取違える「呪術的」思考を見出したつもりになってしまうのも考えものである。というのは、「コウモリ」と患者の間に引かれたこの並行関係には、それを通常の隠喩の関係として片付けることを躊躇させる奇妙な癒着が含まれているからである。
既に指摘したように、呪文はその構造上明らかに「コウモリ」に対して呼びかけられている。これに対して患者は呪文の中で「彼女」という主格接頭辞によって言及されている。しかし、いったん上述の並行関係を考慮に入れると、この表面上の人称関係が揺らいでしまうのである。「コウモリ」に対して、もうばたばた飛び回るなとか、もう尻でいざるなとか命令するのは、カメにのろのろ歩くなと命令するようなもので、お門違いな命令である。真っ直ぐ立ち上がれなどと、コウモリにはどだい無理な注文だ。それに対し、不安で落着かない患者がもう不安に身悶えすることのないように、足腰の立たない患者が立ち上がるようにということであれば、話は別である。しかし、もしそうだとすると、この呪文で「コウモリ」として呼びかけられていたのは、実は患者のことだったのだということにはならないだろうか。たしかに「お前にこの薬を啜らせると....」と語られるときの「お前」は、構文上は「コウモリ」のことには違いないが、実際には治療を受ける患者以外の誰のことでもない。この呪文の後で薬を飲ませられるのは、事実その患者なのだから。
そもそも隠喩は関係の二つの項が、そこで主張されている類似性にもかかわらず、実際には決して混同されえないという条件のもとで成立する関係である。「あいつは狼だ」という文が隠喩として機能するためには、それを聞いた誰かがあわてて猟銃を持出してきたりするような対象や状況に対しては、けっして適用されてはならないのだ。ところが、コウモリのニョンゴーに対する呪文においておこっているのは、まさに隠喩を破壊するこうした関係項の癒着である。もしこの呪文が一方で「コウモリ」と患者の間に隠喩的な並行関係をうちたてようとしているとすれば、この呪文は同時にそれを打ち壊そうともしているのである。
コウモリのニョンゴーについて述べたことは、他のニョンゴーに対する呪文についても多かれ少なかれ当てはまる。主だったものについてざっと見てみたい。
オオトカゲのニョンゴー
ぺっ。さあさあ、お前、モニターリザード(オオトカゲ)のニョンゴーよ。水に暮す者よ。お前は子供たちを驚かせる。子供たちは言った。ザリガニかと思ったと。男たちは言った。それは魚だと。
なんとお前だったのか。モニターリザードよ。
モニターリザードよ、お前は脱皮する。二ヶ月目が過ぎた頃、お前の足は皮がむけ始めた。人々はおおいに議論した。それは、カメの呪詛だと。ほら、もしことをしでかすと、足があんなになるのだと。でも、なんとお前のせいだったのだ。モニターリザードよ。お前は脱皮した皮が剥がれて斑になった。
さあ、さあ、なんじモニターリザードのニョンゴーよ。お前は彼女を捕えた。でもそれは過去のこと。モニターリザードのニョンゴーよ。今や、私自らがやってきた。もはや彼女が痒くなることもない。頭まで痒くて掻きむしるほどだったのだから。
さあ。ぺっ。もう争いはない。なんじモニターリザードのニョンゴーよ。今や、私が自らやってきた。私はけっしてお前を盗んだりはしていない。ちゃんとMさんからお前を購入したのだ。Mさんもお前を盗んでいない。ちゃんとNさんから購入したのだ。
ぺっ。なんじモニターリザードよ。もう痒くて掻きむしることもない。もう皮がむけることもない。争いは終わった。お前は捕えた。でもそれは過去のこと。
ぺっ。
このモニターリザードのニョンゴーは、独特の皮膚疾患を伴うことが特徴である。主として四肢を中心に、円形のケロイド斑のような状態が広がっていく。ひどい痒みがあり、掻きむしってびらんを生じ、漿液が滲み出す。周囲はちょうど日焼けの後のような具合に皮がはがれる(maphephe)。したがって、ここでも爬虫類であるモニターリザードと患者の並行関係が見て取れる。
モニターリザードの皮膚--患者のざらざらした鱗のような皮膚
モニターリザードは脱皮する--患者は皮膚がぼろぼろむけ落ちる
同様な皮膚疾患はまた、呪文の中でも言及されているように、しばしばカメの呪詛(chirapho cha kobe)によっても引き起こされると考えられている。カメの呪詛は、作物や果実の盗難よけに仕掛けられるもので、これが仕掛けられていることを知らずに作物や果実を所有者に無断で食べると、この呪詛に捕えられる。これも、皮膚が陸ガメの膚の様になるところからそう呼ばれている。したがって上記の症状自体は、複数の解釈を許す多義的なものである。呪文の中では、この多義性も一つの並行関係の要素を提供している。
水の中にいるその姿に、人々が驚いてザリガニだ魚だと議論するが、その正体はモニターリザードだった。 | 患者の症状をめぐって、人々はカメの呪詛かと議論するが、その正体はモニターリザードだった。 |
しかしこの一連の並行関係は、コウモリのニョンゴーの場合と同様に、患者とモニターリザードの間に隠喩関係を成立させる一方で、同時にそれをキャンセルする癒着をもちこむことになる。コウモリのニョンゴーの場合よりも、それをはっきり見て取ることができる。
構文上は、「お前」と呼びかけられているのがモニターリザードであって、患者ではないことは、はっきりしている。患者は「彼女」という接頭辞で示されている。構文上の両者の区別は、コウモリのニョンゴーの場合よりも一貫しており、例えば「お前は彼女を捕えた」といった具合に明瞭に定式化されてもいる。しかし上述の並行関係が、再びこの区別を曖昧にしてしまうのである。「(妊娠してから)二ヶ月目が過ぎた頃、足の皮がむけ始めた」「お前」、「脱皮した皮が剥がれて、斑に」なってしまったために、人々に原因をあれこれと詮索させた「お前」とは、実に患者以外の誰であろうか。たしかにモニターリザードの足の皮がむけたからといって心配する人など誰もいないはずだ。したがって、この瞬間「お前、モニターリザードよ」と呼びかけられているのは、実は患者なのだということになる。
コウモリのニョンゴー、モニターリザードのニョンゴーと同じタイプのものには他に、女性の陰部が毒を含んでいきりたったコブラのように黒ずみ膨れ上がるという「コブラのニョンゴー」などがある。
カッコウのニョンゴー
ぺっ。お前、地面を転げ回る者。のたうつ者、お前、カッコウよ。
お前は飛びたつ。お前は羽ばたく。お前は。と思えば、すぐにまた戻ってくる。あちらに止ったかと思えば、やってきて物にぶつかる。収穫後のトウモロコシの茎にぶつかる。何にでもぶつかる。と思えばまた戻ってきている。お前の仕事といえば、ブッシュの中をとびまわり、地面で身を潜めることだ。
お前は身を隠す。カッコウよ。お前はずっと身を隠していた。しかし今や、私自らがやってきた。彼女は二度と身を隠すこともない。お前は、死に瀕している。お前は身を潜める。お前は身を潜めた。でもそれは過去のこと。今や、私がやってきた。お前、カッコウよ。この者に、私は私の術を施す。彼女がすぐによくなるように。お前、カッコウよ。すぐに治るように。すぐに治るように。お前、カッコウよ。向うの方へ行って止ったかと思うと、お前はまたかえってくる。そいつは、時には死んだ振りをする。子供らが言う。つい今し方ここにカッコウ(の死体)があったのに、どうして消えてしまったんだろう。薮をつついてみると、なんとお前は隠れていただけだったのだ。そいつは薮の中に居る。お前は隠れていた。でもそれは過去のこと。しかし、今や私は命じる。あの病人を生返らせてくれ。
ぺっ。お前、カッコウよ。もう争うことはない。そもそも、お前は役たたずの動物だ。ブッシュに住む役たたずの生き物だ。ぺっ。もう二度と意識を失う(文字通りには「死ぬ ku-fa」)ことはない。もう二度とこの者を殺すことはない。この者を殺すな、お前、カッコウよ。
お前はその足を用いて送りつけられた。お前はその頭を使って、送りつけられてきた。お前は頭を炒められ、足の爪を炒められた。お前は捕えられた。でもそれは過去のこと。いま、私たちはあの病人に起上がって欲しい。行って、おかずの野草をつんできて欲しい。さあ。お前、カッコウよ。冷めよ。
カッコウ(gude)は、低木の茂みにくらす鳥で、その飛び方が無様なことで知られている。明け方になるとその鳴き声がきこえる。食べてはならない鳥であるとされ、カッコウを追いかけていくとそれは蛇に変身してしまうという俗信がある。カッコウの生態で人々が最も強調するのは、それが「しばしば死んだふりをする」という点である。物にぶつかって地面に落ち、死んでしまったように見える。しかし、しばらくして見てみると、姿を消してしまっている。死んだかと思えば生返って飛立つ。
カッコウのニョンゴーは数あるニョンゴーの中でも殊に深刻なものである。患者は頻繁に意識を失い(ドゥルマ語では「意識を失う」は単に「死ぬ ku-fa」と同じ言葉で語られる)、ただ「眠ったままになる」、つまり昏睡に陥ってしまう。人々によると、患者とカッコウのあいだに、次のような並行関係を指摘することができる。
カッコウは地面を転がり回る | 患者は苦しみにのたうつ |
カッコウは飛んでいったと思うと、すぐ舞い戻る。 | 患者は目覚めるかと見えて、また昏睡に陥る。 |
カッコウは身を潜める | 患者は昏睡したままで意識が戻らない |
カッコウは死んだふりをし、すぐに姿を隠してしまう | 患者は意識を失い、昏睡に陥る |
ただし、最後の点に関しては、患者は死体のように死んでしまったように見えるが、実はカッコウが死んだふりをしているだけであるように、実際には死んでいないのだという関係の方を指摘する意見もある。
この呪文においてはカッコウと患者の文面上の分離は、先に上げた二つより首尾一貫しており破綻は見られない。しかし、内容的には「身を潜めている」のは端的に昏睡に陥った患者の意識なのであるから、カッコウと患者の両者の癒着は、ある意味で先に上げた二つの呪文におけるよりもより完全である。つまり、繰返し、「身を潜めている」、「隠れている」と語られる「お前」は、文面上はカッコウであるが、内容上は患者の意識そのものなのである。
他の全てのニョンゴーと同様、カッコウのニョンゴーも妖術使いによって引き起こされた病気である。呪文の最後の部分は、妖術使いがカッコウのニョンゴーをかける際に、実際にカッコウの頭と足を炒めたものを呪薬の材料として用いるという事実に対応している。コウモリやモニターリザードが呪薬の材料といった形で、妖術の手段としても関与しているのかどうか、私は確認していないが、カッコウについてはこの点は明らかだ。呪文では、カッコウに対して「お前は捕えられた」と語りかけている。つまりカッコウは妖術使いによって「捕えられ」、こうして患者に対して送りつけられる。一方妖術使いによって用意され地中に仕掛けられた呪薬を踏むことによって、犠牲者はこの妖術、あるいは「カッコウ」に「捕えられる」。したがって、ここにも並行関係が見出されるのだが、この並行関係は、換喩的な連続性のなかに同時におかれているのである。同じ関係は次の「ヒヒのニョンゴー」にも見られる。
ヒヒのニョンゴー
ぺっ。お前、ヒヒのニョンゴーよ。お前は高い木の上に登る。お前は盗人だ。他人のトウモロコシを食べる盗人だ。子供が見張っていようとも、お前はトウモロコシを盗む。トウモロコシを頬張る。お前からトウモロコシを守ることはできない。そしてお前のニョンゴーは、お前そのものと同じく治すことができない。
お前、ヒヒよ。お前は人のトウモロコシを盗んでばかりいた。ぺっ。お前、ヒヒよ。お前には父がいない。父はこの私Cだ。もう争うことはない。お前は捕えた。でもそれは過去のこと。でも今や、こうして私Cがやってきた。もう衰弱することもない。お前、ヒヒのニョンゴーよ。お前は人に喰われることもある。でもいまはなぜ、この娘を殺そうとするのか。何が望みで彼女を殺そうとするのか。見よ。目が白目をむいている。お前は呪詛からやってきた者だ。お前は呪詛だ。しかし今や私Cがやってきた。もはや呪詛もない。お前は捕えられた。お前は捕えられた。でもそれは過去のこと。もはや争うこともない。私はお前に私の呪薬を飲ませよう。私はこの者に口をきいてもらいたいのだ。ぺっ。
このヒヒのニョンゴーは、他のニョンゴーと異なり、妖術によって引き起こされたというよりも、作物の盗難よけに仕掛けられた呪詛(「ヒヒの呪詛 chirapho cha nyani」)が、妊娠中の女性を捕えたものである。ただし、それは「誤って」捕えたものだ。呪薬はしばしば標的をはずして無関係な人間を捕えてしまうことがあるのである。この意味で、人を発狂に導く妖術(そのターゲットは妊娠中の女性に限らない)の同様な誤射とも考えられる「ツバメのニョンゴー」と同様、呪医によってはニョンゴーの種類に加えない場合もある。人の膚を泥で作った人形のようなざらざらした膚にすると言われる「キズカ(泥人形)のニョンゴー」も、同じくその性格はやや曖昧である。
ヒヒの呪詛に捕えられると、白目をむいて、ヒヒのような声で泣き喚いたり、ヒヒのように振る舞ったりするようになる。人間の言葉を喋ることができない。この点でのヒヒと患者の間の並行関係は明白である。しかしこれは、カッコウのニョンゴーの場合と同様に「捕えるもの」と「捕えられるもの」の関係を著しく曖昧にする。
畑の作物を盗むヒヒが捕えられる | ヒヒ(のニョンゴー)が(畑の作物を盗んだ)患者を捕える |
したがって、ここでもヒヒと患者は単純な隠喩的関係にたつことはできない。かくして、文面上は語りかけられている「お前」は、ヒヒであり、「この者」という指示詞で指される患者とは区別されているのであるが、内容上この「お前」はしばしば患者そのものを指すことになる。(「私はお前に私の呪薬を飲ませよう」)。
ムララのニョンゴー
ぺっ。お前、ムララのニョンゴーよ。ムララのニョンゴーよ。やってきて目をふさぐ者よ。人はもがき苦しむ。性器からの出血もある。人がすぐに意識を失う(ku-fa 文字通りには「死ぬ」)のもお前の仕業だ。
お前、ムララのニョンゴーよ。お前は蛇だ。お前は蛇だ。ブッシュにいて子供たちを咬む蛇だ。お前はここに来て、この妊婦を咬む。と彼女は意識を失う(unafa 文字通りには「彼女は死んでゆく」)。ぺっ。今や、わたしが呪薬をもってやってきた。もうニョンゴーが捕えることもない。わたしはこの呪薬を調合しにいこう。今日にも彼女はなおる。あのわたしのビン。彼女が一啜りすれば、もう治ってしまう。そして子供を産む。
ぺっ。お前、ムララのニョンゴーよ。もう争いはない。お前、ムララのニョンゴーよ。彼女を解き放せ。お前は目をふさいだ。お前は目をふさいだが、それは過ぎたこと。お前は雨のようなものだった。すっかり暗くしてしまう。しかし今や雨は上がった。さあ、痛みをひかせよ。
ぺっ。最後に、お前、ムララのニョンゴーよ。時には、お前は眠っているかと思うと、身体を硬直させる。自分の身体をピンと張りつめる。マットの上に寝ていて、マットの上で身体を張りつめさせる。そしてそのまま死ぬ(意識を失う)。私は命じる。もう身体を硬直させることもない。お前は身体を硬直させた。でもそれは過去のこと。今や呪医である私自らがやってきた。さあ、お前を立上がらせよう。
ムララ mulala というのは背丈の低いヤシ科の植物(dwarf palm, hyphaene)で、その葉は、マットや篭などの日用品の材料として重宝されている。ムララのニョンゴーは、その名の由来であるムララ自体が病気のエージェントであるとは考えられていない点でこれまで紹介した他のニョンゴーとは異なっている。呪文の中でも語られているように、病気を引き起こしたエージェントは蛇である。
このニョンゴーに捕えられたものに特徴的な症状は、失明と身体の硬直である。ムララという命名自体は、患者が身体を硬直させて突っ張らせるさまからきたものである。ちょうどこのヤシの葉が真っ直ぐ突っ張っているように、患者も身体を突っ張らせるのである。ムララ・ヤシの成長点は、このニョンゴーを治療する呪薬の重要な成分となる。
このニョンゴーの呪文の興味深い点は、その現実のエージェントである蛇との関係で語られている部分では、これまでのニョンゴーの呪文を特徴づけていたような並行関係も、人称の揺らぎも全く見られないのに対し、実際には病気のエージェントではないムララ・ヤシとの関係の部分では、それが現れるという点である。文面上は語りかけられている「お前」はムララのニョンゴーなのであるが、「眠ると身体を硬直させる」「お前」、呪医が立ち上がらせようとする「お前」は、内容上患者以外の誰でもない。
このムララのニョンゴーと同様な特徴をもつものに、「バナナのニョンゴー」と呼ばれるものがある。患者はバナナの実が膨らむように脇腹が膨らむ。妖術使いはバナナの雌しべを用いてこの術を犠牲者にかける。バナナの雌しべは、またこのニョンゴーを治療するための呪薬の成分としても用いられる。
犬のニョンゴー
お前、切裂く者。切刻む者。お前はお前の母を切刻んだ。お前の兄弟を切刻んだ。お前の父を切刻んだ。お前に捕えられる者誰でもを切刻んだ。犬のニョンゴーよ。お前は切刻まれた。内蔵も切刻まれた。なんと、お前、犬だったのだ。お前は、人々の糞を食べる者。お前は犬。なのに、いま、なぜこの者を殺そうとするのか。ハイ。お前、犬のニョンゴーよ。びらんは腹の中から始まって、今や陰部の表面までただれている。ハイ。お前、犬のペニスよ。ハイ。お前、犬のペニスよ。今や、この女性の身体の至る所をただれさせることのないように。私自らがこうして来たからには、もはやただれることはない。もう、傷口に蠅が集ることもない。私はこの者に水を注ぎ、この者に飲ませよう。そして、彼女がすっかりよくなるように。ただれがなくなるように。
ぺっ。お前、犬のニョンゴーよ。もう争うこともない。お前、仲間のペニスを切裂く者よ。
この「犬のニョンゴー」は、その名称にもかかわらず、むしろムララのニョンゴーのタイプにちかいものと考えられる。呪文のなかに「犬」が言及されているにもかかわらず、患者と犬との間には何の並行関係もない。「犬のニョンゴー」は、実際には「犬のペニス mbolo ya diya」という名の茸を用いてかけられることからそう呼ばれているのである。この茸は犬のペニスのような形をしているところにその名の由来があるが、ひどい悪臭を放つ茸で、そのまわりには何時も蠅が集っているという。「犬のペニス」は妖術使いによって、さまざまな仕方で利用されると考えられている。例えば女の妖術使いは、ひそかにペニスを隠しもっており、夜中にそれで眠っている犠牲者の女性を犯すといわれるが、彼女が後天的に獲得したペニスは、実はこの茸から作られたものだといわれる。
犬のニョンゴーに捕えられると、ただれが体内から始まって陰部表面に及び、「腸が腐って切れ切れになり」、陰部が「腐って」悪臭を発するといわれる。明らかに並行関係は、患者と「犬のペニス」との間に設定されている。
ドゥンディザのニョンゴー
ぺっ。ドゥンディザ、ドゥンディザ、ドゥンディザ。未開の地に男たちがいる。男の呪医たちが。あの男たちはやってきた。この者に妖術をかけるために。
ところで、私はお前を盗んだりはしていない。しかじかという名前の女性からお前を買ったのだ。ところで、お前、ドゥンディザよ。お前はぶつけられた(wakala uchidundizwa)。しかしそれは過ぎたこと。お前がくると、必ず腹がふさがれる。尿もでなくなる。大便もでなくなる。そして、嘔吐と下痢だ。お前は腹が膨れ上がって死ぬ(あるいは意識を失う)。まるで、取り出される子供が腐ってでもいるかのように。それはお前、ドゥンディザのせいだ。今や、私自らがやってきた。私はお前を誰某から買ったのだ。今私は命じた。私がいますぐにもお前にこの私の呪薬を啜らせさえすれば、お前は排尿し、排便し、ついには子供を出産する。ドゥンディザよ。お前は女の子に目をつけた。お前は女の子に目をつけた。お前は年配の女性は捕えない。なぜなら娘は惚れられるからだ。この娘はあいつに惚れられた。そしてこの相手にうち負かされた。そいつはドゥンディザを買いにいって、やってきて妖術をかけた。ああ。お前は彼女に妖術を及ぼした。でもそれは過去のこと。でも今や私自らがやってきた。私はそれをある女性から教えられた。だから、もう、お前ドゥンディザよ。私は命ずる。大便よ出よ。尿よ出よ。血よ、出産せよ。私が立ち去る前に。もしお前、ドゥンディザのニョンゴーならば。
ドゥンディザ dundiza という語は、「ぶつかる、バウンドする、鼓動する(心臓が)」などの意味をもつ動詞 ku-dunda の使役形 causative である。ここではここまで検討してきた他のニョンゴーに見られたような、患者と他の何かとのあいだの並行関係はいっさい問題になっていない。そもそもこのドゥンディザという名前自体、このニョンゴーを引き起こすための妖術の、より正確にはそこで用いられる呪薬の、名前であり、術が犠牲者に対して投げつけられるさまを表現する言葉に過ぎない。呪文の中にもあるように、これは犠牲者にふられた男が腹いせにかける妖術である。
呪文は患者と何かとの隠喩関係を設定しようとはしていないが、にもかかわらず、ニョンゴーの呪文を特徴づけてきた「二人称の揺らぎ」は、明瞭に見て取れる。「お前」として呼びかけられているのは、文面上は「ドゥンディザ」である。しかし、薬をのませられ、その結果出産する「お前」は、内容上は患者自身を指していると考えざるをえない。これまでのニョンゴーと異なり、ドゥンディザと患者の間には「似たところ」がある訳ではないので、ここでの二人称の揺らぎは、隠喩関係の二項が癒着した結果と考えることはできない。同様のことは、同じく妖術の名前に過ぎない「キテマ(chitema;「切断する」を意味する動詞 ku-tema に由来)のニョンゴー」についても言える。
一見したところこれらの呪文はいかにも幼稚で、また単純明快に「呪術的」である。患者の皮膚がオオトカゲの皮膚のような状態を呈しているとすれば、それを引き起こしたのはオオトカゲであり、したがってオオトカゲに対してすぐさま悪さを止めるよう命令すればよい。とすれば、これはまるで、単なる類似の関係を因果関係と「混同」した結果の、フレーザーのいう「類感呪術」の世界そのままではないか。しかし、ニョンゴーの呪文をやや詳しく検討し終えた今、こうした解釈は余りにも表面的であることがわかる。呪文に表われたドゥルマの人々の病気認識は、こうした皮相な解釈が想定するものよりもはるかに微妙で複雑である。
では、これらのニョンゴーの呪文のなかに見て取れる、ドゥルマの人々の間での病気認識のありようとは、具体的にはどのようなものであろうか。
わずかこれだけの資料でも、一般化は既に充分困難である。他の病気についての呪文も加えるならば、その難しさはさらに増すであろう。それでも、一つの特徴が一貫して見られるということは、確認しておいてよい。いずれの呪文もさして長いものではない。にもかかわらず、「お前」という二人称で呼びかけられる対象が、この短い呪文の過程で頻繁に混乱しているように見られるという事実である。それは呼びかけられている主体の同定を不可能にする。呪文のなかで呼びかけられている主体を同定するのに、呪文が唱えられる状況をコミュニケーション状況として観察し、それを手掛りにしようとしてもあまり得るものはない。呪医のすぐわきには不安げな顔で横たわっている患者がいる。狭い小屋のなかの薄暗い隅々には、呪医の動作に真剣な目を注いでいる家族の人々の気遣わしげな顔があるはずである。呪医は、容器に満たされた水のなかで薬草を揉みしだきながら(ku-vuga)呪文を唱えている。呪医のまなざしは、容器のなかに注がれている。しかしそこに呼びかけられている「お前」がいる訳ではない。呪医自身は、自分が語りかけている相手が、コウモリならコウモリの、オオトカゲならオオトカゲのニョンゴーだと語るだろう。しかし、これは呪文の文面から既に明らかだったことだ。問題はこのしかじかのニョンゴーである「お前」が、内容上はしばしば例えばコウモリそのものであったり、患者自身であったりするということであった。
これを、本来なら別個の二つの主体が、単一の「呼びかけられる主体」という相のなかにぎこちなく統一されていると見るか、一つの「呼びかけられる主体」が二つの相に分裂して表われていると見るかは、解釈の分れるところであろう。いずれにせよ、これを単なる混乱と見るのでなければ、呪文のなかで見られるような二人称の様態は、なんらかの形での「病気の主体の二重化」に対応しているのだと考えるしかあるまい。そして、もし主体の二重化が起こっている場所を、この状況のどこかに求めねばならないとすれば、それは患者の病める身体を除いてはないはずである。
あまりにも当たり前のことであるが、私がある人物と言葉を交わしているとき、私が二人称で呼びかけている「彼」の存在が、私にとって確実なものとなるのは、私のまなざしがそこで立ち止まる彼の身体においてである。聞き慣れた声や見慣れた表情が私に彼の存在をあたえている。私は決してそれらをもとにしてそれらの背後に、そのまなざしの奥に、彼の「主体」なるものを推論的に構築したりしている訳ではないし、また、彼の「主体」は、それらが提示されている表層とは別のところに、そこに示されているものとは別の何かとして見出しうるものでもない。むしろ、彼の身体が提示するこうした一連の「表情」、つまりその統一性が端的に「彼」の存在として現象するのである。語り、行動するその身体の上にあらわれる表情、私が耳でそして目で追うことを通じて、それに応答する私自身によっても同時に生きられてしまっている、こうした表層の関係性こそが、私が彼の主体として見て取るものなのである。それは、ベイトソンの言い方を借りれば、身体の上に顕れた、自らを生成する「結びつけるパターン」である。
しかしいったん声の調子が変り、その振る舞いが調子をはずし、見慣れぬ表情がそこに表われるとき、私が感じるのは、それは本当に「彼」なのだろうかという疑問である。呪文が含意する「主体の二重化」は、病気の身体の上にふいに表われた異貌を、彼の主体と癒着した、彼ならざる他者の「主体」として見て取ろうとする試みなのかもしれない。病気の身体が提示する異貌を構成する諸要素を、注意深く選り分け、結びつけ、一つの主体がそのなかにまざまざと現出するようなパターンとして把握すること。病気の身体の上にこうして見て取られた「表情」が、病気の主体をそこに現出させる。コウモリや、ヒヒや、オオトカゲは、病気の身体の上に提示された表層の関係性自体のなかに、決してその背後や外部にではなく、現象するこうした「主体」なのである。
もしそうだとするとここに見られるのは、二つのものの差異を当然のこととして前提とした上で、両者のあいだの類似性を主張するという「隠喩的表象操作」(クリステヴァ1984)とは、似て非なるものであるということになる。差異の知覚から出発して類似性の認識へいたるという隠喩理解の筋道は、隠喩として受け取られた当の表現を生み出した産出作用のたどたどしいパロディーであり得るのだということを思い起してもよいかもしれない(Levin 1988)。「木が嘆いている」という表現はそれを解釈するものにとっては「隠喩的」でありうるが、その木の姿に悲しみの表情を端的に見て取っていた者にとっては、単に字義通りの言明にすぎない。壁紙に顕れた「しみ」を人の顔と見てぎくりとすることが隠喩的でも何でもないのと同様、そこでは何か二つの独立した関係項のあいだの類似性の知覚が問題になっている訳ではない。
したがって、もしドゥルマのニョンゴーの呪文に見られる認識が「呪術的」であるとしても、それは二つの独立した事象を両者のあいだの類似性を根拠に強引に因果的に結びつけようという、フレーザーが呪術的思考の特徴と捉えた特性のゆえにではない。表層に示されてある関係性を、そのままリアリティーとして見て取るという態度において、そうなのである。そしてこの点でそれは、ある我々には既に馴染み深い別の一つの態度に鋭く対立することになる。現象の背後に実体を設定し、そのことによって、現象のなかに見て取られているその表情、表層に示された関係性、つまり諸要素が結びつくパターンを解体し無効にしてしまうある態度、がそれである。そしてこれこそ、そのこと自体は科学的でも何でもないにもかかわらず、我々が「科学的」思考を特徴づけるものと常々見做している態度に他ならない。
結核菌とそれに対抗する有効な手段の発見による「結核の神話」の終熄は、上に述べたような意味における「科学的」態度の「呪術的」態度に対する今一つの勝利のしるしであった。「結核の神話」自体は、ソンタグも指摘しているとおり、貴族がもはや権力ではなくなってイメージの問題になりかけていた時代における倒錯の産物であった。しかし同時に結核は、たとえ倒錯したものであったにせよ、その上に豊かな意味作用を築きうる、意味ありげな独特の「表情」として眺められてもいたのである。結核の神話とともにこの表層のリアリティーまでもが解体してしまった。活発な意味作用の場であり続けたこの表情は、再び個々の「症状」へと分解された。その一つ一つは結核菌なる背後の実体と因果関係の糸で結ばれることになる。かくしてかつて結核の独特の「表情」を構成していたものは、今や、全てが単調にただ一つの意味、「結核菌」、のみを表示する記号群、したがってもはや再び互いに結びついてそれ以外のいかなる意味をになうことも許されない記号群と化してしまったのである。
この変化は、もし仮に病気が第三者によってただ眺められるものとしてのみあるのだとすれば、単に現象の編制様式の変化にすぎないとも言えたであろう。しかし、病気が病人によって経験されねばならない現実でもある以上、それを経験している者にとってのこの変化の意味は、単にものの見方の変化につきるものではなかっただろう。我々は今一度そのことの意味を考えてみなければならない。
ジュリア・クリステヴァ,1984,『記号の生成論 セメイオチケ2』中沢新一他訳,せりか書房
スーザン・ソンタグ,1982,『隠喩としての病い』富山太佳夫訳,みすず書房
Levin, S.R.,1988, Metaphoric Worlds: Conceptions of a Romantic Nature, New Haven: Yale University Press