インセストの修辞学 : ドゥルマにおけるマブィンガーニ=インセストの論理

I.序論

 近親相姦=インセスト、およびその禁止の問題は、文化の問題である。こんなあたりまえのことをあらためて指摘せねばならないということ自体、近親相姦=インセストをめぐってなされる言説が、今日なお陥っている混乱をよく物語っている。それが文化の問題であるとすると、まず問われねばならないのは、他の諸々の文化的表象の場合と同様に、その観念によって語られているのが、それが属する当の文化のコンテクストのなかで「何であるのか」という問いであって、人類全体のなかでのその起源の問題や、普遍的な社会的機能の問題などではないはずである。しかし実際には後者の問いばかりが、はばをきかせてきたのだ。

 動物行動学者たちや霊長類の研究者たちは、我々がインセストとして分類するような性関係が、すでに霊長類やその他の動物においても、一般的に回避されているという事実を示している。この知識が人類学者によるインセストに関する最近の言説をさらに混乱させている(Fox 1980, Arens 1986) 。しかし動物行動学者たちが指摘するこうした事実は、それのみをとると、人類学者を喜ばせたり当惑させたり、落胆させたりする類のものではないはずである。それは人類学者が発するべき問いとは関係のない事実だからである。それが語っているのは、単に人間も他の動物たちがするのと同じことをしているという事実にすぎない。我々にとって興味ある事実は、人間が動物たちと同様に、ある種の生物学的近親間の性交を回避しているということ自体ではなく、人間はそして人間のみが自分達が回避していることが何であるのかを、おそらくは異なる文化ごとにそれぞれ異なったやり方でとらえ、それを他の諸行為と関係付けているという点である。動物たちもそれを回避しているが、自分たちが何を回避しているのかは、もちろん知らない。それを犯したとしても自分たちがしたことが何であるかは知らないままそうしているのである。それを意図して避けたり、あるいは逆にあえて犯してみせたりできるような志向的対象としてのインセストは、この意味で、人間のあいだにのみ存在するのであり、従って、それは文化の産物に他ならないのである。

 我々の研究対象がこうした文化的表象、志向対象であることを認めるなら、我々に与えられている課題がこうした文化的表象をいかに理解するかという問題であることを、もはや見誤ることはあるまい。そしてこの課題を遂行する上での唯一の障碍が、ニーダムがつとに指摘しているように、当の理解すべき対象について我々がすでにすっかりわかったつもりになっているという、異文化理解一般がつねに乗り越えなければならない障碍に他ならないことが理解されよう(Needham 1971:25)。もちろん我々とは異なる文化に属する人々が、自分たちの経験を相互に関連付けそれについて語る表象を我々が理解しようとするなら、そうした表象によって関係付けられ語られる経験を我々自身のもつ経験領域に関係付け、我々がそれを語る表象に関係付けることによってそうするしかないのは、避けられないことである。例えば私がドゥルマのマブィンガーニ maphingani という言葉を理解しようとするとき、私はそれを「近親相姦」あるいは「インセスト」という言葉に関係付けようとするであろう。しかしそうするとき、私は私がそれらの言葉をしかじかの経験領域に対して適用する際に用いる、語られない暗黙の前提をそこに持ち込むという危険を犯しているのだということにも気付いていなければならない。異文化理解の障碍を乗り越えるということは、こうした暗黙の前提を明るみに出し、それを乗り越えるということに他ならない。

 本論の目的は、「インセスト」あるいは「近親相姦」という言葉を用いる際にきまって持ち込まれるこうした暗黙の前提の一つに照明をあて、ドゥルマの「マブィンガーニ=インセスト」を理解するうえでそうした前提が不必要であるばかりか、むしろ有害でさえあることを示すことにある。「近親相姦」とは、互いに近親と見做される男女のあいだの性的関係であるという前提がそれである。ドゥルマの人々も、我々と同様、あるいは動物たちと同様近親間の性関係を回避しているのだと言って言えないわけではない。しかし禁止された文化的志向対象としてのマブィンガーニは、けっして近親男女の性関係そのものではない。我々が近親間の性関係として捕えるような経験領域が、全く異なる関係性のもとで捕えられた異なる対象として示されることになるだろう。そこでは「近親相姦=インセスト」すなわち近親男女の性関係という、我々の観念自体が乗り越えられるべき障碍なのである。

II. エヴァンズ−プリチャードの失敗

 ヌアー族のルアル rual の観念を理解することに対するエヴァンズ−プリチャードの失敗が乗り越えるべき障碍の位置をはっきりさせてくれるだろう。

 エヴァンズ−プリチャードは『ヌアー族の親族と結婚』のなかで、ヌアー族によってルアル=インセストと見做される性的関係の種類が、ひじょうに多様かつ広範にわたっていることを鮮やかに示し、結婚の禁止とインセストの禁止の範囲が、密接に関連してはいるが、必ずしも重複していないという事実に我々の注意を引いた(Evans-Pritchard 1951, chap. 2)。しかしその一方で、彼はルアル=インセストの背後にある論理そのものの解明には一貫して失敗しているのである。

 例えば、ヌアー族は、男は自分の妻の姉妹とは結婚できないという結婚禁止規則をもっている。ヌアー族にとって、この禁止はルアル=インセストの禁止規則によって説明されるべきものである。つまり、男が互いに近親の関係にある二人の女性と同時に性関係をもつことは、ルアル=インセストであるからだというわけだ。このルアルの規則は、その裏返しである、二人の近親者が一人の女と性関係をもつことを禁ずる規則とペアになっている。しかしいずれの場合にせよ、こうした性関係のどこが「近親相姦=インセスト」だというのであろう。姉妹の一方と性関係をもつと、その事実のみによって、もう一方の女性も性関係が「近親相姦=インセスト」として禁じられるような近親者になってしまうとでもいうのだろうか。もちろん我々にとってはそんなことは考えられない。しかし、エヴァンズ−プリチャードはそれがヌアー族にとってはそうであることを証明しようと躍起になる。そして問題を立てさえすれば、それなりの答えも見い出されるものなのである。

 確かに妻の姉妹との関係が問題になっているのであれば、ヌアーは彼女が男にとって「近親者」と見做されうるような論理を提供してもいる。彼らは妻の姉妹との結婚が禁止されるべき理由として、もし妻の姉妹と結婚すると婚資の牛を出す人間が同時に受けとる側に立ってしまうからという理由、および、妻の姉妹は妻の産んだ子供を通じて(つまり生まれてきた子供の母方のオバという形で)夫と親族関係に入るからという理由を同時にあげているらしい。らしいというのは、どうもこの見解がこの種の結婚の禁止の説明として自発的に提供されたというよりは、エヴァンズ−プリチャードの特定の方向付けをもった質問に答える形で出されてきたものであるらしいからである。「男と妻の姉妹とのあいだには親族関係がないではないかという私の質問に対して、ヌアーは、それはちがう、といった。『子供からみたらどうなるのだ』と彼らはきいた。男と妻の姉妹は、妻の生んだ子供をとおした親族関係に入るとヌアーは考える」(op.cit.:33 ) 。ともあれ、男が性関係をもっている女性の姉妹は、もし前者が彼の妻で子供を産んでいれば、その限りにおいて確かに男にとっては「近親者」なのだというのである。

 しかしこの論理が、男が一時的に関係をもっている女性の姉妹との関係にはあてはまらないことは言うまでもないし、男は近親の関係にある二人の女と同時に性関係をもつことはできないというルアルの規則を説明することにもならないということを胡麻化すわけにはいかない。とすると取りうる道は一つしかない。このルアル=インセストの規則が、実は男に妻の姉妹との結婚を禁止する規則を単に一般化し拡大したものにすぎなかったのだとすることである。エヴァンズ−プリチャードは言う。「ヌアーは、ある関係に立つ人びととの結婚は、それがルアルつまりインセストになるから禁じられている、という。社会学的にいうと、これは次のように逆転できるのではないだろうか。すなわちこうした関係に立つ人びととの性関係がインセストと考えられているのは、そうした関係の人間と結婚すればそれは彼らとの結婚を禁止した規則を破ることになるからであると。」(ibid.:43-44) かくして「結婚の禁止の方が性関係の禁止よりも根本的」であり、「後者は二次的、派生的なものと私は考えている」ということになる(ibid.) 。ヌアー族にとっては妻の姉妹との結婚の禁止は、男が互いに近親関係にある二人の女性と同時に性関係をもつことを禁じるインセスト禁止規則の特別な適用例である。しかし今や、当の規則は逆に妻の姉妹との結婚を禁止する規則から派生した二次的なものだとされるのである。これはガフ(Gough 1971) や長島(1985)も指摘しているように、それのみをとれば実に奇妙な主張である。それは、結婚は禁じられているが性関係は自由である年齢組仲間の娘との関係などを逆に説明できなくしてしまうといった不都合を生じさせるだけでなく、何よりも、彼の提示したヌアー族の資料の研究史上の重要性をだいなしにしてしまいかねない主張なのである( 長島 op.cit.:289 )。しかしそれは、男が互いに近親関係にある二人の女性と同時に性関係をもつことを「近親相姦=インセスト」として理解するためには、とらざるを得ない結論でもあったことを我々は理解することができる。

 何が間違っていたのだろうか。それがインセストと見做されている以上、もし男が姉妹の一方と性関係をもつと、それによってもう一方の女性が男にとって一種の「近親者」となると、ヌアー族は考えているに違いない、こう推論したこと自体が間違いなのである。この推論には何の根拠もない。それは、インセストとは互いに近親と見做される男女の性関係であるという、我々が「近親相姦=インセスト」という言葉を用いる際の暗黙の前提のみに基く推論でしかないのである。

 エヴァンズ−プリチャードを当惑させたヌアー族の事例を通じて、むしろ疑問視されるべきだったのは、ヌアー族のルアルの観念を、こうした前提をともなう我々の「近親相姦=インセスト」の観念で理解することの正当性のほうだったのではないだろうか。この前提は、男とその母、その娘、あるいは姉妹などとの関係がルアル=インセストと見做される場合には、確かに一見まったく正当であるように見える。それらは互いに近親と見做される男女の性関係でもある。しかし、互いに姉妹である二人の女性が一人の男と同時に性関係に立つこと、あるいは二人の近親者が一人の女と性関係をもつことがルアル=インセストであるとされる場合には、これはあてはまりそうにない。それを無理矢理、近親である男女の関係にこじつける必要があろうか。エヴァンズ−プリチャードはこうした関係の具体例を一つ紹介している。ある男が姉妹の両方と関係をもってしまった。ルアル=インセストはそれを犯した者に災厄を及ぼすとされている。しかしこのケースで死んだのは、男ではなく二人の姉妹のほうだったのである(Evans-Pritchard op.cit.:39)。とするとここではルアル=インセストは、その男と二人の姉妹のあいだの性関係に言及しているというよりも、むしろ、この共通の男性と性関係をもった二人の姉妹のあいだの関係、つまり、一人の男性との性関係によって媒介された、互いに近親と見做される二人の女性のあいだの関係に言及していると考えたほうが、よほど簡単であるし筋も通っている。何もそれを無理矢理、男女のあいだの関係ととらえ、両者にありもしない近親関係をこじつける必要などないのである。我々が払うべき唯一の犠牲は、我々が暗黙のうちに用いている前提を破棄することだけである。ルアルは「近親」相姦=インセストではない。私は以下において、この犠牲が実はとるに足らないものであり、むしろこの前提を破棄することによって、ある社会のインセストの規則をより一貫した形で理解できることになることを、私が調査したドゥルマの例を通じて明らかにしようと思う。

III. ドゥルマのマブィンガーニ=インセスト

民族誌的背景

 ドゥルマはケニアの南東部に住むバントゥ系農耕民で、約15万の人口をもつ。トウモロコシを主に栽培しているが、ウシ、ヤギ、ヒツジなどの牧畜も経済的重要性をもっている。彼らは一夫多妻婚を基礎とする通常三世代からなる拡大家族、ムジ mudzi に分れて暮している。二重単系出自を認め、各人は、ウクルメ ukulumeと呼ばれる父系クランとウクーチェ ukuche と呼ばれる母系クランの双方に所属する。今世紀の半ば頃までは、相続も両系をたどり、土地や農具、武器などは父から息子へと相続され、家畜その他の財産はすべて母の兄弟から姉妹の息子へと相続されていた。今日では相続は父系のみとなり、ウクーチェは殺人の賠償を受けとる権利とそれを支払う義務のみにおいて機能している。14ある父系クランは 7つずつの半族に分れ、各クラン mbari はその内部で「戸口 muyango」と呼ばれる最大リニージと、「家 nyumba 」と呼ばれる4〜5世代の深度をもつ小リニージに分節している。外婚規制の範囲はクラン毎に異なるが、通常小リニージが外婚の単位となる。ときには祖父の兄弟の子孫とのあいだに通婚が認められることもある。母系クランは分節化していない。婚姻禁止の範囲は父系の場合よりも遠くまでたどられ、6代前に共通の女性祖先をもつ者どうしの結婚は通常認められない。しかし後に見るように、父系母系をとわず、祖父母−孫の関係にある者のあいだでの結婚が、実の祖父母−孫の場合を除いて認められているため、外婚規制の言葉でこれら結婚の禁止について語るのは実際には的をえていない。

マブィンガーニ=インセスト

 ドゥルマ語で、我々の近親相姦あるいはインセストにあたる言葉はマブィンガーニ ma-phingani である。これは一種の状態を指す言葉であり、さまざまな行為をつうじて屋敷の人々はマブィンガーニに「捕えられるkugwirwa」。そのような行為には、母と子の性関係から、兄が弟の寝具を性交の目的で借りて使用する行為、父と息子あるいは兄弟が互いの衣服を洗濯せずに借りて着用する行為といったものまでが含まれる。母と息子あるいは実の兄弟姉妹間のような深刻な場合は特にマクル makuru という言葉が使用される。別にマクシェクシェ makushekushe という言葉があり、これは「混ぜこぜ」といった意味をもつが、人によってマブィンガーニが累積したゆゆしい状態や、逆に、寝具の借用といった軽い事態を指したり、まちまちな使いかたをされている。またマブィンガーニは「混じる kutsanganyika」といった表現によってほのめかされることもある。

 マブィンガーニによって引き起こされる災厄はキティーヨ( chitiyo, vitiyo pl.)と呼ばれる。それは同じ屋敷に住む人々の誰の上にも現れうる。「もし誰かがマブィンガーニをもたらせば、彼の子供 anae、兄弟姉妹 nduguze、親たち一般 avyazie kwa jumula ( 祖父母、父の兄弟等)、両親 koloze、当人とその妻に至るまで hata yiye pamwenga na achee、キティーヨにとらえられうる。屋敷全体がキティーヨにとらえられうる。」

 深刻な場合、それは人々を不具にしたり発狂させたりする。手足の震える病気 ukongo wa kutetema もしばしばキティーヨである。災厄は子供に現れることもあり、もしある男の妻の産む子供が一人も育たない場合、それはしばしば夫あるいは妻によってひきおこされたマブィンガーニの結果であると考えられている。また異常児 vyoni( 逆子、歯が上から生える子、奇形)の出産もキティーヨであるかもしれない。トウモロコシの不作、家畜の群の減少、その他さまざまな災厄がマブィンガーニのせいでありうる。またいかに軽いマブィンガーニであれ、病人の病いは、彼に対してマブィンガーニの状態にある者が見舞いにくると、悪化すると信じられている。一方が蛇にかまれたり、あるいは事故にあったりしたときに、こうした者が見舞いにくると、患者は死んでしまうことすらあるという。

 マブィンガーニを取り除くためには、羊の供犠をともなう特別な儀礼 kuphoryorya が必要である。具体的な災厄が生じる以前にマブィンガーニの事実が知られた場合、屋敷の人々全員が治療の対象となる。というのは、来るべき災厄が誰の上に及ぶかは、誰にも予想できないからである。羊は小屋、あるいは地面に足を投げだして座らされたマブィンガーニの当事者たちの周囲を左回りに7回引き回され、生きたまま腹を切られ、胃の内容物 ufumba が取り出された後に屠殺される。胃の内容物は他の木の根などとともに呪液の成分となり、マブィンガーニをひきおこした責任者たちはそれに向ってすべてを告白しなければならない。呪医は「張本人たちを人々に示すため kuonyesa wakosa」、彼ら一人ひとりの腰を紐で縛る。しかる後に屋敷の人々の身体に呪液を塗布することによって、マブィンガーニはとり除かれる。すでにキティーヨが現れている場合、治療されるべき人々はその犠牲者に限られる。ドゥルマでは羊は、主として性の秩序の乱れに関連する事態の治療にとっておかれ、他の目的では使用されない。マクルのような深刻なケースや、累積したマブィンガーニの結果に対しては、8頭の羊が屠殺されねばならない。これに対して、それほど深刻でない場合には、実際に羊を屠殺する必要はなく、別の機会に屠殺された羊からとっておいた胃壁の一部を使用すればよい。

マブィンガーニをもたらす行為

 ドゥルマはマブィンガーニをもたらす行為一般を次の三つの形で提示するのが普通である。

(1).男が近い親族あるいは姻族女性と性関係をもつこと。「生れをつうじての(kwa ma-vyalwi)、あるいは妻を与えることを通じての(kwa mahwalwi)、あるいは妻を受けとることを通じての(kwa mahwali) 親族(umbari:字義どおりには「クラン」、「種類」を意味する)を同じくする女性の誰であれ、彼女と寝ると、それはマブィンガーニでありうる」というのが、その最も大ざっぱな公式である。実際にはこの公式にはいくつかの注釈が必要である。

(1)-1. 親族、つまり「生れを通じての親族」について言えば、既に述べたように、父系クランの場合、禁止が4〜5世代以上遡ることはなく、母系クランの場合もそう遠くまでは辿られない。具体的には禁止の対象となる女性は、mayo( M etc. )、mesomo( FW )、chane( MZ etc. )、tsangazimi( FZ etc.)、ndugu( Z,FD,FBD, MZD etc.)、mwana( D,BD,etc.)、muphwa( ZD,etc.) といった範疇に属する女性である。交叉イトコ( mukoi ) が禁止の対象からはずれていることは驚くにはあたらないが、祖母と孫娘が禁止の対象からはずれていることは注目に値する。実の祖母や孫娘を除けば、祖母( wawe )、孫娘( mudzu-kulu )の範疇に属する女性との結婚も必ずしも不可能ではないとされている。実の孫娘との性交はきわめて悪いこととされているが、それはマブィンガーニとは別の理由からである。「孫娘と寝ることは大きな過ちである。実にいまわしいことだ。しかしそこにはキティーヨはない。もしそんなことをしたことが知られると、人々は彼のことを、あの男の心の中は妖術師だ、彼は自分の息子の繁栄を嫌っているのだ、と噂するだろう。だから、このような男は一人にほっとかれ、ひどく扱われる。というのは彼はすべてを駄目にする男だからだ。」「もしお前が孫娘と寝れば、お前の息子はお前を殺そうとするだろう。彼は考える。『私の父は私が新しい義理の息子 mutsedza を手に入れることを望んでいない。私に嫉妬しているのだ』と。だから孫娘とのジョーキングはおおっぴらな場所でせねばならない。小屋の中で二人っきりでいてはならない。人々はお前が、彼女と寝ていると考えるだろう。」それはマブィンガーニのように神秘的な制裁キティーヨの対象であるというよりは、むしろ社会的な制裁の対象なのである。

(1)-2「妻の授与を通じての親族」つまり姻族との関係で言えば、具体的には次のような女性が禁止の対象である。mukaza mwana( mwana の妻、SW, BSW etc. )、mayo あるいはmesomo ( FW, FBW etc.)、mutsedza ( BW, WM, BWM, DHZ etc.)、mwana ( SWZ etc.)、chane ( WMZ, FWZ, FBWZ etc.)、tsangazimi( WFZ, BWFZ etc.)、mulamu ( WZ, BWZ, ZHZetc.)、 mukaza mutsedza ( mutsedza の妻、WFW, FZHW, BWFW, DHW, DHBW etc.)、mukazamulamu ( mulamu の妻、WBW, ZHW, ZHBW, BWBW etc.)、mukaza aphu ( aphuの妻、MBW, WMBW etc.)、mukaza muphwa ( muphwaの妻、ZSW etc.)、mwana wa mulamu ( mulamu の娘等、WZD, WBD, BWZD etc.)、chivyere (SWM, DHM etc.)、要するに、妻の近い親族およびその妻、親族の妻およびその近い親族、親族の夫の近い親族などが禁止の対象となっている。ただし祖父や孫の妻、祖母や孫娘の夫の姉妹、交叉イトコの妻や夫の姉妹などとの関係はマブィンガーニをもたらすとは考えられていない。それらは姦通 kugwa na mukaza mutu ( 字義どおりには人の妻と関係すること)である限りにおいて「非常に悪いこと」とされてはいるが、キティーヨはそこにはないと言われる。

 親族、姻族に分けてのここでの紹介は、純粋に便宜上のものだとも言えるであろう。しかしこうして分けてみると、(1)-2のなかにはヌアーの場合と同様、近親男女間の性関係としてとらえることの困難な関係が多く含まれていることがわかる。例えば、妻の姉妹やその娘、兄弟の妻の姉妹やその娘、息子の妻の姉妹、その他との関係は、我々の言うところの「血のつながりのある」親族との関係ではないし、兄弟の妻、その他との関係は、姦通とは言い得ても「近親相姦=インセスト」であるとは我々なら普通考えない。

 もちろんここで我々の「近親」観念の文化的特殊性に注意を促し、この困難が我々の観点から見てそれを近親間の関係としてとらえることができないというだけにすぎない、と論じることもできるかもしれない。近親の観念を姻族まで含むように拡大して、マブィンガーニ=インセストはやはり「近親間の男女の性関係」を意味するのだ、とすることも不可能だというわけではない。しかしこの一見自然な解決法は、ドゥルマがマブィンガーニについて語る他の定式化の前に、たちどころに大きな困難に陥ることになろう。

 その定式化は、兄弟の妻との関係がなぜマブィンガーニになるのかといった問いに対してもち出されたものであったが、例えば次のような形で表明される。

(2)「マブィンガーニは、例えば、もしお前とお前の兄弟あるいは息子が、一人の女性、あるいは互いに姉妹、互いに母娘であるような女性たちと寝れば、そのことによってもたらされる。」

これは女性の側から見ても同様である。姉妹や母娘などの関係にある二人の女性が、一人の男性あるいは互いに近親であるような男性たちと関係をもつことによってマブィンガーニはもちこまれる。かくして兄弟の妻や息子の妻、妻の姉妹やその母との関係はマブィンガーニをひきおこすものとされる。

この原則は性関係の相手が一時的な浮気の相手や恋人(muche wa weruni 字義どおりにはブッシュの妻)の場合にもあてはまるという。兄弟や父子は、同じ女性を、あるいは互いに母娘、姉妹といった関係にある女性を性交の相手にもつことはできない。

「ブッシュの妻を通じてさえ、マブィンガーニはとらえる。それはこんなふうにだ。お前とお前の息子が、あるいは兄弟が、ブッシュの妻たちを訪れる。それが同じ一人の女であったり、互いに姉妹であったり、母娘であったとしよう。さて、キティーヨというものは人を殺したり屋敷を駄目にしたりするまでに、随分とゆっくりとしていることがあるものだと知りなさい。さて、お前が病気になったり、あるいは事故で怪我をしたりする。さて、こんなふうに事をしでかした人々がお前を見舞いにやってくる。お前はあっという間に死んでしまうかもしれない。あるいはお前が彼らを見舞うと、彼らは死ぬかもしれない。ドゥルマではこれを、『彼らは父と子、兄弟を混ぜこぜにした amutsanganya mutu na mwanawe, amanduguze 』と言うのだ。だからドゥルマではこうしたことが生じると、相手を死なせることを恐れて、一方が病気のときにもお互いに見舞いにはいかない。」

実際にはこうした事態に人々が前もって気付いていることは稀である。例えば息子が病気の父を見舞った結果父の病状が悪化するといった、何らかの異常な出来事に直面したときに、後から類推されるのが普通である。

 このように恋人や売春婦、婚外交渉の相手によってマブィンガーニが生ずることは、また父子や兄弟が「外で混じりあうこと kutsanganyika konze」とも呼ばれている。明らかにこうした場合には、「近親」の観念をいかに拡大してみたところで、性交の相手が男にとって一種の近親者にあたると考えることなど、もはやできそうにない。さらに、こうした一時的な性関係がもたらす災厄は、同じ一人の女性と関係をもってしまった父子や兄弟たちのうえに、もっぱらふりかかるものと考えられていることがわかる。人々は、例えば兄弟が町で同じ売春婦と関係をもってしまうことは、おおいにありうると考えている。しかしキティーヨがその当の売春婦のうえにも及ぶとは全く考えられていない。それは兄弟のうえだけに、しかも一方が病気などの際に上に述べたような形でふりかかるとされているだけである。もっともこれはそれほど深刻な事態ではなく、用心のため、羊の胃壁の一部を含んだ呪物 mupande で治療しておけばよいのであるが。

 (2)の原理は、既に述べたように、(1)-2にあらわれた関係のいくつかについて説明を求めた際にもち出されたものであり、ブッシュの妻はこの同じ原則の、どちらかといえば周辺的な適用例にすぎない。しかしブッシュの妻の例は、この原則によって表明されたマブィンガーニの意味をかえってはっきりと示してくれているように思われる。つまり、マブィンガーニとしてとらえられる事態の異常性は、性関係をもった二人の男女の間の関係に言及するものというよりは、むしろ異性との性関係によって媒介されてしまった二人の同性の間の関係に言及するものであるということである。ドゥルマはマブィンガーニを「混じりあう」といった言い方でほのめかすが、ここで「混じりあっている」とされているのは父と息子、兄弟といった同性の親族なのである。このことはマブィンガーニをひきおこすとされる第三の種類の行為に関して、一層明瞭に見てとることができる。

(3)「マブィンガーニは衣服を通じても入ってくる。例えば、女性が自分の娘に腰巻lesoを貸し、その娘がそれを地面に敷いてその上で恋人と寝、帰ってきてそれを母に返す。そうした衣服はマブィンガーニをひきおこす。ベッドや小屋そのものでさえそうだ。例えば兄は弟の小屋のなかで恋人と寝ることはできない。こうしたことがおこると、羊が必要になる。キティーヨのためである。」

父 ( F, FB etc.)と息子 ( S, BS etc.)、兄弟 ( B, FBS, MZS etc.)オジとオイ( MB-ZS etc.)が互いのベッドや寝ゴザ、シーツなどを無断で借用することは、それが性交の目的で使われると否とにかかわりなく、マブィンガーニの始まりとして禁じられている。こうした近親者の衣服、とりわけ腰巻 musare, leso を洗濯せずに借用することも同様である。女性どうしの場合にもこれはあてはまる。男と義理の父、女と義理の母の関係においても、同様な注意が必要である。こうした行為は一つ一つはとるにたらないことであるが、累積すると異常児の出産などのキティーヨを引きおこしうる。これらがあからさまに性交の目的で使用されると、そこには疑問の余地なくマブィンガーニが生じる。あきらかにここではマブィンガーニは性関係をもった男女のあいだの関係ではなく、性と連想付けられる事物によって媒介された、二人の同性の近親者のあいだの関係以外の何物でもない。

 (1)-2, (2), (3) はいずれもドゥルマのマブィンガーニ=インセストが、異性との共通の関係によってもたらされた同性の近親者のあいだの関係の異常に言及する概念であることを示しているように思われる。とすると我々はドゥルマのマブィンガーニ=インセストに二つの意味があると認めねばならないのであろうか。ひとつは、(1)-1 においてみられるような、我々の「近親相姦=インセスト」の概念と本質的には変らない、互いに近親と見做される男女のあいだにもたれた異常な性関係、いま一つは異性との性関係あるいは性的な事物によって媒介された同性の近親者どうしのあいだの異常な関係。

 ふり返って考えれば、第二節で紹介したヌアーのルアル=インセストの概念のなかにも同様な二面性を見出すことができるかもしれない。既に見たようにエヴァンズ−プリチャードは、後者を前者に還元しようと腐心し、そして結局はそれに失敗している。ある意味でそれは当然のことである。それは、ドゥルマの例において、一人の売春婦と兄弟が同時に性関係をもつことがマブィンガーニ=インセストであるからというので、彼らと売春婦を互いに近親者と考えさせるような論理を見出そうとするようなものなのだから。そんな論理はどこにも存在しない。

 しかし逆に前者を後者に還元するというのはどうであろう。私は以下において、それがきわめて容易であることを示そうと思う。しかしそうすることは、ドゥルマのマブィンガーニ=インセストの理解において、我々の「近親相姦=インセスト」の観念、つまりそれが近親男女間の性関係のことであるという前提を、完全に放棄することを意味する。

IV. マブィンガーニ=インセストの基本構造

 互いに近親どうしであるような同性の二人の関係は、ドゥルマ語の関係名称に即して考えると、男性の場合には、父と息子( baba-mwana )、兄弟 ( ndugu )、母の兄弟と姉妹の息子 ( aphu-muphwa )、祖父と孫( tsawe-mudzukulu ) の四つ、女性の場合もこれに対応して、母と娘 ( mayo/chane-mwana )、姉妹 ( ndugu )、父の姉妹と兄弟の娘 (tsangazimi-mwana )、祖母と孫娘 ( wawe-mudzukulu ) の四つを挙げることができる。(1)であげた禁じられた性関係のほとんどは、もしそれを犯すと、上のような関係に立つ二人が一人の異性、あるいは互いに親子、兄弟のような近親関係にある二人の異性との性関係によって媒介されるという事態を引き起こすものであることがわかる。

 例えば母 mayo や父の妻 mesomo、息子の妻 mkaza mwana との性関係は、父と息子の二人を一人の女性との性関係によって媒介してしまうし、娘 mwana や妻の母 mutsedza との性関係は、それによって母と娘の関係に立つ二人を一人の男性との性関係によって媒介することになる(図1、2)。男とその姉妹との性関係は、図3のような形で、互いに父と息子、母と娘の関係にある同性の二人を相互に性関係によって媒介してしまうことになる。つまり我々が「近親相姦=インセスト」すなわち近親関係に立つ男女の性関係としてとらえている事態は、いずれもドゥルマの(2)の原理によっても説明できる事態なのである。

 マブィンガーニ=インセストと見做される他の関係についても、同様な媒介関係を指摘することができるだろう。その結果だけを図に示しておきたい。図の下部に書かれているのはその女性との性関係が各図に示されたような媒介関係をつくってしまうような、男にとってマブィンガーニをひきおこすものとして禁じられている女性の属する範疇である。

prohibited combinations of sexual relations

 これらの女性との性関係は、それが近親関係に立つ男女の性関係であるからというよりも、それが原則(2)に表われているような禁じられた媒介関係を結果するが故に禁止されているのだと解釈できることがわかる。それは「近親相姦=インセスト」としては説明できないような禁止も説明することになる。

 しかしマブィンガーニをひきおこすものとして禁じられているすべての禁じられた性関係が、これによって尽くされているわけではない。説明されずに残っている関係の多くは、mukaza mutsedza ( mutsedzaの妻)、mukaza mulamu ( mulamuの妻)の範疇に属する女性との性関係である。しかしこれらは禁じられた性関係によって媒介されてしまう同性どうしの関係を、既に挙げた四種類の親族関係以外にも認めてやるだけで解決する。これらの禁じられた性は、互いに mulamu (WB, ZH, ZHB 話者は男性)、wifi ( HZ, ZHZ, BW, 話者は女性)あるいは mutsedza ( WF, DS, BWF, DHB, FZH, WBS etc.) と呼びあう同性どうしの関係を、さらに一人の異性との共通の性関係によって媒介することになるから禁止されているのだということになろう。

 mulamu と呼ばれる女性のうち、ZHZ との性関係がマブィンガーニを導くものとして禁じられている理由だけが、こうした「異性との共通の性関係による媒介」によっては説明されない。これについては後に論じることになるだろう。

 マブィンガーニをひきおこすものとして禁じられている性関係の種類については、未だ資料に遺漏があるかもしれない。しかし少なくとも、私が収集し、(1)として紹介したものに関する限り、その大部分は全て一つの共通の原則によって理解することができるのである。つまり「互いに近い親族である同性の二人、あるいは相互に mulamu(wifi) 、 mutsedza の関係にある同性の二人が、さらに、一人のあるいは互いに親子、兄弟姉妹などの関係にある異性との性関係によって媒介されることがマブィンガーニであり、こうした媒介をひきおこす可能性のあるすべての性関係は禁止される」というのがそれである。これはドゥルマ族自身が述べる、マブィンガーニをひきおこす行為の原理(2)を敷衍したものにほかならない。マブィンガーニ=インセストは「同性間の関係」に言及するものであって、我々が「近親相姦=インセスト」として理解しているような異性間の関係に言及するものではない。こう考えたほうが、よほど筋も通っているし、資料を統一的に理解することができるのである。

 こうした理解はまた、マブィンガーニの結果生じる災厄キティーヨが及ぶ範囲が広範であることとも符合している。マブィンガーニ=インセストを「近親相姦=インセスト」として、つまり近親男女のあいだの関係に言及するものとして理解している限り、なぜその結果生じる災厄が当事者以外の人々のうえに発現しうるのかが理解できないことになる。しかしもしそれを、禁じられた性関係が犯されることによって、既存の関係性がありうべからざる形で媒介されてしまう事態に言及しているもの、つまり親族・姻族関係の網の目、回路のなかに生じた一種のショートのような事態に言及しているものと理解するなら、その行為によって危険にさらされるのはそうした回路の全体であり、したがって災厄がそうした関係の網の目を構成する誰のうえにも及びうることも、とりたてて不思議なことではないということになる。

 ここで述べたような理解が、ドゥルマのマブィンガーニ=インセストに関する資料を統一的に把握する「記述モデル」の役割を果すことを確認したうえで、次に明らかにすべきは、こうしたマブィンガーニ=インセストの観念の背後にあるロジックである。それを明らかにする過程で、ドゥルマのマブィンガーニにおける例外的な諸事例、例えば祖父母と孫のあいだでの性関係が禁止されていないという事実や、ZHZ との性関係が禁止されている理由、交叉イトコの問題などにも説明が与えられることになるだろう。

V.媒介する関係と媒介される関係

 ドゥルマにおいてマブィンガーニ=インセストと見做される状態は、同性間の既存のある種の関係が、さらに異性との共通の性関係によって媒介されたものと考えることができる。前者を「媒介される関係」、後者を「媒介する関係」とさしあたって呼んでおこう。媒介する関係には、一人のあるいは同性の兄弟姉妹関係にある異性との性関係(前節での検討をつうじて、同性の兄弟姉妹は、媒介する関係としては一人の異性と等価であることに気付かれたことと思う)、同性の親子関係にある異性との性関係の二種類があった。一方、媒介される関係としては、同性の兄弟姉妹、親子、祖父母と孫、オジ・オバとオイ・メイの四種類の近親関係に加えて、互いに mulamu(wifi) あるいは mutsedza と呼びあう妻の授受によって成立する同性どうしの関係があった。マブィンガーニ=インセストの概念は、これら媒介される関係と媒介する関係を両立しえない関係としてとらえる論理の産物として理解することができよう。

 ドゥルマは我々と同様、子供は父の「血 damu 」と母の「血」をともに受けついでいるとしている。ドゥルマにとっての「生れを通じての親族 enye umbari kwa mavyalwi 」はこうした共有された「実質」の比喩をつうじて語られるような関係である。こうした実質の比喩によると、親子の関係は同じ実質が一方から他方へと受け渡されることによって共有されている関係であり、兄弟姉妹関係は同じ親から共通の実質を受けついだものどうしの関係ということになろう。こうした関係の内部においては、相互の「類似」は前提とされている。彼らの諺に「もし若い雌鶏が卵を飲むのを見たら、それはその母の行為をなぞっているのだ uchiona muhehera unanwa matumbi udziga kolo」というものがある。これは子供の悪い振舞いは生みの親の悪い振舞いのコピーであるという意味の諺であるが、これは、生みの両親のことを隠喩的に kolo (子供を生んだ親鶏)と呼ぶ慣用とも関係している。それは親子の「前提された類似」を物語っている。

 「生まれを通じての親族」の内部には、さまざまな非対称的な差異が引かれている。父と息子のあいだの支配−被支配の関係や、母の兄弟と姉妹の息子のあいだの所有−被所有の関係(かつては殺人の賠償に対して差し出されていたのは、男が「所有する」姉妹の子供たちであった)を指摘するだけで充分であろう。保証された類似性、同一性、連続性の前提のうえに、さまざまな差異を設定する表象操作を「換喩的」表象操作と呼ぶやり方に従うならば(クリステヴァ 1984)、ドゥルマの「生まれを通じての親族」のあいだに見られる諸関係は、ここでいうところの「換喩的関係」の種々の型に対応するものだと言えるだろう。

 これに対して、異性との性関係を通じて成立する関係は、根本的に異なった種類の関係を提供する。男どうしの関係に限れば、三つの関係が知られている。

Mwanyumba relationship

 姉妹の各々と結婚した男は、互いをムヮニュンバ mwanyumba と呼びあう関係に立つ。彼らは異なる「生まれを通じての親族」に属するが、同じムツェザ mutseza (義理の父)をもち「互いに兄弟のよう dza mutu na nduguye」であるとされる。彼らは互いを訪問しあい、さまざまな事柄において援助を提供しあう。彼らの関係は、互いに姉妹であるような女性との性関係によって媒介された、相互的、対称的な関係である。保証された差異を前提としたところに、差異を超えて設定された類似性、等価性の関係を、先のやり方にならって「隠喩的関係」と呼ぶことにすれば、この関係は、互いが互いの交換可能な隠喩になっているような、「隠喩的関係」の特別な型に対応するものであると言うことができる。

Mutsedza relationship

 母娘の各々と結婚した男は、互いをムツェザ mutsedza と呼びあう関係に立つ。言うまでもなく、これは義理の父と義理の息子の関係である。彼らは異なる「生れを通じての親族」に属するが、支配−被支配の関係に立つ点で、「父−子のよう dza mutu na abaye」であるともされる。しかし互いに相手に対して同じ関係名称を用いているという事実は、両者のあいだに一種の等価性がうち立てられていることも示している。これは彼らの関係が、母−娘という換喩的関係から派生した隠喩的関係であることを考えに入れると、さして不思議なことではない。「王」に対して換喩的な関係に立つ「王冠」を破壊する者が、隠喩的な「王殺し」になることからもわかるように、換喩的な関係に立つ二項に同じ操作が加えられるとき、その操作の主体となる二項は、一方が他方の隠喩となるような関係に立つ。これは非対称的なタイプの隠喩的関係である。互いをムツェザと呼びあう者どうしの関係がこの種の「隠喩的関係」にたっていることは容易に見てとることができる。娘は母の「換喩」であり、従って娘と性的関係をもつ者は、母と性的関係をもつ者の「隠喩」となるのである。

 同じく互いをムツェザと呼びあう FZH-WBS の関係は、一見したところ、こうした関係とは異なっているように見えるが、これは祖父と孫のあいだの関係がどのようにとらえられているかとも関係があり、そこで別に論じられることになろう。

Mulamu relationship

 男と彼の姉妹と結婚した男は、互いをムラム mulamu と呼びあう関係に立つ。この関係は相互のジョーキングによって特徴付けられている。相手に対する自由な悪罵、嘘言が許され、またお互いの所有物を隠したりする行為が許されている。つまり彼らは、相手に対して自らのうちの否定的な要素を提示しあうかたちでかかわるのである。女性の授受という一点を除けば、つまり介在する女性に対して一方は姉妹として彼女に関わり、他方は妻としてかかわるという一点を除けば、彼らの関係は他のすべての点において、まったく対称的な関係である。しかし、 ZHZ との結婚が禁じられているために、つまり男が互いの姉妹を相手の妻として交換することが禁止されているために、女性の授受にかんする彼らの関係が相互的なものとなることはけっしてない。あるいは逆に言うと、介在する女性に対する関係を相互的なものにしないために、ZHZ との関係は禁じられているのである。

 今はジョーキング関係に関する一般論を展開するべき場ではないが、そもそもジョーキング関係とは、互いが互いの反転像、陰画となっているような似姿たちのあいだに成立する関係であるとも言え、介在する女性に対して正反対の形で関係するムラム間のジョーキング関係は、ちょうど反義語どうしの関係が「隠喩的関係」のある型に対応するといえるような意味で、一種の「隠喩的関係」になっているのである。

 この関係は彼らの息子どうしのあいだにも、交叉イトコ間のジョーキングとして引き継がれ、もし交叉イトコどうしの結婚が行なわれれば、それを通じていずれかの方向で再び反復されることになる。

 異性との性関係を通じて成立する関係は、従って三つの異なるタイプの「隠喩的関係」としてとらえることが可能である。ムヮニュンバ関係は、介在する女性(女性たち)に対する「同一」の関係をつうじて成立する隠喩的関係、ムツェザ関係は、相互に換喩的関係に立つ女性に対する「同一」の関係をつうじて成立する隠喩的関係、ムラム関係は、介在する女性(女性たち)に対する「正反対」あるいは「裏返し」の関係をつうじて成立する隠喩的関係、に各々対応するものである。

comparison of three relations

ところで、この三つの関係のうちの最初の二つは同時に、すでにある種の関係にたつ同の二人のあいだにマブィンガーニをもたらすような「媒介する関係」でもある。第三の係も、ZHZ との禁じられた性関係をつうじて、自らを「媒介する関係」として登場しマィンガーニをもたらす(実際、兄弟姉妹間の性交の禁止などをこの関係によって同性の弟が媒介されたものとして解釈することも可能である。しかしドゥルマの人々は、ムラの関係の論理をマブィンガーニの論理として持ち出すことはなく、原理 の形で述べるうが普通であるので、この分析ではあえてそれに周辺的な位置しか与えていない。)。するとドゥルマのマブィンガーニ=インセストの論理は、以上の分析にあらわれた諸関の両立性、非両立性をめぐる論理であったということができる。

 すでに生れをつうじての親族として換喩的関係に立つ同性の二人は、同時に女性をつうじて隠喩的関係にたつことはできず、また同一の関係が同時に二つの異なるタイプの隠喩的関係に立つこともできない。こうしてドゥルマのマブィンガーニ=インセスト概念を構成している論理が、ごく単純な一種の「修辞学的論理」として説明できたことになる。

 祖父母と孫のあいだの性交の禁止の欠如は、ドゥルマのマブィンガーニをめぐる最も並みはずれた特徴であるが、この同じ論理の延長として説明することが可能である。この禁止の欠如は、祖父と孫息子、祖母と孫娘の関係に立つ同性の二人が、一人の異性(あるいは兄弟姉妹)との共通の性関係によって媒介されうるということを意味する。しかしすでに図で見たように、この二人が互いに親子の関係にある二人の異性に対する性関係によって媒介されることは禁止されている。これはどういうことなのであろうか。

Grandfather and grandson

 ドゥルマにおいて祖父母と孫は、特に同性どうしの場合、さまざまな点で等置可能な者たちである。ドゥルマの各父系クランは、そのクランに所属する個人を2クラスの限られた数の名前によって名付けている。隣接する世代は異なるクラスに属する名前を授けられる。つまり命名体系において祖父母と孫は同じクラスに属する名前をもつ。とりわけ最初に生まれた孫息子たちは、祖父と同一の名前を与えられ、こうしたクラン名のみでなく、祖父の「あだ名」までもを彼から引き継ぎ、それとともに同時に彼の性格も受け継ぐと考えられている。彼らは相互にジョーキング関係にたち、そのコンテクストでは同性は互いにムラム( WB-ZH 話者は男性) 、ウィフィ(同、話者は女性)と呼びあい、異性は互いを夫−妻で呼びあう。つまりムラム関係と同様に、彼らは、互いが相手の陰画的な似姿であるような隠喩的関係に立っているのである。しかし、その関係はムラム関係とは異なり、女性を介した関係ではなく、一人の男性を間にはさんだ関係であり、この介在する男性に対して「正反対」あるいは「裏返し」の形で関係することから生じた関係である。一方はこの介在する男性に対して父として関係し、他方は息子として関係しているのだ。こうした隠喩的な等価関係が、FZH-WBS 間でムツェザの名称が使用されることも説明してくれるだろう。孫息子は祖父がムツェザと呼ぶ人物をムツェザと呼んでいるのである。

 祖父−孫間には、女性との関係を介した関係は未だ設定されていない。それが設定されるとすれば、唯一この関係と矛盾する関係は、両者のあいだに非対称的な隠喩関係をうちたてるムツェザ関係のみであろう。かくして祖父母と孫の関係は、一人の異性との性関係によって生じる媒介と両立できるし、また両者は各々の兄弟姉妹との実際に可能な結婚をつうじて、現実のムラム関係にも立ちうるのである。

VI. 結論

 ドゥルマのマブィンガーニ=インセストは、互いに近親であるような男女の性関係、「近親相姦=インセスト」というよりも、特定の関係に立つ同性の二人が、共通の異性との性関係によってそれとはあいいれない形で媒介されてしまうという事態に対応する観念であったことがわかる。インセストにおいて問題となるのが、当の異性間の関係ではなく、同性間の関係であるという指摘は、一見きわめて奇妙な指摘だと思われるかもしれない。しかしこうしたアイデアそのものは、けっして新しいものではない。フロイトの有名なエディプス・コンプレックス論においては、母−子相姦の問題は、「トーテムとタブー」におけるその取り扱い方からも明らかなように、結局のところ父と息子の関係の問題に他ならなかった(フロイト 1970 )。ジラールが指摘しているように、最終的には母に対するリビドー的愛着の理論によって包摂されてしまったとはいえ、それは「すべての点で、母親にたいしてさえ、父親になり代りたい」という息子のミメシス的欲望の危険から切り離されることはなかったのである(ジラール 1982:267-293)。

 ミメシス的欲望から生まれる一種の相互性−−私ならそれを隠喩的相互性と呼ぶであろうが−−が人々を互いの似姿へと変貌させ、そこで生じる奇形の分身の出現をつうじて、供犠の成立メカニズムを分析してみせたのはジラールであるが、まさにそうすることにおいて、彼はインセストの問題を、ほとんどこの論文でとらえたような形で眺めるに至っている。インセストの論理をまさにそうした形で組織しているドゥルマの人々が、逆に、そこからミメシス的欲望の論理を発見しているとしても、それは何ら驚くには値しないことであろう。彼らが伝承する一つの民話のなかに、そうした発見が見え隠れしている。

<空飛ぶ篭>の話として語られている民話の要約を次にあげる。

  「あるところに三人の仲のよい兄弟がいた。彼らは一人の女性をひそかに愛していたが、それを誰にも告げなかった。ある日、三人は父の言いつけで牛を買いに遠方へ旅立った。途中で杖を売っている男に出会った。その杖はそれで一打ちすると死者を甦らせることのできる魔法の杖であった。長男がそれを買った。さらに行くと篭を売っている男がいた。その篭は人が乗ると大きくなり、空を飛ぶことができる魔法の篭であった。次男がそれを買った。さらに行くと鏡を売っている男に出会った。それは遠くのところで起こっていることを、まざまざと見せてくれる魔法の鏡であった。末の弟がそれを買った。しばらく旅を続けていると、末の弟が言った。『俺の鏡によると、某村の娘が今にも死ぬところだ。私は戻らねばならない。』それは彼らがひそかに愛していた娘であった。他の兄弟たちもそれを見て驚き、次男のもつ篭に乗って、村に飛んで帰った。彼らが帰りつくと、その娘は既に死に、まさに埋葬されようとしているところであった。さっそく長男が自分の買った杖でその娘を甦らせた。しかし三人の兄弟は争い始めた。長男は言った。『私の杖がなければこの娘は死んでいた。だから彼女は私の妻となるべきだ。』次男は言った。『私の篭がなければ、ここへ遅れずに帰りつくことはできなかったはずだ。だからその娘は私の妻となるべきだ。』三男も負けずに言った。『もし私の鏡がなければ、彼女の死を知ることができなかったはずだ。だから彼女は私の妻だ。』こうして三人は争い始めた。長老たちはこれを見ておおいに困り、会議を開いた。そして彼女を三人の父の妻とする決定をした。三人はこの決定に満足し、彼らは恋人であった女性を母として、末永く幸せにくらしたということである。」

 確かに驚くべき結末である。一人の異性を共通の欲望の対象に持つとき、兄弟たちは敵対する相互性のなかに置かれる。彼らは、けっして同じ場所を同時に占めることのできない、互いの似姿となる。通常ならば、ここで兄弟の知恵あるいは力比べなどが始まって、似姿どうしが相互に戦いあい排除しあうことによって、最後に一人の人物だけを残すのを見ることになるだろう。この争いのなかで、兄弟を相互に関係付ける換喩的な差異が完全に消滅し、結局兄弟などはいなかったのだ、そこには一人の人物と、本物であるその男の前では消えさるしかない隠喩的な他者がいただけだったのだと知らされることになるだろう。しかし、この民話においてはそうはならない。恋人を母に変換するという信じがたい離れ業をとおして、兄弟はあっさりともとの兄弟の姿に復帰するのである。

 兄弟は親としての一人の女性との関係においてのみ兄弟であることができ、性の対象としての一人の女性との関係においては、同時に兄弟であることはできない。ドゥルマのマブィンガーニ=インセストの概念の底にあったのも、またこの観念であった。

 インセスト、およびその禁止の問題は文化の問題である。人類一般が、あるいは高等動物一般が共有している一つの傾向性は、個々の文化のなかで、さまざまな関係性に置きなおされ独自の文化的志向対象につくりあげられている。人類学者が問題にするのは、このようにすでに文化的志向対象となったところの現象なのである。それを性関係をめぐっての異性間の関係の問題として見る「近親相姦=インセスト」の観念は、その一見「生物学的」な相貌にもかかわらず、そうした文化的構築物の一つにすぎず、その背後にあ暗黙のうちに措定されている前提は普遍的な地位をもちえない。ドゥルマの資料の検討を通じて私が示唆したかったのは、表面的には同じ現象が、全く異なる前提のもとに「同性間の関係」の問題としても現れうる可能性であった。結局、文化人類学における他のあらゆる問題と同様に、インセストの問題も、文化的表象が取り扱われるべき仕方で問題にされねばならないのである。


参考文献

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Fox, R., 1980, The Red Lamp of Incest. Notre Dame, Indiana: University of,Notre Dame Press.

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ジラール,R., 1982, 『暴力と聖なるもの』古田幸男訳・法政大学出版

クリステヴァ, J., 1984, 『記号の生成論・セメイオチケ 2』中沢新一他訳・せりか書房

長島信弘 1985,『解説』(長島・向井訳 前掲書)