村の中のテント:マリノフスキーと機能主義





マリノフスキー日記

一人の青年が穏やかな熱帯の夕暮れを眺めている。彼は昨日ニューギニアに到着したばかりだった。死後に公刊され物議をかもすことになる彼の日記の中で、色彩鮮やかに描かれたその光景。

「えも言われぬ日没の美しさ。...静かな入江を縁どる、しなやかなマングローブの枝は、水面やぬれた渚にその姿を映していた。西方の紫色の陽光が、ヤシ林に染み渡り、焼け付いた草地をその輝きで満たし、濃いサファイア色の水面を滑べっていった。実り豊かな仕事と予想外の成功を約束するかのような雰囲気がすべてに漲っていた。」[マリノフスキー 一九八七、三九(原書は一九六七年。引用箇所は邦訳による。ただし訳文には一部変更あり。以下同様。)]

青年の名前はブロニスラフ・マリノフスキー。人類学におけるフィールドワークの価値を確立しその最初のお手本を示した人、機能主義理論の提唱者として、人類学史に不滅の名を刻むことになる。フレイザーの『金枝篇』[フレイザー 一九五一−一九五二(原書初版は一八九六年。一九三六年に完結。)]を読んで人類学に転進し、イギリスに渡り人類学を学んだ。ようやくのことで調査の機会を与えられ、オーストラリアに来てまだ間もない頃、第一次世界大戦が勃発した。ポーランド生まれで敵国オーストリアの国籍をもつ彼は、イギリスへの帰国を足止めされる。彼は結局オーストラリアには6年間滞在することになる。しかしこれが彼に思いがけない長期にわたるフィールドワークを可能にした。友人たちの働きかけもあって、オーストラリア政府はニューギニアでの現地調査実施の許可をマリノフスキーに与えたからである。彼の有名なトロブリアンド諸島民の研究はこうして生み出された。

色鮮やかな風景描写は、彼のきわめて個人的な日記のなかで、とりわけ目を引く特徴である。その描写は、他の事柄について述べる際の、ときに断片的で無愛想な文体とは好対照をなしている。その接合は唐突ですらある。

「黒い雲の帯の下で、真っ赤な太陽がまさに海に沈もうとしていた。空と海を背景に、一分の隙もない暗闇に立ちつくすマングローブの影が、水面に長く尾を引いていた。夕日に照り輝く西方の雲間から、重くくすんだ赤光が滲みでてくるように思えた。スローモーションさながらの波の動きに合わせて、赤光はあたりを漂い、身震いし、雲と渚に黒く縁どられて、まるで生暖かく淀んだ空気のように息苦しく、今にも窒息せんばかりに、緩慢に大気中をうねっていく。そのため私は夕日を浴びるというよりは、赤光がねっとりと肌にこびりついているような気がした。そのあとはスウェーデン体操。短篇小説。ヒロイズムの問題。ひどく憂鬱な気分。チャールズと私。....」[マリノフスキー前掲書、二六七]

日記においては風景はつねに一つの全体像として、その都度ごとに一つの完結した姿で描き出される。同じ日記の中で、作者自身の姿が、そして彼が調査したトロブリアンド諸島の社会や文化が、そうした仕方で描写されることはけっしてない。まるで自分自身とは永遠に断片の連鎖であり、社会や文化がその完全な姿を人の前に提示することなどけっしてないかのように。そしてこれはおそらく、フィールドワークのあいだじゅう、マリノフスキーを悩ませていた問題でもあった。

重点的研究としてのフィールドワーク

当時イギリスの人類学においては、フィールドワークについての新たな考え方が成立しつつあった。宣教師や旅行者たちがもたらす報告に頼った書斎での理論的思弁に飽き足らない人類学者たちは、すでに自らデータ収集の調査旅行を組織するにいたっていた。しかしハッドン、セリグマン、リヴァーズらのトーレス海峡調査隊に代表される、博物学的な探検調査にならった、複数の専門家からなる総合調査(survey)、調査船で島々を巡りつつ、さまざまな標本、資料をあつめ、限られた情報提供者たちに聞き取りを行なっていくこうした初期の網羅的な調査に従事していた人々の間で、より長期の重点的な調査の必要が感じられ始めていた。

リヴァーズは人類学調査の手引書である『人類学質疑問答』の一九一二年改訂版[BAAS 1912]および翌一九一三年の論考のなかで、自分たちが行ってきたタイプの広域調査(survey)とは異なる「限定された地域に対する重点的研究(intensive study)」の必要性を説いている。それによると、調査者は現地の言語をできるかぎり習得すべきである。言語は「ある民族の生活や思考を完全に理解するための唯一の鍵」[BAAS 1912:186]である。こちらからの質問で特定の話を聞き出そうとするよりも、人々の自発的な語りにより注意を向けるべきである[BAAS 1912:112]。また滞在中には、機会があればできるかぎり重要な行事に参加し、それらを実地に観察し、人々による口頭の説明を補わねばならない。聞き取りのみに頼らず、具体的な事例を徹底して研究すべきである[BAAS 1912:116]。また「未開」社会においては政治、宗教、教育、技術などなどの領域は未分化で相互に依存しているため、特定の分野に専門化したデータの収集は望ましくない。一人の調査者が社会生活の全領域について、満遍なく情報を集めることが望ましい[Rivers 1913:10-11]。こうした調査にはそれに専従する専門家が必要となるであろう。要するに、調査者が一人で「人口4〜500人のコミュニティに1年、あるいはそれ以上にわたって住みつき、人々の生活や文化についてのあらゆる事柄を...現地語を介して具体的かつ詳細に研究する」[Rivers 1913:7]こと、これがリヴァーズの「重点研究」の構想であった。

この「重点研究」を初めて実地に推し進めることになったのがマリノフスキーに他ならない。思いがけない、言わば強いられた長期の滞在がそれを可能にした。日記を読むと、彼が『人類学質疑問答』を携行し折にふれてそれを参照しているのがわかる。彼は自分が今や行わねばならないことが何であるか明確に把握していた。

現地での社会理解

おそらく読者の中には、ある社会を理解するのに、実際にそこに行ってみること、そこにできるだけ長く留まって、徹底的にそれを調べること、つまり重点的な現地調査を行うことが大切であることなど、あまりにも当たり前のことだと感じる人も多かろう。例えば、アフリカのことが知りたければ、実際にアフリカに行ったほうがよいに決まっている。

しかし、この一見したところの当たり前さは曲者である。アフリカに行くといっても、私に行けるのはアフリカのどこか限られた場所だけだ。とするとアフリカが良くわかる場所というのはいったいどこだろう。それともアフリカとは、南アフリカであれ、ケニアであれ、どこに行こうとそれらには関係なく同じように「わかる」何かであるとでも言うのだろうか。困難は、アフリカという対象が大きすぎるために生じたのだろうか。例えば、ケニア海岸部のドゥルマの社会などと限定すれば、まさにそこに行くことが理解を可能にしてくれるのだろうか。話はそう単純ではないのだが、仮に実際にそこにいることができるような場所が特定できたとしよう。しかし、ではそこに行って何を知れば、ケニア海岸部のドゥルマの社会のことがわかったことになるというのだろうか。どこに行こうと、もちろん、何がしかの知識は手に入る。しかしそれらは、目的であるアフリカなりドゥルマ社会なりの理解に、どういう形でつながっているのだろう。例えばトウモロコシ粉の練り粥の作り方を知ったからといって、それを知る前と比べて、ドゥルマ社会についてどんな風によりよくわかったことになるのだろうか。

このように、ちょっと立ち止まって考えてみると、どこかへ実際に行ってみることと、ある社会や文化を理解することとの間の自明な関係は、たちどころに揺らいでしまう。これが自明に思えるのは、ある社会や文化を理解するとは、どういうことであるのか、何を知ることなのかを、われわれがすでに知っていると思っている限りにおいてである。注意すべきは、マリノフスキーの時代には、かならずしもそれはまだ明確にはなっていなかった。むしろ彼らこそが、社会や文化を理解するとはどういうことか、何をどのように知ることがそれに当たるのかを、具体的な実践として示しつつあったのである。つまり、現地調査という実践のなかで知りうる何かとして想像された社会、文化像がまさに提出されつつあった。

研究対象としてそれを想定することそのものが、その具体的な内容がどうであれ、社会や文化を、あたかもいろいろな角度から観察したり調べたりできるような実体的対象、一つのまとまったオブジェであるかのように想像するよう暗に仕向けている。こうしたイメージのせいで、その社会や文化の「所在地」、それが存在している場所に実際に行きさえすれば、ただちにその観察を開始できるかのような幻想を抱きがちである。実際にフィールドワークを始めてみて実感するのは、わかりきったことではあるが、そこでの自分の位置が社会や文化をオブジェのように捉える全貌把握的視座などとは程遠いものだということだ。壁で隔てられたわずか数メートルのところで起こっていることすら、私にはわからない。ある家族の一日の生活に注意を払っているなら、そのときほんのわずか離れた隣の家族で何がおこっているかは、すでに知りえない事柄に属する。やみくもに事実に到達しようとあがいてみても、そうすればするほど、事実は自分から隠されているような感じがしてしまう。そもそも「社会」などというものが目に見えるわけではない。全体像がとらえられるのは、せいぜい目に映る景色くらいのものだ。私の前に現れるのは、全体像へと収斂してくれそうもない断片的なあれやこれやばかりである。

現在であれば、ここから、特定の場所に所在する一つの全体的対象としての文化や社会という概念を疑問視する方向に向かうこともできるであろう。しかし当時の人類学にとっての問題は、調査者の視座の限界とそこで捉えられる断片的であるしかない現実を社会あるいは文化という全体性と結びつけ、こうした重点的な調査が社会や文化の全体性を理解するための優れた方法であることを示すという問題であった。いや、むしろ現地調査という実践をまとめ上げるために、一つの経験的な全体としての文化や社会という対象をなんらかの仕方で想像する必要があったのである。マリノフスキーが、トロブリアンドの研究において成し遂げたのはこれであった。

日記におけるフィールドワーク

マリノフスキーの日記は二つの時期に分かれている。最初は一九一四年九月から一九一五年三月までの期間で、彼の初めてのニューギニア行きとマイルの調査を中心とした時期、もう一つは一九一七年一〇月から一九一八年七月までの、トロブリアンド諸島での2回目の調査を中心とした時期。残念ながら、一九一五年から一九一六年にかけてのトロブリアンド諸島における最初の調査については日記は残されていない。

主にポーランド語で書かれた彼の日記は、おそらく他人が読むことを考慮に入れない個人的な記録であり、またフィールドワークの記録そのものを目的としたものでもなかった。そこで描かれているのは、マリノフスキーが彼自身の弱さと考えるものと日々格闘しているさまであり、読むものにしばしばショックを与える。「自己分析」と彼はある個所で書いている。日記の中の彼はしばしば自分自身を持て余しているようにすら見える。「座り込んで泣き出し」たくなり、「こんなところから逃げ出したいという猛烈な願い」に駆られる瞬間がある[マリノフスキー前掲書、三八一−三八二]。もちろんここに、嘘いつわりのない真のマリノフスキーの姿を見出したつもりになる必要はない。あらゆる個人的な日記と同様、それはすでに一つの自己の提示の仕方であり、自己劇化の一つの形態にすぎない。

調査活動のなかでの彼の幻滅や憤り、とまどいや焦りも、彼の日記の帯びたこうした基本的色調の重要な構成要素となっている。うまく行かない調査、現地の人々に対する憤り、周囲との摩擦。時にはやる気を失い、頻繁に小説に逃避する。

「昨日は原住民の子供たちに起こされた。そのうえ鶏や小さな女の子たちががあがあ騒いで寝てられたものではない。....日中残りの時間はすべて民族学の仕事に当てたが、あまりはかどらなかった。ラギムとタブヨの絵を二三枚描いて見せ、名前を尋ねてみたが、彼らはその名前を知らなかった。呪術について尋ねたら、自分たちは呪術はいっさい行わないと言うのだ。それを聞いて腹がたち、その場を立ち去り、トムとトボラから話を聞き始めた。だがそれもうまく行かない。もう仕事はやめにして小説を読みたくなる。...呪術とか、少しでも個人的なことがらに触れる段になると、必ず嘘をつかれているような気がして、無性に腹がたつ。」[前掲書、三五三]

ときとして彼は調査そのものにすら関心を失いそうになる。

「民族学について言えば、原住民の生活などまるで興味も、重要性もないものに見える。何か私とは疎遠なもの。犬の生活のようなもの。」[前掲書、二五〇]
「問題:科学的興味がすっかりうせてしまい、もうどうしようもないほどだ。日曜日、私はまったく仕事に集中できなかった。」[前掲書、四〇三]

彼の苛立ちはしばしば、現地の人々や彼の身の回りの世話をする現地人らに向けて爆発し、日記のなかのいささか穏やかでないコメントとしてその痕跡を残している。

「一軒の家と少女の一団、ワシの写真をとり、新しい家の建造について調べた。その際一つ二つ下品な冗談を言ったら、一人の忌まわしい黒人めが非難の色を示したので、私は彼に悪態をついてひどく腹を立てた。その場ではかろうじて自分を抑えたものの、あの原住民が私に対してよくもそんな口のききかたができたものだという事実ににがまんがならなかった。」[前掲書、三九六]
「原住民たちにはいまだに腹が立つ。とくにジンジャーの奴ときたら、死ぬまで殴りつけてやりたいくらいだ。植民地におけるドイツとベルギーの残虐性のすべてがよくわかる。」[前掲書、四〇六]

とはいえ、こうした記述に目を奪われてしまってはなるまい。日記の裏側に透けて見えるのは、むしろ体調不良や無気力、孤独、故郷に置き去りにしてきた者に対する思い、性の衝動、こうしたさまざまな悩みに苦しみながらも、あるいはまるでそうしたものを振り払うかのように、「日常業務」として、調査の仕事に打ち込むマリノフスキーの姿である。

「今朝は蚊帳の下に寝そべったまま、すこしぐずぐずしていた。もうだいぶ長いことまともに眠ったことがなかったのだ。...仕事に戻らねば。そこで言語学に全力投球した。言葉をものにしなければ。」[前掲書、二七五]

毎朝の村の「巡回」は日課であったように見えるし、資料整理、統計、言語分析、地図などの作業で空いた時間はほとんど埋め尽くされているという印象がある。

「私は仕事をするようにできているのだ。仕事に没頭する。目覚めるやいなや、私は計画を立てる。歩いているときや小船で移動しているあいだも。私は、実際無感動で、重度の憂鬱に圧しつぶされそうなのだが。」[前掲書、三〇二]
「私の自尊心を保ためには、精力的に仕事をするしかないのだと思った。私の仕事は面白くもないし魅力的でもないが、だからといって全く無意味というわけでもあるまい、と自分に言い聞かせた。」[前掲書、三〇六]

彼がリヴァ-ズらの提唱した「重点研究」を、ほとんど禁欲的なまでの真面目さで自らの課題として遂行していたことは明らかである。結局彼はトロブリアンド諸島の住民について、合わせると二千ページを優に超える数々の書物を書くことになるのであり、それを可能にした情報の質や量において、彼の調査が不十分なものであったと非難することなど、とてもできそうにない。しかし、もしそうであるなら、重点研究の実践の過程で頻繁に彼を襲う失意や憂鬱、苛立ちや無力感は何を意味しているのだろうか。それは、現地の人々や白人居留者たちとの人間関係、性欲への屈服、小説への耽溺などとともに、単に彼の気質や性格上の問題として片付けてしまえるような性質の問題なのだろうか。

後にトロブリアンド諸島民についての数々の著作の中で、彼はフィールドワークの重要性と方法について、自らの経験を語る形で繰り返し強調することになる。日記が彼の死後かなりたって出版されるまで、我々がマリノフスキーの示した手本と考えたフィールドワークの姿は、こうした著作の中で示された姿であった。それが日記の中に垣間見える姿とはいささか異なっているとしても、マリノフスキーがこうした著作において虚偽の証言をしていたというのは間違いだろう。むしろそこには、彼がフィールドワークの理想的なあり方と考えたもの、彼の現実の調査の実践において、彼の成功につながっていると彼が考えた諸特徴を敷衍した姿が示されているだろう。それを検討することは、かえって、日記の中に垣間見える、「重点研究」の実践に含まれている困惑の性格を明らかにする役に立つかもしれない。

理想化されたフィールドワーク

トロブリアンド諸島についての最初の著作『西太平洋の遠洋航海者』[マリノフスキー 一九六七(以下『遠洋航海者』と略す。原書は一九二二年。)]は、マリノフスキーにとっての理想のフィールドワーク像がもっとも明瞭に自信をもって描かれた著作である。その全体が、トロブリアンド諸島についてのテキストであると同時に、そこでのフィールドワークについてのテキストでもあるという二重性をもっているのだが、とりわけ序論はもっぱら社会認識の方法としてのフィールドワークとその重要性の解説に当てられている。

「あなたが突然に、原住民の部落に近い熱帯の浜辺に置き去りにされ、荷物のなかにただ一人立っているとご想像願いたい。あなたを乗せてきたランチか小舟はすでに去って影も見えない。」[前掲書、七〇]

この強烈な情景から、解説は始まる。自らの属する社会からの切断と孤独のイメージ。このイメージは続くテキストの中でも繰り返され、まさにそれこそがフィールドワークの条件であることが明らかになる。マリノフスキーは、ニューギニアに来た当初に現地在住の白人に案内されて村を訪問した折の経験とその際にもった「もし一人でここにもう一度くれば、万事うまくいくだろうという希望的な感情」[前掲書、七一]を回顧する。実際、「仕事が軌道に乗り始めたのは、その地区でただ一人になってからだった。」[前掲書、七二]「白人の世界から自分を切りはなす」[前掲書、七三]こと、これは民族誌的調査の条件であると彼は述べる。

この切断と孤独が、調査者が「原住民」の世界に属することを可能にする。「原住民のどまんなかで暮らす」こと、「彼らの部落のまっただなかにキャンプを張ること」(ibid)が民族誌的調査にもっともふさわしい環境である。それによって「自然の交際によって、原住民を知るようになる。」[前掲書、七三−七四]それは人々の生活への「参加」の一形態である。

「オマラカナに居を定めてじきに、私は村の生活に、ある意味で『参加』するようになった。祭りのような重要な出来事を待ち望み、うわさ話や村の小さな出来事に個人的な興味をいだきはじめ、毎日、目覚めれば、朝は私にとって、原住民が感ずるのとほぼ同様な一日の始まりとなった。」[前掲書、七四]

これは土地の人々から調査者が受け入れられるということでもある。

「原住民は、私を朝から晩まで見ているうちに、私の存在に興味をもったり、こわがったり、意識したりしなく」なり「しまいには私を彼らの生活の一部であり、たばこをくれるので何とか我慢できる一つの必要悪、いいかえれば、一人のうるさいやつとみなすようになった。」[前掲書、七五]

読者はここに、分離から再統合へという通過儀礼の図式[へネップ 一九七七]を当てはめたくなるかもしれない。実際、マリノフスキーは調査上の不満や失意がすべて、分離から再統合へいたる「移行」期間の出来事であったかのように語っている。ニューギニアに来たばかりの「初めの何週間か、村々をたずねまわった長い期間」[前掲書、七〇]の失望と失敗。白人の居留地にとどまりピジン英語でなされた調査のとても満足の行かない成果、原住民との意志の疎通の失敗、知的訓練のない白人たちの語りや態度の不愉快さ。彼は技術や道具の名前、村の人口調査、地図、系図、親族名称の収集など、「具体的なデータ」の収集に専念する。しかし「私の集めた材料は、彼らの心性とか行動についてなにも教えてくれず、結局、死んだ材料にとどまった。」[前掲書、七二]

白人の社会から切り離され、たった一人で土地の人々の社会に参入していくという、このフィールドワーカーにとっての困難な「通過」は、しかし、通過儀礼が一般にそうであると考えられているように、マリノフスキーにとっても新たなすばらしい能力を約束してくれるものであった。それによって民族誌学者は「原住民の本当の心、部族生活の本当の姿を引き出すことのできる魔術」[前掲書、七二]を手に入れるというのであるから。たった一人の調査者が村のまっただなかで手に入れるポジションは、あたかも彼にパノプティコン、一望監視の特権的な眺望を与えてくれるものであるかのように描かれる。

「のちには、昼のあいだに起こったことなら、なんでも掌のなかのようにわかり、私の注意をのがれることはできないようになった。夕暮れに妖術師が近づいてくるという前ぶれ、村のなかでの一、二の重大な大喧嘩や不和、病気、治療の試みと死、呪術儀礼、こういうすべてのものを見落とさずに追求しなければならないのだが、さいわいそれは、いわば目のまえで起こっているのであった。」[前掲書、七五]

完全な参加が切り拓く眺望。「この種の調査では、民族誌学者も、ときにはカメラ、ノート、鉛筆をおいて、目前に行なわれているものに加わるのがよい」と彼は勧める。「原住民の生活にこのように飛び込んでみた結果...あらゆる面での原住民の行動、彼らの存在のあり方が、まえよりもすっきりとし、容易にわかるようになった。」[前掲書、九〇]

民族誌調査をする人は「平凡で、単純で、日常的なものと、奇妙な普通でないものとのあいだに差別をもうけず、対象としての部族文化のあらゆる面にみられる現象をしんけんに、健全な態度で、そのすべてにわたって研究する必要がある。と同時に、部族文化の全領域を、そのあらゆる面にわたって調査しつくさなければならない」[前掲書、七九]と彼は断言する。リヴァーズの唱えた「重点研究」の理念である。これは、一人の人間がわずかな期間におこなうには、ほとんど不可能なことであるように思える。しかし今や、あたかもそれが可能であるかのような場所が、彼には確保できている。民族誌学の「最後の目標」つまり「原住民のものの考え方(the native's point of view)...彼の世界についての彼の見方を理解すること」は、すでに手の届くところにある[前掲書、九三]。

このフィールドワークの魔法が、われわれの目にちょっと奇跡のような離れ業に見えるとすれば、マリノフスキーが描き出す調査者の資質も、見ようによってはいささか現実離れしているかもしれない。それは、最新の理論と科学的方法論で武装され、現地語を十分にあやつり、すばらしい観察力と文化の本質へ迫るするどい洞察力をそなえ、たった一人見知らぬ世界で認識を手に入れるスーパーヒーローだ。こんな調査者なら、当然ながら、白人居留者たち、つまり「長いこと原住民の近くで生活してきたアマチュアたち」[前掲書、八六]とは比較にならないほどの理解を、短期間で手に入れることができるのも不思議ではない。

対照

『遠洋航海者』のなかに描かれているこの理想的なフィールドワーク像と日記のそれとのあいだには、さまざまなずれが見出される。例えば、白人世界との切断は日記のなかではそれほど際立ってはいない。日記からは彼の白人居留者の屋敷での滞在が予想以上に頻繁で長期に及んでいたことがうかがえる。オーストラリアにいる恋人との手紙のやり取りは絶えることなく続いている。マリノフスキーの調査は白人居留者たちの存在に精神的にも物質的にも大きく支えられていたとすら言える。この点は『遠洋航海者』においても「白人の屋敷内に食料や備品をもち、病気のときや、原住民に飽きがきたときの逃げ場所があることがわかっているのは、非常にありがたいことである」[前掲書、七三]という形で認められている。一方、日記では大きな位置を占めていながら『遠洋航海者』のなかからは奇妙にも姿を消しているのは、特定の現地人に対するきわめて個別的な依存関係である。最初のニューギニアの調査におけるアフイア、マイルでの調査におけるイグア、トロブリアンドでのジンジャーといった人物は、情報提供者であるという以上に、マリノフスキーと現地の社会をつなぐ重要な役割を演じている。案内やインタビューの設定などを行なうコーディネーター、あるいは話し相手、身の回りの世話をあれこれする最も身近な人物として、日々の生活と調査活動そのものにとって欠かせない存在となっている。彼らに対する依存が大きいほど、それに振り回される自分に対する苛立ちも大きい。彼らは日記においてはしばしばマリノフスキーの憤りやいらだちが向けられる対象でもある。あるいは日記のなかでは名前が挙げられている何人かの現地人。新しい知や発見はしばしば彼らとの会話のなかから出現する。彼らは民族誌的理解の共同制作者たちでもある。

「イグアとヴェラヴィ。我々は古い慣習について語った。ヴェラヴィは私に新しい地平を開いてくれた。ボボレについて、戦いについてなどなど。」[マリノフスキー 一九八七、七二]

自分が調査のあいだじゅう、白人居留者やこれら特定の現地の関係者たちに依存し、彼らに支えられた存在であったという事実は、『遠洋航海者』においてはきれいに消去され、逆に孤独で自律的な個人としての調査者の姿を浮かび上がらせている。

こうした相違点は挙げていくと限がない。しかしなんといっても決定的な違いは、フィールドにおける知識獲得の経験が帯びているまるで正反対といってよい色調にある。『遠洋航海者』における、一種の全能感と言っても過言ではないほどの、対象社会に対する理解達成の瞬間は、日記のなかにはどこにも見出せない。フィールドワークの「魔法」の中核に据えられた一望監視的理解、全貌を把握しているという自負は、日記の記述からは想像することもできない。調査者が村で起こっているすべてのことを「掌のなかのように」すべて把握しているとか、すべてのことが自分の「いわば目のまえで起こっている」とか、少し考えてみればわかるように、いずれも実際にはほとんどありえそうもない話である。それがなんらかの現実理解の瞬間についての一種の誇張表現であるにしても、日記のなかにそれに対応する瞬間を探してもほとんど無駄であろう。なにが『遠洋航海者』においてマリノフスキーにフィールドワークをこのような形で想像することを、あるいは提示することを可能にしたのだろう。「重点研究」の現実と、それについての提示されたイメージのあいだには、「情報という生の材料と....研究成果の正式の最終発表とのあいだ」にあるとされた以上の「はなはだしい距離」[マリノフスキー 一九六七、七〇]があるように見える。

「重点研究」の夢と現実

「重点研究」のプロジェクトは、たしかに当時の若く野心的な学者を鼓舞するだけの大きな可能性を秘めていた。それは社会や文化を、ちょうど博物学における種のように、それが生きて活動している現場で、さまざまな角度から観察できる一つの全体性としてとらえていた。しかしその全体性がどのようなものであるかについては、それは何一つ具体的なイメージをあたえてはいなかった。かわりに、それはほとんど実行不可能な要請を調査者に対しておこなっていた。社会生活の全領域について、あらゆる事柄を現地の言葉を介して詳細かつ具体的に研究すること。しかもわずか1〜2年で。この地域に長く暮らし、その慣習や民俗を詳細に集めた大著『メラネジア人』[Codrington 1989]を書いた宣教師コドリントンは、自分の知識が未だ不完全であり、真の理解が10年やそこらでは得られないことを自覚していた[Clifford 1988:27]。コドリントンの仕事について知っていたマリノフスキーにとって「すべてを」という要請は途方もないものであったに違いない。しかも、この「すべて」を構成する個々の事柄は、それのみをとると、想定された全体性とつながりようもない雑多な断片にすぎないのである。もしフィールドワークがありとあらゆる断片を、その意味も明らかでないままに集めまわることなのだとすれば、それはたしかに意気阻喪させるものであろう。

「仕事に興味がわかない。おまけにどしゃ降りだ。...ひどく癪に障る。12時にヴィライリマとオサポラから原住民がやってきた。蟹のことなどを話す。インタビューは退屈で、うまく運ばなかった。」[マリノフスキー 一九八七、二二八]

「蟹のこと」。蟹がどうしたというのだろう。マリノフスキーはインタビューがうまく運ばなかったと不平を言うが、では、蟹について何を知ることができたら「うまく運んだ」ことになったというのだろう。「すべてを」という命令に忠実に従おうとすればするほど、意味不明な細部が増殖し、手に入るはずの全体性は見えてこず、自らの営み自体が意味を喪失する危険にさらされる。はじめて「重点研究」を実行に移そうとしていた(彼は自分がその最初の人物であることをあきらかに意識していた)野心家マリノフスキーを脅かしていたのも、この危険であった。なんらかの具体的なイメージによって、全体性が保証される必要があった。機能主義、あるいはその最も根幹をなす新しいものの眺め方は、単に社会や文化についての新しい考え方である以上に、ばらばらに解体する危険に脅かされたフィールド経験をとりまとめるものであった。

機能主義

人類学における機能主義理論の具体的形態にはさまざまなものがあり、この理論を代表するマリノフスキーとラドクリフ=ブラウンのそれぞれの機能主義の考え方にも、大きな違いがある。死後刊行されたマリノフスキー最晩年の著作、『文化の科学的理論』[マリノフスキー 一九五八(原書は一九四四年)]のなかでかなり体系化された形で提示されている彼の機能主義は、役割や規範、諸制度といったあらゆる文化的諸要素に、その社会の個々人の欲求を充足するという形で、積極的な機能を認めるという考え方であった。一方、ラドクリフ=ブラウンにとっての機能とは、諸要素が社会という構造体全体の存続に果たす役割であった。しかしこのように意匠こそ違え、機能主義の眼目とは、社会や文化を構成する諸要素が、ばらばらに存在するのではなく互いに関係しあって全体を作り上げており、その全体のなかで一定の役割を果たしているという考え方である。どのような制度も慣習も観念も、ただたまたまそこにある、なんの理由もなくただ存在しているということはない。必ず他の諸制度、慣習、観念などと関係があり、しかるべき理由や役割があってそこにあるのだ。

機能主義が人類学における中心的パラダイムとしてしっかり根をおろした後は、特定の機能主義理論本体が批判され、破棄された後も、この見方そのもの、諸要素が相互に密接に関係し合った全体というとらえ方そのものは、人類学的探求のほとんど反省以前の前提として定着した。今となっては、この見方が、「重点研究」の最初の糞真面目な遂行者にとって、いかに彼のフィールド経験を救済してくれるものであったかを想像するのは難しいかもしれない。

遺稿となった『文化の科学的理論』のなかで、マリノフスキーはその時点ではすでに、時代遅れになり人類学の中心理論としては省みられなくなった進化主義(および伝播主義)の考え方に、相変わらず新鮮な敵意を示している。例えば「残存」という観念。進化主義は、文化や社会の諸要素の中に過去の制度の名残あるいは痕跡をとらえ、それを文化的化石として進化の跡をたどろうとする。ゴールデンワイザー(ボアズ門下のアメリカの人類学者で、「制限された可能性の原理」の概念が有名。諸文化に共通の心理学的要因の重要性を指摘した。彼自身はもちろん進化主義者ではない。)が、進化主義を解説し、そのなかで「残存」に関して気前よく「われわれはもとより残存の存在することを知っている」と譲歩して見せるのに、マリノフスキーは猛然とくってかかる。「私はこの見解には反対しなければならない」と[マリノフスキー 前掲書、三二−三三]。今の文化の他の諸要素とはなんの関係もなく、今そこに存在しなければならないなんの理由も意味もなく、ただ過去からの偶然の消え損ねとしてそこにあるだけのもの、マリノフスキーはそういったものの存在を認めることができない。フィールドに見出されるさまざまな断片が、全体へとつながらず、ただ何の理由もなく偶然そこにあるだけのものであるとするなら、重点研究の知識集積の作業は、限りなく耐えがたいものになるだろう。マリノフスキーがフィールドワークを始めた時点、機能主義が成立する以前の時点における支配的な思想が進化主義であり、文化を単なる互いに無関係な断片の寄せ集めに見せかけるこのような見方だったことを考えにいれるとき、重点研究において機能主義的なものの見方がいかなる救済的意味をもちえたかがわかるだろう。

クリフォードも指摘しているように、解明すべき全体性を、諸要素が互いに緊密に結びつくことによって出来上がっている機能主義的全体性として想像することは、個々の断片的な経験に新しいパースペクティヴを与える。個々の要素は、そのコンテクストのなかに置かれ、そのコンテクストはさらに広いコンテクストを導くといった具合に、一種の遠近法的な見晴らしが得られる。言い換えれば、部分の中に全体を読みとることが可能になるのである。一年や二年の滞在で、あるいは何年たったところで、社会のあらゆる側面についてすべての事柄を研究することなどできはしない。そこで起こっていることをすべて見渡すことができるような特権的な全貌把握的ポジションがどこかに存在しているわけでもない。視野は常に限定されており、知識は部分的である。しかし機能主義的全体観は、その部分的知識を透かして全体があたかも把握できるかのような架空のパースペクティヴを拓くのである。

マリノフスキーの最初の著作は、この海域の島々を環状に結ぶクラと呼ばれる交換制度の研究であった。彼はこの制度がいかに、呪術、宗教、親族および経済交易などと結びついているかを明らかにした。一つの制度の詳細な研究、ここではクラという一つの制度の中に、トロブリアンドの社会と文化がまさに映しだされる。読者は、調査者の限りある知識、部分的理解こそが、全体への眺望を与える鍵であると悟る。マリノフスキーにとってのパノプティコン、一望監視的視点は、現地の人々の生活に「参加」することがもたらす、そのそれぞれが部分的で制約された、そんな視点に他ならなかった。そしてこれが有名な「原住民の視点 the native's point of view」であった。それは、単なるフィールドの経験によってもたらされたものではない。むしろフィールドの経験を救済する機能主義的転回の産物だったのである。

マリノフスキーが自らの機能主義について語ったと言われる「現地調査に始まり、現地調査に回帰する理論」であるという言葉は、ここでは文字通りの真実であった。

参考文献

クリフォード、ジェイムズ 二〇〇三[1988]『文化の窮状―二十世紀の民族誌、文学、芸術』太田好信他訳、京都:人文書院

フレイザー、ジェイムズ 一九五一−一九五二[1922]『金枝篇』全五巻、永橋卓介訳、東京:岩波書店(岩波の訳は、一九二二年の簡約版にもとづいている。『金枝篇』全十三巻は一八九六年に最初の二巻が出て、改訂を繰り返し一九三六年に完成した。)

へネップ、A・ファン 一九七七[1909]『通過儀礼』綾部恒雄・裕子訳、東京:弘文堂

マリノフスキー、ブロニスラフ 一九五八[1944]『文化の科学的理論』姫岡勤・上子武次訳、東京:岩波書店

マリノフスキー、ブロニスラフ 一九六七[1922]「西太平洋の遠洋航海者」寺田和夫・増田義郎訳、『世界の名著 五九 マリノフスキー・レヴィ=ストロース 』東京:中央公論社(抄訳である。)

マリノフスキー、ブロニスラフ 一九八七[1967]『マリノフスキー日記』谷口佳子訳、東京:平凡社(原題は『言葉の厳密な意味におけるある日記』Malinowski, B., 1967, A diary in the strict sense of the term, London: Routledge & K. Paul)

BAAS(the British Association for the Advancement of Science), 1912, Notes and Queries on Anthropology (edited for by B. Freire-Marreco. and J.L. Myres) Fourth Edition. London: The Royal Anthropological Institute.

Rivers, W.H.R., 1913 "Reports upon the present condition and future needs of the science of anthropology"(presented by W.H.R. Rivers, A.E. Jenks, and S.G. Morley at the request of the Carnegie Institution of Washington), Washington, D.C. : Carnegie Institution of Washington

Geertz, C., 1988, Works and lives : the anthropologist as author, Stanford, Calif. : Stanford University Press, [邦訳 『文化の読み方/書き方』森泉弘次訳、岩波書店,1996年]

Stocking Jr., G.W., 1992, The ethnographer's magic and other essays in the history of anthropology, Madison : University of Wisconsin Press.


m.hamamoto@anthropology.soc.hit-u.ac.jp