いかがだったでしょうか。人類学という学問についての理解を深めることはできたでしょうか。それともますますとらえどころのないものに見えてきたでしょうか。このあとがきでは、本書を読み終えた皆さんにこの本がどのようないきさつで、どのような本として構想されたものだったのか---それはほぼ実現できていますし、現実には、序文をお読みになればおわかりのとおり、より野心的なものになったのですが---を簡単に説明しておきたいと思います。
本書は故浜本まり子の発案によって生まれました。1999年都立大学で開催された日本民族学会の研究大会のお昼休みに、久しぶりに顔を合わせた私たち(本書の執筆者のほとんどはそのときのメンバーです)は、昼食をとりながら人類学の入門のための教科書をどうしたらよいか話し合っていました。
ご存知のように、人類学はその短い歴史のなかで実に多様なアプローチや理論枠組みを次々と提出してきた学問です。進化主義、機能主義、構造主義、象徴人類学、解釈人類学などなど。人類学の入門の講義ではそれらの多くについて紹介することになるのですが、これらの個々のアプローチを単に理論として説明しても、あまり面白くないし、聞いている方でもぴんとこない。それはこれらのアプローチが単に互いに競い合う説明方法であるかのように紹介されてしまうからじゃないだろうか。学生としても、「で、結局どれが正しい説明の仕方なんですか?」みたいな感じになってしまう。
実際には人類学のさまざまなアプローチのほとんどは、単に理論的な脈絡からではなく、フィールドでの具体的な問題に向かいあう中から生まれてきたものだ。さまざまなアプローチは、それを生みだしたフィールドワークとの関係のなかでこそよりよく理解できるのだということにはならないだろうか。それぞれの研究者が人類学の方法としてのフィールドワークをどのような形で思い描いてきたか、そしてそのような形で構想されたフィールドワークの中で、研究対象や問題の性格はどのようなものとしてとらえられてきたか、それぞれの理論的アプローチの違いは、むしろこうしたフィールドワークとそこでの研究対象のとらえ方の違いにも関係しているんじゃないだろうか。いかなるアプローチや理論も単に説明としてのみ、正しかったり間違っていたりするわけではない。その背後には、それを生み出した想像の構図と、そうした想像力が向き合っている多様な現実がある。人類学にとってもろもろのアプローチや理論は、人類学者自身の生活空間の内部の想像力や現実が、彼がフィールドとして経験している世界の想像力や現実に交錯するまさにそのなかに、根拠をもっていたのではないだろうか。私の理解したところでは(脳内?)、その日のみんなの話はこんな風に盛り上がっていました。
そして「新しい教科書はそれで行きましょう」という浜本まり子の一言で話は決まりました。人類学の理論が形成される舞台裏としてフィールドワークをとらえるという意味で「メイキング人類学」(映画などの制作の舞台裏を記録したメイキング映像にちなんで)という大雑把なタイトルもその場で決まりました。2001年に浜本まり子は他界しましたが、本書の構想は残された者に引き継がれ(とりわけ出版へ向けての太田好信の粘り強い努力と編集の中川大一氏の尽力により)、章構成や執筆者などに若干の変更があったものの、ようやくこのような形で完成することになりました。
というわけで、本書は人類学学説史上の諸理論を、その背景となったフィールドワークとの関係から---フィールドワークがどのような経験としてとらえられ、それによって何が明らかにできると考えられていたか、そこでは研究の対象はどのようなものとしてとらえられていたか、何が問題とされていたか---紹介する人類学入門教科書、フィールドワークの系譜のなかにさまざまなアプローチを位置づける舞台裏からの人類学学説史として企画されました。もっとも本書の各章の執筆者は、みんな一癖も二癖もある曲者ばかりで、結果として入門的教科書の枠を越えてしまっている部分も多々あります。また紙数の制約上、すべての必要なことを漏れなく書くわけにも行きませんでした。けれども、いささか異色であるとは言え、本書は入門書あるいは教科書としての役割を充分に果たせるものに仕上がっているのではないかと思います。独学で読む場合は章末や巻末の参考図書をあわせ読むことによって、よりよい理解が得られるでしょう。講義であつかう場合は、講師が各自の裁量で各章でとりあげた研究者の業績をより詳しく紹介するなどの補足説明を加えることを通じて内容をより充実させる余地を残しています。しかし単独で読んだとしても本書は、社会的現実についての知識を獲得するための当たり前の手段の一つに過ぎないと見えるフィールドワークという実践が、実はいかにさまざまに異なった形でそれぞれの研究者にとらえられており、そのなかで人類学という実践そのものの性格がいかに違ったものでありえたか、(さらにいくつかの章では)それがいかに人類学者自身が属する社会空間と他者の社会空間の双方に対してなされた歴史的実践でもあったのか、をわかりやすく示したものになっていると思います。また、それを通して、人類学の多様な可能性にあらためて気づかせてくれるものになっているはずです。
本書は必ずしも今後人類学がいかにあるべきかについての統一されたヴィジョンを提出することは目的とはしていませんし、またそうしたものを提出してはいません。個々の執筆者がなんらかのヴィジョンを強く示しているとしても、それは自然なことですし、読者が本書からそのような指針を読みとられたとしても不思議ではありません。しかし私たちは、けっして人類学を一つの色に塗り上げてしまうことなど望んではいません。そもそも人類学は、中心的なものの見方や考え方に対して異なる見方や考え方の可能性を示し、その多様性のなかに人間の未来の可能性を賭けようとしてきた学問でした。世界を眺めるさまざまな仕方、違った仕方で世界を生きる可能性に対して常に知的に開かれてあることがその特徴でした。さまざまな見解や考え方、生き方をその優劣によって、あるいは効用によって、勝ち負けによってふるいわける、そして最後にたった一つの勝利者を残す、こういった考え方---進化論はまさにそうした考え方であったわけですが---ほど、現在の人類学の対極にある考え方はありません。単一性への統一によりも、分散し共振しあう多様性のなかに未来の可能性を見る、そうした学問が自らの未来のヴィジョンを単一の色で染め上げてしまうわけがないではないですか。本書を読んでかえって人類学がとらえどころがなくなったというあなた、あなたはある意味で正しく本書を読んでいるのです。