マジュトの噂 :ドゥルマにおける反妖術運動(註1)
(The Second Draft)

マジュトが来てからというもの、フィンゴ(地面にうめて使用する呪物)を扱うのはやめになった。もし畑でフィンゴを燻すとしよう(呪物に祈願すること)。前かがみになって、さて、お前は言う。タンガの(トウモロコシ)も来い、ギリアマのも来い、ガラ族の土地のトウモロコシも来い、タイタのも、カンバのも、ありとあらゆる隅ずみからのも、満ち満ちるまで。ディゴのも。ああ。言い終わらないうちにお前はキイン(擬態語)と感じるだろう。お前は羊にキインと蹴飛ばされるだろう。そしてお前は倒れる。倒れて、耳をすます。もし起上がろうとすると、ああいったいどうしたことだろう。まさに起上がろうとするとき、また蹴られる。そしてお前は(羊が)アア、アアとないているのを聞く。周りを見回しても、見えない。お前は這いながら家に戻る。お前が使おうとしていた呪薬はその場に落として。そうじゃないかい?お前は戻る。家についたとき、お前には自分が死ぬと分かっている。お前は(妻を)呼ぶ。「おいお前えぇ!」。
  そうとも、あのムェンダ・ムヮオノもそんな風に叫んだんだ。彼も同じことをしようとした。彼はトウモロコシを(呪術的な手段で)もってこようとしてしまった。黒い鶏をもって、トウモロコシを(呪術的な手段で)とってこようとした。それを自分の屋敷にもちこもうとした。つまり彼はトウモロコシの風(エッセンス)をとろうとしたのさ。私の弟キガンガが亡くなったときのことだ。彼(キガンガの死体)はキナンゴ病院の霊安所にあった。私は彼(の死体)を連れにいった。帰ってきて彼を家の中に寝かせ、むこうにある我々の墓所に彼を埋葬した。(その埋葬のとき)ムェンダはたまたま私の屋敷にいて埋葬金を私に払ってくれた。我々はその日の昼、埋葬を終えた。次の日の朝。クビタ・キツェカ(服喪の第一日目 ku-bit'a chitseka は「マットを打つ」の意味)だ。我々はキツェカを打った。さてその次の日の朝のことだ。私にはキジプヮに嫁いだ娘がおり、その娘のもとに彼女の小さい父(Baba muvaha, ie.FyB つまり語り手の弟)の死を知らせに遣っていたのだが、その彼女がハンガ(服喪儀礼)に到着した。
  彼女が言うには「いつ埋葬なさったのですか?」私は言った。「ああ一昨日だよ。」「ああ、そうですか。ところでムェンダさんが、眠っている間に亡くなったんですよ。(urere mbumbu)」「うそだろう!その日彼は埋葬に来ていたのに。」彼女は言った。「本当にその日、眠っている間に亡くなったんですよ。」「いったい何が起こったんだい。」
  あの日、ムェンダは屋敷に帰ってくると、妻たちに「いま帰ったぞ」と言った。その日の昼彼はあそこを(埋葬の場)を去って後、すぐむこうの家に帰っていた。こちらの屋敷では寝なかった(ムェンダは二ヵ所に屋敷を構えている)。もしこちらの屋敷で寝ていたら、こちらで死んでいただろう。さて屋敷に帰ると妻の一人に「俺に酒を買って来い」「あなたに酒を買って来いですって?」「ああ。何か頭のてっぺんあたりが、ぴくぴくする(kupiga choyo)。」さて、ムェンダは畑に行った。黒い鶏を下げて。畑につくと妻たちに言われた。「この辺りは先日マジュトがいたのよ。もし何かモノを(呪物を)もっているのなら、来ないで。むこう(の屋敷)でも何かしたりはしなかったでしょうね、あなた。」彼が言うには「ああ、俺は自分のトウモロコシをあおぎ(kuvunga)に行っただけさ。穂をつけはじめていたからね。」「あなた、やめて下さいよ。やめて下さいよ。さっき大泉門の辺りがピクピクするって言ってたじゃない。」でも畑に彼は行った。そして戻ってきた。酒が来た。日が沈むまで酒をのんだ。そして自分のスワヒリ風の小屋にはいった。彼はスワヒリ風の小屋で寝る。妻の一人がその中に自分の部屋をもっている。彼自身も自分の部屋をもっている。
  さて、彼は自分の部屋にはいって寝た。シーツを被って、身体を突っ張らせて。シーツをすっぽり被って、ジー(そのまま死んでしまう)。夜が明けた。(彼と同じ小屋で寝た妻は)別の僚妻たちに言われた。「あんた、夜が明けたのにまだ火を起こしてないの?」「あんたたちの亭主がまだ起き出してこないのよ。」「なるほど。もしあなたが火を起こして、彼に煙がかかったら、喧嘩になるわね。」「そういう訳なのよ。」
  彼女たちは畑へ行った。残った妻は料理の支度をした。(畑へ行った妻たちは)畑で仕事をして、畑を見回って、そして戻ってきた。「私たちの主人はどこに行ったの?」「まだ寝てるわ。」彼女は「いったいあなたゆうべはどんな酒の飲み方をしたの」こう言いながら、立上がる。別に急いで彼の様子を見に行こうという風でもなかった。彼が気難しい男だったからだ。部屋の戸を少し開けて、部屋の中に入る。昨日シーツを被ったそのままだ。でも身体を突っ張らせている。両足を開いて、それをシーツから突出している。「ムェンダ!」シーツを昨日と同じように被ったままだ。動かない。シーツをめくる。ああ!腹が(死んで)膨れ上がっている。腹が。ああ!彼女は走り出す。「あれぇ。大変なことよ。」人々が入ってくる。人々が周りの屋敷からもぞくぞくやってくる。畑からもやってくる。大騒ぎをききつけて。人々がやってくる。「ああ。彼は死んでしまった。元気なままで夜のうちに死んでしまった。」「マジュトのせいじゃないだろうか。」「マジュトだ、マジュトだ。」「ああ、急がないと。ごらん。はやくも(死体の膨張が)始まっている。」集った男たちは「さあ皆さん急いで。頑張って。もう腹の中で煮え立ち始めている。腹の中がぐつぐついっている。」
  口、鼻、そして肛門(排便する場所 hikuno kp'a kunyerera)から泡をふいている。泡が吹出している。そしてペニスがこんな風に立って、そこから血がタタタと吹き出している。
  ムヮツァフさんも、あのカンバの男も、こんな風に死んだんじゃなかったろうか。同じように(呪術を)試みて。同じようにペニスから血を噴いて。
  キドンゴさんもそんな風に死んだ一人だよ。あの通りの向う側の、ほら去年死んだキドンゴ。キドンゴ・ベウキ。彼も、トウモロコシを燻しただけで死んだのさ。畑から奥さんに連れてもらって帰ってきた。手押し車に乗せられて。病院へついたのだが、病院の医者が彼を見て言うことには、「ああ。私たちはこいつに薬をやる訳には行かない。これはマジュトだ。」いったい彼は何をしたろうか?ただ、イスラムの呪文を唱えただけだ。サラーラ、サラーラさ。妻は質問を受けた。「いったい彼は何をしたのか?」妻が言うには「先日この人はブンドゥーニのムェロ・キドゥンガのところへ行った。昔から、トウモロコシを耕作し、それが実ったら、ブンドゥーニへ行って呪薬を手に入れて、畑のフィンゴの所に山のように積み上げたトウモロコシに向って燻すことになっていた。でも今は、それはトウモロコシに妖術をかけることになる。私がそう言ったために、昨日は喧嘩になった。それで私は言った。『そうまで仰るなら...』そんなわけで今朝、彼は朝早く出発した。鶏が外にでる前の時間だ。七時になっても帰ってこない。八時になっても帰ってこない。九時になったので、私は畑に行った。彼は草を掴んで倒れていた。フィンゴの所に倒れていた。トウモロコシ五本、南の方角に。トウモロコシ五本、北の方角に。私は彼の腕をとって、家に連れ帰った。でも家ではどうしようもないと思った。そこで大騒ぎだ。そこで手押し車だ。そこで病院だ。こうして病院にやってきた。」医者が言うには、「いや。我々が彼に薬を与えてもしようがない。これはマジュトだ。」病院に置いておこう。でも鶏がないたとき、彼はひどく膨れ上がっていた。私はあんな膨れ方は見たこともない。彼はまるでずだ袋のように埋葬された。ムジ(墓の底に作る溝)もしつらえられなかった。という訳で、マジュトは強力だ。その効目は消えることがない。
[ベニーロ老人・キナンゴ 1987年7月]

マジュトがいた

  1986 年、家族とともにドゥルマでの二度目の本格的な調査にとりかかったばかりの頃、この辺りにはもう妖術 utsai はない、という人々の言葉に私は人類学者としてちょっと落胆した。私は家族のことも考えて、前回の調査地ではなく、ドゥルマの交易の中心地キナンゴを調査地に選んでいた。私はこの選択が失敗だったのではないかと感じた。妖術についての人々のこうした発言を漠然と「都市化」による変化(キナンゴは人口数百人の小さな田舎町であるが、交通や交易の要として栄えている)を示すものと考えたのである。前回の調査地では、人々は、妖術に対する懸念を強くもっていたし、妖術をめぐっての私の質問に対して、妖術使いへの強い嫌悪を表明するのが常であった。妖術はかっこうの話題であった。とはいうものの、この前回の調査では妖術の具体的な事例については、おそらく「よそもの」である私に対する疑念からであろうが、人々は、なかなか私に話してくれようとはしなかった。今回の調査はこうした具体的な事例を中心に聞いていこうと思っていた矢先だったのである。

  しかし、ちょっと挨拶に訪れた前回の調査地の村で、人々の同じ発言にであったとき、それが単なる都市化の度合いの問題でないことはもはや明らかであった。たしかに、私が 1983 年にここを離れてから、再び訪れるまでのあいだに何かが起こったのだ。その村の私が最も親しくつきあっていた老人は、この辺りにはマジュトがあるから、もうなんの心配もないのだと語った。私はこのとき初めてマジュトという言葉を耳にしたのである。かつてあれほどまで強かった妖術に対する懸念を人々から取り去ってしまったマジュトとは一体何なのであろうか。

  人々の話から事実関係だけをざっと取り出すと、おおむね次のようになる。私が去った後、ケニアでは全国的に国政選挙が行われた。キナンゴの町の有力者たちの顔ぶれにも大きな変化があった。それまで長年にわたり行政首長の地位にあったM氏が「隠退」し、代って他部族出身の人物が首長位を代行していた。独立前後の首長の息子で、同じく長くキナンゴ選出の評議員(councillor)を務めていたC氏も、選挙でその地位をC氏の弟U氏に奪われていた。私が去った翌年 1984 年のことであった。マジュトと呼ばれるディゴ族出身の強力な呪医がキナンゴを訪れたのはこの頃である。彼はすでに、その強力な反妖術の呪術によってすっかり評判を立てていた。その偉大な呪医がやってきたのである。彼はドゥルマの各地でその術を施した。キナンゴでも、町外れの川のほとりを整地してそこにキャンプを構えた。マジュトの術は人々に熱狂的に迎えられた。連日のように各地から人々が、自分たちの土地からとった土と小瓶をもって、引きも切らずこのキャンプを訪れては、持ち寄った土にマジュトの術を施してもらい、小瓶につめた術を施された水と一緒に持ち帰った。来なかったのは妖術使い自身くらいのものだったという。各人は持ち帰った土を土地に戻し、小瓶につめた水を各人の水甕や水源に注ぎ入れた。

  マジュトの術とは次のようなものであった。彼は弟子とともにブッシュに行き、そこで羊を供犠してその頭部を地中に埋めた。もっともこの一連の施術は秘密裡におこなわれ、それを見ることは誰にも許されなかったらしい。マジュトがどこに羊の頭部を埋めたかについては誰も知ることができないということだ。そして次が各地から持ち寄られた土に対する施術であった。うず高く積み上げられた土の山に対して乳香が焚かれ、コーランの章句が読上げられた。誰もが無料でこの土に対する施術を受けることができた。ひとたび各人の土地に、この術を施された土と水が持ち帰られれば、その土地は妖術使いの攻撃からは完全に守られる。というのはもし妖術使いが、誰かに危害を加えるために術をかけようでもしようものなら、その途端に、彼の前に一匹の羊が現れて、妖術使いを蹴飛ばすだろう。妖術使いは、その結果身体じゅうから血を流し、全身が膨れ上がって死んでしまう。こうしてドゥルマのほとんど全土が妖術に対して封印されたのである。マジュトは、自分の術の効目が7年間有効であり、7年後再びここに帰ってこようと人々に約束して去った。

  私が再びドゥルマを訪れた 1986 年、マジュトに対する人々の熱狂はまだ冷めてはいなかった。ちょっと水をむけると、人々は喜んでマジュトの術がいかに強力なものであるかを示す次のような噂話を次々と話してくれるのだった。

ペラーニからやってきた例のインド人のことだよ(キナンゴの一画にはパキスタンからの移民の子孫たちの一族が経営する商店がある)。彼は久しぶりにキナンゴにやってくると、キナンゴに着くと、あっちの方Gの家の方から機械の音がする。そこで言うことには、「あの機械はいったいどうしたことだ」「あの機械はGさんの機械だよ。彼はトウモロコシを粉にする機械を据えたんだ。」彼が言うことには、「ああ。私がキナンゴを去ってからというもの、あんたがたはいいようにされている。Gが店をもって、粉挽き機械まで持っているとはね。ちょっと待て。我々の屋敷のフィンゴ(呪物)のところへ燻しに行ってくるよ。いろんな問題にけりを付けなくては。」こうして彼は立ち去ってフィンゴのところへ行った。ああ。そこへ行く前に、彼は息子のN(彼の兄弟の息子)から言われた。「お父さん。フィンゴを燻しに行ってはいけないよ。というのは、きょうび、この辺りはあの呪医マジュトがやって来たんだよ。この屋敷からは誰も(土を施術してもらう為に)行った者はいないけれど、この屋敷の土がこっそり盗まれて、また戻されたらしいんだ。で、私たちも困っているんだよ。だからあなたもフィンゴのところへは行かないで。」「いいや。行かなくてはならない。」彼は乳香をもって、フィンゴのところへ行った。フィンゴを燻しに行った。程なく帰ってくると、彼は尋ねた。「あの羊、あのでかい羊はいったいどこから来たんだい。あの雄羊は。」で息子に言われた。「あなたはあの呪医、さっき言ったばかりのあの呪医に出くわしてしまったんだ。」
  さて、彼は便意を催して、便所に入った。そして便所の中に入ったまま、出てこなかった。内側から扉を閉めてしまっていた。息子が言うには、「どうしてお父さんは便所に随分前に入ったきり出て来ないんだろう。」そこで子供を遣わせた。便所のところに来ると、扉は中から閉められていて、呼んでも答えがない。そこで便所の扉を打壊した。例のインド人の老人はそこで死んでいた。彼はモンバサに運ばれてそこで埋葬された。

  このキナンゴ在住のパキスタン人たちに対する若干の悪意のこもった噂話は、そのとき私が繰り返し聞かされた話の一つである。かつてすんでいたキナンゴの親族のもとを久しぶりに訪れた一人の老人の急死は、キナンゴ在住のパキスタン人の一族の成功を、ひそかに彼らの行使する妖術のせいにしてやっかんでいる周囲のドゥルマの人々によって、たちどころに「妖術使いがマジュトの術に敗れて死亡する」物語に姿をかえてしまっている。これが1986 年から 1987 年にかけてのこのあたり一帯を支配する空気であった。

ドゥルマにおける反妖術運動

マジュトの到来とそれに対する人々の熱狂的な反応をドゥルマにおける「反妖術運動」の一つと見ることができるであろう。もっとも「運動」という言葉を使用することに若干のためらいがない訳ではない。この言葉にはどこか、人々が一致団結して妖術使いに対する行動に立ち上がった、といった事態を連想させるものがある。もちろんマジュトをめぐる経緯の中には、人々の側でのこうした主体的、能動的な要素はあまり見られない。人々は単にあたえられたものにとびついたのである。しかし、それがごく短期間のあいだにきわめて広い地域の人々を動員した様はまさしく「運動」の名に値するものであろう。

  同様な運動はドゥルマの歴史の中で繰り返し起こっている。今日でもほとんどの人々の記憶に残っている、しかももっとも人々に感銘をあたえたと思われる呪医はギリヤマ出身のカブェレ(Kabwere Wanje)である。カブェレの名は、ドゥルマではそれほどまでに有名であるために、その前後の同様な運動が一括してカブェレの名で記憶され、最初のカブェレ、第2のカブェレなどと呼ばれているほどである。例えば、ある人々は最初のカブェレの本名はツァウェ・コンデ(Tsawe Konde)であると教えてくれたが、実際には、後者はカブェレの実の父であり、妖術に対する恐怖が効果的な統治の妨げになっていると考えた当時の植民地政府から唯一の公認の活動を認められた、ギリヤマではカブェレ以上に有名な反妖術の呪医であったことが知られている。[1:120-121]一方第2のカブェレの本名としてツァーハ(Tsaha)の名前をあげる人々もいる。これもカブェレの後にやってきた全く別の人物である。要するにカブェレを挟む前後の同様な運動が混同されているのである。

  カブェレ自身は 1950 年代にドゥルマの全土を妖術に対して封印したといわれる。彼は多くの弟子を引き連れてドゥルマの主要な道の分かれ目に呪物を埋設していった。以後妖術使いが術をかけようとするやいなや、当の妖術使い自らに死が訪れる。その症状は耳や口からの出血、死後の膨満であった。このカブェレの施術の様は当時それを目撃した人によって生き生きと描写されている。

妖術使いの多さがカブェレを招いたのだ。彼は言った。私は人が二度と他人に妖術をかけないようにする呪物(chirapho)を手に入れた。カブェレがやってきた。ちょうど 1950 年のことだ。彼はやってくると、村長(hedimeni)の屋敷で、あの今K氏の屋敷があるあたりでキャンプをはった。あのあたりには昔B氏、ほらM氏のお父さんのB氏(当時の行政村長)の屋敷があったんだよ。ところでカブェレのやったことというのは道の分かれ目毎に呪物を埋めることだった。それは土器のかけらとビーズ、それに二本のムバレ(mbare: 伝統的にはカヤの長老によって管理されていた呪薬の束)だ。その道を一度通った妖術使いが誰かに術をかけようとでもしようものなら、たちどころに膨れ上がった。
施術のあいだに歌われたカブェレの歌は
フオ、フオ。呪物の主がやってくる。
カブェレがやってくる。呪物の主が。
カテンデの息子よ。それまでだ。
カブェレ父さんがやってくる。呪物の主が。
お前に別れを言おう。私は立ち去る。立ち去るとも。
カブェレがやってくる。呪物の主が。
私は誰にも見られない。私は誰にも見られない。
実はカブェレは裸だった。弟子たちが前を行き、カブェレ自身は後から裸で進んで行った。それを見てはならなかった。弟子たちでさえ、振り向くことは許されなかった。当時人々を呪詛しようとした妖術使いたちが、随分死んだものだよ。主だった妖術使いはみんな死んだ。残った者もカブェレの術が怖くて、術をかけるのをやめた。

カブェレの呪薬は地中で長い間力を発揮し続けたが、しかしやがてその効力を失った。ある人によると、それは地中で腐ってしまったのだという。別の呪医がやってきてこのカブェレの呪薬を駄目にしたのだとも言われている。あるいはカブェレは実は妖術使い達に買収されて、ひそかに彼らに解毒剤を処方していたのだともいう。いずれにせよ、この呪薬の効目はなくなり、人々は再び互いに妖術をかけはじめた。

  カブェレに続いてやってきたのがツァーハ(人によってはカブェレと混同しているが)であった。実際、彼の術は呪物(chirapho)を埋設するという点でカブェレの術と同種のものであった。もっともその作用はやや異なっている。それは以下のような仕方で作用したとされる。

お前は妖術の呪薬に触れてはならない。妖術の呪薬に触れて、他人の畑に術をかけ(ku-ungurira)てはならない、あるいは他人に術をかけ(ku-loga)てはならない。お前が呪薬に触れて、お前の屋敷に戻ってくると、お前はすでに死んでいる。そもそもね。お前が妖術の呪薬に触れて、ことを終えて、家路につくと、これくらいの年頃の(3〜4才ぐらい)子供たちがツォンゴ(tsongo: 埋葬に際して埋葬歌 musego を歌う際に用いる楽器、トウモロコシを選り分ける箕にガラスの破片などを入れて震いながら鳴らすもの)を演奏しながら現れる。お前は子供たちに尋ねる。「一体どこから来たんだい?」「私たちは誰それさんの葬式から来たのよ。昨日お亡くなりになったの。」なんとその誰それさんというのはお前のことだ。言い終わると子供たちは姿を消す。それまでさ。お前はもう生きて家にたどり着けない。死ぬと、死体は膨れ上がる。ちょうどマジュトみたいにね。鼻や、口やあらゆるところから血が流れ出る。身体じゅうから血がはじけでる。もし子供たちに会わなかったとしよう。たくさんのハタオリドリ(tsongo)が現れて、お前の全身を包み込む。ブワーっとね。こんな風に払い除けようとしてもまた包み込む。そしてお前は倒れる。ハタオリドリがお前の命(roho)をもって飛び去るのさ。屋敷にたどり着いても、お前は翌日の夜明けを見ることも無いだろう。

次にやってきたのが有名なカジウェである。カジウェの妖術使い根絶運動は60年代後半に、ドゥルマに隣接する同じミジケンダ諸族のギリヤマのあいだで大きな盛り上がりをみせた。この事情は、パーキンやブラントリーの研究に詳しく描かれている。 1966 年にはカジウェの運動は、妖術に対する恐怖が海岸地方の経済発展を阻害していると考えたケニヤ政府の公式の支持をとりつけ、伝統的な長老たちの協力のもと、警官をエスコートにつけて組織的に展開された。しかし、カジウェの振る舞いはやがて長老たちのコントロールを越えて目にあまるものとなり、カジウェはその後投獄生活を繰り返すことになる。政府の支持を失った後も、彼は彼の屋敷があるラバイのワンジャワンデゲを拠点に活動を続け、要請があると各地へ赴いてその地の妖術使いと対決を続けた[1,12]

  ドゥルマでもカジウェの運動は一部で熱狂的に迎えられたようである。しかし、カブェレやツァーハらと比べてそれほど大きな感銘を人々にあたえたようには思われない。カブェレらと違って、カジウェはドゥルマから妖術を一掃するにはいたらなかったと多くの人が言う。おそらくこれは彼が用いた方法によるところが大きいと思われる。カジウェの方法は、弟子たちを引き連れて各地を巡回し、妖術使いを発見して、公衆の面前で対決するというものであった。こうして相手の自白を引き出し、妖術に用いる全ての呪具を差し出させ、最後にこの妖術使いに対して放尿することによって相手の力を永遠に封じてしまうのである。この「放尿」という点は、ドゥルマの人々がカジウェについて語るとき一番強調する点であるが、カジウェの60年代の活動を扱ったパーキンやブラントリーの報告には現れていない点から考えて、カジウェが政府の支持を失った後の彼の術の特徴だと思われる。彼のこの術そのものは、人々によると、問題なく強力なものだった。キナンゴ周辺でも、彼によって正体を看破された一人の老人の話が今でも語り継がれている。この裕福な老人は多くの山羊をもっていたが、カジウェはそれらが実際には山羊ではなくヒヒであると見破った。この老人は妖術使いであった。彼は打ちすえられ尿をひっかけられた。この老人はその後まもなく死亡したという。このようにカジウェの力そのものは非常に強力ではあったが、その方法がカブェレらのように土地全体に術を施すものではなく、個々の妖術使いに対して個別的に対応するものであったために、彼の術は妖術を一掃するにはいたらなかったとされているのである。

  カジウェの後にやってきたとされるもう一人の呪医ボギについては、詳細は不明である。名前以上に覚えている人がほとんどいないのである。おそらくカジウェと同様に特定地域のみを訪れ、個別的に妖術使いに対処した呪医なのであろう。

  そして最後が、 1984 年にやってきたマジュトである。コーランの知識とイスラム系の呪薬を、伝統的な呪薬 mbare と組合わせたうえに、ドゥルマにとって象徴的にきわめて特殊な意味をになう動物、羊 ng'onzi を使用するというその秘術は、ドゥルマの人々の圧倒的な支持をあつめた。わけても、彼の術は、一つの地域全体を妖術に対して封印するという、かつてのカブェレやツァーハの術の特色を兼ね備えていたのである。人々は今度こそ本当にドゥルマから妖術が一掃されたと信じている。

  マジュトは特別だ。彼の呪物(chirapho)は強力だ。初めにやってきた連中(カブェレやツァーハ)は、妖術使い達に雇われてしまった。妖術使い達はヴァンダ(vanda: 術の力を解除するための呪薬の束、解毒に用いる)をあたえられた。「さあ、どこへでもお行き。このヴァンダを擦りつけて、このヴァンダを握って、(人を呪うための)呪薬を扱いなさい。妖術をかけなさい。それがすんだら、ほらこの薬液(kavuo 薬草を水の中で揉み搾った液)だ。これを浴びる。後はお前の家に帰るだけだ。」でもマジュトは違う。逃れようがない。だって、お前は水を飲まないということがあるだろうか?仮にお前がマジュトの水を飲みたくなくても、お前は友人と食事を共にしないということがあるだろうか。もしマジュトの水が水を汲んでくる所の水に注がれていたとすれば?もしそうでないとしても、それが水甕に注がれていたとすれば?いったん注がれたら、マジュトは二度と消えないんだよ。そうじゃないとしても、あの(マジュトの術を施された)土が川のほとりに戻されていたとしたら?マジュトはもうどこへもいかない(そこにとどまり続ける)。

反妖術運動への人類学的アプローチ

ギリヤマにおける反妖術運動をめぐる論文の中でブラントリーは、19世紀末から 1960 年代末のカジウェにいたるまでの反妖術運動の歴史を再構成している。そこに登場する呪医たちの内、3人の名がドゥルマの反妖術運動にも登場している。ツァウェ・コンデ、カブェレ、そしてカジウェがそれだ。ブラントリーによるとツァウェ・コンデは 1930 年代末から 40 年代にかけて活躍した呪医である。その名声は今なお語り継がれ、彼は地域から妖術を一掃することに成功したとされている。彼の死後、彼の呪薬と植民地政府からあたえられた許可証は、彼の息子カブェレ・ワンジェによって受継がれた。 1950 年代に始まるカブェレの活動は他のミジケンダ諸族にも及んだという[1:121]。これは今日のドゥルマの人々のやや曖昧な記憶ともほぼ一致している。とするとドゥルマでは 1940 年代から 1984 年のマジュトにいたるまで、ほぼ10年前後の周期でこうした妖術を撲滅するための運動が反復しているということになる。

従来こうした現象に対する人類学の説明は、反妖術運動が一体いかなる性格の運動であり、またなぜ起こるのかという問いをめぐってのものであった。パーキンによると、それらは5つの主なアプローチに分類できる[12:425]。植民地状況下でのストレスと緊張がそれを引き起こしたのだとするもの[10, 13]、逆に富の増大が伝統的には不可能であったような新奇で大掛かりな反妖術運動の組織化を可能にしたのだというもの[6]、妖術に対する伝統的なコントロールの方法が植民地政府によって禁じられた結果生じたギャップを埋める、伝統的な方法に代わる方法として生まれたとするもの[4]、儀礼的な姿をとった潜在的には政治的な反体制運動の可能性を秘めたものであるとするもの[15]などである。これにパーキン自身の説明、新しい富に基盤をもつ新興リーダー層と伝統的なリーダー層の間のギャップを顕在化し、共同体内の役割構造の変化を促すものという説明を付け加えることもできるだろう[12:426]。これらの既存のアプローチは、ダグラスの「代替理論」を除いていずれも、人々の妖術に対する怖れと、自分たちの土地から妖術を一掃したいという反妖術運動の表向きの動機を、運動にとって本質的な要素ではないとする点で共通している。運動の本質は、常に政治的、社会的、あるいは経済的なものに求められることになる。

  この種のアプローチの一例を、タンザニアのフィパ族のあいだでのカンチャペと呼ばれる反妖術運動についてのウィリスの分析に見ることができる[14]。彼はこの運動が繰り返し反復するメカニズムを次のように分析する。フィパでは村落内の主要な政治的、経済的葛藤は世代間の葛藤という形で現れる。植民地以降、こうした葛藤を解消する伝統的な手段が失われた結果、それは村落社会を崩壊に導くまでに激化した。こうした状況下で眺められるとき、公衆の面前で村の長老たちを妖術使いのかどで告発するカンチャペ運動は、若い世代による「ミニチュア革命」[14:12]という様相を呈する。この運動の中で伝統的な社会においては低い地位に甘んじている若い男女が突如権威を手にいれ、社会のもっとも高位のメンバーを落としめるのである。しかし、それは儀礼がおこなわれるあいだの数時間しか続かない逆転である。それは一種の象徴的な社会劇として、社会を脅かす内的な葛藤を心理的なレベルで一時的に解消することができるだけである。「こうした一般化された社会不安を産み出す当のコンフリクト自体は、村落共同体に内在したものである。それゆえカンチャペは問題の一時的な、決して永続しない、解決をしかあたえられない。かくしてそのうちに、別の、おそらくは新奇でより複雑な手法を採用した『千年王国論的』運動が出現する機が熟することになるのである。」[14:13]

  こうしたアプローチは、たしかに一面の真理をついている。しかしそれが真理であるとしても、それはきわめて瑣末な意味においてそうなのである。妖術が憎しみや怒り、嫉妬によって生じると考えられているところでは、ある人の不幸が誰かの妖術のせいにされたりあるいは誰かを妖術のかどで告発したりすることの背後に、人間関係のコンフリクトがあると主張することによって、とりたててなにか新しい発見が得られるとは思われない。むしろこうした妖術の告発自体がコンフリクトそのものである。そして、人間どうしのコンフリクトは、たいがい富や愛情や地位をめぐる競合から生じると相場が決っており、従って妖術とその告発の背後に社会的経済的政治的なものを見出すとしても、驚くには全く値しないのである。そもそも妖術とその告発自体が、こうした社会的経済的政治的なものをめぐる競合と闘争の一形態にほかならないからである。

  ブラントリーはギリヤマにおける反妖術運動について、この妖術をコントロールする新趣向が、植民地状況によってというよりも、19世紀に生じた居住形態の変化、ミジケンダの人々がカヤと呼ばれる伝統的な要塞村を捨てて広い地域に分散して暮すようになったことにともなって生じたと論じている。この変化の結果、伝統的に妖術をコントロールする技術を独占していたカヤの長老たちのやり方では、広い地域をカバーしきれなくなり、同時に彼らの呪薬に対する独占も失われたのである。こうした変化に対応する新しいコントロールの技術が生み出されねばならなかった。ツァウェ・コンデやカブェレのタイプの反妖術運動はこうした要請に応えるものだったのである。ブラントリーの前提は、人々の妖術に対する危惧は現実的なものであり、それこそが妖術をコントロールするなんらかの方法を要請しているのだというものである[1:114]。この意味で、伝統的な妖術コントロールの方法が無効になるにいたる歴史的状況の説明の点では異なっているとはいえ、彼女の説明はメアリ・ダグラスの「代替理論」[4]の線にそった説明の一つになっている。反妖術運動の発生を単に政治的、経済的な要因に還元することなく、そうした運動が生まれる要因を妖術信仰自体のなかに見ていこうという視点は充分評価されてよい。しかし、それは未だ徹底さに欠けている。単に伝統的な方法の欠如を埋めるために生まれたと言うだけでは、この反妖術運動を特徴づけるもう一つの点、それがほぼ周期的に反復する現象であるという事実を説明することはできない。私が以下で試みたいのは、マジュトの来訪を挟んで前後3回おこなったフィールドワークで得られた、人々の妖術をめぐる言説の変化をもとにして、こうした反妖術運動が周期的に反復するメカニズムを、不幸の原因を説明する災因論としての妖術信仰そのものに内在する論理的なメカニズムとして分析することである。

マジュトの来訪

私はもちろん個々の反妖術運動の引き金を引くのが具体的な政治的、経済的な状況であることまでを否定しようとしているのではない。むしろきっかけは常にそうした具体的な状況である。 1986 年から 1987 年にかけて、マジュトの存在を知らされた私がその来訪の経緯を聞いていく中で繰り返し聞かされた、真偽のほどは定かではない、次の様な噂話が、それを雄弁に物語っている。マジュトが来訪した年はキナンゴの町の有力者の顔ぶれに大きな変化があった年であることはすでに述べた。この噂話が主張しているのはまさにこの二つの出来事の結びつきである。

マジュトはこのキナンゴの町にもやってきたよ。例の前首長Mと(評議員)Cはマジュトを嫌っていた。という訳でU(Cの腹違いの弟でCに代って評議員に選出された)はことを秘密裡に運んだ。というのはマジュトはUが評議員(kasela: councilor)を手に入れた日にやってきたのだから。UはD.O.(ディストリクト・オフィサー、西ケニヤの出身者)に相談にいった。D.O.が言うには「ああ、彼にはモイ大統領のところで手に入れた許可証がある。問題ない。好きなようにやるがいい。」
  さてマジュトは夜やってきた。彼は夜、まずキトゥ(地名)に(羊の頭を)埋め込んで来た。警官がやってきたが、話をすると、「わかった。わかった。埋め込みなさい。」CとMは何も知らない。夜があけた。Uは二人のところへ行って「あなたがた、お聞きなさい。あなたがたのもの(miyo: ここでは妖術に用いる呪物のこと)を捨てておしまいなさい。お聞きなさい。昨夜マジュトがここに来たのですよ。そしてどことも知れない場所に例の羊の頭を埋めたのですよ。」
  マジュトはムラフィェニ(キナンゴの町外れ)に滞在した。土をもっておいで。そこは草も全くないように鍬で整地された。そしてすっかり掃き清められた。誰もが自分の屋敷から、自分の農地からやってきた。キヴォ(ココヤシを半分に切った容器)をもって、土をあけていった。なんと大勢の人。数えきれない。土はたちまち山のようになった。人々はそこらに腰を下ろした。そこにはマット(四角いござ)が敷いてあった。さて、マジュトはコーランをとりだした。あの小さい本、でもすごく強力だ。そして乳香。こうして土に呪文が唱えられた。土をもらって、もっていくと、土は乳香のにおいがしたよ。そして小瓶につめた水。人々はそれを飲み水のところや、農地に戻した。みんなやってきた。その後、私たちも、私たちが所有していた畑の呪物(fingo)をすてさった。

「事の真相は...」という口調で語り出される噂話ほど事の真相からかけ離れたものはない、という原則がここでも有効であろう。新たに選出された評議員U氏が、おそらくキナンゴの町の他の有力者たちと相談の上、「人々から妖術に対する懸念を取払い、地域を発展させるために」マジュトを呼んだというのは確からしい。それは実際「妖術使いの目にあまる振る舞いにうんざりしていた」地域住民のニーズに応えるものでもあった。しかし、上に紹介した噂話は、現職の腹違いの兄C氏を破って選出されたU氏が、兄C氏の妖術を恐れてマジュトを呼んだのだという「真相」を仄めかしている。もちろんそこにはなんの根拠もない。

  もちろんこうした理解がいかにももっともらしく響く状況であったことも確かだ。実際C氏も、そして前首長M氏も、一部では妖術使いであるという噂を立てられていたのである。誰もが知っている話であった。M氏が尊敬に足る人物であり、また人々からもそう見られているという事実の一方で、M氏は「悪い男」だから用心するようにと、私にそれとなくM氏の正体を仄めかすような妙な忠告をする人々がいた。またやや議論好きだが実際には実に好人物で、また一種威厳も備えているC氏にしても、この種の無責任な噂には事欠かなかった。病院の車の運転手をしていたC氏の別の腹違いの弟が、C氏と喧嘩した翌日、事故死した話などもその一例である。別れ際にC氏は弟に「お前が男ならば、明日また私に会うことができるだろう」と言ったというのだ。これは妖術使いお得意の呪詛である。長くリーダーシップの地位にいる者が妖術使いと噂されるとしても、ドゥルマではそう驚くべき事ではない。長くそうした地位にいながら何事もなく無事でいるというまさにその事実が、下手をすれば妖術使いであることの証明ともなりかねないのである。こうした状況では、リーダーシップの交代が何事もなく済まされるとはほとんど考えられない。U氏の現実の動機など知るべくもないが、こうした背景の下では、マジュトを呼ぶという選択は、確かにU氏から兄Cの復讐についての無用の懸念を取り去ってくれたはずであるし、また、それは同時に自らが妖術使いではないことを宣伝する効果もあったはずである。マジュトを呼ぶのに必要な決して馬鹿にならない出費が、町の有力者たちの目に、充分それに値するものとして映るようなタイミングだったのである。一般の人々にとっては、それはもちろん手放しで歓迎すべきことであった。

  この噂があかす「真相」が仮にこうした一部の真実を含んでいたとしても、だからといって、それによってこの 1984 年に起こったドゥルマの反妖術運動を説明したと考えてはならないのはもちろんである。そう考えることは、ちょうどガスの充満した部屋でマッチを擦ることによって生じたガス爆発の原因が、もっぱらそのマッチの一すりにあったと考えるのと同じく、どこか的外れだと言わざるを得ない。大切なのは、キナンゴでのこの出来事が具体的な引き金を引くに先立って、妖術使いを駆逐するいかなる手段であれ、それを喜んで迎え入れようとする空気が、人々の側にできあがっていたという事実の方である。

  1983 年に私が滞在していたS村はキナンゴでの政治的な出来事とは全く無縁な村であった。そこで私は、妖術使いの煩わしさについて散々聞かされたものである。その2年前には正体不明の妖術使いがS村の雨をとめてしまっていた。人々は呪医を先頭にして探索隊を組んで、妖術使いが「神 mulungu」を怒らせて雨をとめるために地上に掘り出したとされる人骨をブッシュで発見していた。人々はドゥルマの男の「心の悪さ」を嘆いていた。「屋根をトタン葺きにしただけで、(それを嫉妬する妖術使いのせいで)もう死んでしまう。」うんざりしたようにある男は語った。一人の小学校を優秀な成績で終えた少年がその「祖父」によって(妖術で)殺されていた。「なんの理由があって kp'a sababu yani」そんなことをしたのかと問うた私に、人々は「妖術使いに理由などあるものか」と吐き捨てるように言ったものである。妖術使いは理由もなく人を殺す。「昔と違って、今はたくさんの人が(妖術で)実に簡単に死んでしまう。昔は人は誰も長生きしたものだ。」もし誰かがやってきてこの土地の妖術使い達を一掃してくれるというのであれば、それを歓迎しない理由などどこにもなかったのである。

  こうした状況を、反妖術運動の多くの研究が指摘しているように、近年のさまざまな変化がもたらした状況だと捉えることには、確かに一理ある。富とそれにたいする嫉妬が妖術使いの謂われない攻撃の引き金を引くと信じられているところでは、経済的発展にともなう富の増大の機会は、同時に妖術に対する懸念も肥大させる。かつてカヤの長老たちの独占するところであった妖術をコントロールする呪薬の力はとうの昔に分散し、個々の呪医たちによって部分的に受継がれたそれら呪薬も、今日のようにドゥルマじゅうにはびこった妖術使い達を抑える力をもはやもたない(しかも、この同じ呪薬が妖術をかける目的に使われ得るというのである)。反妖術の新しい手段が歓迎される理由は充分すぎるほど揃っている。

  しかし一つの謎が残る。というのは、かつて人々はこれと同じような状況にあって、すでに反妖術運動を経験し、そのときには確実にこの地から妖術使いが一掃されたと信じたはずなのである。人々がいったんは手に入れたと信じたこの勝利は、一体どこへいってしまったのだろうか。反妖術運動の「反復」という現象を理解するためには、それが生じる一般的な状況を挙げるだけでは不十分である(実際、上で見たように、反妖術運動がいつ生じてもおかしくないという理由なら山ほどある)。一度は完全に成功したと信じられる反妖術運動が、程なく無効になる仕組みについてもなんらかの理解が提供されねばならない。つまり反復の説明には、単に反妖術運動が起こる理由だけではなく、その逆のプロセス、それがやがて程なく無効であると宣言されるにいたる理由も説明する必要がある。従来の説明に欠けているのもこれである。

ドゥルマにおける妖術信仰

ここでドゥルマの妖術信仰についてそのアウトラインを紹介しておこう。

妖術使いのイメージ

ドゥルマにおける妖術使いのイメージは、かなり多岐にわたっている。一つの極端なイメージとしては、コウモリのように空を飛び、墓を掘りおこして死肉を喰い、夜ごと裸で犠牲者の屋敷を訪れて術をかけたり、熟睡している犠牲者を犯したり、あるいは動物に変身して犠牲者を襲ったりする、常人を越えた存在というイメージがある。別のイメージでは妖術使いは、容器の水面に呼出した犠牲者の影(chivuri)を切ったり、瓢箪の中に犠牲者の影を捕えたり、あるいはイスラムの力でジネと呼ばれる憑依霊をコントロールし、それを使い魔として犠牲者に送りつけたりといった特殊な技術の持ち主−−その多くは妖術の治療もできる呪医でもあるとされるのだが−−である。しかしもう一方の極には、近隣にすむ一般の善良なドゥルマ人に、ときには最も身近な親族にさえ、紛れ込んで何食わぬ顔をしている隠れた敵としての妖術使いのイメージがある。「懐(腰布)のシラミこそお前を喰うものだ tsaha wa bindoni ndiye akuryaye」という訳である。妖術の一番ありふれた二つの方法は、犠牲者の「汚れを奪い取る ku-wala nongo」こと、つまり犠牲者の所持品の一部やその毛髪や血液を奪ってそれをムズカ muzuka と呼ばれる霊の祠に隠しすこと、及び呪薬(muhaso)やそれにたいする呪文を金で購入してそれで相手に術をかけることの二つであるが、これは実際その気にさえなれば誰にでもできることであり、結果として最終的には誰もが妖術使いであり得るということになる。

  とりわけ呪薬を使用する妖術の中には、本来「正しい目的」のために使用されるべき呪薬を邪悪な目的に使用することからなるものも含まれるため、妖術使いと単なる呪薬の所有者のあいだの区別は限りなく曖昧なものになる。屋敷を外敵から護る呪物(fingo)として、あるいは盗難防止や盗難に対する正当な復讐の手段である呪物(chirapho)として用いられる同じ呪薬が、罪のない他人を傷つけるのに用いられ得る。犠牲者を貧乏にしたり、一つ場所に定住できない落着きのない人間にしたりするウリャニの妖術(utsai wa uryani)というのがあるが、ウリャニ自体は本来狩猟を成功に導く術の一種である、といった具合である。

  呪薬がもつ本来の目的自体が善悪の基準から見て曖昧なものもある。呪物(fingo)を用いて他人の畑に妖術をかける(ku-ungarira 他人の畑の収穫物を自分の畑にとってくる。犠牲者の畑は不作になり、自分の畑はその分豊作になる)のは「悪い」ことであるが、他の部族の遠くの畑からそれを行なうことはトウモロコシの成長期にたいていの人が行なう儀礼である。自分に不利な係争をうやむやなまま立消えにしてしまう呪術(galale 文字どおり「問題をして眠らしめよ」の意)は、その行使が噂される際にはたいてい非難すべき行為として語られるが、紛争の当事者にとっては確かに採りうる選択肢の一つではある。ある男は自分の祖父が「姿を見えなくしてしまう」術を知っており、その術を使って他部族の女性を誘拐しては奴隷として売り飛ばしていたものだと、むしろ誇らしげに語っていたものである。強力な呪物や呪薬の知識をもっていることは、ときにはおおいに自慢すべきことでもあり、自分が所有する強力な呪薬や呪物に因んだ名前(「呪術名 dzina ra uganga」)を自らにつけて名乗ったりすることも、かつてはごく普通のことであったらしい。

  こうした呪薬使用に関わる根本的な曖昧さにもかかわらず、妖術そのものに対する人々の態度にはいっさいの曖昧さは見られない。それは無条件に忌まわしい、唾棄すべき行為であり、妖術使いの行為には一片の同情をさしはさむ余地もない。それは妖術の告発を受け、最終的なパパイヤの試罪法(chirapho cha payu 政府によって公認されている最終的な権威をもつ試罪法で、各々に呪薬を塗った二つに切ったパパイヤを原告と被告の双方に食べさせ、虚偽の主張を行なった方の口が腫れ上がることによって結果がでるというもの)で妖術使いであることが判明した被告に対する人々の態度にはっきりあらわれている。試罪法を受ける前日にたまたま被告に会って親しげに言葉を交わしていたその被告の義理の姉妹は、翌日口の腫れ上がった被告を見て、吐き捨てるような口調で「私の義理の兄弟は罪を犯した wahenda dambi.」と語ったものである。彼女は彼と口をきこうともしなかった。

  妖術使いはその嫉妬(chidzitso 「目 dzitso」よりの派生語)からその非難すべき術を行使すると考えられている。繁栄や子だくさんは、常に妖術使いの攻撃をかきたてる。しかし妖術使いは必ずしも貧しかったり子供に恵まれなかったりした人物であるとは限らない。むしろしばしば裕福で子供にも家畜にも恵まれているような人物が妖術使いだと噂されていたりする。妖術使いは、いくら自分が裕福であっても、誰かに出し抜かれた(ku-vererwa)と感じると、たとえその相手が自分より貧しく子供にも恵まれていない相手であったとしても、その術を行使する。妖術使いの妬みには正当な理由などないのである。したがって、妖術使いの妬みをかう行為には、それが一種の傲慢であっても、非難すべき点は全くないと考えられている。諺にもあるとおり、「傲慢でないドゥルマ人は本当のドゥルマ人ではない muduruma atsiye na ngulu tsi muduruma」というぐらいである。

妖術に対する手段

妖術に対処する通常の方法は、治療と防御と告発の3つに分けることができる。治療はかけられた妖術の種類に応じてさまざまであるが、その中心は妖術使いが及ぼしている影響をまずはね返すためのクブェンドゥラ ku-phendula と呼ばれる儀礼である。「汚れ nongo」が奪われた犠牲者に対しては「汚れを取戻す ku-udza nongo」と呼ばれる治療が必要であるし、影 chivuri を奪われた犠牲者に対しては「影の施術 uganga wa chivuri」と呼ばれる治療が専門の呪医によってなされねばならない。占いの結果自分の問題が妖術によって起こったものとされた患者が、こうした治療を受けることになるが、その際妖術使いの正体を知ることは(占いでほぼ判明しているのだが)必ずしも必要ではないし、また当の妖術使いに対しても別に何も行動は起こされない。

  防御は個人的になされるものと、屋敷全体に対してのものがある。個人的になされるものには「男を防御する ku-finywa chilume」「女を防御する ku-finywa chiche」などと呼ばれる施術がある。妖術使いが怒りのあまり相手に投げかける呪詛とされるものに「お前が本当に男であるなら(女であるなら)...」といった言回しがあるが、これは「お前が正しく防御されているなら大丈夫かもしれないが...」という威しである。人々は防御の術に優れているとされる呪医のもとを個人的に訪れて、しばしば馬鹿にならない金額と引換えにこの施術を受ける。一方、屋敷全体を防御するものがフィンゴ fingo という通称で知られる呪物である。1983 年の調査では私の滞在していた村のほとんどの屋敷がこうしたフィンゴを地中に埋めていた。このフィンゴは、何か害意をもって屋敷にはいってきた者−−妖術使いであれ、家畜泥棒であれ−−を撃退する効果をもつとされている。フィンゴに対してはきめられた時期ごとに供物を捧げたり、香をたいたりしてやらねばならない。フィンゴの世話をなおざりにするとそれは逆に屋敷の人々に災をもたらすことになる。これらのフィンゴは特定の犠牲者を狙って道の分かれ目などにひそかに埋められるものと実際には同じものであり、その設置や撤去には専門の呪医の力が必要である。

  告発は親族の誰かの不審な死が、妖術の結果であると判断された場合にのみ行なわれる。その死に不審な点が見られる時、残された親族は埋葬後直ちに服喪にはいらずに「死を探すku-tsakula chifo」手続きにとりかかる。二人一組の3チームが別々に同時に三ヶ所の占い師を訪れ、死者の死について諮問するのである。もし三ヶ所の占いが全て同一人物をその死に責任ある妖術使いと名指しした場合に限り、親族はその妖術使いに対して行動を起こすことができる。もし相手が死の賠償(kore)の支払いに同意しない場合、最終的にはパパイヤの試罪法で決着をつけねばならない。この最終的な試罪法に先立って、ときには「妖術使いを捕まえる ku-gb'ira mutsai」と呼ばれる儀礼が行なわれることがある。この儀礼は、憑依霊の力を借りて治療や占いを行なう「憑依霊の呪医 muganga wa p'ep'o」のなかでも最高の地位であるといわれる「祈願の呪医 muganga wa kuvoyera」だけが行なうことができる。その地域の大勢の人々が集っている前で、この呪医は死に責任がある妖術使いをつきとめ、彼を名指すのである。私がこれまで滞在した3つの地域の周辺で、近年この儀礼がなされたということは聞いていない。ドゥルマには「妖術使いを捕まえる」力をもった呪医はいなくなってしまったと語る人々もいる(慶田氏によるとドゥルマに隣接するギリヤマではこの儀礼は今日も頻繁に行なわれているとのことである)。すでに述べたカジウェの反妖術運動が、カジウェは憑依霊の呪医ではないが、この「妖術使いを捕まえる」方法にかなり類似しているという点は指摘しておいてもよいかもしれない。

災因としての妖術

このようにドゥルマには、妖術使いのイメージにせよ、彼らが行使する妖術の種類とその方法にせよ、それらに対処する方法にせよ、妖術をめぐる諸観念が実に豊富に発達している。考えてみれば奇妙な話だ。というのは、ある意味ではこれらの豊かな諸観念は、妖術や妖術使いを忌み嫌い、嫌悪なくしてはそれらについて語ることすらできない当の人々自身が、自らせっせと紡ぎ出したものに他ならないからである。このことは、一見逆説的に聞こえるかもしれないが、人々が一方では妖術と妖術使いがこの世からいなくなってしまえばどんなにかすばらしいだろうと考えていながら、他方では妖術の観念が実際には人々の経験の中できわめて重要な役割をになってもいるのだということを、同時に物語っている。妖術の観念抜きでは処理できない、あるいは処理するのがきわめて困難な経験があるのである。それは、ドゥルマに限らずいかなる社会の人々をも同様に見舞う「災厄」の経験である。

エヴァンズ・プリチャードのザンデ族の妖術信仰についての有名な研究以来[5]、人類学者は妖術の観念を人々の不幸あるいは災厄を「説明」する諸観念の一つとして説明するのが通常である。しかしここでの「説明」を、ある不思議な事象に対する理論的な関心に応えるといった類の「説明」と混同してしまうと、妖術の観念が不幸の経験において果している重要な役割を過小評価することになる。妖術観念は不幸を「説明」するが、そうすることによって、説明されるべき当の経験を作り出してもいるからである。ここでいう「説明」は、カーやダントが「歴史的説明」について早くから指摘しているように[2, 3]、単に「物語る」ということと同義であるような「説明」であり、まさに経験される出来事自体に特定の構造を与える説明なのである。次のように考えるとわかりやすいだろう。「理論的」な説明においては、説明と説明されるべき事象は互いに独立している。つまりその説明に先立ってその説明の対象となるのが「どんな出来事であるか」は確定している。だからこそ「同じ事象」に対して、あるいは正しくあるいは間違っている異なる説明が存在することが可能なのである。しかし説明することが単に「物語る」ことであるような説明においては、説明とそれが説明する事象のあいだのこうした独立性は存在しない。というのは、この場合説明は、まさに「それがどんな出来事であるのか」を述べるものだからである。

我々は我々が経験している出来事について、あえて理論的にそれを説明してやる必要など、多くの場合感じない。しかし、我々は自分たちが経験しているものが何であるか、自分たちが一体何を経験しているのかは、常に知る必要がある。出来事は常に物語られうるものでなければならない。妖術の観念があたえるのは、こうした出来事の「物語られうるもの」としての構造である。

過去の災厄について語る時人々は、誰それの妖術が如何にしてしかじかの不幸をもたらしたか、といった形で語るが、こうした語り口がまとっている一見因果的な構造は、ともすれば上に述べた二つの「説明」の違いを曖昧にしかねない。しかしこうした語り口は実際の災厄の経験がもつ構造を転倒したものに過ぎない。原因としての妖術は常に、具体的な災厄が生じてはじめて遡及的にしか問題とならないからである。人々が妖術の観念を「AさんがBさんに妖術をかけたからには、Bさんに早晩災厄が訪れるであろう」といった未来にむけての予言命題の形では用いないという点からもそれはわかるだろう。妖術をかけている現場を目撃することができないからというよりも、そもそも妖術の観念自身が、こうした用い方に馴染まないのである。妖術の観念は、人々の特定の災厄についての経験を、被害者の人間関係における葛藤の角度から眺められた一つの物語にからめとるような形で遡及的に成立させるものであり、それ自体がこの経験の不可欠な構成要素となっているのである。(註2)

もちろんこうした形で経験を組織する観念は、妖術の観念だけに限らない。妖術はなるほどあらゆる災厄に臨んでもちだされうるが、同様に祖霊や憑依霊、その他諸々の観念が、経験にそれぞれの仕方で物語の構造をあたえようと待ち構えている。犠牲者が経験している問題が「何であるか」を、最終的に決めるのは占いである。しかし、妖術がとりわけ問題になるような種類の災厄がない訳ではない。それはある種の異常な死である。そもそも祖霊や憑依霊は通常、死を引き起こすほどのことはしないとされている。最近死んだばかりの死者は、服喪の諸規制が違反されたり、適切な方法で屋敷から死が取り除かれなかったりした場合、残された親族に次々に死をもたらすかもしれない。母親に憑依しているある種の霊は、彼女が産む子供を次々に殺してしまうかもしれない。しかしこうした特殊な例を除くと、祖霊や憑依霊が死を引き起こすことはまずない。もしそうするとしても、そこには充分な警告が先立つ筈である。それは祖霊の、あるいは憑依霊の要求を頑固に拒み続けた者のみを待ち受けている運命である。ジネ jine と呼ばれる一群の憑依霊はしばしば人を殺すが、それはジネが妖術使いによって支配され犠牲者に送りつけられた場合のことである。したがって死において何か疑わしい点があるとすれば、通常そこでは妖術が考えられることになる。成人の、とりわけ突然の死は、妖術が最も疑われる機会である。ドゥルマではこうした突然の死は、しばしば「健康なままで死ぬ ku-fa muzima」といった言い方で語られる。つまり明白な病気の状態が先行していない唐突な死である。事故死や、動物による死も、占いが妖術の関与を否定するまでは、同様な疑いにさらされる。

  こうした異様な死に方が、その原因に関する理論的な関心をかきたてるのだ、ということではない。その異様さが単にそれに見あう物語を必要としているということである。妖術の観念が提供するのは、まさにそうした物語なのである。

  とすると、妖術の観念の中にはどこか逆説的な要素が、当初から組込まれているのだとは言えないだろうか。妖術を憎み、嫌悪する人々の感情に嘘偽りはない。これは妖術の観念自体に内包されている一つのベクトルであり、妖術の観念そのものの一つの帰結である。妖術の観念は当然、人々にそれを行使する妖術使いを憎まざるをえないように仕向けるのである。しかしこれこそが「物語生成装置」としての妖術の観念に奇妙なダイナミズムを付け加えることになる。妖術の観念が不幸な死に、それに相応しい物語を提供するというその機能を首尾よく果せば果すほど、憎むべき妖術使いの存在は人々の心にますます重たくのしかかり、人々はできるなら妖術を自分たちの世界から一掃してしまいたいと願うだろう。しかしもしこの願いが実現するようなことがあったとしよう。それはまさに物語生成装置としての自らの破壊に他ならない。もし人々の願いが実現し、現実に妖術使いが一掃されたと人々が確信した時、人々は別の問題に直面することになる。こうした確信の後も、異様な突然の死そのものは相変らず人々を襲い続けるだろう。そして人々は、「物語」の空白に直面することになるのである。

  ところで 1984 年のマジュトの来訪は、まさに人々のこの願いを実際に実現させてしまった。不幸な死をめぐる「物語」に、その結果一体どんな変化が生じたのだろうか。それこそが反妖術運動の反復を説明する鍵を提供してくれるだろう。

マジュト以後:1986-1987

すでに述べたように私が再度ドゥルマを訪れた時は、すでにマジュトの来訪から2年を経過していた。人々は妖術使いが一掃されたことを心から喜んでいるように見えた。かつての調査地のS村でも何軒かが家の屋根をトタン板に葺きかえていた。そうしたからといってもう妖術使いの攻撃を恐れる必要はないのだ。S村のキナンゴへ続く道路ぞいには、それまで一軒しかなかった雑貨屋の隣に、新しい店が一軒生まれていた。人々はマジュトの術がいかに強力なものであるかを私に説得しようとして、何人もの妖術使いがこの術にかかって死んでしまったことを、具体例をひきながら、無邪気に話してくれた。すでに紹介したキナンゴの「インド人」の死をめぐる噂話などもその一つである。実際実に多くの「妖術使い」がこの間に死んでいた。人々は誇らしげに語った。「おかげでそれ以来妖術にやられて死んだ者は、一人もいない。」

  しかし、これは私の目にはきわめて奇妙な事態に映った。人々は妖術使いが死んでいっているというが、これは明らかに転倒した言い方である。実際には死んでいった人が妖術使いとされているだけなのだ。つまり、1983 年当時なら妖術のせいだと考えられていたに違いない異様な死が、妖術のせいだと語られる代りに、今や当の死者が妖術使いであった証拠になっている。彼はマジュトを軽んじてなんらかの邪悪な術を行使しようとしたに違いない、しかし天罰てきめん、羊があらわれて彼を死に追いやったのである、という訳だ。かつては異様な死は、死者が妖術の犠牲者であることを物語っていた。今や逆にそれは死者が妖術使いであることを物語っているのだ。かつては妖術使いの恐ろしさを証明していた同じ出来事が、今や妖術使いを駆逐するマジュトの術の力を証明している。物語の構造が180度逆転してしまっているのである。

反妖術運動−マジュトの術−が実際に成し遂げたことが、現実には居るかいないかわからない妖術使いを一掃することというよりは、まさに不幸な死を説明する物語図式のこの反転だったのだと考えると、反妖術運動なるものの性格が幾分はっきりするだろう。それを一種の「災因論的アパーセプション」と名付けてもよい。しかしこの反転した図式の上に物語られる話は、突然の死で身内を失うことになった当事者たちにとっては、けっして快いものではありえないだろう。もちろん妖術によって身内を殺されたと考えることは、不愉快な話である。しかし、身内が妖術使いであって、それがもとで死んだのだとなるとそれどころの話ではない。他人に関わる死については無条件に受け入れられる物語も、それが自分の問題となると話は別である。長島信弘がテソの災因論に関して指摘しているように、人々にとって自分たち自身に責任が有るという物語ほど苦々しい物語はないのである[11:411]

すでに 1986 年当時、突然の死を迎えた死者により同情的な噂のヴァージョンがあらわれていた。この論考の冒頭で紹介したベニーロ老人が語った噂話が、その一例である。それは相変らずマジュトの術の力を例証する話の構造をもっている。しかし、そこで不幸にもマジュトの術で死ぬのは、妖術使いではない。彼らはいずれも、比較的罪のない呪術、かつてドゥルマでは誰もが行なっていた豊穣儀礼や収穫儀礼を遂行しようとしていただけである。ただその儀礼が、たとえ他部族の畑の作物に対してであるにせよ、とにかく他人の畑の作物の「精」を奪うというものである以上、基本的には妖術と同質の行為であり、したがってマジュトの術に撃たれる可能性があるという点に、気付くべきだったのだ。この点のみが死者の落度だという訳である。ベニーロ老人の話は、死者の妻がした話を再演するという構造をとっている。つまりこの話は死者の身内に近い筋からの話ということになる。しかしこの話がこの死に関する唯一の公式バージョンではないであろうと類推させる部分にも注意しておきたい。死者が墓の中にムジ(mudzi 文字通りには「屋敷」の意味、ここでは死者を安置するために墓の底に二重に掘られる溝がこう呼ばれる)すら作られずに、ずだ袋 guniya のように埋葬されたというくだりである。それは死者が別の人々にはやはり妖術使いと見做されていたという事実を暗に物語っているのである。

  同様な線にそっての別の噂の展開に、屋敷を守るべく埋められていた呪物 fingo をめぐってのものがある。本来これらのフィンゴは屋敷を妖術使いや泥棒から守るためのものであったが、このフィンゴに香をたいたり、犠牲を捧げたりすることは、ある意味で妖術をかける行為と同質の行為ではないかという訳である。かくして突然の死を、死者が今まで通り屋敷のフィンゴに犠牲をささげ屋敷の繁栄を祈願してしまったことのせいだと語ることが可能になる。

  マジュトが実際に言ったことに基づくものかどうかは定かではないが、ともかく1986年から 1987 年にかけてのこの時点では、マジュトの術が及ぶ範囲が単に妖術だけでなく、それに類するあらゆる呪薬や呪物の使用にも及ぶのだという理解が、かなり一般的にみられるようになっていた。これが、こうした抜け道めいた物語を辛うじて可能にしていたのである。呪薬や呪物の使用が本来もっていた曖昧性がここで大きな役割を演じている。相変らず屋敷の呪物に祈願を続けている人々もいたが、彼らは自分たちが妖術を行なっている訳ではないのだからということで、それをごく当たり前のように続けていた。当然彼らには、何事も起こっていなかった。突然の不審な死に方をした者が、妖術使いではなかったということを誰もに説得することは、たとえ上で述べたような抜け道的な物語によっても、必ずしも容易ではなかった。ともかくマジュトの力そのものの有効性については誰もが確信しており、突然の不審な死は、死者が妖術使いであるとされるにせよ、不注意な犠牲者だとされるにせよ、いずれにせよもっぱらマジュトの力を証明する物語の中で語られていた。死者の身内を除く誰もが、突然の不審な死を妖術使いの死として捉える物語を歓迎していた。一方死者の身内たちがもとめていた物語は、死者を妖術使いではないとする物語であったはずである。しかし今や、罪のない善良な人に突然の不審な死をもたらす妖術使いはもはや存在しないことになっている。全ての不審な死は「マジュトによる死」という枠組みの中で処理される以外にはなかったのである。

マジュト以後:1989

1989 年、私は再びドゥルマを訪れた。一見したところマジュトをめぐる状況に大きな変化は起きてはいないようだった。相変らずマジュトの術の効目は有効で、妖術使いたちを殺し続けていた。しかし人々の噂話にはすでにどこか回顧的な調子が感じられた。

M1:それにしてもマジュトは恐れられている。
K: 随分たくさんの男を膨れさせたよ。あのTさんの屋敷のやつらもね。
M2:それに、Bのやつも。あいつはキガトの孫の屋敷で死んだんだよ。
K:あのカミナリを頭の中にもっているやつだね。いつもターバンを巻いているけれども、何とあの中にあるのはカミナリなんだ。
M1:Bは他人の椅子には座ろうとしなかった。バスにのるときですら、自分の椅子をもって入ってそれに座っていた。また、こういった場所に客として訪れたときですら、自分の椅子を持参してきた。彼に椅子を与えることはできなかったね。それも三本足の椅子だ。バスにのるときでさえ、自分の椅子を持参して、それに座っていた。
K:以前はインターナショナルな(ドゥルマの若者の間では「一流の」という意味をあらわす流行語になっている)妖術使いがこの辺りにもいたもんだ。でも全員マジュトの術でいなくなった。
M3:いやまだ死に絶えた訳ではない。でももうマジュトの術に効目がないという者は試して見ればいい。それで終わりさ。死んでしまう。
M2:生残っているやつらも、(自分の術を)試す勇気がない。怖がっているんだ。
K:生残っているインターナショナルな妖術使い達も、すでに死んでゆきはじめている。というのは、自分の呪薬の力で、マジュトに対抗してやろうなどと考えるからね。マジュトの呪薬がそれほどのものだろうか、という訳だ。
M3:そいつらが言うことには、あんなガキに年上の我々が負ける訳がない。
M2:実際まだ子供そのものなんだものね。

この雑談の中に見て取れる、主だった妖術使いはもうほぼ死んでしまったに違いないという確信は、すでにこの頃までにマジュトの術で死亡する人間の数が以前ほど多くなくなったという事実に対応していると考えてよいだろう。くどいようだが、これも逆立ちした言い方であって、これは実際には、不審な突然の死が以前ほどマジュトの術による死としては語られなくなっているということである。ではそれらの死はどのように物語られていたのであろうか。実際この2年ほどの間に、かつての二つのバージョン−豊穣儀礼と屋敷のフィンゴに対する供犠−以外にも代替的な物語の変種が著しく増加していた。なかでも二つの新しいバージョンの出現が注目に値する。

  一つはかつては屋敷を妖術使いから守るものであったフィンゴに関するものである。フィンゴに香をたいたり、供犠をしたりすることがマジュトの術に引っ掛かるという知識は既にかなり一般化しており、多くの人がフィンゴを扱うことをやめていた。こうしたフィンゴは正式には専門の呪医を雇って儀礼的に処分してしまわねばならないのだが、多くの人々はそれらのフィンゴを単に放置していた。この放置されているフィンゴが人々を殺し始めたという物語である。

Q:つまり呪医Nが占いを打って、フィンゴの問題だと言ったのですね?
U:そう。フィンゴの問題よ。でそのフィンゴが姿を変えたというのよ。
Q:フィンゴが姿を変えてMさんの奥さんを殺したというのですね。
(Mの妻−Uの娘でもある−は、少し前から喉の痛みを訴えていたが、病院ではどこも悪くないと言われた。しかし、ある日畑仕事の最中突然倒れ、病院にかつぎこまれたがそのまま死亡したのである。)
U:あの子は「お母さん。猫が見えるわ。」と言ったものだよ。私は言った。「ああ、心配するんじゃないよ。猫はジネ(妖術使いが送りつける憑依霊)だけど、(マジュトのおかげで)ジネの問題なんてどこにもないんだから。ジネなんかどこにも居ないよ。心配するんじゃない。」そうじゃないかい。そもそも(妖術使いが送りつけた)ジネがMを追ってきたなんて考えられるかい?Mのような貧しい男を?
W(もう一人の女性):よくお聞き。フィンゴだと言われたんだよ。それとも(死の理由を)探して(不審な死に対して行なわれる「死を探す ku-tsakula chifo 」に言及している)(妖術使いが送りつけた)ジネだったとでも言うのかい?
U:人々は言ったよ。ただの病気(病死)だってね。嘘ばっかり。病気なんかであるものかね。フィンゴ、フィンゴ、フィンゴ。フィンゴだよ。
Q:フィンゴがジネに姿を変えたと?
U:Bさんがずっと以前に設置したフィンゴだよ。それが変化した。Bさんがジネを据えたとでも言うのかい?とんでもない。フィンゴだよ。フィンゴ。最近、これらのフィンゴは血を与えられないでいる。そうするとそれはジネに姿を変えるんだよ。
Q:へええ!

注目すべきは、Mの妻の不審な死に際して「死を探す」手続きがとられたらしいという点である。しかしただの病死だとする人々も多かったようだ。当然である。確かにもう妖術使いはどこにもいないはずなのに、一体なんのための「死を探す」手続きだったというのだろう。ここには一つのジレンマがある。U子は娘の死に不審な点を見出している。しかし、それを認めることは、妖術による死が考えられない今、その逆に死者が妖術使いであったという可能性を認めることでもある。屋敷の多くの人々が、それを病死だとしてその死の不審な点に目をつぶろうとしたのもうなずける。にもかかわらず、「死を探す」手続きは結局とられた。そしてフィンゴがジネに変化して、結果として妖術によると同様な死を人にもたらすという物語が手にはいったのである。この物語においては、死者はもちろん妖術使いではないし、うっかりとマジュトの術に引っ掛かってしまった訳でもない。彼女は妖術の犠牲者が死ぬような仕方で死んだのである。

  S村でも、私が親しくしていたK氏の6才になる息子が私がフィールドに入る2ヵ月前の6月に焼死していた。一人で小屋で留守番している間に小屋が火事になったのである。その前日、K氏の牛が他人の畑のトウモロコシを荒したというので、K氏はその隣人と激しい喧嘩をした直後のことだった。K氏は埋葬の席で妖術のせいだと息まいたと言われている。もちろん、これはマジュトがある以上原理的にありえないことだった。K氏の二人の妻は、K氏が世話をしないままに放置していたフィンゴのことをK氏に思い起させた。そして専門の呪医を雇う金を出してくれるようK氏を説得して、正式にこのフィンゴを処置したのである。私はK氏の妻たちからこうした経緯を聞いた。しかしK氏に尋ねると彼ははき捨てるようにいった。

K:あれはただの事故(kasindideti: accident を間違ってこう発音している)だ。ケニヤ全体で去年だけでも100人以上の人が焼死しているんだぜ。O(死んだ息子)は131番目だった。警察に報告しなければならなかったんだよ。ただの事故だ。
Q:マジュトは?
K:関係あるものか。ケニヤじゅうでたくさんの人が死んでいる。運が悪かっただけだ。うちのほうではフィンゴのせいだなんていっているが、わかるもんか。Oは131番目だったよ。事故だよ。

こうした形で近親者の死を納得する説明は、私の知る限りきわめて珍しいケースである。K氏は明らかにフィンゴによる説明には納得していないように見える。もしそうだとすると、妖術による死が原理的にありえないところでは、上のように考える以外にどんな道があっただろうか。

もう一つのタイプの新しい噂話はカウシャ kausha と呼ばれる毒に関するものであった。カウシャの実体については、それが自動車のバッテリーの中に入っている液体であるという話がまことしやかに流れていた。この新奇な毒薬による毒殺が、1988 年以来やけに増加していたのである。酒や飲み水に毒を加えることは妖術とは全く異なる行為であると考えられており、毒殺に対してはさすがのマジュトの術も効目がない。毒殺という手段そのものはそれ以前にも知られていない訳ではなかった。しかしそれが入ったものを一口飲むか、飲まないまでもそれに触れただけで、たちどころに「内蔵を切れ切れに切刻んで」犠牲者を死に追いやるこのカウシャはそれまでには知られていなかった全く新しい毒であった。この年私の滞在していたK村でも、一人の女性が近隣の葬式の席でそこにいた若い男と握手をした直後に死亡するという事件が起こっていた。これはカウシャのせいであるといわれていた。私の6ヵ月の滞在中にも、一人の男が酒を飲む席で倒れ、ただちに病院にかつぎこまれて危うく一命をとりとめていた。これもカウシャによるものと噂されている。K村の屋敷の中でも、3軒の屋敷がカウシャを所持していると噂され、そこでは飲み水を飲まないようになどという注意が流れていた。

  カウシャによる物語においては、突然の不審な死は、妖術のせいにこそされていないが、その構造はほとんど妖術の物語のそれと同じである。犠牲者自身が妖術使いであったとされないことはもちろんである。彼が誤って不適切な呪薬使用を行なったせいだという訳でもない。犠牲者にはなんの落度もなく、彼の死は、邪悪な他者によってもたらされたのである。

  2年前には見られなかったこうしたタイプの物語に加えて、より注目すべき変化として、占い師たちもその占いの中で、わずかずつではあるが、妖術に再び言及し始めていた。

M(占い師):...という訳で、お前が病気になり死んでしまうようにとね。だって、お前は仲間を圧倒している。あいつは傲慢だ。一体どこから富を手に入れやがったんだってね。お前は金持だった。一方お前の仲間は貧乏だ。(中略)お前は死ぬことを望まれていたんだよ。もちろん今日び、マジュトがある。でも、お前が妖術を掛けられたのは、それ以前のことなんだよ。もしお前が防御されていなかったならば(妖術に対する防御呪術を施されていなかったなら)、お前はとっくに死んでいただろうよ。だから、あんた、クブェンドゥラをやっておもらい。
P(患者):その問題については私にはわからない。だって、私はこれは神の病気(特に原因のない病気)だと思っていたんだから。
M:とんでもない。それは人の病気(妖術による病気)さ。お前はすぐムズカに出発するべきだよ。屋敷にいてはいけないよ。

つまり、マジュトがくる以前に掛けられた妖術であるが、その効果が後になって現れてきたのだという訳である。別の占いは、もっととんでもない形で妖術を再導入している。つまり妖術使いはマジュトの力の及ばない遥か遠方に行って(コンゴ!!)そこから妖術を掛けたというのだ。(この占いを諮問した人は、それをその名で呼ばれる国と勘違いした私と同様、このコンゴを遥か遠方の国と理解していた。後日占い師自身に問いただしたところ、このコンゴというのはモンバサの南海岸にある祠の名前だということであった。もちろん、そこもドルマの外、マジュトの力の及ばない所である。)

  明らかに「妖術」の物語が再びもとめられはじめているのである。そして私が調査地を去る直前の 1990 年1月キナンゴから30キロあまり離れたM村で、実際に妖術使いの告発が起こっている。偶然訪れたパパイヤの試罪法が行なわれる場で、一人の老人が妖術の試罪を受けているところに出くわしたのである。私とともに同行した人々にとってもこれは驚くべきことであった。この試罪法はここ数年、もっぱら遠路はるばるやってきたギリヤマの人々たちのみが利用するところのものとなっていたのだ。一体マジュトはどうなったのか、と尋ねた私に、いあわせた人々は、誰もがマジュトの土をもって帰った訳ではないと告げた。こんな単純な理由で妖術の物語を再び復活させることができるとは、驚きである。おそらくこれは単独の事例ではあるまい。妖術使いはマジュトの術をかいくぐって再び活動を開始し始めていたのである。

  マジュト自身についても、いくつか気になる噂が流れ始めていた。

Q:マジュトが来てからもう5年もたったのですね。
M:5年だ。でもまだ6年目と7年目が残っている。
N:それが過ぎたら、彼はまたやってきて羊を設置するんだ。
M:その年がすんだら、彼はまた帰ってくる。
R:でも私が聞いた所によると、マジュトはカンバ族の所へ行って、命からがら逃げ出したと言うことだ。
M:一体なんで逃げ出さないといけなかったんだい。
R:そこで本物の妖術使いと出くわしたのさ。カンバの女妖術使いに腹の中に鶏を入れられてしまったんだ。鶏は腹の中でコケコッコーと鳴く。マジュトはカンバの土地も封印しにいったんだ。あそこは妖術使いが多いからね。
O:そこに着いて、その女にうち負かされた。その女に「お前は男かい?」と言われたのさ。「待ってなさい。お前にモノをしかけてやろう。夜になると、雄鶏がお前の腹の中で鳴くだろうよ。腹の中で。コケコッコー。」
K:そう言えば、マカミーニ(ドゥルマの地名)にいた白人も同じことをされたっけね。腹の中に雄鶏を入れられて、その土地を去った。昔、白人たちは最初マカミーニにD.O.(ディストリクト・オフィサー)のオフィスをおこうとしていたんだ。あのあたりに大きな滑走路を設置してね。人々は言った。「待ってろよ。この白人に雄鶏を入れてやろう。」さて、雄鶏は腹の中でコケコッコーと鳴く。とうとう白人たちはそこを去って、キナンゴにオフィスをおいたという訳さ。
M:へえ。あのマジュトが雄鶏を詰められたとはね。命からがら逃げ出したとはね。
N:でも、私が聞くところによると、マジュトはより強力な術を身につけるために修業しているんだというよ。

なんと、あのマジュトですら無敵の呪医ではなかったというのである。もちろん居あわせた人々はRがもたらしたこの情報をまだ半信半疑で聞いているようであった。

  1986年から1989年にかけての、この変化はいったい何を示しているのであろうか。マジュトの術の効力については、ほとんどの人々がまだ充分な信頼をおいている。人々はそれがもたらした結果をもちろん手放しで喜んでいる。この点にはなんの疑いの余地も無い。にもかかわらず、この間、突然の不審な死をめぐって語られる物語は、さまざまに増殖し、またその性格も大きく変化してきた。それはますます妖術による死の物語の構造に接近してきている。そして、ついには現実に妖術使いが活動を再開したという物語まで人々は作り始めている。まるで、一方で妖術使いが一掃されたことを喜んでいながら、その一方でひそかに妖術使いが一掃されてしまったことに困惑しているかのような、事態の推移である。マジュトがこの地方の妖術使いを一掃したと信じられたときから、わずか5年しかたっていない。反妖術運動の成果は、あたかも内部からなし崩し的に失われていきつつあるかのようである。

反妖術運動の反復の災因論的メカニズム(結論)

既に触れたように、妖術の観念の中には互いに異なる方向をむいた二つのベクトルが共存している。一つは、それが人々の経験を構造化する物語の生成に関わっているという点に由来するものである。妖術の観念は人々が経験する異常な死や災厄に、それの異常さに見あう物語を提供し、かくしてその経験を物語られうる出来事に変換する。しかし、それが首尾良くこれを成し遂げるためには、妖術使いの存在が基本前提である。つまり妖術観念に内在する基本的なベクトルの一つは、妖術使いの存在を要請する。

  妖術の観念に内在するもう一つのベクトルは、これとは正反対の方向をむいている。妖術の物語は、妖術使いを忌まわしい脅威として描き出すので、人々をこの脅威を除去しようという方向に誘うことになる。それは妖術使いの存在を排除しようとする。この相反するベクトルが妖術の観念に奇妙なダイナミズムを与えるのである。

  反妖術運動は、明らかに後者の、人々にとってはより現実的な要請の方をむいたベクトルの延長上にある。それは妖術観念そのものに内在する傾向性の反映であって、けっして妖術の観念そのものの破棄にむかうものではない。むしろ妖術の観念が信じられているからこそ存在する運動なのである。かくして、それは妖術観念自体の中に内在する矛盾を顕在化させることになる。というのは、妖術使いを一掃するというこの運動の目的は、それが妖術観念の内部での運動であるということを考えに入れると、自己矛盾そのものに他ならないからである。そもそも、妖術使いなき妖術観念など矛盾以外のなにものでもない。

  ドゥルマにおける反妖術運動は、おそらくカジウェの運動を例外として、すべて共通の一つの特徴を備えていた。それは、一撃で妖術行使の可能性をいっさい取り除いてしまうというものである。妖術は原理的に閉め出されてしまうのだ。しかしその後も相変らず人々を見舞うであろう突然の不審な死や災厄に対して、これらの運動は単に物語の空白でもってそれに応える訳ではない。それは通常のこうした死をめぐる物語の構造を反転させてしまうのである。かつては妖術のせいにされたであろうこれらの死は、今や反妖術の呪術の効力を立証するものになる。死者自身が妖術使いであったとされるのである。運動が妖術の可能性をラディカルに排除することが、こうした物語構造の反転を可能にするのであるが、逆にこの反転した物語がこの運動にますますの信憑性を与えることになる。反妖術運動は自らの正当性の根拠を、こうして自ら作り出していく。

  しかし、この反転した物語は、人々が異常な死や災厄に見あうものとして求めていた物語では、結局なかったのだ。こうした死や災厄が自分たちの問題として現れたとき、自分たちが妖術使いであったと考えるくらいなら、自分たちは妖術の犠牲になったのだと考えることの方が、はるかにましだという訳である。こうして物語は、妖術にまつわる諸観念のさまざまな変換と変奏を通じて、徐々に姿を変え始める。それは次第に妖術使いの存在を前提とした物語に近付いていく。反妖術運動は、結局、やがて無効であったと宣言されねばならない運命にある。それは自らをうみだし、自らを支える同じ物語生成装置−妖術の観念−によって裏切られるのだ。それは妖術なき妖術信仰という自己矛盾によって自ら崩壊する。あれほど強力であったはずのカブェレの呪薬は、地中で腐ってしまった、あるいは妖術使いたちによって買収された呪医本人の手で台無しにされた。人々はこうした物語によって、その無効を宣言するだろう。しかしそれを台無しにしたのは、あくまでも妖術使いの根絶を願いながら、一方では妖術使いの存在を論理的に要請する同じ物語装置を生き続けている人々自身だったのである。

  ドゥルマを訪れた最新の反妖術運動−マジュトの運動−は、かつてのものにはなかった特徴を一つもっている。それはマジュト自身が、彼の術の効力の有効期間を宣言していったという点である。7年たつと効目がなくなる。そのとき私は再びかえってくるだろう。あたかも、彼は自分自身の名誉を失うことなく術が無効になることに予防線をはってでもいるかのようである。人々はマジュトが再び帰ってきてドゥルマの地を、もう一度妖術に対して封印してくれることを熱望しているし、多くは無邪気に彼が帰ってくることを当然のことと考えている。しかしマジュトを呼ぶのに必要な馬鹿にならない出費が、再び誰かの力によって賄ってもらえるという保証はどこにもない。もしマジュトが帰ってこなかったとすればどうであろう。もちろん人々はおおいに落胆するに違いない。しかし同時に人々は安心して自分たちを呪縛している妖術の物語装置に身をまかせることになる。そして跳梁跋扈する妖術使いたちを嫌悪しつつ、再びマジュトのような呪医が現れることを熱望するのである。

  私はこうした説明が、アフリカに広く見られる反妖術運動とその反復を全て説明すると主張するつもりはない。しかし、従来の説明が、こうした運動の背景の政治的、経済的、社会的状況に注目するあまり、信仰内部の災因論的ロジックのもつ力をあまりにも軽視しすぎていたという点は、否定できない。ここで分析したドゥルマにおける反妖術運動の事例と、その運動をめぐる噂話の数々は、こうした運動の理解に、単にその経済的、社会的背景以上に、人々の観念体系自体に内在するロジックが重要であることを立証している。


註釈

(註1)この論考は 1983年(6ヵ月)、1986-1987年(10ヵ月)、1989-1990年(6ヵ月)の三度にわたる現地調査でえられた資料を基にしている。1983年の調査はトヨタ財団、1989年の調査は平成元年度文部省科学研究費(「ケニア海岸地方、ミジケンダ諸族における『病気の文化』の比較研究・研究代表者吉田禎吾)の助成による。1986-87年の調査は、福岡大学より一部資金の援助を受けた。ここに、これら諸機関に感謝の意を表するものである。この論考のアウトラインは科学研究費調査報告の一環として行なった1990年5月の日本アフリカ学会研究大会における研究発表が、論考の具体的な内容に関しては1990年10月の九州人類学研究会における発表が、おのおの基になっている。

(註2)ここでの「物語」という言葉の使用には、ことさらその語りの虚構性を強調するといった意図は含まれていない。それは出来事や経験が、「事実そのままに」語られるという際に、そうした語りのもつ独特の特徴に注目させる意図で用いられている。つまり語りは常になんらかの「筋 plot」によって組織されるしかなく、この筋がそこで何が語るに足る出来事であり、何が意味のない出来事であるかを決定する。出来事は語られる時常に、そして既に他の出来事に関係付けられている。そしてこれは我々の現実経験の構造そのものなのだ。つまりこの意味で、我々は現実の経験を常になんらかの物語の経験としてしか持てないのだと言ってもよい。この議論の詳細は、すでに別の機会に書いているので、そちらを参照されたい。[7,8,9]


参考文献

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