ドゥルマにおけるコマ(k'oma 「祖霊・死霊」)について

1.確認

生者についての文化的表象が具体的な対象の存在によって制約を受けざるを得ないのに対して、「死者」についての表象はそうした制約からは相対的に自由である。ある意味でそれは不在の対象についての表象操作の産物にほかならないからである。

死後の存在についての表象は、死ぬ前の存在との間になんらかの連続性を設定されている筈である。さもなければそれは「死者」の表象とは言えないから。同時にそれは死ぬ前の存在との間にある種の断絶を設定されている筈である。すでに死んでおり、もはや生きてはいないのであるから。とすると死者についての表象をつくりだす表象操作は、ある対象に対する類似性と差異を同時にうちたてる比喩的な表象操作、とりわけ連続性の前提の上に差異を設定しようとする「換喩的表象操作」に他ならないということになる[1]。

しかし、そこにどのような連続性とどのような断絶を設定するかは、社会によって大きく異なっているかもしれない。この人間についての表象のある意味で最後のトランスフォーメーションがどのように各社会によって構想されているかは、人類学にとって興味深い一つのテーマを提供する。

ここではこうした観点にたって、ケニア・コーストプロビンスのドゥルマの人々の間での死後の存在、コマ k'oma、について簡単な紹介を行ないたい。

最初にコマに関係する「ドゥルマのおとななら誰でも知っている」知識、つまり人類学者の折りにふれてのインタビューに答える形で簡単に引き出される知識を、私自身のコメントによって補いながらざっと整理しておこう(第2節)。続いてコマが生者にとって「どのような存在なのか」を検討する(第3節)。いずれの節も人々がコマに関連して語ることの整理と検討なのであるが、第2節はもっぱら人々が「コマについて」語ることを中心にまとめたものであるのに対し、第3節では「コマに対して」語りかけたものが大きな比重を占めることになる。

コマが人々にとってどのような存在なのかをまとめようとして、私は大きな困難を感じた。人々の語りの中にあらわれるコマの姿が、一つの像を結んでくれないのである。語る人毎の個人的な偏差(これも結構大きいが)を別にしても、その語りがどのような局面でなされるかに応じてそこに現れるコマの姿がほとんど正反対というくらい異なって見える。しかしこれは考えてみれば当然のことかもしれない。例えば私は「警察が犯罪を取り締るためにある」「それは善良な市民を保護してくれる」などなどの事を知っている。しかし個人的には、私は(別に後暗いところはないが)警察とは出来れば接触したくないと思うし、警察とかかわるとろくな事はないと感じている(それとも私が変なのか?)。それは私の語りの節々に現れることだろう。しかし、そんな私もいざ何かあると警察に助けを求めるに違いない。これらを同時にまとめて提示しようとしたら、結局混乱以外のなにものでもあるまい。

したがって、コマについても、さまざまな立場の人がさまざまな場面で行なう語りを選り分けて、そこに現れる偏差を明らかにしていかねばならないであろう。私はそれについての文化的な知識(第2節)、コマをめぐる公的な儀礼の中での語り(第3節−1)、コマをめぐる私的な(公開の儀礼の文脈ではないという意味で)語り(第3節−2)をとりあえず区別して、それぞれに異なるコマの像をおさえておこうとしているが、それは必ずしも成功したとはいえない。とはいうものの、ある程度の特徴は取り出すことが出来たと思う。それは、結局従来からアフリカの祖霊信仰について指摘されていたことと余り異なるものではないのだが、そこにみられるコマの性格の転調が第4節以下での問題となる。

2.コマについての概観

ドゥルマでは人は死ぬとコマ k'oma になる(*1)。このコマという名詞が属する名詞クラス自体、死後の存在と生者との一種の断絶を示唆している。つまりコマは、人や動物、憑依霊などとは異なり、事物(ただし、山羊や牛などのある種の家畜、野性の鳥のいくつかもこのクラスに属している)が属する名詞クラスに属しているのである。(*2)

ドゥルマでは人は「キブリ chivuri」と呼ばれる分身のようなものをもっているとされるが、コマは死後このキブリが身体を遊離したものだとされる。キブリについては第4節で詳しく検討したい。

コマは地界クジム kuzimu にいる。もっとも地下に具体的な死者の国がイメージされている訳ではないし、死後の生活についての具体的なイメージもおそろしく欠如している。最も具体的なところで、コマは墓の下に住んでおり、夜になると出かけ朝に戻って眠ると答えてくれる者もいる。後述するコマへの語りかけは夕方が選ばれるし、供犠は早朝行なわれる。地下との漠然とした関係付けは以下のことにも表れている。シロアリが家屋に侵入することは、ときにコマの干渉のしるしと考えられる。またツチブタが屋敷の敷地内の地面を掘り返すことも、しばしばコマの干渉の目に見える徴候として解釈される。何よりも墓はコマについての儀礼の主な舞台である。後述するように分墓の手続きにおいても、墓の土が持ち帰られ、あたかも死体であるかのように埋葬される。病人を常にうとうとさせ、死者のように眠らせてばかりいるといった症状を引き起こすペーポーコマと呼ばれる憑依霊がいるが、その治療にもアリ塚の土とミミズが用いられる(*3)。クジム kuzimu そのものは別の文脈では怪物 zimu の棲むところともされるが、この場合は特に地下であるというふうには考えられていないようだ。(*4)

自らの子孫を残した者のみがコマになる。コマはそうした個々の死者に対応する固有名をもった存在である。子供の死者、未婚のまま、あるいは子孫を残さず死んだ者はコマにはならない。また人によっては「悪い死 chifo chii」、つまり癩病、結核、天然痘、全身の膨満、全身の開口部からの出血などで死んだ者も、コマにはならないと言う。彼らには埋葬後のハンガ(服喪儀礼)も開かれない。木からの落下、水死、事故死などの死者は、凶器によって死んだ者と同様、通常の埋葬を受けないし(*5)、その後のハンガも短縮されるが、子孫を残していればコマにはなる。

コマは災厄をもたらすという形で生者に干渉するが、無関係の他人に付きまとったりすることはなく、もっぱらその子孫のみがコマの標的となる。コマの干渉は系譜的なセニオリティの方向のみに起こる。死んだ父や母、祖父母のコマに患わされることはあっても、死んだ子供のコマ(たとえそれがすでに妻帯し子供をもった、つまりコマになりうる子供だったとしても)に患わされることはない。またコマは子孫のうちでも結婚した者にしか干渉しないという人もいるが、これは実態とは違っている。

コマに関する儀礼が行なわれるのは、墓場である。しかし遠方に墓のある死者のコマが頻繁に干渉してくる場合、小屋の戸口のわきにコマの棒 chigongo cha k'oma が据えられる(コマ自身がそれを要求した結果据えられるという場合もある)。こうしたコマが多い場合、しばしば屋敷内にコマの社 nyumba ya k'oma が建てられる。高さ1.5mほどの草ぶきの小屋で、なかには各々のコマを表わす木の棒 chigongo cha k'oma が地面につきさしてある。小屋の壁にそって、右側に父方、左側に母方のコマが並ぶことになる。コマの棒は、鶏などを供犠するだけでただ据える場合が多いが、ときには分墓の手続きを伴うことがある。二人一組で墓にでかけ、そこでコマに語りかけた後、墓から3ヵ所(頭部、胸部、足元)の土を取り死体を包む白い布に包んで持ち帰る。一行が屋敷に近付くと屋敷の女たちが号泣して迎える。30センチ程の深さの穴が掘られ、そこに白い布に包んだ土が「埋葬」される。その場で山羊が屠殺されその血が地面に突き刺された棒に注がれ、女たちは埋葬歌を歌い踊る。(*6)コマの棒やコマの社は、完全には墓の代用をつとめることは出来ない。しかし分墓が行なわれていれば、そこは儀礼的に完全に墓と同じ役目を果す。

コマの干渉は生者に対して常に災いの形であらわれる。家族の者の病気、家畜の病気や死や不妊、乳の出が悪いこと、結婚相手がなかなかみつからないこと、旅先での交渉事の失敗、妻の不妊、子供がろくな仕事につけないこと、その他人生におけるあらゆる企てがうまくいかないことは、すべてコマの干渉の結果でありうる。しかしありうるというだけで、必ずしも災いに際していつもコマが問題になるという訳ではない。それは潜在的な可能性である(*_WAZAWAI)。成人の死は、通常コマのせいにはされない。もっとも年齢の低い子供の死は、コマがその子供の両親に対して送りつけた災厄であるかもしれない。特定の災いがコマのせいであるかどうかは占いによって明かとなる。

コマの干渉は、コマの側に不満や満たされない要求があるために起こると考えられている。その要求の内容も占いによって判明する。コマはまた生者に直接コミュニケートして自らの不満や要求を伝えることもできる。コマは生きていた時の姿で夢にあらわれ、そこで直接要求を述べたり、その要求が何であるかを示すような振る舞いをする。よくわからない振る舞いの意味は占いによって判明する(*8)。コマは容易に欲求不満に陥りやすい存在であるといわれており、頻繁に飢えや渇きを訴え、衣服がなくては寒いと嘆き、あるいは太陽に照りつけられて焼けそうだと不満をもらす。コマの干渉は子孫の側に規範の違反などの何か落度があったために起こるというよりは、もっぱらこうしたコマの側での気紛れな欲望をきっかけとして生じる。

夢でコマの訪問を受けたり、特定の災厄がコマの干渉であることが明らかになると、小屋の戸口で、あるいはコマの社で、あるいは墓場でコマに対してクハツァ kuhatsa を行なう。コマの御飯、つまり一穂のトウモロコシを粉にし半分にわった瓢箪の容器(bebe)に入れて水で溶いたもの(ムヴア mvua と呼ばれる)を用意し、夕方小屋の戸口で、ムヴアを左手でつまんではコマに語りかけながらあたりに振りまく。あるいは墓場にでかけて、そこを整地し、ムヴアを撒きながら語りかけ、干渉をやめてくれるよう祈願するのである。コマの要求に応じて酒が用意されていることもある。空腹や渇きの場合ならこれで済むこともある。それ以上のことに関してはコマに対してその要求をかなえる旨約束し、とりあえず自分たちをほっておいてくれるよう頼む。コマの要求が家畜の供犠であるような場合、幼獣を墓につれていき、その耳を切って(父系のコマなら右耳、母系のコマなら左耳)この幼獣が成獣となった時に墓で供犠することを約束する。

コマの要求を最終的にかなえる場が墓場での供犠(サダカ sadaka)である。クハツァをした後も、もし相変らずコマの干渉が続く場合、あるいはコマの干渉が深刻なものである場合は、ただちにサダカが開かれねばならない(*9)。これには関係する範囲の親族全員の参加が求められる。誰が蒙った災厄がきっかけになって開かれるサダカであっても、それを主宰するのは問題となるコマの父系の子孫のうちの最年長の男性(通常は死者の長男)である。一晩夜を徹して太鼓が演奏され、明け方墓を整地した後、ムルングの布(紺色の一枚布、コマの衣服である)が墓の上に広げられる。墓標には紺色、赤、白の布の切れ端 chidemu が巻き付けられ、ヒマの油 mafuha ga nyono が塗り付けられる。次いで獣(山羊または牛)が屠殺されその血が墓に注がれる。肉はその場で水で煮られ、まず塩を加えずに料理した肉片がトウモロコシの粉でつくった団子とともに墓に捧げられる。男性のコマに対しては5つずつ、女性のコマに対しては6つずつ。これら一連の行為はその都度参加者一人一人によるコマへの語りかけを伴う。この後再び太鼓が演奏され残りの肉が参加者全員によって食される。

コマへの語りかけは常に声をはりあげてなされねばならない。コマにはっきり聞き取れるようにである。これは他に参加者のいないクハツァにおいても同じである。屋敷の外れの墓で男が一人で大声をあげてコマに語りかけている場に、私も何度か出くわしたことがある。

3.コマの性格

コマの性格を簡単に要約すると次の三点にまとめることができる。第一に、子孫たちに共通の祖先としてコマが取扱われているときには、コマは子孫を保護し導く者として(言葉の上だけにせよ)尊敬され、崇拝される。しかし第二に、コマが個々の成員にとって問題になっているときは、それはもっぱら厄病神の性格を帯びている。第3に、コマのこうした性格は、死者の生前の性格や子供との関係いかんによらず一定である。

3−1.祖先としてのコマ

「一定の系譜関係で結ばれた生存中の子孫をもつ」名前をもつ死んだ祖であるというフォーテスの「祖先」の定義に照していえば、コマは確かに「祖先」であるし、コマをめぐる祭祀は「このような祖先が、しかるべき範囲の子孫から彼のために特に行なわれる宗教的奉仕や世話を受ける」ものという祖先崇拝の用件を満たしている[3]。コマに対する供犠サダカにおいて、この祖先崇拝としての側面はもっとも顕著にあらわれる。

サダカは、その実施にあたって親族の結集と一致協力が要請される(それゆえ親族内部の不一致や対立が露呈する)数少ない機会であるのに加えて、親族間の紐帯と内部のセニオリティーの秩序が再確認される場でもある。サダカにおいて最初にコマに語りかけるのは、それを主宰する最年長者であるが、彼はその語りのなかで参加者全員を代表して子孫全員の繁栄を祈願し、多くの子孫を残したそのコマを讃える。開始の語りはきわめて短いものが多いので、その一例を以下にあげておこう。

『さて、あなた、お母さん。お話を始めるのは私です。でもやって来たのはAと(その妻)Bです。彼らがあなたに約束していた物を差し出しに来たのです。A、(その子供名は)ベンジンゴです(*10)。だからあなたのお父さんにほかなりません。今日やって来たのは彼です。ほらこいつです。さあさあ、彼があなたのお母さん(Aの妻Bのこと)と二人でこれから話すことに耳を傾けて下さい。Aはあなたのお母さんを手に入れたのですから。ベンジンゴのことはよく御存知でしょう。妻を一人しかもたなかったなんてことはありません。たくさんの妻をもっていました。そしてたくさんの子供。その一人があなたの夫に他なりません。さあ、今ベンジンゴがきてしゃべることによく耳を傾けて下さい。私はといえば、(子供名は)ベモセです。あなたはもちろんベモセさんのことは御存知ですね。私自身も、あなたがすでに御存知の問題を抱えてきているのですが、今日はAです。A、ベンジンゴです。でも彼はまだ肝心のンジンゴを手に入れていません。どうか彼にンジンゴを手に入れさせてやって下さい。今日ここにこうしてやって来たメンジンゴ(Bのこと)に子供を産ませてやって下さい。私は蔑ろにされているなどと言わないで下さい。ベンジンゴが今約束を果します。
私たちは困難の中にいます。どうしたらいいのかも分かりません。そもそも、ここに来られなかった者さえいます。やって来たのは末の弟のAです。Kも来ていません。Lも来ていません。Lに至っては、どこで暮しているのかも分かりません。でも、つつがなきことを。これこそ私たちが望んでいることです。私たちは皆のつつがなきことを願います。あいつらを捕えてやろうなどとは仰らないで下さい。自分はなおざりにされている、まるで子供を産まなかったみたいに、などとは言わないで下さい。とんでもありません。私たちはつつがなきことだけを望みます。
お母さん。私はこんな時間にお話しすることもなかったでしょう。Aのためです。彼はここへ来ました。彼には問題があって、それが彼をここにもたらしたのです。彼を解放して下さい。私たちはあなたを無視したりはしません。なぜならあなたは私たちを産んだのですから。そして死ぬ者は後に残す者です。でも今、あなたが後に残した者たちが死んでいくなら、この墓にしたって一体誰に整地してもらえましょう?今、私たちが願っているのはつつがなきことです。お母さん。あなたは前方の、確かな真実のなかに行かれた。私はといえば、いまなお後方の錯誤と蒙昧のなかにいます。もし人が願うなら、人は手に入れます。私はつつがなきことを願います。』(Sadaka,Sept.15,1991)

このサダカで語りかけられているコマはAの母C、語っているのはAの長兄Dである。参加者は、Aとその妻B、Dとその二人の妻、Dの二人の息子と3人の娘、Dの弟でAの兄であるMとその妻子、Aの妹Nとその夫、Aらの父の姉妹O、Aらの母方並行イトコP(女性)であった。語りの中で言及されているK、LはともにDの弟たち(Aの兄たち)である。

このようにサダカ開始の語りは、「死ぬ者は後に(多くの子孫を)残す者 afaye ni kusiya」「あなたははるか前方の、確かな真実のなかに mbere za haki いる。我々はいまなお後方の錯誤と蒙昧 nyuma za ubatili のなかにいる」「神の確かな真実 haki ya mulungu の中にいるあなたにはあらゆることが見えている」などの賛辞の決まり文句を含み、「つつがなきこと uzima 」を願う言葉で締めくくられるのが普通である。またここではコマが災を送った理由が、子孫の側での約束の不履行であるという形で述べられている。正義はコマの側にある。

このサダカの背景をもう少し詳しくみてみよう。Aはすでに40代後半であるのにまだ子供にめぐまれておらず、現在の妻Bも数年来病気である。AはBが病気になったとき、Bの不妊と病気が自分の母Cの仕業だとわかり、母に対してクハツァを行なっていた。母の要求である山羊を約束し、とりあえずBを解放してくれるよう頼んでいたのである。墓に一頭の雌山羊をつれていき、それが子供を産んだら生まれたその山羊を供犠すると彼は約束した。このクハツァにもかかわらず、Bは相変らず子供をもうけず、雌山羊も死に、Bの病気は一進一退を繰り返していた。そのためAはBに対して妖術や憑依霊の治療も試み、コマとの約束は放置していた。そうこうするうちにやがて、母Cが彼女の夫(Aの父、すでに死亡)と二人でAのもとを訪れ、Bが二人に野草をおかずに出そうとするとそれを拒み、肉を要求するという出来事があった。もちろん夢の中でのことである。Aはすぐ占いに行き、その結果Bの病気と不妊がやはりCのせいであり、数年来放置されたままになっていた約束の履行をCが迫っているのだと分かった。そこで今回のサダカという訳である。Cはまた自分の姉妹の娘Pに対しても肉の要求をして、災を送っていた。今回PはAの提供する山羊に便乗する形になっている。

つまり出発点はコマの側からいきなり災いとともに突きつけられた要求なのだが、サダカの時点では、コマが送り続けている災が契約の不履行を罰するものに性格をかえてしまっているのである。

サダカの開始の語りの中で祈願されている「つつがなきこと」についても一言述べておこう。この語りの中ではそれはあたかもコマが子孫に与えることの出来る積極的な何かであるかのように扱われている。しかし、ここで「つつがなきこと」と訳したドゥルマ語のウジマ uzima は、正確には「欠損の無い状態」を指すだけの言葉である。それはドゥルマの人々が日常の挨拶として言い交わしているように「何も(なんの問題も)ない kahuna utu」状態、災のない状態のことにすぎない。災はさまざまなもの、妖術、憑依霊その他によってもたらされるが、コマ自身もこうした災をもたらす存在の一つなのである。コマは災いが起こるのを未然にくいとめる形でそれを守ってくれるというよりは(*11)、自分で送っておいた災いを引っ込めるという形でウジマを回復させるのだと言った方がよい。ウジマを祈願することは、コマにそれが送っている災いを引っ込めるように依頼するのとなんら違いはないのだが、サダカの語りの中ではそれがコマが子孫に与える特別の恩恵であるかのように語られるのである。

この開始の語りに続いて、サダカの各段階ごとに、参加者は一人ずつ自分が抱えている問題を訴え、さまざまな願い、富や繁栄を祈願してゆく。

3−2.個人にとっての厄病神めいたコマ

サダカを開始するこうした口切りの語りに比べて、コマに干渉された人が個人的に行なうクハツァに目を向けると、そこで顕著に示されるのは生者にとってもっぱら煩わしい存在としてのコマの姿である。そこでは祈願も行なわれるが、強調点は「私たちをほっておいてほしい huricheni。これ以上私につきまとって、夢を見せないでほしい mutsinituwe, tsinilohese k'oma kahiri」という方に移動している。この引用はクハツァでどんなことを語るのかという質問に対して与えられる典型的な答えの一つである。実際にはクハツァは短いものでも10分近くの語りからなっており、そこではさまざまなことが語られるのであるが、要約するとこうなってしまうという訳だ。人々がコマに望んでいるのは、自分たちを繁栄させるために積極的に何かをしてくれるということよりも、自分たちに送りつけた災を引っ込め、むしろ何もしないでおとなしくしていてくれることである。ドゥルマの男たちが酒を飲む時に習慣的に行なうしぐさほどこれをよく示すものはないだろう。酒の最初の数滴を地面にたらしながら、「コマよ。眠っていて下さい。k'oma nazilale」と唱えるのである。占いに赴こうとする男は、出発に先立ってコマに語りかけるだろう。「誰それが病気で、これから私は占いに行こうと思う。もしお前であるのなら、今すぐ我々を解放してほしい。私たちにつきまとわないでほしい。」コマは大人しく眠っていてくれるのが最良なので、それがまちがって生者を訪問してきたりした日にはたいてい、ろくなことはないのである。

私はコマについてドゥルマの人々と話をする度に、それが如何に煩わしい存在であるか、それがどんなにしつこく夢の中で子孫につきまとうか、如何に子孫の生活を台無しにするかといったことばかり聞かされてきたので、いくつかのサダカに実際に参加するまでは、コマが、長島信弘が報告しているケニアのテソにおける「死霊」のような[7:363-368]、ただひたすら疎ましいだけの存在であるという先入観をすっかり植え付けられてしまったほどである。この先入観は、ある程度正しかった。

クハツァで人々がコマを説き伏せようとする際にも、その言葉遣いはしばしば分別のない人間に道理を説いて聞かせるような調子を帯びる。ある男は自分が結婚に失敗し子供が生まれないことが父親のコマのせいだとわかったとき墓で父親に次のようにくってかかっている。

「(前略)...今日占いに行って私を困らせているのがあんた、お父さんだと言われた。あんたは熟したハンガ(*12)を開いてもらいたがっていると。ええ?私が一体何をしたというのだ。私の結婚を妨げているのはあんただと言われた。どこの世界に独身者が熟したハンガを開けるだろうか。もしハンガを開いてほしいというのなら、まず私に子供を産める妻を手にいれさせるのが分別ではないだろうか。...(中略)...こうしてあんたの墓を整地するのは飽き飽きだ。あんたは自分の墓が水に流されると怒っている。誰がすき好んで川のほとりに埋葬するものか。あんたが水死したからじゃないか。私にどうしろというのだ。...(中略)...私の牛を不妊にし、(私が私自身の結婚に使えただろう)私の妹の婚資(の牛)をすべて殺してしまって、一体誰があんたのためにハンガを開けるというのだ。私以外にはいないのに。(以下省略)...」(Kuhatsa,Oct.11,1989)

クハツァでは一人でこんな調子で20分、30分と喋り続けることもざらである。

サダカにおいても自分の問題がコマによって引き起こされたとされている当の人たちは、コマを理不尽な干渉者として語る傾向にある。ある女性はサダカの席で自分の死んだ祖父に非難めいた口調で語りかける。

「(前略)...こんな状態が続くので、占いに行ったところ、何とお前の祖父の治療術 uganga のせいだと言われたわ(この祖父は生前呪医であり、そのコマが孫であるこの女性に自分の術を継承してもらおうと要求しているのだ)。でも私に夢も見せないでただ私の身体を苦しめるだけの治療術って、一体何なの(治療術の知識は夢で伝授されると考えられている)?私をほっておいて下さらない?ええ。近々(呪医に就任するための)儀礼を開いてもらう予定です。でももし私の病気が治らなかったら、あなたの言うことなんかもう聞いてあげるものですか。...(以下省略)」(Sadaka,Jan.24,1990)

振り返って、サダカやクハツァで積極的な繁栄が祈願されている場合に再度目を向けてみると、その多くが実に虫のいい、まったく非現実的な、おそらくそれをしている当人たちにとってもとても本気だとは思えないような願いであるのがわかる。「今日(サダカからの)帰り道で、前をこのカリンボ(ドゥルマでの筆者の名前)のような白人が歩いていて、財布を落とす。私はただそれを拾うだけ。金を手に入れる。そうしたら、私はなるほどあなただと納得するでしょう。」「お客さんが来て2シリング程のものをわたすと、200シリング支払ってくれる。...」「ブッシュに迷った他人の山羊がかってに私の家畜囲いのなかに入ってきてくれる。...」といった具合である。これらは論外としても、「私が女をみそめ、私が行って口説いたら、彼女が拒みませんように。彼女の父親も口出ししませんように。彼女がそのまま家に(妻として)やってきて、何の反対も起こりませんように。(婚資の交渉でも)私だけがしゃべり、彼女の父は一言たりとも口出しできませんように。これこそ私の願うこと。」といった調子の祈願は、これもかなり虫のいい願いであるが、ざらである。あまりに荒唐無稽で、まるでコマが子孫に幸福をもたらしうるという観念そのものを揶揄しているかのようにすら見える程である。コマに対する、自分たちに干渉しないようにという祈願の現実性と、それ以上の積極的な善を期待する祈願の非現実性のこの奇妙な同居。表面的にはコマを讃え、それに恭順の意を表明する機会であるサダカにおいても、その底には、コマを基本的には信頼のおけない厄病神であるかのようにみなす個々の人々のコマ観が見え隠れしているようだ。実際、もし仮にドゥルマで実際にコマが子孫に恵みをもたらしうる存在として考えられているとしても、人々がコマに祈願するのが、常にコマによってもたらされたなんらかの災厄に関してであるという事実は残る。人々は何の災いもないときに、単に幸運を祈願するためにのみ死者の墓を訪れたりはしないのである。

3−3.コマの抽象性

人は死んでコマになることによって、ある意味で生者に対して一方的なしかも実に強力な力を手に入れる。しかしコマが、子孫の幸福のためというよりも、もっぱら災いをもたらすという形で、その圧倒的な力を行使しているという印象は拭えない。しかもその力の行使は生者の側での過失に対応したものではない。あえて過失があるとすれば、それはコマの要求をかなえようとしないこと、それをかなえるという約束を破ることぐらいのものである。そしてその要求はたいがい気紛れなものと決っている。

こうしたコマの性格は、父のコマに限らず、母のコマについても、あるいは生前冗談関係にあった祖父母のコマですら同様である。たとえ生前は子供に惜しみなく愛情を注いでいた母親ですら、コマになると自らの自分勝手でしばしば理不尽ですらある要求を満たすために、子供たちに災をもたらす存在になる。より一般的に言えば、死者の生前の性格や子供に対する関係のいかんによらず、コマはコマに特徴的な仕方でのみ振る舞うのであり、その性格も個々の子孫にとっては同じ「厄病神的な性格」である。

フォーテスは、アフリカの祖先崇拝において「祖先」が生前のその人のひととなりとは無関係に一様に「祖先」としてしばしば懲罰的な性格をもっており、「おしなべて気紛れで、しかも多くの場合、恩恵を施すというよりは懲罰を加えるという形で、子孫の生活に介入して来る」[3:149]ことに気付いている。がしかし、「祖先崇拝は隣接世代を結ぶ法的関係のうち、権威に関わる要素のみを延長・表現したものだ」[3:144]という自分自身の結論にあわせて、この特徴を「権威というものは懲戒行為を通じて、より明確に表現されるのが普通であって、甘やかすことによってではない」[3:151]という説明で片付けてしまう。しかしドゥルマのコマの厄病神的な性格は、「権威を表現する」だけのためというには確かに度が過ぎている。

コマと子孫との関係は、具体的な生前の上下世代間の関係に加えられたある「抽象化」の産物である。しかしそれがどのような抽象化であり、なぜそれがコマに生者にとって煩わしい厄病神的な性格を付与するのかは、さらに検討を加えねばならない問題である。

4.コマと生者の連続性

4−1.関係的連続性

上下世代間の関係を特徴づける諸要素のうち、何がコマと生者との関係に引継がれているのであろうか。もちろん「保護−被保護」、「権威−従属」の関係がそこに含まれていることには疑いの余地がない。事実これはサダカにおける主宰者の公式な語りにおいて余すところなく表明されているものである。しかしドゥルマにおける死者の性格の転調を説明するには、これはいかにも不十分である。死者をもっぱら生者に対して災厄をもたらす存在にしてしまうのは、けっしてその法的な側面のみではないはずである。言うまでもないことだが、コマのこの性格を死者に対する恐怖から説明することはできない。コマになれるのは自らの子孫を残したものだけであり、けっして死者一般ではない。そしてコマにならない死者については災をもたらす力はないし、そもそもドゥルマにはコマ以外の形で存在するような死霊の観念がないのである。コマはこの意味で、あくまでも「関係的な存在」で、その相関項であるそれを祭る子孫とは独立に意味をなす観念ではないことに注意せねばならない。したがって、死者の性格の転調の説明は、何よりもこの関係自体の中に求めねばならないのである。

この点で手掛りとなると思われるものが、ドゥルマで上下の親族間に見られるとされるムフンド mufundo と呼ばれる観念である。フンド fundo はドゥルマ語で縄の結び目のことで、「心のしこり」といった訳をあてるといいかもしれない。もし父や母が子供の振るまいに腹を立てるとそれは子供に災をもたらしうる。これがムフンドである。ムフンドは、当の父や母に子供に災いをもたらそうという意図があるかどうかには無関係であるという点が特徴である。この点でムフンドは、父が自分のペニスを掴んで、母がその乳房を掴んで意図的に子供にかける呪詛(そこでは親子の身体的連続性が強調されている)とははっきりその性格を異にしている(*13)。ムフンドの災厄は生活全般に及ぶ。妻の不妊や、就職の失敗その他ありとあらゆる不運がムフンドの結果でありうる。

占いの結果父(や母)のムフンドが指摘されると、子供は(しばしば御詫びの山羊と酒をもって)相手のもとに赴き、占いの結果を告げ、クハツァしてくれるよう頼む。父は自分が心のなかでその子供に対して抱いているかもしれない不満や怒りをすべて思いだし、それをあらいざらい子供の前でぶちまけ、その後で「もはや自分には何もない(あるいは自分はそれらのことを何とも思っていない)」と宣言して自分の唾液(しばしば口に含んだ水とともに)をその子供の胸元に、あるいは問題の程度がひどい場合は直接相手の口のなかに、吹きつける。この手続きがここではクハツァと呼ばれている。

父と母のムフンドが最も頻繁に引きあいに出されるものであるが、ムフンドの能力はそれ以外にも上位の親族ならば皆備わっていると考えられている。また父のムフンドは父の代りに父の兄弟によって、母のムフンドは母の代りに母の姉妹によっても解除できると考えられている。兄にも同様な神秘力があるが、それはムフンドと呼ばれず、チャカ chaka と呼ばれている。兄弟が口もきかず、一緒に食事もしないような仲になると、兄の唾液が腹に下がって乾き、弟にありとあらゆる災厄をもたらすことになる。これはムフンドと同様クハツァによって解消できるとも、羊を屠殺して共食することによって解消できるとも言われる。同様に人々の間で意見は異なるが、夫も妻に対してムフンドを及ぼしうると言われることもある。

まれにクハツァを求められた者がそれを拒むこともあるという。それは特に父親である。婚出した娘に対する婚資の支払いが滞っていたある男は、娘の不妊が自分のムフンドのせいであると告げられた時、そのクハツァを拒んだ。それを利用して婚資の完済を促そうとしたのである。母親ならばいかなる理由があってもクハツァを拒みはしなかっただろうと人々は語っていた。通常は(そして私が実際にたちあったケースではすべて)ムフンドのクハツァを求められた者が示す反応は、軽い当惑に近い。思い当る節がないというのである。このような場合、相手に対する悪意のないことを示すためにクハツァはきわめて形式的なものとなる。「仮に自分がこいつに腹を立てたことがあったとしても、今の私には何もない」といって自分の胸に、あるいは相手に水を吹きかける。ムフンドはまさに当人の意図に反して生じることすらあるのである。

父(あるいは母)の存命中にムフンドが解消されずに終わってしまった場合、ムフンドはもはや解消不可能となり、子供はいわば死ぬまで呪われた状態になってしまう。この解消されずに終わったムフンドはもはやムフンドとは呼ばれず、ムコマ muk'oma と呼ばれるようになる。ムコマという言葉がコマと関係があることはいうまでもない。

ムフンドとコマの災厄は、それが作動する上下の親族関係においても、それにともなう災いの質においてもきわめて似通っている。ムフンドは、親族間の上下の法的関係においておそらくそれに最終的にサンクションを与える神秘的な制裁でありながら、それを発動する当人の意図を越えているという点で、その関係にたついずれの当事者にとっても同じく当惑となりうるものである。それは「意図的に」なされるクハツァによって辛うじて訂正のきく、「意図」によっては制御することの出来ない上下の親族の関係の一面なのである。

4−2.要素的連続性

第2節でふれたように、コマは死んだ人のキブリであると言われている(*14)。キブリは人間の構成要素の一つであり、その限りでは、コマと生者との直接の要素的な連続性を支える観念でもある。ここではこの観念について検討する。

4−2−1.人間を構成する諸要素

厳密に言うと、ドゥルマでは人間は西洋におけるように精神(あるいは霊魂)と肉体という二分法では捉えられていない。文字どおりの身体を意味する言葉はあるが(「身体 mwiri」)、これとても精神なき物質としての肉体といったものとは程遠い。ましてや身体とは区別される認識や行為の主体としての「精神」あるいは「霊魂」にあたる言葉に至ってはそもそも存在していない。それにもっとも近い言葉は「こころ」と訳すことも可能なロホ roho あるいはモヨ moyo という言葉であるが、これは「身体」と対立するものではなくその分離不可能な一部であり、文字どおり「心臓」でもある。ロホはその人の人柄や感情をになっている部分である。もう一つは我々のいう「分別」や「知性」にあたるものでアキリというのがある。「頭 chitswa」と結びついており、身体から分離不可能であることはロホと同様である。生命そのものは「息 p'umzi」と結びついているとされているが、これは死によって雲散霧消してしまう。(*15)

一方身体から分離可能な実体であるかのように語られるものもある。例えば、ノンゴ(nongo 文字通りには「垢、汚れ」)がそれである。ノンゴはその人の社会的評判や蓄財能力、体力などに関係しており、妖術使いは犠牲者の髪の毛や衣服、その他所持品を盗んでアリ塚やムズカ(*16)に隠すことによって彼のノンゴを奪ったり、逆に犠牲者に「悪いノンゴ nongo mbii」をつけたりして、犠牲者を攻撃する。悪いノンゴは儀礼的に洗い流されねばならないし、奪われたノンゴも儀礼的に取戻さねばならない。ノンゴはまた「匂い kungu」と結びついており、「よいノンゴ nongo mbidzo」は「よい匂い kungu mbidzo」、「悪いノンゴ」は「悪い匂いkungu mbii」と言われたりもする。しかし、「匂い」を奪われるといった言い方はなされない。

「キブリ chivuri 」もこうした分離可能な要素の一つである。死後、身体は腐ってしまうがキブリは残ってうろつき回ると考えられていることからすると、死んだ人間のキブリがコマと同一視されているるとしても、もっともである。

4−2−2.キブリ

キブリは人が眠っている間に身体を抜け出して、遠方まで旅することができるとされている。夢 ndoso, k'oma は眠っている間にその人のキブリが経験していることに他ならない。「お前は夢でお前の知っている誰それに出会うかもしれない。しかしお前が会っているのはその人そのものかって?お前が夢で会っているのはその人のキブリだと心得なさい。お前のキブリがその人のキブリに会っているのだ。」(data2890)

すでに述べたようにコマ k'oma が生者と交信するのも夢を通してである。コマの来訪はしばしばキブリの言葉で説明される。「死んだ父親のコマは、お前を追ってくることが出来る。今は昼間だ。こんなふうに見すえても、もし彼が来たとしても、お前は死んだ人を見ることは出来ない。しかしお前は夢で(k'omani)彼に会う。お前は人がやってくるのに会う。やってきてお前に挨拶する。「こんにちは。私は大丈夫(文字通りには「私には何もない」)。あなたの方は?」見るとそれはお前の父親そのものだ。そしてお前も挨拶を交わす。お前自身は眠っている。だからお前のキブリだ。そこに父親のキブリが出てきてお前に要求を告げる。お前がしかと聞きとどけるまで。やってきてお前に私はしかじかのものが欲しいと言う。」(data25, also data53)

しかしキブリを我々のいう「霊魂」や「魂」などと混同しないようにしよう。それは「霊魂」や「魂」のもつ中心性を欠いている。

ライカやシェラといったある種の憑依霊は、人からそのキブリを奪い、それを自分たちの棲処であるほら穴の中や水の中に隠すことによって人を病気にするといわれている。妖術使いもさまざまな方法で犠牲者のキブリを奪うことができる。良く知られているのがキブリの瓢箪 ndonga ya chivuri を使って犠牲者のキブリを呼寄せ、その中に閉じ込めるというものである。キブリが憑依霊や、妖術使いによって奪われると、奪われた人は病気になり、頭痛や悪寒、吐き気、関節痛などの症状を示すと言われる。しかしながら人は自分のキブリが奪われたことを自分から気付くことはまずない。場合によっては何年も気付かずに過したりすることさえある。占い師にキブリが奪われていると告げられることによってはじめて、その事実を知るのが普通なのである。奪われているのにそれに気付かれない霊魂とは一体何なのだろう。

キブリは、その人の「像」あるいは「影」のような形で具体的にイメージされている(*17)。鏡や水面に映った人の姿はその人のキブリである。物理的な影もキブリと呼ばれることがある。呪医はキブリの喪失による病気などの治療に、病人を日向に腕をひろげて立たせ、地面に映った影の頭部、両手両足の先の部分、心臓にあたる部分の土を一つまみずつつまみ取ったものを用いる。写真を撮るという行為に言及するのに文字どおり「写真を撮る ku-piga picha (英語の picture より)」という表現とならんで「キブリを取る ku-wala chivuri」という表現もしばしば用いられる。年配の女性たちのなかには、写真をとられることをこのことから嫌う者もいる。キブリは瞳(mwana wa dzitso 文字通りには「目の子供」)である、あるいはその中にあるともいう(*18)。人の目を覗き込めばそこに見えるともいわれる。呪医は患者のキブリが奪われているかどうかを、患者の目を覗き込んで判断する。ある呪医によると瞳に映っているのは覗き込んでいる自分の像(キブリ)だが、もし患者のキブリが奪われていたら、瞳に自分の姿が映ることもない、彼の顔の前で手を振っても瞳にはなにも映らないだろう、ということだ。キブリが破壊されると人間も死ぬと言われる。「キブリ切り」の妖術は、殺したい人のキブリを呼び寄せて切るという妖術で、妖術使いはどんな遠方の人間のキブリでも目の前の椀の水面に呼び寄せることが出来るとされている。水面に映ったその姿を妖術使いがナイフで切ると、犠牲者は即座に死ぬ(*19)。

これらの点から考えると、キブリはいわば、その人間の文字どおり「影の分身」のようなものだということになろう。しかしこのことはキブリの表象自体の性格をちょっとパラドクシカルなものにする。個々の人間の「像」のような存在相で考えられている限りにおいて、この表象は「イコン的 iconic」である。イコンと本体との関係は「隠喩的」である。しかし同時に、それは人間の構成要素でもある。それは身体の特定の部位(瞳)と結びついているとされるし(*18)、そうでない場合も身体の内部にあるとされている。憑依霊によって奪われたキブリを患者に返す儀礼では、瓢箪の中に入れて持ち帰られたキブリを、耳や鼻、口などの開口部から吹き込むしぐさによってキブリは患者に戻される。ここでは詳述する余裕がないが、そもそもドゥルマでは瓢箪はキブリの容器であり、キブリの容器としての身体の比喩を提供している(*20)。つまりこのキブリは人の一部分としても考えられており、この限りでは、キブリと人間との関係は「換喩的」であるということになる。つまりそれは同時に換喩的でもあるような隠喩的表象なのである。

キブリは人間の経験の中で周辺的な位置しか占めていない。人の活動が、精神的活動にせよ、行動にせよ、キブリによって説明されることはない。もし生きている人の経験の中でキブリが何か役割を演じているとすれば、それは夢の経験においてである。「夢のようだ」という言い方に露骨にあらわれているように、我々にとっては夢は「非現実」の比喩そのものである。しかしドゥルマでは夢は、我々がそう考えているように昼間の醒めた意識にとっての「現実」に対立する「非現実」ではなく、単に昼間の「現実」とは別のもうひとつの「現実」であるらしい。これは人々と夢の話をしているときにしばしば感じさせられる(*21)。ドゥルマの人々が報告するコマの夢の経験は実にリアルである。ある人が、「昨夜父が来て..」と事細かに来訪の様子や、あわてて食事の用意をするために山羊を捕まえに行ったこと、一緒に食事をした時にした会話の内容などを話してくれるので、実際のことであろうと聞いていたら、後になってそれが夢の話だったと知らされる、といったことは数えきれない。ときおり、その話の中で訪問者が両手を広げて空に舞上がったりするので、ああ、これは夢の話だ、と私の方では途中で納得したりもするのであるが、報告する人はあたかも見てきた事実の報告であるかのように淡々とそれを語るのである(*22)。

もちろんそれが昼間の現実と混同されたりすることはない。私から金を借りる夢を見たと教えてくれた人がいたが、もちろん彼はそのおかげで自分が豊かになったとは思っていない。また単にそれを面白がって話したのであって、この現実の私が借金に応じるだろうと思っていた訳でもないし、私から借金しようと思っていた訳でもない(と思う)。夢かどうかまぎらわしい話、例えば「昨夜ツチブタがやってきて、私が犬だと思ってこんな風にじっと見ると..」といった話が始まったときに、夢かどうかを確認しようと思えば、「本人は眠っていたのか mwenye ukala urere?」と聞けばよい。夢でなければ、「目覚めていたよ nakala ni matso」と答えてくれる。

もしこの境界が曖昧になるとすれば、それは憑依霊との遭遇譚である。はっきり昼間の現実での話とわかることもあれば、夢の現実であることがわかることもある。しかしそのどちらとも確定できない話も多い。昼間の現実での話とわかる場合でも、一人での目撃譚でない場合は常に「一緒にいた誰それには見えていなかった」という形のコメントがつき、その経験の特殊性が明らかになる。夢の現実と、昼間の現実の対比は、この場合、夜と昼、眠っているときと目覚めているときという対比であるというよりは、時空間のなかに境界線を引くことが出来ない二つの交叉する、しかし互いにはっきりと区別できる現実の対比という色合を帯びる。コマや憑依霊が可視的な存在として生きている夢幻のような現実と、人々が慣れ親しんでいるこの現実。

自分の息子の重病に関して、呪医から「お前の息子はモンバサから何をもって帰ってきたのか」と問われた父親が、息子に問いただしたところ、息子は「モンバサで一人の女性と会った。彼女はタバコを所望した。彼女にタバコをやって、マッチを貸した。マッチをすったときに見えた彼女の顔は真白で光っていた。彼女はそのまま消えてしまった。」と語ったという。彼の会ったのはどうもたちの悪いジネ系の憑依霊らしい。この父親からこの話を聞いたとき、私はこの青年がその出来事が起こったとき眠っていたのかどうか聞きそびれた。その青年が「現実に」ジネに会ったことは間違いなかった。そのとき彼が眠っていたのかどうかは、彼の父親にも呪医にもあまり重要なポイントではないようだった。

このもう一つの現実で起こったこと、そこで見たことは証拠的価値をもつこともある。二人の呪医が、ある憑依霊がイスラム系であるかどうかを論じていたとき、彼らは、自分が会ったときにはこんな格好をしていた、あんな格好をしていたということを互いに語りながら自分の説を主張しあっていた。彼らはいつどこで憑依霊に会ったというのだろう。しかしこの証拠は、もう一つの昼間の現実の問題についての証拠とはならない。夢で泥棒をはたらいたり、自分を殺そうとした人間を訴えたりすることはもちろん出来ない。しかしそれはその男が妖術使いであって、攻撃をしかけてきているのかもしれないという可能性を残す。コマの夢を除くと、すべての夢が深刻に受け止められる訳ではない。夢ではばかばかしいことが起こるものだと人々は認めている。「ばかばかしい夢 ndoso ya kuphuphaphupha」は、こちらの現実との関連性がない夢であるが、それでも実際起こったことだとは考えられている。夢は通常、実際に何か問題が起こったときに遡及的に問題にされる。

キブリとは昼間の現実における認識や経験の主体としての自己にとって、こうした別の現実に対応する文字どおり「影の分身」、パラレル世界における「私」であると言ってもよいかもしれない。しかしまさに影の存在として、それは昼間の現実における私とは似て非なる、夢の中での「私」である。その「私」は私が望んでもいないのに(夢の中で)、美しい女性(それは憑依霊であることがわかっている)と性関係をもったり、ブッシュの中をうろついたり、理解を越えたばかばかしいことをするかもしれない。しかし同時にその「私」は、さもなければ得られなかったであろう治療に必要な樹木についての知識を憑依霊たちから手に入れたり、憑依霊の喜ぶ新しい歌を教えられたりもする。身体の拘束を離れて自由に移動するこの影キブリは、昼間の自己にとってはコントロールできない影の自己、理不尽な欲望につき動かされうる自己の内部に巣くう一種の他者が昼間の現実の拘束からとき放たれた姿であるとも言える。

そうとられてもしかたがないような書き方であるが、私は別に精神分析学のアナロジー、自我と無意識の関係をそこに見ようとしている訳ではない。ただこうした事態を記述するための私の語彙が、きわめて乏しいというだけのことである。昼の意識に対応する昼の現実と、夜の、あるいは夢の、あるいは裏の、あるいは単に「別の」意識に対応する別の現実がある。あるいは、憑依霊やコマなどの存在が不可視であるような現実と、それらが目に見える形で活動している現実とがある。キブリもこの後者の現実の中で活動する。キブリが人間の「イコン的」像として捉えられているように、それが活動する「現実」も昼の現実とイコン的な関係にたつ、水に映った像のような世界、こちらの世界の「影」のような世界であると考えてみよう。しかしこの二つの現実は二つの別々に切り離された世界ではない。キブリがその本体である人間に対して、イコン的つまり「隠喩的」関係にたっていると同時に「換喩的」関係にたっているように、この二つの世界は一人の人の中で交叉しているのだ。こういえば幾分かは正確になるかもしれない。しかしいずれにせよ、昼の意識にとってこの「別の」意識は他者である。キブリはこうした自己の内部の他者についての表象なのである。

5.暫定的な結論

コマと子孫との関係に等価な関係が、上下の親族間のムフンドの関係であり、生者からコマへの転換を媒介するものがキブリであると考えてよいとすると、ドゥルマのコマの観念の特徴がいくぶんかは理解できるかもしれない。というのはムフンドもキブリもそれぞれ、上下の親族の関係に含まれる、あるいは自己の内部の、一種の他者性に言及しているように見える観念だからである。もちろんムフンドとキブリの二つの観念を結びつけるものは何もない。人々はムフンドがいかにして災いをもたらすことが出来るのかについて、一切の理論を持ち合せていないし、それをキブリと結びつけて考えてもいない。両者はまったく無関係であると結論してよいであろう。しかしそれぞれの領域で他者性を告知する二つの無関係な概念が、たまたまともにコマの概念の中で結びつけられているとすれば、それは考慮に値する。

人は死んでコマとなることによっていきなり、生きていたときには持ち合せていなかった途方もない力、災厄を送りつける力を手にいれる訳ではない。人は生きていたときから、自分では制御できない力としてそれを抱えもっていた。また人は死んでコマとなることによって、生きていたときとはまったく別個の存在になり、まったく別の世界で存在し始める訳でもない。それは生きている人間が自らの分身キブリを通して経験できる「別の」現実をひたすら生きる存在になる。死者の世界は生者の世界から完全に分離した世界ではない。死者の存在が、生きている人間にとっては等しく自分の世界であった二つの現実の片一方だけに限定されるだけのことである。死者は、白昼の醒めた意識にとっての他者、複数の意識を生きる自己が抱え込んでいた内部の他者になるのである。

コマが生きた存在の内部の他者性に言及する表象であるならば、コマについて考えられていることは、実際には生きている人間が自らの存在について考えていることにほかならない。コマの、ときに気紛れで貪欲で煩わしい性格は、実際には生きている人間が自らのうちに抱え込んでいる一種の他者性として見出しているものなのかもしれない。

冒頭で私は死者に関する表象が、生きている存在についての表象に加えられた比喩的表象操作の産物であると指摘した。互いが互いの変換になっているような二つの表象が、互いについて語るのは当然であろう。ドゥルマのコマの観念は、こうした表象操作の一つの在り方を示すものなのである。


註釈

(1)母系集団によって行なわれるキフドゥ chifudu と呼ばれる祭祀があり、今日ではほとんどキフドゥの病気と呼ばれる病気治療のみに関わっているが、これはあきらかに母系集団の側での一種の祖先祭祀の色彩をもっている。実際そこで管理されているキフドゥという名の壷には、一つ一つにその母系集団の祖先の名が付けられており、これをコマのようなものだと説明する人がいる。ただここでは、このキフドゥまでを考慮に入れて論じる準備が出来ていない。

(2) ドゥルマ語で ku-koma という動詞はスワヒリ語と同様の「止る」という意味の他に、「なる」の意味をもち、ku-komala 「成熟する、収穫可能になる」、ku-komaza 「熟成させる」などと関係がある。ただしこの動詞と k'oma との関係ははっきりしない。ドゥルマ語では k'oma は名詞として「夢」の意味もあり、形容詞としては「具合が悪い、調子が悪い」の意味もある。同じケニアの Mbeere における死者の霊の呼び名 ngoma はドゥルマの k'oma と同じ語源であるとも考えられる[4]。Mbeere では、死者の霊は生者の生活に災厄をもたらすという形でのみ介入する。

(3) ペーポーコマには二種類あり、一つは「池のペーポーコマ p'ep'ok'oma wa ziyani」、もう一つは「地界のペーポーコマ p'ep'ok'oma wa kuzimu」と呼ばれる。この霊は憑依霊の中でも上位の霊で、最高位の霊ムルングの別名だという者もいる。

(4) スワヒリ語では、muzimu は koma とともに死者の霊、祖霊であり、kuzimu は地下世界を意味する。

(5)死者は通常屋敷の敷地の外れにある墓地 chikuta に埋葬される。ただし第一子がまだ幼児のうちに死ぬと小屋の入口を入ったすぐの場所に埋葬され(戸口の墓 kabira miyangoni)、ハンガは開かれない。「悪い死」で死んだ者や事故死者なども、通常の墓地には埋葬されず、ブッシュなどに埋葬されるのが普通である(水死者は彼が水死した川辺りに埋葬される等、個々の場合の詳細は省略する)。ハンガはまったく開かれないか、期間が短縮される。

(6) 墓が極端に遠方である場合や、その位置が正確にはわからなくなっている場合屋敷から少し離れた涸れた川から石などを持ち帰って、同様な手続きで分墓することもある。

(7) 死がコマのせいにされることが原則的にはないという点を除いて、コマと特定の災いの結びつきはない。コマはいかなる災いをも引き起こしうる。しかし実際には災いの多くは憑依霊や妖術などとの関係で問題になることが多く、コマのみのせいにされることは稀である。災いに関与するものとしてコマに言及される場合の多くは、コマは他の災因に付随する形で問題にされている。つまり、妖術や憑依霊に対する治療の不成功の理由などの形で。一方交渉ごとにまつわる不首尾や企ての失敗の背後にはコマの干渉が疑われることが多い。

(8) 例えば死んだ父が尋ねてきて一緒に食事をして帰っていく。もしそこで肉が料理にだされていたとすれば、それは死んだ父のコマが自分のために熟したハンガ(*12)を開いてもらいたがっていることを意味する。このようにコマの要求は間接的であることもありうる。

(9)厳密に言うと、すでに「熟したハンガ hanga ivu(*12)」を開いてもらったコマのみに対してサダカを開きうる。熟したハンガがまだ開かれていないコマに対してはクハツァのみが行なわれることになる。かくして熟したハンガが開かれていないコマの要求は、しばしばこのハンガを開くようにという要求となる。

(10) 子供名というのは最初の子供が生まれたとき、その子供の名前にちなんで両親に与えられる名前のこと。例えば第一子がンジンゴと名付けられると、その両親の子供名はおのおのベンジンゴ、メンジンゴとなる。子供は、男なら祖父や、祖父の兄弟の名前をつけられる。このサダカのケースでは、もしAに最初に男の子が生まれれば、その子は自分の祖父の兄弟、つまりAの父の兄弟(それはAの祖父の第一子であった)の名前をとってンジンゴと名付けられる筈だということが背景にある。この場合、Aは子供名をベンジンゴ、Aの妻Bはメンジンゴになり、Aは自分の祖父と同じ子供名をもつことになる。Dがこのサダカの語りの中で、Aの母のコマに向って、Aのことを「あなたのお父さん」、Aの妻Bのことを「あなたのお母さん」と言及しているのはこのため。

(11) サダカのコンテクスト以外では、ある占いのなかで占い師が次のように述べるのを聞いたことがある。「そいつ(妖術使い)はお前に死んでもらいたがっていた。でもあなたがたのコマのお陰でね、それからあんた少しばかり防御呪術を施してもらっていただろう?あんたのコマはまだ前にたって(攻撃を)防いでいてくれている。さもなければ、ああ!とっくにあんたは死んでいただろうよ。」コマが積極的に与える保護について私が得た唯一の明確な言明である。

(12) ドゥルマでは死者に対する儀礼は大きく二つに分れる。一つは埋葬の直後に数日間開かれる「なまのハンガ hanga itsi」と呼ばれるもので、この期間はさまざまな日常活動(性交、水浴び、洗濯、掃除など)が禁止される服喪の期間でもある。ベッドの使用も禁止され、男女が分離して、男は戸外の木の下で、女は屋敷の小屋の周りで地面の上に寝起きし、夜毎に若い男女による歌と踊り(あからさまに性に言及する内容の)が催される。最終日に水浴びと洗濯がなされ、儀礼的性交が行なわれた後、この服喪は終了する。しかし、死者の近い親族はこの後も一定期間軽い服喪を義務付けられている。例えば、石鹸の使用や、特定の髪型(女性の場合)の禁止など。この禁止は「熟したハンガ hanga ivu」まで続く。熟したハンガは埋葬の数ヶ月後から数年後に開かれるが(残された親族たちの経済状態に依存する)、きわめて祝祭的な性格の濃い儀礼である。その終了後死者に財産があれば分配され、未亡人の相続が行なわれる(死者が男の場合)。

熟したハンガがすむまでは、サダカは開くことが出来ず、コマの干渉に対してもクハツァすることしかできない。熟したハンガを開くことはコマの最も執拗な要求の一つである。ハンガは死者に対して子孫の果すべき最も重要な義務の一つであると考えられているだけでなく、それを何時までも開かずにいることはコマに干渉の絶好の口実を与えることになるので、この意味でも、人々は出来るだけ早期にハンガを済ませてしまおうとする。熟したハンガが終了してはじめて正式なコマ祭祀であるサダカが行なえるというこの構造は、この熟したハンガがアフリカの他の地方で見られるような、死ぬことによって社会から排除された存在になった死霊を、再び祖先として迎え入れるための儀礼に当るのではないかと推測させる[9]。しかし少なくとも今日のドゥルマでは、熟したハンガの前と後とで死者のステータスが変化するという観念は見られないし、ハンガの前の存在を、それ以降の存在と区別してよぶ呼び名はない。ともにコマである。またハンガ前後でコマの干渉の頻度に著しい違いがあるということも言えない。

(13) 「意図的」に正確に対応するドゥルマ語はない。近い言葉として kasidi がある。これは「やむなく、運悪く、成り行きで」などと訳せる zani と対立する言葉で、「意図的に、わざと」などと訳すことも出来るのであるが、その本来の意味は、「事の成り行きから判断して納得できる振る舞いから外れているさま、その状況で適当と思われる振る舞いから外れているさま」である。親族からの援助の要求を、自分にそれが出来る余裕があり、またそうすべき立場であるのに断わることは kasidi であるといわれる。「カシディなやつ mutu wa kasidi」というと「無礼者」のことになる。かくして「意図的に」殺人を犯しても、つまり殺してやろうと思って殺しても、成り行きからやむをえない、あるいはもっともだとなれば、それは kasidi にはならない。zani である。この意味ではムフンドが kasidi でないのは当然である。子供が両親を怒らせるような振る舞いをしたことはたしかなのであるから。また「彼にはそのつもりはない」の意味で kana neno rorosi. (何も言葉はもっていない)という言い方も用いられるが、mufundo の場合は、たしかに心の中に怒りの言葉 maneno があるのであるから、もし neno がなければムフンドも働かないはずだということになる。私がムフンドが意図的でないといったのは、人々の次のような発言に基づいている。「お前が母に kasidi な振る舞いを重ねれば、母は怒る(悲しむ)ku-shononeka。そうするとムフンドはお前を捕える。彼女がお前が苦しむようにと欲しているかって? unahenza ukale usirime? とんでもない。たとえ彼女がいやでも hata kala kenzi、ムフンドは捕える。」実際本文でも書いたように、ムフンドがあると指摘されても本人には思い当る節がないことも多い。カヤンバでの次のやりとりがいい例である。娘のカヤンバで、娘がなかなか憑依状態にならないのが父親のムフンドのせいだとされた。

父「でも俺はこいつと喧嘩したことなどない」
呪医「たとえ冗談で彼女がいった言葉でも、それが本当だったりすることがある。お前は冗談だと思って(忘れるが)、お前の心は悲しんでいる。」
女「たとえ、喧嘩したことがなかったとしても、そいつ(父のこと)には言葉 neno がある。彼に話させた方がいい。」
男「皆こんなに努力しているんだ(患者を憑依させようと)。夜になっちゃうよ。」
父「でも何をしゃべればいいんだい」
呪医「お前がもっていることさ。何をしゃべればいいんだもないだろう。私はお前の腹の中にあるものを出して欲しいだけさ。私は患者を治療して、患者に治ってもらいたい。私はムフンドのある患者は治療したくない。」
父(喋りだす)「私は喋るべきことは多くない。もしこの子の問題がなければ、そのままにしておいたことだろう。この子は...」(自分の娘がいつも不満ばかりいっているのを快く思っていないことについて喋っていく)

(14)私は一応、多くのドゥルマの人々にしたがって、コマを生者のキブリの死後の存在だとしておく。しかし、コマはコマであってキブリとは別だと主張する人々の存在も指摘しておきたい。事実、「人は死ぬとコマに変る mutu chikala udzefa, undagaluka k'oma」という言い方のなかには、キブリをさしはさむべき余地はない。それにもしコマがキブリそのものであるとすれば、何のためにコマと呼び変えるのかという疑問も生じる。「コマはキブリである」という説明は、コマを分かりやすく説明するためにもちだされた二次的説明なのではないかと私は疑っている。しかし多くの人々が生者からコマへの変容について考える際に、そこにキブリの概念をもちだしてくるという事実そのものは、それが二次的説明であるにせよ、考慮せねばならない。

(15) これらの点に関しては、ドゥルマは明確な教義の形で表明することはないし、後述のキブリを除くと、しばしば人によって意見も異なっている。例えばキリスト教に改宗したものは、ロホが死後天に登っていくのだと語る。誰でもが分離可能で死後も存続すると考えているキブリではなく、通常分離可能な実体としては考えられていないロホが救済の対象として教えられているのは興味深い。

(16) 憑依霊の棲処と考えられているバオバブの大木の空洞や、岩穴などで、人々は降雨や健康などを祈願することが出来る。ムズカに祈願し、願が成就したときはすみやかにムズカに借りを返さねばならない。借りを返すには米の飯と白い雄鶏の供犠が普通である。

(17) 「影」、「像」が人間の重要な構成要素であり死後も存続するとする観念はバントゥ社会においてはけっして珍しくない。祖先崇拝の対象になる「祖先」とこの「影」の関係は、社会ごとに一様ではない。古い資料だけでも、例えばズールーにおいては、生前には「影」であったとされる死者の霊 itongo は、やがては祖先として崇拝の対象になるとされているが[9]、アシャンティにおいては「影 samau」は、祖先崇拝の対象となる霊魂 kra とは区別される[6]。バンバラではこれが逆になり、死後「魂 ni」は水に帰り、「影 dya」が祖霊となる[2]。
ドゥルマでは正確には「物の影」はキブリブリ chivurivuri と呼ばれるが、キブリとの言語的関連は明らかである。

(18) 瞳がキブリであるというのはキブリについての文化的知識の一部ではあるが、これについては懐疑的な意見も多い。瞳が夜中に飛び出して行くなんて、という訳だ。瞳とキブリの結びつきは、反射像を結ぶという瞳のもつ性質に由来するどちらかと言うと比喩的な figurative ものであろう。しかし、疑問の余地があるとはいえ、キブリが身体の特定の部位と結び付けうると考えられていること自体は認めざるをえない。

(19) 私にはキブリを破壊してしまうという観念は、キブリをコマと結びつける理論と矛盾しているように思える。というのはこのようにキブリを切られて死んだ人も、コマにはなるからである。この矛盾を指摘しても、人々はあまり気に止めないようである。私が人々の「コマはキブリである」という理論を保留つきでしか受け止めてないのもこうした細部の矛盾によるところが大きい(*14)。

(20) 「瓢箪=キブリの容器としての身体の隠喩」については別の論考で扱うことにしたい。もちろんここで身体というのは、精神なき物体としての身体の意味ではないことは、くどいようだが繰返しておきたい。「心 roho」も「知性 achiri」も備えた身体、つまり人格性をもった身体のことである。

(21) アフリカの他の社会でも同様なことはよく報告されている。例えば[7:390-392],[5:151-152]。また夢と「影」に関する岡崎の優れた議論も参照のこと[8]。

(22) 夢は「見るもの」、「見せられる何か」としてもとらえられている。コマや憑依霊が悪い夢 k'oma mbii を見せるといった言い方がされるとき、そこで使われているのは使役動詞(causative)ku-lohesa であり、自分が一つの現実の中にいるという意味合いは薄れているように思える。それとも ku-loha を「夢を見る」、ku-lohesa を「夢を見せる」と翻訳することの中にすでに翻訳の誤りがあるのだろうか。

参考文献

[1] クリステヴァ, J., 1984, 『記号の生成論・セメイオチケ 2』(中沢新一他訳)せりか書房.

[2] Dieterlen,G., 1950, Essai sur la Religion Bambara, Paris.

[3] フォーテス,M., 1980, 『祖先崇拝の論理』(田中真砂子編訳), ぺりかん社.

[4] Glazier,J., 1984, "Mberere Ancestors and the Domestication of Death", Man (NS)Vol.19(1), pp.133-148.

[5] 小馬徹, 1982, 「キプシギス族の再受肉観再考」 社会人類学年報 Vol.8,pp.149-160.

[6] Meyerowitz,E.L.R., 1960, The Divine Kingship in Ghana and Ancient Egypt, London.

[7] 長島信弘, 1987, 『死と病いの民族誌:ケニア・テソ族の災因論』, 岩波書店.

[8] Okazaki,A., 1986, "Man's Shadow and Man of Shadow; the Gamk Experience of the Self and the Dead,", In M.Tomikawa ed. Sudan Sahel Studies II, pp.139-206 .

[9] Petterson,O., 1953, Chiefs and Gods, Lund.