行為の記述 : 象徴性の一般理論へ向けての試論:関係概念精緻化のための中間考察(1)

1.はじめに

我々の経験は常に、しかじかの性質を具えたモノについての経験として成立している。あるいは我々の経験する世界は、各々が固有の性質を具えたこうしたモノから構成されている。もちろんこれらのモノたちは、けっして互いに独立に、無関係に存在している訳ではなく、相互に関係しあっている。こんな風に我々は通常語っているのではないだろうか。

ソシュールは、こうした見方が、少なくとも言語に関しては維持し得ないことを明らかにした。言語を構成するモノたち、つまりその諸単位は、けっして各々がそれ固有の性質を具えた自存的な項ではない。

音韻体系を例にとって考えれば、彼の主張はほとんど疑いの余地のないものである。例えば、我々は日本語には「あ」という音があると言うが、ではそれは一体どのような音かと考えて、ソプラノで発声されたり、ダミ声で発声されたり、さらには蚊の鳴くような声で発声されたりといったありとあらゆる「あ」の音を集めてその特徴を明らかにしようとしたとしよう。これが「あ」の特徴だと言えるような音声的特徴を取り出すことはほとんど不可能であるに違いない。こうした無数の「あ1」「あ2」...「あn」が同じ「あ」の音であると言えるのは、それらすべてに共通する何か具体的な音声的特徴のゆえにというよりは、それぞれのコンテクストで「あ1」が「い1」や「う1」等々に対してもつ関係、「あ2」が「い2」や「う2」等々に対してもつ関係、「あ3」が「い3」や「う3」等々に対してもつ関係などがすべて同じであるということによっているのである。「あ」とは何か自存的な項のようなものではなく、こうした対立の体系内の位置にすぎない。一つの「あ」という音がある訳でもないし、かといって無数の「あ1」「あ2」...「あn」があると言うだけでも不十分である。実際にあるのは、一つの位置、こうした無数の<あi>が単に他の位置を占めることができないというまさにその理由で占める一つの位置があるだけである。

言語の音韻体系にとって、真に本質的なことは、関係と、それが要請する体系内の位置の配列のみである。体系の要素つまり音素とは、あたかも何物かによって充当されているかのように思念された、体系内のこうした位置のことに他ならない。

こうした見方はなにも音韻体系に限らず、我々の経験するあらゆるモノについても「基本的には」適用可能な見方である。私は「意味」を、より正確には「意味」による語りを問題にする過程で、この関係論的視座に言及するに至った。あるモノの「意味」が問題にされる際に問われているのは、そのモノが置かれているところの関係性、そのモノを「何か」たらしめている関係性そのものであり、「意味による」語りは、それを問いかつそれにけりを付けようとする語りだというのが、前稿における一応の結論であった。

我々がモノの経験であると思っているものが、実は、関係の経験であったのだと指摘するだけでは、しかしながら、いささか無責任の謗りを免れまい。この見方は、世界をそれぞれ固有の性質を具えたモノからなるものとし、次いで、あるモノと他のモノとの間に結ばれた関係をそれらモノに固有の性質によって説明するという実体論的な世界の見方を清算し、ほとんど180°ひっくりかえった仕方で世界を見るように我々を促している。しかし、それは本当に実体論的な見方に匹敵するような代案となり得ているのであろうか。

音韻論という比較的限られた領域においては、たしかに関係論的見方が実体論的見方に完全にとって代ることに成功している。しかし同じ見方が「原理的」には適用可能なはずの他の領域についてはどうだろう。そこでの成功はどんなに多めに見積もっても部分的なものでしかない。実際、それは実体論的な見方の足をすくう以上のことは何もしていないと言えるくらいである。たしかに実体論的な見方はもはや維持できそうにない。しかし、それにとって代るには関係論的見方における「関係」という言葉そのものが、いまだ十分に精緻化されているとは言い難いのである。

まさか言語学での成果に気をよくして、「差異」と「対立」ですべてを語るという訳にもいくまい。言語学においてすら、音韻論より上のレベルが問題になるや否や、たちまち同様の困難に直面するのである。構造主義についてあるアメリカの人類学者が言ったことを思い出す。彼は皮肉たっぶりに「構造主義者とは構造について語ることをもっとも苦手にしている人々だ」と言った。構造主義者たちは構造、構造と言いながら、二項対立の構造以外について語るすべを何ももっていないらしいから、というのがその理由であった。

さて、以下で展開する論考において、私はこうした状況をいくらかなりとも打開する方策を探ろうと考えている。それはほとんど暗闇に向って銃を乱射するような作業となろう。もちろん手掛りは多くの人によって提出されている。それらを検討することから始めることにしたい。

2.関係論的視座の問題点

その前に一つ確認しておきたいことがある。

関係論的視座は、しばしば「関係の一次性」という形で主張される。関係が項に、体系がそれを構成する要素に、あるいは全体が部分に先立つという訳である。たしかにあるモノを「何か」にしているのは、それが置かれているところの関係性そのものである。しかしこのスローガンは、それをあまりに無邪気に主張しすぎると自らを背理に引き込んでしまうような困難を抱えている。

もしこのスローガンに忠実であろうとするなら、我々は項について語る代りに関係について語らねばならないということになる。しかしそんなことが可能だとでもいうのだろうか。そもそも関係とは結局何かと何かのあいだで問題になるものである。何かと何かの間にあると言えないような関係といったものを、我々は考えることはできないし、また関係は何かと何かの関係としてしか示すこともできない。たとえ、その何かが抽象的な数学的表記であったとしてもである。項を度外視して関係それ自体について語ったり、比較したりできると考えることなど、もとより無理な相談なのである。関係は項に先立ち、それを規定する。一方、関係は、そうした項と項のあいだの関係としてしか見て取れないし、示すこともできない。

この一見したところのパラドックスは、しかし単に見掛け上のものである。それは両者の関係を一種因果的な形で語る語り口によって生み出されたものにすぎないからである。この語り口は、例えば項から関係へ、あるいは関係から項へ、という繋がりを別々に切り離して問題にする際の、言わば便宜的な語り口であり、強調したい繋がりをわかりやすく説明するにはなかなか好都合である。それを方便と知りつつ採用すること自体は、とりたてて非難すべきことではないかもしれない。しかし、それは本来そうした語り口で語るのにむいていないものを、因果的な語り口で語ってしまうという点で、根本的には誤ったものであることを忘れてはならない。

実際には項と関係のいずれも、他方に対して「先立って」いたりする訳ではない。「〜から〜へ」という形で語ることなどできはしないのである。項と関係を、互に相手を規定しあう二つの契機として捉えることですら、実は既に誤りである。両者は分離不可能なものだ。この点を正確に押えておこう。

我々がある何か(項)を経験しているというとき、我々は同時に、それが置かれているところの関係性を経験してもいる。我々が何か黒いものをみているというとき、我々は同時にそれと他のさまざまな色との対立の関係も見ている訳である。というよりも、むしろこうした対立の関係を見て取っていることが、何か黒いモノを見ているという事態に他ならないのである。そして逆に、こうした色の対立は、その何か黒いモノと他の何かとのあいだの関係としてしか、見て取られてはいない。つまり関係の経験は項の経験としてのみ成立する。項を経験することが即ち関係を経験することであり、逆に関係を経験することが即ち項を経験することでもあるのである。項と関係はそれぞれ別個に経験されたりするものではなく、常に表裏一体なのだ。同時に項の経験ででもないような関係の経験などあり得ないように、関係の経験でもないような項の経験といったものも同様にあり得ない。当たり前のことである。

したがって、関係が項に先立つという「関係の一次性」のテーゼは、項を何か自存的な実体と考え、関係をこうした自存的な項が形作る二次的なものと見做す、我々の間ではなお根強い実体論的視座を、修正する一つの方便であり、けっして字義通りにとるべき主張ではない。対他的な関係を度外視した自存的な項を考えることが一つの背理であるとすれば、逆に項を度外視して関係のみを考えるというのもほとんど不可能なことである。関係性の概念を精緻化するために、関係について語ろうとする際に、それをなんらかの項と項とのあいだの関係として語ることは、したがって避けられないことであるし、またそうしたからといって「関係の一次性」の主張と矛盾する訳でもないのである。

3.行為の複数記述とアンスコムの "Intention"

前稿で、私が好んで取り上げてきた「復讐」や「右手を上げる」といった行為の例と、それについて述べたことをもう少し詳しく考え直してみよう。色や音、イヌやネコといった一見単純なモノの場合と異なり、行為において問題になる関係は、明らかに単なる差異や対立の関係に尽きるものではない。あえてこの「複雑な」ケースから始めることは、単に後に展開する予定の儀礼論とのからみにおいてだけではなく、関係論的視座をソシュール的な構造主義から一歩脱皮させる意味でも、無駄なことではないであろう。

アンスコムの100頁にも満たない小著 "INTENTION" がこの点で一つの重要な手掛りを提供してくれる。そこで論じられているのは「意図的行為」の問題である。動機や目的などと並んで、「意図」はしばしば特定の行為に先立つ、その行為の原因として語られたりする。ある行為を行なおうとする意図がその行為を引き起こすのだという訳だ。「意図」によって行為を説明するこうした語り口に、はたして根拠はあるのだろうか。彼女がこの著書の中で検討する問題はこれである。この問題そのものは、我々の差し当たっての議論に直接関わりが無いように見えるかもしれない。実際は大いに関係があるのだが、今はそれを詳しく論じるのは止めよう。より直接に関係するのは、この問題を論じる過程で彼女が採用する「行為の複数記述」という観点である。

彼女はいかなる行為の記述も「複数」あり得るという認識から出発する。「一つの行為に、例えば、『板を鋸で挽いている』『樫の板を鋸で挽いている』『スミス氏の板を鋸で挽いている』『鋸でキーキー音をたてている』『多量のおが屑を作っている』、等々と多くの異なる記述を与え得る。」(Anscomb 1957:6 引用はパラグラフ番号) あらためて言われるほどのことではないかもしれない。しかし、実はここに重要なポイントがある。これらの記述はどれ一つをとっても誤っているとはいえない。いずれも、その行為の記述であるという資格を等しく主張できるように思えよう。とすると我々は次のことを認めざるを得ないことになる。つまり、ある行為そのものであると言えるような、ある行為について「それはまさにしかじかの行為である」と言えるような特権的な唯一の記述などというものは存在しないのではないかということである。同時に、「我々はある行為をある記述の下では知っているが、別の記述の下ではそれを知っていないかもしれない」ということになる。(ibid.)

これが「意図的行為」の問題を解く鍵となる。人々はある行為についてそれが意図的であるとか、そうでないとか、まるで「その行為そのもの」について問題にし得るかのように語っている。しかし意図的であるとかないとか言えるのは、特定の記述の下で捉えられた行為について、そう言えるだけなのである。彼女によると、ある行為、例えば「板を鋸で挽いている」行為が意図的であると言いうるのは、当の行為者自身がその記述の下でそれを知っているかどうかの問題である。「板を鋸で挽いている」という記述の下ではそれを知っているとしても、「多量のおが屑を作って床を汚している」、あるいは「キーキー音をたてて周囲を騒音で悩ませている」という記述の下ではそれを知らないとすれば、そうした記述の下ではそれは意図的行為であるとは言えない。その行為がその下で捉えられているなんらかの記述を別にして、行為そのものについて、それが意図的であるとかないとか言うことには意味がないのである。

ある意味では当たり前のことである。「板を鋸で挽こうとは思っていたけれど、床をおが屑で汚す積りはなかったんだ、」あるいは「騒音で迷惑を掛ける積りはなかったんだ、」と言い訳する人に対して、「でも君のやった行為は意図的行為だったはずだ、君は自分の意志でそれをやっていたのだから」と非難したとすれば、これは明らかに不当な非難だということになろう。行為がその下で捉えられる特定の記述を抜きにしては、行為は意図的であるともないとも言えないし、逆にそれがどのような記述の下で捉えられているかによって意図的であるともないとも言えるということになる。このような性格をもった「意図」あるいは「意志」なるものが「行為」の原因の資格をもてないことは明らかであろう。

では行為の「意図」について言及するということは一体どういうことなのであろうか。それが、その行為の原因を示すことでないことは、以上の通りである。「意図」について語ることは、その行為がまさにその「意図」として明らかにされた特定の記述の下で眺められるべきであり、それ以外の他の記述の下では眺められるべきでないことを明示することに他ならない。つまりそれは行為の記述を指定することなのである。「意図」について語ることは、「動機」について語ることと同様、「『その行為をこの光の下で眺めよ』といったこと」であり、つまりそれは「その行為をある光の下に置くことである」(Anscomb op.cit.:13)。

4. 同じ行為?の記述

この議論が「意図」については、きわめて説得的な議論となっていることは確かである。しかし一つの点で徹底さを欠いている。いかなる行為にも複数の記述が存在するということがこの議論の出発点であった。いずれの記述もその行為について特権的な地位を主張することは出来ない。これが議論の要である。しかし、この「同じ行為」にさまざまな記述を与えうるという言い方そのものの中に、この議論の最大の問題点がある。つまりあたかも個々の記述とは独立に、異なる記述の下でそれぞれ異なったふうに捉えられることになるところの単一の「行為そのもの」といったもの、自己同一的な所与としての行為自体、があるかの如く議論が始まっているのである。異なる記述がそれに与えられるところの「同じ一つの行為」とはいったいどのようなものだろう。さまざまな記述の下に捉えられることを待っている、しかしそれ自身は未だいかなる記述の下でも捉えられていないような、そんな行為を考えることが出来るだろうか。

アンスコムの結論自体は、そうした「行為そのもの」なるものが没概念であることを明瞭に示している。というのは「意図」、「動機」、「目的」などといったおよそ行為について語る際の諸々の概念が、なんらかの特定の記述の下で捉えられた行為との関連においてしか意味をなさない概念であるというのが、彼女の結論なのであるから。いかなる記述の下でも捉えられていると言えないような「行為そのもの」については、それが意図的であるとかないとか、その動機が何であるかとか、その目的が何であるかとかを問題にすることが出来ない。逆にいえば、人がある「行為」について問題にしているとき、彼は常に、なんらかの記述の下で捉えられた行為を問題にしているということなのだ。いかなる記述の下でも捉えられていないような「行為そのもの」など、単に没概念なのである。

しかしもしそうだとすると、この結論がまさにそこから導き出されたところの「同じ行為に複数の記述を与えうる」という問題構制自体がかなり疑わしいものになってしまうのではないだろうか。

それ自体はいかなる記述の下でも捉えられているとは言えないが、可能なすべての記述の結節点である自己同一的な「行為自体」。結局我々は、前稿でも触れたフッサールの空虚な「対象x」や、記号とその解釈項の関係を根拠付けるパースの「対象」などについて認めた問題と同じ問題に直面していることになる。

何も殊更に話を難しくする必要はないと言い出す人もおられるかもしれない。目の前で一つの行為が進行中である。「その行為」について異なるさまざまな記述を与えることができるというだけの事ではないか、という訳だ。あいにく、この現物を前にしてそれについて語るという場面が、実際にはそれほど単純なものではないことは、パースの対象概念を検討した際に、その一端に触れておいた。しかし今は、そのことについてはくだくだしく述べるまい。現物を前にしているときには、話が簡単だと言うのならそれでも良いとしておこう。問題は、「今」が現にそうした場面ではないと言うことだ。私の前にはアンスコムの一冊の本があるだけで、鋸をもった人物など居はしない。にもかかわらず、私は「板を鋸で切っている」、「樫の板を鋸で切っている」、....「多量のおが屑を作っている」「騒音で周囲を悩ませている」等々の記述が「同じ一つの行為」についての記述であると納得してしまっている。これら異なる記述がすべてその記述になっているところの「その行為」とは、一体どの行為のことなのだろう。少なくとも私の目の前ではいかなる行為も展開されていない。「板を鋸で切っている」と記述された「その行為」が「騒音で周囲を悩ませる」行為でもある、と私が述べるとき、私は「その行為」という言葉で、現実のどの行為をさしている訳でもないということになろう。自己同一的な行為そのものが所与として私に与えられていて、それを根拠にして私がこれらの記述が等価であることを納得している訳では、少なくともないのである。

さて私がまず「板を鋸で切っている」という記述を目にしているとしてみよう。この段階では私はその板が樫であるか、桜であるかといったことについて何も知っている訳ではない。にもかかわらず次の瞬間、アンスコムが書いたその侭に、私は「樫の板を鋸で切っている」という記述がそれと等価であると認めることになる。両者が同じ行為の異なる記述であるということを承認してしまっているのである。一体何を根拠に私は両者が等価であることを認めたのだろう。もちろん前以ての根拠など何もなかったのである。「騒音で周囲を悩ませている」というのに至っては、問題外である。少なくともアンスコムがそう書いているのを読むまで、私は「板を鋸で切る」という行為が「騒音で周囲を悩ませる」ことと等価でありうるなどと考えてみもしていない。しかしそう書かれているのを読むや否や、たしかにそのとおりだということになってしまうのである。この場合もちろん、この両者を等価な記述として認めるための根拠を前以てもっていた訳ではないことは明らかである。

ところで現に行なわれているところの行為をもちだすことの出来ないこのケースについて、読者は実際の行為の代りに、「板を鋸で切っている」という記述の理念的な対象、あるいは概念としての行為にこの等価性の根拠を求めようという気になっているかもしれない。しかし、それはいったいどのようなモノなのであろうか。そこに等価性の根拠が在るというからには、そういった概念なり理念的対象なりのなかに、「板を鋸で切っている」行為と等価とされる行為の概念が前以て含まれていたとせねばならない。「板を鋸で切っている」行為として語られるこうした理念的な対象、概念としての行為なるものが含んでいる筈のものを、今のうちに十分に考えてみるようお勧めしたい。さて、読者に準備ができたところで、私は「子供の滑り台を作っている」という記述を提出する。これもその「同じ行為」についての記述なのだと言ったとすれば、認めざるをえないだろう。しかし読者の想定された理念的な対象に子供の滑り台の製作が含まれていたかどうか、私は疑問に思うがいかがだろうか。もちろん次のように反論する読者もおられるかもしれない。たしかに「子供の滑り台の製作」という形では含まれていなかったが、「何かの製作」という形では含まれていた。したがって、その「何か」にあたるところがどのような具体的な製作物によって充当されようと、それは問題ではないと。では「子供の滑り台を作っている」という代りに「鋸の切れ味を試している」と言ったとすればどうだろう。この記述との等価性の根拠も既に含まれていたと言い張れる読者がどの位おられるか私は大いに疑問である。

つまり同じ行為の異なる記述という形で問題にされる等価性は、こうしたケースにおいては、実際に示されてみて、あるいは立てられてみてはじめて認めることが出来るという類の等価性なのである。もちろん、すぐ後で検討するように、等価性は出鱈目に設定できる訳ではないだろう。しかし、少なくともその根拠は、前以て知られているような「行為そのもの」という形であった訳ではない。それは記述の「自己同一的な対象」としての「行為それ自体」のような実体的な項としては考えることができない。もし我々がそうしたものに思い至るとすれば、それは等価性の根拠としてそれに先立ってあるというよりは、当の等価性が実際に示された後で、言わば後からそこに補填されるのだといった方がよい。

同じ行為についての複数の記述という構図にとっては、目の前で現実に何か行為が進行しているかいないかは、問題ではない。現に今検討したケースでは、目の前の行為が問題だった訳ではなかった。だからといって慌てて、現実の行為に代えて、何かそれの代りをするもの、理念的な対象であるとか、それに類したものとして構想された行為の表象とかをもちだす必要も別にない。既に明らかなように、結局問題は記述相互の関係、つまり、複数の記述が互いに等価であるとして置き代えられてゆく際の、記述相互の関係なのである。

アンスコムの挙げる例を尊重して、「板を鋸で切る」という記述を例にとって、この記述が他の記述と相互に関係付けられる種々のやり方を、以下でしばらく検討してみることにしたい。この記述に対して、同じ行為についての複数の記述という構図で捉えられる記述とこの構図からはずれる記述の各々を考えることができる。

同じ行為についての記述と言う構図で捉えることのできる記述には次のようなものがある。

「板を鋸で切る」という記述に対して、

  1. 「樫の板を鋸で切る」、「桜の板を鋸で切る」、等々。
  2. 「スミス氏の板を鋸で切る」等々。
  3. 「鋸で切る」、「板を切る」、等々。
  4. 「切る」、「切断する」、等々。
  5. 「両腕を前に突出したり引いたりする」、「足を踏ん張る」、等々
  6. 「犬小屋を作る」、「ゴミ箱を作る」、「家の補修を行なう」、「鋸の切れ味をためす」、等々。
  7. 「家族サービスをする」、「気晴しをする」、「仕事をする」、「妻の要望に答える」、等々。
  8. 「大量のおが屑を作る」、「騒音で近所を悩ませる」、「汗をかく」、「ある種の化学物質を筋肉内で生産する」等々。
  9. 「口笛を吹く」、「鼻歌を歌う」、「悪態をつく」、等々。
  10. 「雨にうたれる」等々。

以上のリストはけっして考え抜かれたものではないが、「同じ行為の異なる記述」という構図に当てはまる記述が、相互に関係付けられる幾つかの様式を示すものになっている。以下ではこうした互に関係付けられた記述の系列の一つ一つを取上げて、その各々についてざっと検討することにしよう。

5. タクソノミー的関係

ひとつは上のリストの1〜4の記述が相互に関係付けられるところの系列であり、ここでは各々の記述は、分類的(taxonomic)な関係、つまり分類上の上位概念−下位概念の関係に類するものによって結び付けられている。とはいうものの、「内包」やら「外延」やらを持ち出してこれらの関係について語る代りに、ここでは単に「〜は〜の一種である」という言い方によって結び付けられる二つの記述の関係という程度に捉えておきたい。

「板を鋸で切る」行為は、「板を切る」行為や「鋸で切る」行為の「一種」であり、「板を切る」行為や「鋸で切る」行為は「切る」行為、「切断する」行為の一種である。また「樫の板」や「スミス氏の板」は「板」の「一種」である、などといった具合である。

ある行為についての質問「彼は何をしているのか」に対して、「彼は板を切っている」と答えても、「彼は鋸で切っている」と答えても、「彼は樫の板を鋸で切っている」と答えてもよい。つまりこうした関係に立つ二つの記述は、「同じ行為」についての異なる記述という構図に立つことができる。

「〜の一種である」という関係が、いわゆる分類体系における上位概念と下位概念の関係と異なる点は、その関係においては単に上位の者が複数の下位者を持つというだけでなく、下位の者が複数の上位者をもつことがあり得るという点である。「板を鋸で切る」行為は、同時に二つ以上の同位的な上位者をもつ。「板を切る」行為の一種であると同時に、「鋸で切る」行為の一種でもあるという訳だ。またこの関係は必ずしも非対称的ではないかも知れない。「切る」行為は「切断する」行為の一種であり、逆に「切断する」行為は「切る」行為の一種だと言うことが可能である。

「〜の一種である」という関係は、それを通じて三種類の同位的な関係を定義する。「板を切る」と「紙を切る」はともに「切る」行為の「一種」であるという点で互に同位者となる。また「板を切る」と「鋸で切る」はともに「板を鋸で切る」がそれの「一種」であるという点で同位者となる。最後に「切る」と「切断する」のように互いが相手の「一種である」という対称的な関係のゆえに成立する同位性がある。つまり、一つの上位の項に対する同じ関係に基づく同位性、一つの下位の項に対する同じ関係に基づく同位性、互いのレシプロカルな関係に基づく同位性の三つである。いわゆる分類体系において問題になる同位性は、もっぱらこの最初の種類の同位性である。もし見出される唯一の関係が、このタイプの同位性である場合、同位な二つの記述は「同じ行為」の記述とはけっしてなり得ない。「紙を切る」行為と「板を切る」行為は同じ行為ではあり得ないといった具合に。しかし他の二つのタイプの同位性においては、同位な二つの記述が「同じ行為」の記述となることを妨げるものはない。

ところで、目の前で一つの行為が進行しており、それが、こういった関係に立つ「同じ行為のさまざまな記述」のいずれかによって捉えられているという場面に戻ってみよう。その行為がこれらの記述のいずれでも記述され得たはずのところで、特にそのうちの一つによって記述されているというのは、いったいどういうことなのであろうか。例えば、「切断する」行為として、あるいは「板を切る」行為として捉えられる代りに、「板を鋸で切る」行為という記述の下で捉えられることによって、どのような違いが生じることになるのだろう。単に「切断する」行為という記述の下では見て取られていなかった、その行為の対象や手段に対する関係が、後者の記述の下で捉えられた行為には見て取られているのだと、一応は言えそうである。逆に言うと、単に「切断する」行為という記述の下では、その行為の対象や手段に対する関係は問題になっていないということになる。

しかしこれは考えてみれば奇妙な話である。まるで「その行為」と行為の「対象」や「手段」が互に分離可能な項ででもあるかのような言い方である。もちろん分離可能とはいっても全体とその構成部分のような形に分割できるという訳ではあるまい。目の前で進行しているある行為について、それをその行為本体と、行為本体が関係する対象や手段等々に分割できるかどうかを考えてみればよい。そんなことは出来はしない。「板を鋸で切る」という記述の下で捉えられている行為が進行しているとする。その行為者から板と鋸を奪い去ってしまえば、「切断する」という行為本体が残るとでもいうのだろうか。残ったものは「切断する」という行為のジェスチャーではあり得ても、「切断する」行為ではどう考えてもあり得そうにない。

単に「切断する」という記述の下に捉えられているだけの行為とは一体どのような行為なのであろうか。それはけっしてそれが関係付けられるところの対象や手段や行為者等々を剥奪された行為本体のようなものではないはずである。「切断する」という行為を考えてみようとすれば、それは誰かがどこかで何かを何かを用いて「切断している」行為という以外の形では考えることは出来ない。実際にある行為を目撃していて、それが「切断する」という行為だと語られる場合も同様である。この場合も「切断する」行為本体などというものを目撃している訳ではない。我々が目撃しているのは常に、誰かが、どこかで、何かを用いて何かを「切断している」行為にすぎない。ただ、それが誰であり、何を切断しているのであり、何を用いてそれを行なっているのか、等々を考える必要がないというだけのことである。

廣松渉氏が勧めておられるように、これは「函数態」として把握するのに適した状況でもある。「切断する」行為を f(x,y,z,....) という函数として捉え、「板を切る」、「板を鋸で切る」などを、この函数の変数に具体的な値を充当したものとして、つまり f(板、y,z,...)、f(板、鋸、z,...)などとして捉えるという考え方である。これは一種の比喩としてであれば、きわめて有効な考え方に違いない。ただ唯一の問題は、この函数の形や変数の数を前以て確定することが出来ないだろうということだ。(これについては後にまた論じることになるだろう。)廣松氏も述べておられるように、函数態という把握は、結局対他的な反照規定を内自化した相で捉えたものである。可能であれば、それを記述相互の対他的な関係において捉える方が、理にかなっている。

今ここで問題にしている一群の記述は、相互に「〜は〜の一種である」という関係によって関係付けられている。これはレベルの相違を含む階層的な関係であり、各記述はこの、系列というより、ネットワークのなかのしかるべき位置として考えることが出来る。それはこのネットワークのなかで自らの上位者と下位者、および同位者を与えられている。ある行為がこのネットワークに属するある記述の下で捉えられているということは、とりもなおさず、それがこうした関係のネットワークのなかで捉えられているということに他ならない。つまりなんらかの階層的、あるいは同位的対他関係のなかで眺められているということである。ある行為が「切断する」行為として捉えられているということは、例えば、それが「結びつける」「打ち割る」等々の同位的他者との区別において、そして「操作を加える」などの下位者として、といった形では捉えられているが、「はさみで紙を切る」とか「木の枝を鋸で切る」とかいった記述を同位的他者とする対他的関係においては捉えられていない、ということであるとも言える。

6. 構成的関係

「同じ行為の異なる記述」という構図をとる記述が形作る系列には、上で検討したタクソノミー的関係とは異種の系列も存在する。さきに挙げたリストのなかの5〜7がそれである。ある行為についての質問「彼は何をしているのか」に対して、「彼は犬小屋を作っている」と答えたり、「鋸の切れ味を試している」と答えたり、あるいは「彼は仕事をしている」と答えたり、「家族サービスをしているのだ」と答えたりすることは、いずれも「彼は鋸で板を切っている」と答えることに劣らず、全く正当な答えである。もっとも「彼は両腕を突出したり引いたりしている」とか「彼は足を踏ん張っている」とか答えることは普通はないであろうが、もし彼が大工仕事はからきし駄目な男であったとすれば、そのことについての皮肉なコメントとしては充分成り立ち得る答えであろう。ともかく彼が「腕を突出したり引いたり」していることは確かなのだ。

この系列に属する記述も、互に一種の階層的な関係によって関係付けられている。つまり上位概念−下位概念に類する関係と、同位的な関係がともに見られる。「板を鋸で切る」と「犬小屋を作る」は異なる階層に属していると考えられるであろうし、他方、例えば「板を鋸で切る」と「板を釘でうちつける」は「犬小屋を作る」の下位者として同位である。階層的に異なる二つの記述は「同じ行為」の記述という構図に当てはまるが、同位的な二つの記述はこの構図に当てはまらないということも明らかである。しかし、この階層的な関係が具体的にはどのような性質のものであるかを、はっきりさせるのは意外に厄介である。

まず、これらの記述相互の関係はタクソノミー的な関係とは必ずしも一致していない。明らかに「板を鋸で切る」行為は「犬小屋を作る」行為の「一種」ではないし、その逆も成り立たない。また「板を鋸で切る」行為は「鋸の切れ味を試す」行為の一種ではないし、「犬小屋を作る」行為が「家族サービスをする」行為の一種であったりする訳でもない。強いて言えばそう言えぬこともないだろうが、少なくともそれは前項で扱ったタイプの関係とは異なることがわかるだろう。なるほど「犬小屋を作る」ことは「家族サービス」の一種だと言えないことはない。しかし、そう言えるのは、「犬小屋を作る」行為が同時に「家族サービスをする」行為でもある場合に限られる。したがってこのケースでは、「〜は〜の一種である」という関係は、二つの記述を同じ行為の記述とする根拠となっているというよりは、むしろその結果なのだと言うべきだろう。つまり二つの記述が「同じ行為の異なる記述」という構図に適合するのは、両者がタクソノミー的関係にある故にではない。それは別の関係に基づいているのである。

次のような形で考えてみると分かりやすいかもしれない。「板を鋸で切っていた」その男は、今や「板を釘で打ちつけ」始めている。次いででき上がったものに「サンドをかけ」、「ペンキを塗る」。さて、これらはすべて既に検討したタクソノミー的な関係で言うと、全く「違う種類」の行為である。これらは互に全く似ていない。しかし、これらのどの行為に従事している瞬間をとっても、我々にはその男が「犬小屋を作っている」と語ることが可能である。それらはいずれも「犬小屋を作る」行為には違いない。つまり、それらは同じ上位者「犬小屋を作る」の下位者として同位的な位置にたつ記述だと言うことになる。こうした階層的関係について言うのであれば、「〜は〜の一種である」というよりも、「〜は〜の一部である」とか「〜は〜の一環である」といった言い方の方が適切だということが分かるであろう。

その意味では、いわゆる部分−全体の関係にも似ている。「板を鋸で切る」行為はたしかに「犬小屋を作る」行為の一部分ではないだろうか。しかし今問題にしている場面では、「犬小屋を作る」という記述の下で捉えられているその行為は、「板を鋸で切る」行為としても語られたかもしれない行為そのものであるのだから、それを全体と部分という関係で捉えることは、実は的外れだと言うことになる。これは「板を鋸で切る」と「鋸の切れ味を試す」との関係について見れば、いっそう明らかだ。たしかに、「鋸の切れ味を試す」行為が「板を鋸で切る」行為から成っている、ということはできる。しかし後者は前者の一部分というよりも、むしろ、「板を鋸で切る」ことがすなわち「鋸の切れ味を試す」ことであるという方が正しい。両者は、全体とその部分の関係というよりは、「すなわち」の関係なのである。

同様に、全体−部分の関係に関する限り、「息を吸ったり吐いたりする」行為や「汗を流す」行為はたしかに「板を鋸で切る」という記述によって捉えられた行為の「一部分」というしかないだろうが、明らかにこの両者の関係は今ここで問題になっている関係とは異なっている。この系列に属する記述相互の関係は、なるほど全体とその構成要素の関係に類してはいるのだが、それはそうした記述の下で語られている行為の分割に関わるものでは、少なくともないのである。とするとそれはいったいどのような意味で全体−部分なのであろうか。

あるいは見方を少し変えれば、この系列に属する記述相互の関係は、目的と手段の関係として見ることもできるかもしれない。「犬小屋を作る」ために「板を鋸で切る」、「鋸の切れ味を試す」ために「板を鋸で切る」、「家族サービスをする」ために「犬小屋を作る」といった具合である。「板を鋸で切る」ために「足を踏ん張っている」あるいは「両手を突出したり引いたりしている」ということもできる。このように、目的と手段の関係という見方のほうが行為の分割を問題にするよりは、より自然な見方だと言えるかもしれない。アンスコム自身は、一つの記述がもう一つの記述を「呑み込んでいる swallow up」関係として、この目的−手段の関係に注目している(op.cit.:26)。

しかし、この関係が通常の「目的−手段」の関係とは異なっているという点も注意せねばならない。普通、ある行為がある行為を目的としてなされているという場合、その「目的」とされる行為はその手段となる行為とは別の何か、その行為を行なうことによってその結果可能となる別の行為である、と考えられよう。「結婚する」ために、あるいは「海外旅行をする」ために「貯金をする」といった場合がそれである。「貯金をする」行為は「結婚」や「海外旅行」の手段ではあり得ても、けっして「貯金をする」ことが同時に「結婚する」こと、「海外旅行をする」ことでもあるという具合にはならない。両者は全く「別の」行為であると考えられている。しかるに、今問題となっている系列においては、両者が「同じ」行為だという点が問題だったのである。「家族サービスをする」ことは、「犬小屋を作る」ことによって可能になるそれとは別の行為ではない。「犬小屋を作る」ことがまさに「家族サービスをする」ことになっているのであって、犬小屋を作ることに続いてそれとは別に家族サービスがなされるという訳ではないのである。逆に言うと、「犬小屋を作っている」人は同時に「家族サービスをしている」訳でもあるのだが、「貯金をしている」人のことを「海外旅行をしている」人と呼んだりはしない。

「目的」という点に関していえば、ほとんどの行為の記述は、それ自身をとっても、なんらかの「目的」に関する記述であると言えないことはない。「犬小屋を作る」という記述は、その行為を「犬小屋ができる」という目的との関係において捉えた記述であると言えるし、同様に「板を鋸で切る」という記述は「板が鋸で切断される」ことを目的とした行為の記述である、といった具合である。こうした「目的」は、いわば行為の記述に内属していると言える。とするとここで問題にしている二つの記述の関係は、目的と手段の関係というよりは、その行為がそれぞれの記述の下でそれとの関係で捉えられているところの「目的」相互の関係であるということもできよう。「板を鋸で切る」という行為の記述に内属する目的、「板が鋸で切断される」は、「犬小屋を作る」に内属する「犬小屋ができる」という目的に従えられていると言うことができる。とは言うものの、この理解によっても、「板を鋸で切る」という記述が「犬小屋を作る」という記述に対してもつ関係と、「貯金をする」という記述が「結婚する」という記述に対してもつ関係との、明確な違いが説明されたことにはならない。というのは、後者においても「金が貯まる」という目的が「結婚が成立する」という目的に従えられているという点では、同じことだからである。

実は、この系列に属する二つの記述の関係は、オースティンが行為遂行的発話(performative utterance)の分析のなかで、発話とそれを発話することにおいて遂行されることになる行為との関係として捉えたものと同じ関係であることがわかる。「約束致します」という発話の場合、そう発話することが同時に、「約束する」という行為を遂行することにもなっている。このように、あることを発話することが同時に何かの行為を遂行することでもあるような発話を、オースティンは行為遂行的発話と呼んだ(Austin 1962)。これを我々がここでしていたように、同じ行為の二つの記述として見ることは可能である。「『約束致します』と発話する」行為と「約束する」行為とは「同じ行為」である、という訳だ。つまり「同じ行為についての異なる記述」という構図にそのまま当てはまるのである。オースティンは、この両者の関係を、「『約束します』と発話する」ことにおいて(in saying "I promise")「約束する」という行為が遂行されている、という形で問題にする。おそらく、彼のこの定式化、Doing something in saying something、は、我々が問題にしている系列に属する二つの記述の関係一般にも有効な定式化であろう。「板を鋸で切る」ことにおいて「犬小屋を作る」という行為が遂行されており、「板を鋸で切る」ことにおいて「鋸の切れ味を試す」という行為が遂行されている、という具合である。つまり、二つの記述の関係は、「〜することにおいて〜する」という関係、Doing something in doing something、である。(オースティンがたてた発語内行為 illocutionary act と発語媒介行為 perlocutionary act の区別は、重要な区別ではあるが、ここでは当面問題にしない。ここで問題にする記述相互の関係は、「〜と発話することにおいて〜する」という発語内行為に関する定式と「〜と発話することによって〜する doing something by saying something」という発語媒介行為に関する定式のいずれとのアナロジーによっても捉えることができる。この両者の区別は後に扱う予定の行為についての別の区別において必要になる筈である。)

この関係は逆から言うと、「〜することは〜することからなる」という関係でもある。「約束する」という行為は「『約束致します』と発話する」ことからなる、というふうに。この「〜からなる」という言い方は、全体とその部分、全体とその構成要素の関係を連想させるが、それが行為の分割とは無縁であることは、行為遂行的発話の場合には、あまりにも明白である。というのは「『約束致します』と発話する」ことがまさに「約束する」という行為になっているのであって、それはけっして、何か「約束する」行為なるものが別にあって、それを分割して得られた一部などではないからである。

それが何かの分割に関係しているとすれば、それは行為の分割にというよりは、関係性、あるいはコンテクストの分割に関係している。「約束する」という行為は「『約束致します』と発話する」ことからなるとは言ってみても、もし誰かが誰も居ない部屋のなかで「約束致します」と神妙に発話してみたところで、それは「約束する」行為を行なったことにはならない。「約束する」行為という記述は、「『約束致します』と発話する」行為でもあるところのその行為を、特定の対人関係、特定の制度や状況との関係に置いて、その制度あるいは関係態の構成要素として眺めた記述なのである。「『約束致します』と発話する」ことが「約束する」の構成要素、その部分であると言えるとすれば、「約束する」という記述が喚起するこうした関係態の構成要素としての資格においてでしかないということになろう。

そもそも、「約束する」という記述は、それ自体に注目するときには一つの行為の記述なのであるが、「『約束致します』と発話する」という記述との関係のなかでこの後者に注目するときには、もはや厳密な意味では「行為」の記述ではなくなってしまう。「『約束致します』と発話する」という行為とならんで、それとは別に「約束する」という行為がある訳ではない。それは、「『約束致します』と発話する」という記述との関係においては、当の行為がその構成要素となるような一つの関係態、行為やその他のコンテクストからなるパターンに他ならない。まさにこの意味において、「『約束致します』と発話する」ことは「約束する」の構成要素、一部分であると言えるのである。

同様に「犬小屋を作る」ことが「家族サービスをする」ことでもあるのは、家族の人々の要望とその充足との関係においてのみであるし、「板を鋸で切る」ことが「犬小屋を作る」行為であるのは、「板を鋸で切る」に引続いて為される諸々の行為とその産物、犬小屋作りの全工程との関係においてのみである。くどいようだが繰り返しておくと、こうした全工程をすべて行なうことからなる一つの行為があって、それが「犬小屋を作る」行為であるという訳ではない。その「板を鋸で切る」行為が、「犬小屋を作る」行為なのである。つまりこうした全工程つまり一つの関係態を構成する任意の行為が、この関係態との関係において眺められたときに、「犬小屋を作る」行為だということになる。「貯金をする」行為が「海外旅行をする」行為としては語られないとすれば、それは、前者が「海外旅行をする」という記述が喚起する関係態の構成要素としては眺められないからである。両者は通常の意味での手段−目的という外的な関係だということになる。逆に「海外旅行をする」という記述が喚起する関係態の構成要素として眺められ得る任意の行為は、この関係態に着目している限り、それ自体「海外旅行をする」行為として語られることになるだろう。そして、その関係態そのものから目を逸すとき、それは例えば「飛行場でホテルまでのタクシーをひろう」行為、「ホテルにチェックインする」行為などとして語られることになる。もちろんこの「タクシーをひろう」行為という記述が対応しているものも実はそれ自身一つの関係態でしかない。あるいは、この関係態との関係で眺められる行為が「タクシーをひろう」行為なのである、と言っても良い。もしこの関係態から目を逸せば、それは例えば、「右手を上げる」行為として語られることになるかもしれない。

私はこうした二つの記述のあいだの関係を「構成的 constitutive」な関係と呼ぶことを提案しておこう。AすることにおいてBする、あるいはBすることはAすることからなる、という関係において、AとBは非対称的な階層的関係におかれている。Aと記述される行為は、それを構成要素とするある関係態との関係において捉えられるときBと記述される行為になる。逆にBは単独では、その関係態の構成要素として捉えられた行為のことなのであるが、Aとの関係においては、それはAと並ぶ一つの行為のことではなく、Aがその構成要素であるところの関係態のことだということになる。

一つ蛇足を付け加えておこう。ここで検討してきた、例えば「右手を上げる」行為が、特定の関係態との関係で眺められるとき「タクシーをひろう」行為になるという言い方は、タクソノミー的関係を論じる際に問題にした、「切る」という行為が、特定の対象や手段との関係において「板を鋸で切る」行為になるという言い方と、どう違うのかという問題である。両者が一見同じ言い回しであるにもかかわらず、全く異なっていることは容易に分かる。そもそも両者においては、二つの記述の階層的関係が全く逆になっている。また、「右手を上げる」という記述にとって、それが「タクシーをひろう」という記述が喚起する関係態に属するかどうかは、言わば、必要不可欠なことではない。単に「右手を上げる」こともできる。しかし、「切る」と「板を鋸で切る」の間の関係についてはそうはいかない。なにかをなにかで切っていると言えないような、単なる「切る」行為などあり得ないのである。さらにこうしたタクソノミー的関係においては、「切る」という行為本体が「板を鋸で切る」行為の中に、その構成要素として含まれているかのように、誤って思念されがちであることを指摘した。しかし構成的関係においては、たとえ誤ってにせよ、「タクシーをひろう」行為が「右手を上げる」行為の中にその一部として含まれているという具合に思念されることはまずない。誤認が生ずるとしても、むしろ逆に「右手を上げる」という行為が「タクシーをひろう」行為の一部として思念されるという形である。

タクソノミー的関係と、構成的関係は行為についての記述相互の、明らかに種別の異なる関係様式なのだと言うことができよう。

7. その他の記述

「同じ行為の異なる記述」という構図に当てはまる他のタイプの記述についても簡単に見ておこう。

まず先に挙げたリストの8に属する一連の記述についてはどうであろうか。「板を鋸で切る」と例えば「大量のおが屑を作る」や「騒音で近所を悩ませる」等々との関係は、一見上で述べたタクソノミー的関係や構成的関係とは全く異なる関係であるように見える。それらが「板を鋸で切る」行為の偶発的な、あるいは意図せぬ「結果」に関係しているという点で、リストの5〜7の一連の記述(それは意図された「目的」に言及しているのだから)から区別されるというのは事実である。もちろん、この区別はけっしてどうでもよい区別ではない。ある行為が「自分で自分の首を絞める」行為だとか、「自分を窮地に追い込む」行為だとか記述される場合を考えてみれば明らかなように、「目的」と「結果」を混同するなどということはほとんど考えられないことである。そればかりではない。「目的」との関係でいえば、同位的な記述は互いに両立できない。「板を鋸で切る」ことにおいてなされているのが「犬小屋を作る」行為であるとすれば、それは単なる「鋸の切れ味を試す」行為としては記述できない、といった具合である。しかし、「結果」はいかなる目的とでも両立し得る。その「板を鋸で切る」行為が「犬小屋を作る」行為であるからと言って、それが「大量のおが屑を作る」行為でなくなる訳ではない。

しかし、両者の階層的関係そのものに関していうならば、目的と結果の違いという区別はさして本質的な相違にはならないことが分かる。それが何であれ、「結果」はいつでも「目的」になりうるからである。少々常軌を逸しているかもしれないとはいえ、「大量のおが屑を作る」ために「板を鋸で切る」人や、あるいは「騒音で近所を悩ませる」目的で「板を鋸で切る」人がいないとは、誰も断言することはできない。こういった目的が「犬小屋を作る」という目的にくらべて、目的という資格に欠けているという訳ではないのである。

つまり「板を鋸で切る」と「大量のおが屑を作る」との関係は、前項で検討した「板を鋸で切る」と「犬小屋を作る」との関係と、このレベルでは区別できないのである。それは、結局のところ前項で検討した構成的関係以外の何ものでもない。

リストの8のタイプの記述の存在は、「板を鋸で切る」といった一つの記述と構成的関係にたち得る記述の系列が無数にあること、しかもそれらの系列のあるものは互に同時に両立可能であることを示している。「結果」や「目的」という言葉でそれら二つの記述の関係について語ることは、アンスコムの「意図」についての分析が示唆しているとおり、複数の記述相互の階層的な関係の種類の違いに言及するというよりも、こうした無数の系列の内から特定の系列を指定して、それに各々異なった仕方で注目させることだと考えることもできるかもしれない。

もちろん、「結果」と「目的」が記述相互の関係の本質的な違いに関連したものだと、考える余地がなくなってしまった訳でもない。確かにいずれも構成的関係という点では区別できないとしても、そもそも「構成的関係」なる概念が、それのみをとると広すぎるのであって、実際にはさらにその内部に異なる種類の関係を区別するべきなのだとも言える。しかしこの問題の検討は別の機会にとっておかねばならない。ここでの私の意図は、行為の記述相互の関係に、タクソノミー的関係とは異質な階層的関係があることを示すこと以外にはないからである。今ここで煩些な分類に没頭することは当初の目的からあまりにも遠ざかってしまうことになろう。

最後に9と10のタイプの記述についてもごく簡単に触れておこう。これらは、今まで問題にしてきたいずれの記述とも異なって、「板を鋸で切る」という記述となんらかの階層的な関係にたっているとは考えられない記述である。それは単にお互に相手を否定してしまわないというだけのことで共存し得る、二つのほとんど何の関係もない行為の記述の偶然の結合を示しているように見える。ある男が口笛を吹きながら板を鋸で切っている場面で、彼は何をしているのかという問いに、「彼は口笛を吹いている」と答えることは、たしかに必ずしも誤った答えであるとは言えない。このやり方で「彼はハンバーガーを頬張っている」とか「妻にどう言い訳したらいいのか考えている」とか、ほとんど想像し得るあらゆる種類の行為の記述をそこに結びつけてしまうことが可能である。

我々はこのタイプの記述相互の間に、タクソノミーとも構成的関係とも異なる第三の関係を見出したといえるかもしれない。それは互いに両立を拒まないが同時には前面に姿を現すことのできない、ちょうどフォアグラウンドとバックグラウンドのような関係にたつ複数の記述の、単なる接合の関係である。

しかし、実のところ、このタイプの記述を「同じ行為の異なる記述」という構図で捉えること自体に、いささか疑問の余地がある。こうした場合、そこに「板を鋸で切る」行為とも「口笛を吹く」行為とも記述できる一つの行為があると考えるよりも、同時に二つの異なる行為が遂行されているのだと考えた方がより自然であるには違いない。たしかに、「〜しながら同時に〜する」といった言い方はしばしばみられる。もし同じ行為の異なる記述として捉えられる関係がここにあるとすれば、それは「板を鋸で切る」と「口笛を吹く」の間にではなく、「板を鋸で切る」と「口笛を吹きながら、板を鋸で切る」という記述との間であると言えるかもしれない。しかし、後者は一つの行為の記述なのだろうか、それとも二つの行為の記述なのだろうか。「同じ」行為の記述という構図にこだわる限り、それは一つの行為の記述でなければならない。しかしその反面、明らかにここでは二つの行為が語られているかのようにも見える。しかし今はこの問題を置いておくことにしよう。

仮にこれが一つの行為の記述であると考えた場合、その記述と「板を鋸で切る」という記述のあいだの関係は、タクソノミー的関係と一致する。「口笛を吹きながら板を鋸で切る」行為は、明らかに「板を鋸で切る」行為の一種である。これに対し、同じ行為が「板を鋸で切りながら、口笛を吹く」行為であれば、それは「口笛を吹く」行為の一種だということになる。「口笛を吹く」と「板を鋸で切る」という二つの記述が互にたつフォアグラウンドとバックグラウンドの関係は、この二つのタクソノミー的系列のいずれを選択するかという問題であることがわかる。

8.タクソノミーと構成的関係

「同じ行為の異なる記述」という構図を成り立たせるのが、記述相互の間に見出されるタクソノミーと構成的関係という二種類の関係であることが確認できた。しかし単にこの二種類の関係を区別するだけでは十分ではない。両者の間には密接な繋がりがある。これは、構成的関係における上位の記述が、下位の行為をそれを含む関係態との関係において捉えた記述であるのに対し、タクソノミー的関係における下位の記述は、ある行為の記述を、それが置かれているところの諸関係によって限定したものだということに基づいている。

次の例を見ればよく分かるだろう。「頭を下げる」行為と「挨拶する」行為という二つの記述は、構成的関係にたつ二つの記述である。人との出会いの状況で、しかじかの仕方で行なわれるとき、「頭を下げる」行為でもあるところのその行為は「挨拶する」行為として記述される。「挨拶する」とは、この制度との関係において捉えられたその行為の姿だといってもよい。しかしその行為を例えば、「人との出会いに続いて、笑みをたたえながら、『こんにちわ』と発話しつつ、頭を下げる」行為としても記述できるとすればどうだろう。それは「挨拶する」と記述することにほとんど匹敵するといいたくなる位である。しかし両者を同一視する訳にはいかない。明らかにこのやや長ったらしい記述と、「頭を下げる」という記述はタクソノミー的関係にたっている。それはたしかに「頭を下げる」行為の一種である。しかし、もちろん「挨拶する」行為は「頭を下げる」行為の一種ではないのである。

同様に、既に論じたように、「犬小屋を作る」は、「板を鋸で切る」とも記述できただろうその行為を、ある全体との関係において眺めたものである。しかし「犬小屋を作る」と記述されたまさにその行為を、「設計図を引き、墨入れをすることに引続き、釘で板を互いにうちつけ、ペンキを塗り、犬をそこに入れる等々によって後続されるところの、『板を鋸で切る』」行為とも記述することができるだろう。これは「板を鋸で切る」に対してタクソノミー的関係にたつ記述だということになる。

ある関係態のなかで捉えられているある行為、もし当の関係態を抜きにした場合「頭を下げる」「板を鋸で切る」などと記述されるであろうある行為、が置かれているところのその関係態を示す仕方は二つある。それはそれらの記述のタクソノミー的下位者を与えることによっても、構成的上位者を与えることによっても示すことができる。一方はその関係態の諸要素を示すことによるもので、他方はその全体を示すことによるものである。

タクソノミー的関係も構成的関係も、いずれも一つの系列として展開しうる。どの記述もなんらかの他の記述にとっての上位者であり、また別の記述にとっての下位者となりうる。つまりあらゆる「行為の記述」は、実は、「関係」を示すための記述であるということになる。「犬小屋を作る」行為は、「家族サービスをする」行為との関係においては、一つの関係態の要素、その辞項であるが、「板を鋸で切る」行為との関係においては、それはもはや一つの項ではなく関係にすぎない。「犬小屋を作る」という記述に対応するところの行為本体、あるいは所与としての行為など存在しない。それは一つの関係が他の関係との相対的な位置で示す姿にすぎないのである。

9.中間的結論

私は「同じ行為の異なる記述」という構図を一応の手掛りにして考察を進めてきたが、そろそろこの構図自体を廃棄するべきときに差しかかったのかもしれない。そもそも最初に指摘しておいたとおり、「同じ行為の異なる記述」なる問題構制は、特定の「記述」とは別に何か自己同一的な所与としての「行為」のごときものがあるかのように想定しているという点で、不十分なものであった。「所与としての行為」を想定することが孕んでいる困難は、ここまでの議論の過程でも随所に見られたという事実をあらためて指摘しておく必要があるだろうか。

まず、タクソノミー的関係を論じた際に生じた問題。例えば「切る」という記述に対応している所与としての行為は一体何だろうか。それが「板を鋸で切る」という形でも記述できるというとき、後者に対応している所与としての行為から、「切る」に対応している所与を分離することができるだろうか。もちろんできない。下位の階層に属する記述との関係で見る限り、「切る」のような上位の階層に属する記述にまさに対応する所与としての行為など無いということになる。

次に構成的関係について生じる問題。例えば、「タクシーをひろう」と記述される所与としての行為とは一体どのようなものだろう。それは「右手を上げる」という記述の所与としての行為であったり、「歩道から身をのりだす」と記述されるところの行為でもあったりするのだが、それらから「タクシーをひろう」という記述に対応する成分を抽出できるとでもいうのだろうか。再び階層的下位者に注目する限り、「タクシーをひろう」という記述にまさに対応する行為など無いということになる。

さらに任意の所与としての行為が実は、互に直接の関係のない記述の接合によって記述できるマルチタスクな行為だというのであれば、我々はそもそも「一つの行為」という形で問題を設定することもできなかったのだということになる。「一つの行為」という形で所与としての行為を捉えることができないのなら、当然、同時進行する複数の行為という問題設定も無意味になる。実際、複数の行為が同時に進行しているという形で捉えられたその行為を、その複数の各々の記述に対応する行為に成分分解することを考えてみればよい。そんなことはできない相談なのである。あることが為されているのを見て、それを「一つの所与としての行為」が行なわれていると考えることも、「たくさんの所与としての行為」が同時に進行していると考えることも、できないのだということになる。所与としての行為を一つ、二つと数えることにそもそも意味がないのだ。

要するに、特定の記述に対応しているモノとしての「行為」なるものは、端的に没概念なのである。

私は、既にパースの対象概念を検討する際に到達した認識を、「行為」の記述という文脈で再びおさらいして見せるという作業を、飽きもせず繰り返すことによって、読者を退屈させただけかもしれない。まるで、うっかりすると自分を引きずり込みそうになる思考の習慣の海に沈んでしまわないためには、浮き輪は多ければ多いほどいいと考えているかなづちの男のようではないか。先に進むことにしよう。

二つの記述が「同じ行為」の記述であるとされるとき、「同じ」であることの根拠を、二つの記述が対象とするモノとしての行為に求めることはできない。それが現に目の前で進行している何かであるにせよ、一方の記述の理念的な対象にすぎないとされるにせよ、何か自己同一的な項によって二つの記述の等価性が保証されているとは考えることはできないのである。すべては逆の方向から考えなければならない。つまり何かが「同じ」であるから、二つの記述が等置できるのではなく、二つの記述が等置できるということが、そこにおいて何かが同じであると考えられるということなのである。二つの記述が等置されるとき、両者の間にタクソノミー的なり、構成的なりの階層的関係を見出すことができるであろう。これが私が以上の検討を通じて見出したことである。

ではこのことを認めた上で、任意の記述から出発して、それが属するタクソノミー的、構成的な諸関係の系列をすべて提示することは可能だろうか。おそらく答えは否定的なものであろう。もしそれが可能であれば、「同じ」であることの根拠が再び見出されたことになる。それはもはや怪しげな「対象」としてではなく、記号論者たちがラングと呼ぶところの体系として。そうした諸関係を、我々がタクソノミーを論じる際に見たように、函数によって記述して見せることも可能であろう。もしそうであれば、「二つの記述が等置されるとき、両者の間にタクソノミー的なり、構成的なりの階層的関係を見出すことができるであろう」などと、回りくどい言い方をする必要もなかった筈である。単に、こうした階層的関係にある二つの記述が等置される、と書けばよかったのである。

実際には、ある記述をそれ以前には知られていなかった関係において眺めることが、常に可能である以上、そしてそれに命名することさえ可能であることを考えに入れるとき、こうした見とおしが原理的に不可能であることは、疑いの余地はない。等置の作業は既に存在している階層的系列をなぞって見せる作業であるというよりは、それをその都度設定して見せる作業であるといった方がよい。それは常に新規な関係を呼び込む革新的な実践でありうる。

「同じ対象」についての異なる記述という構図は、あまりにも当たり前のことであるが、二つ以上の記述の提示を前提とする。あるものについての一つの記述、という構図の下では、そもそも「同じ」という問題は起りようもない。つまり「同じ」であることが問題になるのは、実際に「等置」が行なわれるときなのである。そしてこの「等置」という作業そのものは、けっして稀なことではないが、かといって我々の言語生活の中心を占める作業であるわけでもない。前稿でかなりくどく論じたように、それは意味が問題になり問われる状況、つまりあるものが置かれている関係態の複数性が問題になる状況で、それにけりをつけるための語りにおける作業であった。それは関係を設定し、それを示すための作業なのである。それは同一性によって保証されているというよりは、同一性の存在を主張するものである。

10.おわりに

ある行為をある記述の下に眺めるということは、それをなんらかの関係の下に捉えるということでもある。「タクシーをひろう」行為を私が見ているという場合、私は一つの項、「タクシーをひろう」という記述の下で眺められた一つの行為を見ている。そう我々は語っている。しかし「タクシーをひろう」行為を見ているというまさにそのとき、私は実はその行為が置かれているところの関係を見てもいるのである。こうした関係を見て取っていることが「タクシーをひろう」行為を見ているということであり、同時にそれが置かれているところの関係は、その「タクシーをひろう」行為と他のものとのあいだの関係として見て取られている。冒頭で述べたように、項の経験と関係の経験は同じ一つの経験の2側面なのである。

「タクシーをひろう」という記述が別の記述に等置されるとき、それによって示されるのが、項がその下で捉えられているところのこうした関係である。「行為」という特殊な領域を検討することを通じて、私はそうした関係が、単なる「差異と対立」の関係に限らないことを示した。行為に関しては、差異と対立のこうした関係はタクソノミー的関係のなかで示される。しかし、これとは全く異質な別の関係態がある。構成的関係のなかで示されるものがそれである。この関係の質が次に検討すべき課題である。


参考文献

Anscombe, G.E.M., 1957, Intention, Oxford: Basil Balckwell (邦訳『インテンション…実践知の構造…』菅豊彦訳、産業図書、1984)

Austin, J.L., 1962, How to Do Things with Words (2nd. ed.) Oxford University Press.(邦訳『言語と行為』坂本百大訳、大修館、1978)

廣松渉, 1982, 『存在と意味』岩波書店