ケニア・ミジケンダ諸族における「病気の文化」
科学研究費報告書のうち浜本分担分

ミジケンダ調査の紹介

研究の目的と対象

 本研究計画は、ケニア海岸地方のバントゥ系民族ミジケンダ諸族における「病気の文化」すなわち、病気に対する観念や対処行動の文化的総体についての比較研究を目的とした。病気経験には単なる身体生理的な現象に還元できない、すぐれて文化的な側面があり、どのような経験が治療行為によって対処されるべき「病的な」経験として扱われるかは、しばしば文化ごとに大きな相異を見せる。このような相異は、心身的な経験が他の経験領域と、そして究極的には、人々の宇宙観(コスモロジー)といかに関係づけられているかの相異によるものである。従って、こうした病気の経験に対処するための文化的装置(いわゆる診断や、治療行為を含んだ)の総体にもまた、対応する文化的な相異が見られることになる。それは単に症状の軽減を目指す行為に留まらぬ、社会的、経済的、宗教的な対応までを含んだ全体的なシステムを形成している。

 本研究は、地理的、言語的に互いに近縁関係にあるミジケンダ諸族のうち、(1)最大の人口をもち、宗教的には伝統的な色彩を最も濃くとどめる父系のギリアマ、(2)海岸山脈の背後のサバンナ地帯に広く分布し、ココヤシ経済よりも牧畜がより大きな経済的比重を占め、宗教的にはイスラム、キリスト教、伝統宗教の雑多な要素が混在する二重単系出自のドゥルマ、(3)海岸部に居住しスワヒリ文化の影響の下、イスラム化が最も進行している母系のディゴ、の3集団をとりあげ、各集団における「病気の文化」を、さまざまな観念と行為からなるシステムとして記述することを、第一の課題として行われた。その上で、各集団の「病気の文化」に見られる類似性と差異を、それぞれの集団が置かれている広義のコンテクストと関連付け、さらにはこうした差異が、それぞれの集団における近代的医療行為の受容の過程にどのような形で反映しているかまでをも解明することが可能であろうと思われた。

研究の経過

 本研究は、吉田禎吾(桜美林大学)を研究代表者とし、上田富士子(九州国際大学)、浜本満(一橋大学)、慶田勝彦(九州共立大学)の3人の研究分担者に、大学院生の小田昌教(九州大学、一橋大学)を協力者に加えた5人の調査メンバーによって、小田を除く同一のメンバーで行われた1989年度における単年度研究を引き継ぎ発展させる形で、1991年度より1993年度にいたる3年度にわたって実施された。上田、慶田の両名は、それぞれギリアマの北東部、南西部において、浜本はドゥルマにおいて、小田はディゴにおいてそれぞれ集中的な現地調査を実施した。吉田は、小田とともにディゴの調査に従事する傍ら、研究計画全体の調整と総括にあたった。各調査者は、それぞれの地域における単独調査に加えて、1992年度には他のメンバーの調査地を共同で調査することによって、それぞれの分担地域の特異性と他の地域との共通性の把握にも努めた。

研究の成果

 この3年度の調査を通じて、各調査者はそれぞれの分担地域についての詳細なデータを手にいれ、それぞれの地域の「病気の文化」の概要をかなり正確に把握するにいたっている。その結果ミジケンダの各集団が、大枠においては共通した病気経験の把握と対処法のシステムをもっていることが確認されている。その基本的な様相は、例えば浜本の調査したドゥルマの例をもちいて示すことができるだろう。以下の記述は一部浜本によるものである。


ドゥルマの例

 ドゥルマ族は、ケニア東部の海岸近くに住むミジケンダ諸族に属するバントゥ系の農耕民で、その人口は約15万を数える。トウモロコシを中心にした農耕で生計を立てているが、ウシやヤギの牧畜もかなりの重要性をもっている。一夫多妻婚が普通で、各々の妻にはそれぞれ独立した小屋があたえられている。こうした複数の小屋からなる屋敷 mudzi と呼ばれる単位が彼らの社会の最も基本的な単位である。屋敷は3〜4世代の人間を含む大きなものから、一人の男とその妻(達)、及び彼らの子供だけからなる小さなものまで様々である。屋敷と屋敷の間は、ブッシュによって隔てられているのが普通である。

 ドゥルマの中心地であるキナンゴの町には入院や手術の設備も備えた国立の診療所があり、大きな病院のあるモンバサの町とも一日に数本あるバスによって結ばれている。人々の多くはこうした町やバス路線から徒歩で何時間も離れた村々に広く分散して暮しているが、ケニアの他の地方と比べて、とりわけ近代医療の恩恵から遠ざかっているわけではない。ケニアでは最近(1989年12月)まで、国立の診療所での医療は原則として無料であり、それが一部有料となった後も、キナンゴの診療所には連日、診療を求めて各地からやってきた人々の長い列がみられた。しかし、これは必ずしもすべての人々が病院や診療所での医療に充分な信頼をおいているということを意味しない。ちょっとした日常の病気から、やや深刻と思える病気にいたるまで、とりわけ町の近くの人々の場合、病院に一度はかかってみるかもしれない。この一度か二度の診療と投薬で病気が治れば、それはそれで良い。しかし、そうでない場合、人々はもはや辛抱強く通院を重ねたりはせず、別の手段、より「本格的」な治療と人々が考えているところのムガンガ muganga とよばれる伝統的な治療師による治療 kulagula の方に向うことになる。こちらの方が病院での治療よりも費用の点では、はるかに高くつくことも多い。多くの人々にとって、診療所や病院での治療は、本格的な治療に踏みきる前に「試してみる ku-heza」だけの値打ちはあるが、それ以上のものであるとは考えられていないのである。

 より深刻な病気は、嫉妬深い隣人の誰かによってかけられた妖術や、祖霊の怒り、あるいはブッシュや水辺にすむ憑依霊たちによって引き起こされると考えられている。病院や診療所はこうした存在を認めようとせず、したがってこれらに対処することもできないため人々が「深刻」だとみなす種類の病気の治療には無力なのだと考えられているのである。これを一概に「非科学的」で「迷信深い」人々が医学に対して抱くいわれの無い誤解であると片付けてしまうことはできない。またこれは単に人々が病気の原因について異なった(そして誤った)観念をもっているというだけの問題でも無い。それはより深い次元での「病気観」の相違を背景としている。

 もちろん人々は、身体的なプロセスや、しかじかの症状を伴う病気が生じる原因についての実践的な知識をもっており、その中には正しいものも間違ったものもある。マラリアが蚊によって媒介される病気であることなどの(正しい)知識と並んで、例えば、上の歯の神経 mushipa は目の神経につながっており、したがって上の歯を抜歯すると盲目になるのだとか、なま煮えの鶏肉を食べるとグタ gut'a と呼ばれる全身のむくみや貧血を伴う病気になるのだとかいった、いささか怪しげな知識が存在する。しかしこうしたレベルでの誤った知識については、それに反する証拠さえ示されれば、人々はそれを訂正するに吝かではない。上の歯の痛みに苦しんでいたある老婆は、歯が全て「腐り落ちて」しまうまで苦しみに耐え続けようとしていたのだが、息子の強引な説得で歯を抜いてもらった後では、上の歯の神経が目の神経につながっている等というのは真っ赤な嘘だと、近所の人に吹聴して回るのに熱心だった。しかし、こうした容易に訂正を受け付ける知識と、深刻な病気が妖術や憑依霊のせいで起こるのだという知識とは、ある意味で全く異なるレベルに属している。

 これは、図式的に言えば、症状がそれ自体として問題になるレベルと、症状が、それ自体で問題になるというよりも、むしろそれが意味するもののゆえに問題になるレベルとの違いと言って良いかもしれない。例えば歯痛は、他の何かと関係付けられることなしに、あまりに激しい場合には通常の行動の妨げになるという点において問題になるだけかも知れない。それが消えるかどうかがそこでの関心事である。これに対して腹部の膨満や便秘は、そのこと自体がなんらかの日常の活動の障害になる程の苦しみであるから問題になるというよりも、それが当の文化のコンテクストで意味しているもののゆえに憂慮の対象となる。歯痛は何かの「しるし」ではないが、腹部の膨満や便秘はまさに何かの「しるし」であるという点において問題なのである。この例は、ドゥルマの事例からとったものであるが、事実、ドゥルマの人々は下痢にはさほど憂慮を示さないが、便秘に関してはたった一日便通がなかっただけで気に病み始める。人々はお腹の調子が悪いといっては調査者に薬を所望しに来るが、それは一日二日便通がなかっただけのことであったりするのだ。ドゥルマの人々にとってあらゆる食べ物は力 nguvu の源ではあるが、同時に潜在的には「毒」でもある。消化器官 mitsango は食べ物から力を篩いわけて、悪いものを便として排出させる働きをしている。したがって下痢は悪いものを体内にとどめないという点で、便秘よりははるかにましだということになる。便秘は腹 ndani がなんらかの手段によって「とじられる」ことによって生じる。そして、それは常に妖術のような邪悪な手段を連想させるのである。ドゥルマのある民話では、主人公をひどく扱った貪欲な叔父は、主人公が手に入れた魔法の首飾りによって復讐される。この首飾りは飲み込まれて肛門から排出される度に富をうむ魔法の首飾りである。主人公は叔父の前でそれを実演してみせる。次に叔父がそれを自ら試みるが、主人公がそれを排出する呪文を教えなかったためにそれは叔父の体内から排出されず、それがもとで貪欲な叔父は死ぬことになる。便秘に対する憂慮は、さらには、妻を娶るとか、家畜を新たに手に入れるとかの「外部」のものを「内部」に導入する際に、ドゥルマの人々が認める危険の認識とも関係している。屋敷の存続のためには不可欠なこれら外部起源の事物の屋敷内への導入は、その都度マトゥミアとよばれる儀礼的性交によってキャンセルされねばならない、屋敷の秩序を脅かす危険であると考えられているのである。

 ドゥルマにおける便秘のように、単一の症状で意味付けがはっきりしているようなケースは、それでもまだ比較的理解は容易である。これよりやややっかいなのは、同じ症状が付随する状況に応じて、その意味を変えるケースである。同じ症状が、あるときには単なる症状そのものとして問題になるだけであるが、別のときには何かより深刻な事態の「しるし」として問題になるといった場合がそれである。例えば、成人男子における血尿もその一例だ。

 ドゥルマの地域はビルハルツ住血吸虫症の高度汚染地域であり、現地の子供の90パーセントが罹患しているとも言われる。この病気は虫卵排出時に血尿を伴うのが特徴であるそうだが、この血尿症状そのものは、成人するに伴い次第に消失する。他にはそれほど深刻な症状をすぐには伴わない慢性疾患であるため、ドゥルマの人々の多くは子供の血尿を病気によるものとは捉えず、子供に特有のごく当たり前の身体過程と考えている。この不定期におこる性器からの出血は、子供の成熟にともない、女性の場合は定期的な月経に、男性の場合は出血の停止に移行する、これがドゥルマの人々の血尿に対する見方である。つまり、男の血尿の停止は、ある意味で女性の月経の始まりに相当する身体的な成熟、さらには性的な成熟(kubarehe)の印となっているのだ。これを念頭に置くとき、成人男性の血尿が(それがビルハルツ住血吸虫によるものであれ、他の原因によるものであれ)彼にとって驚くべき異常と考えられるとすれば、それは血尿が出ること自体のもつ異常性のゆえにではない(事実それは子供ならありふれたことである)。それが彼に成長のプロセスの逆転、性的に未成熟な状態への退行を意味するからなのである。血尿自体で男がなんらかの治療行動へ向うことは稀である。しかしそれが同時に、まさに血尿が男にとって意味しているもののゆえにとも思えるのだが、彼の妻に対する性的不能や、さらに夢の中で美しい女性と性交するといった経験とともにみられるならば、それは真に憂慮すべき症状となる。こうしたケースは、ある種の憑依霊によるものと解釈されるのが通例である。こうなると単に血尿という症状を消すこと自体が問題ではないため、病院での治療は彼にとっては全く考慮の対象とはならない。(そして実際病院の方としても、この男が憂慮している問題自体に対しては何もすることができないだろう。)

 同様にある意味では、あらゆる症状が、それが現れるコンテクストに応じて単なる症状以上のもの、「しるし」でありうる。そしてそのコンテクストは、単に身体的な問題だけからなっているというわけでもない。どんな症状であれ、彼が最近みた特別な夢、家庭内の不和、近隣とのもめ事、家畜の病気やミルクの出の悪いこと、仕事の上での失敗、家族の他の人々特に子供の病気、ブッシュの獣や鳥が屋敷内で示した不思議な振るまい、その他様々な出来事を含むそれぞれのコンテクストのなかで、彼にとって憂慮すべきものとなる。その場合、彼が治療に求めているのは、この彼にとっての「不幸のコンテクスト」とでも呼べる、こうした諸問題の全体を解決することであって、単に特定の症状をどうこうするということではない。仮に彼の憂慮の引き金となった症状が、例えば病院での投薬によって消滅したとしても、彼の「不幸」を構成しているその他の要素が相変らず彼を悩ませている限り、治療は成功したとは見做されないだろう。もはや症状それ自体が問題となっているのではなく、その症状がその「しるし」である彼を取巻く不幸のコンテクスト、その背後に薄々と感じとられる「何か」が問題となっているからである。

 一つのケースをあげよう。一才を過ぎたばかりのM(男子)は、かなり以前から病気であった。腹部が膨満し、食べるものもろくに摂れず、すぐに戻してしまう。ぐったりして弱々しく泣いてばかりいる。Mの母B子は、ドゥルマではごく普通のことであるが、小学校を3年終えただけで中退し、数年前にN氏の第4夫人となった現在19才の女性である。B子はMをすぐキナンゴの病院へつれていって診療を受けたが、その結果ははかばかしくなかった。人々によると、病院がB子自身を治療せずに、子供ばかりを治療しているのは病院の手落ちである。なぜなら母親の乳を飲んでいる子供の病気は、母親の病気に原因があることが多いからである。周りの人々はB子に、本格的な(伝統的治療師による)治療を勧めたのだが、B子はあくまで病院に頼る姿勢を貫こうとしたらしい。これも人々の説明なのだが、病院の医師はついにMを入院させ、開腹手術までしてその原因を知ろうとしたが、医者たちは手術をしてもそこに「何も見つけることができなかった」という。Mは退院し、N氏は占いに赴き、Mの病気がB子に憑依している3つの邪霊のせいであることがわかった。そこで、次の日急遽、原因が本当に邪霊の仕業であるかどうかを確認する目的も込めて、除霊儀礼が開かれた。

 人々によると、これは少々遅きに失した感があった。B子はN氏と結婚して以来立て続けに二人の子供を生後まもなく失っていた。したがって、Mの病気が実際にはB子自身に関わる問題であることは、そもそも疑いの余地が無かったのである。

 調査者がことの成り行きを直接観察し始めたのは、この儀礼からである。B子を囲んでカヤンバ(憑依儀礼で使用される一種の打楽器)が打ち鳴らされたが、B子はいっこうに憑依する気配をみせなかった。人々は、B子の憑依を邪魔している何かがあると論じあった。N氏は自分が心の中に抱いているB子に対する怒りがB子の憑依を邪魔しているのかもしれないと考え、それを唾液とともに吐き出すことによって障害を取り除こうとした。N氏はその中で、B子が常日頃屋敷内での自分の地位に不満を訴えているのを自分は苦々しく思っていたと告白した。そして病気がお前一人の問題であれば、私はお前をほっておいただろう。しかしお前はお前の子供たちをそれにまきこんでいる。見ろ、この私の息子を。今にも死にそうだ。儀礼に参加していた女性たちも口々に、B子を非難した。その後B子はすぐにトランス状態に陥り、自分は「ムディゴ」と呼ばれる憑依霊であり、「私は誰からも憎まれてばかりいる」と泣き喚いた。ムディゴにつづいて、また別の霊が現れ、高飛車な調子で人々に自分のために正式な憑依儀礼を開くよう要求した。人々はその要求をかなえることを約束した。その後は、除霊は順調に進んだ。問題の3つの邪霊が呼出され、追出された。

 この儀礼の後もMの状態は相変らずであった。この儀礼を主宰した治療師は、除霊に必要な品物に不備があったため、3つの邪霊のうち一つについては、除霊が成功したかどうか疑問であると語った。しかし、後でわかったことだが、この儀礼の後今度はB子自身が、自らひそかに占いをうちにでかけていた。占いのみたては、病気の原因がN氏の第二夫人Meとその息子Jが、B子にかけた妖術のせいだというものであった。B子はこの結果を夫であるN氏にだけ打明けた。

 その約一ヶ月後、Mは死亡した。この間屋敷の人々の中でMをもう一度病院へつれていくべきだと主張したものは誰もいなかった。半狂乱になったB子は、Mの埋葬の席で、人々の面前で第二夫人Meを妖術使いだとののしった。彼女はB子を嫉妬してB子の子供が一人も育たないようにB子に妖術をかけたのだというのだ。B子は妖術使いのいる屋敷には住んではいられないと泣き叫び、Meを呪詛し(彼女はMeに「お前はこれからもたくさんの子供を産むことができるだろうよ。」と告げたのだが、これはドゥルマでは非常に忌まわしい呪詛である。)そのまま実家に帰ってしまった。B子の振る舞いは、通常ならおおいに非難されてしかるべきであるが、人々は事情を斟酌してB子がこのように振る舞ったのもやむを得ないと語りあっていた(これは人々自身もMeの妖術を疑っているということを意味する)。B子が屋敷を去ってしまったため、この中途半端な妖術告発は、そのまま立消えとなり、一連のことの成り行きは人々の無責任な噂(その中にはN氏とB子の結婚がそもそも近親相姦であったというものまであった。近親相姦も同様な結果−生れてくる子供が一人も育たない−を引き起こすと考えられている。)のなかに埋没していった。

 この事例は、ドゥルマで病気が人々によってどのようなものとして経験される出来事であるかを雄弁に物語っている。Mの病気は、その母B子が既に二人の子供をたて続けに失っているというコンテクストのなかでは、もはやM個人に関わる問題とは眺められていない。B子を繰返し襲った不幸の一つという形で、当初から周りの人々によって眺められていた。したがってMの病気は、B子自身に関わる同じ「何か」がその都度形をかえて現れたものの一つと見做されていた。その「何か」が何であるかは人々にはわからなかった。すみやかに占いでそれを明らかにする必要があった。しかし当初B子は、この解釈に同意せず、あくまでもMの病気を単独の出来事と考え、病院での治療に固執したのである。この病院での治療が人々を失望させる結果しかあたえなかったとき、B子はようやく伝統的な治療に委ねることを同意した。B子の問題は、B子に憑依した無責任で気紛れな憑依霊の仕業だとされた。しかし、その儀礼の中でB子の屋敷内での不安定な地位がおおやけになった。B子は人々の期待通りついに憑依状態になり、占いの見立ての正確さを改めて確認させたのだが、この儀礼がきっかけとなって、今度はB子の方が、単にMの病気を自分に関わる問題と見ることに留らず、それを屋敷内での自分の不安定な地位、僚妻(夫のたの妻たち)と自分との不仲というコンテクストのなかで捉える物語に呪縛されていくことになった。これはMの死とともに、僚妻に対する妖術告発、B子の結婚生活の崩壊という形で劇的な結末をむかえることになる。

 つまり、ドゥルマでは病気は常にコンテクスチュアルな、文脈依存的な経験として成立するということである。病院や診療所が提供する近代医学的な治療との対比も明らかである。後者は病気や症状に対して、それらが単独の出来事であるかのように、それらのみを切り離すことによって対処しようとする。つまりそれをコンテクストから独立した事象として扱うのである。病院はMの治療にあたって、B子と僚妻との不和までを治療の対象とすることなどできはしない。しかし、これこそがドゥルマの人々が病院の提供する医療を、真の治療 kulagula に劣る、それに至るまでの一時しのぎとしての「対症療法 kuhenda hamehame」としか見ることができない最大の理由なのである。


 ドゥルマで見られる以上のような状況と似た状況は、ミジケンダの他の集団でも見られる。しかし同時に、各集団がおかれている社会的経済的および宗教的環境の違いによる相異点も明らかになりつつある。各集団で見られる病気の原因論の、大枠における類似が明らかになった現在、研究班の各人によって、病気の原因論を構成するそれぞれの病因について、それぞれの集団における特徴を整理した論文が用意されつつある。これらの論文をもとに共同討議を行い、各地域ごとの相異を体系的に明らかにしたうえで、報告書として刊行する準備を進めている。

調査における問題点

 文化人類学の調査におけるプラクティカルな問題の一つに、現地語の習得に関する問題がある。幸いにして、研究分担者の多くはそれぞれが調査対象とする人々について、すでに過去に調査の経験があり、現地語をすでにかなりの程度習得していた。このことが、今回の調査を円滑に運ぶことができた大きな理由の一つである。とは言うものの、現地語の障害がまったく除かれたわけではなく、とりわけ人々のものの見方や考え方を知ることに重点がある今回のような調査においては、難しさが実感された。

 また調査期間に限定があったこともあり、各調査者ともできるだけ広い地域の多くの人々から情報を得るべく努めたものの、どうしても情報提供者や地域に偏りが生じてくるのは避けられなかった。人々の日常生活をつぶさに観察し、その治療や儀礼に参加するためには、どうしても特定の狭い地域の生活にとけこまざるを得ないという方法論的制約も、ある程度の調査対象の限定と偏りを余儀なくさせたともいえる。これは今後の調査において十分検討すべき課題である。

 またこの制約とも関連するが、調査で得られた資料も、またそれに対して加えられる分析も主として「定性的」な性格のものにならざるをえず、数字的なデータとしてそれを示すことができないという問題もある。もっとも、今回の調査を通じて得られた「定性的」な知見は、その深さと広がりにおいて、定量的な資料と分析の不足を補って余りあるものであると自負している。

 最後に調査者全員が感じた問題に、調査者各人の医学的専門知識の不足がある。各調査者の集めた資料や知見は、各地域に関する疫学的な研究データと照らし合わせることによって再解釈できる余地がある。専門も異なり、また研究の方法論も異なる学問間の共同にはさまざまな困難もあるが、今後の同様な研究においてはこうした共同が不可欠のものになるであろう。