憑依論序説 (1988西日本宗教学会発表原稿)

1. 憑依をめぐる素朴な疑問

 ある現象をめぐって展開されている人類学理論が、非生産的に見えたり、あるいは閉塞状況に陥っているように思えるときには、それらの理論が当の現象についての素朴な疑問にきちんと答えることを怠ってはいなかっただろうかと、まず疑ってみる必要がある。素朴な問いを素朴すぎるとして抑圧している状況こそ、ある意味では学問にとって最も危険な状況なのである。

 憑依霊信仰のいったいどこが問題なのだろうか。

 ドゥルマ族の憑依霊信仰の中核をなしているものを整理してみよう。まず霊と訳すのが適切であるかどうかは別にして、人間に外在するある種の主体が人間に「憑依」し、その要求を伝えるために彼を病気にするという考え方がある。第二にそれは適切な儀礼の場で、それが憑依している人の身体を通じて、その要求を明らかにし、満足を得るのであるが、この儀礼の場で語り、行動するのは、病気で苦しんでいる人ではなくて、彼を苦しめている霊そのものだと考えられている。

 もし憑依霊信仰をこの二点に要約して良いとすれば、これは何もドゥルマに限られたものではなく、東アフリカに広く見られる信仰であるし、更には日本を含む他の地域にも、形を変えて同様に見られるものだということになるかもしれない。つまりこれは、それ程珍しいものではないのだ。

 とすると、これの何処が我々をこれ程までに戸惑わせるのであろう。近代以降我々が素朴に抱いている人間観にしたがうと、あらゆる経験、発話や行動は何らかの主体に帰属するものとして捉えられる。そしてその主体とは通常、時間的空間的にこの身体として定位される「自己」、あの身体として定位される「他我」などとして、まず考えられることになる。憑依霊信仰は、こうした経験の帰属様式に対する違反なのである。だが、それは単なる違反であるだけでなく、それなりに結構首尾一貫してもいる。そればかりではなく、その信仰は、我々自身にとって確かであったはずの、経験をしかじかの主体に帰属させる際のルールが、事実適用困難に陥ってしまうと感じざるを得ないような現象を、実際に伴って我々の目の前に現れてくる。儀礼の場では、我々がよく知っていたはずの人物があまりにも「変って」しまうので、はたして本当に我々がよく知っていたあの人物がそうしたことをしているのか、我々自身自信をもっては確言出来なくなってしまうのである。それは同時におぞましくもあり、また奇妙に魅惑的でもある経験である。それは我々自身の確信に深い所で揺さぶりをかけてくるのだ。

2. 不毛な二者択一

2-1. 人類学者のバイアス

 フィールドでのこうした体験を忘れ、あるいは憑依霊信仰において問題になっているのが、まさに経験や発話その他の行為をしかじかの主体に帰属させる我々のルールそのものであるということを忘れてしまうとき、憑依に関する奇妙な言説が生み出されることになる。憑依の儀礼の場で生起するさまざまな出来事が、一貫した歪率で再記述されるのだ。

 儀礼の場では患者の口を通じて、さまざまな要求が語られる。いったい誰がそれを語っているのだろう。そしてそれは誰の要求なのだろう。人々にとっては、それを語っているのは、患者に憑依している霊であり、したがって、語られる要求はそうした霊の要求であるしかない。しかし、そもそも外在する霊のようなものの存在を信じない人類学者にとっては、そうした見解はとうてい受け入れられない。彼には、それを語っているのは、あくまでも患者本人であるとしか思えないし、そこで示される欲望がもし誰かの欲望であるとすれば、それは患者本人のものである欲望をおいては他にないはずなのだ。

 同様に、儀礼の場で奇妙な振舞いがとられるとき、人々にとっては患者に憑依している霊がそう振舞っているのであるが、この頑固な人類学者にとっては、それが如何に奇妙な振舞いであれ、それをしているのは患者本人をおいて他にないということになる。

 つまり儀礼の場で観察された出来事についての二つの相容れない記述が互に置き換えられるのである。「霊 lalaika が水を欲しがり、地面に水が撒かれると、それに跳びついて泥を食べた。」という記述が、「患者 M 氏は水を欲しがり、地面に水が撒かれると、それに跳びついて泥を食べた。」となり、「霊 musichana (少女)は、しなを作って男を誘い、引っ張っていこうとした。」は、「患者 M 氏は、少女のようにしなを作って男を誘い、引っ張って行こうとした。」となる訳である。

 しかしその結果、当の人々にとってはけっして持ち上がらない厄介な問題に人類学者は直面してしまうことになる。何故、この患者は、そうした欲望をもち、そのような奇妙な振舞いをするのだろうか、という訳だ。憑依霊 mudoe に憑依された患者は犬の鳴くような声で泣き、生きた犬を食べたがる。犬の喉に噛みついてその血をすすり、犬の血を頭からかけられて、ようやく冷静になる。さて人々にとっては、これはいかにも mudoe のやりそうなことであり、そこには理解困難なものは何もない。しかしもし、 mudoe などというものは存在せず、そうした振舞いをし、犬の血を欲しがっているのが、患者本人に他ならないのだとすると、それはとたんに理解困難なものになってしまう。

 とすれば、患者の中に何かの異常、精神障害のようなものを見てとりたくなったとしても、無理もないことである。これが第一の解釈だ。憑依儀礼や憑依霊祭祀を一種の精神療法と見る立場は古くからあったが、この今なお根強い立場の直感的根拠は、案外こんな所にあるのだ。私は精神科の医者ではないが、憑依霊の儀礼を受けるほとんどの人は、私の見る限り、日常生活においてはどこといって奇妙なところなどない全く普通の人々である。したがって、もし憑依儀礼が一種の精神療法であるとすれば、それは精神的には正常な人に対して施される「精神療法」なのだということになってしまう。つまりそれは余計なものなのだ。もちろん、これらの論者はあらゆる憑依のケースにおいて、儀礼を受ける患者がどのような精神的葛藤状況におかれていたかを明らかにして見せるかもしれない。そしてたいていの場合、たいした根拠も与えることなしに、患者が苦しんでいる病いが心身症に類するものだと仄めかしてみたりもする。しかし、それは問題の儀礼が「精神療法」であったことの証明にはなりそうにない。そもそも、その気になればどんな人に対してもなんらかの精神的葛藤やストレスをとりだして見せることなどいつでも可能なのだ。

 こう言ったからといって、憑依儀礼に「精神療法」から期待できるような効果があることを否定している訳ではない。そうした効果は、あるのかもしれない。もちろんある制度の効用について語ることが、当の制度の説明にとって代ることなどできないということは、そしてそうした効用が特に当の人々によって認知され、気付かれているものでないときにはとりわけそうであるといったことは、改めて指摘するまでもないことである。しかし私が憑依儀礼を一種の精神療法と見る立場をうさん臭く感じるのは、こんな理由からではない。そもそも、雨乞いや加入儀礼のときには思いつきもしなかったくせに、憑依儀礼のときに限ってなぜ「精神療法」なるアイディアに思い至ったのだろう。それは先にも述べたように、憑依儀礼においては、行為を主体に帰属させる我々のルールの適用が、困難に陥るというだけのことから来ているように思われる。我々の側での困難を結局主体の側の異常に転嫁しただけのことなのだ。

 憑依霊の儀礼は、そこで見られる要求や振舞いの奇妙さで我々に強烈な印象を与える。それはそうした要求や行為を当の患者に帰属するものとして見ることに大きな抵抗を示す。だからといって、それらを無理やり患者の側に帰属させるために、その困難を患者の側の異常に転嫁してしまうのは、あまりにも安易なやり方だと言わざるをえない。しかし人類学者はそれ位のことで、そこで見られるあらゆることを当の患者に帰属させるのを諦めたりはしない。別の考え方がちゃんとあるという訳だ。それが次に述べる第二の解釈である。

 儀礼を注意して見ていると、それらの奇妙な振舞いや要求に混じって、こっそりごくありふれた社会的欲望とも思えるものが顔をだしていることがある。多くの論者がこの点には気付いていた。 chiliku に憑依された女性は、家事をしたくない、料理も作りたくない、水も汲みに行きたくないと駄々をこね、美しい布を要求したりするが、それは確かに当の女性自身の要求であったとしても不思議ではない。また憑依霊 magana は金を欲しがるが、金を欲しがっているのが病人本人ではなく、霊であるところの magana なのだとすれば、これは随分出来すぎた話だという気がする。

 そもそも、あらゆる憑依霊は自分が皆から注目されることを要求するが、これこそまさにあらゆる患者の秘められた要求だったのだとは言えないだろうか。要求する対象が何であれ、人々に向って大っぴらに要求を出し、それに耳を傾けさせること、これこそ実は、患者本人が望んでいたものだったのだとさえ言えそうである。何も犬の生き血を飲むことを本人が望んでいたという訳ではない。何であれそうした奇妙な要求を人々に突きつけ、それに人々を有無を言わせず従わせること、そこに患者の隠された欲望が如実に語られているではないか。

 結局、憑依儀礼の場で表明され、同時に満足を与えられるのは、患者本人の欲望だったのだ。憑依儀礼とは人が自らの裡に秘めた欲望、要求を人々に伝え、表明する場であるというわけだ。しかし、それなら何故彼あるいは彼女は、それを普段の生活の文脈で表明しなかったのであろう。それは彼が、普段の生活においては、あからさまな要求を行なうことができる立場にないからに違いない。つまり彼は社会的な弱者なのだ。彼は自分の要求を憑依儀礼の場で、霊の権威をかりてでしか表明できないのである。かくして憑依は社会的弱者にとっての一種の間接的抗議手段、「遠回しの攻撃戦略 oblique aggressive strategy 」なのだと言うことになる。

 この説の社会学的な帰結の妥当性が問題になる以前に(そして、そこにも多くの問題があるのだが)、憑依儀礼の場が患者の欲望が表明される場であるという、その前提に到達するまでの手続の方が、はるかにうさん臭い。当の人々はしかじかの霊が何かを要求していると言うが、実は当の患者自身が何かを要求しているのだ、ということを示さねばならない。もし霊がお金や新しい衣服を要求しているのであれば、それらを欲しがっているのは、実は患者なのである。これは一応分かりやすい。そしてもし霊が犬の生血や、その他誰も欲しがりそうにない奇妙なものを要求しているとすれば、患者は自分に対する注目や人々の服従を欲しがっているのだ。なるほど、という訳だ。しかし、こんな場当り的なやり方が許されるというのであれば、如何なるものをもってこようとも、それをその人のなんらかの欲望の表明にしてしまうことが可能だということになろう。

 憑依される人が精神的ストレスを経験しているという主張にせよ、憑依されている人が自らの秘められた欲望を表明しているのだという主張にせよ、こうしたいっさいの反論を受け付けないような仕方で提出されているために、それは同時に一切の検証も受け付けないものになっている。何れの主張も、むしろ逆立ちした形で、つまり、憑依儀礼の場での言動を患者本人に直接帰属させねばならないという必要が産み出したものにすぎない。しかし、そもそも本当にそんな必要があったのだろうか。

 憑依儀礼の場で表明される欲望を、霊に帰属させるか、それとも当の患者に帰属させるかと言う不毛な二者択一を避ける方途はもちろんある。つまりそれを、いずれにも直接は帰属させないという途である。犬の生血を欲しがっている霊など実在するわけがない。かと言って、患者がそれを欲しがっているわけでもない。それを欲しがっている主体などもともとなかったのだ、と考えればよいのである。それは単に患者によって、演じられたものにすぎない。彼は犬の血を欲しがっている「ふりをしている」だけ、あるいは犬の血を欲しがるものだとされている mudoe なる霊のふりをしているだけなのだ。そう言えば、憑依儀礼の場で生起するあらゆる言動は、そもそも実に芝居がかっているのだ。musichana(少女)の霊に憑依された男の振舞いは、いかにも少女らしさを殊更に誇示するような所作に満ちている。全てが演技であると考えれば一切のことに辻妻があう。こうして結局は、それは患者に帰属する行為となる。これが第三の解釈である。

 「演技」なる観念は、我々を先の不毛な二者択一から解放すると同時に、儀礼の場における発話や行動の全てを患者である主体に帰属させる一方で、それら発話や行動の「内容」自体にはその主体が責任を負わないで済むようにさせてくれる、実に便利な観念だったのだ。ただ一つだけ都合の悪いことがある。当の患者にとって霊のふりをして見せなければならない理由などどこにもないのだ。

 もちろん例の「弱者の遠回しの攻撃戦略」説にとっては、これは不都合でも何でもない。この説によると、患者には霊の「ふりをして見せる」だけの充分な理由があることになるからである。霊の言葉であると言うことではじめて人々に聞いてもらうことの出来る欲望を、彼はもっているというのであるから。

 憑依霊信仰は、ここまで来ると一種の欺瞞以外の何ものでもないということになろう。仮にそれが自分自身に対する欺瞞、自己欺瞞の可能性を含んでいるとしても、こうした見方は現地の人々の信仰生活に対する、きわめて皮肉な見方であるには違いない。しかし、実際には人々は病気を治すため、不快な症状を取り去るために、そして二度と引き続きこうしたことに悩まされることの無いようにと願ってこそ、この儀礼を受けていたのである。彼の関心は病気にあった。そしてたいていの人は、憑依霊に「惚れられること」、つまりそれに憑依されることを、煩わしいことと考えこそすれ、けっして望ましいものとは考えていない。人々の憑依霊に対するこうした態度と、それを自らの欲望を実現するための絶好の機会と見る説との間には、ほとんど越えがたい隔たりがある。

 ところでドゥルマに見られるような憑依現象に対する人類学者の言説のほとんどにおいては、ここで簡単に論じた三つの立場が混在して認められるのが実際である。患者は精神的な葛藤を経験しているかもしれない。彼の病気はいわゆる心身症に類するものであるかもしれない。儀礼の場での彼の言動や要求は、彼の内面の深い無意識において欲望されているものの表現かもしれない。あるいはもし彼の要求が新しい衣服や金などであれば、それは単に彼が常日頃欲しがっていたものであるかもしれない。あるいは、それがあまりにも度外れたものである場合、彼は単に霊がそうであるのにふさわしく演技しているのかもしれない。その時々に応じて、あるいは異なる論者ごとに、こうした解釈のいずれかが、あるいはそれらを適当に組合せたものが、憑依の解釈として提出されているのである。しかし、これらの解釈はいずれも、儀礼の場での患者の言動を、あくまでも「彼の」言動として分析せねばならないという、人類学者の側での頑固な要求から産み出されたものに過ぎなかったのである。

2-2. 極端から極端へ

 それならいっそのこと、正反対のやり方をとってみたらどうであろう。つまり儀礼の場で観察される言動、振舞いを、患者の言動としてでなく、人々自身がそう考えているところに従って、患者に憑依している霊の言動として分析してしまおうという訳である。患者が普段の彼とは全く異なった言動をしているとか、彼が霊の「ふりをして」喋ったり行動したりしているとか考える代りに、文字どおり霊がしかじかの振舞いをしていると考えてしまおうというのである。これはちょっと考えつきそうにないやり方であるが、よく考えてみれば、記述モデルとしては、こちらの方が余程理にかなっている。Lambek は、実際このやり方で憑依儀礼に関するきわめて斬新な分析を展開している。彼は、コモロ諸島の憑依儀礼が「霊」にとってのイニシェーションとして分析できることを示し、そこに見られる諸々のシンボルが、人間にとってのイニシェーションの場合とシステマティックに逆転していることを明らかにした。つまり「霊」を実在する主体であるかのように仮定した「記述モデル」が、儀礼の表現形態にたいする「説明モデル」としても役に立つことが示されたのである。

 とは言うものの、それが憑依現象そのものにとっては、特定の文化的脈絡から一歩もでない「記述モデル」以上のものでないことは、いかんともしがたい事実である。霊の実在を前提としている限り、それは我々の文化に移植しようもないのだ。憑依儀礼の場で展開される言動が人間のとる言動としては度外れたものであるという点は、それが「霊」の言動であるということで簡単に理解できる。そもそも人々自身そうした理解の回路を辿っている。しかし同時に、「霊」の要求であるはずのものに普通の人間が普段からもっていてもおかしくない欲望、患者自身の欲望と区別することが困難であるような欲望が混じっていることも事実であるし、儀礼の場で展開される言動が、度外れてはいるが、いかにも「芝居がかっている」のも事実だ。この記述モデルは、そうした点に全く考慮を払うことができない。

 結局我々は最初の二者択一から一歩も出ることができないのだろうか。憑依儀礼の場での言動は、当の人々と同じように「霊」の言動として分析するか、結局は「患者自身」がそう振舞っているのだとして分析するかのいずれかしかないのであろうか。しかし、いずれの分析も、それ自体としては袋小路に入ってしまうということも既に明らかである。

3. 憑依の構造

3-1.事態の非人称性とその人称帰属

 実は憑依現象の真の特異性は、冒頭で指摘したように、この主体帰属の両極の間で事態が揺れ動くという事実の中にこそある。先の二者択一は、どちらもある意味では真である。従って、一方だけをとることは必然的に誤りとなる。にもかかわらず、両者は論理的には両立しそうもない。それが我々の問題なのだ。

 この二者択一の言語で欲望に関して語るとすれば、患者はある意味では彼に帰属するものであっても不思議ではない欲望を、他者(霊)の欲望として人々に示すばかりでなく(それのみだと単なる欺瞞と言うことになろう)、彼自身そうしたものとしてそれを経験している、といった言い方を採ることになろう。言い換えれば、彼は自らの欲望を他者の欲望として経験しているのだと言えないこともない。ついプロジェクションなどと言った観念に訴えたくもなろう。しかし、同様に同じ二者択一の言語で、彼は他者(霊)の欲望を自らの欲望として経験しているのだ、とも言えるはずである。例えば、mudoe がもっているとされる犬の生血に対する欲望を、儀礼の場で患者は自らの欲望として経験している、言い換えれば霊が欲しがっている物を彼自身が欲しがっているのであるから。とすると、これはプロジェクションとは正反対の過程だと言うことになる。もし一方が真だと言えるなら、それと全く同じ理由から他方も同様に真だということになる。しかし、明らかに両者は同時には両立するはずもないのである。

 こうした一見したところのパラドックスは、そもそも行為や発話、欲望などを、必ず単一のユニークな主語をもつものとして、つまりなんらかの「唯一の」主体に排他的に帰属するものとして記述してしまう我々の抜きがたい言語慣習から来るものとは、言えないだろうか。行為や発話、欲望などは必ず「誰か」の行為であり発話であり欲望である。そしてもしそれらが誰かのものであるなら、それは別の誰かのものではあり得ない。それらがこのように唯一の主体に排他的に帰属するものと考えられている以上、そもそも、自らの欲望を他者の欲望として経験すると言うにせよ、逆に他者の欲望を自らの欲望として経験すると言うにせよ、いずれにせよほとんどあり得そうにないことについて語っているのだということになろう。

 もし憑依霊信仰を理解するために必要な足場が、先に述べた不毛な二者択一の中間に位置するどこかに求められねばならないとすれば、まず真っ先に検討せねばならないのは、こうした我々の言語習慣、あるいは思考習慣ではないだろうか。もちろん、行為や発話や欲望に主語があるのは当然のことであって、単なる言語習慣の問題ではないと、言い出す方もあろう。いかなる行為や発話や欲望も、必ず「誰かの」行為であり発話であり、欲望であるのはあたりまえではないか、何をそこで問題にしようというのだ、という訳だ。しかし、本当にそう言ってよいのだろうか。それは、そう記述される限りにおいてのことではないのだろうか。事態そのものは、非人称的なものでありうるということを、ここで思い出しておいてもよい。「A氏が右手を上げた」という人称的な記述に先立って、「A氏の右手が上がった」あるいはより正確には「A 氏であるところのあの身体において右手が上がった」という非人称的な事態が成立しているということである。つまり事態そのものには人称的な主語などないのである。

 こうした事態そのものの観点から見ると、「A 氏が右手を上げた」という記述は、本来非人称的な事態を特定の主体に帰属させた特殊な記述だということが分かるだろう。つまり、とりあえずは「あの身体」として眺められている A 氏において「右手が上がった」という事態として捉えられたものが、 A 氏に帰属する人称的な事態として捉え返された結果が、「 A 氏が右手を上げた」という理解なのである。もちろん我々は事態を既にそうした特殊な記述のもとに捉えられた姿で眺めているのが普通である。しかし、いったん事態そのものの非人称性に連れ戻されると、事態の特定の主体への帰属という事柄が、実はプロブレマティックなものであることが明らかになる。

 それは意外とありふれたことである。「 A 氏が右手を上げた。いやむしろ上げさせられたといった方がよい。」あるいは、「 A 氏の右手が上がった。まるで何かに引っ張られでもしたかのように。」こんな風に語るとき我々が垣間見ているのは、事態そのものの非人称性の可能性である。我々は常日頃行なっている行為の帰属ルールの適用にちょっと自信がなくなっているのだ。

 実は、憑依において問題となっていたのも、このプロブレマティックだったのだと言える。「霊 S がしかじかの振舞いをし、しかじかのものを要求した」という記述に対して「患者 P がしかじかの振舞いをし、しかじかのものを要求した」という記述を対置するのは、的外れだったのである。本当は、両者に対して「P 氏の身体においてしかじかの振舞いが遂行され、しかじかの要求が語られた」という非人称的な事態をこそ対置するべきだったのだ。

3-2.「演技」における人称帰属の構造

 事態の非人称性が明らかになる場面のうちでも、我々にとって最も馴染み深いものの一つに演技がある。我々は、そこで不断に行為や発話を特定の主体に帰属させるルールの適用の困難に直面している。ブラウン管のなかでは既にお馴染みとなったある人物が、今憎悪もあらわに一人の男を殺そうとしている。さて、その人物が仮に沢田研二であったとしても、我々はこの憎悪と殺害の行為を「沢田研二」に帰属させる訳にはいかない。別に「沢田研二が憎悪もあらわに一人の男を殺そうとしている」わけではないのである。ではそれは「天草四郎」だろうか(突飛な例で申し訳ないが、映画「魔界転生」を思い出して頂きたい)。確かに天草四郎を主語とした方が正常な記述にはなる。しかし、その行動が、あくまで「沢田研二」によってなされていることも事実なのだ。実は、我々は「沢田研二であるあの身体において憎悪が示され、殺害が行なわれている」という非人称的な事態を、「天草四郎」に帰属させるという離れ業をごく自然に行なっている訳だ。これがそれ程奇妙なことに見えないのは、「演技」という特殊な経験の枠付け(frame)の中で、経験そのものが重層化されていることによる。つまり、こうした特殊な帰属ルールの適用に際して、我々は別に「天草四郎」が「沢田研二」にとって代ったというふうには事態を眺めていない。この事態を「演技」として捉えることによって、その「演技」がそれに帰属するところの主体としての「沢田研二」を、別の論理階梯における実体として保持しているからである。つまり演技を演技として理解するというのは、単に行為を誰それの行為として理解すること以上に複雑な過程なのである。

 それは「これは演技である」というメタ・コミュニケーションを保証してくれるような枠の中でのみ、安定した相で展開される理解の過程である。仮に沢田研二が大通りの真ん中で、いきなり「エロイム・エッサイム」と口走りながら誰かに襲いかかったとすれば、それを目撃した我々は、演技において見られるような複雑な人称帰属の過程を、そうスムースには適用できないに違いない。それは確かに「魔界転生」における「天草四郎」の振舞いには違いなかろうが、我々は「沢田研二」の身体において遂行されているそれらの振舞いを、ただちに「天草四郎」に帰属するものとしては捉えることができないし、かといって「沢田研二」その人に帰属するものとしてすみやかに理解することもできない。それは何か異様なものになる。逆に舞台において「これは演技である」というメタ・コミュニケーションを共有していない「沢田研二」の親友がもし仮にいたと仮定してみよう。舞台の上で展開している一切のことは彼女には異様で理解を拒むものということになろう。彼女はそれを「天草四郎」に帰属させて捉えることなど思いもよらない。逆に、「ジュリー、どうしてそんなひどいことをするの」と叫び出しても不思議ではない。

 さて話を憑依の問題に戻そう。憑依儀礼の場で展開する言動の一切は、いかにも芝居がかって見えた。その理由がいまやはっきりする。我々は実は「演技」の場合と同様、「患者 P 氏の身体においてしかじかの行為や発話が遂行されている」という非人称的な事態そのものに直面している。しかも人々はその事態をどうやら P 氏ならぬ主体、憑依霊 S に帰属させているらしいのだ。そして、こうした帰属様式に似たもので我々に馴染み深いものはと言えば、我々は「演技」を知っているだけなのだ。しかし、だからといって、「それは演技である。 P 氏は憑依霊 S のふりをしているのだ」と言うと、我々は大きな過ちを犯したことになる。演技において見られた複雑な帰属ルール「それを P にではなく S に帰属させよ。しかし P を別の論理階梯における主体として保持せよ」というルールが、憑依にも同時に当てはまると考える根拠など、どこにもないのである。むしろ、そこでは P は S に単にとって代られているのであり、どこにも主体としては保持されていないのである。それは「演技」とは全く別物である。

 ところで以上の議論においては、行為にせよ、演技にせよ、憑依にせよ、その人称帰属の問題は、単に観察者の側での問題として論じられただけである。ある第三者の身体において成立している事態を理解する上で、こうした問題が生じ得ることは確かに認めよう。しかし、この問題は当の行為している人間本人にとっては起こるはずのない問題ではないだろうか。彼の身体において成立している事態が彼に帰属するかどうかは問題になり得るかもしれないが、「私」の身体において遂行される発話や行為が「私」に帰属しないなどということが果たしてありうるだろうか。こうした反論が予想される。

 しかし、「この」身体において成立している事態が「私」という主体に帰属するということは、我々が素朴に考えているほど自明のことではないのだ。子供の言語発達の過程を見ても分かるように、一人称の出現は三人称の出現に先立つことはけっしてない。子供は「私」や「僕」という言葉を使い始める前に、自分をその固有名で、つまり他者がその子供を語るときに用いる言葉で語り始める。つまり子供は「あの身体」において成立している事態を一つの主体、三人称に帰属させることをまず学んでいく。そしてその延長として、次いで「この身体」において成立する事態を帰属させるべき主体を三人称的に構築するのである。それが一人称の「私」として成立するのは、そのはるか後でなのだ。ある意味では、「あの身体」において成立する事態をしかじかの主体に帰属させることよりも、「この身体」において成立する事態を「私」に帰属させることの方が、プロブレマティックなのだとさえ言えるのである。

 同じことは、「欲望」についてみればいっそう明らかである。ジラールが指摘しているように、「欲望」は基本的に模倣的である。つまり人は他者が欲望の対象としているものを、自らの欲望の対象とするのだ。ある対象に対する自己の欲望は、まず他者の欲望として経験される。

<未完>