見晴らしの良い場所:グリオールとドゴン研究





『水の神』

グリオールの『水の神:オゴテメリとの対話』[グリオール 一九九七(原書は一九四八年。以下『水の神』と略す)]は不思議な民族誌である。ある意味でそれは民族誌つまり特定の人口集団の文化や社会についての描写であるというよりは、グリオール一行による一九四六年のドゴンでの最後の約一ヶ月間のフィールドワークについて語るテキストであると言った方がよいかもしれない。一九四六年の一〇月のある日、グリオールは一人の盲目のドゴンの老人からの呼び出しを受け、彼の家を訪問する。当初はその目的すら明らかでなかったこの訪問こそ、彼の長い調査経験にとって決定的な瞬間だった。その日から三十三日のあいだ、グリオールはオゴテメリという名のその老人からドゴンの複雑な宇宙論についての知識を伝授されることになった。グリオールたちがそれまでの十年以上の歳月にわたる調査で手に入れていた膨大な、しかし断片的でばらばらだった諸事実が、オゴテメリがぽつりぽつりと語リ出す言葉とともに、グリオールの中で一気に一貫した体系の姿をとリ始める。『水の神』が報告しているのはこの奇跡である。長い、何度にも渡る地道なフィールドワークの末に、ついに調査者はドゴン文化の守護者に出会う。そして彼の口から待ち望まれていたドゴン文化の秘密が開示されたのである。グリオールはその知識を単に一つの体系として報告する代わりに、この三十三日間の対話を日を追って記述していくことを選んだ。「これまで一部の物知りが独占することになってきた仕事」[グリオール前掲書、一〇]つまり民族誌調査の仕事の実際を専門家ではない一般読者に知ってもらおうというねらいも、そこにはあった。オゴテメリとの対話のなかに訪れる何度かの啓示の瞬間。それはフィールドにおける知の成立をドラマ仕立てで我々の前に提示する。

研究対象としての全体性

グリオールは、マリノフスキーに始まる重点的フィールドワークの伝統とは異なる、もう一つの伝統、フランスの人類学におけるフィールドワークの伝統を代表している。彼は空軍将校として第一次世界大戦に従軍し、復員後民族学を志した。一九三一年から二年間かけてアフリカ大陸を横断したダカール・ジブチ調査隊に隊長として参加し、この探検の途上で、その後生涯にわたってつきあうことになるドゴンの人々(今日のマリ共和国サンガ地方に暮らす人々)と出会った。以後、彼のチームは調査のためにドゴンを繰り返し訪れることになる。

初期の一連の調査を通じて、グリオールたちが目指していたものは、マリノフスキーの流れをくむ人類学者たち同様、ひとつの「全体」の把握であった。しかし目標としていた全体性の性格が少し異なっていた。マリノフスキーにとって社会は、ある特定の場所に生息する生命をもった一個の有機体に似た、まとまりをもった対象としてイメージされていた。フィールドワークとは、それぞれの「社会」がまさに生きているその現場でそれを観察することにたとえることができた。それを丸ごと把握することが目標であった。さまざまな慣行や文化要素はそうした全体性の構成要素として、機能的に緊密に関係しあっていることが示されねばならなかった。これに対してグリオールたちが目指していたのはもう少し漠然とした全体性、例えば「アフリカ的なるもの」などという言い方で示されるような全体性の把握であった。彼が参加したダカール・ジブチ調査隊そのものが、アフリカ的なもの、アフリカ的な生や知を可視化することを目的とした博物館の展示品とその背景資料の収集を目的とした調査隊であった。「アフリカ的なもの」、そんなとらえどころのないものが具体的な研究の対象になりうるのだろうか。それはやがて、より個別的な地域(例えば西スーダン圏といった)におけるそれに、さらにそれを代表する例えばドゴンの人々のあいだに見出される「ドゴンの生や知」のようなものに限定されていくことになる。いずれにしてもこの種の全体性においては、それを構成する諸部分は、マリノフスキーの場合と違って、問題となる全体(例えば「ドゴン的なるもの」)に対する緩やかな結びつき以上のものを示すことは要求されていない。というよりも、むしろ、あらゆる事実が、「ドゴン的なもの」「アフリカ的なもの」がどんなものであるかを考える材料となるのであり、いかに多くの正確な材料を提出できるかが勝負なのである。

事実へのアクセス

この違いは、フィールド経験で何が最大の困難であったかについての、マリノフスキーとグリオール両者の相違とも関係しているかもしれない。彼の「日記」(『マリノフスキー日記』[マリノフスキー 一九八七(原書は一九六七年)]として後に出版された)がトロブリアンド諸島滞在の終わりに近づくにつれ、マリノフスキーは「物事のまっただなか、ありあまる資料の山」にいるという自覚とともに、「総合」について繰り返し語るようになる[たとえば前掲書、三五五−三五六]。あまりにも雑多な諸事実を総合しなければならない、それこそが彼の前に立ちはだかっている大問題であった。一方、フィールドにおける事実へのアクセスという問題に関しては、ときに日記の中でその困難が告白されているとはいえ、最終的には彼はある種の特殊な一望監視的な虚構を信じることができたかのように見える。村の中に張られた彼のテントから村の中で起こるあらゆる出来事を「掌のなかのように」知ることができ、また何事も彼の「注意をのがれることができなかった」[マリノフスキー 一九六七、七五]と、彼は後に書くことができた(本書第三章を参照)。

グリオールには、事実へのアクセスについてのこうした楽天性は微塵も見られない。彼は社会的諸事実に対する調査者のアクセスが、実際きわめて限られたものであることに、はっきり気付いている。それどころか彼は、調査者の諸事実へのアクセスを妨げるもろもろの障害にとことんこだわり続ける。

彼によると、現地の人々が語ることは調査者に真実を開示する以上に、調査者を真実から遠ざける故意のあるいは無意識の「嘘」に満ちている。たしかにマリノフスキーも現地の人間に嘘をつかれたと言って憤慨することがなかったわけではない。しかし現地人の「嘘」についてのグリオールの執着にはやや常軌を逸したところがある。最も誠実な者ですら、本質的な部分は偽り隠したいという本能的欲求をもっていると彼は言う。人々は、冗談や打算から、あるいは単にこちらを喜ばそうと、あるいは隣人や神に対する恐れから、などのさまざまな理由で嘘をつく[Griaule 1957:56-58]。まるで彼の周りは嘘つきどもだらけだ。グリオールの調査者は、こうした嘘を暴き立てて真実をつきとめる取調官のような役回りを演じなければならないのである。

また調査者の眼差しは、壁や塀程度のものによってすら他愛もなく遮られ、その向こう側にあるものへのアクセスを阻まれてしまう。知りたい事実は観察者の目から隠され、逆に観察者の方が、その遮蔽の背後からの人々の遠慮ない視線に逃れようなく晒されている。無力な観察者は、逆に観察される対象なのだ。「何百もの目が私たちを追っている。私たちは村中から丸見えである。あらゆる壁の隙間から、穀物蔵の陰から、注視する目がのぞいている。」[Griaule 1943: 64]彼が航空写真の魔術を夢想するのは、視覚的アクセスを拒まれた観察者のポジションに対する苛立ちからである。「空の高みから見下ろすとき、地域はそうは秘密を保てない。...航空写真を見れば、さまざまな制度の構成部分が、一連の解体された従順な姿で、各々の場所に配置されているのがわかる。人間とは愚かなものだ。隣人たちには猜疑の目を向けるが、空には全く無警戒。四囲をめぐる壁や柵、塀や垣根で囲まれた空間では、何をしてもよいと思っている。しかし彼の偉大な意気も、ちっぽけな志も、聖域も、ゴミも、杜撰な修理個所も、拡張の野心も、すべてが航空写真のなかに露呈する。」[Griaule 1943:61-62]人類学者は、現実には自らがけっして手にしていない位置、見晴らしの良い監視所を夢見ている。

しかし最も大きな障害は、人類学者自身の存在の空間的、時間的制約である。人は同時にいくつもの場所に居合わせることはできないし、ずっと一つところに居続けることもそうできるものではない。この点で、英米流の一人の人類学者による単独調査よりも、チームによる調査をグリオールが好んでいたのも理由のないことではない。例えば彼はドゴンの葬送儀礼を例にあげ、こうした何百人もの人々が参加する壮大な催しにおいては、単独の観察者などたちまち雑踏にまぎれて、行事の全貌を把握するどころか断片的で混乱した印象を書きとどめるのがせいぜいだろうと言う。こうした出来事を適切に記述するには、要所要所に配置した観察者の共同作業が不可欠である。例えば以下のような具合に[Griaule 1957:47-52]。観察者一は村近くの崖の上から儀礼の全体的な大きな動きをチェックする。観察者二は月経中の女性たちが集まった一角に、観察者三は松明をもった若者の一団に、それぞれ混じっている。観察者四は楽士たちの観察。観察者五は屋根の上から周囲でおこっているさまざまな騒ぎに注意を払い、また観察者六とともに頻繁に死者の家に行き、最新のニュースをチェック。観察者七は、中央舞台で行われる仮面ダンスや儀礼的戦闘に対する女子供の反応の観察。各自の観察内容がシンクロできるように、それぞれ正確な時間も合わせて記録する。こうしてこの複雑な儀礼の全貌が把握可能になる。

この最後の点は、フィールドワークについてのマリノフスキーとグリオールのとらえ方の違いを際立たせている。白人の社会からたった一人切り離されることによって、現地の社会への参加が可能になり、こうした孤独な参加を通じて、民族誌家は土地の人々の視点を手に入れることができる、そうしてそこで起こっていることならまるで掌のなかのようによくわかるようになる。マリノフスキーはこんな風にフィールドワークを思い描いていた。グリオールにとっておそらく、マリノフスキーのこうしたフィールドワーク像はきわめて非現実的な夢物語に見えたに違いない。おそらく読者の多くの目にも、観察者にとって事実へのアクセスがさまざまに制約されているというグリオールの指摘の方がより現実的であり、複数の観察者による共同作業の提言も、単独者の孤独な作業などよりはるかに理にかなっていると思えることだろう。

観察者の視点と現地人の視点

実際には話はそう単純ではない。例えば、グリオールのフィールドワークについて最も洞察に満ちた考察を行なっているクリフォードは、こうした大人数のチームによる観察行為は「当の儀式の進行を必然的にかき乱すに違いないし、おそらくは違った方向に向けてしまうだろう」と注意を喚起している[クリフォード 二〇〇三、一〇二]。どこかの村祭りにテレビ局のクルーが大挙して押しかけているようなものである。そこでの出来事のいくつかは、「やらせ」とまではいかないにしても、こうしたやたらと目立つ観察者を意識して、好むと好まざるとにかかわらず、いくらかは彼ら向けに演じられたものになってしまうだろう。

しかしこれはどちらかというと些細な問題だ。むしろそれ以上に問題なのは、こうしたグリオール風の全貌把握−−というよりはむしろ全事実の把握−−がもたらす知識の性格である。例えばこうして記述されたドゴンの葬送儀礼の全貌。たしかに、複雑な出来事のただ中で右往左往するばかりで、その断片しか手にいれられない単独の観察者は、その儀礼をそうした姿ではけっして知ることはできないだろう。しかし、当のドゴンのどの個人にとっても同じことなのである。ドゴンの誰であれ、一人で一部始終を見ることなどできず、そうした形で全貌を知りうる立場にないという点では、この孤独な観察者と似たり寄ったりのはずである。グリオールらの手に入れるリアリティは、単独の参与観察者にとってのみならず、肝心の現地の人々の誰にとってのリアリティでもないのである。現地の人々の葬送儀礼経験とその知識が、もし仮に一つの全体的な葬送儀礼像を結んでいることがあるとしても、それがグリオールのやり方で手にいれられたものでないことは明らかである。それは、個々のそれぞれは断片的な直接経験しかもたない主体が形づくる実践的なコミュニケーションの回路のなかでのメッセージの交換を通じて構築され、流通している社会的に形成されたリアリティであろう。このような「現地人の視点」を手に入れることに意味を見出す立場からすると、逆にグリオール風の全貌把握の方がむしろ問題含みだということになるかもしれない。

社会的事実の視点依存性

事実にアクセスしようとする観察者に課せられるさまざまな制約を、どんな風に乗り越えるか、それに対するグリオールの答えは、彼が社会的事実についてのある一つの考え方を暗黙のうちに前提としていることを示している。もしかしたら読者の多くにとってもそうかもしれない。それはつまり、社会的事実も、他の自然物一般がそうであると普通考えられているように、観察者の視点には依存しない、つまり誰がそれを観察しようと一つの同じ事実でありつづけ、その本性を変えたりはしないという想定である。日本人の観察者であろうと、ドゴン人であろうと、白い犬は誰が見ても白い犬であるように。もしそう見えなければ、その観察者は単に間違っているのだ。内部の観察者と外部の観察者にもし違いがあるとしても、それは単にアクセス権限の違いに過ぎない。事実に対する、一方にとっては容易であるかもしれないアクセスが、他方には阻まれていることがしばしばあるという違いくらいのものである。それさえクリアすれば、フランス人であれ、誰であれ複数の観察者の共同作業のほうがたった一人のドゴンの観察者よりも首尾よく、例えば複雑な葬送儀礼といった社会的事実の全貌をとらえることができるのは当然だということになる。「現地人の視点」など何も苦労して手に入れるほどのものではない。というよりもむしろ、フランス人が見るのとドゴン人が見るのとで、それに応じて事実そのものが異なってきたりするようなことはなく、単なる誤りか、解釈や意見の相違以上の違いが両者にあるわけではない。苦労して手にいれねばならない他者の視点など、そもそもなかったのだというわけである。問題はむしろ事実へのアクセスを確保することの方である。

しかし読者は社会的事実について、違う見方があることもご存知だろう。社会的事実は自然物とは違い、ソシュールが言語について指摘したように、それを見るものの観点がその存在の仕方そのものを左右する構成要素になっているという見方である。言語は、それを話す共同体の内部の人々には、意味をになった言語音として経験されるが、その共同体の外の人間には、雑音とまではいかないにしても単なる音響としてしか経験されない。これはけっして同じ一つの事実に対する違った見方--正しいとか誤っているとかが問題になるような--の問題ではない。その言語共同体の話し手は、音響としての無数の差異のどれを無視し、どれを区別の元になる差異として聞き取るべきかを、一種の体系的な観点(聴き方)として身に付けている。言語の単位は、この身に付けられた観点のなかにのみ一つの現実的対象物として出現する。この体系的観点こそが言語という存在の内実なのである。ある言語を研究するためには、まずそれを言語として成立させているこの体系的観点を身につけることから始めねばならない。社会的現実、社会的事実についてもそれと同様だと考えるのがこの見方である。社会的事実がしばしば、それを成り立たせる特定の観点あるいは眼差しのもとでしか現象として成立しないということを知るためには、例えば、ためしに江戸時代におけるセクハラの発生件数でも数えてみようとしてみれば充分であろう。

仮にこのように社会的事実が、ある共同体に所属する者が身に付けている特定の観点あるいは物の眺め方のもとで成立しており、人々の実践のコンテクストである社会的世界がそうした社会的事実によって構成されており、人々の実践がそうして成立した社会的事実をターゲットとしまたそれに基礎付けられているのだとすれば、ある社会の人々の実践を、その共同体に属さない者が観察を通じて理解しようとするのは、いささか心もとない試みだということになるだろう。なぜなら実践の、こうした観点が作り出しているコンテキストは、まさに目には見えないからだ。もはや単に事実へのアクセスを確保することが問題なのではない。その事実を成立させているところの観点(あるいは身に付けられた体系的観点と実践の複合体)についての洞察を手に入れないことには話にならない。「現地人の視点」が一つの理論的な問題となるのは、こうした形においてでである。

グリオールのフィールドワーク

グリオールは現地人の視座と観察者の視座とのあいだに、アクセス権限以外の本質的な違いを想定しない。社会的事実は、それを眺める視座とは独立した客観的な事実である。グリオールの構想は、人々の語りの嘘をあばくことにせよ、航空写真の夢にせよ、組織的観察チームにせよ、ある意味で当該社会の外部に、社会的事実についての真の知識を獲得する特権的な場所、全貌把握の足場を構築しようとする試みであるように見える。彼には、マリノフスキーとは異なり、自らその社会の一員になってみようという考えはないし、フィールドワークについての単なる虚構としてすらそうした構えを採用する気はないように見える。グリオール一行の調査の様子は、『水の神』の冒頭の朝の光景のなかに印象深く記されている[グリオール 一九九七、一四−一七]。彼らのチームが滞在している隊商宿に朝が来る。その中庭は、集まってきたドゴンの人々で次第に活気づいてくる。「情報提供者や通訳は壁にもたれたり、中央の大石や家のあがり段のところに腰をおろしながら待機の姿勢をとっている。そして彼らは、名前を呼ばれるたびに一段となって中に入っていく。」宿のいたるところで調査が開始される。ベランダの奥まった片隅では一人の白人調査者が、一人の老人に向かってある供犠について鋭い質問を投げかけている。北の回廊では別の女性調査者が四人のドゴン人に何かを実演させている。北の部屋では、別の調査者が祖先祭祀について聞き取りを行い、南の回廊ではさらに別の女性調査者が一人の男から祈りの文句を書き取っている。「前の日もその前の日も、この十五年というあいだ白人がこの地に滞在するたびに...繰り返されてきた」[前掲書、一四]というこの調査風景はさながら出張研究所あるいは出張実験室といった趣である。現地社会に飛び込みそこに参加しようとする孤独な観察者というマリノフスキー流のフィールドワークのイメージからは、たしかに随分かけ離れている。

オゴテメリとの対話をどう位置づけるか

『水の神』あるいは盲目の老人オゴテメリとの三十三日間にわたる対話の物語は、グリオールの調査方法論とその前提に対してどのような位置を占めているのだろうか。クリフォードはオゴテメリとのこの対話を、グリオールの民族誌的アプローチの大きな変化に結び付けて論じている[クリフォード前掲書、八七]。オゴテメリ以前/オゴテメリ以後に分けて考えることができるというのである。それによると、上で紹介したような調査方法論はもっぱらオゴテメリ以前に特徴的なものであり(クリフォードはそれを「資料考証的 documentary」アプローチと呼んでいる)、オゴテメリ以後はグリオールたちの調査は、イニシエーションあるいは加入儀礼を経た新参者に秘儀的知識が伝授されるのにも似た対話的なモデルによってとらえるのがよりふさわしいものに変貌していった(クリフォードはそれを「イニシエーション的 initiatory」アプローチと呼んでいる)。

たしかにこの三十三日間の対話においては、情報提供者を攻め立ててその嘘をあばき、真実を手に入れようとするグリオールは見られない。それどころかここにいるのは、オゴテメリの一見したところ意味不明な語りすら却下したり問い詰めたりすることなく、真実への鍵として素直に耳を傾けているグリオールの姿である。実際ここでは知識獲得という人類学者の側の実践によりも、知識の開示という現地の一人の人間の行為の方により大きな強調点が置かれている。その点でもたしかにオゴテメリ以前の調査とは主客がいれかわっているようにみえる。

「オゴテメリに出合う以前から、すでに多大の研究が行なわれており、この文化の大きな側面が明らかにされ、詳しく調べられていた。仮面の働きは分っていたし、死者の祭祀やある種の供犠のメカニスム...も分析ずみだった。専門的な調査団による何度もの調査を通じて、事実の広がりの中に、いくつかの道がつけられ、その道は、人間の内奥にひそむ動機、細密な論理の連繋、理由と事情、そしてドゴンの思考の精巧なメカニスムといったものの隠されている至高の場所へと収斂していくものと思われた。
だがその至高の場所は、あるとぎは取りつくしまのない巖のように見えるかと思うと、またあるときは定かならぬ霧のように思われるのだった。
オゴテメリは、一切が結ぴ合わされているこの権威ある中核を開示するという奇蹟をやってのけた。それぱかりでなく、彼は儀礼から儀礼へ、規則から規則へと諸制度を相互に結びつけて横断する連関を描いてみせたのである。」[グリオール前掲書、二〇三]

人類学的知の形成における、現地人の--単なる情報提供者という以上の--決定的に重要な役割が、ここでは認められている。

オゴテメリとグリオール二人の対話は、しばしば読者の理解を絶した禅問答のように進む。例えばオゴテメリは水の精霊ノンモが牡羊の姿で描かれている図柄について説明する。その図柄では牡羊は角のあいだにヒョウタンをのせている。オゴテメリは言う。「ヒョウタンは太陽だ。体は大地で、鼻づらが月だ。そして目は天の星だ。」グリオールは「この牡羊は同時に世界のシステムの象徴でもある。」と注記する。オゴテメリは言う。「牡羊はこのヒョウタンを頭の上に乗せている。それは睾丸である角のあいだにはさんでおくためで、額の上に立っているペニスをその中に入れるためだ。」グリオールは「ヒョウタンは女のノンモである」と説明している。「牡羊の姿に変身したノンモは、下半身からは雨と霧をふらせる。そして上半身からは、太陽の女性や、女や地中に埋められた種子の中に、実り多いたねを注ぐのである。」オゴテメリは続けて、太陽の光線がノンモの火であると言い、その働きを次のように説明する。「光と熱をもっている光線は水を吸って、上にあげる。この水を雨の形で下におろすのもやはりこの光線だ。それは良いことだ。一つの運動になるこの行ったり来たりは良いものだ。ノンモはこの光線を通じて、生命力を取り戻したり与え直したりする。」グリオールは註釈する。「彼(グリオール)は平均的な理解力をもった白人にとっては不可解なある種の同一性に直面していた。対話の相手が、水と火を対立物としてではなく相補物として話しているのを、彼は心地よく謙虚に聞いていた。」[前掲書、一五一−一五二]

読者である我々は、この対話の内容に驚く以上に、そもそも対話が成立していること自体に、グリオールにこの謎めいた老人の対話の相手が見事につとまっていることに、むしろ驚いてしまう。我々には窺い知れない、言わば内輪の会話に立ち会っているような気にさせられさえする。この対話は、許された者つまり秘儀的世界への参加を認められた者に対する秘密の知識の伝授以外のなにものでもないように見える。まさにクリフォードが指摘するように、これは一種のイニシエーションなのである。

対話者の資格と物語的枠組み

言うまでもなく、これをそのように見せているのは、グリオール自身のテキストである。たとえば二人の対話者、グリオールとオゴテメリの資格認定の用意周到さもその特徴のひとつである。

オゴテメリが最初に紹介されるとき、彼自身の特別な知恵が強調されると同時に、グリオールがその知恵の伝授を受けるにふさわしい段階に到達していたこともあわせ記されている。

「下オゴルに住み、事故によって盲となった狩人オゴテメリは、その不具のためにじっくりと知識を身につけることができたに違いなかった。たぐいまれな知性、盲目にもかかわらずかくしゃくたる肉体、それにこの地方一帯で名高い知恵とによって、彼は白人の行なっている民族学的仕事の目的を正しく理解し、自分の知識を伝授する機会を十五年のあいだ待ち続けていたのだった。彼は、これらの白人たちがもっとも重要な儀礼や慣習、制度に精通するようになるのを待ち望んでいたに違いなかった。」[前掲書、九]

オゴテメリは十四歳の時から二十年以上にわたって祖父から宗教的な奥義についての教えを受けていたのだという。そして彼を盲目にした事故(猟銃の暴発)があってからも彼はより多くを学び、「自分自身のなかにひきこもり、祭壇にかがみこみ、精通したことばの一言一言に注意を傾けることによって、この断崖地方にあってもっとも力強い精神の一人となっていたのである。」彼の名前はこの地方で広く知れ渡っていた[前掲書、二五]。対話の一方の側の資格--部族を代表してその知識を白人に伝授するべき資格--については申し分がない。

対話のもう一方の相手であるグリオールの資格については、より念入りである。グリオールのドゴン文化に対する精通ぶりは随所で強調されている。例えば「刈り入れのあとの寂しげな畑の畦道を白人は歩いていた。...彼はオゴルにあるこの木をすべてその名で知っていたし、中でも年を経た20本ばかりの木は古い順にいうこともできた」[前掲書、七九]、あるいは、「白人は、人間が不死性を失ったことから生じた多くの儀礼や振る舞いや表象を、オゴテメリから詳しく聞きなおす気はなかった。死者に関する諸制度はよくわかっていたのだ」[前掲書、二三六]といったくだりである。しかしグリオールの知識の豊かさは、オゴテメリの目に映ったそれとして提示されるとき、もっとも見事に示されることになるだろう。

例えば最初の対話を開始するに当たってオゴテメリは逡巡するのだが、それはグリオールがすでにもっている知識のゆえに他ならない。

「どのようにして白人に教えを授けたらよいのだろう。どのようにしたら白人を、儀礼や信仰やさまざまな事情に通じるようにできるだろう。それにこの白人はすでに仮面の秘密を解いていたし、その秘密言語も知っていた。しかもこの男はこの国を四方八方歩きまわって、いくつかの制度についてはオゴテメリと同じくらいよく知っていたのだ。」[前掲書、二四]
「オゴテメリは、供犠の作用の仕方についてはこれまで一度も詳しく話さなかった。彼はこの白人がその問題を解決してしまっていると考えていたのだ。この白人が色々知っているのは分っていたし、彼にとってみれば、それはいうまでもないことに思えたからだった。彼としては、供犠の制度については教示すべきことがいくつもあった。ただ相手が儀礼の様々な実践や表象に精通するようになるのを待っていたのだ。」[前掲書、一八三]

こうした記述は驚くべきものである。いずれもグリオールには直接知りようもないオゴテメリの語られない内面に関係しているのだから。いったいグリオールはどのようにしてそれを知ったというのだろう。そもそもこの三十三日間の対話がオゴテメリの側からの積極的な働きかけによってもたらされたものであること、グリオールが求めたものでなかったことをグリオールは強調していた。それはグリオールがこの知識を授けるにふさわしい者として認定されたことを含意していた。しかしここでは、グリオールはより念入りに、オゴテメリの心の中の声によってそれを直接語らせている。それは、こうした小説的手法で、下手をするとあざとくすら見える危険を冒してまではっきりさせておかねばならないことだったのかもしれない。まさにこれこそが、オゴテメリとグリオールの三十三日間の対話をきわめて特別な性格のもの、つまり土地の秘密の知識の正当な守護者から、彼にその資格を認められた特別な白人の入門者への秘儀の伝授として提示することを保証しているのであるから。

私は、オゴテメリのこの地方での重要性やグリオールのドゴンへの精通ぶりに関するこうした記述が、事実に反していると言いたいわけではない。また二人の対話が、資格を認められた入門者に対する、知識のイニシエーション的な伝授という色彩を帯びていたことも。おそらくそのとおりだったのであろう。私が問題にしたいのは、このことがなぜあえて強調され、『水の神』における民族誌的知識の提示の枠組みにまでなっているのだろうかという問題である。ドゴンの宇宙論は、ただそのようなものとして淡々と紹介されてもよかったはずであるし、仮に一人の長老が語ったものとして提示されるにしても、語り手の資格についてはともかくとして、聞き手であるグリオールの資格についてあれこれと述べたりせずに、ただその内容を記述するという書き方も可能だっただろう。序文において、この知識がけっして秘儀的知識ではない、「というのも老年に達した人間はすべてそれを身につけることができるから」[前掲書、九]と、グリオール自身がわざわざ断っているだけに、なおさらである。

『水の神』のイニシエーション的枠組みはさらに、我々になじみ深い一つの原型的物語を強く思い起こさせるものでもある。主人公が異世界に赴き、さまざまな試練を経て自らの資格を証明し、その世界の住民(精霊の女王、魔術師などなど)から秘密の知恵や技を伝授されて帰還するというタイプの物語とのあきらかな類似。それどころか『水の神』はそのままこのタイプの物語の一つですらあるように見える。人類学のフィールドワークには、もともとこの種のロマン主義的想像力がまといついているのだが、グリオールの叙述は、この物語的想像力を彼の民族誌的知識の提示の枠組みとしてあからさまに利用しているかのようにも思われる。少なくとも読者の方では、知らず知らずのうちに、そうした物語を『水の神』のなかに見出してしまうことになる。

特権的な観望点を求めて

読者には私が民族誌的知識の提示法をめぐる些細な問題に拘泥しているように見えるかもしれない。しかし『水の神』のこうした物語的枠組みが指し示しているものが何であるかを明らかにしておくことには意味がある。すでに述べたように、クリフォードはオゴテメリとの出会い以前と、それ以降とでグリオールの民族誌的方法論には大きな違いがみられると論じている。たしかに見かけ上はそのとおりである。しかしここで検討してきた『水の神』の叙述枠組みの特徴は、フィールドワークと社会的事実に関するグリオールの見方が基本的なところではそれほど大きく変わってはいないということを示唆しているようにみえる。最初に紹介したような調査方法論についてグリオールが体系的に述べているのは、時間的にはあきらかにオゴテメリ以降のことであるので、この点からしてもオゴテメリとの対話以前と以後とのあいだに、いたずらに大きな違いを求めるのは的外れだとわかる。

グリオールは一貫して民族誌的観察者の事実へのアクセスの制約の問題にとりつかれている。個々の観察者の知識は、部分的で限界があり、見通しを欠いている。この認識があるからこそ、彼は航空写真によって比喩的に喚起されるような全貌把握の特権的なポジションを夢見る。彼が思い描いている一つの解決は、多数の観察者の共同によって、いわば社会の外側にこうした特権的な観望地点を構築することである。

オゴテメリの呼び出しを受けたグリオールは、チームによる共同調査の場--長年にわたってドゴン文化の全貌を把握する特権的な知の生産現場であった--を独り離れ、オゴテメリとの対話的関係にコミットする。『水の神』の物語は、まさに共同調査者の活動の描写から始まり、オゴテメリからの使いの少年の到着、そしてオゴテメリとの邂逅へと進んでいく。しかしこの対話的関係への移行は、全貌把握を可能にする特権的な観望地点の探求をグリオールが放棄したことをいささかも意味していない。むしろそれは新たな特権的なポジション、そこからすべてのドゴンの知が見通せる観望地点の発見を意味していた。社会の外側にではなく内側に見出された全貌把握の知が成立するポイント、それがオゴテメリと彼との特権化された対話に他ならない。『水の神』における物語的枠組みと知識の伝授者と入門者の資格の強調は、もっぱらこの事実を保証するために駆りだされているのである。

オゴテメリ以前と以後を通じて一貫しているのは、外来の観察者の視界が部分的で制約されているという事実の上になされる特権的な立脚点の追求、そこに立ったときに社会がまさにその全体性を一望のもとにあらわすであろうような特異点の追求である。オゴテメリとの邂逅は、グリオールにそうした特異点が社会内部に存在するという希望を抱かせた。『水の神』はまさにそうした約束の書でもある。

しかし我々はここで、はたして社会なるものが、その内部の者であれ外部の観察者であれ、誰かにその全貌を一気に開示するといった形で経験可能なものなのかと自問してみてもよいかもしれない。それはグリオールのプロジェクトにおける、社会的事実と社会的全体性についての想定そのものを、もう一度問い直すことでもある。

最後に再び、このグリオールの想定とマリノフスキーの思い描いたフィールドワーク像とを比較してみることは示唆的である。マリノフスキーは、社会的リアリティに対する観察者も含め個々人の経験の部分性と制約に、グリオールほど悩まされてはいないように見える。その一方で、彼は特権的な知識の源泉を探し求めるようなこともしていない。現地の人々の中に自分たちの社会の全体を把握している人がいるとは、彼は想定していない。彼の参与観察は、対象社会の内であれ外側であれ、どこかにこうした不動の観望拠点を見出す作業ではない。さまざまな活動にその都度参加することを通じて、それぞれの活動における一参加者の視点を、そしてそれのみを獲得することを目指している。それらのどの一つをとっても部分的で制約された視界の中に現れる諸事実は、したがって、理論的に総合される必要があった。社会の全体性は、観察された事実そのものの中にではなく、理論的にのみ見出される。

グリオールとマリノフスキーの研究対象に対するスタンスはさまざまな点で対照的である。そしていずれもが、どこか極端な仕方で、個々人の社会的経験の部分性と全体性との関係を描き出しているように見える。我々はグリオールにおいてもマリノフスキーにおいても暗黙の前提として想定されているこの両者の関係を、事実問題として検討する必要があるだろう。それは、各人がそれぞれが置かれている位置で手にいれる局所的な経験と社会的事実が、コミュニケーションの回路を介してどのようにつながっているのかを問う問いである。

参考文献

クリフォード、ジェイムズ 二〇〇三[1988]『文化の窮状―二十世紀の民族誌、文学、芸術』太田好信他訳、京都:人文書院

グリオール、マルセル 一九九七[1948]『水の神:ドゴン族の神話的世界』坂井信三・竹沢尚一郎訳、東京:せりか書房(原題は『水の神:オゴテメリとの対話』Griaule, M., 1948, Dieu d'eau: Entretiens avec Ogotemmeli. Paris: Editions du Chene)

マリノフスキー、ブロニスラフ 一九六七[1922]「西太平洋の遠洋航海者」寺田和夫・増田義郎訳、『世界の名著 五九 マリノフスキー・レヴィ=ストロース 』東京:中央公論社(抄訳である。)

マリノフスキー、ブロニスラフ 一九八七[1967]『マリノフスキー日記』谷口佳子訳、東京:平凡社

Griaule, M., 1943, Les Sao legendaires. Paris: Gallimard.

Griaule, M., 1957, Methode de l'ethnographie. Paris: Presses Universitaires de France.


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