異文化理解の戦略 : ディンカ族の「神的なるもの」と「自己」の観念について |
『福岡大学人文論叢』に2回にわけて掲載されたものであるが、ここでは一つのファイルにまとめてある
人類学者が自らとは遠く隔たった社会の、一見したところ奇妙な、しかじかの慣行や制度、あるいはそうした社会に住む人々の経験について理解したと言うとき、そこでは一体何がおこっているのだろう。またこのような理解は如何にして可能になっているのだろうか。多くの人類学者は、こうした問いに対する答を用意していないように見えるし、そもそもこうした問い自体にさして意味があるとも考えないであろう。もちろんそれには充分な理由がある。
第一、もしこの問いが「理解とは何か」をめぐる一般的な問いを含んでいるとすれば、それは何も人類学に限った問題ではなく、もはや伝統的な意味での人類学固有の問題領域に属するものとは言えないようにも思えよう。そうした問いは、よりふさわしい人々、例えば哲学者に安心してまかせておいたほうがよいということになる。仮に人類学者が哲学者の書くものを大して読んでおらず(2)、また後者の成果をそれ程あてにしていないにしても、こうした場合には喜んでこの種の分業を認めたい気になるのである。第二に、人類学者の少なからぬ人々が自らの活動を一種のパズル解きのようなものとして捉えており、その限りにおいて理解の問題はそっくり背景に退いてしまうという事実がある。その場合、理解するということは、単に「説明される」ということ以上の何ものでもない。人類学者はある「わからない」現象を説明しようとする。その現象がそれによってうまく説明された場合、その現象は理解された、つまり「わかった」ことになるというわけである。こうして理解の問題は、第一の場合には人類学の内部では解決不可能な問題として棚あげにされることになり、第二の場合には、すでに解決済みの問題として不問に付されることになるのである。
しかし、こうした錯覚にいつまでも浸っていてよいわけでもなかろう。フィールドを含む自らの活動において不断に試されているのが、異文化の諸制度や経験に対する人類学者の理解の能力に他ならないとすれば、しかもその理解の能力の限界のぎりぎりいっぱいのところが試されているのが通例であるとするならば、そこで何がおこっているのかにもっと注意を向ける人類学者がいてもおかしくはないはずである。にもかかわらず人類学が、理解の問題を主題化することなしにこれまでも充分やってこれたし、また今後もあい変らずやっていけるだろうと考えているとすれば、こうした錯覚は実に根深いものと言わねばならない。実際には、他のどの学問的営為にもまして人類学者の活動こそが、その中で理解の問題を考えるのに最も適した場面を提供しているのであり、人類学者の言うところの「説明」なるものが、語の厳密な意味での説明とはほど遠いものだと知ることこそが重要なのである。
「説明」を我々が普段使っているような漠然とした意味で用いて、理解を説明の産物だと考えること自体には、無反省であるという点を除いては、別段問題はないといえるかもしれない。しかしそこで同時に、「説明」がより厳密な意味で、つまり既知の概念や命題を既知の手続きに従ってつなぎ合わせたもの、それによって未知の現象が結局のところ既知のものに作り変えられることになるもの、としても考えられているとすれば、そこにはすでに自らの活動に対する大きな誤認と、理解の問題を解決済みのものと見做させることになる錯覚が忍び込んでいる。というのは人類学者が何かをそれによって理解したとする際の「説明」が、「科学」の言説を特徴付けるこうした厳密な意味での説明、トートロジーの網の目を張りめぐらす作業であることは、実際にはまずないからである。(3)
とすれば、いったいそれは何なのであろうか。この問いはちょうど「理解」が問題となるまさに同じ文脈で発せられる問いなのだ。
これを不当な非難だと感じる人類学者が多いだろうことは、容易に予想される。自分達が、未知のものを既知のものに還元する、あるいは既知のものと少なくとも関係付けるという作業を行なっているのだと信じ、従ってそれを正確な意味での説明であると感じている人類学者も少なくないはずだ。(4)しかし私は、そこに自らが用いる概念の既知性に対する盲目的な信仰を確認するだけだろう。
例えば、一連の一見したところ理解困難な行為が記述され、ついでそれが神への供犠であると説明されたとしよう。これはちょっとありそうもない例であるが、今の議論の目的には充分かなっている。この場合、その一連の行為が神への供犠という既知の概念に関連付けられたのだ、と言えるような気がするかもしれない。しかし実際にはそうではないのだ。当の説明されるべき一連の行為と関係付けられるというまさにその事実を通じて、実は「神への供犠」という観念そのものが変質をこうむってしまっているからである。
その一連の行為が、我々がこれまで「神への供犠」として語ってきたもろもろの行為と何らかの点では異なったものであることを認めたうえで(さもなければ、そもそも「説明」が要請されることもなかったであろう)、なおかつそれを「神への供犠」として語ることは、そうした一連の行為について何がしかを学んだということであると同時に、あるいはそれ以上に、「神への供犠」という言葉のそうとは明確に意図されてはいない比喩的な転用であり、その言葉の一つの新たな使用法を手に入れたことでもあるのだ。言い換えればそれは、この言葉の未知の文脈における使用であり、そこにはその意味の変質が必然的に伴うのである。「一種の」という言い方は、こうした意味の微妙なズレの意識をしばしば表明している。問題の一連の行為が「一種の」神への供犠であると語られた場合、それを、既に知られているさまざまな「神への供犠」の「種類の一つ」に、当の行為が同定されたことを意味するととってはならない。それはたいていの場合むしろ「神への供犠」に、それまでは知られていなかった新しい種類を付け加えることなのである。
つまりこうした「説明」が行なわれる際におこっているのは、単に説明されるべき対象が既知の概念に関連付けられるといったことだけではなく、当の概念自体の既知性にほとんど気付かれないほどの「ほころび」が生じ、その開口部を通じて当の概念に暗黙裡の変容がもたらされるといった事態である。そうした説明は、もはや既知の概念をそれに許された既知の手順に従って使用したものとは言えず、その概念のある程度新奇な思いがけない使用を表しており、しかもそれは当の概念によってというよりは、むしろ説明されるべき当の対象によって逆に正当化されたものなのである。これは我々の日常言語においてはごくありふれた過程であり、エスノメソドロジーが「相互反照性( reflexivity )」の名で呼んでいるものがそれに相当するといったことを、ここで改めてくだくだしく述べる必要もあるまい。(5)
こう言ったからといって、私は我々の日常の語りや、人類学者の語りにおける相互反照性の使用を糾弾しようというのではない。むしろ、さまざまなレベルにおける相互反照性の使用は、疑いもなく、我々が「理解」と呼ぶ過程の不可欠の一部分なのである。しかし科学と呼ばれる一つの企ての中で行われる言説、つまり厳密な意味における「説明」においては、この種の相互反照性の使用は原理的にあくまでも排除されねばならないことになる。仮りに科学的な説明を、物差しを用いて物の長さを測ることに喩えることができるとすれば、そこで求められている最低限の条件は、物差しの尺度が測る対象に応じて勝手に伸び縮みしたりしないことなのだ。人類学において通常見られる「説明」はこの最小限の要請すらみたしていない。そこでは、物差しは測るべき対象に応じて伸びたり縮んだりしてしまっているのである。繰り返して言うが、私はそのこと自体が悪いと言っているわけではない。悪いのはそれに気付かないふりをすること、伸び縮みする物差しを用いておりながらそれがあくまでも一定不変の尺度をもったものだと言い張ること、自らの使用する概念がその使用の都度意味を変じたことなどなかったと主張すること、自らの活動を科学的営為における説明に匹敵するものだと考えることなのである。先に、自らの使用する概念の既知性に対する盲目的な信仰と呼んだものを、ここに認めることができるかもしれない。「説明」のなかで自分が使用する概念について、自分では充分にわかっており、その許された使用法についても熟知しているのだという思い込み、現実の人類学の実践によって常に裏切られるしかない思い込みがそれだ。
こうした現状に対して、人類学を真の「科学」にするために、その言説から概念の相互反照的な使用をあくまでも排除していくという方向に、努力が重ねられて悪いわけではもちろんない。こうした気の遠くなるような悲壮な努力が、途中でいいかげんに妥協してしまったり、自らの閉じられた命題体系の正当性を闇くもに主張するだけに終ってしまったりしないことを、私としてはただ祈るほかない。人類学は科学であり、そこにあるのは純粋に説明の問題だけで、「理解」などという怪しげなものをもちこむ必要はないと主張する人々に、最後まで責任をとってもらえればよいだけである。幸いにして、こうした方向が人類学にとっての唯一の方向であるというわけではないし、また大多数の人類学者が本気でそれを目指しているようにも私には思えない。むしろ、異文化という名の外部との交通を本来その最大の特色としてきた人類学が、自らにとっての外部をひたすら解消しようとする情熱によって特徴付けられる科学主義的言説と同居しているというのは、ある意味でかえって不自然な事態だとも言えるのであり、もしそうだとすると「科学性」を断念したからといって、それによって失うものは思った程多くはないはずなのだ。
もちろんこれは、人類学の現状をそのまま承認してもよいということを意味してはいない。異文化の理解を評榜する人類学の真の豊かさが、一つの精神が外部/他者と出会い、それと交流する際に生ずるなにかに源泉をもっているとするならば、人類学はその実りをより貪欲に収穫するためにも、そこで起こっているのが具体的にはどういうことなのかにもっと注意を払う必要があるのだ。それは異文化を理解するとはどういうことなのかを、もう一度真剣に徹底して考えてみることに他ならない。これはけっして哲学者にまかせきりにしたり、科学主義の不似合いな衣装を無器用に身にまとうことによってごまかしてしまってよい問題ではない。まさに人類学者が自ら引き受けねばならぬ問いなのである。
以上の問題提起はそれのみをとると、未だ抽象的なものにとどまっている。確かにこうした抽象的な問題提起を声高に唱えることそのものには、あまり大きな価値をおくことはできない。第一、異文化理解とは何かを問うこと自体のなかには、当の異文化との出会いそのものは含まれてはいないのだ。以下の論考においては手始めに、人類学の古典的な民族誌の一つとして知られているディンカ族の宗教に関するリーンハートの報告書『神的なものと経験;ディンカ族の宗教( Divinity and Experience: The Religion of the Dinka ) 』( Lienhardt, G., 1961 ) pをとりあげ、そこに提示された異文化理解の質について考察し、さらにそこからどのような洞察を手に入れることができるかを検討することを通じて、この問題提起を具体化する方向に向かって一歩なりとも進めてみたいと思う。
対象社会の細目に関する些末なとは言わないまでも膨大な記述的データによって読者を圧倒することもなく、宗教やら社会構造やらに関する人類学的一般理論を華麗に展開するわけでもなく、斬新なアプローチやモデルの提出をもくろむわけでもなく、民族誌に生彩を与えはするものの読者にかなりの忍耐力を要求する数多くの詳細な事例によって頁を埋めるわけでもなく、つまり一言で言えば、今日の野心的な民族誌に見られる諸特徴を欠いた、当時の水準からみてもいささか古典的なスタイルで書かれたこの民族誌は、にもかかわらず、そこに提示された異文化との出会いの『確かさ』とでも言えるものと、随所に散りばめられた深い洞察によって、今日なお多くの読者の想像力をかき立てるすぐれた書物の一つとなっている。その全体を貫く淡々とした平易な調子にもかかわらず、それはけっしていいかげんな読みによって消化できるような代物ではない。異文化との出会いの当惑のなかから何かを必死で持ち帰ろうとする人類学者の姿勢を、真剣に貫き通そうとしたきわめて野心的な作品なのである。
なかでも、本書の中ほどに登場しそれ自身「神的なもの(Divinity) と経験」と題された、本書の前半部の議論を締め括り後半部に結びつける役割をもつ章は、この特徴がもっとも明確にあらわれている章だと言えるかもしれない。私が、人類学者による異文化理解のテスト・ケースとして、これから検討したいと思うのもこの章で展開されるリーンハートの議論である。しかし、それに入る前にそこに至る諸章について簡単に要約しておく必要があるだろう。(7)
そこに至る諸章は、主として、ディンカ族が jok, yeeth(単数形は yath ), あるいはnhialic といった言い方で呼ぶ存在についての詳細な解説にあてられている。大雑把にいうと jok は「超−人間的な諸力」一般を指す比較的適用範囲の広い言葉であり、yeeth, nhialic もその一種だとされている。nhialic は文字どおりには「天」「上」の意味を含み、「創造主 aciek」「我が父」などと呼びかけられる唯一者であり、一方 yeeth は「人々に関係のある jok」で、個々の名前によっても知られているが、同時に nhialic でもあるような諸存在である。この最小限の説明のなかにも既にうかがわれるが、ここでの中心的な問題は、リーンハートがPower とか Divinity あるいは divinities といった訳語をあてるこれらの存在にまとわりつく奇妙さ、つまりそれらの存在が、その在りようの点で、西欧のあるいは我々の神観念からすると、きわめて奇妙な存在だという事実である。もっともその奇妙さはうっかりすると看過してしまいかねないような、ともすればそれらに「神( God ) 」とか「精霊( Spirits)」とかの訳語をあてることによって、その奇妙さに気付くことなくそうした存在についてわかった気になってしまいかねないような微妙な異質性なのだ。リーンハートがこれらの語を用いずに、一見いかにも座りの悪い訳語をあてているのもこのためである(ibid. 29-30 )。
確かにある点では、それらは、「神」や「精霊」と同じく人間に外在し、それに働きかける実体的な行為主体であり、それらに対してときには親族名称を用いて呼びかけたり、供犠をつうじて感謝をささげたり、祈願したりすることができるような人格的存在としてすら語られる。またそれは人を病気にしたり、人に憑依して、その口をつうじて自分の正体と要求を伝えるとも言われる。それは一種の個体性すらももっている。異なる名前で呼ばれる各々の存在は、それぞれ独自の事物や現象との結びつきでとらえられることによって互いに区別されているのだ。例えば Deng と呼ばれるものは、雨、雨雲、雷、白黒ぶちの牛に見られるような色模様などと結びつき、豊穣と豊かな牧草地、破壊や突然の死などを連想させる、また Garang と呼ばれるものは太陽やある種の蛇と結びつき、赤あるいは赤と白の色の組み合わせと連想付けられるといった具合である。また特定のクランと特別な関係にたち、そのクランの人々に、自らを具現する特定の動物その他の事物に対して特別な態度をとることを要求するような、リーンハートがクラン神( clan divinities )と名づけた数多くの存在もこれに含まれる。ここまでのところでは、これらの存在を「神」とか「精霊」とか呼ぶことを我々に躊躇させるものは何もないように見えよう。
では、これら nhialic や yeeth を我々が「神」とか「精霊」とかいう言葉で理解しているような超自然的な『存在者』に同一視することをためらわせる奇妙な性格とはいったい何なのであろうか。私はそれを二点にまとめておきたい。一つはリーンハート自身によってそれと指摘され、ここで扱おうとする章の明示的な問題系の一部をなすものであるが、いま一つは、リーンハート自身によってはまとまった形では指摘されていないにもかかわらず、それ抜きでは問題の章における彼の議論が唐突なものになってしまうような、彼の議論の暗黙のコンテクストを構成しているものである。
第一の点は、これらの「神( yeeth )」は一方ではさまざまな名前で呼ばれる複数の存在であるかのように語られながら、他方では、同時に一つの神(nhialic) であるとされている事実である。つまり一方で異なる別個の実体として語られるものが、結局のところは同じものだとされ、しかもそれは「唯一者」nhialic なのだ。同様な関係は他のレベルでも見出される。例えば、先に一つのものとして紹介された Deng をとっても、別の場面では、異なる事物と結びつけられ、それぞれ異なる名前をもった別個の存在としても語られる。しかしこれらは、やはり同じ一つの Deng なのである。しかも、これが決定的なことなのだが、リーンハートによると、これは例えば Deng と呼ばれる神にそれだけの種類があるという意味ではけっしてない。それは「シェパード」や「テリア」と「犬」とのあいだの関係に見られるようなカテゴリー間の階層的上下関係、包摂関係ではないのである。両者は単に同じであると主張され、ディンカ族は、神 nhialic にいくつもの種類があるなどということをそもそも認めないというのだ(ibid. 156 )。つまりさまざまなレベルを一貫して、「神」は、我々流の言い方で言うと、「同時に一であるとともに多である」という様相でとらえられているということになる。これは何も人々が、こうした形で逆説を逆説として楽しんでいるといったことを意味しない。むしろこれが逆説でも何でもないという点こそが、ディンカ族の nhialic に特有の在り方なのである。
リーンハートのこうした定式化、もちろん私なりに要約したものだが、ディンカ族のこうした「神」観念に我々読者はちょっと戸惑いを覚えるかもしれない。もしかすると我々はディンカ族の得体の知れない神学につきあわされているのではないだろうか。しかしこの疑いは捨てたほうがよい。リーンハートが繰り返し強調するように(ibid. 32, 96-97, 155-156 ) 、ディンカ族にとって「神」は現実的な関心事ではあっても、けっして理論的な思惟の対象ではないし、彼らの「神」をめぐる信念には、神学の名にあたいするような体系化はそもそも欠如しているのである。「一にして多である神」はけっして論理的、あるいは神秘主義的な思索の産物ではないのだ。以上が第一の明示的な問題系である。
第二の点は、一方では人間に外在する実体的行為主体であるかの如く語られる「神」であるにもかかわらず、その「実体」としての性格が、別の意味ではきわめてあいまいだという事実である。これはもちろん第一の点とも関連している。そもそも単数であると同時に複数であるような存在を具体的に思い描くことなど不可能なのだ。
確かに個々の「神」は具体的な自然物、雷や雨雲、ある種の動物など、と結びつけられているが、これらの自然物自体が「神」であるわけでは当然ない。それらは神のイメージ、似姿ですらない。「神」自体はいかなる形をももたないと主張されているからである( ibid. 57) 。これは何も、「超自然的存在」はある意味でその「定義上」、触れたり測ったりできる通常の物体ではない、などという我々にとっての、特にそうした存在を信じていない者にとっての、自明の事実を述べているのではない。というのはそうした場合にも我々なら、超自然的存在を、確かに通常の意味での単なる物とは異なるが、なおかつ「通常ではない意味での物」超自然物として、リーンハートの言い方を借りれば『物質化』( ibid. 154 ) してとらえる傾向にあるからである。例えば我々は幽霊に「出会」うと言ってみたり、霊魂のようなとらえどころのないものですら、一種の擬似流体、あるいはより現代的にエネルギーの束、のようなものになぞらえてとらえていたりしないだろうか。ディンカ族にとっての「神」はそのようなものですらない。リーンハートは、ディンカ族にとっての「幽霊」を一例にとって、ディンカ族のあいだではそうした存在を「存在/実体 beings」として理解すること自体厳密にいえば誤りであるとすら語っている(ibid.153 ) 。それらは単に、通常の意味での物ではないばかりでなく、通常でない意味での物、我々が「幽霊」などに認めているような、単にその存在が稀薄なだけである意味では充分実体的だとも言えるような『超自然物』ですらないのである。それは存在と呼ぶには実に奇妙な「存在」なのだ。
もちろんリーンハートはこのことをとりたてて強調しているわけではない。これを乏しい資料からの強引な結論と批判することもできよう。しかし時には資料の欠如自体が示唆的である場合もあるのだ。現地でこうした超自然的な存在の信仰に直面したとき人類学者がまっ先に尋ねてみる質問の一つに「それはどういうものなのか」という、いささか芸のない問いがあることはよく知られている。そしてもし、しぶしぶながらではあってもそれに対して、ちょうど私自身が経験したように、例えば「それは風のようなものである」といった答えが返ってくるとすれば、人類学者はえてしてそれにとびつきたくなるものなのである。こうしたことを考慮に入れるとき、ディンカ族がそれらを実体としてとらえるこうした手掛りを一切与えようとはしなかったという事実そのものが、きわめて興味深いものとなるのである。
ディンカ族の「神」の存在としての空虚さあるいは抽象性とでもいえるものは、それらを指す jok とか nhialic という言葉のごくありふれた用法にも見てとることができるかもしれない。つまり特定のコンテキストではそれは、もはや「存在」に言及するものとすら言えないのである。例えば、ディンカ族はヨーロッパの文明の驚異をまのあたりにして「ヨーロッパ人は jok だ」と言ったりするが、もちろん彼らにとってもヨーロッパ人はただの「人間」にすぎず、ここでは jok という言葉によって単に出来事の不思議さが語られているだけなのだ(ibid. 31)。同様に予期せぬ奇妙な振舞いをする動物に対しても「それは jok だ」とか「それは神 nhialic だ」といった言い方がなされるのである。ある種の動物や樹木が、その奇妙さ独特さの故に「神の動物 lan nhialic」「神の木 tim nhialic」と呼ばれている事実、神を指す「創造主 aciek」という言葉が奇形児の出産に対しても用いられるという事実(ibid. 52)を、ここで付け加えておく必要があるかもしれない。こうした文脈では、これらの言葉は何らかの存在に言及するというよりは、いわば、経験のある種の様相に言及するものなのである。リーンハートの言い方によれば、それらは『出来事の分類』(ibid. 28)に関係している。さらに、存在者としての神 nhialic が幸運や勝利や災難の適切な説明としてもちだされているときですら、それはしばしば「人間生活の不確実さや偶然性に対するある種の適応、経験の真の曖昧性についての認識を表明」(ibid. 54)するものと考えられるのである。リーンハートが強調するように、ディンカ族の宗教は、天上界、霊界といった人間の世界とは独立した世界に住む人間を超えた存在者、「超自然的存在者」をめぐってのものではない(ibid. 24)。それは「『自然的』、社会的経験のある特定の部類とともに始まる」(ibid. 96)ものなのだ。つまり、経験がある独特の様相をもってたち現われているとき、それがすなわち「神なるもの」の存在に他ならないのである。
我々はやや先を急ぎすぎたかもしれない。この最後に述べた点は、これらの存在をめぐるリーンハートの驚くべき結論と直接関係している。ここではディンカ族の「神」の実体としての「空虚さ」その抽象性を、第二の問題点として確認するだけにとどめて、いよいよ問題の章におけるリーンハートの議論の検討に進むことにしたい。
以上で指摘した二点が問題系として共有されていない場合、「神なるものと経験」と題された章は唐突な印象を読者に与えるはずである。リーンハートはその冒頭でいきなり、この章ではもはやこれらの存在を超−人間的な『存在者/実体 beings 』として扱うのは止め、かわりにそれを経験のある種の配位( configurations ) に対応する表象として扱うことにすると宣言し(ibid. 147) 、次いでかなり唐突に、ヨーロッパ人とディンカ族のあいだでの『自己』というものの観念の根本的相異が、そこで最初に生じてくる問題だと言いだすのである(ibid. 149) 。このディンカ族の、我々のものとは異質な『自己の観念』をリーンハートが『理解』するに至る過程の検討に入る前に、リーンハート自身の議論とは前後が逆になるが、この自己概念をめぐる問いが、先に要約した問題系とその解決との間のどこに位置するのかを確認しておく必要があるであろう。
ディンカ族にとっての「神なるもの( Divinity)」の正体に関するリーンハートの結論は、一見したところ特に驚くべきものとも見えない、むしろありきたりのものと映るかもしれない。「神なるもの」は、ディンカ族の経験の複雑で多様な組み合わせに対応するイメージであり、ディンカ族にとってはそれらは経験を「基礎付ける」ものとしてあらわれるが、実は当の経験自体のなかに「基礎づけられている」のだ(ibid. 170) というのである。この言い方、特にイメージという語の使用は、確かに誤解をまねきやすい。しかしこれを単に「神なるもの」はディンカ族の経験の反映であるとか、しかじかの経験を意味内容とする「表象」であるとか解釈してはならない。この程度のことを言うためにリーンハートが一章をさいているのだとすると、そのことのほうがよほど驚くべきことであるし、何よりもそのような解釈はすでに述べた問題系の解決にも何にもなっていない。ディンカ族が神なるものと直面するのは当の経験そのものの中においてであり、神なるものは、いわば、当の経験と「ともに」与えられているのだという事実を考えに入れるならば、「神」を単に、しかじかの経験の反映だとか、それを表わす「記号」だとかととらえる解釈の誤りは明白である。というのはそうすることは、炎と煙が立ち昇っている目の前の積み上げられた木片を指して、それが焚火を反映するものだとか、その記号だとかいっているようなものだからである。実際にはそれは「焚火」そのものなのだ。そもそも記号とか反映とかは、本来それが指し示すものごと自体の「中」にではなく、それとは別個に与えられる何かであるはずなのである(8) 。煙を火事や焚火の存在を意味する「記号」として扱う場合がないわけではないが、もし実際の火事や焚火を目の前にしてそれを言うとすれば、ナンセンス以外の何ものでもなかろう。
実は、リーンハートが神なるものについて言うところの、「経験を基礎づけるものとして当の経験のなかに基礎づけられて在る、」というその在り方こそがまさに問題なのであり、この点に関していえば、彼の結論はけっしてありきたりのものでもなければ、わかりやすいものでもないのである。「神なるもの」は実体的な存在者ではなく、しかじかの経験の配位なのである、というリーンハートの結論を、私なりに言い換えるとこういうことである。つまり、それらはディンカ族の経験世界においてその一構成要素として登場する「存在者/実体」であるというよりも、そうした世界経験の与えられかた、その「在りよう」そのものなのである。こう言い換えても確かにそれ程わかり易くなったとも言えないかもしれない。我々はすでに、nhialic や jok といった言葉がある種の経験の様相に言及する場合を確認しているが、リーンハートによると、実はこれこそがこれらの「存在」の最も根本的な在り方だというのである(ibid.96) 。もっとも彼自身は、神なるものはディンカ族にとっての世界経験の『想像的』な把握であるとか(ibid.160)、ディンカ族に対してその経験の複合体を『再−創造( re-create) 』するものである(ibid. 161) 、といった言い方でそれを伝えようとしているが、この言い方は、あたかも「想像的」に把握されたものとは別に、何か「なまの」経験のようなものがあるかの如き錯覚を引き起こす点でかならずしも適切な表現とは言えない。「神」なるものは、ディンカ族がある形で世界を経験しているというとき、まさにその経験のされかた自体のなかに、そのされかたそのものとして存在しているというのであるから。そもそも彼は、「これらの『力 jok』を解釈する際の我々の困難の一部が、これらの力によって想像的に把握されている経験がディンカ族によって別の仕方では関連付けられていないという事実にもよって」(ibid. 160) いることを同時に確認しているのである。
この結論をより良く理解するためには、すでに指摘した「神」の存在の空虚性、抽象性を極限にまでおし進めてとらえる必要がある。リーンハートがこの章の後半部で、ある一つの操作を介して行なっているのがこれである。先に見たように、個別的な名前によっても知られている「神」には、さまざまな事物や現象が結びつけられている。例えば Deng についてこの連合のほんの一部を、わかりやすく、次のような等式で示そう。
Deng =雨 Deng =破壊 Deng =死 Deng =人や獣の産出力 Deng =雨雲 Deng =豊かな牧草地 Deng =涼しさ Deng =ミルク Deng =黒と白 Deng =雷 Deng =生命 Deng =稲妻 Deng =ウシ Deng =豊穰性 等々
我々は、存在者 Deng を中心としてこれらの事象が体系的結び付きを示しているのを、ここに見てとるかもしれない。つまり Deng はさまざまな事象を関連付け体系化する中心なのであり、文字どおりそれは人々の経験を『基礎づける』ものなのである。
しかしこうして結びつけられた諸々の事象は観点を変えれば、もともとそれら自身で一つの結びつきを示しているとも言えるのではないだろうか。リーンハートはそうした体系性を次のような形でとり出してみせる。例えば、乾期の後の雨〜涼しさ〜豊かな牧草地〜ウシ〜ミルク〜産出力〜豊穣性〜生命 あるいは、雨〜雨雲〜黒と白(雨期の空、または夜の稲光)〜雷〜稲妻〜突然の死〜破壊 等々(ibid.) 。一見、ここでは何もたいしたことは起こっていないように見えるかもしれない。我々にでも容易に理解できる一種の他愛のない連想ゲームにすぎないではないか。まさにそうなのだ。これらの事項の結び付きは、それ自体としてきわだって明瞭なのであり、まさにその事実のみで当の体系の体系性は保証されていたのである。しかしもしそうだとすれば、我々が扱っている体系には、ただ一つだけ余計なものが混っていたことにはならないだろうか。つまり、ほかならぬこの体系の中心に位置する Deng そのものだ。
リーンハートは、ディンカ族自身はこうした形でこの『想像的な』複合体を分解してみせたりはしないと、指摘することを忘れてはいない(ibid.) 。彼らにとって、これらの経験はまさに Deng を中心におくことによって結びついているのである。リーンハートとともに我々が行なった『連想ゲーム』は、中心をもった体系から中心そのものを取り去ることによって、この中心を欠いた体系の体系性が微動だにしないことを示すものであったのだ。つまりそれは、すでに在る体系性に何ものをも付け加えることのない、別の言い方をすると、すでに在る体系性によって『基礎づけられて在る』空虚な中心だったのである。 この議論はそれのみをとると何かを証明するものとはなっていない。しかしこれはディンカ族の「神なるもの」に対してリーンハートが下そうとする結論を、より良く理解するための手助けにはなろう。「神なるもの」とは、経験がある種の「表情」をもってたちあらわれる、あるいは、経験を構成する諸要素が相互にある形で関係付けられてあるというときの、その様相、その関係付けそのものに対応している。それは経験の構成要素ではなく、その「体系性」そのもの、言い換えれば、そうした関係付けの一つの結節点、あたかもそこにおいてはじめてそうした関係付けが成立しているかのように見える一つの空虚な結節点なのである。それ自身は当の経験の構成要素にはなりえないはずの、こうした「存在」が仮に自らを当の経験の一構成要素として登場させるとすれば、きわめて空虚な、抽象的な存在としてそうするしかないのというのも、当然のことだといえよう。
やや乱暴ではあるが、けっして的はずれであるとは言えない比喩を用いていうなら、それは一枚の絵画における画家自身の位置のようなものなのである。もちろん画家は自分の位置、その絵を描いている自分自身の姿を、当の絵のなかに描きこむことはできない。しかしにもかかわらず、近代的な遠近法によって描かれた風景画を思いうかべればすぐわかるように、画家の位置、彼の視点はその絵の中にちゃんと登場しているのである。描かれた物としてではなく、そこに描かれた諸事物どうしの相互関係、それらの配列、その体系性として。画家の視点なるものは、そうした絵そのものの「中に」見てとれる体系性にもとづいて、我々がその絵の「外部」に想定してみせる実在しない結節点、絵として我々の前にあらわれた一つの現実のもつ体系性の空虚な中心なのである。
ひとたび、ディンカ族にとっての「神なるもの」の本性をこのように把握すると、すでに述べた、それにまつわる「奇妙さ」の多くは容易に納得のいくものとなる。もはやそれについて多言を費やすこともなかろう。我々はリーンハートの提供する解説を安心して受け入れてよい。「神なるもの」は、それが問題となるところの経験すべてに共通の「在り方」、その体系の体系性、として「一なるもの」であり、個々の経験に特有の表情、その「在り方」として「多なるもの」なのだ(ibid.156-157)。
しかしこれで問題がすべて解決したと考えるのはあまりにも軽薄である。この解決はディンカ族の「神なるもの」にまつわる奇妙さのかなりの部分を解決するように見えて、その実、我々をより困難な問題に直面させることになるのである。「神なるもの」が実体的な存在者というよりも、経験が示すある種の「表情」、経験がある種の体系性をもって与えられているというときのその「体系性」そのものに対応するものである、という解釈が仮に正しいとすれば、そしてそれが正しいからこそ、生じてくる問題があるのだ。それらの存在を我々の言うところの「神」や「精霊」と同一視することを、当初においては正当化したかもしれない明白な事実、ほかならぬディンカ族が、そうした存在を自己に外在し、外から自己に働きかけてくる存在、またそれに対して人格的に働きかけることができるような存在として、一言でいうと、それらを自己に外在する「実体」としてとらえているという事実が、逆に説明がつかなくなってしまうのだ。たしかに、経験される諸事物が自己に外在していると言うことには何の不思議もないが、それらの経験の「あり方」、そうした経験の中に見てとれるその表情が自己に外在する「実体」として経験に登場するというのは、我々にとっては、いかにも理解に苦しむ奇妙な言い方なのである。たしかにこれを我々流の言いまわしを用いて、世界の経験そのものを自己の経験として、自己の内部に帰属させたうえで、さてディンカ族はそれを外の世界に投影しているのだ、あるいは自己の経験を物象化しているのだ、と述べたとすれば、何事かが説明されたような気にはなるかもしれない。しかしこれは実際には何も説明したことにはならない。そもそもここで前提とされている「経験される世界/経験する主体としての自己」という図式のもとでは、そこで言うところの「投影」とか「物象化」とかの事態そのものが、具体的にはどのようにして起きるのか、皆目見当のつかない謎めいた出来事になっているからである。近代的遠近法に基づく風景画において、画家自身の位置を表現する何かを、描かれた風景自体のなかに、その風景の「在り方」以外の形で、その現実の一構成要素として登場させることは、それを投影と呼ぼうが物象化と呼ぼうが、どだい不可能なことなのである。もしディンカ族が、いかに空虚なものとしてではあれ、それを経験される世界自体の中に登場させてしまっているとするなら、実はそこで問題にすべきなのは、我々が経験する主体として位置付けているところの『自己』のありかたそのもの、ディンカ族にとっての『経験の遠近法』とでも呼べるもののあり方なのである。
かくして我々はリーンハートとともに、西洋の自己概念とは異なるものであるはずの、ディンカ族の自己概念を正面切って問題にせねばならないということになるのだ。
以上、ディンカ族の『自己概念』に関するリーンハートの問題提起を、ディンカの神観念をめぐる彼の問題−解決系のなかに位置付けてみたわけであるが、もちろんこれは、実際の彼の議論を転倒したものでありうる。事実は、ディンカ族の異質な自己の観念に直面し、それを理解しようと試みることを通じて、リーンハートは『神なるもの』をめぐる当初の疑問に対する解答を見出したということであるかもしれない(9) 。いずれにせよ『自己概念』に関する問題は、我々のものとは明らかに異質なものであった『神なるもの』の観念を理解することと同様に、あるいはある意味ではそれ以上に、困難な問題であったはずである。確かに、我々自身の「神」の概念を相対化すること自体は、『自己の概念』を相対化することに比べると、少なくとも神をほとんど信じうるものとは考えていない現代人にとっては、はるかに容易に違いないのだ(10)。すでに自分たちにとっての「神」ですらいささか「奇妙な」存在だと考えるに至っている我々にとっては、他者の「神」の奇妙さを直視することはさほど困難ではない。いやそれどころか、その奇妙さを我々自身にとっての「神の存在」の奇妙さと関係付けられるような深みでとらえているかどうかは別として、他者の「神」の表層的な奇妙さについていえば、我々は現地調査などの際には、それとの出会いを積極的に期待してさえいる。これに対して『自己の概念』については、そもそもの出発点において、こうした橋わたしの手がかりすら拒否されているのだとさえ言える。「私」とは、まさにここに居て、見たり考えたり、鼻を掻いたりしているこの「私」のことであり、それ以外の形で「私」がありうるとはとても思えないのだ。我々ひとりひとりにとっての「私」の存在は、デカルトのコギトをもち出すまでもなく、まさに明証的な事実なのである。そこでは、こうした「私という存在」の在りかたを奇妙だなどと考えるものが一人もいないということはもちろんのこと、「奇妙な在りかたをする私」といったものの存在に思い至ることすらきわめて困難で、つまり、こちら側に橋をかけるべき開口部もなければ、そもそも橋をわたすべき他者自体が見えていないのである。つまり異質な「私のあり方」などというものは問題にすること自体が困難な問題でもあるのだ。
信水昭俊が正しくも指摘しているように、「研究の対象として選んだ存在を自己とは異なるものと位置づけ、その上で接近する」のが「人類学者の一つの方法的戦略」であり、それによって「対象を自己の延長と位置づける観方では見逃され勝ちな対象の諸特徴を把握」する点にその特徴があったとするなら(清水 1985:47) 、『私というものの概念』をめぐる問題はこうした「方法的戦略」がもっとも発動しにくい領域の一つなのである。これはたしかに教訓的である。人類学のこの「方法的戦略」がそれ自体として自立したものではなく、対象を自己とは「異」なるもの、「他」なるものとして位置づけうるという、まさにその可能性にそもそも依存した戦略だということに、あらためて気付かせてくれるからである。そして対象が真に自己とは異質なものであるならば、そしてこちら側にはただ明証的な事実のみがあるというのであれば、その対象を理解することはおろか、それを「異」なるものとして位置づけることができるかどうかすら実はおぼつかないはずなのだ。しかし今は、対象を「異」なるものとして位置づけることの可能性に関する議論には立ち入らず、リーンハートの問題提起そのものに戻ることにしよう。少なくともここでは、神観念をめぐる問題−解決系の内に、『私というものの在り方』を異文化理解の方法的戦略にのせる一つの突破口は開かれているのである。この突破口を通じて、リーンハートが否応なく立ち向うことになったこの問題は、上で述べたような、それを問題にすること自体の困難さとも相まって、ある異文化の対象が理解されたと言われる際に実際に何が起こっているのかを検討するうえでの、格好の材料を提供しているのである。
ところで、リーンハートの『自己概念』をめぐる議論は、ディンカ族とヨーロッパ人の自己概念の相異の問題が提起されたのと同じ唐突さをもって開始される。彼は、自分にはこの問題を適切には論じることができないとことわった上で、ディンカ族のあいだには、我々近代の一般人がもっている一つの概念、『精神』あるいは『心』にあたる概念が存在していないのだ、といきなり主張するのである (Lienhardt op.cit.,149)。
ここで『精神』あるいは『心』( mind ) として言及されているのは、リーンハートによると、経験主体としての自己とそれに対する外部からの影響との間に介在( mediate )し、経験がいわばそこで一時的に貯えられておかれるような場所、反省によってとらえることができるような内面的な領域あるいは実体であるとされる(ibid.) 。『精神』についてのこのの定義が仮に少々ナイーヴで、すでに若干奇妙なものにみえるとしても、それをここで取り沙汰するには及ばない。ここで明るみに出されているのは、我々自身に関する一つの事実、我々は通常自己に帰属し、その能動的な精神活動の舞台でもある『内面』の存在を確信しており、またこれを介して、「私の内なるもの」と外の現実を容易に判別できると想定しているし、また現にそうしているという事実にすぎない。かくして私の目の前にあり私が今眺めているこの机は、私の外の世界にあるが、これから購入する予定の机のイメージはあきらかに外の世界にではなく、私の内にあるものだということになるわけだ。こうしたイメージを思い描いたり、あるいは過去の出来事を想起したりといったことは、すべて我々の『精神』の働きなのである。
こういったことは我々にとっては、あまりにもあたりまえのことであろう。とすると、ディンカ族にはこうした内面がないなどと、もしリーンハートが主張しているのだとすれば、それはあまりにも荒唐無稽な話ではないだろうか。仮にそれが事実であったとしても、『心』をもたない「私」という存在の在り方に思い至ることがそもそも我々にはできないのであれば、それを事実として受けとめ理解しようとすることなど、断念したほうがましというものではなかろうか。もしこれを対象を「異」なるものとして位置づける戦略と呼び、それが許されるというのならば、むしろ初期の旅行者や宣教師たちがやったように、どのような対象をどんなふうに「異」なるものとして位置づけることでも可能だということにはならないだろうか。こうした疑問が起ってきたとしても少しも不思議ではない。しかしこうした疑問は、奇妙なことではあるが、これに続く彼の議論を読めば、解消されるとまではいかないにしても、それらを表だって表明する気は少なくとも失せてしまうだろう。
例えば彼は次のような例を取り上げる(ibid. 149-150) 。まったく見知らぬ土地で暮したことのあるディンカの男は、その『土地』が後々になっても彼に「つきまとう」と語る。例えばカルトゥームの町で投獄された経験のある男は、自分の子供の一人をカルトゥームと名づけたが、これは一種の厄払いの行為であった。つまり「カルトゥーム」が後に彼を苦しめ災いを及ぼすのを、これによって避けようというのである。リーンハートによると、この男に「つきまとう」ものが、我々ならばその土地の追憶とか思い出とか呼ぶようなものに関係しているのは明白である。とすれば、この男のとった行為は、言わば『記憶の悪魔払い( the exocism of memories of experiences ) 』(ibid.) とでも言えるものなのだ。確かに我々にあっても、いまわしい過去の経験の記憶は、後々までも人を苦しめるかもしれない。しかし我々ならば、カルトゥームという土地を回想する精神の働きを見い出すであろうところで、この男は彼に外から働きかける「カルトゥーム」の作用を見い出しているのだ。我々が回想する主体の精神の活動に帰し、自己の「内面」に帰属するものとするであろう「思い出」は、ディンカ族にとっては主体にその外部から働きかけるものとされ、また一つの実体であるかのように、例えば上の例における命名のような手段で、操作しうる存在とされているのである。
またリーンハートは次のような例もとりあげる(ibid. 64-68, 150)。Mathiang Gok と呼ばれる一種の呪術がある。それはいつまで待っても一向に返してもらえそうにない負債の返済を求める債権者によって行使される呪術だと言われている。Mathiang Gok の作用は次のように描き出されている。それは負債を踏み倒している男が一人っきりのところにやって来て、もちろんその姿は見えないが、彼にそっと語りかける。そして彼に、負債を早く返済するよう、さもなければ彼かその家族の誰かに危害が及ぶだろうと脅しをかけたりする。ときには、現実にその男や家族の誰彼を病気にすることもある。Mathiang Gok の訪問を受けると、男はすみやかに返済するのが普通である。もちろん債権者のほうで自分がこの呪術を行使したことをすすんで認めることはまずないという。このMathiang Gokが負債を負う者に対して「良心」が働くように働いていることに注目したい。リーンハートによると、ここでも我々なら、例えば『良心の呵責』のような自己の精神の活動に帰しているものが、あたかも自己の外部からやって来て自己に働きかけるような実体としてイメージされているのである。
こうした個々の例とそれに対するリーンハートの解釈は、一つ一つ切り離して取り上げると、おおいに問題がある解釈だといえるかもしれない。確かに、男に「つきまとう」ものが我々がその土地での経験の記憶と呼ぶだろうものであること、あるいは、負債をかかえた男にそっと語りかけるのが我々が良心の呵責と呼ぶだろうものと同じものであることを、証明するものは何もない。しかし同時にそれに反証をあげることもまた不可能なのである。そもそも両者は個々に取り出して比較できるようなものではないからだ。単に「心的」な現象を記述する我々とディンカ族の双方に共通する言葉が欠けているのみならず、そうした言葉によって記述されるべき「心的」な現象という観念自体がディンカ族には欠けているというのであるから(11)。しかしディンカ族がこうした下級の jok の振舞いとして語るものと、我々が自己の精神活動として語るものとを、リーンハートがやってみせるように、一貫して対応づけることができるとすれば、その一貫性はそれ自体驚くべきことなのである。もし、この対応づけ、jok の振舞いの『精神』活動への翻訳が、かりに荒唐無稽な命題しか生み出さないとすれば、そのときにこそあらためて、リーンハートの解釈の正否が問われることになろう。
そして事実は、こうした個々の例をめぐるリーンハートの議論はけっして当初想定されたほどには荒唐無稽なものでもないことがわかるのである。というのは、我々は知っていたのだ。あるいは知っていたという事実に気付かされたと言ってもよい。例えば、ある種の追憶や想念が、あるいは良心の呵責といったものが、我々にとってもしばしば思いがけず、また望みもしないのに立ち現われることがあるのを、そして我々を奮いたたせたり、あるいは深く苦しめたりするのを。しばしばそれらは欲しもしないのにやってきて、消えてほしいと願っても立ち去らない。それは、あたかもそれらが我々に対して「外」から働きかけてでもいるかのようなのである。もちろん我々はこれを、我々の『精神』のなせる業であると言うかもしれない。しかし、とするとここには苦しめている「私」、これらの想念を抱き、過去を思いおこしている『精神』としての「私」と、そうした想念や追憶によって苦しめられている「私」という二つの「私」がいることにはならないだろうか。それともこうした想起をおこなったり、良心を発動させたりするところの『精神』とその活動は、その限りにおいて「私」の外部に位置づけられる何かだということになるのだろうか。とすれば、私の「内面」は実は「外部」だったのだということになろう。
もちろん今は下手な思弁を展開するべきときではない。しかし、このように、我々にとっての「私の在り方」も、実はいささか奇妙なものなのだと気付かされたとき、もはや、リーンハートが述べるディンカ族にとっての「私の在り方」を一方的に奇妙なものだときめつける理由は薄弱になってしまう。それをディンカ族に関する正しい結論として受け容れるかどうかは別として、たしかに我々は、「私」なるものの我々がすすんで認めようとするのとは異質な在り方の可能性に否応なく気付かされるのである。ディンカ族は、我々なら自己の精神の能動的な活動に帰するところのもの、自己の内面に帰属させるだろうところのものをそっくり自己から分離させて自己の外部に帰属させているのだ、とリーンハートは言う。そしてそれは我々からみても、もはやけっして荒唐無稽だとは言い切れないのだ。そこでは我々が言うような意味での自己と「外」の世界という区別は、もはや意味をなさず、経験は、彼の言葉を使うと、もっぱら『受苦的/受動的なもの( passiones )』(ibid.151)として成立することになる。そして、すでに充分予想できていたことであろうが、経験のこの『受苦的/受動的』な在り方、その相貌こそが、ディンカ族のあいだでの「神的なもの」を根拠付けているのである。「神的なもの」は、こうした受苦的/受動的な経験の相関者として、主体の経験を受苦的/受動的なものとして基礎付け、組織する、諸々の中心、結節点なのだ。そして自己にはその精神的活動における能動性の領域としての「内部」がないのであるから、厳密に言うと、その結節点が自己の「外部」にあるという言い方も、実は正しくない。単にそれは経験がそのまわりに体系化される、自己とは別の中心の一つだというだけのことである。
『心』と外の世界との厳然たる区別をたてず、精神の働きを自己に帰属させないディンカ族と、我々というリーンハートの対比には、もちろん誇張が含まれている。それを私は否定するつもりはない。しかしそれを、ここではディンカ族が実際そうである以上に「奇妙な」存在として描かれているのだ、といったありふれた意味だけでとってはならない。もちろんそれもあろうが、実は誇張されているのは、我々のほうでもあったのだ。少なくとも、我々にとっての「私」が、単に行為においてのみならず、経験一般、とりわけ認識に関しても能動的な主体だというのは、とんでもない誇張だったのではないだろうか。これについてはもっと後で論じることになるだろう。
ここまで「異文化理解の戦略(1)」『自己概念』をめぐるリーンハートの議論は、確かにまだ充分なものであるとはとても言えない。しかしここには人類学者が『異文化の理解』と呼ぶものの確かな手ごたえがある。対象を「異」なるものと位置づけ、その「異」性を際だたせたまま、しかもそれについて無意味に陥ることなく語ることができるという、きわめて稀れな経験を我々はまのあたりにしたのである。いったいここでは何がおこっていたのだろう。我々は今こそ、それを検討することができるだろう。
人類学の営みについて語るとき、しばしば言われることに「異」なるもの、「他」なるものとの出会いとよばれるものがある。しかしもしそれを、我々の経験に対して一つの所与のような形で与えられる出来事だと考えるとすれば、そこには大きな誤りがある。私が『異文化理解』の問題の材料として、「異」なるものとの出会いをあたかも所与の出来事であるかのように錯覚させる危険のある、例えば「神」をめぐる諸観念や、しかじかの「奇妙」な風習をではなく、『自己概念』などというやっかいな問題を材料に選んだのも、実はそれをはっきりさせるためだったのだ。リーンハートはけっして森の中で動物にたまたま出くわすように、ディンカ族の奇妙な「私のあり方」に行きあたったわけではない。それはまずもって「異」なるものとして「構築」されるしかなかったのである。リーンハートの議論は、対象を「異」なるもの、あるいは「他」なるものとして「位置づける」人類学の方法的戦略が、まさにそれをそのようなものとして構築することに他ならないということを、はっきりと示してくれている。読者にとって彼の議論があまりにも唐突に始まったと映るとすれば、それは彼が、ほとんど何も前提とされていないところから、この構築を開始せねばならなかったからだと言えるであろう。まず我々はこの点をしっかり確認しておこう。「異文化」の理解と呼ばれる過程は、こうした「異」なる対象の構築とともに始まる過程なのである。
しかもこの「他」なるものの構築は、けっして物を組み立てるように単独でなされうるものではない。それは同時に、きわめて奇妙なやり方での「自己」の構築をともなっているのである。これについては少々説明が必要であろう。もちろん「他」なるもの、「異」なるものが、「自己」との関係においてのみおのれの「異」性を際だたせることができるのだなどとということは、いまさら指摘するまでもないことである。しかしもしそれだけのことなら、あえて「自己」の「構築」について語ったりする必要もないはずだ。いわば出来あいの「自己」をもちだすだけで充分なのである。ところが実際には少し考えてみればわかるように、こうした出来あいの「自己」などどこにもないのだ。最も単純な場合を考えてみよう。「我々はしかじかの点に関してAである。しかし彼らはBである、」こう人類学者が語ったとする。我々について語られた「A」は、すでに我々について真であることが知られていたとしよう。とするとここには、我々に関していえば、出来あいのもの以外は登場していないということになるのだろうか。もちろんそうではない。そもそも「しかし〜」以下のことがなければ、彼が我々について言いえただろうあらゆる事柄のなかから、あえて「A」に着目しそれに言及することもなかったはずなのだ。つまり「自己」は「他者」について語られた「B」との関連において、はじめて自らに「A」を引き受けたのである。仮りにこれを「構築」と呼ぶのを躊躇する者も、もしさらにこの人類学者が「我々はA、B、C、等々である。しかし彼らはX、Y、Z... 」と語ったとすると、もはや「自己<A.B.C....>」が「他者」との関係において構築されたものだと認めないわけにはいかないだろう。「他」なるものは「自己」との関係においてその「異」性を際だたせるのであるが、その逆も実は同様に真であって、何らかの「他者」との関係においてしか「自己」は自らをうち立てえないのである。つまり<「異」なるもの/「自己」>の構築は、後者が明示されているにせよ、あるいは多くの場合そうであるように、単に含意されているだけにせよ、互いを相手のコンテクストにするような相互反照的な過程でしかありえないのだ。リーンハートが章の冒頭でいきなり提示してみせたものは、まさにこれだったのである。これを単なる出来あいの二つの項の比較や対比と混同してはならない。
しかも「異」なるものとの出会いと、それに対する「理解」が生じている際に、そこにこうした「構築」を確認するだけでもまだ充分ではない。この<「他者」/「自己」>の構築には、さらに一つの奇妙な性格がともなっているはずなのである。つまりそこでは「自己」は構築されるまさにその場で解体され、うち立てられるまさにその瞬間に疑問視されるべく登場する、言い換えれば、そもそもの出発点において、「相対化」可能なものとして、構築されている必要があるのだ。これは確かに奇妙な条件である。というのは、「自己」の自明性についての確信こそが、こうした構築の出発点にあったはずだからだ。にもかかわらず、これこそが、他者を「異」なるものとして位置づけたままで、他者について無意味に陥いることなく語ることができるおそらくは唯一の条件なのである。そもそも「自己」についての相対化の可能性がないところでは、「異」なるものとの出会いも、対象を「異」なるものと位置づけることも不可能なのだ。
もちろん「他者」の構築が、その相関者たる「自己」との溝をますます深めてゆくような形でおこなわれる場合を想定できないわけではない。ただその場合他者は、ただひたすら荒唐無稽で、一貫性を欠いており、無秩序で、辻褄のあわない存在、ありえない存在、非在へと転じてゆくだけである。極限においては、「他者」の理解が問題となる以前に「他者」との出会いそのものが否定されることになるのである。しかし正反対の場合にも結果は同じことであろう。「他者」はますます「自己」に近いものとなり、結局「異」なるものとの出会いなどそもそもなかったということになるのだ。これはもちろん極端な議論である。しかし、これは「自己」の解体と重ねあわせになっていないような<「他者」/「自己」>の構築という考え方自体に含まれている矛盾なのである。「異」なるものと出会い、それに対する理解が始動するためには、たてられる尻から疑問視されるような形でのみ構築される「自己」に対する相関者として「異」なるものを構築する以外にはないのである。あるいはより実体的な言葉使いを好むというのなら、次のように言うこともできよう。「異」なるものとの出会いが「本当に」生じたとき、「自己」はいかに無邪気に自信に満ちて己れを提示したとしても、「異」なるものの前でゆらぎ、自らを解体するしかないのである。実際、我々にとっての自明な「私の在り方」をいささか奇妙なものと考えるよう導かれてはじめて、我々には、ディンカ族の「私の在り方」の「異」性について荒唐無稽に陥ることなく語ることが可能になったのである。
もちろんここで「構築」について語ることは、<「異」なるもの/「自己」>が人類学者の空想の産物にすぎないとか、より極端に言って、単に「捏造」にすぎないのだとかを意味するわけではけっしてない。「自己」が自らを根拠付けるコンテクストをすでに組織しているということは言うまでもないことであるが、「異」なるものについても、同様のことがおこっているのである。もっとも、ディンカ族には我々の言うところの「精神」にあたるものがない、あるいはディンカ族の自己は経験の能動的組織者としての「精神」ではない、というリーンハートの定式化は、確かにそれのみを取り出すと一見したところ、我々に関する自明の事実、我々には精神があり、精神としての自己は内的あるいは精神的経験の能動的組織者であるという事実の、単なる裏返しの命題、対比のための対比としてもちだされた内容空疎な言明のように見えるかもしれない。もちろん構築というからにはそういった操作が含まれていることは当然考えねばならないが、重要な点は、こうして作り出された命題が、我々自身の文化の文脈においては当然そうなるという予想を裏切って、単なる無意味な命題として宙に浮いてしまうことなく、その周囲にさまざまな他の命題を引き寄せ、いわば、ノイズを組織して自らのコンテクストを生み出し、それによって根拠付けられてしまうという事実なのである(12)。ディンカ族の奇妙な命名行為や Mathi- ang Gok の想定された振舞い、あるいは死者が生者を訪問しないように、つまり我々流に言えば、それらがふいに思い出されたり夢に見られたりしないように、逆にそれらを定期的に「思い出す」目的でなされているかのようにみえる儀礼( Lienhardt op. cit.154 ) 、こういった雑多な諸事実がこの一見荒唐無稽な定式化によって照明をあてられ、逆にそれを支えるのだ。仮りに一歩譲って、先の定式化がリーンハートの「頭」の産物であったとしても、こうしたノイズの発生源がそこにないことだけは明らかである。
ここでおこっていることを「演繹」とか「帰納」とかのありふれた、それでいて現実ばなれした観念によって説明することは避けねばならない。ここで問題にしている定式化は、けっしてすでに集められ組織されたディンカ族に関する「諸事実」からの帰納によって引き出されたものでもなければ、単に対比のための対比として、すでにある命題から裏返しの操作のみによって作り出されたものでもない。ある観点からは、それは「自己」なるものとの対比のコンテクストによって規定されたものとして、「諸事実」を自らのコンテクストとして組み上げ、組織し根拠づけているのであり、別の観点からは、それは「諸事実」のコンテクストによって規定され根拠付けられたものとして、「自己」なるものとの対比のコンテクストを組織しているのである。つまりそれは「演繹」とか「帰納」とかによっては語ることのできない相互反照的な過程に他ならない。「異」なるもの、「他」なるものは自らを根拠付ける二つのコンテクスト、<「他者」/「自己」>のコンテクストと「諸事実」のコンテクスト、によって同時に規定されつつ、逆にそうしたコンテクストを自ら組織し根拠付けてもいるのである。「異」なるものとの出会いとは、まさにこうした事態なのだ。
「根拠づける」という言葉の使用によって、上述の過程が何らかの安定した収束点に向うかのような印象があたえられたとすれば、それはただちに打ち消す必要がある。というのは、まさにこの相互反照的な過程をつうじて、「自己」ももはや以前のそれではなくなっているからである。つまり「他者」と「自己」はともに自らが相互に組織したコンテクストによって、互いの姿を作り変えるのだ。そしてそれは再び異なるコンテクストの組織化を促す。こういった具合に、それは原理的には止まるところを知らず、この運動が収束するか拡散するかは前もっては予測できない事柄なのである。もっとも今の例に即して言えば、この過程は不意に中断されてしまっている。確かに、先の定式化を根拠づけるかにみえるディンカ族に関するしかじかの事実を、<「他者」/「自己」>の対比のなかに受けいれたとき、この対比そのものが作りかえられることになろう。それは先に「自己」の自明性を支えていたコンテクストの見せかけの閉鎖性をうち破り、そこに侵入し、そのコンテクストを広げてしまうことによって、それに対する相関者としての新たな「自己」の構築を要請することになる。我々は、「私」なるものが、その「精神的」活動から疎外されているかのようにみえる経験、「私の在りかた」の明証性のためには忘れておくにこしたことのない、我々自身に関する諸事実に気づかされたのでる。それは我々の明証的な「自己」にとっての危険な境界に照明をあてる、あるいは周縁を中心にすえたコンテクスト形成であった。そして「自己」はまさにその前で変容を開始する。
しかしリーンハートはここで立ち止ってしまう。我々にとっての「自己」の明証性、既知性にほころびが生じ、その「奇妙」さを、ディンカ族の自己の「奇妙」さ、「神的なもの」の「奇妙」さと関係付けることになるかもしれない新しい暗黙のコンテクストを予感させるところで、彼の議論は終っているのである。先に私が、彼の議論が充分でないといったのは、このことを指していたのだ。しかしこうした限界にもかかわらず、ここに「異文化との出会い」とか「異文化の理解」とかの名で呼ばれる一つの過程が始動しているのだということはやはり確認しておいてよいことである。対象を「異」なるもの、「他」なるものとして位置づけること、異文化を理解することは、けっして与えられた「他者」と「自己」をもっともらしく対比したり比較したりすることではない。そこでは「自己」はまさに解体されるべく、ただちに疑問視されるべく構築されるしかなく、また真に異文化との出会いが実感されるような研究においては、当の研究者がそうと意識していると否とにかかわらず(13)、事実そのようなものとしてしか登場していないのである。もしそうでなければ、そこにはそもそも「異」なるものとの出会いも「理解」もなかったのだと言うしかないのだ。そしてリーンハートが行なったのもまさにこれだったのである。
以上の議論に対して、これが人類学の実証性、科学性を否定するものであり、ここで構想されているような「異文化理解」は、理解の「正しさ」を度外視した単なる「知的自己転回」にすぎない、という批判がおこってくることが予想される。こうした批判は一部甘んじて受けねばなるまい。たしかにここでは、対象に関する実証的、科学的な知がめざされているわけでもなければ、対象社会に対する「正しい」理解の道筋がしめされているわけでもない。というのも自らの実証性の根拠を問わない実証的な研究、自らが何故科学的でありうるのか、その可能性の根拠を問題にしない科学的、客観的研究にコミットするほど私は大胆にはなれないし、自分がどのようにして理解を手に入れたのかを知らないままその正しさを主張するほど傲慢にはなれないからである。もしここで示してきたことが、厳密な意味での実証性も科学性も欠いた一種の知的自己転回であるというのなら、そうした自己転回こそが人類学の営みを特徴付けるものであったことを、私は素直に認めるべきだと思うのである。しかしここで再びこうした論争点に立ち入って、異なる立場を抽象的に対決させることは、あまりにも不毛であろう。以下で、私はもう一度ディンカ族のケースに戻って、リーンハートが立ち止った地点から議論を開始し、この民族誌のなかでリーンハートが到達しえたであろうものを、できれば幾分かでも完全に近い形で示すことによって、私の議論を締めくくりたいと思う。
正確に言うと、リーンハートがここで論じられた地点で立ち止ってしまったと言い切ってしまうと、彼に対して公平を欠くことになるだろう。彼はこの民族誌の出版からほとんど20年の後に、「自己概念」の問題を再び正面切って取り上げているからである。『自己:公的および私的』(Lienhardt 1980 ) と題された短い論文のなかで、彼はディンカ族の「自己概念」に、我々が「個人」という言葉で理解しているような「私的自己」の観念が含まれていることを確認し、この自己の、我々なら精神的なと呼ぶであろう働きが一貫して身体的な用語で語られることから、ディンカ族のあいだでの心身二元論の欠如を類推している。これによって我々は、彼がこの問題を解決済みのものと見做していなかったことだけは、少なくとも確認できるのである。しかし『神的なものと経験』の中で我々読者に彼が一瞬垣間見させてくれた巨大な深淵を前にして、20年後の彼のこの論文がいささか貧弱で期待はずれなものに見えるのは、あながちこちらの期待過剰のなせる業とばかりは言えない。おそらくは、人類学は対象について何事かを語る学問である、という我々人類学者が誤って自らに課した限定に彼もまた制約されており、それが、まさに自己について語り始めねばならないときに彼を沈黙させてしまったのであろう。20年後の彼が、ライルの近代的自我に対する疑念を共有することで満足してしまっているのを見るのは、まことに残念なことであるが、彼もまた、自己について語るのは哲学者の仕事だと考えてでもいたのであろうか。ともあれ、『神的なものと経験』において疑いに晒された我々自身にとっての「私の在り方」を、ディンカ族について語られたあれこれと相関させる仕事は、結局手つかずのまま残されているのである。もちろんリーンハートならぬ私には、そしていわゆる「哲学」の素養も欠いている私には、厳密に言ってこの作業を遂行する資格はないといえるかもしれない。しかし試みに簡単なアウトラインを描いてみせることぐらいは許されよう。
我々にとっての精神としての私の在り方の自明性は、まず第一に、我々自身の経験の在り方のなかに深く根づいている。つまり経験される世界そのものは「私」の外にあるといえるかもしれないが、しかしそれを経験しているのはつねに「私」なのだという形でそれはある。目の前の壁や机、その他世界の諸々の事物や出来事が見え、聞こえ、感じられ、あるいは思い描かれたり思い起こされたりするのは、すべて他ならぬ「私」にとってであり、「私」に見えていると言えないような机の見え方や、「私」に感じられていると言えないような指先の痛みの感じられ方といったようなものは存在しないのである。「私」がそれらを見、感じているのだ。我々にとって自明な「私」とは、言い換えれば、あらゆる経験の相関項としての「私」なのであり、あらゆる経験は同時にまた「私の経験」でもあるのである。以上のことは我々にとってはまったくあたりまえのことである。この限りにおいては「私」の存在は、錯覚としてかたづけたり、それに疑念をさしはさんだりするには、あまりにも確固たるものなのだ。
さて、「私」が世界を見たり聞いたり、感じたり、思い起こしたりしているのだとすれば、そうした活動がおこなわれる場所が私の内面、あるいは私の「心」だということになる。少なくとも、私が今まざまざと思い描いている過去の出来事は、たまたまここに居あわせたかもしれないあなたや彼の前にではなく、他ならぬ私の前にしか現われていないのであるから、あなたや彼の前にも同様に現われているこの壁や机などとは違って、あきらかに「外」の世界にではなく、とすれば、私の「内」にしか存在していないのだ(14)。「私」が「内面」あるいは「心/精神」とともに在るということも、こうして自明な疑いえない事実であるということになる。そしてこの「内面」の存在が、「私」をたんなる経験の受動的な相関者ではなく、その能動的な組織者、主体的な経験者として、つまり単に行為においてのみならず認識においても能動的な主体、一個の「認識主体」として、把握することを根拠づけているのである。
我々にとっての「私の在り方」の自明性を仮に要約してみるとすれば、以上のようになろう。しかしこれはたちどころに疑いに晒される。といっても、私はこれが事実ではないなどと言うつもりはない。我々自身の経験のなかから、その当の経験の根拠に他ならぬと思われるこうした自明性を、疑わしいものにするようなコンテクストを組み上げてみせることが、必ずしも不可能ではないというだけのことである。そうしたコンテクストの一つが、ディンカ族の奇妙な『自己概念』を同時に根拠づけるものであった(もっとも私はリーハートの挙げた例のうち一部を紹介したにすぎないが)、突然の怒りや陶酔、憑依などとしてしられる「脱我状態」、夢、記憶、良心の呵責など、我々のやり方では「内面」に帰属させ、「私」の精神的活動の所産として分類するしかないが、にもかかわらずけっして「私」の意のままにはならない、「私」による自覚的制御を欠いた諸経験であったというわけである。第一の「あらゆる経験の相関項としての私」の自明性を保存するためには、これらの「内面」的な出来事を、リーンハートによるとディンカ族がそうであると主張されるように、「私」に対する一種の「外部」として位置づけるか、あるいは、経験の相関項たる「私」を単なる表層にしてしまうようなさらなる「内奥」、例えば「無意識」の如き、精神的活動の真の能動的主体のようなものを設定することによって、あくまでもそれを「私」の能動性の舞台に他ならない内面として位置づけるか、いずれにせよ何らかの手を加える必要が生じてくるのである。
これこそ「私なるもの」をめぐる考察においてリーンハートが立ち止った地点、我々が出発するべき地点である。それはまたリーンハートがディンカ族の「神なるもの」をめぐる議論を再開し、それに関する驚くべき結論を展開した地点でもある。我々にとって「私」による経験の中心化がまさに解体するかのように見えるこの地点において、ディンカの「神なるもの」がたち現われる。経験が「私」による中心化の手を離れて、我々流の言い方をすれば、「受苦的・受動的」な相貌をもってあらわれるとき、まさにそうした経験を再中心化するものとしてそこに立ちあっているのがディンカの「神なるもの」だったのである。そしてこうした形で組織され体系化された経験こそ、ディンカ族にとっての経験一般の範型でもある。つまり我々にとって「私なるもの」があらゆる経験に立ちあい、それを「私の経験」としているように、ディンカ族にとっては、「神なるもの」が経験一般の相関項として、そこに立ちあっているというのである。
すでに詳細に論じたように、リーンハートによると、こうした「神なるもの」は経験の一構成要素、経験に登場する実体的存在者ではなく、経験がこうした形で組織されているという事実そのものに対応するものであった。つまりそれは経験がしかじかの形で体系化されているということ、それがあたかも何らかの中心のまわりに組織されているかのようにみえるように、それを構成する諸要素が関連付けられているということ、組織付けられた経験の体系性そのものの姿、経験が示す一つの表情に他ならないものであった。「神なるもの」は、経験そのものの「中に」見てとれる体系性、その表情が、あたかも経験の外部からそれを組織しているかのように把握されたものであり、それは比喩的に言えば、2次元の風景画が示す一つの表情、その風景画の「中に」みてとれる関係性が、「画家の視点」としてその外部の空間の中に読みとられてしまうように、経験が示す表情、経験そのものの中にしか見てとれないものが、あたかもその外部に立つ実体であるかのように把握されたものなのである。
しかしディンカ族の「神なるもの」に関するこうした結論が、すでにその奇妙さに気付かされた我々にとっての「私なるもの」の在り方に何の反省ももたらさないとしたら、そのことこそ最も奇妙なことだと言わねばなるまい。経験の相関者としての「神なるもの」の実体性が否定されるならば、同じくあらゆる経験の相関項であるという事実にその実体としての自明性の根拠をもつ「私なるもの」についても事情は全く同じではないだろうか。つまりディンカ族にとっての「神なるもの」の在り方が、すでに充分奇妙なものとしてとらえられるようになった「私」の在り方を、新たに捉えかえすコンテクストとなるのである。
しかし、ディンカの「神なるもの」を我々にとっての「私」と比べようにも、両者は違いすぎてはいないだろうか。我々にとっての「私」はディンカ族の「神なるもの」とは異なってけっして空虚であるどころか、これ以上たしかなものはないほど実体的である。こうした反論がただちに返ってこよう。「神なるもの」とはちがって、「私」は、少なくともその一部に限っていえば、目で見ることもできれば、手で触れることもできるではないか。しかし、私が私を見たりさわったりできるということは、確かに水のなかの魚などには拒絶されている我々の特権だとはいえ、だからといって、「経験の相関者としての私」の実体性を保証するものではけっしてないのである。もちろん私が見えているという場合、その私が見えているのは「私」にとってなのであるが、この見ている「私」、「私(の一部)が見える」という経験にとっての相関者としての「私」、「他ならぬ私に見えているのだ」というときの「私」そのものはけっして見ることができないからである。ではそれはどこにいる、どのような実体なのであろう。ここで困難がもちあがる。もちろん見ている「私」が皮膚表面の外側にある、などと言うことはとても言えないが、だからといって、私の体内の『どこ』にいるかといった形で特定することももちろん出来ないであろう。それはどこにでもいるし、どこにもいない。「私」が自分の手を見ているとき、その手は、あなたの手としてではなく、他ならぬ「私」の手として見えているが、だからといって、見ている「私」がその手の先にいるわけではなく、またけっして脳のどこかから目をとおして覗き見しているわけでもないのだ。そもそもこの「私」は、リーンハートが「神なるもの」について明瞭に指摘しているとおり、「時間、空間のカテゴリーを超えたところ」に在り(Lienhardt 1961:28 )、特定の場所や時点に存在するといった言い方が不可能な存在なのである。
ライル( Ryle 1949:195 ) が言うのとは違った意味で、「私」には「一貫したとらえどころのなさ( systematic elusiveness)」がある。ある文脈では、「私」は他ならぬこの身体そのものであり、それと境界を共にしているかのように見える。しかしその身体が見られるもの、触れられるものとして対象化されるとき、「私」は対象化された身体についての経験の相関項として、つまりそれを見ている存在それに触れている当の存在として、その内奥にひっこんでしまう。「私」は一つの「内面」あるいは「心」となる。しかし、思いがけず浮かんできて「私」を苦しめる思い出などが、そこに属するといわれるとき、「私」はこうした内的な経験の相関項として、この内面のさらにそのまた奥にひっこんでしまう。「私」はもはや思い出す主体、考える主体ではない。思い出が「私」に立ちあらわれ、想念や思考が「私」の前に浮んでくるだけである。「私」はディンカ族にとってのそれと一見きわめて近いところにいる。「私」の実体とは一体なんだったのであろうと問うことは全く無意味であろう。「私」はあらゆる経験の相関項として、私のもつすべての経験にたちあっているにもかかわらず、実体としてはどこにもいないのである。ヴィトゲンシュタインはこのことを「主体は世界に属さない。それは世界の限界なのだ」と語る。つまりこの点で自我は「延長をもたぬ点へと萎縮し残るものはそれに対応していた実在のみとなる」のである(Wittgenstein 1921 邦訳 170-171) 。しかしこのように述べることは「私」の在り方について何事かを語ったことになるだろうか。単にそれを「世界の限界」だというだけでは充分ではない。
ディンカ族の「神なるもの」について用いた比喩を再度使って言うならば、「私」も、あたかも一枚の風景画における画家の位置、その視点のようなものにすぎなかったのだ。それはその風景画自体の中には、その構成要素としては描かれることの不可能な、そしてそこに描かれている風景がそれによって組織されているところの、それ自体は空虚な中心なのである。仮にそれを描きこもうとすると、そこには前のものとは異なった別の風景が出現し、「私」は再びその中にはなく、この新たに出現した風景画における画家の位置として、その新しい風景を組織する中心として、その前面に退いてしまうのだ。「私」はすべての経験とともにあり、それを他ならぬ私の経験とするところの、その中心化の結節点である。それは経験と同時に与えられている。にもかかわらず、あるいはそうであるが故に、それを経験のなかにとらえようとするやそれは逃れさり、それが捕えられたという錯覚が成立する瞬間、その当の、まさにそれを捕えたはずの経験を組織する中心として、「私」は「どこでもない」別の地点からその経験を見下しているのだ。
しかし、このように書いたとき、ディンカ族の「神なるもの」について用いられたときにはそれほどでもなかった、この遠近法の比喩の危険にも気づかざるを得ない。それはある意味では、我々の近代的な自我の観念とあまりにも馴染みすぎており、遠近法が自我について語る比喩である以上に、自我の観念のほうが逆に、遠近法について語るための比喩だったのではないかと思われるほどである。その危険とは、経験を組織するこの中心が、ちょうど風景画を描いている画家の視点のように、その画面の外部にあると考えさせてしまう危険である。「私」はあたかもすべての経験を俯瞰する特権的な位置を占める実体であるかのように想像されてしまうことになるのだ。しかしそれ自身は経験の、あるいは世界の一部にしかすぎない壁にかかった絵とは異なり、経験そのものにはそもそも「外部」など存在しないのである。言うまでもなくその「前」も「裏側」も「深層」も存在しないし、ヴィトゲンシュタインの言うような明確な「境界」もないのである。。しかし遠近法の比喩は、経験をこうした「外部」をもったものとしてとらえさせてしまう危険をはらんでいる。「内面」のほの暗いアトリエのなかで、経験の絵にじっと見入っては、経験の絵筆を密かに動かし続けているような「私」をつい想像させてしまうのである。私が遠近法を比喩に用いたのはけっしてこうしたことを意図したものではない。
実は、遠近法の比喩そのものの中にこうした誤認を修正する鍵が含まれており、私はむしろそちらを強調したかったのである。風景画の場合ですら、画家の位置はけっしてその描かれた風景の外部になど与えられていない。それは画面そのものの中にある。ただしその風景を構成する一要素としてではなく、その風景の描かれ方、描かれたさまざまなものの配置、それらが相互に取り結ぶ関係として。遠近法とは、そもそも、こうしたやり方で、一つの視点を画面のなかに描きこむ技法であったのであるから。ちょうど一度も空を飛んだことのない画家が建物の俯瞰図を描くことが可能であるように、それによって画家は自分が一度もそこに身をおいたことのない視点から、自分が見たはずのない風景を描くこともできるのである。遠近法とは結局、実際には存在していないかもしれない視点を画面の外部に作り出す一種の「だまし絵」の技法なのだ。そこにあるのはただ、さまざまな比率で描かれ、それによって相互に関連付けられた諸要素だけ、つまり絵の「中に」ある一種の体系性だけなのである。我々が当の画面の外に構成して見せる画家の視点とは、実は我々がその画面そのものの「中に見てとった」描かれた風景が示す一つの「表情」だったのである。
ちょうど遠近法が、2次元の画面の中に見てとれる「関係性」によって、3次元の「外部」とともにそこに画家の視点なるものを仮構してみせるように、n次元の経験の中に見てとられる関係性が、その経験に対するn+1次元の「外部」と「私」を仮構させるのである。経験される世界が「私」の外部にあったのではなく、「私」が経験の外部にあったのだ。唯一の違いは、天文学が対象とする「宇宙」に外部が存在しないのと同様に、経験にとってはこうした「外部」が存在しないという点である。つまり「私なるもの」は「在りえない」場所に存在する「在りえない」存在、つまり言葉の純粋な意味における「仮構」なのである。
従って、我々にとっての「私」は、ディンカ族の「神的なもの」と同様、経験の構成要素でもなく、またましてやその外部にある何ものかでもなく、単に我々にとっての経験の在りようそのものなのである。そして、ある特権的な中心あるいは結節点のまわりに、経験を構成する諸々の要素が関係付けられてある、つまり経験が中心化されている、あるいは体系化されているかのように経験されるということが、実は「私」が存在するということの意味なのである。「私」とは、ディンカ族の「神」に似て、単にしかじかの形で組織された経験、その諸要素がしかじかの形で関連付けられている経験の体系性にそれ以上の何ものも付け加えない、その空虚な中心なのだ。そうした経験の在りようを根拠づけるものとして在りながら、当の経験の体系性によって根拠づけられる他ない、それ自体は空虚な結節点、当の経験の在りようによって作り出された、虚視点なのである。
不適切な比喩を極端にまで押し進める危険をあえて犯して言うならば、我々はここで、ディンカ族と我々とのあいだの『経験の遠近法』の相異について語ることができるかもしれない。我々が経験がそのようなものとして組織されるところの一つの遠近法的中心の圧倒的優位を認めているところで、ディンカ族は、複数の遠近法的視座によってその経験を組織しているのである。関係設定がそもそも異なっているのだ。とすると彼らの『自己概念』や神観念を、我々のもつどうような観念の単なる変形によってとらえることは断念せねばならない。
確かに、我々は「私」の在り方のなかに、ディンカ族の「自己」ときわめて近い在り方を見出すかもしれない。しかしそれは我々の『経験の遠近法』に含まれる軸にそって、背景から限りなく前面に退いていくという究心的な過程によって到達されるものである。「私」がディンカ族の「自己」と近い在り方を示すのは、このようにしてかつて「私」であったはずのところから「私」がしめだされた結果としてなのである。とすると、これはディンカ族の「自己」とは似て非なるものなのだ。というのは後者は、経験を組織する他の空虚な結節点、「神なるもの」とともに、それらとの相関において、最初からそのようなものとして与えられているものだからである。ディンカ族の「神的なもの」は、我々のようなものとして経験が組織されているところで、つまり経験する主観性/経験された世界という構造で組織されているところで、本来「私」に帰属するはずのものが「物象化」されて、あるいは「投影」されて中心をはずれた結果の存在というよりは、経験そのものが異なった遠近法に従って組織されているという事実を示しているにすぎないのだ。彼らにとっての「神的なもの」は、我々にとっての「私」と同様「空虚」ではあるが、にもかかわらず、「私」と同様に、経験とともに与えられた、あるいはある経験がもたれたということとほとんど同じ意味をもつような「確かさ」をそなえた存在でもあるのである。そして逆に、我々にとっての「私」はあらゆる経験とともに常にそこに居るという確かさをそなえていはするものの、やはりディンカ族の「神」同様空虚であるには違いないのだ。
もちろん、これはきわめて単純化された図柄である。そもそも我々の経験が単一の中心によって中心化されたものであるということ自体、単純化のそしりを免れないだろう。さもなければ、他我の存在や、そもそも世界が他者にとっても同様に現われているはずの「外」と他者には見えない「内」といった二つの世界に分かれている、あるいは少なくとも通常はそう考えられているという事実そのものが説明できないはずである。しかし、我々の、あるいはディンカ族の『経験の遠近法』をこれ以上詳細に論ずることは、この先の課題としてとっておくことにしよう。
ところで「私」なるものが経験がある仕方で組織されているという事実に対応するものであり、それ以上のものではないということは、そもそも何を意味しているのであろうか。経験を構成している諸要素が互いに関連づけられてあること、これは言葉の最も広い意味における「物語」の土壌である。ベイトソンの言い方によれば、人間は「物語」で考える( thinking in terms of stories )生物である(Bateson 1979:14)が、我々の結論は、これが単に人間の習性について語るもの以上のものであることを示している。つまり、「物語」で考え語る当の主体である「私」なるものが、そもそも経験がある種の物語の土壌、「物語空間」として成立すると「ともに」成立するものであるというのであるから。「私」の可能な在り方とは、実は特定の「遠近法」によって組織されたこうした物語空間の中での可能な物語の在り方でもあるのである。しかし、今はこれをさらに展開することはできない。これも次にとっておくべき課題である。
最後に一つ確認しておきたいことがある。もしここで簡単に論じられた、我々にとっての「私の在り方」に関する議論に幾分かでも説得力があるとすれば、そしてそれが「私」というものについての新しい理解の一端を伝えるものであるとするなら(少なくとも私自身にとってはそうだったのだが)、この理解は、ディンカ族における「神的なもの」の「異」性を充分に位置づけるはずの諸々のコンテクストを我々自身の側にひきつけて考えた結果だということである。そしてこのように、ディンカ族について語られたしかじかのことを、我々に曲りなりにも関連付けること、つまり我々とディンカ族をともに含んだ一つの「物語」を生成すること、これこそリーンハートが端緒を開いた「異文化理解」の過程の第一歩を完成させることなのだ。ディンカ族の「神的なもの」およびその「自己概念」との関連において、こうした「異」なるもの、「他」なるものとの関連において、我々自身の変容が一段落を終えた今、こうして手に入れた新たな理解のコンテクストをもって、再び我々は、「異」なるものとの新しい出会いを求めることになるであろう。しかしこれも別の話、私が私自身のフィールドにおいて成し遂げるべき課題なのである。
(1)この節は、人類学的理解をその主題に含んだ拙稿(浜本 1984, 1985b )の内容に関する何人かの人類学者との対話によって、触発されたものである。人類学者すべてを十把一からげにして論じているかのような書きかたがなされているが、これはもちろん私の意図ではない。「科学主義」を身上とする特定の友人を念頭においた立論であり、「理解」の問題を真剣に扱っている人類学者がけっして少なくないことを無視するつもりではないのである。その一々をここで挙げるわけにはいかないが、例えば、R. Wagner, 1981 の議論はここでの私の立場に最も近いものの一つである。
(2)もちろんこれは他の人類学者についてはけっして本当のことではなかろう。自分のことを言っているのではないかと非難されても返す言葉はない。哲学との交流が人類学にとって不可欠なものであり、また実り多いものであることは、例えば、R.Needham (1971 ) らによっても指摘されているし、フレーザーの『金枝篇』に対するヴィトゲンシュタインの批判( L. Wittgenstein 1979 ) や、ザンデ族についてのエヴァンズ=プリチャードの研究に対する Winch や MacIntire の所論( B. Wilson ed., 1970 ) のように、人類学に対する直接の深刻な問題提起を含んでおり、もっと読まれ批判的に吸収されてしかるべきものも多いが、私が以下で主張したいのはこういったことではなく、人類学の営みそのものが、それに忠実であろうとするとき必然的に哲学において扱いうるような問題領域を取りこまざるをえないということなのである。
(3)例えば、D. Sperber( 1984 ) の同様な議論も参照されたい。
(4)もっとも、多くの人類学者は、こうした主張すら僣越だと感じるかもしれない。彼らはより謙虚に、自分たちの仕事は単に対象社会に関するあれこれの事実を正確に記述、報告するだけのことであると考えている。しかしこれこそまさにたいへんな仕事なのだ。以下で見るように、「理解」の問題はあらゆる罪のない「記述」にもひそんでいるものだからである。
(5)拙稿( 1985b,c )参照のこと。なおエスノメソドロジー、および「相互反照性」に関しては Garfinkel 1967 参照。
(6)以下の議論は、岡崎彰氏の学会発表( 1985 第39回日本人類学会% 民族学会連合大会)における討論に直接触発されたものである。また阿部年晴氏は、アフリカの憑依霊信仰に関する拙稿( 1985a )に対するコメントとしてリーンハートの民族誌を読み直すことを勧めて下さった。私自身の中で整理のつかないまま、いつもひっかかっていたこの民族誌を真剣に読みなおす契機として両氏の助言がきわめて貴重なものであったことを、ここに明記しておきたい。
(7)以下での私の要約とそれにつづく議論に対して、それがリーンハートの民族誌の内容を曲解しあるいは歪めて伝えるものであるという非難が予想される。この場でそれに前以って答えておきたい。私は確かにリーンハートによっては一言も明示的には提出されていない問題系について語っている。またかなりの項目にわたって、彼の使用する用語を排して、私自身の言いまわしに置き換えている。特に結論に関しては、彼の曖昧な言いまわし、平易で何の抵抗もなく受け入れられる反面、誤解を招きやすい表現を、徹底して私なりの一貫した言いまわしに作り変えている。結果として、リーンハートの民族誌をそれ程注意深く読んだことのない読者にとっては、私の要約と議論は、リーンハートの議論とは似ても似つかないものに見えるかもしれない。しかしあるテキストを要約するのに、そのテキストにおいて実際使用されている言葉によってするのが最上であるというのは本当だろうか。もちろん同じ言葉を使用するということが、適切な要約を保証したりはけっしてしない。そもそも特定の文脈と切り話しては、同じ言葉という言い方には、たいした意味はない。そして要約とは、まさにもとのテキストとは異なる文脈において言葉を使用することなのだ。とすると、日常的な言葉使いに、当の民族誌の独特の文脈のなかでけっして日常的あるとは言えないような意味を発揮させているリーンハートのような著者の言葉を、ただ表面上同じ言葉だというだけの理由で、要約というまったく別の文脈に登場させることは、かえってもとのテキストの改竄になってしまうかもしれないのだ。もちろん、だからと言って、私は私の要約と解釈がリーンハートのテキストに対する最も適切な扱いであるなどと主張するつもりはない。ただこれに異論を唱える者は、少なくともそれにかわる自分の要約と解釈が、リーンハートが問題の章においていきなり「自己概念」の問題を持ち出したのは何故かを、以下の議論以上に明快に解説できるものであることを示さなければならないだろう。
(8)もちろん家の陰からたちのぼる煙を指して、それを「現に見えていない」火事や焚火の反映だとか記号だとか言うのならかまわない。この議論については、竹内芳郎 1981:131-132 参照のこと
(9)もっともこれは以下で展開する議論からもわかるように、ちょっとありそうもないことである。
(10)これは論点の先取りである。後に述べるように、逆説的ではあるが、『自己』が相対化しうるという可能性こそ、『異』なるものと出会うことができる可能性、対象を『異』なるもの、『他』なるものとして位置づけることができる条件に他ならないのだ。
(11)あるいは、仮にリーンハートの見解を受け容れず、ディンカ族にとっても「心的」と呼びうるような経験があるのだと考えるとしても、彼らがそれらを記述する言葉をもっていないのだとすれば、例えば、我々が『記憶』とか『良心』とか呼んでいるような現象を彼らにどのように説明したらよいというのだろう。
(12)同時にこれによってノイズは有意味な情報になるわけである。つまりある観方からすると、フィールドで人類学者に襲いかかるしかじかの無意味なディーテイルの洪水の中に、やはりそれ自体をとると一見無意味な命題が光のように差しこみ、それらを意味あるものとして照らしだすというふうに表現することもできるし、別の観方からすると、意味を求めるしかじかのディーテイルの集まりが、自らを意味づけるようなある解釈を要請したのだというふうにも表現できるだろう。これは一見「帰納」に似た過程である。しかし重要なのは、この『命題』が同時に、<「他者」/「自己」>のコンテクストのなかにも、きちんとおさまるものであるという点である。
(13)少なくともリーンハートの場合、それは自覚的に、戦略的に行なわれたものではない。しかし、そうでないことが、かえって「異文化の理解」がどのようなものであり、必然的にどのようなものであらざるを得ないかを、明瞭に示してくれているのである。
(14)ここでは詳細に論じることはできそうもないが、我々の経験において世界が『内なる世界』つまり『心』と、『外部』に分かれてあるということ自体は、後に述べる我々にとっての『経験の遠近法』、つまりそこでは経験は「私」という唯一つの空虚な中心によって組織されているということ、によっては説明がつかないことである。他我の存在とともに、世界の『内部/外部』への分節化は、我々の『経験の遠近法』がけっして以下で述べるような単純な在り方をするものではないことを、すでに物語っている。しかしここでの私の意図は、ディンカ族についてリーンハートが明らかにしたあれこれを、我々についてのあれこれと関連付けることだけであり、リーンハートによって明らかにされていないことにまで言及することではない。これは今後の課題である。
この論文は註においても触れているように、何人かの人類学者、とりわけ中川敏氏との議論によって直接動機付けられたものである。いきごみだけの先行した論文にありがちなように、何本もの軸の交錯したまとまりのない論文になってしまった。第一の軸は、冒頭から展開されているように「異文化理解」と呼ばれる過程を具体的に検証してみることであるが、この目的は、書きすすむ過程でなかばどうでもよいことになってしまった。私自身こうした問題を考えることにあきてしまったのである。第二の軸は、アフリカ研究者として以前から妙に私の気持をおちつかなくさせ、読むたびに釈然としない、それでいて変に興奮を引きおこすリーンハートの民族誌をこの機会にじっくり読みこんでみようということであった。第三の軸は、かねてから私がいずれ展開してみようと考えていた「物語論」(通常の意味での、昔話や神話などの研究ではなく、人間の経験そのものを「物語」としてとらえ分析してみようというもの)への目くばりである。第四の軸は哲学における「独我論」の問題である。こうしたさまざまな関心が整理されないままに交錯しているのが以下に展開される議論であり、その挙句は、きわめてとりとめのない読みづらい論文となり、当初の意図がどこまで実現したかは実に心許ない結果となってしまった。
この論文は私個人にとっては一つの里程標としての意味をもっており、さらなる理論的展開への中継点としての役割を立派に果してくれたのであるが、公表にはふさわしくないものと判断している。単にその内容が粗雑だというだけではなく、テーマそのものがあまり公表にはふさわしくないものと思えたのである。つまり今日の人類学界にとっては場ちがいな議論で、「またあいつは馬鹿なことばかり考えて」と言われるのがおちだと判断したわけだ。何をしようと私の勝手なのだが。
とは言うものの私一人の世界に没入してしまうと、知らず知らず気がふれていたなどということにもなりかねない。そんなわけで性こりもなく、何人かの人類学者にこれを送りつけている。議論の不備や誤謬があれば指摘していただきたいためである。またやはり、こうした方向は健全ではないと判断された場合、率直に御指摘いただいて、私自身健全な道へ方向修正できればとの願いもある。すでに何人かのかたから、「死ぬか転向するかどっちかにせよ」とか「おまえはもうあぶない」とかの親切なコメントをいただいている。ほんとうにそうなのだろうか。私としては実にささやかな議論を展開しているだけで、けっしてだいそれた意図はないのだが、この程度の議論ですでに「袋小路」にはいってしまったというのだろうか。できれば、ここで扱ったテーマにそった完膚なきまでの批判や、「そんなことならとっくに他の人によって解決済みだよ。〜を参照せよ。」といった御指摘がいただきたいのである。そしてゆっくりと腰をすえてこうした問題について議論がしてみたい。
私は全く自信がない。自信がなければ必要以上に戦闘的になってしまう。こうした状態から抜け出すためにも生産的なコメントを期待する。御迷惑ではあろうが、私はほんとうに抜け道を求めているのである。
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