ドゥルマの占いにおける説明のモード

0.はじめに

 ドゥルマでは、他の多くの社会でと同様に、占いが意思決定の過程でしばしば重要な役割を演じている(*1)。出来事の流れの変曲点とも言うべき場所、不意の加速、奇妙な転調、後戻りなどによって特徴づけられる特異な場所にそれは位置している。すべての決定に占いが仰がれるわけではないが、決定困難な問題の背後に祖霊や憑依霊、妖術などの介入が疑われるとき(*2)、占いはそれに関する情報を手に入れるほとんど唯一の方法である。

 人々は占い師の指示には比較的忠実に従うが、それは彼らが占い師に与えている権威や信頼の故にではない。私の知っている多くのドゥルマ人は世知にたけ、ほとんどの問題に関して自分なりの意見をもち、他人の忠告や意見には容易に耳を貸そうとしない、ちょっと頑固で疑り深い人々である。彼らは占いや占い師についても同様に懐疑的な意見の持ち主である。占いは嘘をつくものだというのがその際の決まり文句であるが、私はこれを当の占い師たち自身の口から(彼ら自身のおこなう占いについてすら)も何度か聞いた。それでも人々が相変わらず占い師の指示を仰ぎ、無視する代りに、たいていの場合それに従っているのだとすれば、それは、占いや占い師一般にむけられている懐疑にもかかわらず、個々の特定の占いがその都度自らの信憑性を打ち立てることに成功しているからである。

 占いで本当のことを告げられたと感じて帰ってきた人は、占いで指示されたことを実行に移すだろう。その後の事態の展開、数週間後、数か月後の状況によって、それらの占いがやはり嘘をついていたと分かることも当然しばしばある。彼にとっては驚くべきことでもなければ、嘘をついた占いに腹をたてるのも筋違いである。占いが嘘をつくことがあるというのは経験的な真理なのだ。もちろん彼は再び、たいていは別の、占い師を諮問することになる。彼は占いが嘘をつくという一般的な事実を忘れているわけではない。占いにあまり期待してはいけない。彼は次の占いに対しても懐疑的な態度で臨むはずだ。にもかかわらず再び占いを訪れた彼が、「本当のことを告げられた」と確信して帰ってくるのを見たとしても、私は驚かないだろう。全般的な不信と、個々の占いでそれを乗り越えてうちたてられる個別的な確信は矛盾しない。本論は、ドゥルマでムブルガ mburuga と呼ばれている占いの実際のテキストを分析することを通して、占いの語りがいかにしてその都度の信憑性を打ち立てることに成功しているのかを検討する。

1.占いの二つの型

 ドゥルマの占いには、ムブルガとは別にムラムロ mulamuro と呼ばれる形態もある(*3)。ムブルガは「かき混ぜる、かき乱す」という意味をもつ ku-buruga という動詞に由来するが、ムラムロの方は「判定を下す」という意味の ku-lamula から来ている。少なくとも私の知る限りでは、人々はこの二つの占いの形態をどちらがより優れているかという形では問題にしていない。

 ムラムロは特別な占い道具を用いるタイプの占いで、その道具にはさまざま種類があるが、いずれもイエスまたはノーの形で答を出すという特徴がある。例えば、二本の棒の間に渡された紐の上に薬液を入れた容器をおいたもの。容器は落ちないように軽く手をそえられており、ノーであれば容器は紐の上から落ちそうになるが、イエスであれば手を離しても紐の上で静止する。こすり板を用いるもの。呪薬を塗布した一枚の板の上を別の木の小片で擦って、それが質問に対して止まるかどうかで判定される。小さい瓢箪をくりぬいて小さい棒を差込んだもの。棒は振り子のように小刻みに揺れ続けるが、イエスの答えを出す質問に対してはすぐ停止する。単に一本の棒を用いたもの。棒の一端を胸にあて、まっすぐ伸ばした腕にあてがい他の端がどこに達するかを見る。掌の中ほどで止まればノー、指先より外に出ているとイエスである。などなど。こうした占い道具がムラムロの主役である。ムラムロの占い師には、占い道具を呪文や呪薬などとともに購入しさえすれば誰でもなれるとされているが、私の知っているムラムロの占い師はすべて男性であった。

 ムブルガの占いにも道具が用いられるが、それらの役割はあくまでも副次的である。キティティ chititi と呼ばれる瓢箪製のマラカス。占い師はそれを右手にもって激しく振り鳴らし、口笛で、ないしは実際に声に出して憑依霊の歌を歌う。憑依霊を呼び寄せるのである。占い師の前に裏返しにしておかれた箕 lungo。その上には炉の灰がうすく敷かれ、占い師は左手の中指を使って、その上にさまざまな模様を描く。最もよく見られるのは長方形と波紋の組合わせである。ある占い師は、その意味を次の様に解説してくれた。彼女は占いを始めるにあたって、描かれた波型の数をかぞえる。それが13つまり10と3あれば、彼女にはそれが女の問題だと分かる。10と5なら、それは男の問題である。10と2なら、患者にはもう力がなく死ぬ運命にあり、10と4ならまだ力が残っており回復の見込がある(*4)。私は彼女のムブルガに立ちあう都度この波型の数を数えてみたが説明された通りになっていたことは稀であった。ムブルガにおける占い道具はムラムロの場合と異なり、占いにおいて情報源の役割を演じているようにはみえない。

 ドゥルマの言い方にしたがえば、ムブルガを語る占い師は「霊に満たされて u tele na nyama」いる。人によってはこれを、ちょうど憑依儀礼における患者の振舞と同様に、霊自身が語っていると説明する人もいる。しかし占い師自身は、霊は自分の後頭部のあたりで何を告げたらよいのかを話してくれているのであり、自分はそれをただ相談者に伝えているのだ、と説明する。しばしば多くの霊が同時に喋り、なかには嘘を教える霊もいるので、しっかり聞き分けねばならないなどと言う。いずれにせよムブルガのメッセージが憑依霊に由来すると考えられている点は間違いない。ムブルガの占い師には憑依霊の呪医として正式なイニシエーションを受けた者だけがなることができる(*5)。女性が圧倒的に多いとはいえ、男性のムブルガ占い師も珍しくはない。

 このようにムラムロとムブルガの違いは第一に、占い師を通じて相談者にメッセージを伝えるのが占い道具であるか霊であるかという違いである。しかし同時にこれは両者における語りのありかたにも大きな相違をもたらしている。ムブルガにおける問題解決のモードを理解するうえで、この相違は重要な意味をもっている。しかしそれを論じる前に、まずムブルガの具体的なテキストを提示しておくことが必要だろう。

2.ムブルガのテキスト

 以下のテキストはムブルガの中でも比較的短いものの全文である(*6)。Dは占い師(女性)、Cは相談者、MCは彼女の母である。ムブルガには当事者が直接来るよりも、誰か代理人をたてることの方が普通であるが、このテキストでは、すぐに判明するように、C自身が当事者であった。

(約3分間キティティを打ち鳴らした後)

D:さて、タイレーニと言おうかね(*7)。
C:ムルングの。
D:さて、祖霊に祈ろうね。あいつらは私に嘘をついているよ(*8)。私はキマコ chimako を与えられた(*9)。そのキマコというのは...ああ。キマコにはいろんな種類がある。4本足のキマコもある。4本足のキマコというのは、山羊や牛の、つまり家畜のキマコだ。いやいや。私に与えられたキマコは、人間の、二本足のキマコだよ。もし間違っていたら、そうお言い。
C:タイレ。その通りよ。
D:前の方に、炉が立っている。女性だね(*10)。もし違っていたら、大急ぎでそうお言い。
C:その通りよ。タイレだよ。
D:何と、私を騙そうとしている者たちがいる。そいつらはウニョンゲ(unyonge 病気などで身体が弱っている状態)について話しているよ。...病気じゃないの?...このムブルガは、あんた、あんたに関するムブルガだよ。あんた自身についての。...ウニョンゲの方に進んではいけないのかしら?
C:その場所よ。ウニョンゲ、まさにその場所よ。
D:だって、その場所について私は話しているのに、あんたたちは二人とも黙ってしまう。あいつらが私を騙していると言ったろう。私はウニョンゲを与えられたとね。でもあんたたちは黙りこんでいる。
C:その通りだって言ったじゃない。
D:いいや。あんたは、炉の場所、女性でタイレと言っただけだよ。女性のところでね。ところで、この炉、この女性は、口をきく女性じゃないだろうか。というのもね、女性と言っても2種類あるのさ。口をきく女性そのもの(おとなの女性)と、背中に背負われた小さい女性とね。で、このムブルガは、言葉を喋る女性そのものからでているムブルガなんだよ。
C:タイレだよ。
D:私に与えられているのは、ウニョンゲだけど、このウニョンゲはそれほどひどいものでもない。ずっと寝たきりのウニョンゲかって?いやいや。
(占い師は再びキティティを打ちならし始める。)
D:さて、タイレーニと言おうかね。
C:ムルングの。
D:炉が、女性が驚いている。とっても驚いているよ、あんた。心臓の苦みが、止ったかと思うと、指を激しく振るみたいに。いったいこれは何なの?さあ、さっさと答えて。私はもうここを立ち去りたいんだよ。
C:タイレ。その通りよ。
D:そもそもこの病気はね...。どの木にも必ず梢があるものさ(*11)。さあ言ってごらん。この私の頭、感じているかい?
C:その通り。
D:頭がふらふらするような感じ、そして悪寒。
C:タイレ。その通りよ。
D:それから、肋骨が内側につぶされる。
C:そう。タイレ。
D:さて、この腹についても言っていいかい。
C:ええ。その腹のことで私はここに来て、帰れないでいるのよ。
D:子供は何人つくったんだい?
C:一人だけ。
(再びキティティ。ジンジャ尊師の歌を今度は低く声に出して歌う。ひとしきり歌い、大きなため息の後、患者との会話を再開する(*12)。)
D:さて、タイレーニと言おう。
C:ムルングの。
D:まず、私は頭の問題に引っ掛かったよ。目まい、目の前が暗くなること。それから私のこの心臓、ずっしりと重い。不快な何かが心臓の背中側にある。そして、この何かは、ずっとこちらの方まで動いてきて、背中をこんな風にねじ曲げる。そして腰のあたりでは、もう耐えられないほどだよ。あんた。かと思うと、そいつは腹のなかにいる。
C:タイレ。
D:お前の子供はまだ離乳してないね。もうすっかり大きくなっているのに。
C:ええ。
D:お腹が張っている。そして熱い。トゲ、そして圧迫感。たくさんの血。日を決めずにね。そしてこの腎臓のあたり。
C:本当にタイレよ。
D:そもそも、例の何かがやってくる。すると、ここのところ(下腹をさして)におしつけられるような感じがある。そして腰のあたりが切り刻まれる。ときには、何日も続いて、あんたに、ああもう何もするまいと言わせるぐらいだ。乳房がブーッと膨れ上がる。そしてここ(陰部をさして)が痒くて堪らない。
C:タイレよ。
D:ああ。あんたは病人だよ、あんた。腹のなかで誰かが動き回っているのを感じることはないかい?まるで子供でもいるみたいに。腹のなかでごろごろ音がする。
C:タイレよ。
D:一杯のお茶で一日過してしまう。でも平気。全然空腹を感じない。
C:その通りよ。
D:また、この臍のあたりで何者かがこするように転っている。そいつはここまで上がってきて、心臓を捉える。そんなこともある。
C:タイレよ。
D:腹に鈍い痛み、そしてこんな風に押えつけると、しこりがあるよ。まるで寄生虫のように。そして腹が焼ける。
C:タイレ。
D:またしばしば、この腹に怪しい振舞いが見られはしないかい。
C:見ます。
D:お前は、(月経が)もう終わったと思うかもしれない、そして、もう済んだわと言いそうになる。とまた始まる。
C:その通りよ。
D:さてさて。その経血も時には真黒だ。また時にはそのなかに小さな肉の塊の様なものが混じっている。ちょうど肺の肉みたいなのがね。
C:ああ!そうなのよ。タイレよ。
D:腹のなかを引っ掻き回される。あんた自身、腹のなかで何かが腐っているようだと思ったりする。それが済んだと思うと、水が溢れてくる(性器から)。
C:タイレよ。
D:仕事をしなければならない日も、あんたは仕事がしたいのに、とてもできない。あんたにできるのは身体を伸ばすことだけ。身体じゅうが痛い。関節という関節が、徹底的に砕かれる。
C:タイレ。その通りよ。
D:寝たと思えば、まるで小さな子供みたいに、びくっとして目を覚ます。そんなことがあるだろう?(夢のなかで)何かにぶつかって、はっと目を覚ます。
C:タイレ。その通り。
D:(夢のなかで)死体がいっぱいもちこまれる。水のなかに連れて行かれる。また、自動車をよく見る(*13)。
C:タイレ。
D:ときに、(夢のなかで)男に会うことがあるだろう?(*14)
C:ゆうべも会ったわ。
D:そして、夢でそいつを手に入れると(性交すると)、もうお前の夫とはする気がなくなってしまう。
C:そう。本当にその通りよ。
D:そいつがやってくると、私はすっかり(そいつを受け入れる)用意ができている。
C:すっかり用意ができているわ。
D:帰らないでほしいと思う。そして、目覚めても、彼がほしい。そしてため息だ。そして、拒絶。夫をどうしても拒んでしまう。
C:ええ。
D:お前の夫は健康だ。
C:健康よ。
D:さて、このおこりっぽさ、これはいったいどうしたことだろう。
C:私にもわからないわ。
D:だって、ときどきちょっとした議論になっても、腹を立てるのはあんたの方。いろいろ問題 maneno が多いと見ると、ああこんなところ飛び出して、居なくなってしまった方がましだ。
C:ええ。
(占い師再び口笛を吹きながら、キティティをうちならす。)
D:私のこの足、それが無理やりねじ曲げられるのを感じたことがある?
C:ええ。
D:ときには、痺れて感覚がなくなる。ときには歩けないほど。そもそも、足のつけ根の関節がばらばらになってしまう。
C:ええ。
D:月経のときには、ここ(下腹部)が刃物で切られる。腰のここが切り刻まれる。食事をすれば、血が、経血の匂いがこのあたり(鼻稜をさして)で臭う。
C:タイレそのもの。食事が全然進まないの。一日何も食べずに寝てしまうってことさえあるわ。夫の他の妻たちのために私が料理する番になっても、彼女たちは喜んで食べるけれども、私自身は全然食べる気にならないの。
D:ミルク入りの紅茶でさえいやだ。
C:第一、私、誰もいないときには、自分でお茶を作って飲もうなどという気にもならないのよ。
D:さて、あんたは子供を一人産んで、それで止ってしまった。でもお腹の中には子供がいるんだよ。でも、あんたはその子たちの夢を見るだけ。
C:その子たちは夢にでてくるわ。私は実際にその子たちを抱いたりするのよ。
D:すごく大きな赤ん坊の夢を見る。
C:実際、その子を抱いて運ぶことが出来るのよ。でも目が醒めるとどこにもいない。
(再びジンジャ尊師の歌、立て続けに2曲歌う。)
D:さて、タイレーニと言おう。
C:ムルングの。
D:分別も変化してしまう。分別も揉みくちゃにされてしまう。ついには分別に耳を傾けることもなくなる。この耳が耳鳴りしているのを感じないかい?
C:タイレ。その通りよ。
D:こんなふうに誰かと一緒にいても、お前は不機嫌だ。
C:ええ。
D:心臓も破れる。もし心配事があると、心臓は一つ所にじっとしていない。今住んでいるところにいても、ああ、ここじゃない。夫の屋敷にいながら、ああ、私は嫁になどもらわれなければ良かったのに。
C:まさにそうなのよ。夫自身といさかいをして、別々の小屋で過しているのよ。
D:全身が何かに這い回られることについてはどうだい。また時には身体じゅうが燃える。
C:本当にその通りに感じてるわ。
D:でもそうかと思うと、奇妙なことに、こちこちに冷えきったりする。
C:ええ。ええ、この腕とこの足の先のところが。
D:こちこちにね。まるで死んでしまった人みたいに。あんた、どこにもいい場所はないよ。でも、特に悪いのは腹の場所だね。腹がごろごろする。腹はトゲで突刺される。腹は火で焼かれる。
C:その通りよ。
D:臍のあたりで何者かがこするように転がっている。かと思うと、そいつは心臓のあたりでたち止る。私は立っていることも出来ない。
MC:その通りだよ。先日来この子は、腰を曲げてやっと立っている状態さ。
D:ときには、嘔吐してしまいそうな気がする。胸がむかむかする。
C:タイレ。その通りよ。
D:この病気はね、それについて詳しく述べていると、私もうんざりしてしまうよ、あんた。面倒を起こしている言葉 maneno そのものことを話してしまった方がましだってね(*15)。でも、身体じゅう病気がいっぱいなものでね。便通が少ししかない。そしておしっこは頻繁だ。
C:タイレ。その通りよ。
D:尿意を感じては、おしっこをしにいく。ほとんど眠りかかったときに、またおしっこ。尿は山羊の尿に変ってしまう(*16)。
C:まさにその通りよ。それが突然始まると、眠ることすら出来なくなってしまうの。尿意を感じて、目が醒めて、おしっこをしようと外にでると、もうおしっこはでなくなっているの。
D:さて、あんたの夫と一緒に過すとき(性関係をもつとき)だって、例のもの(精液)は、すっかり膣外に流れでてしまう。
C:そうよ。
MC:(怒ったように)それじゃ、お前、いったいどうやって子供が生れるっていうんだい!
D:(性器から出てくるものに混じって)紐のようなものがでてくるのを見るだろうよ。
C:ええ。
D:ここ(陰部)が、すごく痒くてこんなふうに掻きむしりたくなる日はないかい。
C:ええ。とっても。すごく痒くなるわ。
D:あんたの夫自身があんたを求めて、一緒に過し、夜が明けると、もうどうしようもない。その中の筋肉がすごく痛む。
C:その通りよ。
D:ああ。なんて私は恥知らずなんだ(*17)。
MC:あんた。話して下さいよ。この子は、話してもらうことを求めてここに来ているんだから。哀しいのは私の方だよ。(この子が遊びに来ても)私が受け取るのは荷物だけ。渡してもらう子供がいないっていうのは、いったいどういうこと? なんなの。この私の娘は。(*18)
D:あんたは子供が欲しい。
C:私は子供が欲しい。本当の子供が欲しいのよ。
D:私が言葉をあんたに与えたら、あんたはそれを実行するだろうか?それとも、あんたがたはムブルガを打って、でも言葉は置いておいて、結局やはり子供を産めないということになるのだろうかね。
MC:ああ。言って下さいよ。言葉こそ、私たちがしたがおうとするものなのだから。
D:別に従わなくったっていいよ。
MC:従いますとも。話して下さい。
D:ところで、この人はあんたが自分で産んだ娘だ。
MC:私と私の夫Nが産んだ、実の娘だよ。
D:あんた、以前にどこかで、あんた自身の屋敷ででも、ムブルガを打ちに行って、壷(*19)を処方してもらい、あんたの子供と一緒に湯気をあびて、あんたの子供と一緒にカヤンバ儀礼(*20)を開いてもらった。そんなことがあったんじゃないかい?
MC:そんな風に言われたことはあったよ。
D:で、それをしたんだね?
MC:この子の姉に対してはね。
D:なんでこの子はほっておいたんだい。この子は真ん中の子なのかい?
MC:ええ。
D:この子が成長して、こんな風に一つ所に落着かないのをどう思うね。分別も無しにね。(頭をぐらぐら振って見せる)
MC:(笑う)
D:一つ所に定まらないとまで行かないにしても、この頭、こんな風に動き回って。あんた自身、(いっそ娘が正式に離婚されてしまって)婚資をもう残さずもって帰ってもらいたい、などと言ったりした(*21)。
MC:ええ。
D:お聞きなさい。あんた。もし子供が問題だと言うのなら、この子の腹の中に子供はいるんだよ。私のためにムルングの壷とムルングのキザ(*23)、それに瓢箪子供を手にいれてちょうだい(*22)。この子にムルングの壷を設置してあげて、4日間湯気をあびさせるんだよ。瓢箪子供はキザのところに置いておく。この子に壷の湯気をあびさせ、それが済んだら、キザのところへ行って、薬液をあびる、そのとき瓢箪子供も洗ってやり、キザのところに置いておいてやる。4日間だよ。さあ、もう壷は中身を空けてしまってよい。さて今度は、ムドゥルマの壷を据える(*24)。いやでも彼女には子供が生れるよ。
(占い師は再びキティティを打ちならし、ジンジャ尊師の歌を歌い始める。)
D:腹は火で焼かれる。そしてその熱はこの子供を産むためのところからもどんどん出てくる。
MC:その通りだよ。この子自身がそう言っている。
D:さて、もし眠っていると、寝台がぐらぐら揺れているように感じることがあるかもしれない。そして恐ろしくなる。心が、お前はもう死ぬと告げにくる。
MC:その通り。この子自身がそう言っている。
D:蛇の夢を見る。こんな風に歩いていても、棒を見てどきりとする。ああ。蛇かと思った(*25)。そして心が、どきん、どきん。
C:まさにその通りよ。
D:お聞き。私のためにムドゥルマの壷を据えてちょうだい。ムルングのが終わった後でね。ムルングの壷のあとでムルングとカヤンバ儀礼をともにしなさい。あの瓢箪子供をもってこさせ、寝台の足のところに置かせなさい。さて、それが済んだら、ムドゥルマの壷の湯気に12日間あたりなさい。それが済んだら、カヤンバを開いて、あのムルングの子供(瓢箪子供のこと)を受け取らせなさい。でも、最初の方のカヤンバは余裕があればということでいい。さて、こちらの後の方のカヤンバでは、ゼンゲザの布を買って、それであなたがたの憑依霊を分けなさい(*26)。憑依霊の分けあいが終わったら、ムルングの子供を受け取らせなさい。その後で、呪医を得て、この子自身を水で洗ってもらいなさい。つまり洗い清めてもらいなさい(*27)。そしてペンバ人、ロハニ、アラブ人、コーラン尊師、スディアニ尊師(*28)がこの子のために、飲むお皿と浴びるお皿を与えられるよう処方してもらいなさい。飲むお皿と浴びるお皿だよ。でも、まず憑依霊のやり方で清められることから始めなくてはね。あんたのとこでは、水で洗い清めるというと死体のことだと考えているんじゃあるまいね。憑依霊のやり方で洗い清められなさいよ。あの腹、出血が切れ切れに続くことに一休みさせられるだろうよ。だって、この子、月経の血が丸一月止らなかったりすることもあるんだから。
C:その通りよ。
D:終わったと思って、夫にもうしてもいいと告げた途端に、また始まってしまう。
C:まさにその通りよ。
D:さて、全く健康じゃないと知ることになるだろうよ。この子の腹は病気なんだよ。もしあんたがたが今言われたようにしなかったとすれば、この子の腹にもっとひどい病気を注ぎ込むことになるだろうよ。あんたがたは、この子の腹がこんな風に膨れ上がってしまうのを見ることになる。もし膨れ上がらないとしよう。性器からの大出血 muruwo だ。今から言っておこう。よく覚えておおき。性器からの血そのものの流出だよ。
MC:でも、そんなことはないよ。
D:ああ、ああ。まだ始まってはいないよ。そうなった日には、流れた血を掃き集めようとしても、この子がここに寝ているとすれば、あんたはあのあたりで掃き集めることになるよ(あまりにも血が広い範囲に流れ広がってしまうために)。その日には、太陽があちらに出てきたと思えば、もうこっちにきているという具合。雨が降っても雨だとは分からない程(自分の娘の容体が心配なあまり、周囲の変化にも気付かないという意味)。この子はね、けっして死んでしまうという訳ではない。けれど、力は尽きてしまうだろうよ。ペンバ人と、スディアニ尊師、わかるかい?これらイスラム教徒たちには、彼らのローズウォーターを与えてやろう。そして別のあいつらには彼らの壷を(*29)。それが済んだら、私にデナ(*30)の護符 pande(*31)と、吐き気を引き起こすニャリムァフィラの護符を手に入れておくれ。それから足をねじまげるニャリムァルカノの護符。この足が無理やりねじ曲げられたりする。ニャリムァフィラの護符、ニャリムァルカノの護符、デナの護符、それからボコの護符。全身が縦に打ち割られて、ああもう明日は起き出せないということもあるじゃないか。わかったかい?合計四つの護符ということになる。他方、ペンバ人、スディアニ尊師、ロハニらには、飲むお皿と浴びるお皿を与えてやろう。こちらには、ムルングの壷、そして、こっちには、ムドゥルマの壷。それにカヤンバ儀礼。分かったかい、あんた。しっかりとカヤンバを打っておやり。もしここで私がお前に妖術のことを言うとすれば、嘘をついていることになる。私には妖術は見えていない。全然ね。もし私が、この子のぼろ布が持ち去られて、どこかに隠されたとか、この子の汚れをこの子に取戻してやらねばならないなどと言ったとすれば、それは嘘だよ(*32)。
(占い師再びキティティをうち鳴らしジンジャの歌を歌う。かなり長い中断)
D:さてタイレーニ。
MC:ムルングの。
D:(彼女に憑依している)憑依霊はいっぱいだ。でも私は、今面倒を起こしているやつら、病気を引き起こしている霊だけを特に挙げることにするよ。でも実際にはもっと多い。ディゴ系の霊たちだって、ごちゃごちゃいる。でももし全ての霊を数え上げたら、言葉を道にそって提出しなかったことになるよ。私がここで特に深刻だと見たのが、ムルングとムドゥルマなのさ。ムルングは、自分の瓢箪子供をほしがっている。ムドゥルマは壷をほしがっている。ムルングのほうでも壷をほしがっている。そしてイスラム教徒たちは、飲むお皿と浴びるお皿を、そして護符をほしがっている。私の言うことが分からないかい?ああ、ディゴ系の霊たちもこの子のなかに居るとも。でもある霊のために開いたカヤンバの場で、同時に他の霊たちもカヤンバを打たれないということがあるだろうか?ある霊に対して呪文を唱える際に、別の霊の名前に言及しないでいるということがあるだろうか(*33)?でも、もし占い師が全ての霊を述べたてたりすれば、それは妨げになるだけだよ。私は特に面倒を起こしているやつらのことを言うだけさ。この子は泣いてばかりいるだろう。
MC:いつだってそうさ。
D:私に、黒いひよこと逆毛のひよこ、それから白い雄鶏を手に入れてちょうだい。憑依霊のフュラモヨよ(*34)。何もかもにうんざりしてしまうことがあるでしょう。自己嫌悪に陥る。そして、自分の夫に暴言を浴びせたりすることがある。
MC:その通り、タイレよ。この子の夫の口から聞いたよ。
D:フュラモヨそのものだよ。この子が屋敷からいなくなってしまうようにとのフュラモヨだよ。
C:タイレ。その通りよ。
D:この子が屋敷で嫌われ者になるように。悪い臭いがするようにね(*35)。
C:タイレ。
D:だって、この子の夫がもし皆の言うことをまともに聞いていたら、二人は今ごろとっくに別れていただろうよ。ところでお前さんには僚妻( muche munzio 夫の別の妻)がいるね。
C:います。
D:ああ。そいつがしたたかな人だ(妖術使いである)。お前さんは、汚れをもっていかれてしまったんだよ。お前の夫がお前と話をしても、お前が臭いと感じるように。
MC:実際この子は死体みたいな臭いがすると言われているんだよ。
D:ところで、何か話をしても誰も返答してくれないということはないかい?例えば夫に何か相談を始めると、彼が急にそわそわし始める。まるでトイレに行くみたいにね。そして帰ってこない。どこかに行ってしまう。人に話を聞いてもらえないというのはどんな気持だい?そんな訳で、この子は自分が病気だと思っても、それを人に告げなかったりする。
C:タイレ。その通りよ。
D:さて。呪医を渡してもらおうかね(MC、小枝を取りに退出。)この子の悪い汚れを取り除かせないとね。だって、自分が憎まれているのを知れば、お前さんの方でも他人と一緒にいる気が無くなるものね。
C:タイレ。私は、私が臭いといわれているのを知っているわ。お前は一体なんという女なんだってね。私のために建てかけている小屋も、完成することはないだろうって言われているのよ。ムルング(ここでは憑依霊のムルングではなく、至高神ムルングをさしている)だって、それが完成しないのはお見とおしだってね。もしここで一緒に暮すつもりがないのなら、さっさと出て行って、実家にお帰りってね。
D:治療しておもらい。お前の夫もお前のことが好きになるだろうよ。そもそもお前の夫はお前のことを本当に嫌っている訳じゃない。とんでもない。彼は妖術によって、心を曲げられているだけなんだよ。だって、昔から彼はお前のことが好きだったんだから。
C:あの人が私を好いている?でも、もしあの人にお金をくれるよう言ったら、話を聞いただけで、すぐいなくなってしまうわ。
D:フュラモヨのせいだって言ったじゃないか。(MC、小枝をもって再び入ってくる)まず憑依霊の呪医を最初に決めよう。(D、小枝を一本、一本見比べる)ほらこれを持って(D、一本の枝を選んでMCに渡す)。この呪医が気に入らないかい?この呪医に(治療が)できないと思うかい?こちらは男、それとも女?
MC:こちらは女の呪医。こちらの方は女とその夫を一緒にしたのさ。
D:皆(ちゃんとした)呪医だよ。でもお前を治療するのはこの人さ。
[疎遠な夫婦仲, Chari Malau, Duruma Text 505-529]

3.ムブルガの語りの特徴

3−1.全体の流れ

 ムブルガの流れは大雑把にいって、相談者の抱えている問題を明らかにし、それらの問題に責任のあるエージェントを示し、その対処法を教え、治療にあたる呪医を選定する、という3つの段階からなっている。なかでも、第一の段階にもっとも多くの時間がさかれている。占いの語りは何度も中断している。その都度キティティが振られ、それにしばしば口笛や歌がともなう。上のセッションでは起こっていないし、比較的稀なことではあるのだが、ときとして占い師はそのままいわゆるトランス状態に入ってしまうこともある。こうした中断から抜け出る度に、語りは「タイレーニ taireni」--「ムルングの za mulungu」という決りきった挨拶によって再開される。問題が語りつくされ、治療法が示されれば、後は呪医の選定である。相談者は外に出て小枝を何本か折りとって戻ってくる。一本、一本の小枝が相談者が念頭に置いている呪医に対応している。占い師はそれらの小枝を嗅ぎ分けて、そのなかから一本を選びとって相談者にわたす。それが治療にあたるべき呪医である。この選定が終わると、相談者は占い師に「牛 ng'ombe」、つまり占いの料金を支払い、ムブルガは終了する(*36)。

3−2.ムラムロとの違い

 ムブルガ全体を通して占いの相談者はあまり口をきいていない。基本的には占い師の指摘に対して正しいか(その場合「タイレ」と答えるのが決まりである)そうでないかを答えているだけである(*37)。そもそもムブルガにおいては、相談者の側からはけっして相談内容を、それが相談者自身の問題なのかそれとも彼の身内の誰かの問題なのかすら、明さないというのが鉄則である。占い師の方が自分から、それが誰に関する問題であるのかに始って、問題の全てを詳細に語り尽くさねばならない。相談者はそれにイエスまたはノーで応じるだけである。ムブルガの語りのこの特徴が、相談者自身に問題を語らせ占い道具にはイエスかノーのみを答えさせるムラムロのちょうど正反対であることに気付くだろう。

 ムラムロの具体的なケース(一本の棒を用いて行なうもの)から一部を訳出したものを見てみよう。Dが占い師(男性)、C1は相談者、C2はその妻である。

C1:やつらは、ツァムラをかけやがった。フュラモヨ・ジメネだ。ザイコだ(*38)。皆が仲たがいするようにと。私はそれを(呪薬の効目を)殺した。でも、私はそれに成功しただろうか。それともそれは私をうちやぶったのだろうか。
D:あんた、それを見た時、さぞかしびっくりしただろうね。
C1:その日のうちにそれを殺してやったよ。その点では遅れをとらなかった。問題は私がそれに成功したのか、それともうち負かされたのかだ。一昨日こいつ(相談者の妻)が首に縄をかけているのを見たときときたら。こいつは(呪薬に)捕まってしまったんだ。
C2:捕まってないとでもいうの?
C1:フュラモヨがどんなふうに言うか(どんなふうに効果が表れるか)知ってるだろう?こいつは縄で自分の首を絞めようとしていた。妖術はこいつを確かに捕えたんじゃないかい。
(占い師、占い道具を操作し始める)
D:彼女は捕えられたのか?彼女は捕えられたのか?彼女は捕えられたのか?
(結果はノー)
D:彼女はヴオ(*39)は浴びたのかい?
C1:私は昨日こいつにヴァンダ(*40)を打ってやってもいる。つまり彼女の不安を冷やすためにね。
D:彼女の心臓は上の方にあった(動転していた)のかい?
C1:そうだ。
(占い師、再び占い道具を操作する。占い道具に何を尋ねているのかは聞き取れない。)
(結果はイエス)
D:やつらのかけたフュラモヨだけどね。今ごろやつらはあんたがたのことを悪い奴だと言ってるだろうよ。だって「もし人がお前をたたき、お前が怒ってたたき返すとき、お前のたたき返し方は(相手のよりも)よりきつい」(ドゥルマの諺)と言うじゃないかい。
(占い師の解釈は、以前にかけられた妖術に関してはC1の反撃は成功していたというものである。)
C2:でも私が知りたいのはこうよ。やつらは、私がどうあがこうとこのK町で死ぬだろうと言っているわ。前からそう言っていることは人づてに耳にしていたわ。でも一昨日は私のこの耳で聞いてしまったの。彼らには私がいるのが見えなかったのよ。彼らの呪薬は彼らが私の身体の中に注ぎ込んだものなんじゃないの?私はそれを壊すことができないんじゃないの?それともやつらは別の呪薬を探し始めているのかしら。これから仕掛けようと準備しているのかしら、それとももう私の身体に注ぎ込んでしまっているのかしら。ねえ。人は死ぬものよ。でも、それは怖いものだって知っているでしょう?
(占い師、占い道具を操作する。問いの内容は聞き取れない。)
(占い道具ノーを繰り返し、最後にイエスで答える。)
D:まだ準備しているところだ。でも、やつらには結局できないだろう。
C2:馬鹿なやつら。だって人にあいつは死ぬだろうと言うなんて。人がいつ死ぬかなんて分かりっこないのに。
(占い師、占い道具を操作する。)
(答えノーを2回繰り返す。)
D:ああ、この人は死んだりしないよ。
(この後相談者たちは敵を正式に訴えるべきかどうか、また今の土地をすてて別の土地へ移り住むべきかどうか、うかがいを立てる。結果は、訴えるべきであり、移住は見合せた方がよいということになる。)
[妖術告発の是非, Mwadalu Ndurya, Duruma Text 2989-2992(一部省略)]

 占い道具が伝えるメッセージが単にイエス、ノーの判定だけであることからすると当然とも言えるが、ムブルガと違って相談者の語りがムラムロにおける語りのほとんどを占めていることがわかる。相談者は占い道具に対して、自分の置かれている状況を詳しく説明してやらねばならないばかりか、質問の方もちゃんとイエス/ノーで答えられる形で提示してやらねばならない。そのためには相談者は自分の問題状況をきちんと把握しているだけでなく、状況に対する可能な解釈や解決策までも念頭に置いていなければならないことになる。占い道具を操作する呪医がこの過程で助け舟を出していることは確かであるが、問題とその解釈、解決策を定式化することは、相談者自身の仕事である。

 ムブルガにおいては、このムラムロにおける相談者と占い道具の役割--一方が問題を語り、他方はそれに肯定あるいは否定の判断を下す--が、逆転している。相談者の方がイエス/ノーで答える側にまわり、問題状況もその解決もすべて占い師一人によって語られる。この違いが両者における問題解決のモードの違いにどのように関係しているのだろうか。

 ムラムロはエヴァンズ=プリチャードの研究でよく知られるザンデの毒の卜占と同じタイプの占いである(EVANS-PRITCHARD 1937)。このタイプの占いにおける問題解決の様式については、比較的よく解明が進んでいる(eg.浜本 1983, ZEITLYN 1990)。それによるとこのタイプの占いは、占い師と相談者の両者を巻き込んだ独特の解釈作業を要請し、これがこの種の占いに問題解決の手段としての独特の力を与える。もちろん占い道具の反応自体は紛れもなくイエスかノーで、それは立ちあっている者全員の目に明らかである。そこには解釈の余地はほとんどない。しかしそのイエス/ノーは、占い師が作為的に操作する可能性を脇におけば(*41)、何を質問されようとそれには無関係に(我々の観点からすると)、おそらくはランダムに生起しているに違いない。占い道具の答に意味を見出すには、それを質問と関係づける解釈の作業がどうしても必要になるのである。その過程で当事者を取り巻く状況が再吟味され、既存の状況理解に変容がもたらされることになる。

 上でその一部を紹介したケースでも、妖術フュラモヨに典型的な症状である自殺未遂を、占い道具はフュラモヨの結果ではないと判定している。彼らにフュラモヨがかけられていることはすでに確定していたので、これはそのままでは理解に苦しむ答であった。占い師はその女性のそのときの心理状態に探りを入れることによって、なんとかそれを理解しようとしている。そして当の女性の口から、彼女が自分の死が予言されるのを耳にしてしまっていたという新事実が明らかにされる。占い道具の反応を契機に発動する人々の側での解釈作業を通じて、既存の状況理解が作り変えられ、膨んでいくことになる。占いの結果、相談者は自らが置かれた状況についての新たな、あるいはより明確な形をとった理解を手に入れるのである。

 コミュニケーションの形態としてムラムロとは正反対の姿を示すムブルガではどうなっているのだろうか。ムブルガは、ドゥルマの言い方によると、「何も知らされないのに全てを語る」占い師の独壇場と言ってもいい。相談者が抱えている問題をつきとめ、それを描写する占い師の手際は驚嘆に値する(*42)。もちろん相談者がこれにまったく関与していないわけではない。占いの場を支配する張りつめた雰囲気は、文章化されたテキストからはあまりよく伝わらないかもしれない。その濃密な雰囲気の中で、それと意識しないままに、相談者たちはムブルガの成功に向けて、占い師との共同作業に入ってしまっている。占い師が核心に触れる都度、相談者たちの静かな興奮はその度合いを高めていき、ときに相談者はイエスまたはノーのみで応じるというその役割から逸脱しさえする。にもかかわらず、「全てを語る」のがあくまでも占い師の役割である点には疑問の余地がない。ムラムロの相談者が、占い道具の出すイエス/ノーの答に導かれて、自らの状況理解に明確な形を与えて行くように、ムブルガでは占い師が、相談者の与えるイエス/ノーに導かれて、相談者がおかれている状況を把握して行くのである。

 占い師にすべての問題を語らせるというムブルガのこのプロセスには、しかしすこし考えてみると奇妙な点がある。問題解決、つまり問題を抱えて途方にくれている人にその原因と解決の指針を与えること、がその目的だというのであれば、ムブルガはそこに至るのにやけに回りくどいプロセスを踏んでいることになる。占い師がムブルガを通じて語ることのほとんどが、相談者がすでに知っていることばかり--つまり彼が抱えている問題--であるというのであるから。相談者の質問にそのまま答えていくというムラムロの単刀直入さと比較してみれば、明らかである。もし求めているものが、ムラムロの場合と同様に、問題に対する解決の指針であるのなら、相談者がすでに熟知していることを、多大な時間を費やして占い師に手探りで語らせることに、いったい何の意味があるのだろうか。もちろんそこに占い師の能力をためすテストとしての側面が全くない訳ではない。「何も知らされずに」当ててみせれば、ムブルガの語りはおおいに説得力を増そうというものだ。しかし相談者の抱えている問題を細大もらさずすべて占い師に当てさせるというのは、しかもそれがムブルガのプロセスのほとんどを占めているとすれば、単なるテストにしてはあきらかに度が過ぎている。

3−3.ムブルガにおける再述の構造

 占い師が相談者の抱えている諸問題を「再述」するプロセスをテキストに即して検討してみよう。一見行き当りばったりに諸問題を指摘しているように見えるが、そこにある種のパターンが見て取れるだろう。ドゥルマと同じミジケンダグループに属するギリアマの占いについて、パーキンはその語りが「空間的な」イディオムによって組織されていることを繰り返し主張している(PARKIN 1982, PARKIN 1991)。彼によると、多様な解釈を同時に提示する混乱した語りから病気の原因についての確固たる語りへと移行する占いの語り自体が、「荒野」から「特定の場所・時間」への移動というイディオムとパラレルになっているという。

 ここでとりあげたムブルガのテキストにおいても、空間的な移動のイディオムはその目立った特徴である。翻訳には正確には表れていないが、ムブルガの語りにおける空間的表現の多用は使用される構文の文法的特徴でもある(*43)。ムブルガの冒頭部は文字どおり、占い師自身が(あるいは憑依霊が)場所から場所へと移動する様の記述にほかならない。目を見張らせるもの chimako に導かれて進むと前方に「炉」が見える。続いて「ウニョンゲ(身体の衰弱)」という名の場所が与えられる。そちらの方向に進んでいったものだろうか。次いでムブルガは頭部から、徐々に異なる場所に向っていく。ムブルガの語りの中でのこうした問題から問題への移動は、文字どおり「道を辿る kugb'ira njira」とか「言葉を道にそって提出する ku-lavya neno na njiraye」などと表現される。もちろんこれらの表現が単なる比喩であるという疑いはある。我々にしても問題について語る際に、その「所在」とか、次の問題に「移る」とか、「筋道」だって述べるとかいった空間的な表現を多用しているではないか。しかし比喩に過ぎないとしても、ムブルガにおけるそれは語り自体を構造化する比喩でもあることがわかる。

 語りが「道を辿る」有様は、けっしてパーキンが言うようには単線的ではないし、問題の部位に到達して終わりになるわけでもない。むしろそれは拡大、縮小を繰り返す錯綜したいくつものループをなし、これがムブルガの語りに独特の構造を与えている。身体部位に限ってそれを辿ってみよう。まず占い師はいきなり心臓の問題を指摘するが、思い直したように(「どの木にも梢がある」)頭の問題から出発し直す。最初の移動、頭−胸−腹、で問題の所在が「腹」であることが確実となった後にも、同じ経路の移動が今度はより詳細に反復される。頭−目−心臓−背中−腰−腹。次に、腹−腰−乳房−性器の小さいサイクルを辿った後に、腹を中心とした問題の指摘が何度か繰り返される。腹−心臓−腹、腹−性器−腹、四肢の関節−腹、等々。「腹」が問題の中心であることは充分明らかであるように見える。にもかかわらず、症状の指摘が終わりに差しかかる頃、最初の大きいサイクルが再度辿られたりする。頭−耳−心臓−皮膚−手足−腹。こうした反復を通じて問題は徐々にその全貌を明らかにしていくことになる。

 これはけっして単なる冗長な反復ではない。似通った経路が辿られ、語りは繰り返し同じ場所に立ち返る。しかしその都度、それは異なる意味的次元で辿り直されているのである。一例を挙げれば、「身体症状」の次元で辿られた経路が、身体の中にある「何か(ut'u:「物、事」)」の移動として、次いで身体のなかにいる「何者か(mut'u: 「人」、すぐ後でそれが患者に憑依している憑依霊であることが明らかになる)」の移動として語られ、その都度より明確なイメージに置き換わっている。また同じ「場所」が、そこに戻ってくるたびに、異なった意味領域に関係付けられている。例えば、「頭」から「心臓」への移動は、初めに辿られたときは単に身体症状との絡みであるが、終盤に再び辿られたとき、それは精神活動に関連づけられている。<頭・分別>−<心臓・不安>。いまやそれは患者の女性の対人関係の問題、屋敷内での不確かな位置にかかわっている。

 さまざまな意味的次元が最も錯綜するのが「腹」を基点として辿られる小さいサイクルにおいてである。身体症状として、月経との絡みで、家事の問題として(「仕事をしなければならない日も、あんたは仕事がしたいのに、とてもできない」)、不妊との関係で、性生活の問題として、等々。この過程で、患者の女性に死体、腐敗のイメージが繰り返し重ねられ、身体の中にある「何物か・何者か」、夢に現れる彼との性交、夫との不和といった一連の繋がりが明らかにされていく。空間的移動の比喩--「道を辿ること」--が、ムブルガの語りに一種の秩序性を保証していた。しかしいまやそこから別の秩序、別の物語が生まれ始めている。

3−4.ムブルガの語りにおける憑依霊の役割

 相談者の抱えている問題についての「再述」が一段落ついた頃から、占い師はそれらに責任あるエージェントが何であり、またそれに如何に対処したらよいかについて語り始める。その際、占い師はなぜそのエージェントであって他の者ではないのか、その理由をあらためて示してはいない。その根拠を示す必要をほとんど感じていないかのようにすら見える。相談者の側でもそれを問題にしている風ではない。あたかも問題について述べ終わった段階で根拠は示し終えたとでもいうかのようである。しかしこれはちょっと奇妙である。なぜなら、ここまでで占い師が述べた内容は、相談者が既に知っていたことばかりだからだ。もし、それらが特定のエージェントを名指すのに充分な根拠であったというのなら、そしてそれが相談者にとっても問題なく受け入れられるというのであれば、そうした結論はわざわざムブルガを頼るまでもなく相談者自身の手で出すこともできたはずである。

 仮に、同じ問題に責任のあるエージェントが複数あり、そのいずれであるかが相談者にはわからないということであるとしても、そういった状況であるとすればむしろムラムロがふさわしい解決の手段であり、なにもムブルガで占い師に自分が既に知っていることを長々と述べさせるまでもなかったということになろう。ムラムロの相談者がムラムロに相談することによっておこなっているのは、事実これである。

 ムブルガにおいて占い師がここまで述べてきたことが、単に相談者が既に知っていたことにつきると考える点に明らかに誤りがある。占い師が指摘する個々の問題に関していえば、たしかにどれも相談者が既に知っていたことばかりである。しかし、ムブルガの語りのなかでは、それらの問題がムブルガ特有の語りのパターンに従って提示され(「道にそって提出する」)、互いに繋ぎあわされていた。相談者が経験していた諸問題の単なる羅列からなる集合体は、占い師の再述を通じて、いまだ漠然としてはいるが、「構造化された」集合体に姿を変えているとも言える。それはもはや相談者が既に知っていた以上のなにものかなのである。

 占い師がもちだしてくる「エージェント」についても、こうした諸問題の集合体にもちこまれる構造化との関連で考えてみなければならない。上記のムブルガのテキストの中では、最後に言及される妖術フュラモヨに加えて11人の憑依霊の名が挙げられている。イスラム系の5人と、ニャリ系の4人はいずれもグループとして関係しているため、かかわってくる憑依霊の数は見かけほどには多くない。紙幅の都合もあるので、ここでは憑依霊のうち二人の霊、ムルングとスディアニ尊師に絞って検討しよう。個々の憑依霊について、それがどのように振る舞い、どんな性格をもち、何を要求するかに関する広く知られている知識がある。そうした知識を背景にしてはじめて、ムブルガの語りは意味をなす。ムルングとスディアニについては、以下の通りである。

 憑依以外の文脈でムルングと言えば、天空にいて雨を支配する至高神ムルングのことである。憑依の文脈でもムルングは憑依霊の筆頭である。ムルングは女性で、他のすべての憑依霊の母であるとされ、儀礼ではしばしば「お母さん」と呼びかけられる。池や川などの水場を棲み処とし、しばしば蛇の姿でイメージされている。雨期に増水した川を下っていくとされる大蛇ムァムニーカは、ムルングの別名でもある。ムルングに憑依された人が身につける布はムルングの布と呼ばれる「黒い(実際には濃紺)」布であるが、同じ布は埋葬の際に死者を包む布、降雨祈願の折に人々が身につける衣服としても用いられる。かつては赤ん坊を背負うためのおぶい布にはもっぱらムルングの布が用いられていた。ムルングは、別名「育てる者 marera(動詞 ku-rera より)」とも呼ばれている。

 ムルングと母性の結びつきは、憑依の文脈ではきわめて逆説的な形をとる。ムルングはしばしば女性に憑依して彼女を不妊にしてしまうとされているのである。一般に憑依霊が人を病気にするのは憑依霊の側に何か要求があり、それを伝えようとしてのことである。ムルングの場合、要求はムルング自身の子供である。ムルングは自分の子供が欲しくて、患者の「腹を塞いだ」のだ。したがって瓢箪で子供を作ってやりそれを与えてやれば、ムルングは患者を解放してくれるだろう(*44)。ではムルングはその要求を伝えるのに、なぜその女性を選んだのだろう。答は再び逆説的である。その女性が出産能力において優れており、それに嫉妬したからだというのである。

 ムルングについてのこうした知識を考慮に入れると、このムブルガの語りが相談者の問題にいかなる構造化をもたらすかは明らかであろう。患者の夢に現れる蛇や水、大きな赤ん坊は彼女の不妊と無縁ではなかった。ムルングは彼女の問題に新しいパースペクティブを与える。彼女は子供が産めないが、それは彼女が不毛だからではない。逆に彼女の出産能力がムルングに嫉妬されるほど優れているからこそなのだ。相談者の問題はひとつには「多産ゆえの不妊」であったということになる。ムブルガはさらに、そのムルングが患者の母親に憑依していたムルングであるとすることで、自分の娘に対してほとんど絶望的な見方をしているらしい母親に、改めて娘とのつながりを再認識させる働きをしているという点も指摘しておきたい。

 スディアニ尊師、ロハニ、ペンバ人、ソロタニ(サルタン)、コーラン尊師らはいずれも血を好むイスラム系の霊で、吐血や性器からの出血を引き起こす。彼らは治療においてはグループとして似通った処置を受けるが、それぞれ独特の個性も備えている。中でもスディアニ尊師(*45)は性の領域との結び付きが顕著である。

 スディアニ尊師には男女両性があり、男のスディアニ尊師は女性患者に、女のスディアニ尊師は男性患者に憑依するという関係がある。美しい男や女の姿で夢の中に現われ、それがとり憑いている人間と夢の中で性関係をもったり、当人の気付かぬうちに相手を犯したりする。嫉妬ぶかい霊で、自分が憑いている人間が他人と性関係をもつのを嫌う。これが原因で男を不能にしてしまったり、また妻にその夫を拒ませたりする。とりわけ女性がスディアニ尊師と性関係をもってしまうと、他の男性が性関係をもっても精液は入口でくいとめられて、中まで達することができないという。かくしてその女性には子供ができなくなる。清潔好きなイスラム教徒であるため、尿をたれ流しにして母親の衣服をよごす赤ん坊や幼児を嫌い、それを次々と殺してしまうこともある。また同じ理由で精液(これもドゥルマ語では「尿」と同じ用語 mikojo で呼ばれる)を嫌い、これも夫婦間で正常な性関係がもてない原因となる。この霊にとり憑かれている人は、常に屋敷を清潔に保ち、またローズウォーターを混ぜた水で洗い清められ、イスラム教徒の着る白い長衣(カンズ)と白い帽子(コフィア)を着用しなければならない。スディアニ尊師が喚起する物語のインプリケーションも、ムルングの場合同様きわめて明快であろう。スディアニ尊師の犠牲者は性の障害から恋人や配偶者との関係に支障を来している訳であるが、それはそもそも皮肉なことに、犠牲者にスディアニ尊師が惚れてしまうほどの性的魅力が備わっていたからなのである。

 個々の憑依霊についての人々の既存の知識は、それらの霊に固有の問題群やその様相と結び付いており、しかもそうした諸問題を独特の角度から眺め直させる物語性、しかも逆説的な、をはらんでいる。多産ゆえの不妊、過剰な性的魅力ゆえの不能。そもそもあらゆる憑依霊は患者に「惚れて ku-tsunuka」憑依する、つまり患者の側のなんらかの望ましい特性の故に彼に憑依すると考えられているのであるから、こうした逆説はすべての憑依霊の物語に内在していると言える。患者が望ましくない特性を示しているのは、彼が本当は優れて望ましい特性を備えているからなのだ、という訳である。

 占い師が、相談者が直面している問題を再述する過程でそこに導入した問題の構造化は、エージェントをもちだすことによってようやく完成するのだということがわかる。再述を通じて姿を現わしつつあった物語は、こうしたエージェントが登場することによって一気に結晶する。そしてこれが逆にこうしたエージェントの介入についての占い師の指摘に、疑いの余地のない説得力を与える。なるほど問題がしかじかであるのなら、そこにそのエージェント、例えばムルングが介入しているのは明らかである、という訳だ。しかし、実際にはムルングをもちだすことによって、はじめて問題はしかじかの形をとることになったのである。災因論的な語りを支配する相互反照性がここにも見出される(*46)。

4.ムブルガにおける問題解決のモード

 問題を抱えている人がその解決を求めて占いを諮問する。この言い方には別に間違ったところはない。しかしムラムロとムブルガにおける語りの性格の違いを理解するためには、ここで何気なく用いてきた「問題」という概念自体に含まれる奇妙さに注意を向けてみる必要がある(田島 1990)。「問題」とは、その定義によると、なんらかの仕方で解決されるべきではあるが、その解決の仕方が未だ明らかでないような何かのことである。解決が既にわかっているなら、それはその人にとってはもはや「問題」とは呼べない。解決が知られていないといっても、そこにはさまざまなケースがあり得る。解決の可能な選択肢が複数あるために一意的に解決を決定できないという場合もあろう。それはとりたててパラドキシカルな状況ではない。しかしもう一方の極端な場合として、00そしてこの場合に我々は「真の問題」の存在について語るのであるが00問題の本質が明らかでないがゆえにいかなる解決を定式化することもできないという状況がある。よく言われるように、問題が何であるかがわかれば、すでにそれは解決されている。問題とはその本質、それが何であるかが知られていない何ものかであるという訳である。この場合、「問題」はきわめてパラドキシカルな概念である。そもそも、それが何であるかがわからないものの存在について語ることなど出来るだろうか。例えば、「椅子」が何であるかがわからないときに「椅子」が存在するかどうかを問題にすることなど出来まい。それに対して、「問題」とはそれが何であるかがわからないときにのみ存在し、またそのときに限ってその存在について語らねばならないというのであるから。そんなことが可能だろうか。

 こうしたパラドクスは、えてして異なる論理階型が混同されているときに生じる(*47)。ここでもそれは、「真の問題」について語る我々の語り口のなかで、諸要素とそれら諸要素が形作る様相やパターン、個々の個別的な問題とそれら諸問題が形作る複合相に対する言及が同時になされることによる論理階型の混同に起因している。ムブルガの占いにおいてみられる状況がまさにこれに当たると考えることができる。

  ムラムロの場合、このパラドクスは回避されている。ムラムロを諮問する人は、自分たちの問題が「何であるか」を知っており、それを解決するためにとるべき選択肢のいずれを選ぶべきかの判断をムラムロに仰いでいる。相談者が持っている状況に対する先行理解あるいは予断の中で、個々の問題(要素相での問題)はすでになんらかの全体(複合相での問題)に従属するものとして把握されており、この二つの位階が混同されることはない。占いは相談者の予断を変容させ、個々の問題と全体との関係を再調整するが、まさにそれが、解決の選択肢の一意的な決定を可能にするのである。

  それに対し、ムブルガの占いを訪れる人は、自分たちが抱えている「問題」がまさに「何であるか」をこそ、占い師に語ってもらいたがっている。ここでは「問題のパラドクス」を特徴づける、異なる論理階型に属する二つの相(要素としての問題、それらの複合的全体としての問題)に対する言及が同時になされている。ムブルガを諮問する人は、ある意味で問題が何であるかを知っているが、同時にそれが何であるかを知らない。上記のムブルガの場合、相談者は、例えば、自分の抱えている問題が生理の不順、性器からの出血、不妊、...夫との性関係の障害、僚妻や夫の親族との不和...等々であることは充分わかっている。しかし、その上でなおかつ「何が問題なのか」と彼女が問うことは可能なのである。この問いに対して「あなたの問題は、生理の不順、性器からの出血、...夫との性関係の障害、僚妻や夫の親族との不和...です」と単にそれらを列挙して答えたとしても、全然答えになっていない。かといって、これらの問題のリストに更に何かが追加できる訳でもない。彼女の抱えている問題はこのリストのなかで言い尽くされている。彼女が知りたがっているのは、個々の問題の単なる列挙や総和には還元できない何かであるが、列挙された諸問題とは別にある何かでもない。諸問題のこうした集まりが経験されるなかで、同時に経験されているはずの何かである。

 個々の要素の経験を通じてしか経験されないが、同時にそうした要素の総和以上のものである何かとは、結局、諸問題の間にまさに見て取られようとしている関係付けそのもの、諸問題が形作っているパターンに他ならない。ムブルガの相談者が、占い師に提示してもらいたいのはまさに、この経験されてはいるが未だ明確な姿を現わしていないパターン、問題の集まりが確かに備えているはずの構造なのである。真の「問題」は、それが存在すると言われるときには、常にこうした形で存在する。それは論理階型において一つ上の存在が、まさにその姿を現わそうとする際にとる姿に他ならない。既に指摘した「問題」概念に含まれる奇妙さは、「問題が何であるか」という問いが、実は論理階型の一つ上の位階、その時点では未だ「存在」していない一つ上の位階への創発的な進級を要請していることに起因しているのである。

 諸問題が実体として存在する水準より上位の、諸問題の水準からはパターンでしかないところのものを「存在」として提示して欲しいという要請に、語りはどのようにして答えることができるだろうか。それは結局のところ、相談者がその個々の存在については充分承知しているこうした諸問題を、再び述べなおすことによってでしかない。ただし、いまや相互に関係付けられたものとして。つまりそれは物語を必要とする。ムブルガの占い師による諸問題の再述はまさにこれをおこなっているのである。

 ある相談者がムブルガの後で、当の占い師自身に治療を依頼するために始めたスピーチは、それをよく示している。

C:さて、呪医がその牛(占いの代金)を受け取ったら、ムブルガは終わったんだと考えていいと思います。さて、このように私はこの病気(病人は彼の妻)とともに、私の心の中であちこち彷徨って(kuzunguluka)、何をすることもできずにいました(kp'ima 文字通りには「立ちどまっている」)。私がやってきたありさまは、こんがらがって(kulingana 「(長いものが)巻きつく、もつれる」)やってきたということです。問題 maneno を見てもらってこようと。...ああ。この呪医、彼女はそれを外に出してくれました。問題は、まさしくその通りでした。私をすっかり矢で射止めました。そしてそれらすべての道はまさしく私の道でした。こうしてこの呪医は私が苦々しく思っていることに終止符をうってくれました。私は彼女を私の呪医にしたいと既に思っています。この道にある苦々しさのせいで..。ねえ私のいうことを聞いて下さい。この道にある、私が今いった通り、苦々しさは...
(占い師は知らんふりをして小屋の外に出ていく。)
[妻の不妊についての占い,Chari Malau, Duruma Text 1333]

 問題を抱えている状態が、さまざまな道がからみあい(kulingana)、行くべき方向もわからず、彷徨い(kuzunguluka)立ちつくしている(kp'ima)状態として捉えられている。再び空間的なイディオムである。彼は問題を抱えているのだが、それが「何であるか」がわからない。占い師は個々の問題の連鎖を「道」にそって提出し、その結果相談者にとっての「問題」を明るみに出す。そのとき相談者は、それがまさに自分の「問題」だったと知るのである。

 しかし、占い師は、単に相談者が経験している個々の問題を道にそって提出することだけによって、相談者が抱えてきた「問題」が何であるかを明らかにできた訳ではない。相談者の経験の中には含まれていなかったある要素をそこに持ち込むことによって、それを行なっている。それが「憑依霊 nyama 」であり「妖術 utsai」だという訳だ。自らの存在を示そうと身構えているパターンは、自らの構成要素に一つ余計なものを付け加えることによって、ようやく安定を獲得する。「憑依霊」や「妖術」が単なる仮説的な知識から経験的にリアルな存在に変貌するのも、まさにこのときである。それらは自らが組織する経験のリアリティによって、自らのリアリティを獲得するのである。

5.結論

 妖術や憑依霊が不幸や病気の「原因」をめぐる観念であり、不幸や病気を「説明」するものであるという言い方がある。確かにそのとおりである。しかし妖術や憑依霊の観念はムブルガの語りのなかで単なる原因以上の働きをしていた。それらは同時に、苦難の経験そのものを特殊な物語へと変質させる。したがって「説明」という点に関しても留保が必要になる。なるほど、こうした諸観念を支点にして成立する物語は、不幸や病気を「説明」している。しかしこの場合「説明」という言葉の意味が、その通常の用法から微妙にずれていることも忘れてはならない。通常の「説明」においては、説明されるべき現象と、その現象に対する説明とは、互いに独立していなければならない。説明されるべき現象がまずあって、いわば後からそれに対して説明が加えられる。かくして「同じ」一つの現象に対して、正しい説明やら間違った説明やらの、さまざまな説明が可能であると言うことになる。説明の対象はそれに対する説明に先立って別個に自存する、構成ずみの存在である。

 これに対して、今問題になっている「説明」においては、そもそも説明されるべき現象は、それに対する説明から独立してはいない。占い師が提出する妖術や憑依霊の観念に支えられた物語は、相談者が抱えている「問題」を説明する。しかし、既に述べたようにこの「問題」が明確な対象として成立するのは、まさに占い師の語りを通じてであった。つまり説明の対象は説明に先立っては独立に存在しておらず、まさに説明がそれを対象として作り出しているのである。説明は説明の対象に対して「構成的 constitutive 」なのだ。両者の違いを、クラパンツァーノにならって「説明モード explicative mode」の説明と「参与モードparticipatory mode」の説明と呼ぶこともできるかもしれない(CRAPANZANO 1973)。両者を取り違えないという条件の下でのみ、妖術や憑依霊を人々が抱えている問題に対する説明概念だと考えることが許される。

 ムブルガの占い師は相談者が抱えている「問題」が何であるかを、そこに含まれる諸問題を「道」にそって示し、妖術やら憑依霊やらの観念によって組織された物語として提出する。それは相談者の苦難の経験を、それらを語り直すことを通じて変質させる。それを首尾よくなし遂げる限りにおいて、ムブルガは自らの説得性をその都度打ち立てるのである。妖術や憑依霊が人々の経験の中に現実性をもって入り込んでくるのもそのときである。それらは経験の一要素として直接経験できるような何かとしてではなく、人々の「問題」経験がそこを支点にして組織される中心点、しかしそれ自体は空虚な中心点として入り込むのである。

 「憑依霊(p'ep'o)は我々風に言えば、身体のなかにいる。でも見えないよ。ムブルガに行くと、占いを打ちに行くと、お前は告げられる。「お前には憑依霊(nyama)がいる。お前にはロハニがいる。」「へぇえ!」という訳だ。それでいて、ロハニというのはこいつだといった風にそいつを目で見ることはできない。いわば言葉だけのものだよ。言葉として与えられることになるだけだよ。」
[憑依霊について,Jawa Mwero, Duruma Text 125]

注釈

(1)ドゥルマはケニア・コーストプロビンスに住むバントゥ系農耕民ミジケンダ・グループに属する集団で、クワレ州の内陸側に広がる広大な丘陵地帯に広く居住する人口15万余りの集団である。トウモロコシを主に栽培しているが、ヤギや牛の牧畜も経済的にかなりの重要性を持つ。近年若者達の中では現金収入を求めてモンバサなどの都会へ出稼ぎに出る者も多い。二重単系出自をもつが、ウクーチェと呼ばれる母系集団は、経済的、政治的な重要性を既に失っている。この論考は、1983年4月〜9月(トヨタ財団)、1986年11月〜1987年8月(福岡大学)、1989年9月〜1990年2月、1991年8月〜1992年2月、1992年8月〜10月(いずれも文部省科学研究費助成金)の5回の調査に基づいている。

(2)祖霊や憑依霊などが活動する領域は目覚めた意識にとっての現実とは一応区別されている。しかしそれは「この世」と空間的に区別される別の世界であるというよりは、「この世」に上書きされた世界と言ったほうがよい。「夢」の現実にも対応する。人はこの二つの現実を同時に生きている。浜本 1992a 参照。

(3)コーランを用いるイスラム系の占いもある。コーランをでたらめに開いて、書いてある章句をもとに占うというものであるが、占いの進行はムブルガ風である。筆者は一例にしか立ちあっていない。

(4)占いでは女性は「炉 figa」として言及される。炉は3つの石でできており、3という数に対応する(女性は6によって表わされることもある)。これに対して男性は5に対応している。

(5)呪医就任の儀礼は「外に出す kulavya konze」と呼ばれる。憑依霊はさまざまな要求を伝えるために、人に憑依し彼を病気にする。そうした要求の一つが「仕事」、つまりその患者自身が呪医になることの要求である。その結果開かれる儀礼がこれだ。患者を病気で苦しめていた霊は、「瓢箪子供」として「外に出」され、以後この患者の呪医としての仕事を助ける存在となる。浜本 1992b を参照。

(6)1989 年に録音されたものの一つで、現地でドゥルマ語に書き起こされた。末尾のデータ番号は現在作成中のデータベースに登録した際の番号である(データはすべて現地語のままだが、データベースは希望者には自由に参照できるよう用意している)。翻訳には表れないいくつかの特徴がある。第一にギリアマ語の使用。ムブルガの冒頭部はもっぱらギリアマ語で語られている。ギリアマはドゥルマに隣接した同じミジケンダグループに属する集団で、この占い師の霊の一人がギリアマ語を話す霊なのである。ムブルガの進行とともにギリアマ語は目立たなくなる。第2に、特殊な文法形式の多用。テキストでは動作の主語に場所を表わす言葉を立てる構文が多用されている。「前の方に炉が立っている」と訳した文は ”Ala ko mbere kisha kunarungurara figa.”であるが、 rungurara (ギリヤマ語で「立つ」)の主格接頭辞は ku- であり、これは figa 「炉」とは呼応せず、 ko mbere 「そこ、前方」に呼応している。「炉(figa)」は「立つ」を補足する補語の位置に退いている。直訳すれば「前方は、炉に関して、立つという出来事が生起している」とでもなろう。

(7)タイレ taire、タイレーニ taireni(taire に複数を表す -ni のついたもの)はともに憑依霊の儀礼や占いの文脈でのみ用いられる。タイレはムブルガで「そのとおり ni vivyo」「正しい ni jeri」という代りに用いられる。タイレーニはさまざまな儀礼の場で人々の注意を喚起する言葉として用いられ、人々はそれに対して声をそろえて一斉に「ムルング(神)の za mulungu」と応答する。

(8)この占い師自身の説明によると、同時に複数の憑依霊が彼女に語るべきことを告げる。全ての霊が正しいことを教えてくれるとは限らない。彼女には多くの憑依霊がいる。彼女自身は 1987 年の時点では、ムルング mulungu、ムドゥルマ(muduruma ドゥルマ人)、世界尊師 mwalimu dunia、の3人の霊について呪医就任の儀礼を受けていた。しかし世界尊師を「外に出す」際に別のきわめて獰猛な霊が一緒に出てきたといわれ、どうもこの霊が彼女の占いで中心的な役割を演じているらしい。正体のいま一つはっきりしないこの霊は、1989 年の時点では、ジンジャ尊師とよばれ、ガンダ人であると言われていた。1991 年に彼女に会ったときは、ジンジャ尊師とは別にピーニと言う名のギリアマ人の霊が独立した人格として認知されており、実はそれが彼女の占いを助けてくれる中心人物だと判明していた。ジンジャ尊師の方はというと世界尊師の別名であり、ガンダ人はさらに別の霊だということになっていた。1992年に彼女に会ったとき、彼女はついにこの正体不明の霊が自らの正体を名のったと嬉しそうに語ってくれた。眠っている間に、彼女は「霊がかり」になり、夫に自分がセゲジュ人であり、白と赤と黒の三種の布を繋ぎ合わせたドレスとサンダルが欲しかったのだと告げたという。

(9)キマコ chimako は症状や問題を指す占い独特の言い方で、文字通りには「驚かせるもの(動詞 ku-maka 『驚く』より)」を意味する。

(10) 前注(4)参照。

(11)「どの木にも必ず梢がある muhi kauricha chirere.」は、どんな事柄も枝葉末節を含んでいるものだという意味の慣用表現。

(12)この占い師が占いの中で歌う歌はすべて彼女のオリジナルで、彼女に対してカヤンバ儀礼を開く際にも演奏される。彼女はこれら一連の歌を夜眠っている間に、霊から教えられたと語る。ジンジャ尊師については前注(8)参照のこと。

(13)夢に現れる自動車は死のイメージと結びついている。それが死体を運搬する輿(gyenesa 寝台を裏返しにしてその中に死体を寝かせ布で全体を覆ったもの)に似ているからだともいう。

(14)後出の注(45)で触れるスディアニ尊師をほのめかしている。

(15) maneno は多義的な語で、「言葉」、「問題」、「論争」、「困難」などの意味をあわせもつ。ここでは症状を引き起こしているエージェント、あるいはそれが患者に対して伝えようとしている要求を指しているともとれる。

(16)きわめて濃い色の尿をだすこと。

(17)ムブルガの占い師は、良識ある人間なら普通口にしないことまで平気で口にだす。

(18)来客が屋敷に近付いたとき、出迎えてその持物を奪う ku-phokera のがホスト側のマナーである。来客が幼児を背負っている場合、ホスト側の女性たちがその赤ん坊を受け取る。

(19)「壷 nyungu」は憑依霊に対する治療法の一つ。その憑依霊に固有の種々の植物を土器の壷に詰め、少量の水と呪薬を加えて火にかける。十分沸騰させて火から下ろし、壷を股の間に置いて座り、頭からすっぽり布を被って湯気を浴びる。これを決められた日数続ける。憑依霊を喜ばすためとされ、もし憑依霊が満足すれば患者はおおいに汗をかく。もし満足しなければ汗はでない。ときには湯気を浴びた直後、その霊に固有の植物の葉を水に浸けた薬液 vuo で沐浴する必要がある。こちらは「壷 nyungu 」に対して「キザ chiza」あるいは「池 ziya」と呼ばれる。通常「壷」と「キザ」あるいは「池」は一対で用いられる。「壷」と「池」の治療は、それのみで完結することもあれば、本格的なカヤンバ儀礼(次注20参照)の前段階として行われることもある。「子供と一緒に湯気を浴びる」のくだりは、後出する「憑依霊を分ける ku-gavya nyama 」儀礼に言及したものである(後注26参照)。

(20)カヤンバ儀礼は、患者に憑いている霊を呼出し、その要求を確認し、霊と交渉して患者から手を引く約束を取り付けることを目的として催される儀礼である。患者を囲んでカヤンバと呼ばれる一種の打楽器を演奏しながら、ムルングやムヮラブ(アラブ人)に始まる一人一人の霊の持ち歌が次々に歌われていく。患者に霊が憑いているならば、その霊の持ち歌が歌われる際に患者は「霊がかり ku-golomokp'a」になる筈である。主だったすべての霊の歌が演奏されねばならない。直接患者の現在の病気に関係がない霊であっても、その歌を演奏せずにいると霊は腹を立て、肝心の霊が出てこないように道を塞いでしまうかもしれない。こうした直接関係のない霊は、自分の歌が歌われている間だけ患者を「霊がかり」にし、ひとしきり踊ると満足して引っ込むのが普通である。こうして何十という霊に対して歌が歌われねばならないため、カヤンバ儀礼は普通でも丸一晩かかって行なわれる。通常のカヤンバ儀礼 kayamba ra kupunga muwele の他に、お悔やみのカヤンバ kayamba ra pore、憑依霊の葬式 hanga ra p'ep'o、月のカヤンバ kayamba ra mwezi、瓢箪子供を外に出す儀礼kayamba ra kulavya chereko、呪医就任儀礼kayamba ra kulavya konze、キブリ戻しの儀礼 kayamba ra kuzuza など様々な種類のカヤンバ儀礼がある。

(21)ドゥルマの人々は絶望すると、しばしば最悪の結果を望んでいるかのような言葉を吐く。

(22)憑依霊ムルングは、ときに自分に子供が欲しいことを知らせるために女性を不妊にする。「瓢箪子供 mwana wa ndonga 」と呼ばれる瓢箪をつくって与えれば、患者を解放する。この「瓢箪子供」は、呪医の所持する瓢箪子供と区別して「子供祈願の瓢箪子供 mwana wa ndonga kuvoyera mwana 」とかチェレコ(chereko: ku-ereka 「(子供を)背負う」)とか呼ばれる。浜本 1992b 参照。

(23)前注(19)参照。

(24)憑依霊「ドゥルマ人」。部族名をもつ憑依霊は数多く、ドゥルマの人々が他集団に対してもつステレオタイプを提供する。憑依霊ムドゥルマは、いわばドゥルマ人の自画像ということになる。ムドゥルマは美男美女とされ、カヤンバのなかでも「ムドゥルマよ、お前は美男子(美女)に生まれた」と歌われる。一方、カヤンバの儀礼に出現したムドゥルマに対する呪医の語りかけの中では、「あなたはブッシュ=未開地(nyika)から、遠路はるばるやってきた」と語りかけられ、本人も「私の家は遠い」などと語る。うっかり「あなたのための儀礼は来週 wiki(英語の week より)の予定です」などと言おうものなら、「その wiki というのは一体何だ。そんな言葉は聞いたことがない。俺たちはマジュマ majuma (ムドゥルマの伝統的な週の単位、四日で一巡する)しか知らない。」などと突っ込みを入れる。要するに田舎者なのである。

(25)憑依霊はしばしば蛇と結びついている。とくにムルングや世界尊師、ジャンバ尊師などは蛇の姿でイメージされている。

(26)「憑依霊を分けるカヤンバ kayamba ra kugavya nyama」は、母親についている霊が子供を苦しめているとき、母親の憑依霊を子供に対しても認知してやるために開かれる。以後、子供の治療を母親に対する治療とは切り離して単独に行うことが可能になる。婚出した娘に対して行われる場合が多い。親子一緒に壷の湯気をあび、次いで二人に対しカヤンバ儀礼を開く。徹夜の儀礼の最後に、再びムルングの曲を打ち、二人を一枚布(ゼンゲザと呼ばれる)で頭から覆う。二人が憑依状態に入ると、布は半分に切られ、かくして各人に憑依霊が分けられたということになる。

(27)占師はここでドゥルマ語の「洗う ku-ogesa」の代わりに、スワヒリ語の「洗う ku-osha」「白くする、清める ku-eua(passive. ku-euliwa)」などの言葉を用いている。ローズウォーターを混ぜた水をバケツ二杯分ほど用意して、それを頭からかけながら「アラブ語(実際には誰も理解できない憑依霊の言葉)」とスワヒリ語で彼女をイスラムとして受け入れて欲しいと祈願する。更に全身をこの水で洗ってもらう。イスラム系の憑依霊の治療に不可欠の手続きだとされている。

(28)憑依霊には二つのグループがある。一つはブッシュ系の霊のグループ、もう一つはイスラム系のグループ(nyama a chidzomba)である。前者は未開地の霊(nyama a nyika)、あるいは陸地の霊(nyama a bara)、「湖の人々(achina maziyani)」などと呼ばれる。ムルングやムドゥルマなどはこのブッシュ系の霊である。これに対してイスラム系の霊は、海岸の霊(nyama wa pwani)と呼ばれる。イスラム系の霊には尊称として「先生」を意味するスワヒリ語のムァリム mwalim が付けられることが多い。ここではそれを「〜尊師」という形で訳出している。各グループには各々まったく異なった治療法が適用される。ここで言及されたペンバ人、ロハニ、アラブ人、コーラン尊師、ソロタニ、スディアニ尊師らはいずれもイスラム系の霊の下位グループで、引き起こす症状も共通しており、治療に際しても通常一括して扱われる。治療は基本的には、水で洗い清められることによって「イスラム教徒」(といっても憑依霊の観点でのイスラム教徒であるが)となり、磁器製の皿にコーランの章句などをサフランで書き、それをローズウォーターで溶いたものを、服用、あるいは沐浴することである。これが「飲む皿 kombe ra kunwa」および「浴びる皿 kombe ra koga」である。

(29)前注(28)参照。

(30)デナ Dena、 ニャリムァフィラ nyarimwafira、ニャリムァルカノ nyari mwalukano、ボコ boko などはニャリと総称されるグループに属する霊である。彼らをイスラム系に分類するか、ブッシュ系に分類するかは呪医によって意見が異なる。治療に用いられる呪薬や治療法の点ではブッシュ系であるが、イスラム的な要素(それ固有の衣服など)もあわせもつ。ニャリとはドゥルマ語で「裂け目」を意味し、引き裂かれたような痛みを伴う四肢の異常を特徴とする。ニャリの多くは動物にちなんだ名前をもつ。ムァフィラ mwafira はコブラ、ボコ boko はカバである。ニャリムァルカノは護符の紐が野性動物の腱 lukano で作られねばならないことからこの名をもつ。他にニャリンゴンベ nyari ng'ombe(ng'ombe は「牛」)など。ニャリグループの霊は口をきけない霊たちであり、デナはそのスポークスマンの役割を果たす。

(31)「護符」には ngata, hirizi, pande, pingu などの種類がある。治療後患者が常に身に着けているべきものであるが、いわゆる「魔よけ」ではない。憑依霊の方でそれを要求していることからもわかるように、それは憑依霊を遠ざけるためというよりも、憑依霊の占めるべき場所を患者に確保するためのものであり、しばしば憑依霊に対して差し出される「椅子 chihi」とも呼ばれる。憑依霊は「椅子」が与えられなければ、患者の「身体の上に腰をかけ kusagarira mwirini」てしまうのである。

(32)「汚れを奪う kuwala nongo 」は妖術の常套手段の一つで、犠牲者の所持品や、髪の毛、衣服の一部などを奪って、憑依霊の棲処と考えられているムズカと呼ばれるほら穴や、木のうろなどに隠すことによって相手に妖術をかけるというものである。この種の妖術に対する治療が「汚れを戻す ku-udza nongo 」である。ここで言及されている「ぼろ布 chidemu」は、妖術使いが盗み出すとされる生理の際に用いる使い古しの布 chidemu cha kure を指している。

(33)特定の霊のために開いたカヤンバ儀礼においても、主だった霊すべてが招待され彼らの歌が演奏される。呪医が治療に際して語る唱えごとのなかでは、呪医は呪医が知っているあらゆる憑依霊の名前--その別名も含めて--を唱え上げ、それらすべての霊に患者の回復を依頼する。

(34)フュラモヨ fyulamoyo は妖術の一種で ku-fyula moyo つまり「心をあらぬ方向に向ける」という言葉に由来する。ザイコ nzaiko という呪薬を用いる術で、効果の違うさまざまな種類がある。犠牲者は分別を失い、親族や友人と仲たがいしたり(ツァムラ tsamula、動詞 ku-tsamula「分散する」より)、人嫌いになったり(キメネ chimene、動詞 ku-mena 「憎む」より)、自己嫌悪に陥って自殺をはかったり(ジメネ dzimene)する。黒、白、逆毛の鶏はその治療儀礼に必要とされるもの。占い師は、一度は妖術の可能性を否定しているが、ここで再びそれを持出していることになる。

(35)必ずしも実際の臭いのことではない。他人から相手にされない人のことを、悪い臭い kungu mbii、悪い汚れ nongo mbii をもっているなどと言う。妖術使いは犠牲者の汚れを奪って、犠牲者に悪い汚れをつける。

(36)料金は 1987 年には2シリング50(当時の日本円で約22円)、1989 年には3シリング(当時の日本円で約21円)であった。1991 年、1992 年にはさらに4シリング(当時の日本円で約16〜20円)に値上がりしていた。

(37)このテキストにおいては相談者は占い師の指摘にほとんど異を唱えていない。ムブルガでも稀なことである。このテキストの短さ(すでにデータ化済みの23件の文字数の平均と較べてみると平均の約三分の二程の長さしかないことがわかる)もそれで説明できる。

(38)前注(34)参照。

(39)薬液、つまり治療に用いる種々の植物を水のなかでもみ砕いてつくった液で浴びるためのもの。

(40)解毒作用のある呪薬の束、身体の各部にこすりつける。

(41)私の目には、ムラムロで用いられる占い道具はすべて作為的に操作可能であるように見える。しかし、意識的に結果を左右しようという意図でそれが操作されているとも思えない。あるムラムロの呪医が、離婚されて実家に戻っている自分の実の娘の相談にこの呪具を用いている場に居あわせたことがある。占いが終わった後でこの占い師は、自分の占いの結果が、自分に余計な経済的な負担をかけることをしきりとぼやいていた。

(42)本論では、占い師が如何にして患者の問題を的確に把握できるのかという点には深入りしない。占い師の指摘は一般的、抽象的なものから具体的個別的なものへ向って進んでいく傾向がある。家畜の問題か/人間の問題か、男の問題か/女の問題か、大人の女か/子供の女か、健康上の問題か/経済的な問題か...といった具合に。よく指摘されているように(TURNER 1968)、この過程は「20の扉」のようなゲームに類似する。ムブルガがある程度分析的な推量のプロセスに従っている証拠でもある。占い師は毎日何組みもの諮問者を相手にしており、それによる知識の蓄積はかなりな筈である。諮問者が直面している問題状況はもちろんさまざまであろうが、その多様性には限度がある。占い師が、例えば、ドゥルマの既婚の女性がムブルガに来なければならないような状況とはどのようなものであるかについて、ある程度類型化された、しかもきわめて詳細な知識をもっていたとしてもおかしくはない。

(43)前注(6)参照。

(44)前注(22)参照。

(45)スディアニ Sudiani という名前の意味は不明。海岸部のスワヒリ人のあいだではスビアニ subiani(ジョンソンのスワヒリ語辞典によるとアラビア語の「襲う」を語源にもつとされる)と呼ばれる霊が知られている。スビアニはある報告によると妊娠中の女性のみに憑依し、流産や死産を引き起こすとされている(JOHNSON 1971, KORITSCHONER 1936)。このスビアニとドゥルマで知られているスディアニ尊師の関係は明らかではない。マリンディ周辺のスワヒリについての別の報告は、アミール・ガイシュ・ビン・スディアン Amir Ghaish bin Sudian なる「固有名」をもった霊に言及している(SKENE 1917)。スディアニ尊師もこのあたりに由来するのかもしれない。女性に憑依して彼女を不妊にする「霊男 p'ep'o mulume」とよばれる霊は、男のスディアニ尊師の別名だと言われる。女性に憑依し彼女が産む子供を次つぎに殺すツォビャ tsovya も、スディアニ尊師と同一視されることがある。
スディアニ尊師は明確な症状複合と結びついている。医学的な根拠は別に、スディアニが引き起こす血尿と性的不能との結びつきは文化的には充分理解できる。ドゥルマの地域はビルハルツ住血吸虫症の高度汚染地域で、子供の90パーセントが罹患していると言われる。虫卵排出時に血尿を伴うのが特徴であるが、血尿症状そのものは成長に伴い次第に消失する。深刻な症状を伴わない慢性疾患であるため、人々は子供の血尿を重大な病気とは捉らえておらず、むしろ血尿の停止をもって性的な成熟の印とみなしている。これを念頭に置けば、成人の血尿が(ビルハルツ住血吸虫によるものであれ、他の原因によるものであれ)子供の血尿とは違って大きな憂慮をもってみられるのもうなずける。それは成長のプロセスの逆転、性的に未成熟な状態への退行を暗示する。不妊や性的不能と結びつけられるのも無理もない。

(46)詳しくは、浜本 1989, 1990参照。

(47)ここで言う論理階型の相違とは、タイプとトークン、カテゴリーとその要素、クラスとその要素、全体とその構成部分などの間の相対的な相違をいう。タイプはトークンに対して、カテゴリーはその要素に対してより高次の論理階型に属する。例えば、「家具」は「机」や「椅子」や「テーブル」と同じ論理階型に属さない。「椅子はもってくるな。机をもってこい」と言うことにはなんの問題もないが、もし「家具はもってくるな。机をもってこい」と言ったとすると奇妙なことになる。後者は異なる論理階型を混同しているのであり、それが後者の発言を無意味なものにしているのである。


参考文献

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[6]浜本 満, 1992a, 「ドゥルマにおけるコマの観念」, 『九州人類学会報』 Vol.20, pp.33-51

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[12]SKENE,R., 1917, "Arab and Swahili Dances and Ceremonies", Journal of Royal Anthropological Institute Vol.47, pp.413-434

[13]田島正樹, 1990, 「形而上学という物語; ライプニッツの二つの主題による変奏」,野家啓一 他著, 『物語』, pp.165-238, 岩波書店

[14]TURNER,V.W., 1968, The drums of Affliction, London: Oxford University Press

[15]ZEITLYN,D., 1990, "Professor Garfinkel visits the soothsayers: Ethnomethodology and Mambila divination", Man(N.S.) Vol.25(4), pp.654-666