ファーストコンタクト再演:博物学と人類学のあいだ





はじめに:ダーウィンの十九世紀

ダーウィンとビーグル号航海

一八三一年の年の暮れ、英国海軍の測量船ビーグル号はデヴォンポートの軍港を出帆した。その世界一周の旅の主な目的は、英国が自らの領土として足がかりをつかんでいたフォークランド諸島を中心とする南アメリカ海岸の調査、英国商船のより安全な航行のための海域調査である。英国に連れてこられキリスト教に改宗した三人の先住民を、故郷のティエラ・デル・フエゴに送り届けることも目的の一つであった。

船はすでに嵐のために二度も吹き戻され、これが三度目の出港だった。船には、二ヶ月間におよぶプリマス(当時はデヴォンポートに隣接する港町)への足止めですっかり意気消沈し、旅の前途への漠たる不安と船酔いに苦しむ一人の青年が乗っていた。22歳の若きチャールズ・ダーウィンである。後にその進化論によって生物学のみならず社会思想にも大きな影響をもたらすのであるが、言うまでもなく当時の彼は二〇年の後に自分が演じることになる役割については何も知らない。彼の肩書きは、無給の博物学者。「単なるコレクター」ではなく船長フィッツ・ロイの話し相手にもなる「紳士」として[レイビー 二〇〇〇、三五]、恩師ヘンズローに推薦されての乗船であった。ビーグル号から下船して陸行する際の通行証には「博物学者(ナチュラリスタ)ドン・カルロス」と記されていた。それによって彼は行く先々でとりあえずの尊敬と鄭重な扱いをかちえるのだが、誰も「博物学者とはなにものなのかまるでわかってはいないだろう」と彼は皮肉をこめてその航海記に書き留めている[ダーウィン 一九九四、上巻、八六]。ビーグル号の航海は結局、当初の予想を超えて五年間に及んだ。一八三六年一〇月帰英したダーウィンを見た友人たちは彼の変貌ぶりに驚いた。その父がかつて「ろくでなしの遊び人」になってしまうのではと危惧していた青年は、いまや人生に明確な目的をもち、「狩猟よりも研究を好む」青年に変わっていた[バーバー 一九九五、三七〇]。その後二〇年間かけてあたため続ける進化論の考え方を、彼はすでにこの旅から持ち帰っていた。

博物学とフィールドワークの伝統

博物学者を同行させようというフィッツ・ロイ船長の思いつきは、当時としてはけっしてとっぴなものではなかった。一七八六年にジェイムズ・クックがエンデヴァー号にはじめて博物学者ジョゼフ・バンクスを乗せて以来、国家による大航海プロジェクトにおいて博物学者が乗船することは決して珍しいことではなくなっていた。植民地主義の意味は十八世紀末にはすでに、重商主義の原理にもとづいた保護主義的な体制から、キプリングの「白人の責務」に見られるような倫理性をまとった自由貿易的帝国へと変化しつつあった[Fulford & Kitson 1998:3]。クックの三回の航海はこの変化の先触れであり、「発見」の目的が、搾取・征服・帝国主義的領有から、征服や領有を表立っては含意しない「科学的調査」へとシフトしたことを物語っていた[Obeyesekere 1992:5]。植民地的支配の異なるモードが成立しつつあったのである。ダーウィンのビーグル号の航海までに、それからすでに五〇年近くがたっており、その間には、一七九九年からの五年にわたるフンボルトによる南米のオリノコ川周辺の博物学的探検も行われている。「クックの伝統の継承者」を自認するフンボルトが私財を投じて行ったこの大探検旅行は、大航海時代に搾取と領有の対象として「発見」されていた南アメリカ大陸を、「科学的」に再発見するという企てでもあった[荒俣 一九九三、一〇六]。その体験をまとめた『新大陸赤道地帯への一七九九年から一八〇四年にかけての個人旅行記』はベストセラーとなり、十九世紀のロマン主義的想像力の展開に大きな刺激を提供した。またそれは多くの若い博物学研究者に影響を与え、探検へのあこがれをかきたてた。ビーグル号に乗り込む際にダーウィンは、ヘンズローから贈られたこのフンボルトの『旅行記』を持参している。それは彼の博物学的探検のお手本でもあった。

博物学者みずからが現地調査におもむき、そこから持ち帰った大量の標本や知見をもとに理論的考察を展開するという研究スタイルが、徐々に定着しつつあった。ダーウィンのビーグル号航海は、そうした流れにさらに勢いを与えるものであった。十八世紀に確立し、当時はまだ地質学や植物学や動物学といった領域をすべて含みこんだものであった博物学は、十九世紀が進むに従い、高度に専門化された個別の研究領域に細分化され、近代生物学へと変貌・再編成されていく。そのなかで現地調査=フィールドワークの重要性はますます大きくなっていった。二〇世紀のはじめには、フィールドワークの経験は、真に科学的な研究にとって不可欠なものであり、研究者にふさわしい人物であることを証明するためのステップであるとすらみなされるようになっていた[Kuklick 1997:59]。

博物学的フィールドワークと人類学のフィールドワーク

人類学というとフィールドワークというぐらい、フィールドワークは人類学を定義づける第一の特徴であり続けてきた。しかしフィールドワーク自体は、そのずっと以前に、博物学の研究実践においてすでに確固たる位置を占めていたことがわかる。時代的に先行していただけではない。両者のあいだには、より直接的な系譜関係もある。実際、英国の人類学者たちをはじめて現地調査に連れ出すことになった一八九八年のトーレス海峡大調査隊の結成を呼びかけたハッドンは、もともと海洋生物学者であり、博物学=生物学で確立していた現地調査技法を、人類学の領域に翻案しようした人物であった。彼はメラネシアの諸集団の多様性を、多様な地理的条件への適応として説明しようと企てていた。これが、ダーウィンがガラパゴス諸島での経験からたどりついた問題の捉え方の、文化的事象への一種の転用であることに気づくだろう。

博物学においてフィールドワークがどのような経緯をたどってその実践の中核になってきたのか、フィールドワークを通して得られる知識と理解にどのような特別な意味があったのかを確認しておくことは、フィールドワークの学としての人類学の生成を理解する際にも役に立つだろう。さらに、博物学におけるフィールドワークの確立と、人類学におけるそれが、なぜ同時ではなかったのかについても考えてみたい。人間とその社会について研究するのに、博物学的なフィールドワークだけでは何か足りなかったのだろうか。ダーウィンのビーグル号航海記を手がかりにしながら、この二つの問題について考えることが、この章の課題である。

博物学の歴史:フィールドワークの地位の確立まで

博物学とは

十九世紀のはじめの博物学とは、自然界の森羅万象に関する学問、自然界の理論的三区分(動物界、植物界、鉱物界)すべてについての研究を含み、したがって動物学・植物学・地質学のすべてを守備範囲に含んだ学問であった。ダーウィンが自らを「博物学者」と名乗ったのはまさにこの意味でであって、ビーグル号の航海でも、彼は気象観測、地質調査と鉱物標本の採集、動植物についての細かい観察と標本採集、それに加えて土地の人々の暮らしぶりについての覚書の作成といった具合に、ほとんど何でも屋の活躍ぶりである。自然界を研究する学問において現地調査がその重要な手法であることは、ほとんどあたりまえのことに見えるかもしれない。しかし現実には十九世紀の最初の数十年にあっても、フィールドワークの地位はきわめて低いものであった。このことを理解するために、博物学の歴史をごく簡単に振りかえっておく必要がある。

珍品陳列室

ヨーロッパにおける博物学の成立の重要な源流の一つが、とりわけルネサンス期以降に、主として上流の富裕階層を中心に広く流行した珍品収集趣味にあったことはしばしば指摘されている[西村 一九九九(上)、二六五]。当時ヨーロッパは空前の規模で未知の驚くべき他者たちと遭遇し、またそうした驚異をもとめて外へ向かって進出していた。しかしこれらの驚くべき他者たちが独自の世界をもち、それぞれがヨーロッパとは異なったシステムを形作っているという認識はなかった。それらは単に、ヨーロッパという唯一の秩序からの逸脱、ヨーロッパにとっての自然な属性の欠如や過剰、転倒、つまりそれ自身の脈絡を欠いた珍奇な存在以上のものではなかった。他者に対するエキゾティシズムは、珍品・奇品に向ける関心・好奇心の形をとって燃え上がった。そこには、珍しい絵画や彫刻、金銀を使った細工物にまじって、珍しい動植物の標本、化石や鉱物などの自然物、動物の胎児や奇形に至るありとあらゆるもの(ドラゴンの卵やらフェニックスの羽毛といった怪しげなものも含めて)が雑然と含まれていた。王侯貴族をはじめとして、高位の聖職者、富裕商人らは競ってそうした珍品・奇品を集め、特別な一室(「驚異の部屋」「珍品陳列室」などと呼ばれた。今で言う博物館の始まりである。)を作って収納・展示した。それは「みずからの権力と財力を誇示するステータス・シンボル」であると同時に、「地上に存在する物すべてを一堂に集めて並べ、もっておのれの普遍的支配のあかしとしたいという」欲望の表れでもあった[西村前掲書、二六七]。王侯貴族のこうした収集熱は、徐々に社会の他の階層にも広がっていった。十七世紀にいったん下火になった珍奇物に対する関心(博物趣味)は18世紀には、町のコーヒーハウス(コーヒーの流行そのものがエキゾティシズムの表れであることにも注意しよう)を介して、今度は市民をその重要な担い手として再燃することになる。こうしたコレクションの中身は、あいかわらず美術品や骨董、コインなども含んでいたが、十八世紀の後半になると、自然物とりわけ異国の珍しい自然物の博物標本の占める比率が目立って高くなった[西村前掲書、七九]。

室内派と野外派

学問としての博物学は、このようにして蓄積された珍奇物の膨大なコレクションの目録を作る作業、それらを整理し、名づけ、分類するという作業の中から、生まれてきた。十八世紀にそれぞれ対照的な仕方で博物学を学として成立させた二人の大家のうち、一人が自然界(動物界・植物界・鉱物界)の包括的で、かつ簡明にして詳細な「分類法」を考案したリンネ(今日ではむしろ彼の考案した二語式命名法の方で評価されているが)であり、今ひとりが、パリの王立植物園の園長に任命され、そこにある王立陳列室つまり珍品陳列室の整理と拡充をまかされたビュフォンであることは示唆的である。博物学はいわば地球が持っている事物の「在庫管理のシステム」[荒俣 一九九三、三〇]として成立した。この意味では、博物学はかならずしもフィールドワークをその本質にはしていなかった。こうした博物学者は十九世紀には「室内(クローゼット)派」と呼ばれることになる。標本そのものは必ずしも自分で採集してくる必要はなかった。標本は美術品や骨董品と同じように取引され、しばしば高額で売買された。標本の売買は一つの市場を形成しており、十八世紀末のパリだけでも博物標本の輸入売買を専門とする業者が六百もあったという[西村前掲書、七九]。コレクターのなかには高額でお抱えの採集者をやとって自分のコレクションを充実させようとする者もいた。十九世紀に入ってももっとも価値ある標本のコレクションは個人の所有になるものであった。彼らのほとんどは裕福な社会の上流階層に属していた。

博物趣味としての標本収集熱は、十八世紀をつうじて一般市民のあいだにも広がっていったが、そのなかで自ら野外へ繰り出し標本を採集することに情熱をもやす博物学者も増えてきた。彼らの多くはいわゆるアマチュアであった。標本採集はときに経済活動の側面も持っていた。イギリスでは一八二〇年代に、昆虫学がブームとなり「下層階級」の人々の中には、特に多数の珍しい地方種が豊富にいる湿原で採集した昆虫を売って夏の間の生活費の一部を得る人もいたと報告されている[アレン 一九九〇、一六六]。またこのころ設立された博物学趣味の団体(たとえばエディンバラ植物学協会)の目的には、全国規模で会員同士の標本交換や売買に便宜をはかることも含まれていた [アレン前掲書、一七六]。もちろん採集活動を通して、自然に対する鋭い観察をおこなう人々も当然現れてくる。「野外(フィールド)派」と呼ばれた博物学者たちはこのような人々の間から出てきた。

十九世紀にはいると、室内派に対する野外派からの反発と攻撃は目に見えて活発になってきた。しかし野外派と彼らの野外研究に対する学問的な評価は決して高いものではなかった。博物学において野外派が蔑まれてきたのも理由がないことではなかった。室内派であろうと野外派であろうと、目的は同じであった。自分のコレクションを質的・量的に充実させること、そして未だ発見されていない新種を発見すること、これである。野外派の野外研究なるものの多くが、ただひたすら珍しい種を発見し殺して持ち帰ることであるとするなら、それは「室内派への材料運搬係」以上のものではない[バーバー前掲書、八一]。それは多くの場合、生きた生物の習性や行動を辛抱強く観察するなどということとはまるで無縁の活動であった。新種の発見という点でも、野外派は室内派に対して大きな優位を主張できない。「ある種がたしかに新種だと断ずるためにはリンネから現在までのそれらしい文献すべてを見、博物館や個人の蔵する関連の標本を見なければならない」[バーバー前掲書、八二]からであり、これこそ室内派の独壇場である。野外派の多くの博物学者はこの点で室内派の学識に依存するしかなかったのである。新種の発見そのものにしても、野外で新しい新種を発見するよりは、既存の標本のコレクションの見直しという室内派的作業を通じてなされることも多かった。

また貴族や富裕階層出身でない野外派の博物学者にとっては、その活動そのものが室内派のコレクターの存在に経済的に依存している側面もあった。ダーウィンと並んで進化論をうちたてたウォレスは、自分の探検生活を、標本の売買によって支えねばならなかった。野外派は標本採集者として裕福な室内派の博物学者の下働きの地位に長く甘んじるしかなかったのである。ダーウィン自身、当初ウォレスをさまざまな事実や標本を集めて自分に供給してくれる者、情報提供者としてしかあつかっていなかった節がある[レイビー前掲書、二五七]。理論家と彼のために資料を提供する者とのあいだの分業体制にほかならなかった。そして採集のためには理論は、採集される標本に偏りをもたらしうるので、むしろ邪魔になるという考え方すらあった(今日でも理論は「ありのままの」観察の邪魔になるなどと大真面目に主張する人もいる)。そもそも、野外で生きた生物を観察するということそのものの理論的メリットもはっきりしていなかった。もしたとえばある動物の体の構造や特徴を解明したいというのであれば、野外の劣悪な状況で、少しもじっとしていない、一瞬しか垣間見ることのできない相手に対してそれを行うのは明らかに効率的ではない。手に入れた標本について好きなだけ時間をかけて観察・解剖したほうがいいに決まっている。

こうした状況をみるとき、博物学において十九世紀にフィールドワークの優位性が確立したのは、けっして当然のなりゆきであったとは言えないのである。それはどのようにしておこったのだろうか。

ロマン主義的エキゾティシズム

ヨーロッパのロマン主義文学についての近年の研究は、十九世紀のロマン主義を、クックの探検航海やフンボルトの博物学的探検旅行に連動する植民地主義の変質に関連付けているが、リースクはそれが同時にエキゾティシズムの質そのものの変化、つまり「重商主義的」エキゾティシズムから「ロマン主義的」エキゾティシズムへの変化でもあったと指摘している[Leask 1998:169]。十八世紀の「重商主義的」エキゾティシズムが珍品・奇品すなわち、本来の文脈から切り離され「無文化的読解不可能性」を刻印された物たち、ヨーロッパの秩序からの逸脱、欠如や過剰、転倒のみを--ヨーロッパ的システムからの差異のみを--属性とする孤立した物たち、つまり「場違いに」ヨーロッパのコンテキストに出現した物たちへと向かっていたのに対し、「ロマン主義的」エキゾティシズムは、それらの物たちが属するコンテクストへ、そしてそれを見るものを包み込んでしまう光景へ、つまりエキゾティックな「世界」へと向けられているというのである。もともとは珍品・奇品の一種であった博物標本が、それが本来属しているコンテクストとの関係で眺められるようになるのも、そしてそのコンテクストの方により多くの注視が向けられるようになるのも、ほとんど自然のなりゆきであった。

進化論とコンテクストへの注視

ダーウィンがビーグル号の航海から持ち帰ったもの--千五百を超えるアルコール漬けの標本などよりはるかに大切なもの--つまり進化論のアイディアそのものが、エキゾティックなものに向かう想像力のこうした変容をまさに物語っている。言うまでもないことだが、進化論のアイディアの重要な点は、種が不変ではなく進化しているなどという主張(もちろんこの結論がダーウィンにその公表をためらわせるほど物議をかもすものであったことは確かだが)自体ではない。何がそうした種の変化を引き起こす原因であるのか、つまり生物進化の原理についての考え方が重要だったのである。ダーウィンがみいだしたそれは、その生物が暮らしている環境そのものから絶えず働いている力が生物を進化させる、環境が生命のパターンを選ぶのだ、というものであった。いわゆる「自然選択(淘汰)」の原理である。

この考え方がはっきりした形をとったのがダーウィンがガラパゴス諸島を訪れたときだというのは有名な話である。似たような島が点在するガラパゴス諸島は、火山の噴火によってできた比較的新しい島々である。そこに住む生物はどこか他の場所から漂着してきた者たちのはずだ。にもかかわらず彼らは他の地域のどの生物とも似ていないばかりか、それぞれの島の環境の変異に応じて島ごとに微妙な変異がある。こうした形態変化は各島の環境に応じて、そこにいちばんふさわしいものが選ばれた結果にちがいない。まさに「生物の形を決定するのは環境である」ということになる。これがガラパゴス諸島でダーウィンがつかんだものだった[荒俣前掲書、一八四頁要約]。標本をただ採集する同時代の他の採集者たちの多くとは異なり、ダーウィンは動物たちがどうやって生きているか、何を食べているか、どういう行動をするかにつねに注目していた。とりわけ「どこに生きているかへの注目は重要だった」[バーバー前掲書、三六四]。動物の地理的分布についてのこの細かいデータが帰国後、進化論を実証的に構築するうえできわめて重要な役割をはたすことになったのである。

今から考えると当然だと思える、この環境への注目、対象が所属するコンテクストへの注目自体が、実は新しいことだったのである。しかしそれは十九世紀におけるエキゾティックなものに対する想像力の変容の中ですでに予期されていたのだと言えるかもしれない。ダーウィンが進化論の公表をためらっている間に、『ビーグル号航海記』を読んで博物探検を志したウォーレスはアマゾンで、そしてマレーで、標本の売買によってなんとか資金繰りをしながら博物学的調査を続けていたのだが(シンガポールで彼は5頭のアラック酒につけたオランウータンの標本を売却用の五千の昆虫標本などとともに送り出すのにえらく手を焼いたりしている)、その長期の探検の日々の中でまったく独立にダーウィンと同様な進化の原理に達している。彼も変種と生息地および食物の供給との間の相互影響に注目し続けていたのだ。

進化論は、近代生物学へと再編されつつあった博物学の研究対象を大きくシフトさせた。環境あるいはそれが生きるコンテクストから切り離された生物、博物館に収蔵されている標本に示されるような脱コンテクスト化された生物体単体ではなく、いまや<生物プラスそれが生きるコンテクスト>が研究の対象となる。より正確には、その存在自体に環境との関係性が織り込まれているようなそんな存在として、生物をとらえなければならなくなった。フィールドワーク以外にいったいどうやって、そうした対象を研究する方法がありうるだろうか。研究対象をどう規定するかが変わった結果、方法としてのフィールドワークの優位は動かしがたいものとなっていったのである。

博物学のフィールドワークと人類学のフィールドワーク

問いにならない問い?

十九世紀の後半に入って博物学におけるフィールドワークの優位が確立するときに、なぜフィールドワークに基礎を置いた人類学も同時に成立しなかったのだろうか。ダーウィンにしてもウォレスにしても、その博物学的な旅行記のなかに彼らが接触した人々についての観察と記述を残している。ウォレスに至っては、アルー諸島などでは「人種」について実際に調査し、人種の境界線について論じてさえいる。ではなぜ彼らを、我々が今日知っているような意味で、人類学者、あるいはその祖先と呼ぶことができないのだろうか。もちろんこうした問いは、歴史に関する問いとしては何の意味もない。それぞれの学問を成立させた社会的コンテクストもまったく違っている。彼らが充分人類学的でなかったと難癖をつけてもしかたがない。いまだ成立していなかった人類学が彼らにとって目標になりえたはずもない。しかしこのギャップ、博物学者として自然について語っているときの彼らと、人間について語っているときの彼らの間のギャップについて考えることは、人類学におけるフィールドワークが博物学の野外調査に加えて、さらに何でなければならなかったのかを知る手がかりになるだろう。そもそも博物学におけるフィールドワークが生物進化論を生み出し、それを根拠づけたとすれば、人類学の領域ではフィールドワークは人間社会に関する進化主義的学説をまさに破産させる結果を生んでいるのである。同じフィールドワークという実践がまるで正反対の結果を導いているように見える。この問題を、ダーウィンのビーグル号航海記のテキストの中の一つの亀裂を手がかりにして考えてみたい。

博物学的テクスト(対自然)

ビーグル号航海記の中でダーウィンが自然について書いている箇所は、読者をある意味で圧倒する質を備えている。どれを取り上げてもよい。たとえばフォークランド諸島の地質について彼は書く。

「この群島の地質構造は大体において簡単である。低地は粘板岩と砂岩とで化石を含み、ヨーロッパのシルリア紀に極めてよく似ているが、それと等しいものではない。丘は白い粒状の石英岩である。石英岩の層は往々完全な相称のアーチ形に彎曲して、従って、集塊の若干のものは極めて奇異な外観を呈する....。この石英岩が断片に砕けずにこれほど轡曲したことを見れば、相当に粘性を持ったものであったに相違ない。この石英岩は境界が判然とせずに砂岩に移っていることを見ると、前者は砂岩がその起原であって、砂岩が熱せられて粘性となり、次に冷却して結品性のものとなったのは確からしい。まだ柔かな状態の時に、その上にあった地層をつき抜いて、押し上げられたものに相違ない。」[ダーウィン 一九九四(中)、三五]
ただ景色を前にしてその壮観にうたれるのとは異なり、「科学的」にそれを捉えることがたしかに対象をある特別な仕方で領有すること、我が物にすることであることを実感させる記述である。

あるいは南アフリカでありふれたある小鳥について。

「ティノコルス・ミキヴォルスというはなはだ妙な小鳥がここには普通である。その習性や概形はうづらともしぎとも違っているが、双方の性質を等分にとり入れている。この鳥は南アメリカの南部全体にわたって、不毛の平野あるいは開潤した乾草原ならぱいたる所に見られ、他の生物のほとんどいない所にも、番いや小さな群をなしている。人が近づけば、かたまってうずくまり、地面との見分けが困難となる。餌をあさる時は、脚を広く拡げておもむろに歩む。道路や砂の多い場所で砂浴をする。特定の揚所にはよくやって来て、何日間も見かけることがある。やまうづらのように群をなしてとぶ。筋肉性のそ嚢が植物性の食餌に適応していること、曲がったくちばしや肉質の鼻孔、短い脚と足の形、そうした種々の点でこの鳥はうづらと密接な関係があるが、しかしとんでいる様子を見ると、全体の感じが一変して、長くとがった翼は、鶉鶏目(じゅんけいもく)のものとははなはだしく異っており、とぴ方の不定なことと、上昇の時に発する訴えるような叫ぴ声とはしぎの感じをさせる。」[ダーウィン 一九九四(上)、一四八−一四九]

「ティノコルス・ミキヴォルス」なる生き物が「どんな生き物か」を的確に描写しており、当時の博物学的記述の水準がいかなるものであったかをうかがわせる(私にはとても真似はできない)。もちろんダーウィンは十八世紀以来の博物学の伝統の中で書いており、彼にはフンボルトをはじめとする優れたお手本があった。しかしおそらくは『航海記』のそれほど専門的ではない読者を念頭に置いているためか、いずれの箇所にもうっかり滑り込んでいるある要素が、博物学的記述のもつ一つの特徴に注意を喚起する。

石英岩の集塊の「極めて奇異な」外見や、ティノコルスの「奇妙さ」に対する言及である。たしかに「奇妙」であることはティノコルスがどんな鳥であるかにとって、あまり重要な特徴ではないだろう。少なくともティノコルス当人にとっては自分はけっして奇妙であったりするわけがない。これらは「ティノコルスがどんな鳥であるか」という問いとその答えがともに暗黙のうちに一つの視点を前提としていることを、はからずも暴露している。つまりヨーロッパ人(ここでは人間に一般化されている)にとって「どんな鳥」であり、「どんな場所」であるかが問題となっているのである。前世紀のビュッフォンは言うまでもなく、ダーウィンと同時代の多くの博物誌の著者たちは、人間(ヨーロッパ人)中心的な視点を隠そうとしたり、なんらかの客観的・普遍的な視点に見せかける必要すら感じていなかったように見える。彼らはたとえば「イヌの忠実さ」や「ガチョウの歩行のぶざまさ」について平然と書くことができた(いったい誰の目にとってイヌが「忠実」という属性をもつのか、あえて指摘するまでもあるまい)。もちろん自然物に対しては「人間」だけが唯一の認識主体であり、観察者である「人間」にとって「それがどのようなものあるか」だけが問題である。たとえそれが、いるかどうかも確かでない異星人(アーサー・C・クラークの『楽園の泉』のエピローグに登場する、人間とは可視光線の帯域がまったく異なる高度な知性をもった異星人のような)にとってどうであろうと知ったことではない。実際、博物学的記述はあえて「誰にとってそうであるのか」を明示しなくとも、そのまま通用するし、なんの齟齬もきたさない。ティノコルスの方でも「俺たちは奇妙じゃない」などと余計な異議申し立てはしてこない。

博物学的テキスト(対人間)

『航海記』における自然物についての博物誌的記述が、博物学が到達した一つの水準を示しているとすれば、『航海記』における人間についての記述はそれらとは驚くべき対照をなしている。両者の間には大きなギャップがある。

ダーウィンは航海中に接する機会のあった多くの人々について、彼らとの交流の経験をはじめ、さまざまな観察を残しているが、なかでもフエゴ島民については力を入れて描いている。イギリスに連れてこられていた三人の先住民の帰還は、ビーグル号の航海の目的の一つでもあり、ダーウィンは航海中に彼らとも親しくなっていた。にもかかわらずフエゴ島で最初に先住民と接触したときダーウィンは「野蛮人と文明化された人間」のあいだに「野生動物と家畜との差よりもさらに大きな違い」を見てとってしまう。彼は『航海記』のあとがきでも再びこの彼にとってのファースト・コンタクトの驚きを思い起こす。「...野蛮人をその生息地で初めて見たときほど、たしかに驚いたことはない。心は何世紀もの過去を急いでさかのぼって、一つの問いを発した。われわれの祖先もこんなふうだったのだろうかと。彼らの表情や仕草の読み取りがたさといったら、まだ家畜のそれのほうがましだといえるくらいであった」[ダーウィン 一九九四(下)、二〇〇、浜本改訳]。人間とはよほど違った生物に対して向けられる以上の驚きが、人間に対して向けられている。ゾウガメを見て驚いているのとは、明らかに質が違う。この驚愕がいったい何に由来するものなのかと、問うてもよいかもしれない。

ダーウィンは彼を驚かせる、あるいは興じさせる二つの特徴について語っている。一つは人々の特異な「模倣能力」。

「彼らは物のまねがうまい。われわれが咳をしたり、欠伸をしたり、あるいはなにか変った動作をすると、彼らはすぐそのまねをした。われわれの仲間のものが片目を閉じて横目をした。すると土人の若者の一人(眼のところの白い帯を除いて、顔中黒く塗っていた)が、それよりはるかに悪意のある、しかっめ面をうまくやってのけた。彼らは、われわれが話しかけた語句の一々の語を完全に正しくくり返すこともでき、またしぱらくはその一々の語を覚えていた。ところが、われわれヨーロッパ人はいずれも外国語の音声を弁別することが、どれほどむつかしいか、よく知っている。....すべて蛮人は不思議なほど、模倣力を持っているとみえる。」[ダーウィン 一九九四(中)、五一]

またダーウィンは、フエゴ島の人々の物乞いにうんざりする一方で、彼らが値打ちのないつまらないものに大喜びすることを面白く思っている。二人の「魔弾の射手」に出てくる悪魔のような長老とのコンタクト。「彼らの態度は卑しく、容貌の表情は疑い深そうで、またなにか物に驚いたようで、おどおどしていた。」しかし赤い布の切れ端を与えられると「彼らはすぐにそれを頸に巻きつけて、その後は隔意のない友となった。」[ダーウィン前掲書、五〇]赤いリボンは、その後もダーウィンの一行と先住民との関係を打ち立てる必要を満たしている。「はじめは彼らは好意を持とうとしなかった。...彼らは石投げの索を手にしていた。しかし、われわれはすぐに、彼らの頸のまわりに赤いテープを結んでやるような、つまらない贈物をして、彼らを喜ばせた。」[前掲書、五一]この「つまらないもの」による取引は、ときに良心の呵責をともなう。「われわれは、ぼろ布の代わりにみごとな魚やカニをくれる彼らを気の毒に思った。」[前掲書、八四]

しかし、「野蛮人」が示すこの二つの特徴についてのダーウィンの記述を読むと、我々はその三〇〇年も前のコロンブス以来繰り返しなされてきた同様な報告を思い出さざるを得ない。新大陸で彼が文字通りファーストコンタクトを持った先住民についてコロンブスはその航海記に次のように書く。「彼らは善良で知的な召使いになるでありましょう。何故なら私は、彼らが彼らに向けて言われたことすべてを大へん速やかに繰り返すことがわかっているからです。また、わたしは彼らが、大へんたやすくキリスト教徒になると信じております。何故ならわたしには、彼らがいかなる宗教ももたないように思えるからです」[コロンブス『航海日誌』、グリーンブラット 一九九一、一四四より引用]。その後もなんども繰り返される原住民のぬきんでた模倣能力や言語習得能力の指摘は、けっしてヨーロッパ人の謙遜でも先住民に対する尊敬でもなく、むしろ先住民を一種の「幼児」にみたてる想像力、「インディオたちを実質的な空白として想像する傾向」を物語っている。幼児が大人よりも模倣能力にすぐれ、新しい言葉を大人よりも容易に習得できるのと同じように、その存在自体が一種の「幼児」である先住民は、「削られたり彩色されていないテーブルが、画家の手によってその上に最初に描かれたどの形をも受け入れる傾向があるように」、ヨーロッパ人の言語、宗教、文化を受け入れる「空白のスクリーン」のようなものであり、その空白を模倣が埋めることになる[グリーンブラット前掲書、一五二]。

同様に「不等価交換」も16世紀以来の先住民についての記述の基本テーマの一つであった。コロンブスは「つまらない贈物」によってなしえた自分の成果を誇って「そしてわたしが彼に与えたすべてのものは、四マラペディ(中世スペインの通貨単位)にも値しないものでした。」[コロンブス『航海日誌』、グリーンブラット前掲書、一六九より引用]と述べている。その後のヨーロッパ人の探検記にも「つまらない物」は繰り返し登場する。それは新世界ではすみやかにたやすく利益があがるという「ヨーロッパ人の夢」のインデクスである。「野蛮人は物に自然に備わった価値が理解できない、だから騙してつまらない物と宝物、つまり空の記号と充実した記号とを交換することができる」というわけである[グリーンブラット前掲書、一七五]

ダーウィンの観察記述は、ここでは十六世紀以来の、他者に対するヨーロッパ人の想像を単に反復しているに過ぎないことがわかる。まさにコロンブスのファーストコンタクトを再演しているのである。のんきに相手の優れた模倣能力や言語能力について語るヨーロッパ人は、この出会いにおいて、先住民と自分たちのどちらが相手の意図を正しく少しでも早く理解する必要に迫られていたかという問題におどろくほど無頓着であるし、自分たちの「つまらないもの」に大喜びする先住民をおもしろがるヨーロッパ人は、物の価値が相対的でありうること、先住民たちの物の価値のシステムが自分たちのものとは違っているという可能性をほとんど考慮していない。

ダーウィンは彼らを「卑しいみじめな生き物」と呼ぶ。ある日彼は全裸の女性が生まれたばかりの赤ん坊に乳を飲ませているのを見る。降りしきる霙が彼女の裸の胸や赤ん坊の皮膚に当たっては溶けていた。この光景が引き金となって、ダーウィンは彼らに対する罵りの言葉をつむぎだす。「こんなあわれな、不幸な者どもは、成長も十分でなく、いまわしい顔は白い塗料で塗り散らされ、皮膚は汚く脂ぎり、髪はちぢれて入り乱れ、声は調子外れで、動作は粗暴だった。こんな人間を見たものは、彼らが我々の同類で同じ世界の住民だとはほとんど信じられまい。」[ダーウィン 一九九四(中)、六三]人々が、暗黙のヨーロッパの水準や生活様式からの、たんなる逸脱、不足、欠如、過剰などとして特徴付けられているのがわかるだろう。そこでは先住民は、重商主義時代の珍奇物と同様に、みずからのコンテキストやシステムを欠いた、ヨーロッパというシステムからの差異と隔たりしか属性にもたない存在になってしまっている。

帰途に再びフエゴ島に立ち寄ったビーグル号の人々が、最後に見た先住民はイギリスから連れ帰った3人のうちの一人ジェミーだった。イギリスでは国王に拝謁を賜ったこともある、清潔で身だしなみのよい男だった。再会した彼は、痩せたとげとげしい顔つきの先住民に戻っており、毛布の切れ端しか身につけていなかった。しかし彼は、自分はここで十分に食事も足りているし、寒くはない、イギリスに帰る気はないと断言した。ダーウィンにはこれが理解できない。おそらくジェミーが若く美しい妻を得たからだろうと憶測するのみである。自分の目にはろくに食べ物もない寒々と荒涼とした島にしか見えないフエゴ島に、満ち足りて快適に暮らす生のシステムがありうるとは、彼には想像できなかった。

人類学の遠さ

十六世紀に、自らの脈絡を欠きヨーロッパ世界からの差異としてのみ「場違いに」存在したエキゾティックな珍奇物は、十九世紀にそのコンテキストを取り戻し、自らが属する固有の脈絡の中で捉えられることになった。それが十九世紀の博物学=生物学において、フィールドワークの地位を確立させた。しかしこのとき、ヨーロッパ外のエキゾティックな人間たちは、まだ自らのコンテキストをもたない、ヨーロッパというシステムからの逸脱、欠如、過剰としてしかとらえられていなかったということがわかる。その理由は、その後の人類学の発展の歴史が明らかにしていってくれることだろう。おそらく乗り越えるべきいくつかの障害があった。自然物は、人間的関係性の外にある単なる対象としてそれに相対することができた。ゾウガメは単なるゾウガメとして眺めることが可能である。しかし、人間に対してはそうした認識は不可能である。それはすでになんらかの関係性の中で、ヨーロッパにとっての「他者」として、布教すべき「異端」として、「敵」として、「友」として等々のなんらかの関係項の一方として眺められざるを得ない。相手について観察し、知る前から、すでになんらかの属性が付与されてしまっているのだ。第二に、人間を対象とする場合には博物学ではほとんど問題にならない、「その記述は誰の目から見ての記述であるのか」という問題が出現する。あらゆる記述、たとえばフエゴ島民は「粗暴」であるという記述、においてその記述を成り立たせる観点の所在は、つねに問題含みのものとなる。ゾウガメと違って、対象である人間自身が一つの観点のもちぬしである。第三に人間が属しているコンテキスト=環境は、博物学の対象である生き物たちのそれとは違って、単に観察可能なもののみから出来上がってはいないという問題がある。我々は意味づけられた世界に住んでいる。そして意味は、そもそも目には見えない。それを成立させている観点の共有によってのみ、その世界は立ち表れてくる。

ダーウィンのフエゴ島での経験は、優秀な博物学者である彼が先住民に対しては、彼らをヨーロッパとは別の一つのシステムに属する存在として、一つの別の世界の住民として眺めることができていなかったことをはっきりと示している。この人間存在にとっての不可視のコンテキストに気づくとき、人類学においてフィールドワークは単なる理論家のための資料収集であることをやめるのであるが、それはまだまだ後の話である。

参考文献

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m.hamamoto@anthropology.soc.hit-u.ac.jp