キマコとしての症状 : ケニヤ・ドゥルマにおける病気経験の階層性について(註1)

1.この論考の目的

ドゥルマ語で、身体的症状が問題として言及される際に用いられる言葉に、ウトゥ(ut'u)、キマコ(chimako)、チャムノ(chamuno)、マグィリ(magb'iri)などの言葉がある。これらの言葉は、必ずしも杓子定規にではないが、かなり明確に使い分けられている。この論文の目的は、身体的症状がこうした言葉のいずれかで語られる各々の場合について、当の身体的症状が人々によってどのようなものとして捉えられているのかを明らかにすることにある。

病気は、我々の生活を脅かす他の災厄と同様、思いがけない出来事として我々を不意に襲ってくる。それは文字どおり「不測の」事態である。我々はそれに備えることはできるだろうが、それを予定したり、計画したりはけっしてできない。当たり前のことである。それはルーティン化された出来事の経緯からの逸脱、パターンからのずれとして始まる経験であり、言葉の正確な意味において、まさに「ノイズ」として始まるのである。

文化人類学者にとってはお馴染みのある考え方によれば、文化とは、それなしでは混沌として互いに関係付けられていないかもしれない経験の諸要素を、互いに関係付け、意味付け、パターン化されたものとして人々に経験させる認識装置からなるものである。こうして我々は世界を、多くの可能性に開かれてはいるものの、だからといって計画や予測や予定が全く意味を失ってしまうこともない、ルーティン化された「正常な」秩序として経験することができているという訳である。文化そのものが、ノイズをパターンに、秩序ある経験に変換する「一次装置」として機能しているのだとも言える。しかしこの秩序の成立こそが、まさに秩序からの逸脱の存在を可能にする。そもそも予定を立てることに意味がない、正常であることを期待できないような世界には、「不測」の事態も何もあったものではない。かくして文化は自らのうちに大量のノイズを同時に抱え込むことになるのである。これらのノイズは無視されるか、あるいは個別にパッチあてされるかもしれない。しかしそれはそうした個別の対処の手に負えないものでもあり得る。その場合、それは再び関係付けられることによって経験に変換され、つまりパターンにつくりかえられ、納得される必要がある。「一次装置」はそれを補完する「二次装置」を必要としているのである。「病気」がどのように経験されるかを検討することは、「一次装置」から派生するこうしたノイズを秩序ある経験に再変換するプロセス、経験の「二次装置」がどのようなものであるかを教えてくれるだろう。

2.はじめに

異文化の理解を目指して語るとき、人は常に自らとの対比を暗黙のうちにもちこんでいる。当たり前のことであるが、改めて強調しておきたい。重要なのは、この対比は正しくなされねばならないということである。もともと較べようのないものを対比して、較べたつもりになっているといった愚は避けねばならない。

ドゥルマがその一つに数えられるような、西洋化されていない社会における、病気観を問題にするとき、しばしばそれらは所詮病気についての非科学的な誤った理論に基づいているのだと言われたりする。

例えば病気に苦しんでいるドゥルマ人は、自分の苦しみが彼に仕掛けられた妖術の、あるいは彼にとりついた憑依霊の所為であると語るかもしれない。また彼は自分が消化器系の症状に苦しんでいることと、たまたま彼の飼っている牛の乳の出が悪いことが、あたかも互に関係してでもいるかのように語るかもしれない。あるいは病人を寒い戸外に座らせて夜どおし一睡もさせず、周りでうるさい音楽を一晩じゅう演奏してやることが、彼に憑依している霊と交渉し彼を回復させるためにどうしても必要だと主張するかもしれない。こうした一切、彼らが病気に関して語ることは病気についての根本的に誤った言説ではないだろうか。彼らは間違っている、つまり彼らの病気観は偽であるという訳である。

これこそ、ここでいう不適切な対比の一例である。そもそもいかなる言説もそれ自体で正しかったり誤っていたりする訳ではない。それはその言説がいかなる経験に対応したものであるかに左右される。もし同じ経験について互に相容れない複数の言説があれば、あるものが正しくあるものは間違っていると言ったりすることも可能であろう。しかし、もし仮にその言説が対応しているとされる経験自体が全く違った形で成立しているとすれば、こうした異なる成り立ちをもつ経験に対する言説を較べてどちらが正しいかを言うことなどできはしない。もし誰かが「フランスは六角形である」と言うのを聞いて、「いや、君は間違っている。フランスとはヨーロッパにある大統領制の国家のことだ」と主張する人がいたとすればどうだろう。彼は明らかに的外れな非難を行なっている。実は、最初の発言は地図上の形状として経験されたフランスについての発言だったのである。(註2)

非西洋社会における病気観の非科学性を云々する際にも、これと似た過ちを犯してはいないだろうか。それは非西洋社会の人々の言説を、我々が医学の対象としての病気について行なう「科学的」な言説に対比している。これが正しくない対比である理由は、前者が自分たちに経験できるものとしての「病気」についての言説、経験の当事者に定位した言説であるのに対し、後者がそうではないという点である。(註3)医学は病気を説明し、それに対処することを目的にしているが、当の病人が経験しているところのものを説明し、その経験をどうこうしようというものではない。医学の言説が対応しているのは、「他者」の身体における物理学的・化学的・生物学的状態として、医者や科学者によって経験された病気である。医者はこのような意味で患者の病気を経験するが、その経験は患者自身がその病気に対してもつ経験とは、ある意味で似ても似つかないものであり得る。

したがって、対比させなければならないのは、彼らの病気観と我々の医学理論ではない。我々と対象社会との各々での経験の当事者に定位した病気のありようであり、その経験に対応する言説でなければならない。

3.病気経験の構造

我々にとっての病気の経験は、奇妙な転倒を含んだ経験として成立している。これをまず確認することから始めよう。

理屈で考えてみれば、病気を経験することは、まさに諸症状を経験するということである。病人が経験しているものが何かを、フェノメナルな現相に即して考えてみればよい。それは症状以外の何ものでもない筈である。医学はもちろんビールスや細菌の活動等々について教えてくれるけれども、実験室の医者ならいざ知らず、我々は誰も病気経験においてビールスや細菌を経験したりしている訳ではない。病気経験はもっぱら症状の経験から構成されていると言える。

しかしそれにしては、我々はあたかも病気を経験することが症状を経験することとは別の何かであるかのような語り口で病気の経験を語ってはいないだろうか。

この語り口によると、「病気」とは、症状が意味しているところの何か、そうした症状の背後にある何か、しかじかの症状を手がかりにしてその存在が明るみにだされるところの何かである。かくして体表の赤い班点や発熱等々は「はしか」を意味する記号=徴候であると言われたりする。実際には体表の赤い班点や発熱等々を経験することが、とりもなおさず「はしか」を経験することであって、こうした諸症状の経験とは別に「はしか」を経験することなどできない相談である。にもかかわらず、この言い方は、あたかもこうした諸症状の経験とは別のところに「はしか」なる実体、記号の意味されるもの、が存在しているかのように語っている。

また我々は高熱や発疹を経験しているとき、それらが「はしか」という病気によって「引き起こされた」ものだなどと語る。「はしか」にかかったために、発熱や発疹が生じたなどと言い、同様に、「はしか」が治ったので、発熱や発疹が退いたなどとも語る。我々は、病気にかかりそれが治るという過程を、こうした症状の経験や消失がその「現れ」にすぎないような、それらの背後にある別のプロセスであるかのように考えているのである。それによると、治療も、単に症状そのものに対して働くだけでなく、その症状の背後にある何かに対して働くものであるべきだということになる。だからこそ医者で貰った風邪薬が、実は症状をとりあえず軽減するためのものにすぎないと聞かされると、なんとなく詐欺にあったような気分にさせられるのである。

実際のところはどうなのだろう。こうした症状を経験すること、つまり発熱や発疹等々の諸症状が生じるということが即ち「はしか」にかかるということであり、同じく、それらの症状が退くことが、とりもなおさず「はしか」が治るということなのである。「はしか」にかかった「結果」発疹や発熱等々が生じたという訳でもなければ、「はしか」が治った「結果」こうした症状が退いたという訳でもない。つまり症状が現れそれが去ること、「はしか」にかかりそれが治ること、これらはもともと同じ一つのプロセスであるものを、各々別の言い方で言い換えているだけのものなのである。一方が他方の原因になるような二つのプロセスなどではない。

症状を経験することと区別されるような「はしかの経験」とは一体何であろうか。症状が現れたり退いたりすること区別されるような「はしかにかかったり、はしかが治ったりすること」とは一体何だろうか。そんなものはありはしない。にもかかわらず我々は病気をそういったものとして語っている。理屈の上では同じ一つの経験でしかないはずのものが、病気の語りにおいては奇妙な形で二重化されている。それが、理屈抜きで我々の病気経験なのである。

一体何が起っているのだろう。病気において我々はまずその諸症状を経験していると言える。しかし単に個々の症状をばらばらに経験している訳ではない。それはできない相談である。個々の症状は常に他の症状とともに、それらとの関係において経験されている。つまり個々の症状と同時に、そうした諸症状が結びあわされて作るパターンも経験していることになる。そもそも病気に限らず、我々の経験は常にパターンとそれを構成する要素という形で成立しているものなのである。もし我々が病気経験において、個々の症状とは別に何かを経験しているのだとすれば、それは個々の症状が結びあって作るこのパターン以外のものではない筈である。

全体と部分、パターンとそれを構成する要素は、もちろん互に別のものである。両者は異なる論理階型(logical type)に属している。異なる論理階型に属するものは、いずれも実体として経験されるかもしれないが、ただ同時に同じ資格で実体であることはできない。(註4)あるいはむしろこう言った方が正確かもしれない。いかなる経験の対象項も、より上位のものに対しては「要素の経験」として経験されるが、より下位のものに対しては「パターンの経験」として経験される。異なる論理階型に属するものを同時に要素として経験することはできないのである。例えば「一本の花」という実体は、それより下位の論理階型に属する実体である花弁やがくや葉や茎に着目する際には、こうした実体の特定の配置からなるもの、つまり花弁やがくや葉や茎などが結びあわされて作るパターンでしかない。つまり「一本の花」は花弁やがくや葉が実体であるのと同じ資格では実体であるとは言えないのである。花弁やがくや茎なるものと並んでそれらとは別に「一本の花」なるものがあったりする訳ではない。それは花弁やがくの背後にある何かでもないし、花弁やがくを引き起こしたりする何かでもない。もしそう語ったとしたら、我々は論理階型の混同を犯していることになる。誰もこんな間違いを犯したりはしないだろう。にもかかわらず、病気についての我々の語りは、まさにそうした論理階型の混同に基づいた語りだったのである。要素が互に結びついて作るパターンにすぎないはずのものが、要素の水準に紛れ込んで物象化しているのである。

さて、以上がドゥルマの病気経験に対比させるべき我々の経験である。ドゥルマの人が症状を経験し、彼の経験する苦しみの背後に妖術や憑依霊、その他を見て取っているというのが奇妙で非合理的だと言うのなら、我々が症状を経験し、その背後にそういった症状を引き起こす、例えば「ハシカ」やら「カゼ」やらの病気を見て取っているというのも、同じく奇妙なことだということになろう。(註5)

とは言うものの、いきなりこの両者を対比することは、まだ唐突にすぎるかもしれない。その前にドゥルマの側での病気経験の構造を、もっと詳細に検討しておく必要がある。

4.ウトゥとしての症状

ドゥルマ語で身体的な不調に言及する言い方の一つにウトゥ ut'u がある。ウトゥはムトゥ(mut'u:人)、キトゥ(chit'u:物)、ブァトゥ(phat'u:場所)、等々と並んでドゥルマ語の特定の名詞クラスを代表する名詞で、「コト、モノ、なにごとか、問題」などとでも訳せる言葉である。身体の不調に限らず、金がないのも、家畜の病気も、人手不足も、息子の就職難も、いずれもウトゥである。要するにこの文脈では身体的不調は、人々が経験し得るさまざまな「問題」の一種にすぎない。個々の問題や身体的不調をウトゥの一種としてもっているだけの状態は、必ずしも後に紹介するような占い muburuga や儀礼的治療 ku-lagula を必要としない。個々のウトゥあるいは問題に対しては、それぞれ別個に対処すればよいのである。

ドゥルマの人々が挨拶を通じて日々交換しているのが、こうしたウトゥに関する情報である。挨拶では「ウトゥはない」と答えるのが決まり文句である。「何か言うことはありますか? Wambadze?」「何もウトゥはありません Tsina ut'u.」、あるいは「あなたの身体について詳しく話して下さい。Vidze, semurirani mwiri.」「何もウトゥはありません Tsina ut'u.」といった具合に。しかしこれで話が済むことはまずない。ウトゥがないと答えた後で、こまごまと実際のウトゥが報告されるのである。

こうした挨拶を聞いている限りでは、ドゥルマの人々はいつも病気ばかりしているという印象をもったとしても、もっともなことである。それくらい身体の不調を報告することはありふれているし、人々は実に頻繁に私に医薬品を所望してくる。もっとも、その割には彼らはけっこう元気そうに活動しているようにも思える。

ウトゥとして語られる身体の不調に対する対処は熱心に求められている。自家製のあるいは呪医から与えられた種々の薬草、売薬、診療所での投薬や治療がそれを提供する。ドゥルマの中心地キナンゴにある国立の診療所には、連日、無料の投薬を求める長い人の列ができる。遠方の人にとっては診療所はそう手軽に利用できる施設であるとは言えないが、キナンゴ周辺の住民にとっては、そこは日々経験するちょっとした身体の不調の際に利用可能な手軽な機関である。妖術による病いや憑依霊による病いの専門家である呪医たちですら、そこを頻繁に利用する。そのことによって彼らの評判に傷がつくという訳でもない。この点での人々の態度は事実きわめて「実際的」なのである。

しかし奇妙な点が一つある。このように簡単な身体の不調に際して熱心に診療所を利用する人々が、ときに、より深刻に思える症状に際しては診療所の利用にそれほど熱心であるようには見えないということである。

実のところ、これらの医薬品や診療所での治療や投薬に、とりあえず症状を軽減し、あるいは消してしまう以上のものを彼らが求めていないことは、彼らとこれについて少し話しあってみれば、すぐにわかる。つまり、こういった対処の手段はいずれもいわば「対症療法」だという訳である。彼らはこうした治療行為に言及する際にクヘンダ・ハメハメ ku-henda hamehameという動詞を用いている。それはクラグラ ku-lagulaという動詞で言及される儀礼的治療行為、「本当の病気 kongo renye」と人々が呼ぶところのものに対する治療行為、とはそもそも明確に区別された行為である。そこでは、痛みを取り去る ku-digirisa 、冷ます(あるいは「治す」)ku-phosa といった直接的な効果のみが期待されている。

なるほどきわめて「現実主義的」な態度であるには違いない。症状が消えることが問題なのである。しかし、それは我々には馴染みのない種類の極端な「現実主義」である。ちょうど、言うことをきかない子供が、風邪をひいているにもかかわらず、薬で熱が下がって楽になると、寝ていなさいという親の再三の注意を無視して遊び始めるというのと、同じようなことが、彼らにそのまま当てはまると感じられることがある。しばしば彼らは「病気に対して大事をとる」ことを忘れているように思える。私の印象にすぎないと言われればそれまでであるが、我々には馴染み深い何かがすっぽり抜け落ちているような気がするのである。それは症状の背後にある何か、つまり我々が「病気」と呼ぶところの何かに対する顧慮である。

そもそも病気に対して大事をとるというのはどういうことなのだろう。既に指摘したように、これは症状の経験そのものとは別の何かとして思念された「病気」の経験に関係している。病気にかかったり病気が治ったりする過程を、症状が現れたり消えたりすることとは別のものとして思念する、我々にとっての病気経験の構造から直接由来する態度なのである。ドゥルマが身体的不調を単にウトゥとして、ウトゥの一種として問題にする時に欠けているのは、まさにこの我々の病気経験に特有の構造、論理階型の混同に立脚した経験の構造なのである。

ドゥルマにとって医薬品や診療所が対処すべきなのは、経験されている身体の不調そのものであって、けっしてその症状の背後にあり、それを「引き起こし」ている筈の、我々が「病気」と呼ぶところの「何か」に対してではない。身体的不調がウトゥとして経験されているこのレベルでは、彼らは症状を、その背後にそれを引き起こすような何かの存在を想定しない、まさに症状そのもの、単なるハプニング、孤立した出来事として扱っている。それがあることは不快であるが、それが消えればそれでよい。薬で症状を押えたからといって「病気」が治った訳ではない、従って「病気に対して大事をとらなければならない」という我々にお馴染みの考え方は、このレベルでは入ってくる余地がないのである。症状は確かに経験されているが、それは我々が考えるような意味での「病気の症状」ではないし、そもそも彼らはこのような意味では症状を「病気」としては経験していないとさえ言える。

ドゥルマ語には、なんらかの症状の複合体としての、あるいはそれを経験している状態という意味での「病気」にあたる言葉ならない訳ではない。ウコンゴ ukongo というのがそれである。症状を経験している人はムコンゴ mukongo 、つまり「病気の人、病人」であるし、例えばエンジンに不調をきたしている自動車はガリコンゴgari kongo、つまり「病気の車」である。ただしそれは症状の背後にある実体のようなものを指していない。それは単にしかじかの症状が経験されているという状態を指しているだけである。パターンがそれを構成する要素と同じ水準で要素として経験され、全体がその部分と並んで一つの要素であるかのように思念されるという、例の論理階型の混同は生じていないように思われる。少なくとも私は、しかじかのウコンゴがしかじかの症状を引き起こした、といった言い方に出会ったことは一度もない。もっとも「病気になる=病気に捕えられる ku-gb'irwa ni ukongo」などの言い方にみられるように、そうした要素が全く欠けているとは言えないのであるが、だからといって症状を消すこととは別にウコンゴに対処するといった言い方は用いられないのである。

5.キマコあるいはチャムノとしての症状

しかし身体的不調がチャムノ chamuno あるいはキマコ chimako として言及されるときには、話はちょっと違ってくる。

例えば、占いに行こうとしている人や、そこから帰ってきた人、あるいはこれから儀礼的治療を受けようとする人や、受けた人に、何が問題であるか尋ねたりする場合、またこうした人が自分の症状について語ろうとするとき、それはチャムノあるいはキマコとして言及されるだろう。チャムノ chamuno はドゥルマ語で「程度の高いさま」を意味する言葉ムノ muno から来た言葉であり、字義通りには「主要な問題、特に問題となること」の意味である。キマコ chimako は「驚く、はっとする」を意味する動詞 ku-maka から来た言葉で、字義通りには「人を驚かせるもの、はっとさせるもの」を意味する。これらは、病人やその家族に対するインタビューのなかで症状が言及される際のもっとも普通の表現である。

ウトゥとこれらの言葉との微妙な違いに気付くことは重要である。身体的不調がキマコやチャムノとして語られているとき、それはウトゥの場合のように、個々のさまざまな問題の「一種」として単独に考えられているのでは最早なく、さまざまな問題の「一部」、特に重要なもの、特に驚くべきものとして語られている。言い換えれば、いずれの言葉もその使用において、他の諸問題が同時に存在していることを前提とした言葉なのである。

占いから戻ってきた男に何を相談してきたのか尋ねたとする。彼は自分のキマコが、あるいはチャムノが子供の頻繁な下痢だと語るかもしれない。それが彼を占いへと赴かせた。しかし彼は子供が下痢をしているというそれだけの理由で占いを諮問したわけではない。もしインタビューがうまく行き、彼から詳しい話を聞きだすのに成功したなら、例えば、彼の妻の最近の振舞に気になるふしがあったこと、家事を怠りがちだったこと、頻繁に口答えするようになっていたこと、などを知ることができるだろう。結局占いは、子供の下痢が彼の妻に憑いている憑依霊の仕業であること、それが子供の魂 chivuri を奪った結果であることを示していたのである。

さて、彼はこの占いの結果、最近の妻の態度が真に問題とすべき問題であったとはじめて知らされたわけである。彼は確かに占いの結果がでる前は、それらの問題を問題として意識していた訳ではないだろう。この意味でそれはまさに単なるノイズだったのだ。しかし、全く何も感じていなかったわけでもないに違いない。さもなければ、子供の下痢に彼が驚くこともなかった筈だし、それが彼に占いを諮問しようという気にさせることもなかった筈である。彼は「何か」を感じていた。占いはその「何か」を具体的な姿で彼に示してくれた。しかし子供の下痢こそが、彼にそうした「何か」の存在をはっきりと気付かせるもの、それについて彼に警告を与えるもの、つまり彼を「驚かせるもの」だったのである。

症状がキマコあるいはチャムノとして経験されているとき、それはウトゥとしての症状に対するように対応するだけでは不十分である。対症療法、クヘンダ・ハメハメで片のつく問題ではない。ハメハメの努力のかたわら、直ちに占いが諮問されねばならない。そしてしかるべき治療、クラグラが開始されることになる。

しかしどのような場合に症状はキマコとして扱われるのだろうか。それは必ずしも症状そのものの性質には依っていない。

たしかに症状の示す特定の性格が、それを最初からキマコとして扱わせることもある。症状が急激なものである場合、それは通常キマコとして扱われるようである。なるほどそれは人々を「驚かせる」ものであろう。また性器からの出血、鼻血などの一連の症状は、ただちに占われねばならない。蛇による咬傷も、ただちに専門の憑依霊の呪医による治療クラグラを必要とする。しかしキマコあるいはチャムノとして問題になる多くの症状の場合、何がそれをキマコとして扱わせるのかは、症状そのものに注目する限りけっして明らかではない。

人々はわざわざその理由を述べて彼らの選択を説明したりはしない。敢えて問うと人々はしばしばその症状の「異常さ」に私の注意を向けようとする。しかしその「異常さ」は、まるで取って付けたようなものであることも多い。

ある男が朝は元気に畑に出かけて行ったのに、帰宅すると身体の不調を訴え、翌日からは起き上がることもできなくなった。これはたしかに「異常」かもしれない。私の調査も終りに近付いたある日、ある長老に私の妻が応対に出てこないことを詫びながら、妻が最近疲れたと言っては昼寝ばかりしていると笑いながら告げたとき、その長老は穏やかに、しかし執拗に、占いを諮問するよう私に勧めた。あれほど働き者のメムエロ(私の妻の現地での呼び名)が、客が来ているのに働かないというのはおかしいというのである。これは異常で、従って占いを必要とするキマコだというわけだ。しかしこれらが異常だというのなら、他のどのようなケースについても、そこになんらかの点で「異常」なところを見出すことは、さして困難ではないという気がする。

実は、畑から帰ってきて病いに臥した男は、自分の畑のトウモロコシの成育の悪さを悩んでいた。そしてその日の朝、家族のものが止めるのも聞かず、畑で一種の呪術儀礼を行なったのである。それはごく通常の豊穣儀礼であり、他人の畑の作物を自分の畑に頂いてしまおうというものであった。例年誰もがやっていることである。しかし今年はどうも拙かった。その前年、反妖術師運動が起り、ドゥルマのいたるところに反妖術の呪薬、誰かが妖術を行使しようものならすぐさまその行使者を逆に滅ぼしてしまうという呪薬が仕掛けられていたのである。豊穣儀礼は結局一種の妖術ではないだろうか。家族の人々が恐れていたのはこれである。はたしてその夜、男は身体の不調を訴え始めたのであった。人々を真に「驚かした」のは、症状そのものというよりも、それと他の諸々の出来事の間の結びつき、そこに示された関係性だったのである。占いの結果は、案に相違して別のエージェントをその原因として指定した。ただちに関係する呪医の治療が始まった。しかし人々はまだ、もしかするとこの男が行なった豊穣儀礼が関係しているのではないかという思いを捨て切れずにいた。

私の妻の場合も、長老を驚かした、あるいは憂慮させたのは、彼女の昼寝そのものではない。実際占いはこの事実そのものについてはあまり明確な答えを出しては来なかった。しかし私が何度かインタビューにも行ったことのあるその女性占い師は、むしろ私自身の問題をその長老に指摘することに熱心であった。明らかに私は妖術の攻撃を受けているというのである。長老によると、「悪い人々が大勢おり、その人々が私のことを悪く思っている」という。それを知っておくことは重要だ。もちろん悪いのは向うであってお前が気にする必要はないのだが。事実私が妖術の標的となる理由は十分すぎるほどあったのである。占いの結果関係ないらしいとはわかったものの、私の妻の身体の不調は、長老にとって、おそらく誰もが薄々とは気付いていたに相違ない私自身をめぐる問題と明らかに関係したものに見えたのであろう。それが彼女の昼寝をキマコにしていたのである。

当初単なるウトゥとして扱われていたものが、途中からキマコに変るケースの方がもちろん一般的である。人々が「薬が打ち負かされた dawa gashinda (文字通りには「事態が薬を打ち負かした」の意)」あるいは「病院が打ち負かされた sipitali gashinda」などと語るケースがそれである。注意せねばならないのは、ここで述べられているのは、何も診療所で治療できないほどの重病とか不治の病いとかではないという点である。それはどちらかというととるに足らない症状のこともある。

私「チャムノは何だったのですか。 na chamuno wakala nini?」
答え「ああ、チャムノはただの下痢です。 Aa, chamuno ni kufyokp'a t'u.」
私「ところでいつから下痢をしているのですか。 Sambi, wakala udzanza rini kufyokp'a?」
答え「ずっと以前からです。病院は打ち負かされました。 Kp'anza p'indi, sipitali gashinda.」
私「以前からといってもどれくらい前ですか。 P'indi idze dze?」
答え「なんと去年からです。治ったと思えば、また下痢の繰り返しです。 Hata mwaka uriochira. Waphola na kufyokp'a t'u.」

一回ごとの下痢とそれを引き起こしていた「病気」は、たしかにその都度治されていたのだろう。病院はその限りではけっして「打ち負かされ」たりしていない。ただ病院はまだ起っていない症状にまで責任はとれないし、また現在の下痢を過去の下痢と関係付けてみようなどという気がないだけである。特にこのケースのように最後に下痢をしたのが、今回の下痢の一か月も前だということになると。しかしこの下痢の子供の母親は、個々の症状の発現を超えたパターンに目を向け始めている。なんと一年以上、こうしたことの繰り返しだったのだ。この母親が恐れているのは、仮に今度の下痢をいままでと同じように治したとしても、このままだと、次にまた何かが起るに違いないということだ。それはまた下痢かもしれない。しかし、もしかすると...という訳である。ただの下痢がチャムノになったのである。

「病院が打ち負かされる」別の典型的なケースに、我々の観点からすると相互に無関係であるはずの症状や諸々の出来事がいかにも関係あるかのように捉えられている場合がある。以下はある父親が語る息子の病気の顛末である。要約した形で示す。

「それはずいぶん以前に始まった。病院は打ち負かされた。それはムラフェーニでの葬式のときに始まった。葬式があると知っていたにもかかわらず、息子は友人とともにモンバサに職を求めにでかけて行った。結局職は得られなかったので、村に帰ってくるとその足で葬式に行った。ウコンゴはそこで始まった。友人は息子を病院へ連れて行った。それはすぐ直った。それからかなりたったある日、また友人は息子をカヤンバ・ダンス(憑依霊のための儀礼、治療儀礼であるが同時に若者の娯楽の機会でもある)に誘った。五日間は何も起らなかった。しかし六日後、高い熱がでた。すぐ病院へ行き、三日分の薬、箱に入ったものと錠剤の二種類を与えられた。医者は三日たってまだ治らなければまた来るようにと言った。行くと医者は再検査し、今度はカプセルをくれた。病気は治った。一昨日までは何も起らなかった。その日の夕方、私は小屋の材料を伐り出しに行った帰り、帰宅途中の呪医にであった。呪医は「またあとで来る」と言って去って行った。その夜呪医はすっかり酔ってやってきた。椅子を与えてしばらく憑依霊の話などしたあと、呪医はいきなり「お前の息子はモンバサから何をもって帰ってきたんだ」と聞いてきた。「知らない」と答えると、「知っているはずだ。お前の息子はモンバサで誰を見たんだ」と尋ねる。「知らない。」次の日息子に聞くと、モンバサからの帰途、一人の女性からタバコを所望された。真っ暗で顔は見えなかった。マッチを擦ったときに見えたその顔は鏡のようだった。その女性はあっというまにいなくなった、と言う。あとで息子に、それは憑依霊ジネ・マカタかもしれないと言いに戻ってみると、息子はしきりに嘔吐していた。繰り返し、繰り返し嘔吐し、ついには血を吐き始めた。私は呪医の言ったことは正しかったのだと思う。」

この説明がなされたとき、事態はかなり急を要するものであった。昨日以来激しく吐血している息子のもとへ、呪医(話の中に登場する呪医とは別人)とその妻でもある占い師を連れて行くことを頼まれた私の車の中でなされた語りである。物語られている一連の出来事がどれくらいのタイム・スパンにおいて生起したのか、正確にはわからない。しかし私には個々の病気は互いに独立したものに思える。そして最初の二つは事実、単なるウトゥとして対処されている。酔っぱらった呪医の不思議な示唆、息子による事実の啓示、その日のうちの吐血と言う驚くべき様相をもった最後の症状の発現までは。我々の観点からすると、病院はその都度けっして「打ち負かされ」てなどいない。最後の症状については病院は関与すらしていない。しかし、息子のモンバサでの不首尾に終った求職に始まる一連の出来事の示す驚くべき符合はいまや明らかであり、病院は確かにそれに対しては為すすべがなかったのである。

三度の症状の発現は互いに関係しているに違いない。儀礼に参加する毎に症状が現れたのは単なる偶然の一致だろうか。息子に常に同伴していた友人が何か関係あるのではないだろうか。モンバサで一体何があったのだろうか。息子が出会ったその女性は一体何者だったのだろうか。占いが真相を明らかにするのに先立つこの物語においては、あらゆる関係性が模索されているように見える。そもそもこの息子にもともと問題が無かった訳ではなかった。この自称「ミュージシャン」の息子(モンバサで彼が求めていたのはミュージシャンの職であった)の生き方が父を憂慮させていなかったとは考えがたい。父が酔っ払った呪医の示唆を深刻に考えてみる気になった背景には、こうしたノイズレベルでの諸問題との絡みが当然あったに違いない。こうした諸関係の中に見て取られた息子の症状がキマコなのである。あるいはそれがキマコとしてまさにそうした諸関係に父の注意を向けさせているのである。

症状が他の諸問題と関係付けられることなく、それ自体として問題になっているのがウトゥとしての症状の経験であった。これに対して、症状が、他の諸問題とともに形作る諸関係の「一部」として問題になっているもの、それがキマコとして経験されている症状である。症状は、諸問題がこのように関係付けられた「何か」として存在していることに人々の注意を引く、あるいは警告するものとして扱われる。それは文字どおり「人を驚かせるもの」なのである。

6.マグィリとしての症状

過去の「語るに足る」病気について、その症状に言及する際に、人々はマグィリ magb'iri という言葉を用いるかもしれない。この言葉は「捕える」を意味する動詞クグィラ ku-gb'ira から来た言葉であり、「何らかの特定のエージェントによって引き起こされた症状」とでも訳せるだろう。例えばある男が過去において妖術にかけられ、その結果さまざまな災厄に苦しめられたが、結局それに打ち勝ったこと、あるいは現在自分に憑いている憑依霊がはじめて憑依した際に自分をどのような病気にしたか、などについて語り始めたとする。その妖術が、あるいは憑依霊が引き起こした症状に言及する際、彼はマグィリという言葉を用いるはずである。また憑依霊についてインタビューする際に、特定の憑依霊がどのような症状を引き起こすかについての質問をマグィリ以外の言葉を用いてすることは困難である。身体的な症状に限らず、その特定のエージェントが引き起こし得るあらゆる問題、作物の不作であれ、妻の不妊であれ、がマグィリとして語られる。

マグィリとして語られるとき、症状はそれを引き起こした特定のエージェント、妖術であれ、憑依霊であれ、祖霊であれ、と結びつけて捉えられている。しかし単にこの二者間の結びつきだけが問題なのではない。語られる特定のエージェントは、当の症状を同時に他の出来事に対しても互いに関係付ける。これについて詳しく論じることは限られた枚数のなかでは不可能であるが、それはだいたい次のような具合である。(註6)例えば妖術がその特定のエージェントであれば、症状は今や近隣の誰かとの葛藤や齟齬に関係付けられることになろう。祖霊が問題だというのであれば、症状は親族の義務のなんらかの不履行との関連で眺められることになろう。それが憑依霊だということになれば、逆に症状と状況との関連は否定され、症状以外に患者が示すさまざまな特徴は、例えばそれが親族に対する無礼な振舞いのように明らかな社会的含意をそなえている場合も、社会的には非関与的なものとして扱われることになろう。それはしかじかの憑依霊という架空の他者との関係のなかで眺められる。特定のエージェントのマグィリであるとされるとき、症状を始めとするさまざまな出来事は、互に明確な論理の、あるいはより正確には「物語」の骨組によって結び付けられた関係態、明確な構造をもった統一体として経験されることになるのである。

既に述べたように、これらのエージェントを明らかにするのは占い muburuga である。身体的不調がキマコの姿をとるとき、占いがただちに諮問される。身体的不調は、もはや孤立した問題、ウトゥとしてではなく、それ以前には漠然としか気付かれていなかった諸々の「気になる問題」の場のなかで、それらとの関連において既に見て取られ始めていた。占いを通じて、それは特定のエージェントのマグィリとして捉えなおされるのである。と同時に、身体的不調とそうした諸々の「気になる問題」との関係がいまや明らかになる。さまざまなマグィリが一気に明るみに出されることになる。

占いはときに、人々がそれに先立って漠然と疑っていた関連とは別の関連を指摘することもある。先程例にあげた、豊穣儀礼の後病気になった男の場合、占いは人々の予想を裏切って意外な事実を指摘した。その男はかつて妖術による病いを治療して貰ったことがある。治療が完了すると呪医は患者に一連の禁止辞項 mizizo を課す。その禁止辞項は一定期間の後、呪医への最後の支払とともに呪医自身の手によって解除 ku-taphula されねばならない。この間、患者は夫婦の性交を禁じられる。これを犯すことは「呪薬を凌駕する ku-chira muhaso」行為とよばれ、さまざまな災厄に加えてその呪薬が治療したまさに同じ症状で彼を襲うだろう。さてこの男は呪医による正式な解除の前に妻と寝てしまっていたのである。占いは、彼の現在の症状と過去におけるそれとの類似に人々の注意を引き、忘れられていたかも知れない違反行為を明るみに出したのである。人々はこの占いの結果に完全には満足しなかった。実際占いはしばしば嘘をつくことがあるという訳だ。しかしとりあえず、この占いの指示通りに治療が開始された。

占いはまた、人々の諮問を却下することもある。「神の病い ukongo wa mulungu」だという判断が下される場合がそれである。これは別名「普通の病い ukongo wa kawaida」とも呼ばれるが、それは必ずしも問題の身体的不調が軽微なとるにたらないものであるという意味ではない。それは人を死に導くこともある。「神の病い」は、治るときには何もしないでも治るし、逆に治らないときには何をしても無駄であるといわれる。対症療法クヘンダ・ハメハメが、それに対する唯一の対処である。とはいうものの、ここにドゥルマの人々のこの病気に対する諦念を読み取る必要もまた全くない。むしろ逆である。それは占いを諮問した人々が憂慮していたこと、他の諸問題との関係が杞憂にすぎなかったことを示しているのである。それはクラグラができないというよりも、クラグラをする必要がそもそもない病い、他の問題とは何の関係もない孤立したハプニングだったのだ。教育を受けた青年たちは、「神の病い」をしばしば natural disease と翻訳してみせる。もちろんそれは超自然 supernatural に対する natural ではなく、unnatural に対する natural であろう。それは「人を驚かせるもの」キマコではない、ウトゥのレベルに差戻されるのである。

ともあれ、占いは、人々が経験しているものが何であるのかに明確な答えを出す。彼らは妖術、憑依霊、その他の不幸のエージェントを経験しているということになる。

しかし、人々は本当のところ何を経験しているのだろうか。答えは我々の病気経験におけると同様、実に明瞭である。「理屈の上では」彼らは、個々の症状、その他の諸問題、およびそれらが互いに関係付けられてできたパターン以外には何も経験していない筈である。ウトゥの場合との唯一の違いは、症状が孤立した問題の一種として扱われる代りに、身体的不調以外の諸問題をも含んだパターンのなかで、それを構成する要素として経験されているという違いだけである。とすると、彼らがそこに見て取っている、それらを「引き起こしている」実体、妖術その他の不幸のエージェントたちは、一体どこからやって来てどこに行ってしまったのだろうか。それらは経験の対象である実体としては、まったく余計なものなのである。こうしたエージェントは、経験の諸要素を自らと関係付けることを通じてこれらのパターンを根拠付ける、一種の「空虚な中心」でしかない。それは我々の病気経験におけるしかじかの「病気」の観念と同様、経験の諸要素が互に結びついて作るパターンに過ぎないものが、諸要素の水準において一つの実体として錯視されたものなのである。(註7)

私はドゥルマの人々がウトゥの一種として症状を経験しているとき、そこに我々の病気経験を特徴付けるような論理階型の混同、あるいは一種の錯視が認められないことを指摘しておいた。しかし人々がそれから完全に免れていた訳ではなかったとわかる。それは身体症状の経験という比較的狭い領域を超えて、より大規模に実現されるべく、単にとっておかれていただけなのだ。身体的な不調がキマコあるいはチャムノとして語られるときこそ、それが我々の症状の経験におけるように、言わば「奥行き」をそなえたものとして扱われ始めるときである。そのとき身体的な不調は、それによってにわかに照明を当てられた諸々の「気になる問題」、ノイズの場のなかで経験されることになる。そしてその場を構成する諸々の問題が形作るパターンが、同時に一つの実体としても経験されるとき、我々の病気経験におけると同様の論理階型の混同、認識論的な転倒が生じている。

身体的症状は、そしてその他の問題は、しかじかのエージェント、妖術、憑依霊、祖霊の怒り等々によって「引き起こされた」ものであったということになる。ひとたび状況がこのように理解されると、仮にキマコあるいはマグィリであった症状や問題が儀礼的治療の以前に消えてしまっても、さらには我々の観点からする「病気」そのものが治ってしまっていたとしても、治療はやはり行なわれねばならないだろう。もしその症状が憑依霊のあるいは妖術その他のせいであるなら、それは本当には治っていない。放置しておけば、災厄は別の病気の形で、あるいは子供の死や家畜の減少、その他考え得るあらゆる形で患者を再び襲うことは必定なのである。

7. ノイズの変換

我々の病気経験とドゥルマの不幸の経験は、その一見したところの隔たりにもかかわらず、その内部に同じく論理階型の混同を含んだ経験として成立している。これは単なる偶然の一致であろうか。もしそうでないとすれば、身体的不調の経験と論理階型の混同の間にどのような必然的な繋がりがあるのだろうか。

実は同様な論理階型の混同は他の領域でも生じていない訳ではない。「病気」に近いもので「狂気」などもよい例である。異常な言動や態度が、その男が「気が狂った」結果であると語られるような場合だ。しかし、まず「気が狂う」という出来事があって、次いでその結果として、異常な言動や態度が示されるという二つの過程があったりする訳ではなかろう。異常な言動や態度が一定のパターンをとって見られるということが、すなわち「気が狂っている」ということであって、こうしたものと並んで、それらとは別に「気が狂う」という出来事があったりする訳ではけっしてない。にもかかわらず「狂気」はそうした振舞いの「原因」として語られたりする。

同様な例をさらに二つぐらい挙げておこう。例えば、夫婦の間の意見のくい違いや齟齬、いさかい、まの悪さなどが結びついて作るパターンは、二人の「相性の悪さ」として経験されるが、同時に、二人の「相性の悪さ」がこうした齟齬やいさかいの背後にあり、それらを「引き起こした」のだと語られたりする。また、さまざまな失敗や期待外れ、災難などが結びついて作るパターンは「つきのなさ」として経験されるが、同時に「つきがない」せいでそうした災難が生じたのだと語られたりもする。自分たちの「相性の悪さ」を経験している二人は、実際には意見の食い違いや齟齬を経験しているだけであるし、「つきのなさ」を経験している人は、実際には期待外れや災難を経験しているだけである。それらと並んでそれらとは別に「相性の悪さ」なり「つき」なりの実体がある訳ではない。諸要素が結びついて出来上がるパターンが、あたかもそれを構成する諸要素と並んで、それらを引き起こしたりする同じ水準の実体であるかのように思念されたもの、それが「相性」なり「つき」なりといったものなのである。同様な論理階型の混同が生じている例は他にもまだまだあるだろう。

ところで、ドゥルマの不幸の経験、「病気」、「狂気」、「つき」、「相性」その他の同様な例を突き合せてみると、一つの共通性があるのに気付くに違いない。それらを構成する経験は、いずれも、一種のノイズの経験として始まるという事実である。

それらは、通常の、普通の、ありきたりの、正常の、あるいは何も問題とするにあたらない、といった形容が当てはまるような秩序だった、あるいはルーティン化された出来事の経緯からの一種のずれである。秩序からの逸脱、パターンからのずれ、パターンに当てはまらないもの、つまり言葉の正確な意味においての「ノイズ」なのである。

症状として経験されているのは、一体何であろうか。それはまさに、身体的な異常の知覚、ノイズの知覚に端を発している。しかし同時に我々は、すべての身体的なノイズが「症状」として経験されている訳でもないという事実にも気付いている。あるいは「病気」の「症状」として経験されるとき、それはもはや単なるノイズではなくなっているのである。たしかに「症状」は、我々の日常的な実践的活動にとっては「場違いな」感覚、ときとしてその妨げにすらなる不快な感覚を通じて経験される。しかし、同様に不快で実践的活動の妨げになり得る感覚がすべて「症状」として経験されている訳でもない。「空腹で死にそう」だからといって、それを我々は症状の一種としては経験しないし、徹夜の後で身体がほとんど動かなくても同様である。かと思うと過度の喫煙の習慣を背景に、それ自体としては日常生活になんの差し障りもない胸の奥に持続する不快感に深い憂慮を示したりする。つまり「症状」として経験されているとき、ノイズは既に分類されており、しかもその分類の根拠は身体感覚的次元に還元できないのである。これは奇妙なことである。そもそも分類から漏れたもの、分類不可能なものをノイズというのではなかっただろうか。

もちろん「病気」と結びつくことによって身体的ノイズは症状となるのである。つまり「病気」の観念が身体的ノイズを分節しているのだ。しかしこの「病気」なるものが、実際には症状が結びついて作るパターンでしかないことを我々は既に見た。

我々は実に驚くべき現象を前にしていることになる。秩序からのずれ、パターンからのずれ、分類漏れに他ならなかったものが、分類され、互に結びついてそれ自身のパターンを作り上げている。しかもそのパターンの根拠である当の分類は、逆にそのパターン自体によって根拠付けられているというのであるから。論理階型の混同は、その定義上パターンを否定するものであるところのノイズをパターンのなかの要素に作り変えるこの作業におけるほとんど必然的な過程なのである。

from utu to magb'iri

ドゥルマの不幸の経験において症状がとる三つの姿は、このノイズの変換の過程を段階的に示してくれている。それがウトゥとして語られている限り、それは孤立したハプニング以上のものではない。それは単に個別的なパッチ当てによって処理し得る単なる単発的な逸脱、ノイズに過ぎない。しかし発生源を異にする諸々のノイズの場のなかで眺められ始めたとき、それはキマコとなる。発生源を異にするさまざまなノイズがこうして互に結びついて出来上がるパターン、出来事相互の間に見て取られるべきパターンは、しかじかの不幸のエージェントとして、あたかも一種の虚焦点のようにそれを構成する要素である出来事のレベルに紛れ込み、それらを関係付ける中心となる。パターンは、自己そのものでもあるところのこの奇妙な中心によって中心化されたパターンに姿を変える。それは自らに余計なものを一つ付け加えるのである。

ノイズはその定義上、意味のないもの、つまり関係付けられないものである。それは自らを他と関係付けパターンに組織して提示したりはけっしてしない。それは外部の原理が介入することによってはじめて可能となる。しかしそもそも経験に「外部」などある訳ではない。当のパターン自身が自らの根拠を自らの手で作り上げるしかないのである。論理階型の混同は必然である。それは文化が見事に隠蔽することに成功した原初の作業を、今やぎこちなく再演してみせているのである。

論理階型の「混同」について語ることによって、私はそれを矯正すべき過ち、犯してはならない錯誤と考えている訳ではない。我々の生活は論理学者の生活ではない。犯さなければならない錯誤というものもある。論理階型の混同は、我々の経験が成立する為には、まさに犯されなければならない論理的な錯誤なのかもしれない。

我々の「病気」経験とドゥルマの不幸の経験は、ノイズのパターンへの変換、パターンからの逸脱を再びパターンとして取込むこの同じメカニズムに基づいて成立している。ただ違いはその変換のレベルにある。我々がけっして結びつけようとはしない諸問題、同時に経験されているかもしれないにもかかわらずあたかも完全に切り離して問題にできるかのように考えている諸問題を、彼らは一つのパターンとして結びつけようとしているという違いにすぎない。我々はノイズの発生源別に、それらが自らを主張し始めるやいなや、さっさと事をすませてしまう。身体の問題、心の問題、家庭の問題、仕事の問題、そのいずれの領域においても、ノイズは論理階型の混同を含んだ経験に作りかえられて経験される。「病気」や「狂気」や「相性の悪さ」などとして。たしかに切り離して別個に対処することによって、個々の問題の解決は効率的になるかもしれない。しかし、経験の統合性は失われるだろう。ドゥルマは言わばこの変換を最後の瞬間のためにとっておく。もし、ドゥルマの人々が身体的不調を家畜の減少や畑の不作、その他の災難とあたかも互に関係があるかのように語るのが奇妙であるというのなら、逆に我々がこうした災難を、いずれも同じ一人の人間が同時に経験しているにもかかわらず、あたかも互になんの関係もないものとして問題にできるかのように考えていることも、それに劣らず奇妙なことではないだろうか。両者はそれぞれ、ノイズを処理する方向の異なる二つの戦略を示しているのである。

註釈

(註1)ドゥルマはケニア海岸地方、クワレ・ディストリクトに住む人口訳15万のバントゥ系農耕民で、トウモロコシの栽培を主たる生業にしているが、一部地域では牛やヤギの牧畜も重要な経済的活動となっている。この論文は、1982年7月〜8月、1983年3月〜8月、1986年9月〜1987年8月の調査によるデータに基づいている。

(註2)J.L. Austin, 1962, How to Do things with Words (2nd. ed.) Oxford University Press. pp.143-145

(註3)M. Foucault, 1973, The Birth of the Clinic, Tavistock Publication. pp.xii-xvi.

(註4)論理階型論についてのもっとも刺激に富む解説は、G.Bateson, 1972,『精神の生態学(下)』佐藤良明訳、思索社、pp.399-442. 同じく 1979, 『精神と自然』佐藤良明訳、思索社、pp.155-176。

(註5)バルトは実証的な医学の内部に神話的な図式が流通していることを同じ経緯で説明している。「医学における記号学=徴候学は、ある種のアニミズム的タイプの図式にかなり正確に対応している」というのである。しかしもちろん人類学者にとってより関心があるのは、このアニミズム的タイプの図式と彼が不用意に呼んでいるもの自体を説明することの方だ。ロラン・バルト、1988、『記号学の冒険』花輪光訳、みすず書房。

(註6)ドゥルマの災因論の記述とその論理の解明は今後の課題である。そのごく不完全な紹介は、浜本満 1984「ドゥルマ族における病気の経験(1)(2)」『福岡大学人文論叢』16巻(1)(3)。これは1983年の調査の直後に書かれたもので、コマ回転での不備の多いものである。この時点ではウトゥ、キマコ、マグィリの微妙な違いについても充分に気付いていたとはいえない。ただ病気経験の階層性についてはすでに不完全ながら言及している。1986〜1987年の調査によって明らかになったこの論文における思い違いや、資料の誤りは、別の機会に訂正する予定である。

(註7)ここではこの論点を詳しく展開、論証することは控える。論理階型の混同を示す奇妙な観念群と災因論との関係については、以下の論文でより詳細に論じたことがあるのでそれを参照されたい。浜本満1986「異文化理解の戦略:ディンカ族における『神的なるもの』と『自己』の観念について(1)、(2)」『福岡大学人文論叢』18巻(2)、(3)。及び、1989「不幸の語りにおける原因と非原因」(吉田禎吾編『異文化の解読』平河出版)。後者は元々、1983年の調査から得た災因論のデータを解釈する過程で1985年にドゥルマの「災厄観」に関する論文の序論にする予定で書いたものである。したがって、それは当論文にとっても理論的前提の位置を占めている。