対比する語りの誤謬:キドゥルマと神秘的制裁

はじめに:キドゥルマとはなにか(註1)

ケニア海岸地方のドゥルマ人たちが自分たちの振舞いを説明する際に、キドゥ ルマ(chiduruma)という言葉がよく登場する。直訳すれば文脈に応じて「ドゥ ルマのやり方」「ドゥルマ風」さらには「ドゥルマ語」などとなるだろう。そ れは特定の場面でなさねばならない行為と、それを行なう正しいやり方に関係 している。例えば、屋敷の誰かの死に際して何がなされねばならないか、埋葬 をいかに行ない、弔い(服喪)をどう過ごしどのように終結させ、いかに普段 の暮らしを再開するか、そのやり方がキドゥルマである。正しい言葉の話し方 が問題になっている場合には、キドゥルマはまさに「ドゥルマ語」と訳し得る ものになる。

それはしばしば従うべき規則の形で述べられる。たとえば服喪の最終日には寡 婦は「死を投げ棄て(kutsupha chifo)」なければならない。ブッシュの地面 の上で余所者と無言の性交をおこなうことが「死を投げ棄てる」具体的なやり 方である。手を使わずに、射精も一度きりで、終ると用意された薬液で下半身 を洗い、そのまま互いに顔をそむけてそれぞれ別の道を通って立ち去らねばな らない、等など。禁止規則の形をとるキドゥルマもある。禁止とは言いかえれ ば、してはならない行為のやり方、どんな風に振る舞うことがそのしてはいけ ない行為に当たるのかを述べたものである。例えば服喪の期間中、死者の屋敷 の人々は「弔いを追い越(kuchira hanga)」してはならない。服喪期間中に 性交を行うことや大声を出すこと、ベッドや椅子を使用することなどがそれに あたる。死に関係した手続きに限ったことではない。ほとんどあらゆる実践の 領域にそれを行なう正しいやり方、キドゥルマがある。

キドゥルマは単に定まった正しいやり方であるだけではない。それらを怠った り、間違った仕方で行ったりすると、さまざまな災いを招く。正しく「死を投 げ棄て」なければ、屋敷から引き続き死者を出すことになるだろう。弔いを 「追い越し」た者は全身の痒みと錯乱に見舞われるだろう。災いとのこうした 結び付きがキドゥルマの特徴である。「キドゥルマは人を捕らえる (chiduruma chinagb'ira)」のである。「それぞれは小さい事だ。とるに足 らない。でもそれは捕らえる。そうとも、それはそれは完璧に捕らえるんだよ。 それでいて、一体それがどうやって捕えたのかはけっしてわからない!」

キドゥルマの「過酷(chikali)」さとその逃れようのない帰結を物語る事件 もよく話題にのぼる。一九九八年の一月にあった事件も人々の格好の話の種で あった。

(要約)「町の近くにMさんというカンバからやって来た男がいるだろう。何 年か前に息子を交通事故で失った。そのとき同じカンバ人の友人が『ここドゥ ルマでは、こうした死はチェラ(chera)と呼ばれ、死体を屋敷に運びこんで はいけない。また夜を越さないよう、遺体が届けられたその日のうちに埋葬し てしまわなければならない。死体は(屋敷の墓地にではなく)道端に埋葬せね ばならない』そうアドバイスした。『いや、私はそうするまい。わが子が死ん だのに家に連れて帰れないなんて。』Mさんは忠告を無視した。何事もなく何 年かが過ぎた。だがつい先日のことだ。彼の息子がもう一人、また交通事故で 死んでしまったではないか。キドゥルマを無視すると、同じ災いに見舞われる ことになるのだ(undauyirwa chidzako)。今度もMさんは通常の埋葬を主張 したが、ついには説得され、埋葬はチェラの死にふさわしいやり方で行われた。」

事故やある種の病気による死は「悪い死(chifo chii)」と呼ばれる。悪い死 には常習性がある。つまり正しく「冷やし(ku-phoza)」て「投げ棄て」なけ れば、屋敷には「悪い死」が繰り返すことになる。それを冷やし投げ棄てるた めの、上の語りに見られるような細々としたやり方や禁止もキドゥルマである。 この話はキドゥルマが、長い時間をおいても必ず人を捕らえること、ドゥルマ 人以外の者すら捕らえることを示す例として、地域の人々の記憶に刻み込まれ ていくことになるのだろう。

キドゥルマのような観念は人類学では、神秘的制裁をともなうタブーや規範と して理解されるのが普通である。我々の目にそれは前近代的な社会にいかにも ありがちな観念と映る。これは本当に適切な理解なのだろうか。本論が検討す るのはこの問である。

<異>性の提示の構図

人類学はその対象を西洋的自己にとっての文化的他者、文明に対する未開とし て、自らとは極端に異なった存在であるかのように描きたててきたと、しばし ば批判されている[Fabian 1983, Richards 1994]。そのとおりだったとも言え る。しかしただ後ろめたく思ってみても意味はない。また違いについて語るこ とを放棄して、いかに彼らが自分たちと同じであるかを叫び出すのも見苦しい。 問題を研究者の政治的意識や立場の問題に矮小化するに及んでは、単なる学問 的怠惰以外の何でもない。差異がげんに存在し、人類学の語りが今後も差異に ついての語りであり続けるのならば、そして差異についてニュアンス豊かに語 る言葉を研ぎ澄ませることが人類学の中心的な課題の一つだとすれば、従来の 語り口のどこに問題があったのかきちんと押えたうえで改めることこそが必要 なのである。

問題は対比するという語りの構図そのものに内在する。対比的に語るというこ とは、対象をただ自分たちとは異なった存在として提示することではない。そ こでは違いは、その異なり加減を測る暗黙に想定された共通の物差しの上で提 示される。イヌとコーヒーカップは確かに違っているが、だからといってその 違いについて語ろうという気には、あまりならない。なぜならそれらは違って いるというよりは、そもそも比べ物にならないからである。多くの場合に<違 い>についての語りは、<対比>という構図をとらざるをえない。違いについ て語るといっても、たとえばイヌとネコとの違いのように、まず比べ物になる 違いでないことには話にならないということになる。たしかにイヌとネコとは 正反対だと主張することには意味があるが、イヌとコーヒーカップについて同 じことを主張すると--あきらかにこちらの方がイヌとネコの違いよりもはるか に大きいのに--ナンセンスになる。対比の語り口とは、他者との差異をある種 の同質性の想定のもとにはじめて語るに足るものとする、そうした語り口であ る。

これは問題の構図をやや複雑にする。誤った対比、他者に対する非現実的な異 和性が、そこで表立って設定されている差異に原因があると言うよりも、むし ろそれを支える暗黙の同一性の措定に根ざしているという場合、それはますま す気づかれにくいものになる。人類学は、文化的他者、異なるシステムの理解 を標榜している結果として、ますますこの構図にはまってしまいやすい。なぜ ならそこでは理解はあからさまに一種の隠喩的な理解--あるものを別の何かに よって置き換え、なぞらえる作業--をつうじてもたらされるからである。<文 化>のというまでもなくあらゆる翻訳作業が、比喩的な等置のプロセス以外の なにものでもない。ある言葉(現地の)を別の言葉(われわれの)に等置し、 ある対象をなにかに見立て、ある現象を何かになぞらえている。こんなやり方 で最終的には、相手が我々とはいかに違っているのかを明らかにしようという のであるから、話がやっかいになる。違っているということを言うために、ず いぶん多くのものを同じだと主張せねばならない訳である。

いうまでもなく比喩一般、とりわけ隠喩は、差異の存在を暗黙のうちに仮定し た上で、その差異を無視しておこなわれるところの同一性の主張である。恋人 を白鳥に喩える青年は、その恋人には羽毛も水掻きもないという事実を無視し、 あるいはわきまえた上で同一性を主張している。しかし同じであることを主張 する際の、無視すべき違いについてのこの暗黙の同意の目くばせが、場合によっ ては致命的でありうる。とりわけ相手がいかに自分たちとは異なっているかを 示す対比的な語り口の前提としての同一性の設定が問題になっているときには。 例としてキドゥルマのような観念の説明によく持ち出される、神秘的制裁をと もなうタブーというありふれた概念をとりあげよう。

規則と神秘的制裁

キドゥルマを人々が従わねばならない規則に喩えること自体は、けっしてそれ ほど不自然なことではない。土地の人々の中にも、それらをスワヒリ語で「法」 を意味するシェリア(sheria)という言葉によって説明してくれる者もいる。 それは充分有効な比喩である。しかしそれがあくまで比喩にすぎないことを忘 れると、まずいことになる。

人々は「キドゥルマを誤るとキドゥルマに捕らえられる」という。これを<法 >の比喩を字義通りにとって、規則違反の罰あるいは制裁として災いに見舞わ れるのだと翻訳した途端に、それはなにやら非合理めいた主張になってしまう。 規則やタブーの違反が制裁として災厄をもたらすという考え方は、もちろん人 類学にはお馴染の考え方である。しかし問題は、馴染み深いとはいっても、自 分たち自身の考え方としてありふれているという意味ではないという点だ。む しろ我々には無縁な考え方、あくまでも人類学的な他者に適用されるときにの みありふれている非合理めいた考え方として、それは対比的な語り口が描き出 す極端な他者像の一部となる。

キドゥルマの場合、こうした<法>の比喩による理解が不適切であること自体 はすぐに明らかになる。制裁という概念は、それを課すエージェント--特定の 人間であれ機関であれ、あるいは神や神霊のような超人間的エージェントであ れ--の観念と切り離しては考えられない。一方キドゥルマと災厄との結び付き に、祖霊であれ神であれ、なんらかのエージェントが持ち出されたりすること はないからである。両者の結び付きは、より直接的である。死を「投げ棄て」 なければ死が屋敷のなかに「残り」、屋敷の人々を捕らえ続けるとしても当た り前ではないだろうか。屋敷成員の反復する死は、死が投げ棄てられなかった ことの当然の帰結とされている。神であれ祖霊であれ誰かが、規則違反を罰し ようとしてそれをもたらしているわけではない。仮になんらかのエージェント を登場させたとしても、この結び付きの中で彼が果たすことのできる役割など なにもないであろう。

制裁とは本来、<違反>という事実に向かって発動するものであり、実行され た行為そのものに対する反応やその単なる帰結などとは違うのだという点にも 注意しよう。交通法規に違反して反対車線を走った場合、警官に制止され規則 違反のかどで罰金を課せられることを制裁と呼ぶのは、ごく普通の用法である。 警官が罰金を課すのは、その運転者のとった行為が、たとえば、危ない行為で あるからといった理由ではなく--それが対向車のほとんどない深夜のことであっ てもやはり罰せられるのであるから--、それが法に対する違反行為であるから である。この意味でそれは制裁なのである。一方、反対車線で他の車の流れに 逆らってつっ走ったことがもとで事故になり大怪我を負ったとしても、誰もそ の怪我を交通違反に対する制裁と呼んだりはしないだろう。制裁は違反という 事実に対応しているのであって、単に車の流れに逆らって走ったという行動そ のものに対応している訳ではないのである。キドゥルマつまり「ドゥルマのや り方」と災厄との結び付きは、違反に対する制裁の関係にというよりは、どち らかというと、反対車線を走った結果の事故のような、行為とその単なる結果 との無媒介的な結び付きの方にあきらかに近い。「悪い死」の死者を埋葬に先 立って屋敷にもちこんでしまった場合も、それがなんらかの<違反>であるこ とが問題なのではなく、その行為そのものの危さ--悪い死を屋敷に「植え付け (ku-phanda)」てしまいうる--が問題なのである。死の反復が行為の単なる 帰結であるのなら、それは制裁という概念にはなじまない。

人類学者が無造作に使い続けてきた用語の一つである『神秘的』制裁という言 葉には、こうした<法>の比喩に含まれる不自然さを覆い隠し見えなくする効 果がある。おまけに人類学的な他者(『未開人』)は、もともと『神秘』にな じみ深い存在として想像される傾向にあったので、この結び付きはますます自 然なものになる(註2)。ラドクリフ・ブラウンは「守らなければならないと いうあらゆる規則には、そこに何らかの制裁すなわち理由がある」とし、道徳 的・法的制裁と儀礼的・神秘的制裁を区別した上で、後者が「多くの単純社会 において一般的である」とこともなげに述べている[ラドクリフ・ブラウン 一 九八一、二八五]。一九五二年の話である。しかし今日でも、例えば松園はグ シイにおける「既婚者間の姦通とそれに対する『超自然的な制裁』、その結果 としての身体的症状」[松園 一九九三、三五]について語り、また長島も「そ れに違反すると当人あるいは関係者がなんらかの『神秘的制裁』を受けると考 えられている『禁忌』」をテソの災因論における災因の一つに数えている[長 島 一九八七、三七〇]。私自身、ある種の性関係の禁止をめぐって、それが 「『神秘的な制裁』キティーヨの対象であるというよりは、むしろ社会的な制 裁の対象」[浜本 一九八八、四〇]であるなどと述べたことがあった。まさに ラドクリフ・ブラウンの区別をそのまま踏襲したもので、反省すべき安易さで ある。それほど人類学者にとってありきたりの概念になっているということで もある。『超自然的』『神秘的』という修飾語が『象徴的』などの言葉同様に 実質的にはほとんど何も意味しない、限りなく無意味に近い修飾語であるとい う点に、ここでいまさら注意を促す必要があるだろうか。その修飾語は、ただ 単に通常の意味での<制裁>について語ることが困難であるという理由から要 請されているだけなのである。しかしそれのおかげで、こうした現象を<法> という狭い意味で理解された規則の比喩で語る際に生じているはずの齟齬が、 人類学的常識の外皮に覆い隠されてしまう。キドゥルマも神秘的な制裁に裏打 ちされた掟や法の一種として、『未開人』にありがちな観念として、理解ずみ のラベルが貼られた項目に容易に収まってしまうことであろう。

<法>の比喩によって語ることがより適切であるような諸規則も、キドゥルマ とは別にちゃんと存在している。ケニア政府が課し警察によって維持されてい る法体系については言うまでもない。それ以外でも、例えば長老に支払わねば ならない種々の罰金(kadzama, temo)による制裁は、キトゥミア(chitumia) と呼ばれる諸規則--年長者に対する正しい振る舞いや、集会の場での適切な発 言などに関するものが含まれる--の違反に対応している。この場合違反者が規 則によって「捕えられた」などとは語られない。彼は「食べられ(ku-riwa)」 たというのが、かつてはヤギとヤシ酒の支払いに代表された罰金という形のこ うした制裁に対する通常の語り口である。違反や制裁という用語で語るにふさ わしいこれらの事例の存在が、ますますキドゥルマと<法>の比喩との不適合 を際立たせる。

自然の秩序

キドゥルマを<法>の比喩--規則・違反・制裁の比喩--で理解することが不適 切だとするなら、それはいったい何であろうか。結果としての災厄との結び付 きの直接性においてそれは、我々が漠然と<自然の法則性>として理解する種 類の出来事の結び付きにむしろ似ている。

例えばビルの10階から飛び降りれば死ぬことは誰でも知っている。これに仮 に規則の表現を与えてみる。「ビルの10階から飛び降りてはならない」とい う具合に。これはある意味でキドゥルマにそっくりの禁止規則である。事実も しこの規則に<違反>して飛び降りたりすれば、たちどころに死んでしまうこ とになるので、違反はキドゥルマに違反した場合と同様に、何のエージェント の介入をともなうことなく、悲惨な結果につながる。この悲惨な結果をこの規 則違反に対する制裁として語ったりすれば実に滑稽なことになろう。「どうし てこの規則を破ったら死ぬのか」という問いは、ほとんど無意味に近い。彼が 死んでしまうのは別に規則を破ったことが理由で、規則違反の罰としてではな く、単に10階から落ちたことの結果にすぎないからである(註3)。

ここでは行為と結果との結びつきは、万有引力の存在、、空気抵抗と終端速度、 運動エネルギーなどに関する自然の法則性に、そしてそれらのみに基づいてい る。しかし重要なのは、この結び付きを理解する上でそれらすらまったく余分 なものだという点である。べつに万有引力の物理法則などについて一切知らな くても、誰もビルの10階から飛び降りてみようなどとは思わないし、飛び降 りたらどうなるかもわかっている。「なぜ10階から飛び降りたら死ぬのか」 などという問いは、それに対して「世界はそんな風にできているのだ」とでも 答えておけば充分であるような、誰もあらためて問う気にならないような問い である。キドゥルマをめぐる語りにおいても我々は同様な、あるいは一見はる かに強固な自明性の岩盤に繰り返し突き当たることになる。悪い死を投げ棄て なければそれは屋敷に残ってしまうと語る人に、「なぜ投げ棄てなければ残っ てしまうのですか」と問うことはナンセンスである。投げ棄てなければ残って しまうのは当たり前のことではないか。

そこに喚起されているのはある種の秩序感覚である。そもそも『そんな風にで きている』というのは、どんな風にできていることなのだろうか。まさか『世 界は人がビルの10階から飛び降りたら死んでしまうようにできているのだ』 などという同語反復的な答えで終ってしまうわけではあるまい。それは全域性 をもった一つの秩序--我々にとっての物理的な自然という秩序--のようなもの をほのめかしている。『そんな風に』とはどんな風になのかという問いに対す る答えは、単一の同語反復的命題によってではなく『世界は、人がビルの10 階から飛び降りれば死んでしまうように、そして水中で20分以上も息を止め ていれば死んでしまうように、そして煮えたぎる油の中に手を突っ込めばやけ どするように、等々...』という無数の命題の召喚の中に立ちあらわれてくる 一つの秩序なのである(註4)。キドゥルマの観念が、そこに呼び出すのも同 様な秩序の世界であるように見える。世界は「悪い死の死者を屋敷に持ち込ん で一晩を過ごすと、悪い死が屋敷に植え付けられてしまうように、死を『投げ 棄て』なければ引き続き屋敷に死が訪れるように等々...」という無数の--し かしその数を特定することも、その内容を特定することもおそらくはできない-- 命題の総体が描き出すような形で、<そのように>できているのである。

もちろんこの方向にアナロジーを押し進めすぎるのも、法と制裁の比喩を貫徹 させようとするのと同様に危険である。キドゥルマは、われわれの言う自然の 法則性と同様な、人々にとっての自然な出来事の連関に規則の表現を与えただ けのものだということになってしまう。言うまでもなくドゥルマにおいても、 多くの出来事の連関は別にキドゥルマとしては語られない。人は高いヤシの木 から落ちると、やはり大怪我をしたり死んだりするのであるが、それは別にキ ドゥルマに捕らえられたからではないし、この原因と結果の結び付きが「高い ヤシの木から飛び降りてはならない」などという規則の表現を持っているわけ でもない。規則がないせいで、飛び降りる人が後を絶たないという訳でもない。

上の若干トリッキーな例において、ビルの10階から飛び降りると死ぬという 事実のつながりの中では、他ならぬ『ビルの10階から飛び降りてはならない』 という規則の表現そのものが余計なものであったのだという事実を思い出そう。 それはもちろん私が勝手に作って付け加えたものなのだ。そんな規則の表現が あろうとなかろうと、人はビルの10階から飛び降りる行為を遂行できるし、 同じ死亡という結果を期待してよい。つまり二つの事象--ビルの10階から飛 び降りるという行為と死という出来事--の結び付きはもともと、私がここで気 紛れにそれに<規則>の表現を与えたという事実とはまったく無関係に存在し ている。しかしキドゥルマとして語られる規則の場合は、はっきり事情が異なっ ている。そこでは規則の表現は当の出来事の連関にとって、後からとって付け た余計なものであるどころか、構成的な一部である。例えば、悪い死を「植え 付け」ると屋敷の中で悪い死が連鎖するだろう、あるいは弔いを「追い越す」 と全身の痒みと錯乱に襲われるだろうという連関は、いずれも特定の規則の表 現とは独立には成立しえない。「悪い死を植え付ける」という行為あるいは 「弔いを追い越す」という行為をそれぞれ現実的な行為として存在させている のは、何をすることが悪い死を植え付ける行為に当たり、何をすることが弔い を追い越すことに当たるのかを定義している当の禁止の規則--「悪い死の死者 を屋敷に持ち込んではならない」「服喪期間中は性交してはならない」等々と いう禁止--以外にないからである。この規則の表現を失ってしまうと、「死を 植え付ける」あるいは「弔いを追い越す」という行為そのものがその具体性を 失ってしまう。ちょうど一群の規則によって構成された野球というゲームがな いところでは、三振や盗塁という行為そのものが存在せず、人がどんなにそれ に似た動作を行なってもけっして三振したり盗塁してみせたりできないのと同 じように、キドゥルマの語り口の中にいない我々が、たとえば日本でどんなに 奇抜な行為をしてみせたところで「死を植え付ける」ことにも「弔いを追い越 す」ことにもけっしてならない。行為概念自体が当の規則の存在を前提として いる。規則の表現は単なる余計な付け足しではなく、問題となる出来事の結び 付きにとって不可欠の構成要素なのである。

構成的規則

キドゥルマの語りにおいて主張されている原因と結果の結び付きは、違反と制 裁の結び付きによりは、自然の法則におけるそれに近い。しかしそれは自然の 法則性とは違って、当の規則の表現をその結び付きの不可欠の構成要素として いる。人為的な法的規則の比喩で語ることと自然の法則になぞらえて理解する ことのいずれも、キドゥルマの性格をとらえそこなってしまう。しかし譬える 相手が極端すぎたのではないだろうか。規則ではありながら、その違反と制裁 について語ることが的外れであるような、そんな規則概念もある。サールが構 成的規則と名づけるものがそれである[Searl 1969]。構成的規則の概念によっ てキドゥルマを理解する可能性を検討してみよう(註5)。

構成的規則とは「Xすることをもって、Yとする」という形に言い替えうるよ うな規則である。そこでは制裁という概念自体があまり意味をなさない。たと えば「結婚する(Y)際には婚姻届を出さ(X)ねばならない」というのは典 型的な構成的規則であるが、それを破ることによってどんな制裁があるという のであろう。また婚姻届を出す際にはしかるべき欄に署名し、しかるべきとこ ろに捺印し等々の決まりがあるが、それを破るといかなる制裁が加えられるだ ろう。特になんの処罰も罰金も制裁も加えられない。単に結婚できなかった、 単に婚姻届を提出できなかったという結果になるだけのことである。このタイ プの規則は、まさに規則自身によってそれぞれの行為、結婚する、婚姻届を出 す等の行為を定義するものに他ならないからである。規則に違反するというこ とは、単に当の規則が定義しているところの行為を成立させないだけである。 この結果を制裁と呼ぶことはできない。もちろんこうした<規則違反>には、 特定の効果や結果が伴いうる。規則に従いそこねたせいで結婚が成立しなかっ たことの結果として、二人は単なる内縁の夫婦として生活することになるし、 二人の間にできた子供は「認知する」という特別な行為を行なわなければ、自 動的には男の法的な子供とはならない、などなど。これも違反に対する制裁と は言いがたい。それは結婚が成立しなかったことの単なる結果に過ぎない。こ うした帰結が、規則に従わないことに蓋然的、偶有的に付随する結果の類--例 えば交通法規を破って反対車線を走ることによって事故に遭うといった--では なく、規則の違反に内在的かつ直接的に結び付いていることに注意しよう。両 者の結び付きの必然性は、ある意味で自然の法則の中の必然性よりも強度な必 然性である。ビルの10階から飛び降りて奇跡的に死なずにすむ場合を想像す ることは可能であるが、婚姻届を出さなかったのに奇跡的に結婚できていたな どという可能性を考えること自体が馬鹿げているからである。キドゥルマの場 合においても、当の禁止が、禁止される行為そのものの定義、その構成部分に なっているという点で、構成的規則と同様な構図が見てとれる。違反とその結 果との結び付きが制裁という性格を持たないのは、単にそれが構成的規則であ るからだということではないだろうか。

しかしこの理解にも、根本的な困難がある。それは違反と、違反の結果との結 び付きのなかに確認された<自然性>とどうにも相容れないのである。ビルの 10階から落ちれば死ぬに<決まって>いるとはいっても、それはけっして取 り決めによってそう決まっているわけではない。自然の秩序に属する事実の結 び付きはこうしたものである。これに対して、構成的規則に従わないことがあ る帰結に結び付いているとすれば、その結び付きは上で見たように規約的、つ まり取り決めによってそう<決まって>いるだけの結び付きである。婚姻届の 所定欄に正しく記入しなければ、婚姻届を受理されず、結婚したことにならず、 産まれてきた子供にいちいち認知が必要になるというのは、そう取り決めてあ るからである。サールのやや問題のある言い方を援用するなら、ビルの10階 からの転落と死亡との関係は、取り決めの有無とは無関係にそれ自体で存在す る<生まの事実(brute facts)>のあいだの関係であり、それに対し後者の 婚姻に関するものは構成的規則の体系からなる<制度>の存在を前提としては じめて意味をもつ<制度的事実(institutional facts)>をめぐっての関係 なのである。

キドゥルマの位置は再び微妙である。キドゥルマに従わないこととその結果の 災いとの結び付きは、規約的な事実相互の規約による結び付きによりは、あき らかに自然の秩序--<生まの事実>が属する秩序--内部での出来事の結び付き に近い。死を「投げ棄て」なければ屋敷に死が繰り返すことになるとか、弔い を「追い越す」と全身の痒みや錯乱に見舞われるといっても、別にそうなるよ うに取り決められているからだとは考えられていない。しかしその一方で、死 を「投げ棄てること」や弔いを「追い越すこと」は、結婚すること、王手をか けること、ホームランを打つことなどと同様に、構成的規則の存在を前提とし ているという点では<制度的事実>の側にある。キドゥルマは二つの相反する 秩序の、ありえそうもない組合わせを示しているかのように見える。

自然と規約

キドゥルマをなぞらえる3つの比喩を検討した。違反と制裁について語りうる 法的規則の比喩--『神秘的制裁』という人類学用語はこの比喩から来ている--、 自然の法則的連関の比喩、それに構成的規則の比喩である。しかしいずれもキ ドゥルマを適切に理解することに失敗している。むしろ、以上の考察において われわれがくり返しそこに戻っていった自然と規約、<生まの事実>と<制度 的事実>を峻別する図式そのものが不適切であったのだという可能性を考えて みるべきではないだろうか。

自然と規約の対立は、秩序というもの--出来事どうしの『決まりきった』結び 付き、出来事の経緯の『きまった』仕方での展開--についての我々の想像力を しっかり呪縛している図式、秩序についての想像が容易にからめとられてしま う極端な二分図式である。『きまった』という言葉自体に両義牲がある。ある 出来事がいつも『きまった』やり方で展開するという場合、人はその決まり方 を2種類に大胆に分けてしまう傾向がある。一つは、単に一定しているという 意味であり、もう一つは<きまり>として定まっているという意味である。あ るバス停でバスが<きまって>5分前後遅れて到着するという事実を、バスが 5分前後遅れるという<きまり>に従って運行されているということと混同す る者は誰もいないだろう(註6)。前者の場合、さらにどのような原因でいつ も5分前後遅れてしまうのかを問うことが可能である。しかしもしバスが5分 前後遅れなければならないという<きまり>に従って運行されているというの であれば、もはやそうした問いを立てること自体が的外れになる。決まって5 分前後遅れるのは、単にそういう<きまり>だからだという訳である。問いは 別の平面で立てられる。それは、なぜバス会社がそのような<きまり>を作っ たのだろうか、という類の問いになろう。

これこそ<自然>と<社会>という二つの対立する秩序を想像する際の常套的 な構図に他ならない。事象はこのどちらに属するかによって異なる説明の仕方 を要求する。ある仕方で生起する事象について、それがそんな具合いに生起す ることの根拠は、前者の場合には出来事の因果的な連鎖に求めることができる し(それが<自然>の領域における説明である)、後者の場合には当の<きま り>そのものを根拠づけるもの、合意や制定や布告や契約の事実やその主旨な どに求められるということになる。

二分法が常にそうであるように、この極端な二分法もその単純さによって我々 を誤らせる。この構図は、必然と普遍の特権的な領域として<自然>を確保す る一方で、その残余として見出されるその他の秩序の事実を、規則そのものの 存在にそして規則に対する服従の行為に置き換えてしまう。諸実践は「あたか も自覚的に作り上げられ承認されている規則への自覚的な服従を原則としてい るかのようになってしまう」[Bourdieu 1977:27]。素朴な律法主義の罠にはまっ てしまうのである。言語そのものをはじめとする、人間の生きるさまざまな秩 序はしばしば、規約による秩序、約束事として思い描かれている。誰が決めた ものでもないきまりを『きまり』と呼び、誰も約束した覚えのない約束を『約 束ごと』や『とりきめ』と呼び、けっしてなされたことのない合意を『合意』 と呼ぶという、秩序についての比喩的な語り口である。その比喩性を忘れてし まったとき、律法主義の罠が待っている。

キドゥルマのなかで主張されている出来事の連関の性格は、この想像力の構図 の内部に留まり続ける限り理解困難である。キドゥルマをめぐる当の人々の語 りはこの二項対立を考慮になど入れていないように見える。たとえばキドゥル マの諸規則の起源についての語りのあるものは、この区別に対する一種の無頓 着さによって、こうした想像力の呪縛から自由であることを証している。

ある老人は、ドゥルマ人の起源に関する一風変わった話しの中で、母と息子の 性関係の禁止の起源に言及する。それによると最初のドゥルマ人は一人の女性 で、空から大きな土器の壺に乗って地上に降りてきた。「イブ」という名の彼 女は唖で半身が不具であった。やがて彼女は妊娠し一人の息子を産んだ。夫も いないのにどうやって産んだのかと人々がいぶかると、彼女は初めて口をきい た。これは私の血(damu)だけでできた子供なのだと。そして彼女はこの息子 を「アダム(Adamu 『血でできた』という意味)」と名付けた。アダムもまた 半身が不具であった。やがてアダムは母イブと交わり、はじめて五体満足な娘 が産まれた。だがこの関係がもとでイブは死んでしまった。こうしてアダムは 母と息子が関係をもつことがよくないことだと知った(註7)。

この話の主眼点がアダム(Adamu)と血(damu)の駄洒落と、それを通しての キリスト教神話の換骨奪胎にあることは明らかである。しかし母と息子の性関 係の禁止について言えば、アダムによってあたかも自然法則を発見するように 見出されたとされている点に注意すべきだろう。まるでビルの十階から落ちる と死ぬという事実がふとしたきっかけから発見されたとでもいった具合なので ある。それは約束ごとに基づく規範としての規則の観念からは随分遠いところ にある。

一方屋敷に持ち込まれたさまざまなものを「産む」つまり屋敷の秩序に正しく 組み込む儀礼的性交手続の起源についての、同じく一風変わった話はその正反 対の極を示している。ある老人によると、それはドゥルマの先祖の好色に端を 発している。その先祖はいつも妻を求めてばかりいたのだが、それにうんざり した妻が彼を拒むようになってしまった。彼は別の男に相談し知恵を授けられ た。新しい壺を買ってこい。そして妻に言いなさい。新しい壺を買ったのだか らお前は私と性関係をもたねばならない。これがまんまと成功したことに味を しめた彼は、新しいヤギを手に入れた、新しく扉をつけたといっては、その都 度それを口実に彼女に性関係を強要したのであった(註8)。

「我々の先祖はどうしようもない奴だった」こんな風に締めくくって笑い転げ る。基本的には滑稽話なのである。まるで儀礼的性交の手順は、ほとんど一人 の男の気紛れから始まったのだといっているようなものである。それは極めて 恣意的に定められたのだ。だからといって人々は、これらの手順がどうでもい い守る必要のないものだと言っているわけではない。それどころかそれはドゥ ルマの屋敷運営の上でももっとも重要な手続きの一つであり、たとえ仮にこん な経緯で始まったと語られているようなものであっても、その手順に従わなけ ればそれはやはり「人々を捕らえる」のである。

これらの物語においてキドゥルマは、一方では我々にとっての自然の法則のよ うにただ発見されており、他方では人間の手で、しかもまったくいいかげんな 理由で作り出されたことになっている。ドゥルマの規則には自然の法則性の認 知にあたるものと、純然たる約束ごととして制定された規則とが混在している のだなどと、とんちんかんなことを言い出してはいけない。二つの話からは、 単にこの違いが重大な違いとは考えられていないことがわかるだけである。規 約と自然という対立がそれとして認知されていないだけではない。起源の問い 自体が実に軽々しく扱われている。大部分のキドゥルマにおいては人々は起源 などそもそも問題にしていないし(註9)、この二つの話にしても起源が本当 に問題なわけではない。逆にキドゥルマの背後にしかるべき理由などありはし ないと示そうとしているのではないかと思えるほどである。ちょうど海の水が なぜ塩辛いかを、停止させる手順を知らなかったせいで海底で塩を出し続ける ことになった石臼によって説明するあの我が国の昔話の、小さな子供ですら真 に受けたりしないだろう説明の真偽が、実際にはたいした問題でないのと同じ ように、ここでも実は起源などどうでもよいことなのである。海底で石臼が回っ ていようといまいと、げんに海の水は塩辛い。本当に先祖の気まぐれや大発見 に由来するものであろうとなかろうと、げんにある種の性関係は当事者に災い をもたらし、儀礼的性交の手順を怠ればせっかく購入した家畜も生き永らえな い。起源などどうであれ、世界はげんに<そんな風に>できてしまっている。 むしろ重要なのはこうした秩序の存在の方なのである。

比喩的な秩序

規約と自然の対立に無頓着である人々が存在するという事実で対立そのものが 無効になるわけではもちろんない。キドゥルマの観念は、しかし、この対立が とらえ損なう空間をかいま見せてくれる。それは、自然の秩序か約束事によっ て成り立っている秩序か、生まの事実か制度的事実かといった割りきりを許さ ない、我々にとってもまんざら馴染みのないわけではない領域である。レイコ フとジョンソンが指摘しているように、我々の経験領域のかなりの部分が、そ の比喩性にはほとんど気付かれないままに、構造的な比喩で語られ組織されて いる[Lakoff & Johnson 1980]。こうした隠喩的な--しかしまったく隠喩的で あるとは感じられていない--語り口を通してある行為が記述されているときに は、それが<生まの事実>としての行為の記述であるのか、それとも<制度的 事実>としてのそれなのかを問うこと自体がほとんど無意味になってしまう。 例えば、ある男の振る舞いを評して彼が「時間を無駄使い」していると述べる ことは、<生まの事実>を記述したものだろうか、それとも<制度的事実>の 記述にあたるのだろうか。『時間を無駄使い』すると『時間が足りなくなる』 のは当たり前のことであるが、『三振する』と『アウトになる』のが単にとり きめでそう決っているというのとは違って、規約によってそうなっているわけ ではない。『ビルの10階から飛び降りる』と『死んでしまう』というのと同 様の、約束事によらない道理である。ただし時間なるものが本当にお金のよう に消費したり、無駄使いしたりできるというのであれば。つまりそれは比喩的 な語り口なのである。『時間を無駄使いする』という行為そのものは、そもそ も時間を使用したり消費したり節約したり出来る何かであるかのように眺める 比喩的な観点が存在しないところでは、存在しえない行為である。ちょうど野 球というゲームがなければ誰も『三振する』という行為を行なえないように、 こうした観点がなければ時間などというものは『無駄使い』しようがない。単 に観点、物の見方だけの問題でもない。それはさまざまな行為を、時間と生産 という観点で振り分ける--『時間を無駄使い』する行為とは、そうして分類さ れた行為の一つである--独特の分類法をともなう、生活の特殊な体制化と切離 す事が出来ない。その体制を生きていない人には『時間を無駄使いする』とか 『節約する』とかいっても、まるで意味をなさないだろう。たしかに時間は物 ではないので使うといっても物を使うようには使ったり浪費したりできるわけ はない。しかし我々はたしかに『時間を無駄使い』すれば、その結果として 『時間が足りなくな』ってしまうことが当たり前であるような秩序を生きてい る。それはもちろん<自然>の秩序ではありえない。しかし<規約>によって そうきめられた関係からなる秩序でもない。生と物の見方についての特定の制 度化と切離す事の出来ないという意味で<制度的>である『時間を無駄使い』 する行為は、<生まの自然的事実>が関係しあうようにその帰結とつながりあ う。キドゥルマにおける秩序の性格について確認したのも、まさにこれであっ た(註10)。死を「投げ棄て」なければ、それが屋敷に「残って」しまうの は、当たり前のことであり、死が「残って」あるいは「植え付けられ」てしま うと、屋敷の人々を「捕らえ続ける」のも当然のことである。言うまでもなく、 比喩的な語り口の内部での必然性である。しかしこの比喩的な観点によって現 実がからめ取られているときには、それは現実そのものの必然性となる。

人が生きている秩序の世界を<自然>と<約束事>のいずれかに振り分けてし まえると考えることは、われわれ自身が生きている秩序のさまざまな領域に目 を向けてみるだけで、すでにあまりにも単純すぎる見方である。疑いようのな い<自然>の秩序と、あからさまに人為的な<規約>にもとづいた秩序という 両極の間に、自然にも合意の産物にも帰すことのできない秩序、我々があたか も<第二の自然>であるかのように根拠を問うことなく受け入れている秩序の 広大な領域が横たわっている。<比喩的秩序>とでも呼び得るような、それと 自覚されない比喩的な語り口によって構造化された経験領域が属しているのも、 <自然>と<規約>の二項対立--自分たちが生きている秩序をめぐる思惟の上 にぎこちなく、しかし圧倒的な破壊力をもって行使される想像力の構図--によっ てゆがめられたこの空間である。キドゥルマの観念が開いてみせている秩序の 性格を主題化することは、われわれ自身の生の条件ででもあったところのこの 空間を再び思索の対象として取り戻すことでもある。

冒頭で述べたままに、キドゥルマつまり「ドゥルマのやり方」を単に文字どお り<やり方>として、さまざまな実践の正しいきまったやり方として素直に理 解しておいたなら、この二項対立の安易な適用による混乱と付き合わずにすん だのかもしれない。キドゥルマとは、そのやり方でやっていれば万事うまく行 き、それに逆らって間違ったやり方でやったらろくな結果にならない、そうし た<正しいやり方>のことに他ならない。実にわかりやすい話である。正しい やり方が決っている場合、料理の仕方にせよ、書類の書式にせよ、誠意の示し 方にせよ、それからはずれるとろくな結果にならないのは、われわれの社会で も同じことである。重要なのは、そうしたやり方がつねにある秩序--そのやり 方でうまく行くようになっている秩序--を前提としているという事実の方であ る。こうした経路で秩序を主題化していくことは、例の二項対立に再び絡めと られてしまうことを避ける手立てになるだろう。「ドゥルマのやり方」が我々 の目に、単なるレシピやマニュアルなどとどこか極端に違っているように見え るとすれば、それはそれが可視化させる秩序が我々に見せる露骨に<比喩的> な相貌の馴染みのなさのせいである。しかしこの特殊さが、それを構成してい る比喩が単に我々にとってあまりに馴染みのない比喩であるという事実のみに 由来していると気付くことは重要である。おそらく、われわれの秩序のかなり の部分にしても、それを共有していない人にとっては理解困難な比喩的な語り 口によって構成されているのだろう。他の言説空間に属する比喩の馴染みのな さのおかげで、<自然>対<規約>の二項対立の想像力がわれわれに見せなく してしまった部分を主題化すること、それを通じてこの二項対立を無力化する ことが可能になる。そこではわれわれ自身が全体的な秩序について想像する際 の語り口であるこの図式は、邪魔にしかならないことが判明するのであるから。

人類学の具体的な課題がつねにそうであったように、ここでも実際に取り組ま ねばならない作業は、異なる社会空間を流れている語り口を理解するという地 道な作業である。ある語り口がどのような秩序を前提としているか、あるいは どのように経験領域を組織し、そして自らが前提としている秩序を不断に召喚 し可視化しているかを明らかにすることである。その過程で、我々自身がもち いる秩序の可視化の語り口そのものを批判的に対象化することも初めて可能に なる。人類学が提出してきた他者の差異についてのいくつかの誤った対比的語 りも、それにもとづく判断も実践も、必ずしもとりたてて邪悪な政治的意識や 利害の産物だったわけではない。一つ一つをとると罪のない比喩的な語り口の 累積した効果なのである。それらを地道に修正していかねばならない。それを 怠って、政治的倫理的に覚醒したは良いけれど、相変わらず他者を異人に作り 替えてしまう比喩で考え続けることを止めないとすれば、それこそ滑稽な悲劇 である。

註釈

(註1)この論文は一九九七年十月にインターネット上に発表した「キドゥル マと神秘的制裁」 (http://dzua.misc.hit-u.ac.jp/~hamamoto/research/workingpaper/mysticalsanction.html)をもとに当共同研究会で口頭発表したものである。

(註2)おそらく禁止規則をわざわざ「禁忌」や「タブー」と呼ぶ言い換えの なかにも<法>の比喩の適用におけるギャップを埋める同様な操作がみてとれ るだろう。

(註3)例えばスピノザはこうした見方を道徳的な禁止に拡張していた。「お 前はこの木の実を食べてはいけない」。アダムは無知のせいでこの言葉を禁止 命令として受けとる。無知なアダムは「神はただ単にその木の実を摂取すれば どういう結果になるかを彼に啓示しているに過ぎないのに、神が道徳的になに かを禁じているものと思い込んで」しまったのだとスピノザは考える[ドゥルー ズ 一九九四]。われわれの「法」と「制裁」の比喩による理解も、アダムの思 い込みと共通する部分をもつ。ドゥルマの語りはある意味で、こうした思い込 みから自由である。

(註4)自然科学とは言うまでもなく、こうした無数の経験的命題の召喚の中 に立ち現れて来る当の「秩序」そのものを一つの体系として記述しようとして いるものである。

(註5)「死を投げ棄てる方法」についての浜本の考察[浜本 一九八九]は、 構成的規則の比喩によって、さまざまな儀礼的規則を理解しようとする最初の 試みである。そこではいかに秩序の自明性が構築されるかが焦点になっている。

(註6)この例は、ブルデューが引用するジッフのフレーズ[Ziff 1960:38]を 少し変形したものである[Bourdieu 1977:29]。ただブルデューもジッフもとも に、この二つの区別が重要だとしているのであって、この譬えにもとづいて、 自然/規約の二分法の想像力から離脱することを意図していない。

(註7)アダムやイブが登場する点で、ドゥルマの起源に関する伝承のなかで は特異な話である。しかしその点を除くと基本的構造は共通している。浜本ま り子[浜本まり子 一九九一]参照。我々が知っている聖書の記述との対応が明 らかになるように「イブ」としたが、実際の語りでは、スワヒリ語訳聖書での イブの名前である「ハワ Hawa」が用いられている。また「血」を意味する damuもドゥルマ語ではなくスワヒリ語である。

(註8)同様な語りは最初に、隣接するギリアマを調査していた慶田勝彦氏か ら彼らの酒の席での冗談話として一九八七年に聞かせていただいた。その後私 自身も同じような話をドゥルマの人々の口からくり返し聞かされることになっ た。同じ儀礼的性交の慣行をもつ隔たった二つの地域で同じ語りが流布してい るという事実は、それが単に冗談好きの個々人の気の利いた創意の産物ではな いことをあきらかに示している。

(註9)大部分の「ドゥルマのやり方」については、そもそもその起源が語ら れることすらない。問うても、せいぜい我々の祖先が「置いた」のだという答 が返って来るだけである。起源がどうであれ「世界はそのようにできているの だ」というわけである。

(註10)比喩的に構築された秩序の具体的な分析としては浜本[浜本 一九九 七]を参照されたい。

参考文献

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ドゥルーズ、G 一九九四『スピノザ--実践の哲学』鈴木雅大訳、平凡社(Deleuze, G., 1981, Spinoza: Philosophie pratique, Paris: Editions de Minuit)

Fabian, J., 1983, Time and the Other: How Anthropology Makes its Object. New York: Columbia University Press

浜本まり子 一九九一「ドゥルマ族の起源伝承」波平恵美子編『伝説が生れるとき』福武書店 pp.59-95

浜本満 一九八八「インセストの修辞学 -- ドゥルマにおけるマブィンガーニ=インセストの論理」『九州人類学会報』第16号、pp. 35-51.

浜本満 一九八九「死を投げ棄てる方法:儀礼における日常性の再構築」田辺繁治編『人類学的認識の冒険』 333-356 同文館

浜本満 一九九七「妻を引き抜く方法--規約的必然としての「呪術」的因果関係」『民族学研究』Vol.62 (3):360-373

Lakoff, G. & M. Johnson, 1980, Metaphors We Live By, Chicago: The University of Chicago Press

松園万亀雄 一九九三「アマサンギアまたは性の共有--グシイにおける姦通と制裁」『性の民族誌』須藤健一・杉島敬志編、人文書院

長島信弘 一九八七『死と病いの民族誌:ケニア・テソ族の災因論』岩波書店

ラドクリフ・ブラウン 一九八一『未開社会における構造と機能』青柳まちこ訳、新泉社(originally Radcliffe-Brown, 1952, Structure and Function in Primitive Society, London: Cohen and West)

Richards, D., 1994, Masks of Difference: Cultural Representations in Literature, Anthropology and Art, Cambridge University Press

Searle, J.R., 1969, Speech Acts, Cambridge: Cambridge University Press.(邦訳 『言語行為』坂本百大・土屋俊訳、勁草書房、一九八六年)

Ziff, P., 1960, Semantic Analysis, New York: Cornell University Press


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