卜占(divination)と解釈 |
象徴が意味作用をなす、と言うことに有効性がありうるだろうか。このように問いかけたのは、ダン・スペルベル(D. Sperber)である[1]。彼によると、「象徴は何かを象徴しているはずだ」という常識には、実は何の根拠もない。そもそも、意味作用(signification)について語りうるには、記号相互間に、直観的に知覚される分析性あるいはパラフレーズの関係が見いだされねばならない。あるいは、コードとして知られる、メッセージと意味解釈との規則的な関係づけが、見いだされねばならない。しかるに、象徴表現にはそのいずれもが欠けている、と言うのである。
この一見人を驚かす問題提起をつうじて、スペルベルが意図していたのは、われわれを、象徴表現をめぐって人々が行う一つの認知行為へと、つれ戻すことであった。象徴表現に特徴的にあらわれる、コードによる「解読」とははっきり異質の、ノイズを情報に変換し不完全な概念的表象に有意性をやりくりする一種の器用仕事(bricolage)としての「解釈行為」がこれである。意味の概念にうったえることは、コード化されたコミュニケーションをはずれたところで働くこの過程を、一種のコード解読になぞらえる危険をおかす。
「何を意味するのか」という的はずれな問いを発することが、象徴表現の研究者に、この認知的過程の本性と特質から目をそむけさせてきたのだ、とスペルベルは非難しているのである。
彼のこの警告は、象徴表現をはなれて、広く解釈行為一般を問題にするときにも、なお有効性をもっているのではないだろうか。もちろん、人類学者が人々の解釈行為に気づいていなかったわけではない。むしろそれは、彼らの中心的なテーマの一つでもあったはずである。しかしその関心はつねに、「何と解釈しているか」という問いに向けられ、そもそもその解釈行為自体が「いかにおこなわれるか」には、ほとんど注意が向けられていなかったといってもよい。
もしこの「いかに」の問いが、とるに足らないものに見えるとすれば、それは次のいずれかを意味する。(一)解釈行為を、単なるコード解読(decoding)という、ほとんど非人称的な過程と同一視している。この場合、器用仕事的な認知過程に対する認識は、そっくりぬけおちてしまう。象徴の「意味」、つまり人々の象徴に対する解釈が問題になる際に人類学者がとってきたのが、この立場である。あるいは、(二)解釈の過程は、あまりにも無限定的であるので、そこに何らかの一般的な特性を見いだすことは不可能である、と考えられている。この場合しばしば、「何と解釈されているのか」という問いは、ある特定の解釈を規定する要因を、認知過程の外に、つまり解釈者の動機や社会的利害といったものに求めようとする傾向に結びつく。ある特定の出来事に対する人々の解釈が問題となる場合に、人類学者の多くが採用した立場がこれである。
このような知的偏向がもっとも大きな困難におちいるのが、まさにスペルベルがあきらかにしたとおり、「何と解釈しているのか」に対する正確な答えが得られない、すなわちこの問いそのものが有効性を失ってしまうときであるのは、言うまでもない[2]。しかしながら、この問いが有効性をもっているところでもなお、「いかに」の問いをなおざりにすることは、同様な困難をひきおこしうる。とりわけ、人々の解釈行為が、ある制度の構成的部分となっているようなところでは、人々の解釈行為の特質から目をそむけることは、その制度そのものの理解に深刻な欠陥をもたらすかもしれない。
本稿では、こういった制度の一つとして、卜占(divination)をとりあげ、この点を論証してみたい。
卜占は「合理的」な精神の持ち主にとってつねに当惑のたねを提供する。人類学が対象とする多くの社会で、人々は、安易には下すことのできない決断にせまられた際に、しばしば卜占にその解決をゆだねる。しかるにその方法たるや、多くの場合、驚くべきものである。定量の毒物を与えられた鶏の生死、地面に投げられた小石、籠の中で振りまぜられた人形たち、こういったものが、答えをあたえるというのだ。これらの出来事が、そこで問われている悩みごとや状況の問題点に、何の内的なつながりも持っていないのは、言うまでもない。あきらかに、毒をほどこされた鶏は、人々が発する質問に応じて、死んだり生きのびたりしているわけではないのである。
すべての卜占が、偶然性のメカニズムを採用しているわけではないが、にもかかわらず、この点では一つの共通点が見られる。卜占に先立って人々がもっている状況理解や、人々が卜占に向かって発する質問と、卜占の結果との間に、論理的なつながりが欠ていること、これである。これを仮に、「恣意性の現象」と名付けておこう。卜占の答えが、精霊憑依のように、偶然性のメカニズムによらずに導き出される「主観的卜占」においても、この種の恣意性がまったく見られないわけではない。少なくともイデオロギーのレベルでは、この種の占師や預言者は、人々の期待には拘束されず、常人にはうかがいしれない独自の源泉から答えを引き出すものと期待されている。もちろん、ディンカ族(the Dinka)の預言者についてリーンハート(G. Lienhardt)が指摘しているように、こういった占師たちの名声は、「クライアントたちが正しい、あるいは的を射ていると認める用意ができているものを、言い当てる幸運によって左右される[3]」。占師の側での、意図的な操作が、こういった方向でみられるかもしれない。しかし反面、人々は彼らの言葉に、何か自分たちが予期していなかったもの、矛盾さえも、を期待している。ブールディロン(M.Bourdillon)がショナ族(the Shona)について報告しているように、「人々が信ずるところによれば、ショナの占師や霊媒は、霊的な力の権威をもって語り、矛盾や排反すらおそれず神託を下す」という[4]。
しかし、この恣意性の現象がもっとも明瞭にあらわれるのが、偶然性のメカニズムを伴う卜占においてであるのは、たしかである。そしてまた、卜占がもっとも不合理性の外観をもってあらわれるのも、この種のものにおいてである。したがって本稿では、偶然性の機構を手続き上用いる卜占に限って論を進めよう。
恣意性の現象と私が呼んだ事態の本質的な「非合理性」については、これまで充分な注意が向けられてこなかったように思われる。もちろん、卜占の「合理性」あるいは「非合理性」の問題は、古くから、人類学者のみならず哲学者までをもまきこんだ関心事ではあった[5]。しかしこの問題が、多くの場合、西洋の「科学的」思惟と、それに対する「神秘的」思惟の対比という、必ずしも適切でない対比にそって提出されてきたため、それら一連の議論は、恣意性の現象を正当に評価するものとはなっていない。卜占は「科学」とある意味では似かよった「認識論体系(epistemological system)」の、一構成要素だ、というわけである[6]。
卜占があきらかに「科学的」な推論の手続きではない以上、その診断や予断には必然的に多くの誤謬がともなう。どのようにして、こういった手続きの信憑性が維持されているのであろうか。これがこの立場の基本的な問いである。例えばエバンズ・プリチャード(E.E. Evans-Prichard)は、ザンデ族(the Azande)の卜占をめぐる推論に、内的に一貫した、閉じた思考体系を見いだした。人々自身気づかずにはおかない、卜占の諸結果のあからさまな内的矛盾や、その事後の経験との矛盾は、種々のやり方で、人々の信仰の内部で正当化されるという。人々の信仰は、卜占の準備においてタブーが破られていた、妖術・邪術の悪意ある力が介入して卜占の結果を誤らせた、卜占において使用される呪薬がその効力を失っていた等々の二次的な理由付けには事欠かない[7]。ジャクソン(M.Jackson)は、卜占の体系が信憑性を維持する種々の方策についての、より完全な一覧表を提出している[8]。さらに決定的な点がある。卜占における人々の因果論的推論は、つねにア・ポステリオーリなものであり、経験による反駁を受け付けないのである[9]。
ウィンチ(P. Winch)はヴィトゲンシュタイン(L. Wittgenstein)に依拠しつつ、エヴァンズ・プリチャードの議論をさらに一歩進める。つまりここでは、われわれのものとは異なる合理性の基準が存在するのだ、と。異なる基準の合理性に基づいた慣行に、われわれの合理性の基準をあてはめることは、あやまりであると彼は主張する[10]。われわれは、卜占の合理性を、それが何であれ、ほとんど信じかかっている。
しかし、一つの些細な問題が見落とされている。推論の流れが、ある決定的な時点でランダムに方向付けられるような推論は、いかなる基準の「合理性」をもっても、そもそも合理性の概念そのものと自己撞着する概念だ、という事実である。卜占は、その信仰内容において非合理的であるとか、非論理的であるとかいうよりは、むしろ、それが援用する偶然性のメカニズムと、それによってもたらされる、一つの前提に任意の異なる結論がまったく恣意的に結びつくという事実のゆえに、あらゆる種類の合理性や論理性と、相いれないものとなっているのである。
恣意性の現象には、しばしばはっきり実践的な含意がともなう。多くの社会において、卜占はけっしてなぐさみに行われる慣行ではない。妖術者告発において、時に見られるように、それは、共同体の一成員の殺害、追放、共同体の分裂といった深刻な事態にむすびつく。こうした実践的決定が、結局のところ偶然性のメカニズムに依拠しているとすれば、これは大きな問題である。卜占に対する人類学者の説明が、この点をまったく考慮していないとは、考えられないであろう。人類学の既存のアプローチが、この問題にどのように向かい、あるいは傍らへ押しやってきたかを、簡単に見ておきたい。
まず第一に、卜占がもつ心理学的機能に強調をおいた、「心理学的」と名付けうる一連のアプローチがある。卜占が実践においてもちうる深刻な含意は、しばしば副次的なものとしてあつかわれる。ビーティー(J. Beattie)は述べている。
すべての呪術同様、卜占も一つの儀礼である。..... それに伴う儀礼的なパーフォーマンスをつうじて、人は自分の確信のなさや疑惑、怖れに、大っぴらな表現を与える。そしてこのことは、少なくともある程度まで、それ自体、卜占の一つの目的である[11]。
タンナー(A. Tanner)もこの見解に同意する。それによると、山岳ナスカピ族のあいだでは、卜占は儀礼の一部としてとりおこなわれ、第一義的には、意思決定のメカニズムですらないというのである[12]。こうした見解に立つ限り、卜占の手続きに含まれる偶然性のメカニズムには、別段何の意味もないことになろう[13]。
これに対し、意思決定の文脈においても、やはり卜占の心理学的機能の方が、それが「何を」決定するかよりもはるかに重要だとする者もいる。ジャクソンによると、占師のもとにおもむくものは、困惑し、混乱し、明確な決断を下せずにいる。いいかえれば、「彼らはすべて、周辺的な、あるいは『境界上の(liminal)』状況、時間的にか空間的にか『どちらつかずの』状態にある[14]」。こうした人々にとっては、その活動がなんであれ、ともかく、彼らの存在にとって致命的なこの身動きのとれない状態から抜け出し、何らかの活動へと移ってゆくことが重要である。ジャクソンによると、「占師の分析は、この不確定性を一種の条件付きの確定性に変換し、彼の適切な供犠に対する指示は、相談に来た者が、惰性(inertia)から合目的的な実践(praxis)へと移ることを、ともかくも可能にする」[15]というのである。
パーク(G.K. Park)も、卜占の機能が、困難な状況からくる確信のなさと不決断を取り除き、さらには、その決定を日常性を超えた超自然的な存在に帰すことによって、決断に対する責任からも人を解放する、といった点にあるとする同様な見解を表明している[16]。
この種の議論に含まれる明証性は、一つには、それが想起させる状況がわれわれにとってもなじみ深いものだという事実によっているように思われる。決めがたい二者択一にせまられて、一枚のコインの表裏にすべてを托する誘惑に捕えられたことのない者がいるだろうか。一見したところ、これは卜占の偶然性のメカニズムを説明してくれるかのようにもみえる。しかしそれは誤りである。この場合、われわれはたんにギャンブルをしているのである。そして、卜占を厳粛に営んでいる人々の多くが、われわれと同様にギャンブルをしているのだと考えてよい根拠はどこにもない。同じ偶然性の手続きを採用しているとはいえ、その精神は少なくとも、偶然性をはっきり意識した上でその偶然にすべてを委ねるという、われわれのものとは異なっているであろう。むしろ人々は、重要なことがらにおいて危険な賭けを避けるためにこそ卜占に向かうのである。
一般に、心理学的な説明は、決断が要求される状況下での、個人の不安や負担の解除という卜占の機能に注目する。しかしそれは、卜占を特徴づける恣意性の現象、あるいは偶然性のメカニズムが多用されているという事実を説明されないままに残す。この点は、パークの言うように、問題となる決定が「単に下しがたいだけでなく、集団の誰にとっても大きな関心事である」とすると、なおさら深刻であろう。
次に検討する一連のアプローチは、社会的に重要な決定の過程にかかわる、卜占の側面に関心をもつもので、「社会学的」と呼ぶにふさわしいものである。このアプローチは、卜占を一つ一つの孤立した現象としてではなく、進行中の社会過程の重要な一部ととらえ、そういった過程や社会的コンテキストとの関連において、それを分析するという点に特徴をもつ。卜占の神託は、それがなされたじょうきょうに照らして、最も適切なとはいわないまでも、高度に関与的(relevant)な内容をもつものとして分析される。私が恣意性の現象と呼んだ問題は、ここでもっとも先鋭にあらわれる。いったいいかにしてランダム事象が社会的、状況的に関与的な答えとなりうるというのだろう。社会学的説明は、卜占から偶然性のメカニズムの産物自体がもつ意義を取り去る、という方向でこれを解決しようとする。つまり、決断は実は、卜占が用いる特定のメカニズムにはよらず、すでになされているか、もしくは占師が介入するような場合、別の源泉にもとづいてなされるのだというわけである。ジュール-ロセット(B. Jule-Rosette)がいみじくも述べているように、「説明は占師の籠の中にはなく、社会の中にある」[17]。
占師の籠を無視する努力は、しばしば極端な形をとる。そもそも恣意性の現象などはなかった、卜占は意のままに操作でき、そこには偶然の入りこむ余地はほとんどないというのである。ピーター(E.L. Peter)によると、「決裁を下すのは卜占ではなく、それを用いる人々である」[18]。彼は、ザンデ族の資料を再分析し、そこで行われているすべてのタイプの卜占が、操作(manipulation)されうるものであり、また事実、望ましい結果が引き出されるように操作されている、と主張する。
例えば、ザンデ族で最も重要な卜占は、毒物を含んだベンゲ(benge)と呼ばれる呪薬を鶏にあたえ、その生死により占うというものである。人々は、イエスまたはノーで答えられる質問を発し、もし鶏が生きのびれば、それはノーの答えを、死ねばイエスの答えをあらわすと判断される。専門の占師はいらない。
ピーターによると、この卜占は次の三つの理由で、望ましい答えを出すよう操作できるという。(一)ザンデ族はベンゲをたんなる毒とは考えておらず、鶏にほどこされる量については、まったく無関心である。卜占の操作者は、それゆえ、与えるベンゲの量を自由に変えることができる。(二)鶏の生死の判定以外に、鶏が示す反応も解釈の対象となる。(三)卜占に向かって発せられる質問も、望ましい方向に卜占が進行してゆくように、工夫が施される。いいかえれば、意識してかしないでか、卜占の操作者は一種の詐欺を行っていることになる。
ピーターは、ザンデ族の卜占の体系を、ある特定の隣人を告発するに際して、どの程度共同体の他の成員の支持がえられるかを確認し、また同時にその告発に公正さを与える制度化された手段であると分析するが、このような結論を導くにあたって、卜占の操作可能性を仮定せざるをえなかったのである。しかし、この結論の正否はともかく、その前提にはあまり根拠がない。第一に、卜占の結果は事実ランダムである。エバンズ・プリチャード自身の調査によると、49例のうち22例においては鶏は死に、残り27例で生きのびている[19]。第2に、卜占の操作者には、ふつう12歳〜16歳の少年がえらばれるが、彼らは大人の世界の問題にはまだ関心を示さない年頃である。彼らには毒の量をあえていつわる動機がないのである[20]。そして最後に、いかにうまく質問の形を操作しようとも、答えをコントロールできなければ、望みどおりの結果がえられないのは明らかである。やはりそこに、恣意性の現象はあったのである。
一方、卜占が社会学的にみれば、一種の正当化の機能をはたしているという事実じたいは、否定しがたい。
卜占がプロブレマティカルな社会状況と結びついていることの最良の説明は、結局のところ、卜占がそれに訴える人々のひきつづいての行為に、一種の特異ではあるが効果的な、正当化をあたえるという事実である[21]。
これをさらにすすめて、人々は実は、意図している行為の正当化を求めて卜占を諮問しているのだとは言えないだろうか。実際、この想定に支持をあたえるかにみえる例も報告されている。ヤオ族(the Yao)のあいだでは、相談者の気に入らない神託は疑いの目でみられ、人々は納得のゆく結果がえられるまで、別の占師のもとへおもむいてゆくという[22]。同様に、ルグバラ族(the Lugbara)のあいだでも、対立する党派が、各々異なる占師を訪れ、各々の利害にとって好都合な採決をひきだそうとする[23]。
こういった社会では、占師の裁決が人々の意見によって凌駕されることも珍しくないばかりか、占師自身、適切な診断や予断を下すためには、人々の意見や願望、人々のあいだに見られる葛藤や対立を敏感にキャッチし、自分がもっている社会関係についての知識を充分に利用しなければならない。言いかえれば、占師自身、自分の「籠」だけに頼っているわけには行かないのである。こういった占師の活動に注目することによって、ザンデ族でピーターが試みて果たせなかった恣意性の問題の処理が可能であるかもしれない。
ターナー(V. Turner)がおこなったンデムブ族(the Ndembu)の卜占の分析が、最良の例を提供する。彼らのあいだで最も信頼のおかれる卜占は、蓋つきの籠と、ツポニャ(tuponya)と呼ばれる20個あまりの呪物を用いるものである。各々のツポニャは、ンデムブ社会における諸々の社会的カテゴリー、活動、習慣、感情などに対応する多様な意味をもっている。まさに占師の籠は「人々の社会秩序や諸制度の縮図である」[24]。占師は籠をはげしく振り動かし、その都度、どのツポニャが他のどのツポニャとともに、上の方にあらわれるかを調べる。占師はそこから得た知見をすぐには人々に伝えず、まず人々に向かっていくつか、イエスまたはノーで答えられる質問を発したのちに、彼の知見を披露するという。卜占は、この繰り返しで進行してゆき、最後には妖術者や邪術者の名と彼らの敵意の性質までが明らかにされてゆく。
しかし、ターナーによると、各々のツポニャはきわめて多義的で、また単独ではなく、他のツポニャとの組合わせが問題であるため、占師は、「自分が下そうとする診断にふさわしい、詳細な解釈を、自由にそれらに加えることができる」[25]という。占師の籠の結果は、診断を方向づけるというよりは、むしろ診断によって方向づけられるのだ。したがって診断を方向づける上で、実際に重要なものは、むしろ占師が人々に向かって発する一連の問答である。
事実、占師が卜占の初期に「解明」してみせる事がらのいくつか --例えば死者の名前など-- は、ちょうど「20の扉」の遊びにおけるように、イエスまたはノーで答えがかえってくる一連の問いのみから導き出せる類いのものである[26]。卜占がヤマ場にさしかかるにつれ、占師のこの技倆が、ますます発揮される。彼の発言や問いに対する人々の反応から、彼は人々のあいだの緊張関係や葛藤をさぐりあてる。彼がすでに持っている知識も援用される。かれは、また経験から、自分たちの社会を少数の基本原理や要素に還元することを学んでいる。占師は、これらすべてをたくみに操作しつつ「その場にいあわせた大多数の人々の見解と調和した決定にたどりつく」[27]のである。
言いかえれば、「卜占は一種の社会分析であり」、このマジシャン(呪術師)は、実はロジシャン(論理家)だったのだ[28]。
このターナーの見解は、おそらく、今日もっとも広く受け入れられている、卜占の説明であろう。ミドルトン(J. Middleton)も、ルグバラ族について、卜占の結論が、人々が占師にあたえる示唆によって大きく決定されていると論じている[29]。またワーブナー(R.P. Werbner)も、カランガ族(the Kalanga)の占師が、卜占の機械的な結果から、いかに彼が意図する結論を引き出してゆくかを鮮やかに分析している[30]。
こういった見解は、たしかに傾聴に値する。ただし次の一点を除いては。もし占師の仕事が、公衆の意見を感じとり、効果的な合意を打ちたて、あるいは人々のあいだで感じられている願望を再確認するということであれば、なぜ彼は、一握りの小石を投げたり、呪物を籠の中で揺り動かしたりするかわりに、より直接的に、つまり人々との議論や会話を通じて、それを行わないのだろうか。卜占の手続きがその決定を方向づけるのではなく、むしろ卜占の手続きを、別の源泉から形成される決定によって、逆に解釈してやらねばならないとすれば、占師はなぜわざわざそういった苦労を、本来の仕事に付け加える必要があるのだろう。要するに、こういった社会学的説明は、卜占を特徴づける手続きそのものを、いわば「余分な」ものにしてしまうのである。また、この種の説明においては「自由な解釈」という観念が、あまりにも「自由に」用いられすぎていることにも気づかざるをえない。言いかえれば、解釈は、卜占の偶然性のメカニズムが生み出すランダムな結果を、帳消しにし望ましい診断に結び付ける必要からのみ要請されている、「残余のカテゴリー(residual category)」にすぎないのである。
社会学的アプローチがこれまでのところ、卜占に関するもっとも満足のゆく説明であることは否定できない。たしかに説明は、占師の籠の中によりは社会の中にある。しかし反面、この説明は、占師の籠がまさに卜占を卜占たらしめる最大の特徴であるという事実を説明されないままに残すのである。
卜占の場で行われる決定の「真の」源泉を、それとは全く別のところに求めるかわりに、いったん占師や人々がすすんで認める事実から出発しなおすのはどうであろう。占師は、人々に対する問答を、無からではなくまず卜占の手続きが生み出す結果からはじめるのであり、また人々も卜占のこのメカニズムが、実際に答えを提供してくれているとの前提にたっているのである。そしてその手続きが偶然性のメカニズムを含んでいる以上、答えは現実に恣意的である。これを認めるところからはじめよう。
答えが自由に解釈されるという観念は、たしかにある程度正しいが、偶然性が生み出す任意の結果を、人々が期待しているすでに予定された結論につねに結び付けることができるほど自由な解釈に、私は出会ったためしがない。さらに、人々は卜占の結果がしばしば予期せぬものであることを予期してさえいるとみられるふしがある。占師についても同様で、ンデムブ族の占師が卜占に際して自らに施す呪薬の一つについて語っていることは、これをはっきり示している。
占師はこれ(nsomu と呼ばれる呪薬)を、自分たちがうらなっているときに予期せずとび出してくる秘められたものを見るのに用いる。ちょうど狩人が狩をしているとき、偶然動物に出くわすことを期待するようなものである[31]。
もし占師の仕事が、前節で見たターナーらの論じる通りのものであるなら、予期に反する結果は、このように待ち望まれるべきものではなく、単に占師に「解釈」という余分な重労働、あるいは危うい綱渡りを強いる、むしろ厭わしいものであるはずである。卜占のこうした予期せぬ結果、偶然性のメカニズムの気まぐれな産物が卜占にとって何であったのかと問うてみる必要がある。
ターナーらが用いる意味での「自由な解釈」がもっとも制限される例を用いて、この問題を考えてみよう。それはザンデ族のあいだでみられる毒の卜占である。すでに触れたように、それはきわめて単純でまた機械的な性格をもっている。ザンデ族は他にも何種類かの卜占を行うが、いずれもイエスまたはノーで答えが出るという基本的な構造においては同じである。要点を繰り返すと、毒の卜占の場合、毒を含んだベンゲという呪薬が鶏にあたえられ、人々はそれに向かって質問をおこなう。鶏が死ねばそれはイエスの答えととられ、生き延びればノーである。あきらかにここでは、ンデムブ族の卜占について指摘されているような、シンボルの多義性に基礎をおく解釈の余地はほとんどない。
毒の卜占は、ふつう、人目をさけた叢林の中で気心の知れた人々だけを集めておこなわれる。卜占諮問は、ベンゲに向かってなされる長々とした前口上から始まる。
質問者は卜占に対して五分以上も流れるように語りかける。質問者の第一の義務は、卜占が自分に向けられた質問を充分理解し、また解決を求められている問題に関するすべての事実に精通するようとりはからうことである。質問者は君侯の前での裁判でみられると同様の、細部に払われた細心の注意をもって語りかける。つまり、かなり以前までさかのぼり、長期間にわたって、問題をはっきりさせてくれるあらゆる些細な事実まで指摘し、それら諸事実を結びつけて、出来事の一貫した記述にまとめあげ、そして、ザンデ人が得意とすることであるが、出来事の継起と事実と推論を網の目のようにはりめぐらし、論理的かつ緊密に練り上げた議論を展開するのである。もし誰かが、ぬけおちている点に気づけば、彼は質問者の語りを中断させ、質問者は、その点を語りに盛り込んでいく[32]。
ここで示されるのは、人々が卜占に先立ってもっている一種の状況理解である。ンデムブ族の占師が人々の反応を手懸かりに苦心して作り上げてゆくだろう「社会分析」が、ザンデ族のあいだでは、人々自身によって大っぴらに展開されてゆく。状況の関与的な特徴はすべて注意深く吟味され、一貫した「状況分析」へとまとめられてゆく。人々のあいだに、一種のコンセンサスさえ成立しつつある。卜占のなすべき仕事は、もはやなにもないように思える。しかし、もちろん卜占の「本番」はこれからである。
質問は二つの反対の角度から発せられる。エバンズ・プリチャードが記録した次の例は典型である。
毒の卜占よ。あの女は、私は彼女と結婚しようと思うのだが、彼女は私の妻だろうか。私たちはともに家庭をつくっていくだろうか。ともに歳を重ねていくだろうか。毒の卜占よ、聞け、鶏を殺せ。そうでなく、私の場合は腫れ物をつつくようなうんざりする生活になるだろうか --人は腫れ物をつついていて何も食うことができないというが-- あの女とのことはそんなものだろうか。私は彼女なしにすまさねばならず、彼女と結婚すべきでない。そうなら、毒の卜占よ、聞け。鶏を生きながらえさせよ。[33]
ここには何の曖昧性も入りこむ余地はない。卜占があたえる解答についても同様である。ただ一つ卜占がどう答えるかが偶然にゆだねられていることだけが問題なのだ。
このことがまず第一に何を意味するかは、容易にみてとれる。ザンデ族は、自分では決断の下しようのない事柄のみならず、あらゆる重要な決定に際して卜占を諮問する。当然その多くについては、卜占に先立つ詳細な状況分析からもうかがわれるように、人々は答えに関する何らかの期待をすでに持っていることもあろう。卜占の答えは、こうした期待を平然と裏切るかもしれない。さらに、特に重要な問題に関しては、卜占の結果は必ず再確認されねばならない。この確認の卜占も、同じメカニズムにもとづいている以上、二つの結果は容易に矛盾しうる。エバンズ・プリチャードが記録した七例の確認の卜占のうち、三例までもが矛盾を示している[34]。また、これはごく通例であるが、一つの問題をめぐっていくつもの関連した質問がなされる場合、卜占の答え相互のあいだに、一見した矛盾があらわれる確率はさらに高くなる。要するに、偶然性のメカニズムが引き起こすのは、卜占の回答の人々の状況理解との、あるいは同じ卜占の他の答えとの、あからさまな矛盾という現象である。同様な手続きが用いられている限り、この現象は例外的であるどころか、通常のことと考えられるべきであろう。むしろこの現象こそ、卜占の特徴そのものだと考えた方がよいのではないか、と思えるほどである。
人々がこれに対してどのように反応するかは良く知られている。つまりそれを「説明」しようとするのである。問題は、その「説明」がもつ性格である。最初に次の例を考えよう。バミナという男が遠方へ移転することを考えており、卜占に、移転先に死が待っているかどうかを問うた。卜占は、ノーの答えを出したのだが、それを確認するための卜占が、これとは矛盾した答えを出したというのである。
(この二つの質問に対する)答えは、それゆえ矛盾していた。ある者は、卜占は、法廷で長時間事件に耳をかたむけてすわっているのにうんざりした首長と同様、つかれているのだと示唆した。別の男は、卜占が前途に何か不幸を見たのだといった。その不幸は死そのものではないが、やはり深刻なものである。だからこんな形でバミナに警告を与えたのだと。ともかくも、二つの答えは不吉なしるしと考えられ、誰がバミナを脅かしているのか、をめぐって議論がおこった。ムビラは、彼の意見として、危険はおそらく邪術からで妖術からではなかろうと述べた。妖術なら、人が自分の家を去り移転した後まで、人を困らせたりしないものだ、というのだ。[35]
これは、どちらかというとつまらぬ例であるが、文字どおりには意味をなさない卜占の答えにも、何らかの意味を人々が見いだそうとしている、という点は確認できよう。
この「説明」は、人々が自らの卜占信仰を維持するために工夫する「二次的な理由付け」と混同されるべきではない。卜占の一つ一つの答えは、当の卜占に従事している人々にとっては、卜占体系の正しさを証明するものでも、反証するものでもない。人々はそういった関心の埒外にいる。言いかえれば、人は卜占の正しさを、ア・プリオリに確信しているから卜占におもむくのであり、それを確信するためにではない。科学者が自説の正しさを検証すべく実験をおこなうのとは全く事情が異なっているのである。人々が矛盾した回答の意味を求めようとするのは、卜占の文字どおりには矛盾している答えも、やはりひとつの理由ある回答だと、彼らが受けとめているからなのであって、けっして、その矛盾を帳消しにして卜占の体系を救おうなどと考えてのことではないのである。では、矛盾はいかにして意味を取り戻すのであろうか。
それは、コンテクストを作り変えることによってである。ある質問に対する答えが意味をなしたりなさなかったりするためには、それが純粋な分析命題に関するものでない限り、その質問と答えの対は、状況に関する一群の前提(presuppositions)からなるある特定の意味のコンテクストのもとにおかれていなければならない、という事実はしばしば指摘されている[36]。通常このコンテクスト自体が、反省の対象として意識にのぼることはまずない。解釈学で用いる言い方にならえば[37]、理解の先構造としての状況帰属に対応するものである。しかし、卜占の回答の矛盾は、このコンテクスト自体を疑いにさらすのである。人々にとっては、卜占の答えはア・プリオリに意味をなさねばならないものである。しかるにそれは今、意味をなしていない。バミナの例で言えば、一回目の回答の理解を許した同じコンテクストが、二回目の回答の理解を許さないのである。したがって、それは作り変えられねばならない。かくして人々は、状況の未開拓の特徴を探り出し、さらには状況理解の枠組みそのものの変更すら余儀なくされるのである。
ミドルトンが報告するルグバラ族の事例はこういったプロセスをよく示してくれる[38]。ここで用いられる卜占も、ザンデ族と同様、イエス・ノー型である。
ある男の妻が重病にかかった。人々は卜占を諮問したが、人々の会話は主として、この男と妻の親族とのあいだにあった婚資の支払いをめぐる紛争に集中した。果たして卜占は、この女性の死んだ父親の怒りを、この女性の病気の原因と診断した。この男の目をさまさせるために、その妻を病気にしたというのだ。人々はこの結果に納得した。しかし、ひきつづく確認の卜占はすべてこの結果とは矛盾するものであった。こうして、後日、再度この問題が卜占にかけられた。今回は、義理の親族間の紛争に加えて、一回目では話題にされなかったこの女性自身の振る舞いが議論された。この女性は共同体の他の人々とおりあいがよくなかったというのだ。これに託して暗に言及されたのは、この女性の夫の、リニージ分派をはかる野心であった。やがて一人の長老が、この女性がリニージの社のある森の木を勝手にとったという事件を思い出す。卜占の結果は、長老による祖霊の呼び出しを病気の原因として示し、これは確認された。
二つの卜占のあいだで、人々の状況理解が大きく変容しているのがわかる。結果としては、ミドルトンも言うように、共同体内部の、より隠微な対立が明るみに出されたわけであるが、この変化が、卜占の回答が矛盾していたという事実のみによってもたらされたものであることに注意したい。卜占の結果が示す矛盾は、その回答の不備をではなく、返って人々の理解の不完全さを示すものと受けとられ、人々は卜占の答えが意味をなすように、理解そのものを作り変えようとするのである。
卜占の結果が、人々がすでにもっている状況理解と明白に矛盾する場合も、しばしば、これによって変容を加えられるのは後者のほうである。ハーウッド(A. Harwood)が報告するサフワ族(the Safwa)の事例がこれを示す[40]。
二人の男、ハバヤとムペンザが婚資をめぐって紛争におちいってまもなく、ムペンザの息子に突然の死がおとずれた。人々は、この死がハバヤの邪術によるものと噂した。この共同体ではすでにたてつづけに六人もの人間が死んでいたため、事態をより深刻に感じた長老たちの勧めで、高名な占師チカンガにうかがいをたてることになった。しかしチカンガは意外にも、ムペンザに責任があるとしたのである。これは人々には受け入れがたい結果であった。「なぜ、ムペンザは、子供を生んで、それから殺すといったことをしたりしようか」と人々は論じあった。しばらくの後、別の占師が諮問された。それによると、ムペンザがハバヤに対してかけた邪術が、ハバヤのより強力な邪術のために逆転して、ムペンザの息子を殺してしまった、というのだ。かくしてチカンガの卜占の結果には新しい意味が見いだされた。やはり結局は、ムペンザが用意した呪薬のせいで彼の息子は死んだのである。人々の予期に全く反した卜占の結果ですら、たんに却下されることはなく、人々の状況理解と調停されねばならなかった。
卜占の恣意性には、不可避的に一つの効果が伴うと言えそうである。それは、まず理解困難な矛盾として人々に受けとられるが、そのことによって疑いにさらされるのは、人々の理解を暗黙に支える意味のコンテクストの方である。人々が、その理解をつうじて試論的にとりこみつつあった状況は、再び可能性の場にさしもどされる。言いかえれば、卜占の恣意性は、既存の状況理解がもたらした一時的な閉鎖をやぶり、人々の目を、状況の本来の姿である、開いた地平の構造[41]へと向けさせるのである。
ここで言及しておきたいのは、今から十年あまり前になされたガーフィンケル(H. Garfinkel)とマクヒュー(P. McHugh)によるエスノメソドロジーの実験である[42]。被験者である学生たちには新種の精神療法の実験であると伝えられていたこの実験は、実は、いったいいかなる条件のもとで、出来事の有意味性が維持され、あるいは失われるかを調べることを目的としていた。学生の一人ひとりは、隣室にいてその顔を見ることができない「精神科医」に、自分の悩みごとを相談するよう促される。学生は、まず自分がかかえている問題を詳しく述べたのち、隣室の「精神科医」に対し、インターフォンをつうじて、イエスまたはノーで答えられる質問を十回おこなうことが許される。「精神科医」はこれに対し、イエスとノー以外には一言も発さない。一回質問をして回答をえるたびに、被験者は、その回答について思ったことを相手に告げ、その後に次の質問を発することができる。二人のやりとりは、秘かに、テープに記録された。
ところで、この実験において、実際に隣室にいたのは、精神科医ではなく、一枚の乱数表であった。答えは、どのような質問がされたかには一切かかわりなく、乱数表にしたがってあたえられていたのである。答えに含まれるイエスとノーの割合は、被験者ごとに、50パーセントの分布から、すべてイエス、またはすべてノーにいたるまで操作された。
この実験の驚くべき結果は、かえってくる答えがすべてノーまたはイエスだけであった場合を除いて、ほとんどの場合、被験者は答えが自分の質問とは無関係にランダムに出されているという事実に気づかず、最後まで、自分が「精神科医」と真摯なやりとりをしていると信じていたということである。もちろんこの実験の過程で、被験者は予想だにしなかった回答を何度となく受けとる。回答が相互に、一見矛盾している場合も当然おこる。しかし、これらは、けっしてすべてをぶち壊しにはしなかった。むしろ、こういった場面で被験者の示した反応は、ほぼ次のようなものであった。(一)回答の矛盾に当惑しつつも、それを不当なものとはとらず、かえって自らに意味のつながりを見いだす責任があるという態度、(二)すでに終わった質問と回答の意味を再考する試み、(三)啓示、あるいは新事実の導入などによる新しい意味(テーマ)の発見、(四)増殖、つまり発見された新しい意味を支える一連の諸事実の召喚、(五)回答の正当性の確認。こういった手順をふんで、矛盾した回答に有意性をやりくりしていったというのである。と同時に、それは被験者が当初もっていた問題理解そのものを、大きく作りかえてゆくことにもなっていた。
それは、被験者にとって当初はたんに漠然としたアウトラインにすぎなかったものの、より正確で決然とした定式化である。初期の可能性のあるものは排除され、またあるものはとぎすまされている。[43]
かくして、われわれにとっては一見納得しがたいことであるが、実験のあとでほとんどの被験者は「精神科医」との対話によりおおいに得るものがあったと述べているという。「ほんとうに役に立ったと思います。精神科医はやはりたいしたものです...[44]」。
それゆえ、と言うつもりは毛頭ない。比較を行うには、例えばザンデ族の卜占とこの実験とでは、それがおかれている文化的・社会的背景にちがいがありすぎる。類似は主として形式的な点にある。ザンデ族の卜占が質問に対して、ランダムにイエス・ノーで答えるのと同じことを、「精神科医」も学生たちに対して行った。その際、ザンデ族も学生たちも解釈の同じ様式に訴えたのである。
これはわれわれが「合理的」と考える決定作成の過程からは排除される、あるいはそうすべきである、と考えられている推論の形式をもちこんでいる。サイモン(H.Simon)によると、合理的な意思決定は、状況に関する所与のモデルから出発する。所与として受けとられた一群の事実命題と価値命題から論理的に構成可能な範囲で、人々は一貫した選択原理を行使しつつ決定に到達するわけである。人々は無限の情報、状況の無数の特徴、限りない不確定性を相手にしているわけにはいかないからである[45]。つまり状況の地平は閉ざされねばならないのである。
一方、卜占や前述の実験においては、この状況にもたらされた一時的な閉鎖はたえず開かれる。卜占や「精神科医」があたえるその都度の一見矛盾した結論に有意性を工面するために、かえって前提や所与のモデルが、何のことわりもなしに、変更を加えられてゆくのである。しかし、エスノメソドロジーの実験が示しているように、このように非論理的・非合理的に導かれていった意思決定が、合理的な推論に支えられたそれに比べて、一概に劣っているとはいえない。合理的決定が基づく、硬直したモデルに比して、それは、はるかに豊かな状況理解を生み出すこともありうるのである。
冒頭で提起した問題にかえろう。第四節でとりあげた卜占への社会学的アプローチは、いずれも卜占の結果が社会的なプロセスの中で、場ちがいではない意味をもっているという事実に注目した点で、「卜占の結果を、人々が何と解釈しているか」という問いにかかわっていたといえる。卜占が人々の利害にそって文字どおり操作されるという見解は、解釈行為を一種のコード解読になぞらえるという誤りにもとづいている。解釈がそのような解読に尽きる以上、卜占は操作によって、ランダムであることをやめない限り、社会的状況的な関与性をもちうるわけもないからである。一方、ターナーらの見解は、これとは逆に、解釈行為をあまりにも御都合主義的な無制約的なものとする誤謬を犯している。このため、かえって、卜占の手続き自体を、その最終的な決定にとっては「余計なもの」としてしまった。実際には、卜占の場において卜占の結果と人々の状況理解を同時にまきこんで展開する、解釈のプロセス自体の特徴に注目する必要があったのである。この時初めて、卜占に含まれる偶然性のメカニズム、あるいはより一般的に、その恣意性の現象こそが、卜占という制度の本質的な要素であることが理解できる。
ここで見られる解釈行為は、スペルベルが象徴表現によって発動するとした認知メカニズム、レヴィ=ストロース(C. Levi-Strauss)が器用仕事(bricolage)と呼んだものと、まさしく一致した性格をもつ。それは、一見ばらばらで、互いに矛盾した諸要素のあいだに有意性をうちたてようとして、その他の要素までもをまきこんで、世界全体を再編成してしまうという、われわれ人間精神に特有の奇妙なメカニズムである。イロニーやパラドクスを前に発動するのが、またこれである。こういったレトリックがもつ力は、「それが何と解釈されるか」にあるのではなく、まさにわれわれをそういった解釈にいざなう点にこそある。イロニーやパラドクスは、われわれにとって見なれた世界のみせかけの完備性を切りさき、その再編成へとわれわれを導く、われわれにとって世界を考えなおさせるものである。そして卜占も、それ独特のやり方で同じことを行ってきたのだ。
卜占のもつこの性格をみごとに見逃してきた点で、われわれは近代以降、われわれ自身がおちいってしまった一つの幻想を「未開社会」に投影していたのではないだろうか。パラドクスやコントラディクションをもてあそぶ卜占の精神は、「科学的」なモデルと論理的推論のみを意思決定に認めたがるわれわれの精神の対極をなす。卜占を非合理的なものとして拒絶するのを躊躇したとき、人はあまりにも安易に、おそらくはその合理化を急ぐあまり、卜占のなかに、卜占が実際にはそうでないものを、見ようとしてしまったのではないだろうか。卜占は、たんなるギャンブルでもなければ、また本質的には合理的な意思決定に、たんに添えられただけの飾り、現地のロジシャンのたんなる偽装でもない。それは矛盾を人々につきつけることによって、人々の状況をみる目に反省を強いる、社会・状況認識のきわめて特異な一つの手法なのである。
(1) Sperber, D., 1975, Rethinking Symbolism. Cambridge:Cambridge University Press.
(2) フェルナンデス(Fernandez, J., 1974, "The Mission of Metaphor in Expressive Culture" Current Anthropology Vol.15(2):119-45)、ワグナー(Wagner, R., 1978, Lethal Speech; Daribi Myth as Symbolic Obviation. Ithaca: Cornell University Press)らのように、レトリックを現実把握の独特の様式として重視する人々が、レトリカルな表現を、「平明な」言いまわしに変えることをもって、その表現の「意味」とする立場を、退けるのも、同様な事実をふまえてのことである。
(3) Lienhardt, G., 1961, Divinity and Experience. Oxford: Clarendon Press. p.70.
(4) Bourdillon, M.F.C., 1977, "Oracles and Politics in Ancient Israel," Man vol.12:124-40. p.125.
(5)B.R. Wilson (ed.), 1970, Rationality. Oxford: Basil Blackwell. 所収の論文。特に P. Winch と A. MacIntyre のもの。
(6) Horton, R., 1967, "African Traditional Thought and Western Science," Africa Vol.37 (1),(2):50-71, 155-87.
(7) Evans-Pritchard, E.E., 1937, Witchcraft, Oracles and Magic among the Azande. LOndon: Oxford University Press. pp.329-339.
(8) Jackson, M., 1978, "An Approach to Kuranko Divination," Human Relations Vol.31(2):117-37.
(9)Evans-Pritchard op.cit., pp.339-342.
(10)Winch, P., 1964, "Understanding a Primitive Society," American Philosophical Quarterly Vol.I:307-324.
(11) Beattie, J., 1967, "Divination in Bunyoro, Uganda," In J. Middleton (ed.), Magic, Witchcraft and Curing. Austin:University of Texas Press. p.230.
(12) Tanner, A., 1978, "Divination and Decisions; Multiple Explanations ofr Algonkian Scapulimancy," In E. Schwimmer (ed.), The Yearbook of Symbolic Anthropology. Montreal: McGill-Queen's University Press.
(13) 本論考では扱わないが、ナスカピ族の卜占の偶然性の手続きに、きわめて「功利主義的」な意味を認めるものもいる。
Moore, O. K., 1969, "Divination -- a new perspective," In A. P. Vyda (ed.), Environment and Cultural Behavior. Austin: University of Texas Press. を参照。前掲のタンナーの論文は、 Moore の説が事実誤認にもとづいたものであると示している。
(14) Jackson, M., op.cit. p.130.
(15) ibid. p.131.
(16) Park, G. K., 1963, "Divination and its Social Contexts," Journal of Royal Anthropological Institute Vol.93(29):195-209.
(17) Jule-Rosette, B., 1978, "The Veil of Objectivity; Prophecy, Divination, and Social Inquiry," American Anthropologists Vol.80: 549-570. p.557.
(18) Peter, E. L., 1972, "Aspects of the Control of Moral Ambiguities," In M. Gluckman (ed.), The Allocation of Responsivility. Manchester: Manchester University Press. p.146.
(19) Evans-Pritchard, op.cit. p.328.
(20) ibid. p.323.
(21) Park, op.cit. p.196.
(22) Mitchell, C., 1956, The Yao Village. Manchester: Manchester University Press. pp.165-175.
(23) Middleton, J., 1960, Lugbara Religion. London: Oxford University Press. pp.134-147.
(24) Turner, V., 1968, The Drums of Affliction. Oxford: Clarendon Press. p.32 f.n..
(25) ibid. p.50.
(26) ibid. この過程の詳細は、 Turner, V.W., 1975, Revelation and Vivination in Ndembu Ritual. Ithaca: Cornell University Press. pp.279-281.
(27) ibid. p.48.
(28) ibid. p.50.
(29) Middleton, J., op.cit.
(30) Werbner, R. P., 1973, "The Superabundance of Understanding; Kalanga Rhetoric and domestic Divination," American Anthropologists Vol.75(5):1414-1440.
(31) Turner, V.W., op.cit. p.28.
(32) Evans-Pritchard, op.cit. pp.296-297.
(33) ibid. p.298.
(34) ibid. p.328.
(35) ibid. p.303.
(36) 例えば、Collingwood, R.J., 1972, Essay on Metaphisics. Chicago: Henry Regnery.
(37) 例えば、Gadamer, Hans-Georg, 1975, Truth and Method. New York: Continuum 参照のこと。
(38) Middleton, J., op.cit. pp.169-174.
(39) ibid. p.173.
(40) Harwood, A., 1970, Witchcraft, Sorcery and Social Categories among the Safwa. London: Oxford University Press. pp.84-86.
(41) Cicourel, A., 1973, Cognitive Sociology. London: Penguine.
(42) Garfinkel, H., 1967, Studies in Ethnomethodology. Englewood Cliffs: Prentice Hall. Chap. 3,.
McHugh, P., 1968, Defining the Situation. New York: Bobbs-Merrill. 本論文では、後者の分析を主として参考にした。
(43) McHugh, op.cit. p.90.
(44) ibid. p.88.
(45) Simon, H.A., 1957, Models of Man; social and rational. New York: John wiley and Sons.