フィールドワークの舞台:調査地域の概要


以下に紹介するのは私の調査地の状況についての大雑把なスケッチである。

もくじ

  1. キナンゴ
  2. 地域
  3. 生活
  4. 住民
  5. 父系クラン
  6. 母系クラン
  7. 屋敷
  8. 人々のあいだで研究するということ

キナンゴ

私が調査期間のほとんどを過ごした場所は、東アフリカ最大の近代的貿易港を擁するケニア第二の大都市モンバサから車で2時間ばかりのところに位置するキナンゴという町の近傍であった。

モンバサ島から南海岸に渡り、タンザニアとの国境の町ルンガルンガとモンバサを結ぶ舗装の行き届いた幹線道路を海岸沿いにしばらく進むと、クワレの町に向かう道の分岐点に出る。そこを右折すると、道は両側に広がるヤシやマンゴーの林の中を一息に山頂に向かって登っていく。クワレはクワレ・ディストリクトの行政府がある町で、海岸沿いにそそり立つ山脈シンバ・ヒルの山頂近くの、周囲を森に囲まれたこざっぱりした町である。1989年にモンバサ・クワレ間の道路の舗装が完成し、クワレに入り口があるシンバ・ヒル森林保護区に接して豪華なリゾート・ホテルが建設され、このあたりは一気に、モンバサを訪れる旅行者にとって観光の目玉の一つとなった。周辺の農民たちにとっては畑を踏み荒らすばかりか、時には命すら脅かす迷惑きわまりないゾウの群は、観光客にとってはまさに彼らの観光のお目当てであり、シンバヒルはそれを間近に見ることが出来る素晴らしい観光スポットとなったのである。クワレを過ぎると道は未舗装のダートロードとなり、シンバ・ヒルの裏側へと急勾配で下っていく。景観の変化は驚くべきものだ。クワレまでとはうって変わり、目の前に広がるのはどこ迄も複雑に起伏しつつ広がる、一面を丈の低い灌木の林に覆われた乾いた丘陵地帯--ニィカ平原 Nyika Plateau として知られている--である。そこここにまるでツギをあてられたように畑が開かれている。道はいくつもの丘を登り下りしながらあまり変化のない景色の中を進んでいく。キナンゴの町は--ダートロードに不馴れなドライバーがそろそろ疲れを覚え始めるころ--こんな道の途中に突然なんの必然性もなく出現してきたような印象を与える町である。

ケニア全体の着実な経済発展のおこぼれのおかげで、町を襲った凋落の運命の淵でかろうじて踏みとどまっているといった風情の町だ。モンバサとルンガルンガを結ぶ海岸沿いの幹線道路が70年代に開通するまでは、キナンゴを通過するこの土埃だらけの道こそが、モンバサと国境の町を結ぶ幹線道路だったのである。ルンガルンガから海岸沿いの山脈の裏側を通ってはしる旧幹線道路はクワレに向かう手前のこのキナンゴの町で、サンブル、マリアカーニ、マゼラスというナイロビ・モンバサ街道沿いの3つの町へ通じる道に連絡する。キナンゴはこうした旧道路網のまさに結節点であった。50年代にディストリクト・オフィスがキナンゴに移されて以来この旧幹線道路がこの町にもたらしてきた繁栄は、70年代後半に入って突然終わった。幹線道路の移動とともに、キナンゴの町が享受できたかもしれない経済的繁栄も遠ざかっていってしまった。町にはこれによって激しい運命の浮き沈みを経験した人がごろごろしている。「C老人をごらん。かつて何台もの車を所有し、牛乳を他の町へ供給してずいぶん羽振りがよかったものだが、今は見る影もないただのドゥルマ人だ。」C老人の没落は全盛期の彼の傲慢さが自らに招いた妖術の攻撃のせいであると、ある人々はうわさする。「今はCさんはあんな風に誰とでもにこやかに話をしているけれど、当時はつまらない人間が挨拶しても全然知らんふりをしていたものさ。で、(ある妖術使いが言ったことには)傲慢な奴だ。こんな子供のくせに私にかなうとでも思っているのだろうか。」経済的な恩寵の喪失は、妖術の蔓延という物語の形をとって人々の経験の中に記録されていく。下降の印は至る所に見られた。かつての所有者が維持する力を失ったために朽ち果ててしまったバスの車体。もうガソリンが供給されることもない簡易ガソリンスタンドの遺跡。私が調査を始めた1982年からの15年ほどの間にも変化は目に見えて進んでいた。キナンゴの町の一角を占めていたインド人(パキスタン人)商人たちは、多くが新しい幹線ぞいの町でのチャンスをもとめてキナンゴを去った。クワレとキナンゴの途中に一軒だけあったインド人の商店も、店をたたんでもう5年以上になる。毎週木曜日に定期的に開かれるようになった家畜市の隆盛が、キナンゴに新たな活気を与えるようになったのは、この数年のことにすぎない。

とはいってもキナンゴの町は、周辺のかなり広い範囲の住民にとってやはり一つの華やかな中心である。地域の人々にとってキナンゴが交通の要であることを止めたわけではない。モンバサやクワレからやってくるバスやマタトゥと呼ばれる乗り合い自動車のほとんどはキナンゴが終点である。各地からモンバサへ向かおうという場合、いったんキナンゴに出て、その近辺に住む知人や親族のもとで一夜をすごし夜明け前に一番のバスに乗ってモンバサに向かうというやり方が普通である。キナンゴはまた商業の中心でもある。常設の市場の他に、ドゥルマのカレンダーで4日目ごとの休耕日に立つ市には、女たちがそれぞれの日々の仕事の成果--自分の畑からとれた作物の一部、果実、椰子の葉で編んだ屋根材、自家製のパンや菓子、マットや籠--を各地から持ちより金に換えようとする。女たちがまとう色とりどりの美しい布や、しゃれたプラスティック製品なども店々の軒に並んでおり、市の日には手頃な値段の古着を売る青空市場も出現する。その日にはキナンゴは各地から集まる人々の社交場となり、思いおもいにお気に入りの布で着飾った女たちであふれかえる。記憶力に自信のない人類学者はこの日のキナンゴは避けたほうが無難である。ほとんど見覚えのない誰彼から声をかけられ、記憶力のテストを受けるはめに一度ならず陥るのが目に見えているからである。キナンゴにはまた、この町にしては大きな、手術設備や入院施設の整った診療所があり、その治療を求めて、あるいは入院している親族の見舞いに毎日各地から人々が集まってくる。この診療所と常設市のちょうど中間に警察の詰め所やディストリクト・オフィサーの役所がある。このあたりの木陰には毎日のように老人の一群がたむろしているのを見ることができるだろう。おそらくはチーフやサブ・チーフの前で、もめ事を解決するために各地から集まってきた人々が、自分達の順番を待ちながら、作戦を練ったり雑談で時間をつぶしている姿である。ここでは紛争の解決は「ドゥルマ式 chiduruma」のやり方で行なわれる。当事者双方がおのおの自分達を代弁する長老を立てて言い分を述べ、あつまった審議係の長老たちが両者の言い分を聞き合議の上、解決を提案するのである。この段階で解決を見なかった場合、問題はクワレの「政府式 chisirikari」の法廷に持ち上げられることになる。キナンゴの町は地域の人々を、都市や政府や近代的なサービスに結び付けるネットワークの重要な結節点でもある。私がその都度の行動の拠点とし人々の話を熱心に求めてまわったのは、このキナンゴの町自体を含む近傍の3つの場所であった。

地域

行政的にはクワレ・ディストリクトは4つのディヴィジョンと呼ばれる地区に分かれていた(註1)。その最大のものがキナンゴ・ディヴィジョンで、面積にしてクワレ・ディストリクト全体のほぼ半分に当たる約4000平方キロを占める。キナンゴはこのキナンゴ・ディヴィジョンの行政の中心であった。ドゥルマと呼ばれている人々--その正確な数はわからないが、ドゥルマ語を話す人口ということでは1986年の推定で約14万人という数字が発表されている(註2)--の大部分が、このキナンゴ・ディヴィジョンに住んでいた。キナンゴ・ディヴィジョンはさらに9のロケーションに分かれ、各ロケーションごとに一人のチーフが任命されていた。さらに各ロケーションは、サブ・ロケーションに分かれ、それぞれのサブ・ロケーションには一人のアシスタント・チーフ(通称サブ・チーフ)が任命されていた。サブ・ロケーションはさらにスワヒリ語でムター、ドゥルマ語でラロ lalo と呼ばれる地域に分かれる。ムターは「村」にあたる行政単位であるが、村という言葉が連想させる明確な内部構造をもった社会単位というよりは、独立的な屋敷が互いにかなりの距離をおきつつ散らばっているある空間的広がりを指しているに過ぎず、むしろ近隣(英語でいうところの neighbourhood である)といった方がふさわしい。アシスタント・チーフまでは給料を支給される役人であるが、ラロにはムゼー・ワ・ミジ muzee wa midzi(諸屋敷の老人)と呼ばれる無償の世話役がいるだけである。彼の基本的機能は政府からの伝達事項をラロ内の各屋敷に伝えることであるが、地域の長老の一人としてもめ事の仲裁などにも加わることもある。

私が最初に選んだ土地(というよりも、成り行きでそこに連れていかれたようなものだったのだが)は、キナンゴの町から旧幹線道路を離れてさらに西に30キロほど奥に入った<青い芯のトウモロコシ>と呼ばれるラロだった。そこはプーマ・ロケーションの4つあるサブ・ロケーションの一つヴィグルンガーニ・サブ・ロケーションに属している。人口は極めてまばらで一つ一つの屋敷の間は広大なブッシュによって隔てられていた。急激な人口増加のあとの1989年の人口統計(Kenya Population Census 1989 Volume 1)でも、このサブロケーションの総人口は5918人、人口密度は1平方キロあたり18人で、クワレ・ディストリクト全体の平均(46人)の半分以下である(キナンゴ・ディヴィジョンの平均32人と比べてもかなり低い)。ブッシュによって隔てられたそれぞれの屋敷の規模は、平均していずれも大きかった。息子たちは結婚した後も父親の屋敷のメンバーとして屋敷内に自分たちの家をかまえ、なかには父親の死後も兄弟たちがそれぞれ独立せずに一つの屋敷を維持するといったことさえ稀ではなかった。他の地域と同様にトウモロコシを中心とする農耕が中心的な経済活動であったが、牛やヤギの牧畜もそれに匹敵する重要な位置を占めていた。私がフィールドワークを開始した1982年、1983年当時、このあたりではまだモンバサなどの町に働きに出る若者はむしろ少なかった。

1986年から1987年にかけて家族とともに私が暮らしたのは、キナンゴの町そのものであった。町自体は小さく、当時人口もおそらく2000人に満たないほどであったが、その周辺の屋敷は、<青い芯のトウモロコシ>一帯、あるいはドゥルマ西部一般と比べると一目でわかるほど密集していた。一つ一つの屋敷の規模は小さく、それが互いにそれほど大きな距離をおかずに点在していた。1989年の統計では、周辺の村々も含めたキナンゴ・サブ・ロケーション全体で、総人口は5061人、人口密度は一平方キロあたり133人である。キナンゴは、私の調査にとっても、情報と物資と社会的活動のネットワークの中心であった。遠く離れた各地のさまざまな出来事の話が、いながらにして私の耳に飛び込んできた。またさまざまな人が、同じ出来事についてのさまざまに異なるバージョンのゴシップを運んできてくれた。憑依霊や妖術のせいで起こった病気や問題に対処し適切な治療を行なうムガンガ muganga と呼ばれる多くの術者たちとも私はこの町で知り合いになった。

1989年以降の、通算でほぼ2年にわたる調査は、キナンゴに程近い丘二つへだたった<ジャコウネコの池>と呼ばれているラロを中心に行なった。最初の調査以来ずっと行動を共にしてくれていた助手であり友人である青年とともに、そこに彼のための10エーカーの畑を購入したのだが、その畑からほど遠くないところにある彼の小屋が、以後ずっと私の調査の拠点となった。<ジャコウネコの池>は、行政的にはキナンゴ・ロケーションの4つのサブ・ロケーションの一つであるドゥンブーレ・サブ・ロケーションに属する地域である。このサブ・ロケーションは総人口4282人、人口密度は一平方キロあたり63人とディストリクトの平均よりはやや高めである。私はここで再び町での全方位に広がる広く浅い情報のネットワークから離れて、いくつかの特定の屋敷に密着して、そこで起こるさまざまな出来事や問題の時間的展開をゆったりとしたペースで追っていくタイプの調査に戻った。ここはキナンゴの町にも徒歩で一時間と近く、またモンバサとの交通も便利で、若者たちのほとんどはモンバサへ臨時の賃仕事に出ては屋敷の現金収入を補うという生活を経験していた。<青い芯のトウモロコシ>周辺で見られたような大きな屋敷は稀で、結婚した息子たちが早い時期に父親の屋敷から独立する傾向がはっきりみられた。また家畜についてもドゥルマ西部で見られるような大きな群が維持されていることは例外的であるといってよかった。

生活

これらのいずれの地域においても人々の生活を支えている(くれるはず)のは、トウモロコシ matsere を中心とする農耕であった。トウモロコシの粉をゆがいて固く練った主食のワリ wari と野草をどろりとするまでじっくり煮たスープ mutsunga が、この地域の多くの人々が最も慣れ親しんだメニューである。トウモロコシは一年に2回ある雨期(ムワカ mwaka と呼ばれる3月から6月にかけての大雨期と、ヴリ vuri と呼ばれる10月から12月にかけての小雨期)の雨にあわせて一年に2回植え付けをするが、多くの年は人々に期待はずれの結果しか与えない。そこに暮す者が食べる分だけでも自分たちで供給するというのが理想なのだが、不作、さらには飢饉が常習的である。トウモロコシ以外にも、雨にあまり左右されない収穫が期待できるキャッサバ mwanga も広く利用されている。また、ササゲ kunde やウリ chimumunye カボチャ renje も広く栽培されている。パパイヤ mupayu はありふれた果実であり、それほどではないがマンゴー mwembe の木もところどころで目にできる。一部の限られた地域ではココヤシ munazi も植えられている。収穫の不安定さのため、生活はほとんどの場合現金収入によって補われない限りやっていけない。

牧畜におかれている価値は高い。多数の家畜の所有と、それが可能にする多くの妻は、少なくとも年輩の人々にとっては豊かさのしるしである。若い世代の人々は、多くの妻をもち、全員にきちんと教育をうけさせることができないほど多くの子供を作ることに対して、否定的な見方をし始めている。しかし彼らも、余裕のお金があればそれを家畜に換えるのは非常に「分別のある」ことであると語る。

自分では育てられない場合に、それを群れをもっている人々に託するというのは一般的な慣行である。その所有者は自分の家畜とそれが生んだ子供たちに権利があり、飼育を受託した人は預かった家畜の出す乳を自由に処分することができる。自分の所有する家畜を出来るだけ多くの場所に分散するのも家畜所有者の間に広く行き渡った慣行である。ドゥルマ語で「家畜を隠す ku-fitsa ng'ombe」と呼ばれるこの慣行は、病気で自分の家畜が壊滅するのを防ぐ手段であるとともに、自分が実際に所有している家畜の数が他人には分からないようにする手段でもある。他人の嫉妬を買うのは常に危険である。

家畜はいざというときに現金に変えることの出来る貴重な手段を提供する。大きな群れの所有者は、その家畜の何頭かを処分するだけで、例えば息子の一年分の教育費を捻出することもできてしまう。もちろん大きな群れを持つに至るまでが、そしてそれを維持するのがたいへんなのであるが。退職金のほとんどを、家畜と新しい妻をとるのにつぎ込んだ、ある退職した政府の職員は、牛は「銀行」のようなものだと私に笑いながら語ったものである。鶏の飼育は、家畜の群れを所有する最初の一歩であり、ほとんどすべてのドゥルマの家族で行なわれている。鶏が充分増えたら、それを現金に代えて、それでヤギを買う。さらにヤギが増えたら、それを牛に代える。これが地域の多くの貧しい人にとっての捕らぬ狸の皮算用なのである。鶏は、少額の現金が必要な場合にそれを手にいれるもっとも手頃な手段であり、飢饉の際にたいていは0から出直さねばならない出発点である。

より手っ取り早い現金収入の道は、屋敷の若い世代(小学校を中退したり、卒業しても上には進めない子供も多い)をモンバサなどの町に働きに出すことである。これは近年ますます顕著な傾向になっている。もっとも定職を得ることは困難で、収入は不安定である。得られる仕事のほとんどは臨時雇いの下級労働か、街頭での細々とした商品の立ち売りである。キナンゴやモンバサで比較的安定した仕事を得た者にとっては、まれに現金収入と農耕の比重が逆転し、現金収入の方が主になる場合もある。しかしその場合も屋敷に残っている妻子には、食料はできるだけ自分たちの農耕で調達することが期待されている。いずれにせよ収入の低さがそれを余儀なくさせている。おそらく今後、高い大学・専門教育を受けた若者たちは別の可能性を切り拓いていくのかもしれない。まだけっして多くはないが、教育を受けた女性たちも政府の職員や教師、その他の事務職に進出し始めている。男女ともに、教育の重要性がようやく目に見える効果として認識され始めている一方、近年、教育自体がますますお金のかかるものになり、この地域の多くの人々の手が届かないものになりつつある傾向も見られる。

家族全体で、つまり妻子を伴ってモンバサに移り住むのは、極めて例外的である。妻子持ちであっても妻子を屋敷に残したまま、一人で働きに出ているのが普通だ。最初は、すでに町に働きに出ている親族(や稀に友人)をたよってそこに転がり込み、ある程度の生活の目処がたつと、一人で、あるいは兄弟や仲間共同で部屋を借りて独立するというのがよくあるパターンである。そして彼らを頼って、べつの年少者が転がり込んでくる。おそらくこうしたパターンの繰返しの結果なのであろうが、モンバサの対岸--南海岸のリコーニ、西海岸のチャンガムウェとマゴンゴ、北海岸のキサウニ--には、「出稼ぎ」に来たドゥルマの人々が集住する「コロニー」が形成されている(註3)。屋敷と関係が切れてしまう者はめったにいない。定職を得た者は週末、あるいは月末ごとの「里帰り」を欠かさないし、不安定な職についているものはある時期を町で暮して幾ばくかの現金を手にいれると、またの必要が生じるまでかなりの期間を屋敷で暮すといった形で、町と屋敷とを行き来している。稼いだ収入の一部は自分自身のためにちょっとした贅沢品を買うのにも使われるが、ほとんどは妻帯者は妻子のために、未婚の若者は自分の父の屋敷の必要を満たすために使うことが期待されており、実際に多くの者がこの期待にそおうと努力している。

場合によっては、女たちも女たちで現金収入の道を探さねばならない。自分の土地でとれた果実をキナンゴの市に出したり、パンや菓子を作って売り歩いたり、地酒を醸造して売ったりと、各人の才覚に応じた現金収入の道を模索している。むしろこうした小さな商いでは女性の活躍の方が目立つくらいだ。屋敷に現金収入をあてにしてよい働き手がいない場合、あるいは町へ出た働き手との連絡が跡絶えた場合など、女たちが自分たちの臨時労働で現金をなんとかせねばならないこともある。雨期が来ても、自分の畑にも充分手を入れられず、金回りの良い隣人の畑を耕して幾ばくかの現金を手にいれるのは、貧しい女たちのありふれた手段である。食堂に売って一回の食事のトウモロコシの粉代にすらならないほどの報酬を受け取るために、はるばるキナンゴまで何キロもの道を重い薪を頭に載せて運ぶ女たちもいる。

ほとんどすべての食糧を現金で購入せねばならないとすれば、たいへんなことである。飢饉のもっとも厳しい時期には、かなりの家族が結局食糧を買う現金を手に入れられず空腹のまま眠る夜を幾夜も過ごすことになる。

こうした生活のためのありとあらゆる苦労は、トウモロコシがちゃんと豊作でありさえすれば一休みできると、人々は口をそろえて言う。農耕は、やはりこの地域のもっとも重要な活動である。耕作の季節になると、今度こそはちゃんとした収穫が得られるだろうと期待しながら、人々は畑仕事の重労働に全力を注ぎ込む。そしてそれが報われたときが、地域の人々にとっての最良の季節となるのである。

都市生活を経験した若者の中には都市の暮らしの魅力にひかれている者もいるが、私が話した多くの若者は都市での「すみかの定まらない ku-tanga tanga」生活を否定的にとらえている。都会生活をたっぷり経験している若い男性にとっても、理想はやはり、自分自身の屋敷をもち、妻とともに畑を耕し、たくさんの食糧に恵まれて、子供たち、さらには孫たちに取り囲まれて暮すことであると語る。そして屋敷の長である年輩者の多くは--たくさんの食糧という点では必ずしも理想とはいえないし、その他もろもろの問題にいつも悩まされているとはいうものの--たしかにこの理想に近い暮らしをしているとは言えるのである。

住民

この地域に住んでいるすべての人がドゥルマ人であるわけではない。キナンゴの町そのものにはさまざまな出自の人々が暮らしている。キナンゴの町の東の外れの一角には、植民地時代に商人としてキナンゴに移り住んだインド人たちの店や家屋が集まっている。キナンゴの町の住民の多くはもちろんドゥルマ人であるが、主だった食堂や商店は大部分がドゥルマ以外のタイタ、タベタ、キクユ、カンバ、ワグニヤ(ラム島出身者)などの経営者によって占められている。政府の職員たちにも他地域の出身者が多い。これらの職員の何人かはそのままキナンゴに定住している。土地の女性と結婚したり、あるいは自分の息子や娘を土地で嫁がせたりする者もいる。キナンゴ病院の医療官(準医師)として働き、退職後に個人診療所を開業する者も1992年以来現われている。キナンゴは、ケニアの他の多くの交易中心地と同様に、混住的な性格をもった地方都市なのである。しかし町の外に出ると、カンバからの移住者たちがまとまって住んでいる地域があるのと、キナンゴ・ディヴィジョン東部でディゴの人々の土地が入り組みあっている地域があるのとを除けば、ほとんどの住人がドゥルマに分類される人々である(註4)。これにはキナンゴ・ディヴィジョンのかなりの地域で、まだ土地の個人登記が行われていないことも関係している。クワレ・ディストリクトでは土地の個人登記 land adjudication は1969年に始まったが1980年代末になってもディストリクト全体の半分の土地のタイトルが確定しているだけであった。登記が進んでいない土地のほとんどがドゥルマの人々が居住している土地である。こうしたところでは土地は父系クラン mbari ya kulume によって所有されており、父系クランの他のメンバーたちの承認がなければ、個人は自分が使用している土地を自由に売買することは出来ない。もちろん永久的な譲渡の承認を得るのは簡単ではない。これはその父系クランのメンバー以外が、したがって非ドゥルマ人がその土地に永住することを難しくしている。

土地が豊富にある西部地域では、父系クランのメンバーであれば空いている土地を、問題の土地を直接掌握しているクラン分節の長老たちの了解を得て、自由に耕す権利がある。この権利は、その土地が現に誰かによって使用中でない限り、拒まれることはない。目前に迫っている土地の個人登記をにらみながら、すでに土地をめぐる争いが激化している東部のシンバ・ヒルよりの地域では、父系クランの土地に対するこの権利を行使することは、事実上は困難になってきている。一方、父系クランのメンバーでなくても、カザマ kadzama つまりヤギとヤシ酒(あるいはそれに相当する現金)を長老たちに差し出すことによって「客人 mujeni」としての土地の使用が認められる慣行があり、新しい住民を迎える際にかなりの自由度で用いられている。これは概念上は土地の購入とははっきり区別されており、客人に対して、ホスト側は彼を必要とあれば立ち退かせる権利を手元に留めておくのである(現に東部地域ではこうした「客人」の子孫たちを立ち退かせるための訴訟がいたるところで起こされている)。父系クランの土地は土地の行政的な単位とは一致するものではなく、過去の人々の移住や移転の歴史を反映して複雑に入り組んでいる。特定の土地について、それがどの父系クランの所有するものであり、そこに現に暮らしている誰がホストで誰が客人であるかが、争われることも(とりわけ東部では)めずらしくない。

ドゥルマ(あるいはドゥルマ人 muduruma)は人間を分類するカテゴリーであるが、上でも触れたように、もう一つ下位の分類--14ある父系クラン mbari ya kulume による分類--に従属している。クランを表わすムバリ mbari という言葉は、字義通りには「種類」という意味であり、人はこの14種類のどれかであることによって、ドゥルマでもあるということになる。逆に言えば、14ある父系クランのどれにも所属していないで、なおかつドゥルマ人であるなどということはけっしてありえない。そのカテゴリーに属する人々にどのような共通点があるかとか、どんな制度を共有しているかとか、どんな共通の文化を持っているかといった、月並みな、そしていささか的外れなことを問題にし始めない限り、実に明快な話である。

ドゥルマは、ディゴ Digo、ギリアマ Giriama 、ラバイ Rabai、チョーニ Chonyi、ジバナ Jibana、カウマ Kauma、カンベ Kambe、リベ Ribe とともにミジケンダ Mijikenda(Midzichenda) というグループにまとめられている。ミジケンダは文字どおりには「9つの屋敷(村)」を意味し、ケニアの人口統計上は一つの部族として数えられているが、この名称自体は(それと同時に9部族が一つであるという観念は)比較的最近(1930年代)に生れたものである(Willis 1993:)。

ドゥルマというカテゴリーが、例えばディゴやギリアマなどの他の同様なカテゴリーとの違いにおいて自分たちを一つにまとめるカテゴリーであるというのは確かであるが、それが父系クランやそれ以下のレベルでの帰属に比べて、きわめて二次的な意味しか持っていないという点は強調しておいてもよい。この言葉は一見、きわめて奇妙な使い方をされるのである。例えば、ある儀礼でその屋敷の者しか立ち入れない場所を示すのに「ここから先は『ドゥルマ人』はどうか入らないでください」という言い方が用いられる。そう言うお前もドゥルマ人じゃないか、などとつっこんでみても仕方がない。また妖術が親族の誰かによってかけられたのだということを示すために「やったのは『ドゥルマ人』ではありません」という言い方をしばしば用いる。これも下手人がディゴやギリアマなどの非・ドゥルマ人であるという意味で勘違いする者はいない。これらの例では「ドゥルマ人」という言葉は、日本語で言えば関係者に対する「部外者」、身内に対する「他人」というのに近い意味でしか用いられていない。かと思えば、ある災厄が「祖霊や神によってもたらされたのではなく、『ドゥルマ人』によってもたらされたものだ」と言えば、それはその不幸が人為的にもたらされたものだという意味である。ここでは「ドゥルマ人」は単に「人間」(身内であるか他人であるかを問わず)と同義である。「ドゥルマ人」という言葉は必ずしもつねに、いわゆるナショナリズムや民族主義の文脈における民族カテゴリーのように、排他的に自己の帰属を表明するためのカテゴリーとしては振る舞っていないようである。氏素性のはっきりしない非・ドゥルマ人をマカビラ makabira あるいはさらにゴリョゴリョ goryogoryo などと侮蔑的に言及する言葉はある。しかしこれらの言葉が重点を置いているのはドゥルマ人でないという事実よりも、氏素性がはっきりしない、つまり地域的なネットワークを通じて関係を明らかに出来ないという事実の方にある。

クラン・システム:父系クラン

人をドゥルマ人としてあるいはギリアマ人として種類わけすること以上に重要なのが、それぞれの父系クランに分ける種類分けである。しかしこれもけっして排他的な固定性の観点ではとらえられない。本論考の他の部分では恐らく触れる機会もないであろうから、この場を借りて簡単にクラン・システムの概略を紹介しておこう。クランおよびそれより下位のカテゴリーにおいては、個人は単に要素がクラスに所属するような形でそのカテゴリーに属する(類別される)だけでなく、個人をそのカテゴリーに接続する関係、要素どうしの換喩的な関係(親子関係)の連鎖が重要である。初対面の二人が互いに尋ねるのは、互いの名前と、その父親の名前であり、それが相手が所属するクランの確認を可能にする。各クランは一世代毎に交代する決まった名前のセットによって特徴づけられているからである。その後、二人を互いに結び付けるあらゆる可能性が摸索されていくだろう。主として親族関係を通じて、二人がどのようにつながっているか(あるいはいないか)を確認することがきわめて重要であり、父系クランへの所属はしばしばその最初の手がかりとして用いられる。

14の父系クランは、それぞれ7のクランからなるムリマ Murima およびムエジ Mwezi と呼ばれる二つのグループに分かれている。ムリマのクラン同士なら互いに他のクランの土地を耕すことが認められている。また互いのクランのメンバーの埋葬に出席した際に、献金しあう義務がある。ムエジの7つのクランどうしにも同じことが当てはまる。このクラン・システムは形の上ではあたかも計画されたかのような対称性を示しているが、実際には過去のさまざまな偶発的な出来事の結果であることを、さまざまなクランの起源の物語が示している。始祖の多くは、互いに仲たがいした兄弟であったことになっているが、14あるクランのうち2つは、その始祖がブッシュで「拾われた」とされているし、あるクランの始祖は難破船の船底で死にそうになっていたのを助けられたことになっている。また別のクランの始祖は、正式な結婚をせず子供を産んだ女性である。

父系クランの成員権は、もちろん父から子供へと継承されるのだが、それとは別にカザマ kadzama のヤギとヤシ酒を支払うことによって、「客人」を特定の屋敷の正式のメンバーとして、そしてクランの正式な成員として編入する手続きがある。編入された個人は特定の屋敷の特定の誰某の息子として位置づけられ、もちろんこうして編入された者にはその位置に伴う親族の義務の履行--とりわけ「父」の要求に応えること--がしっかりと求められることになる。キナンゴに住むインド人の一家族は、この手続きによってドゥルマのクランに編入されている。編入はけっして例外的な手続きではない。19世紀以降ディゴ、ドゥルマ、ギリアマの3集団の人口がミジケンダの他の集団に比べて異様に増加していることがわかっている(Spear 1978:112、Willis 1993:)。この人口増加は、少なくともギリアマとドゥルマについては、肥沃な海岸沿いの山脈地帯を離れてより乾燥した広大な後背地へと大規模に展開したこの2集団が、交易と牧畜の採用によって手に入った新しい富を用いて積極的に異部族の女性を妻として「輸入」(Spear ibid.)すると同時に、よそ者の編入を積極的に行なった結果であった。とりわけ1920年代以降のドゥルマの急激な人口増--1916年に約14000人だった人口が1969年には10万人を越えていた♀--においては、ウィリスが指摘しているように(Willis ibid.)、モンバサの都市のネットワークから排除された人口を屋敷およびクランへ編入したり同化したりするプロセスが、無視できない要因であった。今日でも自分が属している集団の大きさは、支持者の多さであり、それはその集団の長の地域での発言力や指導力の大きさを意味する。編入はその手っ取り早い手段であった。

それぞれの父系クラン全体が一つのまとまりとして機能しているわけではない。また全体のリーダーや、クラン全体の問題をあつかう意思決定機構があるわけでもない。それぞれのクランはムヤンゴ muyango あるいはムリャンゴ muryango (ともに「戸口」を意味する)と呼ばれる幾つかの分節に分かれており、各ムヤンゴがさらに、ニュンバ nyumba (「家」あるいは「小屋」を意味する)と呼ばれる5〜6世代の深度を持ったリニージに分かれている。これらニュンバはその創始者の名前をとって「だれそれのニュンバ」という言い方で言及される。父系クランのシステムにおいて、内部になんらかの意思決定機構を備えた集団と呼びうる最大の集団がニュンバである。土地や相続、その他クランに関する問題はニュンバの長老たちの集まりによって決定される。ニュンバの下のレベルには、ドゥルマの生活の基本単位であるムジ mudzi つまり屋敷がある。各屋敷はその内部の問題の処理においては、大きな自律性をもっている。客人をクランに編入することでさえ、ニュンバの長老たちの承認が望ましいとはいえ、実際には各屋敷が独自にその屋敷の成員として編入する自由をもっている。

異なる部族の父系クランどうしの間には名称は違うが互いに「同じもの」であると見なされるものがあり、こうした対応関係のおかげで異なる部族の土地に移住しても該当するクランの一員として受け入れられることがある。例えば、<ジャコウネコの池>にはギリアマに特有の個人名を用い続けている人々が住んでいる3つの屋敷があるが、彼らは現在の一族の長J氏の祖父Mの時代にここに移り住んだ人々である。Mはもともとディゴ人であったが、まだ独身の若い頃にギリアマの土地に行き、そこでアパルワ Aparwa クランに編入され、ギリアマの女性と結婚し、生れた子供たちをギリアマ式に名付けた。しかし植民地政府に対するギリアマの反乱(1913〜1914)--「ブワナ・チェンベの戦争」という名で知られている--が起った際に、それに巻き込まれるのを恐れてそこを逃げ出し、最終的に今日住んでいる土地に落ち着いた。ギリアマのアパルワ・クランとドゥルマのムヴァンデ Muphande クランは対応しているので、こちらではムヴァンデ・クランの一員として受け入れられた。つまり一代のうちにディゴからギリアマ、ついでドゥルマと2度も部族所属を変更している。この一族の歴史がとりわけ例外的であるという訳ではない。クランや部族所属はけっして固定した枠組みではなかったのである。

母系クランによる分類はもつが父系クランのシステムをもたないディゴと、ドゥルマとの間の境界の操作可能性はさらに大きい。ドゥルマの父系クランの一つムァニョータ Mwanyota・クランにはマガオニのムァニョータ Mwanyota wa Magaoni という名で知られているサブ・グループ(ムヤンゴ)がある。マガオニという土地出身のディゴの女性がドゥルマのムァニョータの男との間に2人の男児をもうけたが、婚資が支払われず結婚は無効となり女性は息子二人を連れてディゴに帰った。しかし当時の人頭税がディゴ族に対しては15シリングであったのに対し、ドゥルマ族に対しては7シリングであったため、成長したこの二人の息子は自分たちがディゴではなくドゥルマだと主張し、結局ドゥルマに戻ってムァニョータ・クランに受け入れられたのだというのが、このムヤンゴに関して伝えられている事の経緯である。この二人の始祖は、ディゴの母系クランの正当な成員であり、その意味で「ディゴ人」であるのだが、父親との関係でドゥルマの父系クランの成員であることを正当に主張することも可能であり、その点で「ドゥルマ人」だったのである。

こうしたクラン・システムへの柔軟な編入や帰属変更は、14父系クランという枠組みそのものを変化させる可能性ももっている。例えば、キナンゴ周辺や、ドゥンブーレ、マゾラといったサブ・ロケーションを中心にチョーニ(ミジケンダ・グループの一部族)に起源をもつかなりの数の人々がいる。彼らがやってきた経緯についてはすでに様々に異なる伝承が出来上がっているが、ともかく彼らはムァニョータ・クランに編入され「チョーニのムァニョータ」というムヤンゴを形成した。彼らは植民地時代に一族の中からチーフやヘッドマンを出すなど、この地域の政治的権力を掌握し、その後も勢力を伸ばした結果、今日その規模はほとんどクランそのものに匹敵するほどになっている。事実、彼らのことをチョーニという名前のクラン、つまりムバリの一つとして--おそらくは勘違いして--語る人もいる。彼らは「チョーニ」という部族名で呼ばれているが、彼らが「ドゥルマ人」であることを問題にする人は誰もいない。

クラン・システム:母系クラン

ミジケンダを構成する9のグループのなかでラバイとドゥルマの2集団は、こうした父系クランによるシステムに加えて、母系クランのシステムも持っている。つまり二重単系システムをもっている。ドゥルマの母系クランの正確な数は不明であるが、<青い芯のトウモロコシ>のラロとキナンゴで行なったインタビューでは20以上の母系クランの名前が挙げられている。母系クランの中には父系クランと同様に、さらにいくつかの下位分節(やはり「戸口」ムヤンゴと呼ばれる)に分かれているものもある。いくつかの母系クランはその名前の由縁を語る物語をもっている。奇妙なことに、不妊の女性があるきっかけで子供を産むようになりクランの創始者となったというタイプの伝承が目立つ。それぞれの母系クラン、あるいはムヤンゴには、キフドゥ chifudu と呼ばれるいくつかの土器製の壷を管理するボラ bora と呼ばれる役職がある。政治的役職ではなく、主として病気治療に関わっている。クランが管理するこれらの壷は、母系クランの成員の豊穣性に結びついており、またときおり母系クランの成員に病気--主として眼病、耳の病気、皮膚病--を送ることによって、自分が長期間なおざりにされていることを母系クランの人々に伝える。ボラがおこなうのはこうした病気に対する治療儀礼であり、また治療の一環として、選ばれた患者に対しては同様なキフドゥの治療を行なう知識と資格を伝授する。治療術を伝授された者は下位のボラとなり、キフドゥの壷が引き起こしたものであっても、治療に壷そのものの登場が必要でない程度の軽い病気を治療する。ボラが死ぬとその地位は母系クランのメンバーによって継承される。キフドゥの壷自らが継承者を選ぶとされている。端的には病気を送りつけることによって、その意思を伝えるのであるが、ときには壷は夜のうちに姿をくらまし、何十キロもの道程を一人で人目にふれないように(人の姿をみとめると直ちにブッシュに身を潜めるのだという)転がりながら、自らが選んだ継承者の住む屋敷を訪れる。朝目を覚した継承者は、戸口の前に壷があるのを見てびっくりするという寸法である。実際に、自分はそんな風にしてボラに選ばれたと語る者もいる。

父系クランが「男のムバリ mbari ya kulume」あるいはウクルメ ukulume と呼ばれるのに対し母系クランは「女のムバリ mbari ya kuche」あるいはウクーチェ ukuche と呼ばれ、ウクルメが右手であるとすればウクーチェは左手である、などと語られる。右を力や豊富な食糧と結び付け、左を富と結び付ける連想はさまざまな場面で顔を出す連想であるが、この左右のクラン体系にもあてはまる。1960年代の初めに廃止されるまでは(註5)、ドゥルマでは家畜や現金などの動産を含む富の主だったものは母系的(MB から ZSへ)に相続されており、父から子供へと相続されるのは土地とそこに植えられた樹木、それに農具と狩猟道具だけであった。殺人や傷害の賠償の支払義務や、賠償を受け取る権利もそれぞれ当事者の母系クランの手にあった。かつては殺人の賠償 kore として支払われていたのは一組の少年と少女であったが、それには母系クランの成員(通常は姉妹の子供たち)が当てられていた。差し出された少女は「賠償の妻(muche wa kore)として犠牲者の母系クランのメンバーの妻となる。賠償の妻から生れた子供は、母の母系クランのメンバーとはならず、父の母系クランのメンバーとなる。後に賠償は牛14頭で支払われるようになった(その牛を婚資として妻をとるのである)が、それを提供するのはやはり殺害者の母系クランであった。

母親が自分自身の母系クランを持たない--つまりドゥルマ、ディゴ、ラバイ以外の集団の--女性である場合、生まれてくる子供を父親の母系クランに所属させるようにする調整が行われていた。このタイプの婚姻は多くの牛を婚資としてやりとりすることから「牛の婚姻 ulozi wa ng'ombe」と呼ばれ、多額の婚資のやりとりを伴わないその他の婚姻「ドゥルマ式の婚姻 ulozi wa chiduruma」とは区別されていた(註6)。「牛の婚姻」の場合、生まれた子供は自分の父の母系クランに所属し、父親から財産を相続することができる。高額の婚資の支払いを通じて、非ドゥルマの女性を妻とすること--こうした女性は「牛の妻 muche wa ng'ombe」と呼ばれた--は、母系クランにとってその成員を増やす手段でもあった。

今日、母系クランのシステムはこうした社会的な機能をほとんど停止している(註7)。すべての財産は父系的に相続されるようになったが、この変化はすべての婚姻を「牛の妻」型の婚資の受け渡しに統一することによって、それ以前のシステムとの整合性を保っている。しかし、この手続きはもはや子供の母系クラン所属を変更する手続きとは考えられていない。母系クランのシステムをもたないギリアマなどの女性を母として生まれた子供は、以前のように「父の母系クラン」に所属させたりはせず、単に母系クランをもたないままほっておかれる(またそのことで不都合が生じることもない)。今日、母系クランのシステムは母系クランが管理するキフドゥの壷が引き起こす病気とその治療の儀礼や、一部の呪詛の効果が母系クランのシステムにそって現われるという、限られた事象のなかで積極的な役割を演じているだけである。母親や祖母に改めて(私の質問に刺激されて)尋ねてみるまで、自分の母系クランを知らないままでいたという若者も結構多い。

屋敷

 ムジ(mudzi)は、ドゥルマの社会生活における最も中心的な単位である。私はこの単位に一貫して「屋敷」という訳語をあててきている。典型的な屋敷は、一人の長とその妻たち、および彼の子供たちが一緒に暮す居住単位であり、通常その長の名前をとって「誰某の屋敷」という形で呼ばれる。屋敷は経済的・社会的にもほぼ自律的な単位であり、屋敷内の問題(mambo ga mudzi)の多くはその内部で処理される。とりわけ夫と妻やら、父と息子やら、僚妻どうしやらのトラブルの解決が、近隣の長老たちによる裁定にもつれ込むのは恥ずかしいことだと考えられている。

物理的には屋敷は、中心となる広場ムハラ muhala の周囲に各妻たちの小屋を配した構造をもつ。それぞれの小屋の入り口はムハラに向かった側に一つだけあけてある。小屋のムハラに面していない裏側(nzingo)は、小用を足したり、水浴びをしたりする人目にふれない空間である。幼い子供たちは母の小屋で暮らすが、男児は成長するとこれらの小屋が形作る円環の外に、自分自身の小さな小屋を立てて住み始める。妻を娶っていくに従い、息子の一人一人は、こうして父親の小屋の円環の外縁に、自分たちの小屋の円環を形成して行く(註8)。こうしたやや発展した構造をもつ屋敷においては、中心になる父親のムハラは、しばしばロメ(rome 大きな焚き火)と呼ばれ、屋敷の男性成員がいっしょに食事をとり、屋敷全体のさまざまな行事が行われる空間となっている。小屋は女子供の空間であり私的空間であるが、ロメは男たちの空間であり、来客の接待や、さまざまな問題の討議、さまざまな催し事が行われる公的な空間である。

屋敷はめったに大きな通り(barabara)沿いには建てられていない。別にそうしなければならないというきまりがあるわけでもないが、大きな通りの近くは「あまりにも開け放されて(pheruphe muno)」いて、良くないのだとある人々は言う。屋敷のほとんどは、大きな通りから分かれてブッシュの中の踏み道(njira)をかなり歩かなければ到達できない奥まったところにある。屋敷にはこうした踏み道が何本か通じており、これらの踏み道はさらに、時として何キロも離れているかもしれない別の屋敷へと続いている。特定の屋敷に行くためには、その途中でいくつもの屋敷(のムハラ)を通過せねばならない。通過者が黙って屋敷のムハラを通過するのは不適切な振る舞いである。他の屋敷のムハラを通過するときには住民に大声で挨拶し、屋敷の住人からの口先は熱心な招待を固辞し、ただ通りがかっただけであることを詫びながら進んでいくことになる。

屋敷の空間を、その外部から仕切る物理的な囲いがあるわけではない。しかし屋敷は観念の上では、その外部(konze)やブッシュ(weruni, musuhuni)とはっきりと対立する形でとらえられている。婚姻外の性関係の相手は「ブッシュの妻(muche wa weruni,or musuhuni)」「ブッシュの夫(mulume wa weruni, musuhuni)」と呼ばれる。屋敷の社会的外部がブッシュという比喩で語られるのは、ごく普通の用法である。ブッシュは野生の動物や霊たちの住処であり、危険と連想されている。屋敷の内部は安全でくつろげる守られた空間である。両者の間の目に見えない境界は、侵されてはならない。ブッシュの動物が屋敷内の空間で目撃されること--陸ガメが屋敷を歩いているのを目撃されるとか、夜間にツチブタが屋敷の地面を掘り返していたとか--は、それ自体できわめて不吉なことと考えられている。一方、屋敷の小屋が火事で焼失した場合、適切な処置なしで残骸をブッシュに捨ててはならない。そうすると「火」はブッシュに解き放たれて、再び息を吹き返して屋敷にかえってくるだろう。つまり屋敷に再び火災が発生するだろうという。火事の「火」は屋敷の中に封印してしまわなければならない。屋敷とブッシュとの不可視の境界に、注意が払われているのである。

 息子たちは結婚後も通常は自分たちの父の屋敷に所属するものとみなされ、父の権威に服する。父の死後、屋敷は、兄弟のそれぞれを長とする独立した屋敷に分裂する傾向にあるが、父の死後もまとまりを維持しつづけ、周囲からは死んだ父親の名を冠して呼ばれつづける屋敷もある。ディゴと境界を接する東部のドゥルマのあいだでは、屋敷の規模は比較的小さいが、牧畜が経済的に重要な位置を占める西部では、こうした大きな屋敷が1993年の時点でも特徴的であった(註9)。

 屋敷はまた「一つの炉 figa mwenga」あるいは「一つの鍋 nyungu mwenga」であるとも語られる。息子の妻は結婚当初は夫の母とともに料理をするが、何人かの子供を作り、屋敷にすでに新しい嫁が来ているなら、「鍋を分け ku-tanya nyungu」あるいは「炉を分け ku-tanya figa」てもらうことができる。こうしてやがて一人一人の妻たちが自分の炉をもち、各自で料理を作ることになる。このように分けられてはいても、一つの屋敷に炉そして鍋が「一つ」であることはくり返し強調される。各自が作った料理は男たちが食べるロメに、そして屋敷の長の妻のところに持ちよられねばならない。「だって鍋はあくまでも一つなんだから。二つだなんて言ってはいけない。鍋は一つだけだ。鍋が二つになることなどない。鍋といっしょに嫁いでくる妻はいないと言うじゃないか。」

 屋敷はズンベ(dzumbe)と呼ばれる大きな共同の畑を持っており、屋敷の長の妻たち全員によって耕作される。収穫物は屋敷の長に属するが、それは彼の第一夫人の小屋の中の穀物貯蔵庫(キツァガ chitsaga)に収納され、彼女によって管理される。このズンベとは別に妻の一人一人はそれぞれコーホ(koho)と呼ばれる個人の畑をもち、その収穫物はそれぞれの妻が自由に処分できる。ドゥルマは4日を一サイクルとする週にしたがって農耕を行う。第一日目(kp'aluka)と二日目(kurimaphiri)はズンベでの耕作、3日目(kp'isha)にコーホでの耕作が行われる。市の立つ日でもあるジュマ(jumma)と呼ばれる4日目には農作業は禁止されている。息子たちは妻をとった後も、父親の畑の耕作に協力するかもしれないが、それとは別に自分自身で土地を開いてそれを自分のズンベとして妻たちに耕作させることも普通である。広大なブッシュの広がりがあるドゥルマの西部では、息子たちが父親の畑とは別に新しい畑を開くことには何の困難もない。人口が比較的稠密なドゥルマ東部でもまだ利用可能な土地についての問題は、さほど深刻にはなっていない(註10)。

 こうした単位を指す言葉の例にもれず、ムジもそれが指す範囲はしばしば相対的である。最も一般的な意味では、それは日本語の「家」や「郷里」、英語の home などと同様、漠然と人の帰属する場を指し示す。一方、妻帯者は実質的には完全に父親の屋敷の従属成員である場合でも、自分の「屋敷」について語ることができる。人々がよく言うように「妻を持つことによって人は自分の屋敷を持つ」のである。ここに、あるいは鍋や炉を分ける習慣の中に見られるように、屋敷がその内部に萌芽状態の屋敷をかかえた自己増殖する単位としてイメージされていることは、一見あたりまえのようであるが重要な事実である。それはドゥルマの父系出自集団の構造についての表象を提供する。

 すでに述べたように父系クラン(ウクルメ ukulume)の内部分節の各段階を指す名称は、屋敷の空間構造にちなんでいる。クランはそれぞれの分節の創始者の名をとって「誰某の戸口 muyango(or muryango) wa 〜」と呼ばれる集団にまず分かれる。各「戸口」は、さらに「誰某の小屋 nyumba ya 〜」と呼ばれる集団に、またそれぞれの「小屋」には更に複数の「誰某の屋敷 mudzi wa 〜」と呼ばれる実際の屋敷が属することになる。この名称は一見奇異な感を与える。「小屋」が「屋敷」より大きな集団を指し、「戸口」はさらに「小屋」よりも大きな集団を指すといった具合に、各分節段階を指す名称が対応している空間的単位のスケールと、各分節段階の集団規模のスケールとは、あきらかに逆転しているようにみえるからである。この不一致はもちろん我々自身の錯覚に基づいている。それが示しているのはむしろ、ドゥルマでは上位のクラン分節は下位の分節を包摂するより大きな集団として形態論的に捉えられているというよりは、下位の分節に「先行」し、下位の分節がそこから出て発展する先駆として生成論的に捉えられているのだということである。「戸口」も「小屋」も今日の「屋敷」に至るそれぞれの発展段階が刻印された里程標である。クランの生成的な内部構造のイメージのなかでも「屋敷」は最も充実した社会単位のイメージを提供しているのである。

屋敷で人々が暮していく上で守らなければならないさまざまな規則がある。これらは「ドゥルマのやり方、ドゥルマ風のやり方(chiduruma)」と呼ばれる一連の規則あるいは物事を行なう手順の重要な一部を形作っている。正しいやり方でことが行なわれなかったり、あるいは避けなければならないやり方でことが行なわれてしまった場合、屋敷で暮す人々にはさまざまな災いが降りかかる。「ドゥルマのやり方は(人を)捕える(chiduruma chinagb'ira)」のである。さまざまな事柄が「屋敷を駄目にする(ku-bananga mudzi)」。屋敷には色々な仕方で「過ち(間違い)が起る(ganakoseka)」。屋敷内の人々の不和や、屋敷の誰かによるドゥルマのやり方の違犯も「屋敷を駄目にする」もののひとつである。しかし間違いは不可抗力的に生じることもある。例えば屋敷の誰かがいつか死ぬことは、避けられないことかもしれない。しかし死者を出すことは屋敷に起った「間違い」の一つとして語られうる。過ちの結果災厄が起るという語り方がある一方で、災厄が起ったことそのものを「過ち」であると語る語り方がある。ドゥルマのやり方にはこれら過ちを修復する一連の手続き--「屋敷を冷やす(ku-phoza mudzi)」こと--も含まれる。

特定の人々のあいだで研究すること

私はどのような人々を研究対象にしていると考えればよいのだろうか。これは一見もっともなようで、実はピントはずれな問いである。その問いは対象が何らかの人口集団であると頭から決めてかかっている。しかしある人々のあいだで研究するということは、その人々について研究するということと同じことではない。

私が話を聞いてまわり、治療にせよ談判にせよ結婚式にせよ服喪の儀礼にせよ、何かあるごとにそれに参加させてもらっていた人々は、例外なく、この地域に住みドゥルマ語を話し、ドゥルマのクラン・システムを通して自分を周囲の人々と関係付けることが出来る人々であった。だからといって、私は純粋なドゥルマ人を対象に研究を行なっているのだなどと馬鹿馬鹿しいことを言い出すつもりはない。もちろん特定の何かを研究するためには、その研究をある特定の人々のあいだでおこなうことが適切であるということはある。ドゥルマのクラン・システムがどのように人々を相互に関係付け、人々によってどのように運用されうるかを知るためには、ドゥルマ語を話す人だけに限らねばならない理由はないだろう。モンバサに家族ごと移り住んで、子供たちにはスワヒリ語しか話させず、それでもクラン・システムを通じて他の親族たちが住んでいる地域にたいする利害を維持している人々もいる。ドゥルマ語によるコミュニケーションの研究がしたいのなら、キナンゴの周辺に住む流暢なドゥルマ語を話すカンバの人々を排除する理由はない。キナンゴの商店に周辺の農民たちが負っている負債の関係を知りたければ、言語や、クラン・システムの境界にこだわるのは必ずしも得策ではない。妖術をめぐる様々な観念や実践を研究しようと思ったら、タンザニアのペンバ島やチャガからやってきて一稼ぎしていく呪術師たちは、そこでの主要な登場人物の一部である。なんらかの基準によってその境界を人為的に確定できるような特定の民族集団に、研究対象を結び付けたり、その内部に囲い込んだりする必要などどこにもない。研究対象に応じて、それにふさわしい人々のあいだで、研究は行なわれる必要がある。しかしそれとそうした人々を研究対象としてもつということとは、近いようでいてあきらかに別物なのである。

私が始めに考察していきたい研究対象は、屋敷の運営と屋敷に生じたさまざまな災厄の処理に関する儀礼的諸手続き--この地域で「ドゥルマのやり方 chiduruma」という言葉で言及される諸手続き--についての知識と実践である。一つの地域に住む人々の間で、これらの知識は不断に交換され、その実践は互いの目に触れ、相互の批評の対象になる。私は、こうした知識の交換と、実践の相互観察の網の目に一時的に接合させてもらったわけである。その網の目を構成していたのが、この地域に住みドゥルマ語を話し、クラン・システムを通して互いの関係を表明する人々--「ドゥルマのやり方」で屋敷を生きる人々--であった。これらの人々の間で流通しているこうした知識とその実践が、私の研究対象であって、あえてそれを「ドゥルマ人について」の研究だと思い込む必要を、私は感じていない。

そもそも「ドゥルマのやり方」を知らなかったり実践しなかったりすればドゥルマ人でなくなるわけではない。とりわけキリスト教に改宗した人々を中心に、ドゥルマのやり方で屋敷を生きることをやめつつある人々がいる。今のところこうした人々にもドゥルマのやり方の知識は理解されている。彼らはただその実践の場からは、身をひくという形で、それと折り合いをつけているのである。ドゥルマのやり方からもっと過激に身をひいてしまっている人々もいる。たとえば、モンバサの生活の中に取り込まれて音信不通となり、そのままモンバサの街角に姿を消してしまった一部の若者たち。キリスト教とにせよ、都市に姿をくらました若者たちにせよ、彼らが真正なドゥルマ人ではない、などとどうして言えよう。逆に、そして全く同じことなのであるが、彼らまで引っくるめた「ドゥルマ人」というカテゴリーに何かの実体を求め続けることに何の意義があろう。ある基準に基づいて--そしてこの場合はクラン・システムへの帰属という実に単純な基準が通用する--同じくドゥルマと呼ばれる人々が、さまざまに異なるゲームをプレイしていたっていっこうに構わない。同様に、こうしたゲームの一つ(あるいは互いに結びついた複合体)だけを考察の対象にすることにも、何の不都合もない。一部の人々しかプレイしていないゲームであり、「ドゥルマ人」全体を対象としていないから研究として不十分であるなどと言うとすれば、勘違いも甚だしい。ドゥルマ人の誰かがプレイすることができるゲームを研究対象とすることは、ドゥルマ人を研究対象とするということとは似ても似つかない作業なのである。そしておそらく後者は研究の対象になどなりえない。


註釈

(註1) 1995年、キナンゴ・ディヴィジョンが分割され、キナンゴ・ディヴィジョンおよびサンブル・ディヴィジョンとなり、クワレ・ディストリクトの行政区分は5つになった。しかし以下で紹介される統計的データはすべて分割前のデータであるために、ここでの記述も分割前の行政区分の記述で一貫することにする。

(註2) Ethnologue の第12版に掲載されている1986年の推定。1996年の第13版(Grimes ed. 1996)では24万7000人という数字があげられているが、これは1989年のセンサスでキナンゴ・ディヴィジョンの総人口が約13万とされていることを考えると、信じがたい数字であり、ここでは採用を見送りたい。Ethnologue の数字は BTL(聖書を現地語に翻訳する活動を行なっているキリスト教団体)からのデータ提供に基づいている。

(註3) モンバサに住むドゥルマ人の数はわからない。しかしミジケンダをすべてあわせると約13万人がモンバサに居住しており、これはモンバサの人口の約27%に当たる。ちなみにナイロビにも約6000人のミジケンダが暮している。

(註4) 1989年の統計によるとクワレディストリクトの人口のうち 82.56% をドゥルマ、ディゴその他のミジケンダに分類される人々が占めている。後背地のキナンゴ・ディヴィジョンに限れば、この割合はさらに大きくなるであろう。

(註5) 歴代の植民地行政官たちはこの地域の経済発展の遅れが母系相続によるものであるという思い込みのもとで、母系制廃止に向けて繰り返し働きかけてきた。1959年には「進歩的な若いリーダーたち」からなるアフリカ人・ディストリクト評議会がすべての婚姻を「牛の婚姻」にするよう勧告を出し、かつ相続においても母系制を廃止するという決議を出しているが、長老たちのはげしい反対にあい、実際の施行が困難であったとの行政官のコメントが残されている(Note to DC Kwale by Provincial African Courts Officer for Law Panel, 1961)。1961年にクワレのディストリクト・評議会は再び母系相続の廃止の決議を賛成22、反対2で可決している(Resolution No.5/61 Kwale District Council)。それは「ドゥルマ地域における進歩を達成するためには、父親の全財産の相続は、ドゥルマ式の婚姻か否かを問わず、父から息子へという形にする」とうたっている。この決議も長老たちの反発をかった。しかし流れはもはや押し止められず、その後「ドゥルマ式の婚姻」から生まれた--従って父親の財産を相続する権利のない--子供が法廷を通して、その正当な相続者である父の姉妹の息子たちの犠牲のもとに、自らの父親の財産の相続を認められるといった事例が増加するに及んで、母系相続の制度は一気に消滅した。

(註6) 「ドゥルマ式の婚姻 ulozi wa chiduruma」の場合、婚資 mali は結婚する男の父親によって提供された。少額の現金と、それぞれが特定の意味を持たされた数匹のヤギが婚資であった。この婚姻による妻は「ドゥルマ式の妻 muche wa chiduruma」と呼ばれた。この結婚の結果生まれた子供は、父系クランは父親の父系クランに属し、母系クランは母親の母系クランに所属した。家畜その他の富は母の兄弟 aphu から相続し、父からは土地とそこに植えてある樹木を受け取るのみであった。
「牛の婚姻 ulozi wa ching'ombe」の場合、結婚しようとする男に婚資を提供するのは父ではなく、彼の母の兄弟であった。婚資は「牛14頭」という言葉で要約されるように大量の家畜を含む大きなものであった。この婚姻による妻「牛の妻 muche wa ng'ombe」は、「殺人の賠償 kore として差し出された少年少女のように」頭を剃られて娶られていった。生まれてきた子供は「ドゥルマ式の婚姻」の場合と異なって「完全に父親のもの」であった。彼は母系クランに関しても、父の属する母系クランの一員となり、家畜その他の財産も父親から相続した。

(註7) 実際のケースはともかくとして、一般的な主張としては、殺人や傷害の賠償を支払う義務は、あいかわらず殺人者の母系クランにあるといわれている。このことは呪詛の効果の及ぶ範囲が母系集団であると考えられていることも関係しているかもしれない。例えば、メンバーの誰かが働いた盗みや危害に対して呪詛 chirapho がかけられた場合、呪詛は母系クランのメンバーを次々に殺し始めるだろう。その場合、下手人に盗んだものを返却するよう圧力をかけたり、あるいは賠償を支払うのは、やはり母系クランである。

(註8) すでに触れたように、今日、教育や賃労働の機会と必要性から屋敷を離れて遠くの町で暮らす若者が増えている。しかしこれらの若者も多くは、自分たちのムジ mudzi はやはり父親の暮らすムジであり、町での住いは一時的な住いに過ぎず、生活の基本はムジでのトウモロコシの耕作だと主張する。独身で、たとえ町に暮らす期間のほうが長くとも、父の屋敷に自分の小屋をもっていることが必要である。結婚すると、自分は町で暮らしていても妻子はムジにおいて畑仕事で自分たちを支えねばならない。実際には、こうしたすべての若者がすみやかに父の屋敷に自分の小屋を建てるとは限らない。しかしこれが余りに遅れ、ムジに残っている弟たちが先に小屋を建ててしまうまで事態を放置しておくと、この兄の立場はきわめて厄介なものになりうる。さらに結婚後も父の屋敷に自分たちの小屋を持たないまま妻とともに町で暮らしているうちに、ムジに残った弟が結婚しようものなら、後に詳しく述べるように、そのこと自体が面倒な「治療」と矯正措置の手続きを必要とする状況である。この兄は自らの健康と生命を危険にさらすことなしには、二度と再び妻をともなってムジに足を踏み入れることはできないであろう。にもかかわらず、こうしたケースは近年ますます目だってきている。その度にそれを矯正する「治療」手続きが、熱心に論じられることになる。

(註9) 東部と西部における生態学的、経済的差異と屋敷の規模の関係は、パーキン(Parkin 1991)が隣接するギリアマにおいて指摘している事実に、ほぼ並行している。

(註10) その形態は実際にはケースごとにさまざまである。現金収入のある者は、その金で困窮した近隣の女性たちや、鋤を持っている隣人、さらにはトラクターを雇うことによって、広大なズンベを耕作できる。このようにして父のズンベよりも大規模なズンベを所有している息子もいる。また、個人土地所有権の登記がすでに完了しているドゥルマの東南部では、現金による土地の売買が行われ、ますます個人の屋敷からの独立性がおおきくなっている。これらは現金収入の機会を与えるモンバサに近い東部のドゥルマにおける、息子たちが父親の屋敷から早期に独立する傾向を一部説明できる。
ズンベは、またしばしば女性にとって、彼女の配偶者という意味でも用いられる。娘に対して「お前がズンベを手に入れたおりには...」と言うことは、彼女の未来の結婚に言及する慣用的な言い回しである。

参考文献

1994, Kenya Population Census 1989, Vol.1. Central Bureau of Statistics, Office oth the Vice-President and Ministry of Planning and National Development.

Grimes, B.F. ed., 1996, Ethnologue (13th edition). Dallas: Summer Institute of LInguistics.

Parkin,D. 1991, Sacred Void: Spatial Images of Work and Ritual among the Giriama of Kenya, Cambridge: Cambridge University Press

Spear, T., 1978, The Kaya Complex : A history of the Mijikenda Peoples of the Kenya Coast to 1900. Nairobi: Kenya Literature Bureau

Willis, J., 1993, Mombasa, the Swahili, and the Making of the Mijikenda. Oxford: Clarendon Press.

行政資料(ケニア国立文書館所蔵)

1961, Note to DC Kwale by Provincial African Courts Officer for Law Panel (April 4th, 1961)

1961, Resolution No. 5/61 Kwale District Council (May 18th, 1961)