1993年、Ngoloko君が私の仕事を手伝いたいと言ってきた。当時、中等学校(Secondary School)の生徒だったが、授業料未納で追い出される危機にあったNgoloko君は、私の助手になってその報酬で授業料を払い、学業をつづけようと計画していた。助手の仕事は主に私が録音してきたテープをドゥルマ語のテキストに書き起こす作業だったが、すでに3人がそれにたずさわっていて、むしろ書き起こすテープがたりないほどだったので(私がちんたらインタビューするくらいでは)、彼を書き起こしグループに入れる余地はあまりなかった。まあいいか。調査そのものに興味を持っているようだったので、テープレコーダを渡して、面白い話があったら録音してきて、と頼んだ。たいして期待はしていなかった。 Ngolokoリサーチが始まった。なんだか妖術に関心があるみたいで、当時私が、屋敷の秩序の乱れに対処するさまざまな手続きに関心があったこともあり、妖術の様々な種類や、怪しい死の事例、その処理の手続などについて、熱心に尋ねて回ってくれた。やたら大量のテープを持ち帰ってきてくれたが、そのなかに、ときどき面白い話が混じっていた。
Ngonyoという人物の溺死のエピソードは、彼がマリアカーニ近くの親族の服喪に参加した際に持ち帰った話の一つだ。その地域ではかなり有名な話で、あとでわかったのだが、なんとこの事件が起きたのは1930年前後、大昔じゃないかい。ドゥルマでは古い出来事の場合、それが何年に起きたかを正確に示すことは簡単じゃない。ただ大飢饉が頻発し、それぞれに固有の名前がつけられているおかげである程度絞ることができる。飢饉の起きた年は行政官の記録からかなり正確に特定できるので、どの飢饉の前だったか、あとだったかで、おおよその年が判明する。Ngonyo氏が溺死したのは nzala ya kabushutsi(カブシューツィの飢饉、別名 nzala ya chingo なめし革の飢饉--寝る際に寝具として敷いていたヤギやウシの革を煮て食べたということからそう呼ばれている--)のときらしく、この飢饉は1930年を挟んで数年続いたとされている。
おそらくNgoloko君にこの話をしたおっさんたちがまだ小さい頃、下手をすると生まれる前の話だ。今だに覚えていられるほどそんなに有名な事件だったのか。
さすがに大昔の話なので、その死そのものが怪しげな物語に取り巻かれている。Ngoloko君はさっそく妖術で殺されたのかと尋ねて、一瞬で否定されていた。が、妖術に劣らずおそろしい父親の呪詛のせいだ、というのが居合わせたおっさんたちの見解だった。
おっさんたちによると、なんでもNgonyo氏は3人兄弟の長男で(これは後に当時を知っている超老人に確認して、実際は次男だったことがわかったが)、父親からお前の人差し指を切り取ってよこせと命じられたそうだ。あきらかに途方もない命令だ。Ngonyo氏は父の命令を拒絶した。そりゃそうだろう。次男(こちらが実際は長男)のMaradi氏も、同様に断った。
Ngonyo氏はその後小雨季の豪雨で増水したNgeyeni川(普段はほとんど水の流れない枯れ川)で流されて死んだ。人々は彼を4日間も探し求めた末にようやくその遺体を見つけた。遺体は屋敷には入れられず(こうした死の禁止事項)、埋葬も一族の埋葬地にではなく、川のほとりに埋葬された。川といってもNgeyeni川ではなく、自宅近くの川のほとりだ。とにかく川のほとりに埋葬されねばならないのがきまりだった。同じく父の要求を拒んだMaradi氏もほどなく自動車にはねられて死んだという。(これも超老人の話から後にわかったのだが先に死んだのはMaradi氏だったらしい)。だから、父親の呪詛のせいに決まっている(そうなのか?)。3人目の兄弟Kumbe氏は、父親に命じられた通り自分の指を切って差し出そうとしたそうだ。が父親は彼を止めた。父親は単に子供たちの心を試そうとしただけだったのだ。(で、自分の息子たちを呪詛するんかい?!)
まるで「昔話」にあるような、実際にはありそうにないお話である。立て続けにおきた不審な事故死が引き寄せた物語の一つだったのだろう。
たしかに面白い話だが、この程度で面白がっていてはドゥルマの調査はつとまらない。この手の話なら有り余るほどある。むしろここでのポイントは、このおそらく自分たちがまだ小さかった頃の出来事を、よく語り継いできたなという点だ。教科書に載っているわけでもない。
Ngoloko君の長~いインタビュー(書き起こしテキスト)を読んでいると、そのヒントに気づく。一人のおっさんが何やら歌を思い出そうとする。
Watsakulwa jeri Ngonyo ga mitsana minne njira ya Mariakani ほんと、Ngonyoさんは4日間も探し回られた マリアカーニへと続く道
このおっさんが思い出せたのはここまで。
話がやがて別の話題にそれ、しばらくしてもう一人のおっさんが思い出したように歌い始める。
Watsakulwa jeri Ngonyo, ee, mitsana minne na njira ya Mariakani Ni bahi, dede sindamanya mino maana hiyoyo mayo, mayo hiyoyo mayo, Kpwekpwe yunarira, unamba baba yulwaphi? Baba sindamwona yaani ta ukarira kundamona abayo wafa Ngeyeni Na kahenzerwe ni o Mulungu ほんと、Ngonyoさんは4日間も探し回られた マリアカーニへと続く道 もうおしまいよ、あんた、もうわかりっこないわ、だって えーん、えーん、お母さん、えーん、お母さん クゥエクゥエは泣いている。お父さんはどこ? お父さんはもう見つかりっこないわ。泣いたって、もう会えないわ。 お前のお父さんはNgeyeni川で死んだのよ 神さまに愛されてなかったのよ
Ngoloko: 泣いていたクゥエクゥエさんって? 男4: そいつの娘だよ。 Ngoloko: ああ、つまりNgonyoの娘だったんだね 男4: クゥエクゥエはその長女だった。それをあの太鼓打ちの連中が歌にしたのさ。
上記の歌のくだりは、調査時には注意をあまり留めずにいたのだが、今あらためて読み直して、私がフィールドで2回ほど遭遇した、私にとってはやや迷惑な慣習に思い至らせてくれた。フィールド滞在中にラマダンに運悪くぶち当たったことが2度ほどあった。その際の子どもの小さい太鼓打ちグループのことだ。
私の調査地の村(lalo近隣集団)にはイスラム教徒は数えるほどしかいなかったのだが、80年代の終わり頃に、なんでもアラブの資金で小さなモスクと併設の寺子屋みたいな「学校」をたててもらえるということになり、各地が争奪合戦を繰り広げたことがあった。イスラム教徒じゃない村人たちまで白い布でにわかイスラム教徒になりすまし、下見にやってくる「アラブ人」の前でその数をアピールして誘致に熱を上げた。その裏には、モスクができれば水道管も引かれるにちがいないという期待があったのだ。期待は当て外れに終わったものの、偽装イスラム教徒の作戦が功を奏したのか、やがて小さなモスクが建ち、ケニア北海岸のポコモ人の導師が赴任してきた。地域の子供たちのなかにも併設の学校に通い始める子たちも出た。
ラマダンになると、このモスクの子供たちがキゴマchigoma(小さい太鼓)という8人ほどの集団を作って夜更けに太鼓をドンドン叩きながら各戸をまわり、歌を歌って小銭を集めて回る。だいたい寝入りばなを叩き起こされて迷惑なのだが、金払いが良いと思われて毎晩のように襲われる羽目になった。当初私は、私の興味関心の対象外にあったイスラムの風習だろうと勝手に思い込んで、ただただ迷惑で、小銭を払ってとっとと追い返してしまいたいだけの連中ととらえていた。でも同居していた助手や調査地に戻っているときには私たちの小屋に宿泊していたNgoloko君は、わざわざプレッシャーランプを炊いたりして、楽しそうに子供たちを迎えていた。
ラマダン2度目の経験のときに、キゴマ隊の歌う歌は毎年子供たちが自分で作っている歌だと教えられた。その内容は、その地域でその年になにかしでかしてしまった「著名人」をおちょくる内容なのだという。Ngoloko君は、一昨年はその年に首になったこの地域のサブチーフについての歌だったと教えてくれた。サブチーフとは、政府に任命され給料をもらう地域の一番下位の長で、地域の権力者の一人ではあるのだが、この男、酒癖が悪く、酔っ払うと自らの名前の頭文字AKにちなんでAK43(カラシニコフ銃)を名乗って大言壮語し、住民からは「大鉄砲 bunduki kubwa」と呼ばれていた。ヤシ酒場で借金がかさみ、ついに政府支給の制服をその抵当に差し出したことがバレて首になった顛末が歌われていたらしい。そして昨年は、Ngoloko君の長兄が、正妻がいるにも関わらず、家には寄り付かず、愛人のもとに転がり込んでいることが歌われていたと、はずかしそうに話してくれた。なんと子供たちが、地域の「時の人」を勝手に選んで歌にしているのである。おまけにこの習慣はイスラムとはなんの関係もないんだと。昔からあったことなんだと。
そういえば、私の筆頭助手カタナ君の母親が訪問してくれたときに、近所で当時長老としていっぱしの顔をしていた、そして私の貴重な情報源の一人だった H...さんについて、「H...人妻かどわかし、賠償金をまたとられ」みたいな歌を口ずさんでいたなぁ。カタナ君の母上がまだ少女だった頃の話だといって。
文化的知識は、どのような経路で下の世代に、そして後の世代に継承されていくのだろうか。学校やマスメディアといった制度の存在を前提としている私たちには、こうした制度的な伝達方式以外のものの存在を考えることは、ときに困難だ。
生物学的な資産、それぞれの種に固有の適応戦略やプログラムはDNAの複製という化学的プロセスによって保証されている。それに対して、ヒトの社会が保有している知識や、過去の人々が紡ぎ出した思索や、啓発的な語り、学問という形である程度体系化されたものですら、DNAの複製に匹敵するような確実なコピー装置をもちあわせてはいない。
人文科学についてはどうだろうか。スローターダイクがかつて指摘したように、人文学は文字を媒体としたテレコミュニケーションであった。 例えば、アリストテレスの書き残したもの、おまけに日本語訳を読んで、人はときにそれに魅了され、動かされ、まるでそれが自分に宛てられた信書であるかのように感じる。それは手紙特有の感染性で、まるでウィルスのように人を返信へとかりたてるだろう。返事を書こうにも、相手はとうの昔に死んでいる。というわけで、人はアリストテレスへの返事である彼自身の信書を、まだ見たこともない、あるいはまだこの世に登場してすらいない誰かに宛てて書き送る。こうした世代や空間を超えて―コピーミスやその他のエラーを含めて―連綿と書き継がれてきたチェーンメールが作り上げる「友愛」のネットワークが、人文主義の伝統と共同性の感覚を支えてきた、とスロータイダイクは論じる。
「書かれた哲学が、2500年以上遡るその創始時から現在にいたるまで、その伝達性/伝染性を保ってきたのは、テキストを通じて友を作るというその能力の結果である。....(西洋の人文学の伝統は)ギリシャ人の書き物を、あたかもイタリアにいる友人に向けて書かれた手紙であるかのようにすすんで読もうという気になったローマ人たちがいてくれたおかげである。....(このことが示しているように)このタイプのラブレターの書き手は彼の作品を、その受取り手について何も知ることなく、世界に向けて送信する。....彼はそれらが名もない、おそらくはまだ生まれてすらいない読み手との友愛の数え切れないほどのチャンスを生み出しうることを意識している。」(Sloterdijk 2009:12-13)
スローターダイクによると、こうした時空を超えたテレコミュニケーションの連鎖こそが、人文主義の根底にある「共同性の幻想の背後」にある。「正典とされるテキストを読むことを通してのそこへの参加には、感動を与えてくれるメッセージに対する共通の愛が見え隠れしている」のである(ibid.)。そしてこれこそがまさに、19世紀、20世紀になって「同じ書物群を読むことによって、似たような心の友人の集合体となった、読み書きする公衆という効果的なフィクション」としての近代的国民に結実した(op.cit.:14)。
しかし彼によると、今やそうした時代は終わってしまった。もはや書かれたテキストには、人々の友愛のつながりを作り出す力はないというのである(ibid.)。
彼は皮肉たっぷりに書いている。
「依然としてそうした書物は、何らかのアクセス可能な版のかたちで静かに横たわっている。あえて読んでみようという理由さえ見つかれば、まだ読むことは可能だ。それらはまるで、もはや友達でいられるかどうかも定かではない著者たちによって送られた、誰ももう引き取りに来ない局留めの手紙のように、静まりかえった本棚に並んでいる運命なのだ。もはや配達されない郵便物は可能な友に宛てられた信書であることを止める。それらは保管庫(archive)に納められるべき品物に変じる。」(op.cit.:27)
彼のこの議論には先見の明があったのだろうか。デリダ的な手紙の比喩には、そう目新しさはないとは言え、書物がたどるとされる「局留めの手紙」という運命には、当時の私には妙な説得力があった。少なくとも私が書いてきたものはほとんどが局留めの書簡に、おまけに保管庫どころか時がたち誰も引き取り手が現れなければ裁断される運命にある局留め書簡に、成り果ててしまっている気もする。その一方で人文学そのものの終焉については全く実感がもてなかった。死亡宣告はあまりにも時期尚早に見えた。その後の10年ばかりのあいだに急速に進んだ、社会における人文主義のプレゼンス低下を見ると、彼の予言が正しかったようにも思える。
しかし、その原因に関する彼の診断は、唖然とするほど表面的なものだ。彼は言う。
「そうなったのは、人々が、退廃のせいで、彼らの国民的な読み書きのカリキュラムに従う気をなくしてしまったからではない。国民的人文主義の時代が終わってしまったのは、友人たる国民に向けて愛を喚起する手紙を書くという技だけでは、もはや近代大衆社会の成員のあいだにテレコミュニケーションによる絆をつくるには十分ではないからだ。メディア―第一次世界大戦においてはラジオ、1945年以降はテレビ、さらには現代のウェブ革命―を通した大衆文化の形成のせいで、現代社会における人々の共存は新しい基盤の上に成立している。....現代社会における政治的文化的統合において、文芸的、書簡的、人文主義的メディアは、周縁的な役割しか果たしていないのである。」(op.cit.::14)
これでは結局、音声、映像メディアの発達で、活字離れが進んでいるという月並みな評論と大差ないではないか。それだったらオーディオ・ヴィジュアルなウェブ上の表現媒体を用いれば良いのでは、程度の話になってしまう。
絆を作り上げる人文主義的チェーンメールが今日無力に見える理由は、メッセージに魅力がなくなったためだけでも、単に文字という媒体がいわば時代遅れとなり、周縁化した(これも必ずしも本当とは思えない)ためばかりでもない。スローターダイクは、人文主義のチェーンメールの絆が無力化したのちも、まるで他のメディアを介した大衆文化によって現代社会においても「政治的文化的統合」が実現しているかのように語っている。しかし、メディアが何であるかを問わず、今日、メッセージの伝送がそれ自体では全体的な絆を作り出し得なくなっていることを、サンスティーンはインターネットの黎明期においてすでに指摘していた。彼が危惧しているのは、言説空間そのものが極端に分断化され、分極化しつつある現実であるが、そもそも単一の回線によって全体的な絆を確保しようという事自体が、あやうい企てなのである。
これから先どうなるかわからないものの、書かれたものによるテレコミュニケーションにすべてを委ねていた結果として人文学そのものが消滅しうる未来の可能性を考えれば、それは明らかだ。
私は以前、京都大学での研究会の発表で、ドゥルマの4日で一周する週のシステムが、90年代に入って、私の目には一瞬にして停止・消滅してしまった理由について論じた。ある年にフィールドに着いて、今日は何曜日と尋ねたところ、誰一人答えられないという状態になっていたのである。連動する人々の実践が変質していくにつれ、4日で一週間の周期そのものに意味がなくなってしまったためである。
人間の文化的資産の継承をささえる回路は、DNAの複製回路の確実さに比べるとあまりにも脆弱である。ドゥルマの社会は、私の目には、近代社会がたどり、その結果自らを危機にさらしている情報の転送経路の単一システム化へと向かわない、複数の互いに独立した転送経路の絡み合い、それらが織り上げている編み物のような、一本の絆の連鎖が切れても、織物そのものは形を保ち続けるような、そんな複数の連鎖の絆によって、その脆弱性にある程度対処できていたとは言えるかもしれない。
子供たちだけが、大人の世界とは独立に、ある年齢層から次の年齢層へと紡いでいく転送回路の絆が属しているのもそうした織物の一部なのだ。。
今回、Ngoloko君の調査記録のなかに見つけ出した、子供たちが大人の指導を得ることなく、「時の人」を選び出し、その歌を作って、下の年齢層の子供にも歌わせる。毎年繰り返される、このチェーンソングの送り出しは、当然過酷な「自然選択」にかかり、その多くが忘れ去られる一方で、なんと60年の歳月を超えて過去の顕著な出来事を保存することができた。子供たちのお小遣い稼ぎと結びついた、楽しい華やぐ娯楽がもつ魅力が、この転送を支え続けてきた。その過程で消え去っていく、多くのつまらない出来事(酒浸りサブチーフの失職や、Ngoloko君の長兄の不貞などはそうなるだろう)のなかで、特定地域で生き延びる「歌」がある。
さらに「昔話」。昔話といえば、私たちのイメージでは大人が子供に話して聞かせる、世代間コミュニケーションの回路であるが、私がドゥルマで遭遇したケースの多くは、年上と言ってもせいぜい結婚したての若い女性(10代)が、おなじcompound内の小さい子供たちに、そしてそうした小さい子供の各々が、競ってその話をマスターし、得意そうに仲間に(そして彼らの目には子供レベルの知性しかもちあわせていないような人類学者に)話してみせるというパフォーマンスの連鎖によって継承されている。
学校ごっこ
なにもこうした口頭伝承の世界にはとどまらない。大人がまず口になどしない野生の木の実の処理法も、大人に教えられることなく、年長の子供が年少の子供に伝えていく。たとえばfuduと呼ばれるブッシュの木(木自身はmufuduとかmufudu madziとか呼ばれている)の実。食べることはできるが、結構臭い。大人たちは、あんなものは子供たちが食べるものだと言って、見向きもしない。しかしfuduの実はたくさんの灰といっしょに袋に入れておき、何日かたつと熟成し色が黒くかわり、少し臭いはするがほんのり甘くなる(何粒かいただいたが、それほどおいしいものではない)。この熟成法は、大人が指導したものではなく、年長の子供から次々と教え伝えられ続けているものだ。 mafudu ga tayari! haya tsola mwenga!
Ngoloko君の調査記録がきっかけとなって、今更ながら、ドゥルマの社会で少なくとも2000年代のはじめあたりまでは確かに稼働していたと思われる、大人を介することのない子供から子供への継承の絆の存在に気づくことになったのだった。