カリンボの病気と憑依、妖術についての彼の妻の語り


「ジャコウネコの池」1989

  私はそこにいた。昔、この辺りにキグゥエという名のディゴの男が一人で住んでおり、ジャコウネコを狩っては食用にしていたからそう呼ばれるようになったのだという。敬虔なイスラム教徒を自認するディゴの人々が聞いたら、それこそ目をむきそうな伝承だ。こんなふざけた伝承をもつ「ジャコウネコの池」と呼ばれる村、そこに私はいた。

  モンバサへ向う街道のジャンクションのそばにある一軒の小屋が私の住処であった。その小屋は、過去二回の調査で私の「助手」をしてくれていたカタナという青年が建てた小屋で、私は彼に勧められるままに、いわば居候のような格好で、そこにころがり込んだのである。

  1989年8月29日、ナイロビで借りた、後輪のサスペンションが完全に死んだレンタカーをなだめなだめ、私は2年ぶりにドゥルマ族の中心の町、前回の調査で私が家族ともども住んでいたキナンゴに足を踏み入れた。人々の消息を知り、今回の調査で住む場所を確保するためであった。照りつける強い日差しと砂埃のなか、キナンゴの町全体が陽炎のように揺らめきたっていた。まるで誰かのアフリカ紀行文から借りてでもきたかのようなありふれたフレーズだが、事実そのとおりの光景だったのだ。そしてそれは、7年前にはじめてこの地に足を踏み入れたとき、私の前に展開した光景と寸分たがわないように見えた。3軒あるだけの軽食堂のラジオが競い合うように同じ陽気な音楽を流し続けていた。

  キナンゴの住民たちと再会の挨拶を済ませ、カタナをキナンゴの教会で見掛けた(カタナは熱心なキリスト教徒であった)という彼らからの情報をたよりにカタナに会いに教会の方に歩き始めたとき、こちらに歩いてくる一人の女性の姿が目に入った。痩せてはいるが、がっしりした身体つき、いかにも精力的に大股で歩くその姿を見間違うはずもなかった。

  彼女はメバカリという名で、「ジャコウネコの池」の隣の村に住むカリンボという老人の妻であった。6年前の1983年、私は調査地の「青い芯のトウモロコシ」の村で、私の言語能力の不足と人々の一種のプラクティカルジョークに端を発するひょんな成り行きから、ドゥルマの14ある父系クランの一つマニョータの一員としての資格を、一頭の山羊と酒(mbuzi na kadzama:これは一応クラン編入の正式な手続であった)と引換えに手に入れており、その際与えられた名前が、たまたま彼と同名のカリンボという名であった。この「名を同じくする somo 」という事実のおかげもあって、私とカリンボは知り合ってすぐすっかり親しくなり、彼は私のよき相談相手となった。彼は当時村長 muzee wa mijiの地位にあり、その知識の豊富さと雄弁は多くの人々から一目置かれるところとなっていた。彼らは今回の調査で私がもっとも再会を楽しみにしていた人々だったのである。

  メバカリの方でも私にすぐに気付いた。彼女は一瞬信じられないというような表情を浮かべて私を凝視した。しかしすぐ独特の精力的な身のこなしで、私に駆寄って来ると、例の畳みかけるような調子で興奮して話し始めた。私は最初、彼女が何を喋っているのか理解できなかったが、彼女はそんな私にお構いなしに何度も繰返した。昨夜彼女は私の夢を見た。その夢の中で私はキナンゴの郵便局の辺りを歩いていたそうである。そこで彼女は、私が来ているのかもしれないと思い、確かめにやって来た。すると何とそこに私がいるではないか、という訳だ。いったい、いつ来たのか。私が今着いたばかりだと答えると、彼女は真面目な顔で付け加えた。彼女の身体にいる憑依霊は夢でよく真実を教えてくれるので、今回もお前にあえると確信していたんだよ。

  なんと、あなたは身体に憑依霊をもっていたのですか。知りませんでした。それは実際私にとっては初耳の話だった。しかしこの話で私が心を動かされていた部分はむしろ、単に彼女が私の夢を見てくれていたという事実の方だったのかもしれない。霊の話しはというと、私にはそのリアリティが今一つ伝わっていなかった。そう、お前は知らなかった。私はお前にこのことを言ったことがなかったのだから。メバカリに憑いていた霊はキリクとよばれる霊であるという。後で彼女の屋敷に来るよう何度も念をおした後、彼女は自分の村へ帰っていった。

  再会したカタナの勧めにすぐのって、カリンボたちの村から歩いて30分もかからない「ジャコウネコの池」に暮すことを決めた私は、メバカリとの約束通り、その日の夕方カリンボの屋敷を訪れ、カタナも交えて久しぶりに、ドゥルマ式の夕食をとったのだった。

  カリンボは私が今回妻子を伴わずに来たことを知ると、ちょっとがっかりした様子だったが、直ちにそれをネタに私をからかい始める。半年もの間どうやって我慢するつもりなんだ?私には曖昧に笑ってごまかすのがせきの山である。カタナが頼みもしないのに私の肩をもって、日本人は他の白人と違って性的に放縦ではないなどと、ピントはずれの議論を始める。俺だって、キリスト教に改宗して以来もう何年も女性とは関係をもっていないが、平気だ。4人も妻をかえたお前とは違うさ。私に向って、ねえ、知っているかい、お前のソモ(somo「名を同じくするもの」)は四回も結婚したことがあるんだよ。えっ、本当ですか。私はあなたの奥さんはメバカリさん一人だと思ってました。ああ、メバカリと結婚する前に二人の妻がいて、子供までいた。だから私の子供名(dzina ra mwana 第一子に因んで名づけられる名前)はベムエロ(ムエロの父)ではなくて、ベニャンブラ(ニャンブラの父)というのさ。そういえば、彼が人々からベニャンブラと呼ばれているのを、彼にはムエロ以外に子供がいないのにと、不思議に思ったことがある。へえ。そうだったのですか。

  カタナのおかげで、なんとか話題をそらすことができたようだった。誤解を避けるために付け加えておくと、カタナとカリンボは会えば互いに冗談を言い合うことが期待されている、人類学で「冗談関係 joking relationship」と呼ぶ特別な親族関係にたっているため、こうした一見無礼なやり取りが可能だったのである。

  カリンボによると、最初の妻は娘を二人産んだが、離婚した。二番目の妻は子供を産まなかったので離婚した。メバカリと結婚して長男ムエロが生れた。その後M子という娘と結婚したが、メバカリが病気になってしまった。メバカリに憑いている憑依霊の仕業だといわれた。(なるほどメバカリに憑依霊がいるというのは、こういった経緯でだったのか、と私は一人納得する。)でも、とカリンボはいかにもおかしくてしかたがないという様子で続けた。M子を家にかえしてしまうと、病気はすぐ治ったのさ。へへへ。ああ、M子はあまり振る舞いがよくないので離婚したんだ。私はメバカリの様子が少し気になって、彼女の方をちらと見たが、メバカリは少し離れたところで、何も気にする風もなく夕食を頬張っていた。

  メバカリの病気に対するカリンボのコメントには、ちょっと意外な思いをした。私はそれを、メバカリの病気は憑依霊の仕業だと言われているが、実際は、彼女の嫉妬から来るものだった、と示唆しているものと受け止めたのである。私はこのコメントを、憑依に対する懐疑的な解釈の一例として、フィールドノートに書留めるのを忘れなかった。

君は憑依霊 p'ep'o と話をしていたのだ

  「ジャコウネコの池」に住みつく準備を整えて、ブリキ箱一個分の調査機材とともに私が到着した時には、すでに昼を大分まわっていた。熱い日差しのなか「ジャコウネコの池」は静まりかえっており、時おりふく風だけが、気持ちよかった。小屋にはしっかり鍵が掛かっていた。一昨日出るときに今日には戻ると伝えてあったはずなのに。そんな不満が頭をもたげてきたとき、小屋の裏から眠そうに目をこすりながらカタナの弟マイタが現われた。彼はカタナに頼まれて私がくるのをまっていたのだが、つい日陰で眠ってしまっていたのだ。M氏の母親が昨日なくなり、カタナは今日はその埋葬の手伝いにでかけているという。キリスト教徒のカタナは葬儀(hanga)には参加しないが、参加が許されている埋葬でその分しっかり働いて穴埋めをするのが常であった。お前はどうする?もちろん行かない訳にもいくまい。

  マイタに案内されてM氏の屋敷に着くと、ちょうど遺体が運び出されるところであった。キナンゴから着いたばかりのイスラムの教師がコーランを唱えていた。ああ、この地域には随分イスラムが浸透している。「青い芯のとうもろこし」での埋葬とは大きな違いだ。遺体はかなり離れたその屋敷の人々の墓所まで運ばれてそこで埋葬された。イスラムの教師から脇へさがって黙っているようにいわれた女たちは、伝統的な墓地での号泣が禁じられて、不満の声をもらしている。私は人々から少し下がった所で、ちょうど疲れて腰を下ろしていたB氏を相手に、さっそく質問をしている。

  なくなったM氏の母は、憑依霊の呪医だったそうだ。それゆえ、彼女の死に際してカヤンバ(kayamba 憑依霊の儀礼で使用される楽器,またその儀礼の名前)が打たれることになっている。すでに昨夜も夜どおしカヤンバが催されていた。これから葬儀が終わるまで毎晩続けられるだろう。もし良ければ来たらいい。私が知っていたカヤンバ儀礼は、霊に憑依された患者の治療のためのものであった。葬式の際に行なうとは初耳だ。もっと詳しく聞こうとした時、人々が屋敷へ戻る気配をみせはじめた。B氏も立ち上がった。先程から所在なさそうに私の隣で事の次第を眺めていたマイタが、傍らの地面の草が丸く踏みしだかれているのを指して、ムセゴ(卑猥な内容の歌詞をもつ埋葬歌)の跡だと、さも何か大発見でもしたかのように言った。

  B氏からそれ以上聞くのを諦めて、屋敷に戻ろうと歩き始めた時、カタナがやや遅れて墓地にやってきた。屋敷の方でいろいろ用事を言いつかっていたのだ。カタナは私の顔をみると、カリンボが昨日病気になった、意識を失って、いきなり焚火に倒れ込んだのだ、幸い火傷はしなかったらしいが、と告げた。私は埋葬に集っていた人々の間にカリンボが居なかったことに気付いた。

  それはたいへんだ。この間会ったときには元気だったのにね。キフォフォ(癲癇)じゃないのか?僕も知らない。人から聞いただけだ。お見舞いに行かなくてはね。川で水浴びを済ましてすぐ行こう。

  いったい今日は何という日なんだ。私はまだ昼飯もとっていないことに気付いたが、どうもその暇もなさそうだった。

  カリンボの屋敷へ向う途中、M氏の屋敷から帰る途中のンデグァに会う。彼はカリンボの兄の息子で、結婚してカリンボの屋敷のすぐ裏手に屋敷を構えている。彼によると、カリンボが倒れたのは正確には一昨日の夕方だったそうだ。病気が戻ってきたのだという。カリンボは1976年に初めて同様な発作を起こして以来、何度か同じ病気で倒れていたらしい。最後に倒れたのは、一昨年の事だ。じゃあ私が日本に帰ったすぐ後じゃないか。全く知らなかった。ンデグァによると、これはカリンボの母系親族(ukuche)のある人物が彼にかけた妖術の所為である。しかしンデグァもそれ以上の事は知らないらしい。

  カリンボの屋敷に着くと、何か料理でもしていたらしいメバカリが汗を拭き拭き小屋から出てきた。カリンボの病状を聞くと、相変らずだ uchere vivyoという。そう言っておきながら、私があわてて止めるのも聞かず、小屋の中に向って「お前のソモ(somo 名前を同じくするもの)が来たぞ。出てきて挨拶しろ」などという。「ああ、いいです。いいです。寝てて下さい。私はちょっと様子を見に来ただけです。」カリンボは椅子をもってのろのろと小屋から出てきた。目が充血していて、不機嫌そうに見えた。しかし思ったほど重病でもなさそうだ。しかし、次の瞬間私は凍りついた。カリンボはいかにもよそよそしげに私に握手を求め、スワヒリ語で挨拶したのだ。

  ドゥルマの人々はほとんど誰でも流暢なスワヒリ語を話すことができる。しかし非ドゥルマ人と話をする場合を除いて、普段スワヒリ語が使用されることはまずない。ましてや私を知っている者なら、私に対してスワヒリ語を使うことの無意味さは充分承知の筈である。私のスワヒリ語が使い物にならないことは広く知られていた。むしろドゥルマ語の方が少しはましだった。カリンボはよく冗談にスワヒリ人のふりをして、カタナとスワヒリ語で論争したりしてみせることはあったが、今のケースがそうではないことは、私にもすぐ分った。彼は明らかに怒っていた。

  勧められるまま椅子にならんで腰掛けたものの、私は取りつくしまがないように感じた。彼は私の事が分からないのだろうか。まるで初めて会った白人に対するような態度ではないか。彼は私のドゥルマ語に対してすらスワヒリ語でしか応えなかった。しかし私の事が分からない訳でもないらしい。というのは彼は日本からのお土産として数日前彼に渡した時計について文句を言い始めたからだ。「お前は問題だらけの時計を私にくれた。」「え?ちょっと見せて下さい。」時計にはどこと言っておかしい所はなかった。彼はいったい何を怒っているのだろう。しかしこのとき私がカリンボに対して抱いた感じは、別の事を私に告げていた。カリンボは気が狂ってしまったのだ。

  カタナはというと、メバカリと最近砂糖が手に入りにくくなったなどという話に熱中している。おい、おい、なんとかしてくれよ。カリンボは今や黙りこくって、私の方をときどき、ちらと眺めるだけである。私もどうしてよいか分からずに黙り込む。

  メバカリが中で食事するよう我々を誘った。カリンボは自分はトウモロコシは嫌いだと言って断わった。メバカリに対してもスワヒリ語を用いている。メバカリは全く気にした風もなく、じゃあ寝てなさい、と言って、我々に茹でたトウモロコシと紅茶を勧めた。カリンボの兄の妻ニニアと彼女の娘が我々に加わる。そのうち、牛の皮で仕切られた向う側からカリンボがすすり泣く声が聞える。自分たちだけで食べて俺にはくれない、と言っているらしい。「お前が要らないと言ったからじゃないか。欲しいんなら出てきて一緒に食べなさい。」カリンボはのそのそ出てきて食べ始める。まるで駄々をこねている子供みたいだ。

  呪医の心得のあるニニアがスワヒリ語でカリンボにしきりと問いかけている。カリンボは、ほとんど答えず、良く聞き取れないような声で一言ふたこと応えるだけである。一体何が問題なのかと尋ねているらしい。カリンボのほうでは、邪心のない呪医が治療すればなおるだろうと繰り返しているだけだという。いきなりカリンボが私に向って、かなり強い調子で、ルンガルンガ(タンザニアとの国境附近の町)まで自分を車で連れて行くことを約束するよう要求する。繰返し繰返し要求する。私は訳がわからず、おどおどする。たしか、前回の調査のおりに彼とのルンガルンガ旅行の計画を立てていたのに、実現できなかったっけ。彼はそんなことを今ごろ思い出したのだろうか。そういえば、当時彼は随分この旅行を楽しみにしていたものである。なんとなく断わりにくい気分になる。メバカリはルンガルンガにいるカリンボの姉が有名な呪医であり、そこでの治療をカリンボが求めているのだと教えてくれる。ああ、そうだったのか。私は彼の要求をのんでもいいという気分になっていた(私の調査にとってもいい機会だ)。でも気の狂っているかもしれない老人を隣に座らせて車を運転するのはかなわない。カタナも来てくれないだろうか。カタナは自分はクリスチャンだから呪医の治療の場に行くことは出来ないと、実につれない。(おいおい。お前それでも一応俺の助手だろう?)とりあえず3日後まで待ってくれるよう、時間稼ぎをしようとする。しかしカリンボは今すぐだ、明日だ、と言ってきかない。メバカリが無理を言うな、と諭すように説得する。

  外はもうすっかり暗くなっていた。その後の小一時間は、私にとっては全てが異様な光景であった。小屋の内部は暗く、片隅に一つ灯されたランプの光では人々の表情まではとらえられない。メバカリは炉のそばの壁にもたれて足を投げ出して座っている。カリンボと、椅子を与えられた私以外の者はみな地面に直接腰を下ろしている。互いに交わされる会話を除いては皆、動かぬ何かの塊のように見える。暗がりの中で落着きなく動いているのはカリンボの姿だけである。カリンボは私がそれまで知っていた彼とは全く別人のように見えた。彼はスワヒリ語しか喋らず、ときおり立ち上がっては表に出て、見えない何かを追い払おうとでもいうかのように何かわめいたり、見舞にやってきた兄の息子がしているマサイの護符を気にくわないと言って、戸口で乱暴に追払ったりする。かと思うと、いきなり泣き始める。やはり彼は、控え目にいっても「どこかおかしい」。しかし私にとっていっそう奇妙な感じを抱かせたのは、集った人々には特にとりみだした様子がないということであった。メバカリはカリンボの「知性が変化した Achiri yibadilika.」と平然としている。ニニアの娘とンデグァやカタナは、今やカリンボを全く無視して、最近カウシャという毒をもることが流行っている話とか、マジュート(1984年にやってきてこの土地の妖術使いの術を封じ込めてしまったと言われる呪医)の効目はまだ有効かどうかの議論、人の体に「歯」を打込むという新手の妖術が現れ、それを治療する専門の呪医に関する噂、こういった話に興じている。そして私はカリンボのことを気にしながら、哀しいさがで、これらの話をノートにメモしている。いったい、これはなんという状況なのだろう。私は動転していた。しかしそれはこの場には全く相応しくないように思えた。私は奇妙な非現実感に浸っていた。

  メバカリに半ば強制される形で、カリンボが床に就いたのを見届けて、私はカリンボの屋敷を辞した。帰り道、私はついに気になっていた質問をカタナに向けた。「カリンボは発狂した(udzayuka?)んじゃないのか?」「心配しないでもいい。君は自分が憑依霊と話をしていたのが分からなかったのか。」「憑依霊って何のことだい。だってンデグァはカリンボの病気が妖術の所為だと言っていたじゃないか。」「妖術もある。憑依霊もいる。utsai u kuko, na nyama a kuko.」私はこの説明に全く納得できなかった。それより、貴重な相談相手の一人をおそらく永久に失ってしまったこと、3日後に約束した旅行のことですっかり気が重くなっていた。

  翌日、私はモンバサにいったん戻ることにした。ちょうどその時私の属する調査隊の他のメンバーもモンバサに来ており、各々の調査の準備を進めていた。私が使用していた車はこの調査隊で借りたものであったので、ルンガルンガへの旅行の為に別の車を調達する必要があったのだ。そろそろ出ようかと考えていたとき、キナンゴで働いているカリンボの一人息子ムエロがやってきて、昨夜カリンボが荒れて人々を家から追出し、メバカリすら入れてもらえず、夜中すぎに彼が寝静まるまで小屋に入ることができなかったと報告する。カリンボの治療にはイスラム教徒の着る白い長衣(kanzu)と、同じく白い帽子(kofia)、乳香などを揃えねばならない、しかし問題は金だ、という。私に援助を求めているのである。私はカリンボの発狂をほぼ確信していた。でも人々の治療には全面的に協力するつもりではあった。キナンゴに一緒に行ってこれらの品物を購入する。

  モンバサで車の調達に意外に手間取り、私が再び戻ってきたのは次の日の夕方だった。旅行の約束の期日が明日に迫っていたので、カタナとともにとりあえず確認のためカリンボの屋敷に直行する。しかしそこで待っていたのは、まったく拍子抜けするような光景であった。カリンボが他の人々と仲よく笑いながら食事をとっていたのである。

  カリンボは一見したところすっかり良くなっていた。カタナとさっそく冗談の応酬を始める。陽気で、つっこみが好きで、少々スケベないつものカリンボだった。もちろん旅行の話はなかったことになった。まだカリンボの方で準備ができていないというのだ。その日のフィールドノートに私は次のようにメモしている。

  Sep.8,1989
  ムエロの説明によると、カリンボの異常は jine mwanga(註 イスラム系の憑依霊の一種)によるものであった。 kanzu, kofia(註 イスラムの白い長衣と帽子)などは、それが要求していたものであったらしい。それを買ってやったおかげで、カリンボはすっかり正常に戻り、昨夜は熟睡できたという。一昨夜、人々を家から乱暴に追出したりしたのは、mwanga がこれらのものを手に入れられないのを shononeka(註 怒り哀しむ)しての事であったという。彼は golomokp'a(註 憑依している霊が表に現れる)していたのだ! mwanga はムエロになにが欲しいかを伝え、かくして昨日それを買うことになったという訳である。これは nyama wa kuusa(註 危険なため除霊されるべき霊)ではなく、mwirini(註 患者と永続的な関係を結ぶ霊)であるという。その儀礼はイスラム風で、ディゴにいかないとできない。白い山羊を一頭手に入れ、右の耳にマークをつけて、毎日 ku-risa(註 家畜などの面倒を見る)し、家に入れて可愛がってやる。この mbuzi(山羊)は tsinza(屠殺)してはならない。もう一頭白い山羊が必要で、こちらは儀礼の際に供犠される。またこの霊はドゥルマ風の家に住むことを嫌がり、スワヒリ風の家を欲しがっているので、それを建てる準備をかなり以前から整えている。柱材が積んであったのはそのため。

  結局カタナの言ったとおりだったという訳である。あの日、スワヒリ語を話し、暗闇の中で落着きなく動き回っていたのは、カリンボではなく、ジネ・ムァンガと呼ばれる霊だったのだ。けっして彼らが呼んだ訳ではないが、突然やってきてしまったこのお呼びでない霊を、しかしながら人々は平然と受け入れた。霊が何の要求でやって来たのかを語ってくれるのを待っていたのである。そしてこの霊は、知らせを聞いて夜更けにキナンゴからかけつけたカリンボの息子ムエロに対して、その要求を伝えて、去った。イスラム系の霊であるジネならスワヒリ語で話すのも当然だ。彼にドゥルマ語が話せるはずがないのである。イスラム系の霊である彼は、また未開地(nyika, bara)の習慣や、未開地の霊の系統に属する霊を嫌っている。茹でたトウモロコシのような未開地の食べ物を拒絶してみせたり、マサイの霊の護符をつけた男を追払おうとしたのも当然だったのだ。あの日の彼は、まさにジネとしてごく自然な振る舞いをしていたのである。

  実は、私はまだ釈然としていなかった。しかし人々が与えるこの説明で無理やり自分自身を納得させることにした。そう、あの日私はたしかに霊と話をしていたのだ。

メバカリ、事の顛末を語る

  ジャコウネコの池における最初の数日間に起こったこの一連の出来事の経緯を、フィールドノートの走り書きのようなメモをもとに、私は今物語っている。私のフィールドノートは、小耳にはさんだ新しいドゥルマ語とカタナによるその説明、断片的なメモなどの無秩序な集合体である。そしてその間をぬって、さまざまな事の経緯が日誌的に記されている。私が物語を手に入れたと信じた瞬間の痕跡である。それらは今の私には、まるで他人の声のようだ。それらのメモは、その数頁後の別のメモによって上書きされる運命を知らないかのように確信に満ちている。

  ルンガルンガ旅行がキャンセルされ用のなくなった車を返しにモンバサに戻った私は、一つの事件にけりがついた安心感からか、ふと思いついて、モンバサに滞在していた調査隊の他のメンバーを私のフィールドに案内しようと思い立った。カリンボも彼らに会いたがっていた。彼らはまだ調査を始めていなかったので、ちょうどいい機会だと思われたのである。

  皆を連れて訪れてみると、カリンボの屋敷はもぬけのからだった。ムエロだけが留守番をしていた。そして私は、夫妻が妖術の呪医の治療を受けるためにメルバンバにいったと聞かされた。唖然とした。もう治っていたんじゃなかったのか?そう、彼がもう自ら歩いて行けるようになったので、二人してでかけて行ったのだ。なんの為に?妖術の呪医の治療を受けるためにと言ったじゃないか。

  同行者たちの手前、あまりしつこく問うのは止めることにした。それにしてもこの人達のやることはわからない。確かにあの日の異常な振る舞いは憑依霊のせいだったのではなかったろうか。私はようやくその説明に納得したばかりだったのだ。それが妖術の治療とはどういうことなのだろう。そのうちカリンボの病気の経緯について詳しく聞いてみなくては。

  その二日後の夕方、私とカタナは再度カリンボの屋敷を訪れ、そこにちょうど居たメバカリから話を聞くことになった。

H(浜本):先日は治療に行っていたと聞きました。

M(メバカリ):「本人がここまで歩いてこれるなら、本人に来させなさい。私からは行きません。」そう(呪医に)言われたもんで、朝早く連れに帰ってきたんだよ。

H:最初はあなた一人で行ったのですか。

M:最初は私一人で行って、占い mburuga を打ってもらった。そのままそこで寝て、翌朝早くこの人を連れに戻ったんだよ。そしてその日のうちにとってかえしたのさ。

H:その呪医は占いもできるのですか。

M:ええ。コーランのね。(コーランをでたらめに開いて、開いた頁に書いてあることから占うといわれている)

H:占いでどうでたのですか。

M:見立ては、物を打込まれた watiywa chitu ということだった。

K(カタナ):身体に?

M:腹の中に。ワリと一緒に食べさせられたのさ。この人が食べた物とは、キペンバのジネ jine ra chipemba だった。それが打込まれた物だ。

《註 次の二人のやり取りは、私はその場では理解できなかった。もし理解できていたら、この方向でもっと詳しく聞いていただろうに》
K:例のカリンボの身内の問題(身内のものによってかけられた妖術の事)と言っていいんだね。

M:まさにそれだよ。何もかも残さず(占いは)捉えていたよ。それを行なった者が二人だということまでね。一人はもうこの世にいないということまで。事実一人はもう死んでいる。そしてもう一人の方はまだ健在だ。

H:なるほど物を打込まれた。それでどうなったのですか。
(やれやれ、私は愚かにも話の腰を折ってしまってる)

M:(その呪医が)言うには、「大した問題じゃない。まず、彼を殺すために打込まれた物だが、(本当なら)彼はとっくの昔に死んでいただろうに。しかし、彼には一人の霊がおり、そいつはとても獰猛な霊だ。例の病気がやってくると、まさにその霊が、前に立ちはだかって、危うく死ぬところの彼を守るのだ。」そんな訳で、小枝を折って、この人を治療する呪医を選ぶことになったよ。(諮問者は小枝を何本かに折り、心の中でその一本一本を特定の呪医に見立てる。占い師は、一本ずつ小枝の匂いをかいでいき、一本を選び出す。それが治療にあたるべき呪医である。占い師にはどの小枝が誰を意味しているのかは知らされない。)

実際一つのこらず明らかにしたよ(その占いは)。彼が言うには「この男に物を打込んだ奴は、キペンバのジネを打込んだ。そして、この男が旅行にいって、旅を終え、戻ってきた、まさにその日の夕方(病気が)始まった。」そして現にそのとおりだった。ああ、あんた。それはひどいもんだったよ。

K:さて、あなたは呪医を選ぶための木の小枝を差し出した。それで?(カタナはこの経緯についてはよく知っていたので話の腰を折って、先を急がせたのだろう。)

《中略 占い師が自分自身を呪医に選出した経緯が語られる。次いでその呪医について問答。ペンバ人でおそらく20才に満たない若者らしい。しかしコーランの知識にはよく通じているそうだ。ついで、どのような治療が示唆され、そのためにどのようなキリアンゴナ(chiryangona 治療に必要とされる物)を手に入れるよう指示されたかが語られる》
K:それでは、一昨日その呪医は(カリンボに打込まれたジネが)彼をすっかり解放するようにしようとした訳ですね。除霊 kukokomola ですね。

M:そう。その呪医は、彼が除霊され、徹底的に閉じられる(霊の攻撃を防ぐ)ようにしたがっている。ただその日は護符を作ってもらっただけだよ。つまりハメハメ(hamehame 本格的な治療を待つ間の対症療法)のようなものだった。本格的な治療はキリアンゴナ(治療に必要とされる品々)が全て手に入ってからだ。彼が言うには「その時(カリンボに)来させて、大掛かりで本格的な治療 uganga ubomu wenye を受けさせよう。以後完璧に防御 ku-finywa されるように。」

H:一昨日は護符を作ってもらっただけなのですか。

M:ああ、それだけだよ。実際今身に着けている。それから(カリンボは)釘を取り出してもらった。まるで金でできたようなのと、一本真黒なやつと。彼が言うには「この黒々した釘が見えるか。この黒い釘の意味はというと、妖術使いが、炒めて作られた土着の呪薬(muhaso wa chenyezi wa kukalanga ドゥルマの伝統的な呪薬は種々の木の根などを炒めて黒い炭の粉のようにした物である)をとって、前面に置いたものだ。次いで妖術使いは、この釘を、つまり彼(カリンボ)を倒すことになったこの釘をとって後方に置いた。何故なら、あなたが占いに行っても、普通の妖術だけを見るようにするためだ。しかし人を喰うこの釘の方は見えないように。」ほらこの4本の釘だよ。

《メバカリはマッチの箱に布にくるんで入れてあった釘を我々に見せる》

(カリンボは)この下腹の臍の辺りをツォザされた(ku-tsodza 妖術の治療法の一つで、剃刀で皮膚に細かい傷を入れ、傷口に呪薬をすりこむもの)。臍の周りぐるっとね。大仕事だったよ、カタナ!

(呪医が占いで言うには)「この腹は、まるで鼠が中にいるみたいに、中で音をたて(yinagomba 文字通りには『喋る』)はしなかったかね。」私は「そのとおりだ taire」と言ったよ。この病人(カリンボのこと)はいつも私と一緒にいなかっただろうか。(自分の寝台を指して)私がここに寝ていないとでも言うのかい。腹がそんな風に音を立てるのは、私はもうすっかり聞いているよ。たとえ真夜中でも。私は彼に尋ねもしたよ。「どうしてお前の腹はそんな風に音を立てるんだい。」彼は言ったもんだ。「ただのミショカ(mishoka 腹がキュルキュルいう音)だよ。ミショカだったら鳴って当たり前だろ。」でも私は彼の腹がそんな風に鳴れば、例の病気が近いなと分かったものだよ。というのは、その病気はいつもそんな風に腹が鳴ることから始まったんだよ。次いで腹がパンパンに膨れる。もう二日ももたなかったね。彼は倒れたものだよ。ああ、兄弟!釘は臍のところから取り出されたのだよ。

K:釘3本?

M:違う、違う、4本だ。妖術使いによって打込まれた。この黒々したやつを見てよ。この黒いやつが前面にあった。占いにいっても呪薬の妖術が utsai wa muhaso (通常の妖術)見えるようにね。でもジネの妖術 utsai wa majine (ジネの妖術はイスラム系の妖術だとされている)のやつはこの小さいの3本だ。この白い釘(ジネは白い色と結びつく)が見えないかい。そしてこの赤いやつ、これが目に問題を引き起こした(kp'ivisa 熟させる)やつさ。ほら、あの人の目が真っ赤だったのを見たろう。まるでトウガラシみたいに。さてこの3本が問題のものだった。しかしこの黒いのは、ムレヤ(mureya 黒い呪薬)の瓢箪の呪薬だ。これが前の方に置かれていた。占いにいってもこれが見えるだけさ。でもこちらの方は見えない。

K:ところで、これらの釘は食べ物の中に混ぜられて打込まれたのですか。

M:そうそう。そして臍のところから取り出されたよ、あんた。

《中略 釘を呪医がどのようにして取り出したかが詳細に語られる、およびそれを巡っての我々の問答》
H:ああポレーニ(pore 同情の意を表明するドゥルマ語)。なんと一昨日は大変な仕事をなさったのですね。

M:この釘は捨てちゃあいけないんだよ。まずきちんとそれに対してするべきことをして、それを解毒して(ku-reza 術の効力を解除する)、それが終わったら、それを護符に縫込むんだよ。本格的な治療 uganga ubomu mwenye の際にね。そこで私は、この釘を息子に見せるためにもって帰りたいと言ったのさ。カタナと友人カリンボ(私のこと)に見てもらわないと。ほら、あんた、これがあなたの友人から取り出されたんだよ(私は手に取って見る)。

H:お皿 kombe は?(イスラム系の霊の治療法の一つ、白い磁器の皿にサフランの色紅でコーランの章句を書き、それを水やローズウォーターで溶いたものを薬として飲んだり、水浴療法に用いたりする)

M:水浴びの皿 kombe ra koga と、飲む皿 kombe ra kunwa も書いてもらった。でも一つだけだ。それにそこで水浴びする時の呪薬 muhaso ももらった。さらに彼にこれを注いで飲ませてやってくれと言って渡された。それから、彼が燻しをするようにと、この燻しの呪薬 muhaso wa kudzifukiza (布を頭から被り、その中で呪薬を燻してその煙をすいこむ)を渡された。

H:(見せられた呪薬をさして)これは煎じる薬ですか、つまり飲む薬ですか。

M:違う、違う。燻しの呪薬だ。炭をそこ(壷のかけら)に入れて、この呪薬をとって、その炭のところに入れる。次に布を彼にすっぽり被せる。さて彼は煙が目の中に入るようにしっかり目をあけておく。

K:飲むための呪薬は、皿 kombe のやつですか、あるいは..。

M:飲み薬は、水浴び療法がすんでからだよ。それは今度の日曜に終わる。ちょうど七日目だ。

H:つまり何日指示されたのですか。

M:七日だ。そしてその七日目が今度の日曜だ。

《中略 再び釘の吸出し療法に関する問答》

K:なるほど。いまやあなたは本格的な治療を待っている訳ですね。

M:ええ。

H:ところで、カリンボを打ち倒した当の妖術師は?

M:そうそう。この占いを打ちに行った日、こんな風に言われた。スワヒリ語で占いは出されたんだよ。(以下メバカリは呪医を真似てスワヒリ語で話している)「あなたはこれをしでかした(カリンボに妖術をかけた)のが、ただのドゥルマ(無関係な人の意味)だと考えているのか?ただのドゥルマではない。彼に術をかけたのは彼の身内の人々だ。何故なら、病気であるこの旦那は、実に口のたつ男だ。彼が発言すれば、そのやり方は彼の仲間たちから嫌われる。というのは、彼こそ論争の名人だからだ。何か紛争が生じたとする。しかし彼が行って、その場で語れば、場は収まる。 彼は見事にその場を収める。ところで、これこそ、妖術使いたちによって彼が憎まれる点なのだ。そして彼らは彼の身内だ。単なるドゥルマとは申しますまい。」で、実際彼の母系親族の人間だった。という訳で、これは全く正しかった。

《中略 妖術使いがどうやって彼を病気にしたのかの詳細が語られる。占いは妖術使いが、カリンボに腐った卵と、生の卵の二つを術の媒体 makafara としていたことを明らかにした。したがって、その治療はこちらでもこの2種の卵を用意して、相手に対して投げ返すことからなる。》
M:大仕事さ。「呪術治療の矢は長くて短い muvi wa uganga ni ure na wiphi」という訳さ。という次第だよ、あんた。

H:(カリンボが燻している草をさして)これはムズカ(muzuka 霊が住むといわれる特別な場所)からとってきたマフフト(mafufuto ムズカなどからとってくる落ち葉や土、燻しに用いる)ですか。

M:ああ違うよ。これは彼が自分のジネの霊に導かれて、自分で摘んできたんだよ。ご覧。マブオ(mavuwo 芳香性の植物などを揉んで作った呪薬液)みたいな、いい匂いがするだろう。

H:ええ。いい匂いです。

《後略 本格的な治療の日程、キリアンゴナ調達のプランなどが話合われる。その多くはモンバサでしか手に入らない物であるので、私がそれを手に入れる手助けをすることを約束する。》
  この夜は、私も(これはいつもの事だが)、カタナももっぱら聞き手に回った。メバカリは何時になく興奮した調子で話した。

  話の焦点は、もちろん(私は上では省略してしまったが)ペンバ人を名乗る呪医による釘の吸い出し治療であった。話で聞いただけでも、それがちょっとした見ものであったろうとは、容易に想像がついた。カリンボが霊に憑依されていたあの夜、人々がカリンボそっちのけで熱中していたあの話題、人の身体の中に物を打ち込むという新手の妖術とその専門呪医の話、私はそれを問題の事件と直接関係のない話題として、ただメモにとっただけで放置していたのだが、実はまんざら事の経緯と無関係だった訳でもなかったのである。カタナによるとこの種の妖術はそれまでドゥルマでは知られていなかった。彼自身にとっても、あの夜話されたことは全くの初耳であったという。メバカリはさっそくこの「新技術」を試してみた、そしてその結果におおいに感銘を受けたという訳である。

  しかしここで注意したいのは、その新しい技術を試すにあたって、メバカリがまず一人ででかけ、占いを諮問しているという点である。占いが、カリンボの症状や、それが始まった状況を的確に言い当てることができてはじめて、この治療の有効性にも確信がもたれているのである。この点では「新技術」も既成の治療観念の文脈からそう掛け離れてはいない。ジネとよばれる憑依霊を具体的な物の形で身体にうちこむという観念は新しいものであるが、ジネを犠牲者に送りつけるという観念自身は、以前からよく知られていた。ジネは憑依霊として自らの意志で人を選んで、憑依することもあるが、妖術使いによって犠牲者を殺す為に送りつけられることもあるとされている。そしてこのように送りつけられたジネによる病気を治療するための一定の治療法もあった。メバカリが試みた新技術も、結局はジネに対する既成の治療法を全て取入れている。皿 kombe に描かれた文字や絵を呪薬にすること、護符、薬の服用、沐浴、燻し療法、そして除霊という訳である。釘をとりだして見せたことが、この上それに何を付け加えているのかわからない位である。

  さて、新技術に関してはこれくらいにしておこう。私の意図は別にそれを紹介することにはなかったのだから。

  この日のメバカリの話は、カリンボが今回(おそらくは癲癇の)発作を起こして倒れてからの一連の経緯で、人々が一貫して問題にしていたのが、実は(私が最初にンデグァから聞かされていたように)妖術であったことを、あらためて確認させるものである。カリンボが異常な振る舞いをしていたあの夜も、人々は彼が「霊がかっている(ku-golomokp'a 文字通りには「霊を表面に出す」の意)」という事実を当然のこととして受け入れる一方で、それとは別に彼の発作自体に責任があるはずの妖術を如何に治療するかを、問題にしていたのである。したがって私は状況を二重に把握しそこねていたことになる。まず第一に私は彼の振る舞いが霊の行動であることを理解しなかった。そして第二に、それが霊による憑依だと気付かされた後では、私はそれをカリンボの病気自体に直接関係があるものと思い込んでしまった。つまりその晩示された異常な振る舞い(と私には見えたもの)が、すなわち問題となっている病気そのものなのだと。実際には、メバカリが諮問した占いも明らかにしたように、カリンボにあの日憑依していた霊、ジネ・ムァンガ jine mwanga 自体は、むしろカリンボを守ってくれていた、謂わば「守護霊」のようなものであり、カリンボを導いて(彼はペンバの呪医による治療の後また憑依状態になったらしい)病気治療のための薬草を教えたりもしているのだ。

  実際には異常な発作(意識を失って倒れる)に続いて、異常な振る舞い(スワヒリ語のみを使用したり、支離滅裂な要求をしたりする)が見られた訳であるが、人々が真に憂慮すべきものとしていたのは、前者のみだった。あの晩カリンボが示した「異常な」振る舞いは、人々が憂慮していた病気そのものではなかったのである。霊自身は、取引可能な相手であり、問題の状況に責任あるエージェントだった訳でもない。

  カリンボのこの病気のそもそもの発端とその後の経緯について、私は後にメバカリから再度説明を受けることにした。皆にはわかっているらしい、「身内による妖術」による発病の経緯自体を私は知らなかったからである。

H:ところで私の友人、あなたの夫の、その病気がどんな風に始まったのかもう一度話してくれませんか。私はその当時ここにいなかったのでよくわからないのです。

M:お前自身はすでに去った後だったじゃない。もしお前がここにいたなら、ソモ(somo名前を同じくする者、ここではカリンボのこと)が病気だと知っただろうに。お前のソモの病気は、けっして寝たきりの病気 ukongo wa chingoni という訳ではない。しかしいったん始まったら三日ぐらい続く。眠ってばかり、ひたすら眠り続けるという病気だ。そんな風に始まった日には、それはそれは異常なものだよ、あんた。

H:ええと。私が聞きたいのはこうです。その病気はどんな風に始まったのか。この病気に捕えられるようになったのは、どのようにしてかということです。

M:お前の友人の病気はこんな風に始まった。それは立ち去ることに始まった。彼は旅にでようとしていた。そしてキナンゴに行った。そこには彼の母の兄弟 aphu と母の姉妹 chane がいた。キナンゴに彼は治療儀礼 uganga に参加しにいったんだよ。彼は治療 uganga をしにいったんだよ。そこキナンゴを出てその夜(屋敷に)帰り着いた。そして私らはベッドに寝ていた。さて、私は友人(自分の夫カリンボのことを指している)が夢の中で言っているのを聞いた。「起きろ、起きろ、起きろ」私は目をさました。お前の友人は手足を突っ張らせていたよ、あんた!

私はベッドまでバケツ一杯の水をもっていってぶち撒けた。でも水をかけても仕様がないと分かった。そこで彼の兄弟のキコザと、その妻ニニアを起こしにいった。さて、私たちは家に入って、ランプを灯した。(カリンボの)口はひん曲がっていたよ。目はこのゾウリみたいに真っ赤だったよ。彼は引き攣ったように手足で地面を掻いていた ku-saga、それがすむと、今度は屠殺される牛みたいにげーげー言い ku-oka はじめた。なんてことなの。皆さん。どうしたらいいの?キナンゴに行った方がいい。(カリンボの)頭が石を置かれたように痛かった。人々は言った。頭痛。たぶん、なんだろう。たぶんマラリヤだ。そこで皆でキナンゴに行ったのさ(キナンゴにはこの地域随一の診療所がある)。彼はキナンゴに一週間いた。一週間たって私たちは彼を退院させた。そして屋敷に帰ってきた。

という訳で占いだ。そこで言われたことには、憑依霊が、カリンボが彼の父親の治療術 ugangaを相続するように求めている(カリンボの父、ムエロは呪医であった)。その治療術はまだ誰にも相続されていなかったんだよ。さてこの(相続が求められていた)治療術 uganga は、まずお前自身で必要なお金を貯めろ。そして終了せよという種類の治療術だった(ある種の呪術 uganga は自分で貯めたお金で購われねばならないとされている)。この種の治療術はね。

こうして一年たった。この病気を再びみることはなかった。丸一年。その頃家はまだあの下の方にあった(当時カリンボの屋敷は兄キコザの屋敷の裏手にあった)。丸一年この病気を見なかったんだよ。でもあんた、なんと、この病気は隠れていただけだったんだね。倒れて手足を引き攣らせる病気 ukongo wa kugb'a na kufitika は帰ってきた。倒れて手足を引き攣らせる、また倒れて手足を引き攣らせる。こんなことばかり二ヶ月続いた。二ヶ月間、こんな連続だった。私は皆から言われたよ。あのその名を口に出して言ってはならない病気、キフォフォ chifofo の病気だってね。

《中略 以下具体的な呪医の名をあげてカリンボとメバカリの呪医遍歴が語られる。3人の呪医が試みられ、いずれの呪医の治療も失敗した。》
今度は、彼の姉キジ(非常に強力な呪医だといわれている)のところへ行った。彼は「これまでの治療は間違っていた」と言われた。キウェグ(キジの村、ルンガルンガの近く)でね。彼は「それはイキリクだよ」と言われた(ichiliku 別名シェラ ディゴ系の憑依霊)。彼はそこで影探しをしてもらい(ku-zuza 憑依霊に奪われた『影 chivuri』を探し出して取戻す儀礼)、果てはイキリクの瓢箪を産んでもらった(ku-vyarira mwana wa ndonga 憑依している霊の力を借りて呪医になるために必要な瓢箪を授けられる儀礼)。彼は呪医の修業をし(ku-waphaswa 特定の憑依霊の呪医になるための最終の儀礼を待っている状態)、そこでイキリクの呪術 uganga wa ichiliku を与えられた。

《中略 しかし安心したのも束の間、カリンボはまた病気で倒れた。再び呪医による治療が試みられた。羊を用いる治療(つまり妖術の治療)だった。4人もの呪医が試みたが失敗した。》
あなたの友人の病気は手足を引き攣らせる病気 ukongo wa kufitika だ。でも、その病気は生れつきの病気 ukongo wavyalwa nao だって言うのかい。いえ、いえ。あの人は、自分の身内の人達に妖術をかけられたんだよ。まさにあの人の母の姉妹 chane たちにね。でも一人は死んでしまった。神様 mulungu のおかげで死んだんだ。だって、もし人が誰かに悪いこと dambi(罪)をして、相手の方に悪いことがなければ、そいつは死んでしまうんだよ。あのN子も、この人に妖術をかけたために、死んでしまったのさ。

実は、あそこの屋敷で、あのMaさんによってフィンゴ(fingo ビンなどに入れて地中に埋める呪薬の束、妖術使いが犠牲者を罠にかけるために仕掛けることもあるし、屋敷などを妖術使いの攻撃から守るために仕掛けられることもある)が仕掛けられたのさ。Maさんは呪医を呼んだ。呪医は誰かって?呪医は、Ng氏だ。ムァンゴーニのね。年寄りだ。知ってる?(H:いいえ。)さて、彼こそがMaさんの屋敷を妖術に対して封印し(ku-kaga)に来た男だ。当時、妖術が蔓延していたからね。N子は自分の僚妻たちをすっかり滅ぼしてしまっていた。N子は彼女らを犯した(ku-henda achetu 文字通りには「女する」の意。妖術使いは夜裸で犠牲者に忍び寄り、相手が眠っているうちに相手を犯すことによって術をかける。女性の妖術使いはこのためのペニスを腟のなかに隠しもっていると言われる。)彼女は彼女らを殺してしまった。一体どうしたらいいだろう。Ng氏を呼びに行った方がいい。N子はMaさんの妻たちを犯してしまっていた。あのB氏の母親Nhさんも。どうしたらいいだろう。Ng氏を呼びに行った方がいい。こうしてNg氏がひそかに呼びにやられた。(妖術師の)N子ですら屋敷に呪医がやってくることを知らなかった。

H:誰がNg氏を呼びにやったのですか。

M:Maさんだよ。

H:Maさんと妖術使いのN子はどういう関係だったのですか。

M:実の兄弟姉妹じゃないか。N子のほうが姉だった。(中略 私に彼らの系譜関係を詳しく説明している。)例のカリンボの母の姉妹というのも彼女だ。そしてカリンボの母もまた死んだ。彼女も自分の姉妹、N子によって殺されて死んだ。

そんな訳で、あんた、呪医Ng氏によってその屋敷はその呪術 uganga を施されたのさ。BM氏の屋敷へ通じる道、G氏の屋敷に通じる道、街道に通じる道、それからMK氏の屋敷をとおってキナンゴにいく道の分岐点、こういった場所が封印された。その夜ね。つまり、その呪医は夜遅くやってきたんだよ。いまぐらいの時間(夕方)にキナンゴにもう来ていてね、日が沈んで、さらに人々が皆家の中に入って静まった頃、その頃になって、Maさんは彼をキナンゴに呼びにやったんだよ。

Maさんが言うことには、「私の子供たちはN子にいいようにされている。あいつの妖術の所為で、例えば(子供たちが)仕事(を求めて)いっても、ろくな仕事につけない。Cさんの子供も、Zさんも、私の妻も皆健康を害している。占いにいったところ、お前の姉が彼らを『犯した ku-henda muchetu』張本人だ、と言われた。現に今も、私の妻は毎日(性器からの)出血(muruwo)があって、止らない。血が出ていくばかりだ。」こうして呪医Ng氏によってその屋敷は封印された(ku-kagb'a)んだよ。

さて、その夜Ng氏は事を終え、その日のうちに立ち去った。キナンゴにいって、そのままムァンゴーニへ帰った。仕事を終え、キナンゴにつくと、もうバスに乗込み、自分の家へ帰っていった。N子はそんなことはすこしも知らない。屋敷が封印されたとはすこしも知らない。

服をぬいで、あの馬鹿どもに妖術をかけて(kp'anga)やろう。まさにその夜の事じゃないかい。行って、あいつらを犯してやろう、ってね。ところが、あんた、海なんだよ。屋敷じゅうが、ざぶーんざぶーんてね(chuu chuu 波の音)。こっちに来れば波がしら。もう腰がぬけて。裸で。あのそれを使って人々を犯す「モノ」が、(腟から)ニュッと出てきちゃって、ぶらぶらしているんだ。中に戻らないで、ぶらぶら。

さて、あんた、日がのぼったよ。彼女は自分の兄弟を呼んだ。「Ma、Maったら。こっちに来て、私を助けてよ。どうして屋敷の中に何も見えないの。」夜があけて、太陽が8時の位置に達した。Maさんは近所の人々を呼びあつめた。キナンゴのマーケット chete に来ている人々も呼びあつめた。「皆さん、ごらんなさい。来て、見てごらんなさい。あなたがたにN子が妖術使いだと言ったら、あなたがたは『Maさんは身内に濡れ衣をきせている』と仰いましたね。さあ、来て見てごらんなさい。」Maさんの屋敷は人でいっぱいだったよ。

(N子は)腰をぬかしたまま。弟のMaさんにひっぱたかれて、やっと正気に戻った。だって、(彼女は)自分がどこにいるんだか分らなかったんだもの。そこらじゅう、屋敷一面が海なんだよ。自分が死んでしまうと思ったんだね。呪医Ng氏が仕掛けておいたムバレ(mbare 呪薬の束、盗難避けなどの防御呪術に用いるもの)の所為だと知らなかったんだね。

彼女は平手打ちをくったよ。目をあけた。そこでMaさんが彼女に(身をおおう)布を投げてよこした。

例の「モノ」は内側には二度と戻らなかった。そのまま腐った。これが彼女を死にいたらしめた病気となった。蛆までわいちゃってね。そんな状態で彼女は死んだんだよ。その時、あの人(カリンボ)の病気はすでに破裂していた(始まっていた)。キウェグのキジのところにいた頃だよ。この母の姉妹 chane の死も彼は知らなかった。彼が帰ってきた時、その母の姉妹はすでに死んだ後だった。

H:ええと。カリンボは葬式の席で妖術をかけられたんでしたっけ。

M:いったいどこの葬式で妖術をかけられたって言うんだい?彼が妖術にかけられた時、どこにも葬式なんてなかったよ。治療儀礼だよ。そこでこのお前さんの友人は妖術にかけられたのさ。例のろくでもない病気 ukongo wa kuphupha を与えられたのさ。さて、先日私がここを離れてあそこへ行った際に(占いで)私が言われたことには、彼はジネそのものを打ち込まれたということだ。だって、私はその呪医に、この人(カリンボ)について見てくれ、この病気が生れつきのものかどうか、と尋ねた。そうしたら言った。「このあなたの夫には、病気なんて何もない。彼を困らせているのはジネだ。」そうして例の呪薬を処方されたんだよ。

実際先日(カリンボは)自分自身この呪医に会いにでかけて行った。でも会えなかったので、ベンデグァと一緒にあそこに行って、そして兄弟に死なれた(葬式に行った)。

そんな訳で、お前の友人の病気は、ジネを打ち込まれたせいさ。

H:よくわかりました。どうも有難う。

  この物語の中核をなすのは、妖術使いとしての正体を暴露されて死んだN子の死のエピソードである。その出来事の真偽を問うのは野暮というものであろう。このエピソードは、それ自体典型的な物語の仕掛けを含んでいる。他人には知り得ないはずの、N子の動機(あの馬鹿ものたちを術にかけてやろう)やN子に見えた屋敷のありさま(全体が海になってしまった)が、単なる事実として提示されている仕方が、それを自ら露呈してしまっている。私は、これと全く同じ物語を別の地域でも聞かされたことがある。その場合は、妖術使いは男女の夫婦だったが、やはりフィンゴが仕掛けられていると知らずに、ある屋敷に術をかけに侵入し、周囲を海に取り囲まれて身動きができなくなり、翌朝裸でうろうろしているところを発見され袋叩きにされたというものであった。いずれの物語においても、登場人物は固有名をもった実在する人々である。しかしそこで語られている出来事は同じ物語の鋳型から生み出されたレプリカなのだ。そのポイントは、「正体を暴露された妖術使い」にある。

  N子が妖術使いであるという証明済の事実との関係で眺められるとき、カリンボの病気の発端が、N子もその一員である彼の母系親族 ukuche の人々を訪問した直後であったことには、重要な意味があることになる。かくしてカリンボの病気が、N子によってかけられた妖術のせいであることには、疑いの余地がない。これがメバカリの与えてくれた物語の骨子となっている。

  しかし同時にメバカリの話は、カリンボの病気についてのそれとは異なる解釈にも言及している。

  一つの解釈は、それが「その名を口に出すことのできない病気」つまりキフォフォ chifofo だというものである。ドゥルマではある種の病気、キブティ(chiphuti おそらく結核?)、ビョガ(vyoga 癩病、ただし同じ癩病でもマハナ mahana とよばれると、これは妖術による病気となる)などは「悪い病気 ukongo uii」と呼ばれており、その名を口に出してはいけないとされている。一種の忌み言葉のようなもので、それを口にすると、もしそれをもっている人がそばにいると、その人の症状が悪化したり、それが表に現れたりするなどともいわれる。「悪い病気」で死んだ人は、事故で死んだ場合や、水死した場合などと同様、通常の埋葬は受けないし、また葬式も開かれない。人は生れながらにして、こうした「悪い病気」をもって生れてくるとされ、治療は不可能である。キフォフォもこうした種類の病気の一種である。メバカリにとっては、もっとも気になっている点のようだ。妖術のせいで生じた病気であることがほぼ確実であるとはいえ、常にそこには疑いの余地がある。またこれまでやってきた妖術に対する治療の失敗も説明が必要だ。占いにおいて彼女が確認を求めているのも、まさにこの点なのだ。病気が妖術のせいで起こったものだと確認されることによって、それがキフォフォであるという解釈はあらためて排除されるのである。

  もう一つの解釈が、憑依霊による解釈である。メバカリの話からも分るように、そもそもカリンボの病気は当初は憑依霊によって引き起こされたものと解釈されていた。少なくともキウェグのキジのもとで治療を受けているときまでは。N子の死はキウェグに彼が滞在中の出来事であり、カリンボの病気が妖術の角度から眺められることになるのは、それ以降の話である。カリンボがもっているとされる憑依霊、ジネ・ムァンガ、イキリク、ムディゴ、ムドゥルマ、ムサンバラなどは全て、この成り行きの中で確認されたものであると、カリンボ自身が別の機会に語ってくれた。あの夜私が出会ったのも、当初はカリンボの病気に責任があると見做されたこれらの霊の一人だったのだ。

  しかしこれはちょっと考えると奇妙なことである。これらの霊はカリンボの病気を引き起こしたものとして登場した。後にこの役割は妖術 utsai によってとって代られることになった。霊のせいで生じた病気ではなかったと示されたのである。ならば霊は関係なかったのだということに、なってはしまわないのだろうか。病気の原因でないことが分ったのに、なぜ憑依霊は、舞台から退場してしまわないのだろうか。   占いは、この霊が、実は妖術が彼を殺すのをくいとめてくれていたのだと語っている。なるほどちゃんと新しい役割を与えられたという訳だ。しかしあの夜我々の前に現れていた霊は、少なくともその振る舞いにおいて、「守護霊」であるにしてはいささか常軌を逸していた。その数日前、カリンボは病気(おそらく癲癇の発作)で倒れて、まだ思わしくなかった。人々がこれに如何に対処すべきか悩んでいるさなかに出現したこの霊は、人々に助言を与えるどころか、少なくともさんざん人々をてこずらせた。そしてその出現は、自分が新しい上着と帽子を欲しがっていることを知らせるだけのためだったというのだ。もし、私がこの霊が実在するものだと信じていたなら、いったいこの忙しいときに何をしに出てきたのだ、と怒鳴りつけたくなるくらいだ。

  なんらかのきっかけで一旦登場すると、そこにいる理由がないのに、二度と退場しないで、ときおりは自分の存在を主張して見せる憑依霊は、それを「災因論」、つまり人々が不幸を説明するためにもちだす概念装置、という観点から説明しようとする試み、人類学者がこうしたとてつもない表象に出会ったときについあてにしてしまう理解の枠組み、にとって、いささかやっかいな存在だということになる。

  私が一連の経緯の中で、次第に訳がわからなくなってしまったのも、無理もないことだったのかもしれない。病気は、今や妖術のせいだと考えられていて、そこには憑依霊は関係していない。したがって憑依霊の出る幕などないはずである。しかし憑依霊は現に出てきてしまっている。出てきている以上(しかもあれほど強烈な形ででてきているのだから)、その病気と関係付けて考えたくなるのが人情ではないだろうか。でも、やはり無関係だというのだ。人々はこの分離処理を、たいして不自然なこととも考えずに、ごく自然に遂行していた。病気がしかじかの憑依霊のせいだとする占いそのものは、既にキャンセルされてしまっているが、占いが出力したしかじかの憑依霊そのものはキャンセルできないとでも言うかのようである。カタナが言うには、現に目の前にいるんだから仕方ないじゃないか、という訳である。目の前にいるから確かだだって?

  あの夜人々の前に現れたものはいったいなんだったのだろうか。私は何を見ていたのだろうか。私には、あの日のカリンボの憑依は、いくら説明されても、(あるいはむしろ人々の説明のとおりであれば逆にそれだけ一層)場違いなもの、文脈をはずれたものに思えてきてしまう。私は私が見ていたものが、「おかしくなってしまったカリンボ」ではなく、「憑依霊ジネ・ムァンガその人」だったのだという基本的事実を、カタナやメバカリと一緒になって認めることが、できないでいる。

現象としての憑依

  1989年の調査が始まったばかりの、それでなくとも慌ただしい数日間に私を翻弄した一つの事件の記述を、私は冒頭に置いた。何回目かの調査であるということで、自分のまわりで展開するであろう状況について「たか」を括り、少々いい気になっていた私にとって、それは一種の先制パンチのようなものだった。私は、これまでの数次にわたる調査で、ドゥルマの憑依霊信仰については、既になんとなくわかったつもりになっていた。後は知識の細部を詰めれば良い、楽な作業だ、そんな思いがあったことは否定できない。しかしカリンボの病気の一件は、憑依そのものについて言えば出来事の連鎖のなかで副次的なものでしかなかったものの、私にあることを思い知らせてくれた。ドゥルマの憑依霊信仰の核心をなす何かが、私には実はまだわかっていないのだという事実をである。

  憑依霊の種類や、個々の憑依霊の特色、それに対する儀礼的手続といった「憑依」を取巻くさまざまな観念についての知識を熱心に集めまわりながら、その中心に位置する肝心の「憑依」自体については、それがいったい人々にとって、どのようなリアリティであるのか、そもそもそれがどのような現象であるのかについて、私は実は何もわかってはいなかった。

  もちろん、次のような意味では、私はそれが何であるかわかったつもりになっていた。つまり、儀礼のなかで人が、普段の彼からは想像もつかない常軌を逸した振る舞いや言動におよぶとき、つまり「まるで人が変ってしまったかのように」喋り、振る舞っているとき、それが人々にとって何であるか、私は知っていた。そうした行為の実例を憑依霊に対する儀礼のなかで目にする都度、人々がそれを「霊のふるまい」だと見ていることを、私は知っていた。しかし、言うまでもないことだが、私自身が、それを「霊のふるまい」と見ていたという訳ではない。当然のことである。私はドゥルマの人々がその存在を信じているような霊たちの存在など全く信じていなかった。人々は「霊のふるまい」を目撃している。しかし私自身は「霊のふるまい」など目撃していない。私はただ、人々が「霊のふるまい」と見るところの「何か」を目撃していたのだとしか言えない。その「何か」を、私はいったい何であると考えていたのだろう。私が「実は何もわかっていない」というのは、この「何か」についてのことなのである。

  別の言い方をしてみよう。私は、儀礼における患者の奇矯な振る舞いが、人々によって「霊のふるまい」として見られていると書いた。このとき私は暗黙のうちに、(1)「人々はXをAとして見ている」という構文で表現されるタイプの理解をもっていたと言える。これは人類学者が自分の理解を伝達しようとする際に、どこかで必ず顔をだす、ほとんど常套表現といっていい表現形式である。

  もちろん、人々自身は単に、「霊のふるまい」を目撃しているのであるから、彼らがもっている状況理解がこうした形をとっている訳ではない。彼ら自身の理解が表明される構文は単に(2)「我々はAを見ている」という形をとっているはずである。(1)にいきなり登場するXが、どこからやってきたものであるかは言うまでもあるまい。それこそが私が目撃していた「何か」なのである。つまり本来それは、もう一つの構文(3)「私はXを見ている」の中に登場していたのだ。

  ところでドゥルマの人々が「A=霊のふるまい」を目撃している場で私が目撃していたものXは、ひとことで言うと「異常な、常軌を逸した振る舞い」であった。私は漠然と、それらが人々の「普通でない、異常な」精神状態に対応しているとも考えていた。それは一時的な状態であった。すなわち、私は憑依霊に関する儀礼や治療のなかで、人々がそういった状態に入り、また程なくぬけだすのを何度となく目撃していた。つまり人がなんらかの原因で一時的に陥った「普通でない精神状態のもとでの、異常で常軌を逸した振る舞い」を人々は「霊のふるまい」として見ている、と考えていたのである。カリンボの一件に出くわすまで、私はそこに「儀礼によって制御された」と付け加えていたかもしれない。その限りで、私はそれらに出くわしても、さしてとりみだしたりしない程度には、こうした「異常」との出会いに折り合いをつけていたらしい。カリンボの一件は、儀礼という緩衝をはぎ取られて、むき出しの形で現れたそれが、やはり私にとっては、私をうろたえさせるに十分な異常、「異常な精神状態のもとでの異常な振る舞い」でしかなかったことを、あらためて気付かさせてくれたという訳である。

  さらに、「人々は、異常な精神状態のもとでの異常な振る舞いを、霊のふるまいとして見ている」と語ることによって、私は、これに劣らず一見もっともらしく響く、もう一つの解釈のうちになだれこんで行った。つまり、「人々にとって、『憑依』という観念は、ある人が示す異常を解釈するための説明概念である」という説明である。人々自身彼らが目撃している異常を、「霊のふるまい」と考えることによって納得しているのだ、という訳だ。人々はその「異常」を「霊のふるまい」という形で「意味」付けているとも言いたくなるかもしれない。ここまで来ると、もう立派な理論である。

  おまけに、うんざりするほど月並で陳腐な理論だ。この「理論」は、例の理解の常套表現、「人々はXをAとして見ている」という構文自体の持つ含意を、ただ展開しただけのものに過ぎないからである。人々が霊による憑依と見るところのものを、解釈を要求する何か、それ自体としては意味をなさない何か、つまり「常軌を逸したもの」と措定するところからそれは出発してしまっている。

  人々が「霊による憑依」と見ているものを「トランス状態」とか、「意識の変性状態 altered states of consciousness」だとかに置き換えてみたところで同じことである。名前を付けさえすればそれについて何かわかったような気になるということは、珍しくないことだ。しかし、それによって目の前で展開しているのが、何であるかをより良く理解することができるという訳では残念ながらない。

  なるほど、トランスと呼ぶことによって、我々は、それを薬物やその他の手段によって、大半の正常な人間にも容易に引き起こすことができる状態としてそれを捉えることができる。またこうした意識状態は普遍的に見られる。それはしたがって、そう珍しい現象ではない。しかし我々がある現象を珍しくないと考えることは、それを「常軌を逸していない」と考えることとは別である。人類学者が、「しかじかの文化はトランスを霊による憑依と解釈する」と述べるとき(eg.Lewis,I.M.)、彼はやはり、それを解釈を要求する何か、それ自体では意味をなさない何かとして措定しているのである。

  トランスにせよ、意識の変性状態にせよ、こうした言葉を現象に適用している者にとって、もしそれが意識の通常の状態から逸脱した何か、「ちょっとおかしな状態」という以上の意味をもっていないとすれば、トランスという言葉のもつ普遍性の含意は、逆に問題を混乱させこそすれ、理解の進展に貢献することはない。

  トランスにおいて、真に普遍的なものがあるとすれば、それはその神経生理学的な過程であろう。しかしこうした普遍的なものは、そもそも意識の対象としては与えられないので、実のところ、それに対する解釈も意味付けも何もあったものではないのである。意識に対して与えられていないものが、解釈や意味付けの対象になり得る訳がない。例えば、我々が「喉のいたみ」を経験しているとき、そこには「喉の炎症」という生理的な過程があるのだが、ここで「我々は喉の炎症を喉の痛みとして解釈する」と語ることには意味がない。我々は別に「喉の炎症」をまず意識の対象として持ち、しかる後にそれに「喉の痛み」という解釈を施している訳ではないからである。我々の経験に与えられるのは、「喉の痛み」だけであって、「喉の炎症」の方は「喉の痛み」という形以外では経験の対象とはなり得ない。もし「〜として見る」、「〜と解釈する」「〜と意味付ける」などの構文で語りたいなら、そこに、意識の直接の対象として与えられていないものを、紛れ込ませてはならない。人々が霊による憑依として見ているのが何かということが問題であるのなら、その何かのところには、普遍的な神経生理的現象としてのトランスではなく、それが人々の意識の対象として与えられた形が来るべきなのである。トランスについて語る人類学者がそれを明らかにしようとしたことはない。彼はあっさりと、トランスが彼自身の意識の対象として経験に与えられる姿をもって、それにかえてしまっているのである。それは結局「常軌を逸した、ちょっとおかしな状態」というものでしかない。

  コモロ諸島の憑依を研究したランベックは、単刀直入にこの事実を認めている。「西洋社会の本流に位置する人々にとって、トランスは人間経験の本性についての基本前提に抵触するように見える、おぞましくもあり、また彼らを極度に困惑させる現象である。他の諸社会におけるトランスの生起はエキゾティックで、『合理的な説明』を何が何でも必要としているように思えてしまう。」(Lambek 1981:7)彼によると、トランスへの傾向性は、人間に生物学的に生来備わったもので、それゆえそれが生起すること自体は、けっして驚くべきことではない。しかし、トランスが起こる多くの場合、それは自然発生的に突発するものというよりも、人為的に誘起されたものであるということを考慮すると、多くの社会ではトランスは学習された行動様式になっていると考えた方が妥当である。奇妙な行動の生起がまずあって、それを後から合理的に説明するための素朴な民俗理論がある、というよりも、その逆だと考えた方が理にかなっている。しかるに、そうした「トランス文化」を欠いた現代西洋諸社会においてはトランスは突発的なものであり、またそれは文化によって導かれていないため、それを自ら経験してしまった人にとってはそれはおそろしい経験ともなり得るし、周りの人々にとっては困惑の種となる。かくしてその生起はますます抑圧され、それをコントロールする学習の機会は失われ、その結果、トランスは稀にしか起こらないが、一度起こるとその生起は一層支離滅裂な、おぞましいものとならざるをえない。(ibid.)

  ともあれ、人々が霊のふるまいを目撃している場面で、私が見ていたのもまたこれであった。カリンボの憑依の一件は、それを一種の異常と感じ、うろたえるという態度がいかにその状況で場違いなものであるかを示している。うろたえていたのは私一人だったのだ。

  あの日のカリンボに対する私のとりみだし方と好対照をなす、人々の「すべて心得ているよ」といった感じの落着き払った様子は、少なくとも、私がそれを見ていたような意味での「異常」としては、それが人々にとっては受け止められていないということを示している。もちろんカリンボの様子が普段とは全く違っていたことは、誰もが認めている。しかしそこには、正常と「異常」、正気と狂気の区別に見られるような落差はなかったのかもしれない。何かが切り替わるように、変化が起こっただけなのだ。メバカリが平然と言ってのけたように、「分別(知性、精神の働き)が変化した akili yibadilika 」だけだという訳である。

  人々にとってはその「異常」は既に「憑依」として意味付けられているから、「異常」としては受け止められていないのだ、という反論が可能であるかもしれない。しかしちょっと待って頂きたい。現に「異常」としては扱われていないものを、本当のところはそれは当人たちにとっても「異常」だったのだ、などとなんで言えようか。そんな主張の根拠は、どうやら「我々にはそう見える」ということ以外のどこにもなさそうである。そもそもトランスなり、意識の変性状態なり、常軌を逸した理解を拒む振る舞いなりがまず最初に現れ、ついでそれが霊の憑依のせいだとして解釈されるという訳ではない。それが現れるときは、既に憑依している霊の振る舞いとして現れるのだ。あの夜カリンボはスワヒリ語ばかり喋り、粒のまま煮たトウモロコシを拒み、マサイの護符をつけた青年を乱暴に追返した。これらの行為は憑依霊ジネムァンガの行為としては、全く首尾一貫した行為だったのであり、それを知っている人々にとってはそのどこにも異常などなかったのである。

  私が「私をたじろがせる異常なふるまい」Xと見たものYを、人々は「霊のふるまい」Aとして見ている。問題は、私が「異常なふるまい」と見、人々が「霊のふるまい」と見ているところのものYは何か、ということである。私は何を「異常なふるまい」と見ていたのだろうか、そして人々は何を「霊のふるまい」と見ていたのだろうか。私が憑依霊を巡る人々の語りに付き合いつつ、明らかにしていきたいものはそれである。