時の物神性

なんやタイトル見ただけで中身の議論が予測できてしまうわな。芸ないけど、まあ、堪忍や。新学期が始まってしもて、やっぱしめちゃくちゃ忙しいんや。それにわし毎週、東京と福岡、往復しとんねんで。なんやサラリーマンのえらい人みたいやろ、わし。けっこうきついで。ちゅうわけで、こんなアホな文、書くんに一時間近うも使うくらいやったら、ほんまは好きな音楽でも聴きながら目ぇつぶって横になっとりたいくらいなんや。まぁ、ぐちばっかし言うとらんと、ぼちぼち、行こか。言うといたるけど、今日の話はけっこういんちきくさいよってに、眉に唾つけて聞いといてや。

今日のテーマは時間や。時間ちゅうたら哲学的にいろいろ難しこと言われてきとおわな。そこらへんの話はすっとばしても、時間ちゅうたら、なんや変なことばっかしや。例えば、時間が「流れる」とか言うわな。そやけど別の物理の人らの話によると、時間は流れたり動いたりせえへん。4次元の軸の一つなんやもんな。その4次元の空間を動いとるんは、わしらの方やっちゅう。ほんまはどっちやねん?流れとるんは時間なんか、わしらなんか?時間が流れとるとしたら、どれくらいの速さで流れとんねんって、もう話がめちゃくちゃやんか。時間そのものについて何か言お思たら、結局、流れやら空間やら旅やらお金やら、手当たりしだいの比喩を使こうて言うしかない。所詮比喩は比喩やさかい、まともに突き合わせたら変なことなってしまうんは、あたりまえや。

そもそも時間て、経験できるもんかいな?こっから出発しよ。みんな「時間経験」とか気安ぅ言うてくれるけど、そんなもんあるんやろか。「今日はなんや時間がえろうゆっくり流れたみたいな気がするで」とか「今日は一日短かったなぁ」とか、まあ普段からよう言うとるわな。時間の経過をひしひしと感じたりな。逆に、時間、早よたたんかいとかじりじりしたりな。たしかに時間の経験や。そやけどちょっと考えてみ。わしら、物の形やら臭いやら音やらについてやったら感覚器官もっとうけど、わしらの身体のどこかに時間を感覚する器官があるちゅう話、聞いたことないわな。足の裏とか指先で時間を感じるとかな、そんなんあったらおもろいけど、実際には時間の感覚器官なんかあらへん。そやったら、どうやって時間を経験するっちゅうんや?はっきり言うちゃる。時間そのものを直接経験したりでけへんねや。こんな風に言うたほうが、ええかもしれん。わしらが「時間経験」とか言うとるとき、わしらほんまは何を経験しとるんやろか、ってな。

まあ、めんどくさい話はすっ飛ばして、答えだけ言うたら、わしらに経験でけるのは「出来事」だけやっちゅうことになるやろな。時間ちゅうのは、いろんな出来事どうしの関係から構成されたもんや。ある出来事は、別の出来事より先やったり後やったり、それと同時やったりする。時間の経過は、出来事のこうした系列やし、時間の長さは、いろんな種類の反復的な出来事の相関や。アリストテレスかて、時間ちゅうたら結局運動の量やとかいうとるやないか。運動っちゅうたら出来事やわな。時間を経験するちゅうてわしらが言うとることは、実はこうしたいろんな出来事とその相関関係を経験しとるっちゅうことやったんや。簡単なもんやろ?「らいぷにっつ」とか呪文となえとなるわな。

わかっとお、わかっとお。そう簡単な話やないわい。そもそも「出来事E1は出来事E0より後に起こった」とかいう言い方の中に、もう時間の概念がしっかり滑りこんでしもとるもんな。出来事の前後関係の系列から時間の概念が構築されるて、えらそに言うな。構築せんとあかん当の概念が、最初に前提とされてしもとやないか。あほか。ちゅうわけや。

どない考えても、時間抜きにして出来事について考えたりでけへん。その生起そのものが時間的やし、出来事っちゅうたら、時間の中で、いつかどこかの時点で起こっとる出来事として以外に考えようあらへん。出来事の経験から、時間経験を組み立ててみせたろ思たのに、かたなしや。おまえ、そら、時間みたいなもんを、経験的に構成してみせたろとか思うから、あかんのや。それは経験の対象になったり、経験的に導き出したりでけるものやあらへん。ちゅうんも、実はやな、それは経験を成り立たせとる「あぷりおり」な枠組みそのものなんやから。「かんと、かんと」とか唱えて、もう糞して早よ寝ぇ。

けどちょっと待てや。経験の「あぷりおり」な枠組みやから、それ自体は経験から構成することもでけへんって、それって単に、時間を神棚に祭り上げてしもて、それ以上問題にしたらあかんっちゅうことと、どうちゃうねん?なんやはぐらかされてしもたみたいな気分になるわな。

もう、ほとんどデタラメすれすれのええかげんな「まとめ」やけど、充分めんどくさなってしまうな。そらそうや。時間論だけで何冊も本が出とうくらいや。カントの時間論なんちゅう本まである。何行かで簡単にまとめられるわけあらへん。そやけどまあ、早よ先ぃ進みたいから、ここらへんで止めとこ。どうせ、こんなとこで時間についてまともにきちんと論じられるとか誰も思とらへんやろ?

問題はこうや。わしら時間そのもの(んなもんがあるとしてやな)をダイレクトにばしっと経験したりでけへん。わしらが経験できるんは、出来事や。太陽が昇ったり沈んだりするんを何回も見たり、いろんな出来事を前後につなげてみたら、なるほど時間が流れたんやなぁてわかる。時間の長さを測るっちゅうても、わしらのやっとうことは繰り返す出来事の繰り返しの数、数えとぉだけや。わしら、出来事とおして時間を経験しとる。そやけど、その一方で、時間ちゅうたら出来事に先立って、出来事とは独立してある座標軸みたいなもんとして、そんなかで出来事が経験される大枠みたいなもんとして思い描かれる。っちゅうか、どうしてもそんな風にしか思い描けへん。まあ、アポリアっちゅうほどたいしたもんやないけどな。なんやややこしな。

え、もう話の先が見えてしもたて?そやから物神性なんやろて?まあ、そない言わんと、もうしばらくつきあってぇや。このややこし関係を、わし、こんな手順で考えたらどうやて思てるんや。

時間認識のすごい基本的な形式てなんやろ?「いつ」っちゅう問いちゃうかいな。「お前が失恋経験したんは、いつや?」みたいなな。まさに時間を聞いとる問いや。それに対して「ああ、それやったら1970年や。」とか答えるわけやな。そやけど、この形式の問いそのものは、人がカレンダーとか時計とか使い始める前からあったはずやわな。そのときはどないやって答えとったんやろ。まあコミュニケーションの場所を中心にして「昨日や」とか「一昨日や」とか答える仕方もあるわな。そやけど、そんな手近なところやなかった場合には、どないするやろな。「ああ、それやったら大阪で万博やっとった時や」とか答えるんちゃうやろか。別の出来事との同時性で「時」を示すっちゅうわけや。これを「単純な時形態」あるいは「偶然的な時形態」と呼んだろ思う。

わしの失恋 = 大阪万博

等号の左辺を「相対的『時』形態」、右辺を時の等価形態、あるいは「等価『時』形態」て呼んどこ。この等式が示しとんのは、「わしの失恋」ちゅう出来事はそれ自身では自らの「時」を示すことがでけんで、「大阪万博」と等置されてはじめて、「大阪万博」の「時」によってその「時」を示してもらうことができる。これに対して、「大阪万博」ちゅう出来事は、それ自体で「時」を体現しとるように見える。もちろん左右を反対にしたら、立場は逆転や。「大阪万博ていつあってん?」「わしが失恋したときや」とかな。大事なんは等号の左右の非対称性や。

「ある出来事が相対的『時』形態にあるか、反対の等価『時』形態にあるかは、ただ、時表現のなかでのこの出来事のそのつどの位置だけによって、すなわち、その出来事が、自分の『時』を表現される出来事であるのか、それともそれで『時』を表現する出来事であるのかということだけによって、定まるのである」マルクスもこんなこと言うてへんかったっけ(言うてへんな)。

この等式のなかの非対称性に「時」の物神化の謎がひそんどる。右辺の出来事は、この等式のなかで限りの話やけど、すくなくとも「時」としてたちあらわれようとしとるやろ?

いろんな出来事の「いつ」を語ろとして、無数のこうした「単純な時形態」の表現が、次々に付け足されていくやろ。こうした単純で偶然的な時形態の連鎖を「拡大された時形態」と呼んどこ。


      わしの失恋   =  大阪万博

      出来事E0   =  出来事E1

          :              :
                       などなど

そやけど、この表示序列は際限なく続いてまう。きりあらへんし、中心もあらへん。そこでやな、ある種類の出来事(共同体的にっちゅうか、社会的にちゅうか重要とされる出来事な。)が特権的に等号の右側に出現してくる。「一般的『時』形態」や。体系が中心化するっちゅうわけや。その特権的な出来事は、他の有象無象の出来事とちごて、「時」そのものとしてたちあらわれてくるんや。そうした出来事にまず物象化された「時」そのものが、出来事から独立したそれ自身の存在みたいに見えてくるのも、すぐそこや。


      わしの失恋
      出来事E0
         :              T
         :
      出来事En

なんや、わし、ここまで書いとって、あほらしなってきたな。そや、マルクスの貨幣の物神性の議論を、時間の問題にひきうつしたろいうアホみたいな思い付きや。そのまんま平行関係を埋めていくだけやから、単純な作業やな。途中からあんまりわくわくせんようになってしもた。貨幣の登場のところまで来たから、もうやめるわ。

けど、それなりにうまくあっとるやろ?出来事どうしの諸関係の物象化として「時」が出現して、いったん「時」が登場したら、それはそれがもともと出来事の諸関係の体系の中心の、いわば空所みたいなもんやったのに、もろもろの出来事の諸関係とは切り離されて、そんで自分では自分の時を示すことのでけへん出来事の時を表現してやる、なんやら独立した実体みたいに振舞い始めるっちゅうわけや。「時の物神性」っちゅうわけやな。

まあマルクスの貨幣の物神性の話もそうやったけど、これは貨幣の、やのうて「時間」の成立の論理的構成機序についての話で、現実の生成関係とは別や。商品の交換の繰り返しの中からその都度、貨幣にいきつかんでも、わしら生まれたときから貨幣もっとるわな。いちいち偶然的価値形態の経験を通じて物神化させんでも、小さい頃からすでに物神になっとう貨幣にひざまずくこと叩き込まれるんやさかい。時間かておんなじや。わしらの人生、時の物神をうけいれさせられるところからはじまっとるわ。

いそがしのに、ここまで書くのに2時間以上かかってしもとるやんか。おまけに、なさけないくらいお約束のオチやないか。時間ちゅうのは、出来事の相互参照関係のことやのに、なんで出来事と独立にそれに先立ってある枠組みみたいな仕方で存在するみたいに見えるんやろ。はい、物神化でんがなって、こてこてのオチや。もうやってられんわ。そやけど、まぁやっぱりわしマルクスえらいなぁ思うで(意味不明)。ほなな。


m.hamamoto@anthropology.soc.hit-u.ac.jp