2001年度ゼミの第二部でゆっくり読み進んできたタウシグの『シャマニズム・植民地主義・野人』だが、肝心の Part I の結論部を議論するときに、私めの個人的な事情のせいで気のない解説に終始してしまい、学生諸君に対して実は罪の意識を感じておる次第である。良心的な教師なのだといえよう、一応。
というわけで、第一部最後の章をかいつまんで要約しつつ、ちょっとした解説を付け加える。このページを偶然探しあてて読むほどの暇と根気のある学生は、ちょっと得した気分を味わえるかもしれないといえよう。第一部を通して原文を読んでいない者にはまるで意味不明かもしれないといえよう。
この短い章は、第一部全体の理論的しめくくりとなっている。今世紀初めゴムブームのプトマヨ川上流で、インディオたちに対して繰り広げられた虐殺をめぐって、テロルの空間について語る語り口の可能性が探られてきた。
「なぜ私が、語りを通してのテロルの媒介、そして効果的な対抗表象に向けての問題提起という、奇妙に見えるかも知れない出発点を選んだのか、今や明らかだと思う。」
コンラッドの「闇の奥」の語りの構造との類似性
別の航海者の語りの殻を破って、その真の意味を明らかにしようという一人の航海者の語りとして始まったものは、最終的にはマーロウ(「闇の奥」の語り手)の語りに行き着く。
意味はとらえどころがなかった。疑いが確実性を台無しにした。さまざまな観点は互いを破壊しあうほどに多様であった。リアルなものは虚構的で、虚構的なものこそがリアルであった。そして(日没の)輝きがもたらす、視界のかすみこそが、恐怖に対する抵抗のための力であるのに劣らず、恐怖の強力な力ともなりうる。こうした支配の世界においては、明晰性そのものが欺瞞的である。恐怖を説明しようという企てそのものが、それらの説明の中に登場するさまざまな物語とほとんど区別できなくなる。あたかも恐怖は、自らについて、説明不可能な説明しか提供できず、まさにそうすることで肥え太るかのようである。
想像と事実とが入り交じり、何がその背後にある真の真実(こんなモノがあると想定すること自体が実証主義の、そして明晰さの罠だ)であるかが、けっして確定できないという、こうした曖昧さと認識論的薄闇においてこそ(あるいは認識論的薄明かりにおいてこそ?)「恐怖という空間」は出現するのだと。
実証的な語りはその前で失敗する。すでにタウシグはケースメントとコンラッドを比較する中で、コンラッドの語り口、幻影のベールを突き破り、しかも幻影的な質を保持する語り口を称揚していた。
経済的合理性の論理に訴える説明は、状況の幻想的な特質をかえって浮彫りにしてしまう。経済的効率性と「希少性」を計算して、数年以内に労働供給を殺害によって根絶やしにするべきであるというのが合理的な結論であるというなら、それは遊び半分でインディアンを殺したり、苛んだり、働かせたりしているというのとどこが違うというのだろう。
名目的には生産を増加させる手段であるとされるところの、インディアンに対する虐待は、それ自体が自己目的化し、この地域の産み出すもっとも一貫した産物となる。...
ここでは、マルクスがいうところの「商品の物神化」は、幻想的であるとともに残忍な形態を獲得した。労働力が「自由」ではなく、商品化できないところでは、単にゴムやヨーロッパの交易品が物神化されただけではなく、より重要なのは、負債隷属(debt-peonage)における負債そのものの物神化であった。そこに全想像力が集結した。...
負債こそ、インディアンたちの「贈り物経済 gift economy」と植民者たちの「資本主義経済」が、かみあう場所であった。交換というこの戦略的に不確定な場は、戦いと平和との微妙な境目が維持される「死の空間」でもある。
ゴム会社の雇い人たちは、いたるところに死と自らを取り囲む危険を幻視した。彼らの想像力は、「野性」のイメージによって象られた死という観念につねに突き当たり、彼らにとってこうした世界を生きる唯一のやり方は、自らの方でも恐怖を撒き散らすということだった。
敵対と平和的関係のさだかならぬ曖昧な領域で、インディアンと接しながら、ジャングルとそこに暮すこれらインディアンに対して、ヨーロッパから持ち込んだ「野性」のイメージを投影し、自らが投影したイメージにおびえ、それに対して自らも残虐行為で応えた、これがプトマヨの恐怖の悪循環のメカニズムだ。
ロチャが引用する匿名の権威によるHuitotosの人口が25万という推定、1900年から1910年までに3万のHuitotosが殺され、あるいは逃亡したという推定。
いずれも根拠のない推定(wild guess)であるが、こうした数字は読者に、コントロールと秩序の印、専門性のしぐさとして差し出され、恐怖の測定としての認識論的静謐さを発散し、リアリティの無感動な雰囲気を、確実性の生まじめな衝撃を、差し出す。
ケースメントの主張(ちゃんとした報酬を出せばインディアンは拷問を加えなくても働く)にもかかわらず、多くは(そしてケースメント自身も)インディアンを何らかの「システム」で長期にわたって働かせることができるかどうか疑っていた。これら森の住人にとっての、働く動機、交易品の意味と価値は、不確かでやっかいな問題であった。
不確実性はまた、インディアンの蜂起の可能性についての、観念、イメージ、予感、感触などの泥沼を形成していた。ケースメントはさまざまな理由を挙げて、その可能性を否定したが、同じレポートの別の場所で、しきりに襲撃や蜂起のきざしを報告した。断定的な調子はその内容の不確実さによってつねに裏切られている。
「征服 conquistar」の過程についての相反する説明。
死と破壊に始まり、おとなしい服従と交易で幕を閉じる、インクイトスの英領事の説明は、甘言により「子供のような」インディアンを、植民地主義的男色へ、そして奴隷の軛へと誘い込んだというケースメントの説明と対立する。
単なる異文化間の(ラテン→英語)「言葉の翻訳」の問題ではなかった。
同じ曖昧性は debt-peonage をめぐっても存在した。
言葉だけが曖昧だったのではなく、そうした言葉で語られる現実そのものが、とらえどころのない、いずれともとれる曖昧なリアリティであった。
かりに恐怖が、認識論的暗闇と変容を産み出すことによって、肥え太るとしても、それはなお解釈学的な暴力を必要としている。それ(解釈学的暴力)を通じて、お粗末なフィクションがリアリズムと客観性の見かけをもって作り出され、矛盾が均され、無秩序が秩序化されるのである。
かたやケースメントのたんたんと無味乾燥な、かたやハーデンブルクのメロドラマティックな記述。いずれの表象のモードにおいても、表現し得ないものを表現しようと言う緊張がある。
そこでは、異様な光景がありきたりのものとして描かれ、かたやありきたりの日常が幻想的で奇妙なものとしてたちあらわれる。
しかし、無味乾燥さとメロドラマは、単に表象の仕方の問題だろうか、それとも表象された出来事自体がそうなのだろうか。....我々はふつう、現実(リアリティ)そのものと、それについての記述とを区別する。しかし、厄介なのは、リアリティは記述の毛穴から染み込み、こうした浸透によってのみ、こうした記述が描こうとしているものであり続けるということである。
記述の対象と、記述を切り離して考える誤謬。本当に起こったこと(リアリティ)と、何が起こったか人々が思い描いていること(表象、記述、想像力)とは、相互に絡まりあっているばかりか、そうした絡まりあいによって始めて、記述という実践自体が可能になっているのだ
これは、プトマヨでのゴムブーム期に、広まっていた物語にもあてはまる。そこでは植民者とゴム会社の雇い人たちは、野蛮を恐れていたが、そうした野蛮の恐ろしくもありまた混乱したイメージは、自らの語りを通じて自分たち自身で作り出し流布させたものでもあった。彼らがあみ出した拷問や恐怖は、彼ら自身が虚構として作り出し、そして恐れた野蛮性の恐怖の、鏡に映った姿であった。
ここで際立っているのは、植民者たちによってインディアンのものとされた野蛮性と、文明の名のもとに植民者たちによって行使された野蛮性とのあいだの、ミメシス(模倣関係)である。
というわけだ。どうだ、面白かったろう。まあ、第一部を読み進む過程でほとんど出尽くしていた議論ではあるけど、もういちどまとめて論じられると圧倒されるよな。現実的なものと想像的なものが相容れないものであるどころか、相互に浸透し合っていること。そこでは「本当は何が起こったのか」を明らかにしようとすること、実証主義的情熱自体が、その状況をまさにそうした状況たらしめていたものをとらえ損なわせる。なぜならまさに「本当に何が起こっているのか」がわからない白黒つかない不確定性こそが、その特徴だからだ。そしてその不確定性の中でミメシス(模倣)の合わせ鏡のプロセスが現象を造形していく。うゎーお。
想像力の呪縛=妖術論を展開するときに、さっそく使わせてもらおうと思っている。って10年以上も前から同じことばかり言ってて、いつになったら書き始めるねん?