規則にしたがうこと(補足)

なんやもう飽きてきてしもたんやけど、せっかく毎週一つのペースができて来とうみたいやから、もうちょっと続けてみるわな。どうせ一時間やそこらで書けることしか書かへんから、えらそなこと言えんけどな、継続こそ力なりちゅうてベートーベンも言うとったやんか。ベートーベンちごたかな。代ゼミやったかな。まあどっちでもええわ。ちゅうわけで、今回は小ネタやけど堪忍してや。

今回のテーマは、「規則に従うこと(2)」。前にやった構成的規則の話の補足や。前回のポイントは、ほれ、「規則に従う」っちゅうことだけを行為することなんかでけへんちゅう話やった。「ちょっと走ってみてくれ」とか「ちょっと手を上げてみてくれ」とか言われたら、言われたとおりやってみることできるけど、誰かからいきなり「ちょっと規則に従ってみてくれ」とか言われたら困るわな。なにやったらええかわからんもんな。ただ規則、言われても困るんや。「走る」とか「手を上げる」とかのもっと具体的な行為が与えられて、それについてはじめて「規則にしたがう」とか「規則に違反しとる」とか言うことが可能になるんや。要するに「規則に従う」っちゅう行為は、「赤信号を見る」とか「立ち止まる」とかの行為とは、別のレベルに属する行為記述や、ちゅうことやった。論理階型がちゃう、ゆうたらちょっと難しそうやけど、まぁそういうこっちゃ。

そやけど、「記述」ゆうんがちょっと曲者や、思うた人もおったんちゃうかな。記述ゆうたら、誰が何を記述しとるんかちゅうことを問題にしとなるもんな。ですぐ、ある行為が規則に従う行為かどうかは、けっきょく観察者から見ての話なんかいな、みたいな曲解がうまれてきてしまうんや。ひょっとしてみんなも、前回の話読んで、そないに思もたんちゃうか。「記述」とか「描写」とか言うたら、どないしても、何かモノがあって、それをちょっと離れたとこから書き写しとるみたいな感じがするもんな。そやから言うて、「表象」とか言うたら、ますます話がややこしなる。ほんま言葉は難しいわ。

ま、わしらは他人のいろんな振舞いを見て、いろんな風に理解するわな。あ、今あいつ走りよったとか、立ち止まりよったとか。行為としてそれをとらえたっちゅうわけや。おんなじ振舞いを、あ、今これこれの規則に違反しよったとか、これこれの規則を守りよった、ちゅう具合に理解することが出来る場合もあるわな。走るとか立ち止まるとかいう行為を「規則」の観点からながめた記述やっちゅうわけや。ほら見てみい、やっぱり観察者の話やんか、とか先走らんといてな。ポイントは、他人の振舞いだけやのうて、自分自身の振舞いについても、実はおんなじなんやちゅうことや。

行為してる当人は自分がやっとうことくらいわかっとる。それがなんやっちゅうのをわざわざ観察によって知ったりする必要なんかあらへん。そらそうや。自分のやっとることを他人のやっとることを見るみたいに外から眺める必要があるわけやない。そやけど、意識喪失状態で動きまわっとるんでもない限り、つねに自分の振舞いは「なんらかの」姿のもとで捉えられとるはずや。自分が過去にやったこと、今げんにやっとうこと、これからしたろ思とうこと。行為がある記述のもとで捉えられている、ちゅうことで言いたいのは、こういうことや。

アンスコムが言うとうように、行為者が自分のやっとることを、ある記述のもとでは捉えとうけど、別の記述のもとではとらえとらへんっちゅうこともある。犬小屋作ったろおもて板をぎこぎこ挽いとる男は、「板を切る」「犬小屋を作る」「日曜大工する」「家族サービスする」とかいろんな姿で、今自分のやっとうことを捉えとる。けど「おがくず撒き散らして床を汚しとる」とか「ぎーぎー音たてて近所に迷惑かけとる」とかの記述のもとではとらえとらへんかもしれん。で文句いわれて、はじめて気がつくちゅう訳や。意図してやっとった訳やない、すんまへん、とか言い訳しよるやろう。それに対してさらに「いいや、意図しとったはずや。それともお前、なにか?気絶した状態で板切っとったとでも言うつもりか」と詰め寄ったりしたら、もう因縁つけとうみたいなもんや。かなんわな。たしかにその男のやっとった行為は「意図的」行為やけど、その男が「意図してなかった」ということで言いたかったんは、自分はそうした記述のもとではその行為をとらえてへんかったちゅうことなんや。

もうわかったやろ。観察者にとってだけやのうて、行為者にとっても自分の行為はある特定の見え姿として捉えられとるちゅうことや。その見え姿が規則ちゅう観点からながめた見え姿やったらどうやろ。他人の行為の場合と同じことになるやろ。規則にしたがったり、違反したりっちゅうことになる。自分の過去の行為、今げんにやっとること、これからやろ思てること、これらをその行為者が規則の観点からながめた姿でとらえとるときは、行為者にとってもそれらは、規則に従った、したがいつつある、あるいは従おうとする行為にちゃんとなっとるちゅうわけや。もちろん、それ以前に、その行為は走ったり、手を上げたりちゅうた、もっと具体的な行為でもあるわけやけどな。

今日の話が、えらいくどい思た人もおるやろな。ちょっと細かいとこにこだわりすぎとんちゃうかと。そうやとしたら、堪忍な。まあ基礎論みたいなもんやさかい、ちょっとくどなるのはしゃあない。あきらめてや。

それにやな、この話には、ちょっと重要なことも含まれとったとも言える。自分と他人ちゅうと、普通ごっつでっかい隔たりみたいに誇張されて考えられること多いけど、もしかしたら、そんなことないんちゃうかちゅうことや。この隔たりは、普通、<他人=観察による知識=外面>/<自分=観察によらない知識=内面>みたいな感じで固定されてへんか?「意図」言うたら、他人には測り知ることがでけへん内面に属する出来事、みたいな。ちゃうか?

そやけど今日の議論を延長したら、自分の行為も、他人の行為もどっちも、一種の「見え姿」として理解に対して与えられとうわけで、行為者は自分の行為について他人より特権的な立場におるちゅう訳やないことがわかるわな。この見え姿ちゅうのは、あきらかに公共的言説空間に属しとる。つまり、互いにコミュニケートできて、ああやこうや談判できる「記述」や「規則の語り」のうえに成立しとるんやからな。こっからさらに進んで、公共的な言説空間における自己と他者の生成とかについて、ごちゃごちゃ考えてもええかもしれん。え、なんのことか、わからんて?ま、そやろな。そのうちにもっときちんと話たるわな。

今日の疑問

関係ないけどな、「支配」ちゅう言葉、おもろいな。いや、最初は人が人を支配するとかいう関係について考えよ、思てたんや。で、人が人を支配するとかいうけど、ほんとは両者のあいだの社会関係に支配されとるちゅうことやないんかと考えたわけや。人は他人にではなく、関係や規則や言説に「支配」されとるんやないかと。ここまで考えたところで、集中力が切れて、考えがさまよい始めよった。規則や言説に支配されるちゅうことと、規則や言説を支配している=使いこなしてるちゅうことは同義かもしれん。ほれ、日本語を流暢に話す者、日本語の文法規則を完璧にマスターしている(支配している)者とは、実はそれに完全無欠に従う者(支配されている者)のことやろ。そやけど、これはマキャベリ的な、規則の外に出てしまうマスタリーとはちょっと違うわな。ここらへんの話、だれかおもろいヒントがあったら、教えてくれや。


m.hamamoto@anthropology.soc.hit-u.ac.jp