構成的規則
素人にはお薦めできない

あのさー。俺、15年程前にドゥルマでフィールドワークとかしてて、葬式のことやらなんやら調べてたら、「死を投げ棄てる」とか言ってるわけよ。マトゥミアをとりおこなうんだとか言って、意味ありげに笑うわけ。詳しく聞いてみると、未亡人がブッシュへ行くんだと、そこで素性の知れない若者と無言でセックスするんだと、そうしないと死がまた戻って来るんだと。なんなんだよ、それ。わかんねーよ。なんでブッシュで無言でセックスしたら死を投げ棄てたことになるんだよ。え?手も使うなってか?だからなんなんだってんだよ。

でもそのうちだんだん、そういうのにも慣れてきたよ。実際、「死を投げ棄てる」っていう言い方以外に、死を屋敷に植え付けるとか、屋敷を生むとか、事故を冷やすとか、子供を屋敷にきちんと据えるとか、まぁ似たような変な言い方がいっぱいあって、みんなせっせと実践してるわけよ。要するに、たいがいは適切な相手と適切にセックスしたりしなかったりすることなんだけどよ。あ、その都度、ヒツジを屠殺したり、適切な薬を使ったりすることもあるがな。で、そうした変な言い方ばかり集めてみたら、妙なまとまりというか一貫性みたいなものがあることに気が付く。で、馴染んでくると、その言い方でけっこうドゥルマの人々とツーカーで話が通じてしまったりする。要は、大事なものはちゃんと屋敷に植え付けたり、据えたりしなくちゃなんないし、いやなことは屋敷に根を下ろしたりしないように、ちゃんと捨てなきやなんない。死なんて、その最たるもの。兄弟や親子の長幼の順序とかも関係してて、それに合わせてきちんと順序だったセックスをしたり、しなかったりして、なんとなく屋敷の秩序がつつがなく保たれていると。つまり気が付いたら、こうした言い方を通して、あるいはそこに含まれる一まとまりの比喩的な見立てを通して、暮らしを眺めるようになってたってわけだ。

でも、ちょっと待てよ。確かに死は投げ棄てないと、感じ悪いってのはわかる。だけど、どうしてブッシュで無言のセックスをしたら死を投げ棄てたことになるんだ?こんな風に考え始めたら、相変わらずさっぱりわかっていない。土地の人に聞いても、きょとんとしてる。どうしても何も、そうすることが死を投げ棄てるってことなんだよ。

でもそこはやっぱ人類学者ですから、俺も、最初は象徴分析とかしてみたりするわけよ。なんとか死を投げ捨てることとブッシュでの無言のセックスを結びつける理屈を発見しようと。で、それなりの理屈は結構いくらでもつけられわけだ。でもそのうちに、ちょっとこれは違うんじゃないかと。基本的に的を外しているんじゃないかと。死を投げ棄てるためにブッシュへセックスしにいく未亡人は、べつにそうした理屈や理由からそうしているんじゃなくて、単にブッシュで無言のセックスをすることがまさに死を投げ棄てることであるからそうしているだけなんだと。それをどうしてだと聞くことは、ちょうどお辞儀をしている人に、何でお辞儀するために、お前は頭を下げとるのかと聞くのとちょっと似てる。お前あほか。それがお辞儀するっちゅうことやないか。

まあ厳密にはちょっと違うけど、要するに、行為と、それを行うやり方との結びつきが、一切の問いのつけ入る隙もないくらいの必然として生きてられている、そんな場面だ。ちょうど後者がまるで前者の定義になっているといった構図なんだとわかる。お辞儀をするとは、頭をしかじかの仕方で下げること、死を投げ棄てるとは、ブッシュでしかじかの仕方でセックスすること。だから頭下げなけりゃお辞儀したことにはなんねーし、ブッシュでセックスしなけりゃ死を投げ棄てたことにはなんねーんだよ。ばーか。たしかに、もし定義だってんなら、なんでと言われても困る。

そりゃ、どんな行為でも好き勝手に定義できるってもんじゃない。足の裏を掻くことが、食事するっていう行為の定義だといわれても困る。そんなことしても食事したことにはなんねーよってわけだ。でも上のケースでは、同じように、何?ブッシュでのセックスだぁ?そんなことしたって死を投げ棄てたことにはなんね−よと、自信持って言えるかってえと言えない。じゃあ、どうすれば死を投げ棄てたことになるの、って聞かれるとこちらも困ってしまうからな。それ自体では、自らのやり方を指定することができない、いわば比喩で描かれているだけの行為なんだな。日本あたりじゃ、誰も死を投げ棄てようなんてしてない。そもそもそんなの日本人の行為のレパートリーには入ってないよな。だから実は、どんな行為がもってこられても、それでは死を投げ棄てたことにはならないよと確言できる根拠などないわけ。ただここドゥルマではブッシュで無言で性交することが、死を投げ棄てるやり方になっているってだけ。なぜそうでなければいけないかっていう根拠があるわけでもないがな。

結局人間のやることの多くは、行為とそれを行う特定のやり方との間の、こうした恣意的で無根拠な結びつきを必然として生きることからできあがっている。そういうもんだとして、みんなやってるのさ。

俺の構成的規則論ってのは、結局これだけの他愛ない話なんだよ。ドゥルマの人々は、死を投げ棄てるためにはブッシュへ行って無言のセックスをせねばならない、といった言い方をする。「XするためにはYせよ」っていう、まぁ規則表現だ。でもこれは実は「YすることをもってXとみなす」という定義の言い換えにすぎない規則表現なんだな。こういったタイプの規則のことを構成的規則っていう。XとYの結びつきが構成的規則の結びつきであるときに、なんでXするためにYしなければなんねーんだとたずねることは全く的外れになる。YするってことがまさにXするっていうことなんだからな。俺が言いたかったのは、儀礼とか呼ばれる、一見わけの分からない行為のわけの分からなさの一部は、そこでの行為とそのやり方との結びつきが、こうした構成的規則で表現されるような、根拠のない、そうすることがそうすることなんだからそうなんだという身も蓋もない同語反復的な結びつきであることに由来してんじゃないかと、まあ、そういうことだ。

こんな話を1987年の民博の研究会でやって、論文としてまとめたのが1989年のこと。ところがこんな簡単な話がなかなかまともに通じてないんだよな。いろいろへんてこな形で理解されてしまう。なかでも一番多いのが、はあ、なるほど儀礼ってのは、ただこうするべきっていう規則にしたがってなされることに本質があるんですな、ふむふむというやつ。あほか。違うっちゅーんじゃ。儀礼を行うってことは構成的規則に従って振舞うってこと、構成的規則に従う行為ってことですねって、違うって。おまけに、儀礼の際に人々が従う規則は構成的規則ばかりではなく、さまざまな規制的規則も含まれるとか言い出す奴までいたりして、もう見てらんない。

最初は俺、わけわかんなくてただ唖然としてたぜ。もうお前らあほかと、ばかかと。でも最近、すこしずつ分かってきた。お前らもしかして「規則に従う」っていうことの意味をちゃんと考えたことないんとちゃうんかと。

「彼はお辞儀という行為を遂行している」ちゅうのはある男の遂行している行為のちゃんとした報告や。「頭を下げるという行為を遂行している」と言うたとしても、やっぱり彼の遂行した行為の報告になっとる。そやけどここで「彼は<お辞儀をするとは頭をしかじかの仕方で下げることである>という定義に従っている」あるいは「彼は<お辞儀をするためには頭をしかじかの仕方で下げねばならない>という規則にしたがっている」と記述したとしたら、それは彼の行っている行為の報告やと言えるやろうか。もちろんそう言うてもええで。でも記述のレベルが違うっちゅううことくらいはわかるわな。つまり「定義に従う」とか「規則に従う」ちゅう記述は、お辞儀するとか頭を下げるとかの行為記述とは別のレベルでの行為記述、メタレベルの記述やっちゅうことや。お辞儀するとか頭を下げるとか、走るとか泣くとかといった諸行為とならんで、それと同列の行為として規則に従うとか定義に従うとかいう行為があったりするわけやない。走ったり泣いたり頭を下げたりする行為が、別のレベルからは規則にしたがったり違反したりする行為として記述できるちゅうことなんや。

赤信号見て立ち止まる人の遂行した行為は、赤信号を見ること、そして立ち止まることや。もちろんその人は交通規則に従っとる。彼は赤信号を見て交通規則にしたがって立ち止まった、とか報告してもええ。そやけど、彼が赤信号を見ること、立ち止まること以外に、それらとならんでもう一つ別の行為「交通規則に従うこと」を遂行したっちゅうわけやない。赤信号を見て立ち止まることが、別のレベルつまり規則という観点から眺めたときに「交通規則に従う」という行為にもなっとるちゅうだけのことや。

最近気がついたことやけど、なんやこのレベルの違いがわかってへんみたいな勘違いな人がけっこうおる。大雑把な話やが、上の例やとほんまはこの人は赤信号を見る、立ち止まるという二つの行為を遂行しただけやのに、勘違いな人はまるでこの人が3つの行為を同時に遂行したみたいに考えてしまう。赤信号を見る、立ち止まる以外に、それとならんで交通規則に従うという行為も遂行していたみたいに考えるんや。ちゃうっちゅうんや。

そもそも「規則に従うこと」というのが、そのとき人が遂行している他の諸行為とならんで、それ自体一つの行為として遂行できるような行為なんかと、問いたい。たとえばどうやったら「交通規則に従う」という行為を行為として遂行できるのかってことや。交差点でその行為を遂行してみい。ただ赤信号を見て立ち止まるだけやったらあかへんで。赤信号を見ること、そして立ち止まること以外にそのときに、一つの行為として「交通規則に従う」行為を遂行していると言えるためには、何をやったらええんかちゅうこっちゃ。そのとき交通規則の文を頭の中で読み上げるちゅうことか?よーし、規則に従っちゃうぞーとか心の中で叫ぶことか?「交通規則に従う」行為自体なんちゅうものはあらへんのや。頭の中で読み上げんでも、叫ばんでも、ただ赤信号見て、立ち止まったらそれだけで「交通規則に従う」行為の遂行になっとる。ただし、赤信号見る、立ち止まる以外のなにか別の行為として遂行されとるわけやないちゅうことや。 どや。規則に従うちゅうことが、行為一般の記述とはレベルの違う記述やっちゅうことは、そろそろわかったんちゃうか?

儀礼を遂行することは、一群の規則に従うこととして記述できる。そこに構成的規則の表現を見て取ることもできる。けどそれは儀礼の遂行を、別のレベルで、規則という構図を通して記述したもんやちゅうことや。それを当事者の遂行行為の記述のレベルにもちこんで、儀礼を遂行する行為とは規則にしたがって振舞う行為に他ならない、とか言うと変なことになるんや。

野球のゲームの中で、ホームランも三振も野球の規則に従う行為という形でとらえることができる。そやけど三振して戻ってきた男の振舞いを報告するときに、彼は野球規則第○○条にがんばって従ってきたとか言うたらおかしいやろ?儀礼における人々の振舞いを、過去から伝えられてきただかなんだかしらないが、とにかく一連の儀礼の規則に従う行為であると報告する、勘違いな人類学者がしとんのが、まさにこれなんや。ここでわし、いろいろしゃべってきとったわけやけど、このわしがいっしょけんめいやっとったことを、浜本は日本語の文法規則にしたがう行為をやっとったと報告されてしもたみたいなもんや。がっくしや。

わしの構成的規則論は、規則に従うちゅうことについてちゃんと反省したことのない奴には、ちょっと危険やった。まかりまちがうと人間の行為を、規則に対する自覚的な服従行為に置き換えてしまう律法主義の罠に落ちてしまう。儀礼の本質とは規則に従うことだ、なんていう勘違いな理解がそれや。困ったもんや。ほんま、素人にはお薦めできない議論やった。素人は、まあせいぜい儀礼の象徴分析とかやってなさいってこった。


m.hamamoto@anthropology.soc.hit-u.ac.jp