反論来たぞ、日常的抵抗論

来た、来た、来た。反論が。やっぱりねー。
けっして罵倒ではない丁寧な指摘だけど、匿名@hotmail からでした。

俺が言ってる程度の批判なぞ、とっくの昔に出尽くしているんだと。それに対して、とっくに充分な応答がなされているんだと。ついては小田亮さんがネット上に公開している「日常的抵抗論の可能性」をちゃんと読みなさいと。

ありがとー。こういう批判は嬉しいね。自慢じゃないけど、この領域じゃ勉強不足もはなはだしい俺だ。こんな風にでも焚きつけられなかったら、自分からじゃ、この手の文献には目を通す気も起きなかっただろうよ。

で本題だ。なるほど何をもって抵抗とするのかの定義が曖昧だって点と、第三者が、当事者の意図にお構いなしに行為を「抵抗」って呼ぶことがなんで正当化されるのか、って点に関する松田さんの反論が紹介されてるぜ。

抵抗論に対するもっとも一般的な批判は、何が抵抗で何が抵抗ではないのか、あまりにもあいまいだというものだ。とりわけ物理的暴力をともなう抵抗とは別に、日常実践のなかの抵抗が注目されるようになると「何でも抵抗」と見なされ評価される傾向が出てくる。…こうして弱者のおこなうあらゆる行為が、抵抗と見なされるようになるが、それは観察者(この場合は人類学者)の一方的な名付けにすぎない。抵抗する意図のないところに、抵抗を読み込むことは、結局のところ、人類学者のロマンティックな思いこみだという批判は、抵抗論の登場の最初期から投げかけられた批判である。(松田 1999)

よくわかってらっしゃる。で、それに対する答えはってえと。

たしかに明確な抵抗の意志をもった主体がおこなう実践が、抵抗の中心に位置することは間違いない。しかしこのような狭義の抵抗以外にも、さまざまな様式の抵抗がありうる。抵抗概念を、あいまいで両義的なものにとどめておくことが有用である。(松田 op.cit.)

おいおい、待ってよ。「有用」って、いったい誰にとって何に対して有用なんよ。定義を曖昧にしておいて、誰か得するのか?どうみてもこの『有用性』は、抵抗って言葉を好き勝手に適用することを可能にしてくれるって有用性だよ。まさか自分たちのやっていることを思いがけず「抵抗」だと認定してもらったら、当事者たちにとって、なにかいいことがあるとでも?あきらかにそういう意味じゃないよな。

抵抗を考える際に、もっとも重要なのは、多様な変革の過程にその主体が関与しているかどうかであり、関与していれば、その実践は行為者の意図にかかわりなく抵抗として定位できる。なぜなら変革の過程は、支配秩序との緊張したせめぎあいをかならず伴うからだ。(松田 op.cit.)

じゃ、その「変革」ってのは誰から見ての「変革」なんだい?当事者が「変革」を目指していたってんなら、変革を目指す行動が「支配秩序との緊張したせめぎあい」のなかで「抵抗」になっちまうってのもわかるぜ。でもその場合は、その「せめぎあい」のなかで当事者たち自身が、自分たちのその変革を目指す行動を、はっきり「抵抗」としてとらえてるだろうがな。逆に、当事者にとって「抵抗」でもなんでもなかった行為が、当事者が意図もしてなかった「変革」と関係付けられて「抵抗」と認知されるってんなら、相変わらずひでえ話しだ。当事者たちの行動が、結果として、意図もしていなかった変化を起こしてしまった、ってんならそれは抵抗でも、変革でもなかろうよ。やっぱ、むちゃくちゃじゃん。

で、「人類学者のロマンティックな思い込み」って批判についての松田さんの答えも紹介しとこう。ちなみに俺はそこまで言ってねえぜ。「ただ抵抗って言ってみたかっただけちゃうんか」ってのが俺の批判だがよ。

[この批判の]立場は、観察者(人類学者)と現地の人々との幸福な一体感を脱構築し、観察者の政治・倫理・認識論的土台を自省・解体する近年の人類学批判の風潮のなかではお馴染みの議論である。たしかに観察者と現地の人たちとのあいだにある不平等な権力関係は、これまでのロマンティックなフィールド神話によって神秘化されてきた。そのイデオロギーを暴露することは、必要な営みだった。しかしそこにとどまっていて、何が生み出されるのだろうかという問題意識が抵抗論の出発点だったはずだ。(松田 op.cit.)

はぁ?たしかに人類学者のお気楽な、現地の人々礼賛ってのの欺瞞性を指摘することにとどまっていては何も生まれないだろうぜ。でも「抵抗」って言ったら何か生まれるのか?俺はそれを問いたい。よっしゃ、人々のやってることが抵抗だってわかった。で?だからどうなの?問題意識はいいけどよ、じゃ何を生み出したくて「抵抗論」やってるわけ?ごめんよ。口が悪くてよ。

もっとも小田さんは、松田さんのこの反論に全面的に共感なさっているようだ。

「そこにとどまっていて、何が生み出されるのだろうかという問題意識が抵抗論の出発点だったはずだ」....これは「抵抗論の出発点」というだけでなく、「人類学の出発点」とも言うべきものでしょう。(小田 2001)

どうやら小田さんにも、何か松田さんと共通の人類学についてのヴィジョンがあるらしい。小田さんの「日常的抵抗」論の可能性についての議論についても少し検討しておいた方がいいな。

ネットで読めるから是非、目を通しておこう。実に説得力のある議論である。 はい、はい、面倒がらずに読んでください。click here

いつも変わらぬ鋭さで問題領域をクリアカットに整理してくれている。ほんとリスペクトだぜ。本質主義批判と異種混淆性論をめぐる一連の議論を手際よくまとめて、そこに姿を見せるアポリアを指摘。日常的抵抗論がそれを解決する可能性を示してるってのが小田さんの議論だ。

本質主義批判と異種混淆性の肯定的評価はポストモダン人類学の原点だったと。でもそれは植民地化と資本主義化がもたらした「脱領土化」の単なる肯定につながりかねないと。だが、それを批判する戦略的本質主義のような立場も、単なる民族主義的ナショナリズムの論理に回収されてしまう危険があると。 ま、みんな上でちゃんと読んでくれたものとみなして議論を進めるがよ、結局なんで[日常的抵抗論」を導入しないといけないのか、その根本的な理由というか動機はわかったかい?松田さんと共通してんのは、おそらくそこさ。

非本質主義的な異種混淆性論が陥ってしまった植民地化や資本主義化による「脱領土化」の肯定につながらず、同時に、それを批判して登場してきた戦略的本質主義のように、固定されたテリトリーへの「再領土化」に戻ってしまわないためにはどうすればよいか、という問いへの答えとして、「日常的抵抗論」は登場してきました。すなわち、「再領土化」(何かへの帰属)によって植民地化や資本主義化による異種混淆化に抵抗することが、民族や性といったカテゴリーの本質化にはつながらないような道は可能か、という問いに肯定的に答えるものが、「日常的抵抗」論でした。(小田 op.cit.)

つまり、「日常的抵抗論」は現実がどうであるか、どのように進行しているかを記述分析するために必要とされてきたんじゃなくて、「どうあるべきか、どのようにするべきか」という規範的な問いによって要請された理論だってことだ。

そりゃア、俺だって、人間の共同性のあるべき姿はどうだとか、どんな風になればよいかといった夢をまるで持ってないってわけじゃあないさー(遠い目)。でも、一人の見る夢は、別の人にとってはありがた迷惑だったりもする。俺は、現実がどんなふうになっているのかをまずとらえたいと思う。そのとき、こうした規範的な問は、しばしば邪魔になるってことだ。

おまけにこうした問に答えようとすること自体に含まれる自己矛盾がある。「『脱領土化』の肯定につながらず、同時に、....固定されたテリトリーへの『再領土化』に戻ってしまわないためにはどうすればよいか」、その処方箋がわかったとするじゃないか。それは誰のための処方箋なんだって問題だ。誰がその処方箋に従って行動することになるんだ?あんたらか?それともあんたらはそれを、当事者たちに差し出して、ほれ、これに従って行動してご覧とか言うつもりなんか?そもそも理論的に導き出された処方箋にしたがって、状況に対して意図的に実践的に働きかける主体って、啓蒙主義的主体じゃないか。で、そうした主体のあり方について、一方でさんざん批判してるでしょ。

ヤングのいう「意図的な異種混淆性」を意識的に操作する「主体」は、近代の啓蒙主義が想定したような、周囲の重層的な社会的結合や文化的コンテクストから身を引き離すことで、それらをコントロールできる超越的な位置を獲得する「空虚な主体」を引きずっています。(小田 op.cit.)

でも抵抗論が「どうすればよいか」の処方箋を目指している限り、それはここで否定されているような超越的な主体を、要請もしていることになるってわけ。

俺、思うんだけど、俺たち骨のずいまで近代の啓蒙主義が染み付いてるところがあるよ。だからさ、夢とかいったちょっと検閲のゆるんだ世界の介入を許してしまったら、そうした染み付いた性向がノーチェックで踊り出てしまう。むしろほっぺたつねってでも、醒めてて夢は見んようにした方がいいんじゃないかと思うわけよ。抵抗論ってのは、俺には、夢へのお誘いにしか見えんな。

上のような「抵抗論」の論脈とは全く別に、「抵抗」として記述できるような現実はある。そうした現実の動態をきちんと捉えようと思ったら、おそらくその抵抗が問題になっている社会空間(言説空間と言いたいところ)の性質、そこでのコミュニケーションの回路の特徴的な歪み、解釈のずれ、そのずれによってモメントを与えられた自己と他者の相互形成のプロセスみたいなものを記述していく必要があるだろう。俺の前回の放言の後半で強調していたのはここだ。でも、夢見る抵抗論は、そこらへんはあまり問題にしていないようだな。

さあ、匿名@hotmail 君。今度は他人の研究をリファーするだけじゃなくて、自分の言葉で反論を書いてきてちょ。待ってるよ(はあと)。

引用

小田亮 2001 「日常的抵抗」論の可能性――異種混淆性/脱領土化/クレオール性再考――(http://www2.ttcn.ne.jp/~oda.makoto/teikouron.htm)

松田素二 1999『抵抗する都市』岩波書店


m.hamamoto@anthropology.soc.hit-u.ac.jp