「抵抗」の成り立ち

はぁ。まだ飽きもせず抵抗について語りますか。当の人たちのことをほとんど知らず、会ったこともない学生さんたちまで、得意そうに抵抗、抵抗って、見苦しいな。他人が抵抗しているのを見ると、そんなに元気でますか?勇気づけられますか?勝手なもんだな。そんな風にはしゃいでるくらいなら、実際に彼らに手を貸してあげたらどうですか。一緒に抵抗してみたら。ちょっと足を伸ばせば、ほんのちょっと財布の紐を緩めれば、それくらいのことできる立場なんだから。
それとも抵抗しているって記述してあげたら、彼らを誉めたことになるとでもおもってるんですか。勘違いです。あんたらに誉められても、何の足しにもなんねーよ。余計なお世話だ。だいたい、それって誉め言葉か?抵抗してるって?

と、最近の民族誌記述の一つの流れを見ていると、こんなひねくれた悪罵の一つも言いたくなるようなひねくれ者がどこかにいないとも限らない。もちろん私は素直な人間なのでこんなことを言ったりはしない。ただ特異な宗教運動から、日常生活の中のなにげない実践に至るまでを、権力や抑圧に対する「抵抗」として解釈してみせる研究は、あいかわらず盛んだ。誰だってセルトーの名前くらいは聞いたことあるでしょ。日本の人類学者でも、松田素二さんとか元気だし、あの確信犯的遅れてきた構造主義者小田亮さんまで、数年前から「抵抗」とか言って受けをとってるし。うーん。

で、これだけ流行っているのに、肝心の「抵抗」という概念が、私の期待に反してさっぱり煮詰まっていない。ある行為を抵抗と呼んでよいかどうか、その判断基準はどこにあるのか、行為はいつどんな風に抵抗と呼びうる行為となるのか、そのあたりがきっちり詰められないまま、なんとなくわかりきった概念であるかのように流通してしまっている。それが分析の水準をいつまでたってもすごく表面的なものにしている。記述や分析で中心的な役割を占める概念でありながら、それ自体がけっして明確に定義されず、主題化されていない。ある言説系のなかで生じているこういった事態は、たいていより深刻な理論的アルツハイマー症の兆候であるなのだ。

もちろんどんな白熱したノリノリの議論の場にも、定義の問題を突然もち出して議論の流れに水を差すおバカさん、迷惑やろーがいる。いいか、議論するときは定義なんかだいたいでいいんだよ。お前、もしかして、議論についてこれてないだけなんちゃうかと。もちろん私は、ここでそういったおバカさんを演じて見せようというつもりはない。でもな、「抵抗」っていう概念は定義がまさにめちゃ問題になる概念なんだよ。自分のやったことが抵抗だと判定されるかどうかは、ときとして生きるか死ぬかの分岐点。ここでは定義、何が抵抗にあたるのかをめぐっての状況理解を制することは、刺すか刺されるかってくらいの重大事だ。軽々しく「抵抗」っていうんじゃねえよ。ばーか。

というわけで、抵抗の概念を煮詰める仕事は、抵抗について語る方々におまかせするとして、私はここでは、もっと初歩的なポイントを指摘したい。つまりある行為は、誰の目にそうであるときに「抵抗」になるのか、という問題である。瑣末ですか?いいえ。「抵抗」を一つの社会的リアリティとして成立させるプロセスに光を照てるためには、一度はこの問題を経由しておかなくちゃ駄目なんだよ。これ自体はたしかに瑣末な問題なんだが。

  1. 行為者が自らの行為を「抵抗」だとみなしている
  2. 行為の相手がそれを自分に対する「抵抗」だとみなしている
  3. 人類学者のような第三者の観察者がそこで起こっていることを「抵抗」だとみなしている

1は当然にみえるかもしれない。もちろん抵抗は一つの行為であるから、アンスコムの行為条件と私が勝手に名づけているものに服する。つまり行為者自身が、自らの行為をその記述(「抵抗」という記述)のもとで眺めているかどうか、これがその行為が意図的行為であるかどうかを問うための基本である。って、アンスコム、知ってるよね。
でもこれはその行為が「抵抗」であるための必要条件ではありうる(これも疑わしい)が、十分条件だとはけっして言えない。だって、私が苦手な先輩に会うたびに、笑顔でこんちわーとか挨拶してへらへらしてながら、実は最後の「わー」の発音の中に精一杯の「抵抗」をこめてるんだよとか言っても、あんた、そら抵抗やないで、何もたてついとらんで。むしろそれはへつらいと言えよう、やで。というわけで、いくら行為者当人が抵抗のつもりでも、それが抵抗という現実を形づくらないことは十分にありうる。

では2のように、行為者の相手がそれを自分に対する「抵抗」だととるという条件はどうか。たいていこの相手は力関係でも上なので、それが抵抗という社会的現実になってしまうことはおおいにありうる。市民が三人集まって話をしていたら、すべてそれを自分に対する陰謀だと、自分にたてつこうとしているのだと認定した有名な権力者の話を持ち出すまでもなく。でもそれってやはり「抵抗」として分析できる行為ではないと思う。こちらの意図とは無関係に、自分の行為がいつなんどき「抵抗」だということにされてしまうかわからないってのも、怖い。

3の観察者=分析者による認定ってのも、実は2と似たり寄ったりである。実はこれが言いたかった。松田素二さんが上げているナイロビのスラム住民の抵抗の例にしたってそうだ。無実の罪で家族のものがしょっ引かれて、警官に賄賂とかこそーりと渡して釈放してもらう。これを柔軟だかなんだかしらないが、したたかな抵抗だなんて、あまりにもおめでたい。普通に考えれば、理不尽につかまったうえに、さらに金まで巻き上げられて、踏んだり蹴ったりだといえよう。で、こっちは踏んだり蹴ったりな目にあっているのに、実はおまえは抵抗しているんだと。したたかなんだと。冗談じゃねえよ。やめてくれよ。あんたはそれで俺たちのことを誉めてるつもりなんかい?大きなお世話だ、っていうか、はっきり言って迷惑だ。

極論かい?でも人類学者が「抵抗」として分析してみせてるのは、ほとんどが3みたいなケースだぜ。そうすることによって、その実践の表面的な外見の背後の真の姿が取り出せた、みたいな構図になっている。当人がそう考えている(1)わけでも、相手がそう考えている(2)わけでもないとしたら、いったいどんな基準と根拠によって、それを「抵抗」と呼ぶことができるのかと、私は問い詰めたい。おまえ、ただ「抵抗」って言ってみたかっただけちゃうんかと。

ま、こんな風に屁理屈を重ねていくと、わかったわかった、1と2の条件が同時に成立していることが必要なんだな、なんて平凡な結論にとびつくおバカさんが出てきたり。現地の人々の語りに耳を傾けよーってか。1、2、3同時成立ですべて丸く収まるとか。つまんねーよ、それじゃ。ま、抵抗っていう概念がわかりきったものに見えるほとんどの場合がそれだがよ。

実際は抵抗が問題になる社会的場面で、往々にして1、2、3は一致しない。ずれまくっているから面白いんじゃねーか。つまり抵抗っていう社会的現実は、しばしばこうしたずれによって発動する、社会的相互プロセス、コミュニケーション的過程を通じて形成されていく。行為単体、それに対するある視点からの単一の解釈。こんなものを組み合わせて社会的リアリティが分析できると、いまどき考えているとしたら随分めでてー話だ。ベイトソンでも読んで出直して来な。タウシグでもいいぜ。とにかく社会的リアリティってのは、向かいあった何枚もの鏡が、めまぐるしく互いの姿を映しあうなかで、つまり無数の他者のなかに自らの姿を映し、それが同時に他者の姿でもあったりする、そうしたなかで成立するリアリティなんだ。

ちょっとタウシグにかぶれて、表現が文学してしまったぜ。でもぶっちゃけた話、こうだ。ローマ皇帝というよりも、会社のしょぼい上司を例にとった方がいいか。このしょぼい上司は、自分が部下から評判悪く、反感を買っていると思い込んでいる。ま、この思い込みが社会的に成立するまでも長い話だが、そこは端折る。で、部下の方はこの時点では、まだこの上司にたてついたりする気はそれほどない(かもしれない)。が、この上司は部下たちのなんていうことない立ち話とかに、自分の悪口、自分に対する抵抗を見てとってしまう訳だ。つまり2だ。根も葉もないことだ(かもしれない)。そしてこの想像上の抵抗に対して、上司は部下を処罰的な態度であつかうわけだ。この理不尽に下された懲罰的応答に、部下たちはカチンと来る。で、この上司に対して反感をいだく。上司はこの反感を見て取り、自分の判断の正しさを確信してしまう。やっぱりこいつら俺に反感をもって、たてつこうとしとるんや。その証拠はいたるところに見いだされ、上司はそれに対して懲罰的に反応する。部下はそれに対して....以下省略。よくある話だ。最終的な状況に対して、部下と上司の敵対、上司に対する部下の抵抗という記述が当てはまることはいうまでもない。

そやけど、間違えたらあかんで。この話のほんとのポイントは、実は最初の上司の思い込みがほんとに間違いやったんか、上司は見事に感づいていたのかそこらへんが、実は後になってみたらはっきりせんちゅうこっちゃ。部下らは、ほんまは上司に対してすでに反感もっとったんちゃうんか。それがすでに態度にしめされとったんちゃうんか。けどそんなこと、もうどっちかわからんようになっとる。部下にとっては自分らの明示的な反抗は、上司が理不尽に懲罰的に振舞ったせいやし、上司にとっては自分の懲罰行為は部下の側に責任がある。合わせ鏡っちゅうのは、まあ、こういうこっちゃ。なんやら白黒つかへん不確定な状況で、ずれだけが一つのプロセスを始動させとる。そんでそのプロセスが一つの社会的リアリティを作り上げていくわけや。

しょうもないたとえ話すんなってか?もちろん人類学者である私めは、東アフリカで植民地時代に起こった有名なカルト運動について語ってもよかったかもしれん。ヤカン・カルトと呼ばれたその運動は、最後は植民地行政に対するほんものの抵抗運動になって、ま、鎮圧された。でもそれは当初、流行り病を治療することを目的としたカルトだったらしい。が植民地行政の側が、それを政治的な反政府運動と勘繰って、弾圧し、そのなかで、それはほんまもんの抵抗運動になってしもた。ま、こんなもんや。詳しい話が知りたかったら、研究も多いから図書館ででも勉強してくれ。

上の話は1と2のずれを介して、社会的相互プロセスが抵抗という現実を生成していく話やが、そこに3がどんな風に絡んでくるか、それも考えてみたら面白いやろと思う。ま、若さもエネルギー(ってなんや?)もある皆が考えてくれや。少なくとも、これから人々の「抵抗」の話をしてやろ思てるもんは、この程度のことは考えてからやってくれや。たのむさかい。

あれ、最後は関西弁になってしもたけど、なんせ関西の出身やもんで勘弁してや。


m.hamamoto@anthropology.soc.hit-u.ac.jp