知の巨人たちに、おろかにも立ち向かおうとしたチンピラ人類学者。手もなくひねられて地面にたたき伏せられる。「おぼえてやがれ!(ほんとは忘れてちょうだいね)」の捨て台詞も悲しく、その場を逃れたチンピラ野郎。卑怯にも助っ人を連れてこようというのだろうか。いやいや、一寸の虫にも五分の魂(なんのこっちゃ)。プロテインを飲んでパワーアップした人類学者は、性懲りもなく再び知の巨人たちの行く手に立ちふさがった。
と、前回はちょっといつになく気合が入ってしまったのだけど、実のところ、以下の議論がほんとうにクリプキの議論に対する反論となりえているのか、さっぱり自信がない。ってのも、あんまりにも簡単な反論な訳で、その程度のことがいままでなされてなかったとはとても思えないからだ。きっとすでにそんなものは却下済みの議論かもしれない。そのあたりも、できれば指摘していただきたいという感じで、前回の議論の続きを進めてみたい。
言うまでもなく、僕はクリプキの議論は重要な点では正しいと考えている。第一に、固有名を記述の束に置き換えることはできないという点。この点については、おそらく疑問の余地はない。
原初の名指しからの因果連鎖という考え方は、ちょっと神話めいているが、この点ですら、僕は頭から非現実的だとして却下する気にはなれない。これは、いささかぎこちない仕方でとはいえ、コミュニケーション行為の「社会性」を、論理学に再導入する試みであるには違いないんだから。
僕らは言葉の使い方を、僕らとコミュニケーションする他者がそれを何に対して使っているのか、他者がその言葉を用いて何を指示しているのかを学ぶことを--もちろんそこには学び損ないの契機も含まれている--通して学んでいるという側面がある。僕らは、ある言葉で、誰か他の人々がその言葉で指示しているものを、指示する。僕らの指示行為は、他者の指示行為を模倣することからなっている。そして逆に、僕らは、僕らが話しかけている他者が、その言葉で、僕らが指しているものと同じものを指してくれるだろうって可能性に賭けて、ある言葉を使っている。僕らがある言葉で何かを指せるという事実は、こうした他者とのコミュニケーションの成立にむしろ事後的に依存している事実なんだ。人類学者がフィールドで土地の言葉を学ぶ際に、繰り返し経験していることだ。言語を学ぶことが、記述論者が言うように世界と言語との写像関係を学ぶということであれ、記号相互の参照関係を学ぶことであれ、それは一人の精神の中で孤独に生じている過程なんかじゃないわけで、いつもそこには具体的な他者との教え−教えられるという関係が介在している。っていうか、要するに言葉は人に教えてもらうしかないってことだし、人に教えることができてはじめて言葉だってこった。私的言語が不可能であるということの、もう一つの、瑣末な意味である。固有名に限らない話だ。
ただもちろん、それが始原の名指しの儀礼にさかのぼってしまうなんて話になっちゃうと、もうとんでもなく神話的で非現実的な話になる。それは僕らの指示行為ってのを、アダムが身の回りの物事に片っ端から名前をつけていった、その原初の指示行為の模倣、反復だってことにしてしまいかねない。
ま、それはいい。誰が見たってまぎれもなく神話だってことがはっきりしてさえいたら、神話のひとつふたつ信じたふりをしたってたいして害はない。
だったら、クリプキの固有名の議論のどこがおかしいのかって?もちろん僕は例の、固有名をなんだか大げさな存在にしてしまう原因になっている箇所を問題にしたいんだけど、実はその箇所はピンポイントで指し示すことができる。
固有名を確定記述の束に、つまり諸性質の記述の集合に置き換えることができないという、それ自体は正しいと思われる議論の末に、あらゆる記述を剥ぎ取った後にも、すべての可能世界において、なおかつその固有名詞が「その」人物を固定的に指示し続けるんだという結論が出てきてしまうところだ。固有名には、諸性質の束に還元できない、それ以上の「何か」、固定的に対象を指示し続けることができる何かが宿っているみたいな格好になってしまう。お前の思い過ごしだって言われそうなんだけど、どう考えても、ここには議論の飛躍があるみたいな気がするんだ。
クリプキは前書きの中で「われわれは名前が固定的であるという直接の直感をもっており、それは特定の文の真理条件についてのわれわれの理解に現れている」(p.15)なんて言ってるけど、問題の議論の箇所でも、彼はこの「直感」に繰り返し訴えてるみたいにみえる。例えばこんな具合だ。
クリプキは、諸性質の論理和をその固有名に帰すべき必然的事実としようというサールの提案に対して、可能世界においても固有名が固定的に指示するという例を出すことによって反論している。たしかに自分たちは「ヒトラー」という名前を聞くと、「本能的反感」を感じ、彼の行ったさまざまな悪事がその本質の一部であるかのように考えるかもしれない。しかし彼がしかじかの悪事を行ったことはやはり偶然的な事実なのだ。というのも「ヒトラーは全生涯をリンツで静かに送ったのかもしれない。その場合われわれは、だとしたらその男はヒトラーではなかったのだとは言わないだろう。別の可能世界を記述する時でさえ、われわれは「ヒトラー」という名前を、まさにあの男の名前として使っているからである。」(p.89)
アリストテレスの例でも見た議論の反復だ。僕らは「もしヒトラーが、リンツでそのまま静かに生涯をおくっていたとしたら...」といった反実仮想がなりたつ可能世界を考えることができるが、そこでもやはりあの「ヒトラー」について語っているんだというわけだ。これが彼の「直感」であり、彼は議論にとってこれで十分だと考えている。「世界交差同定」の議論にコミットする必要を感じていないようだ。でもこの直感はなにによって支えられているんだろう。
アリストテレスの例でやったのと同じ操作を、ここでも繰り返すことができる。われわれはヒトラーがナチスの党首にならなかったような可能世界を考えることもできるし、ヒトラーが男ですらなかった可能世界について考えることができる。封印された資料が発見され、ヒトラーが実は女性だったと判明するかもしれない。ヒトラーに帰せられている諸性質の一つ一つについて、それが成り立たない可能世界を考え、そこでやはりヒトラーが「あの」人物を固定的に指示していることが示せるだろう。こうした別の可能世界でもわれわれは「だとしたらそいつはヒトラーではなかったのだ」とは言わないだろう。以下同様。かくしてヒトラーという固有名は、それについて与えられているすべての記述を剥ぎ取っても、固定的にある対象を指示し続けていることになる。
私がおかしいと思うのはこの「以下同様」の部分である。たしかにヒトラーという固有名の指示対象を固定したままで、僕らはさまざまな事実に反する仮想をもつことができる。「もしあのヒトラーが100年前に生まれていたとしたら」「もしあのヒトラーが日本で生まれていたとしたら」「もしあのヒトラーが女性だったとしたら」などなど。このいずれの可能世界においてもたしかにヒトラーは固定的にあの人物を指示し続けているように見える。いずれの可能世界でも「だとしたらそいつはヒトラーではなかったのだ」とは言えない。でも「もし、ヒトラーが女性であり、日本で100年前に生まれ、新橋の呉服問屋の一人娘として幸せな生涯を送ったとしたら...」といった具合に、それらをすべて組み合わせてみたらどうだろう。今度は、そんなやつはもうヒトラーじゃない、と「直感的に」言いたくなるんじゃないだろうか。「以下同様」なんて実は成り立ってなかったんだ。
とすると逆に、個々の反実仮想において、指示が固定している理由についても、いささかあやしいことになる。それぞれの反実仮想にもとづく可能世界において、指示が固定しているかのように感じられるという「直感」は、実は、ヒトラーについてのその他の諸記述の存在に暗に依存していたのではないだろうか。ある一点でのみ、ヒトラーについて知られている事実とは反した記述をもつが、他のすべての点ではヒトラーについて知られているすべての性質をそなえている、こうした人物に対して私たちはヒトラーと呼び続けることに、たしかに躊躇は感じない。しかしそれらの諸記述すべてについて、知られている事実に反する性質をそなえた人物については、もはやそれは成り立たないように見える。僕らはそんな奴はもうヒトラーじゃないと言うだろう。クリプキの、すべての可能世界においても指示は固定しているという「直感」は、<その固有名についての他のすべての記述を不問に付すとしたら>、<他のすべての点において同じであるとしたら>という条件節によって支えられた「直感」だったとはいえないだろうか。
実につまらない結論で申し訳ないのだが、もしそうなら、固有名は、つねに部分的には随時修正可能な諸記述の束と結びついているってことだ。随時修正可能であるというその性格が、他の諸記号との相互参照関係の網の目の中に、固有名が取り込まれることを拒んでいる。でも、それだけのことだ。別に、一切の記述をはぎとってもなお、対象を固定的に指示し続けるなにか不思議な力がやどっているような、そんな大それたものじゃない。対象aであれ「単独性」であれ、そんなものを持ち出してくるのは、どう考えても場違いなはなしだ。
もちろんクリプキ本人の議論には、この手の大げさで場違いな概念は登場してこない。彼は単に指示の社会性に訴えているだけであるように見える。固有名が指示固定的なのは、別に固有名になにか特別な力があるからなんかじゃない。固有名の使用が(そしておそらくあらゆる言語記号の使用が)、かならず他者によるその使用を引き継ぐという形でしかなされないこと、それが指示の固定性のあまり当てにならない保証になっているのだ。あてにならない。ってのは、誰でも間違って引き継いでしまったりすることがあるからだ。あるいは間違ったまま、引き継いでしまったりするからだ。でも、おそらくヒトラーという言葉を、それが100年前に日本の新橋で生まれた呉服問屋の一人娘を指示するのに用いるほど、とんちんかんに引き継いだりする馬鹿ヤローはいないだろうとくらいは、期待してもかまわないだろう。アリストテレスって、あのギリシャ悲劇の作者でしょ?って、そりゃアリストファネスだろ?そもそも悲劇じゃないし。ってな感じで、通常は修正可能なブレに収まっている。指示の固定性なんてのは、その程度のもんだ。
そしてこれは固有名のみならず一般の種名についても同様に当てはまる。その使い方は誤って引き継がれうるし、また事後的に修正を受け付けうる。
違いは、もちろんある。一般の種名(ネコとかイヌとか)は、特定の今ここのコンテクストに出現したそのリファラントとのインデクス的結びつきを、仮に、言語習得の初期においては持ったとしても、その連合はとっとと解消され、記号の相互参照関係の中に固定される。この相互参照関係が、今度は指示の根拠を提供し続けることになる。それに対して、固有名はたしかに、なんだか、特定のコンテクストにおけるその指示対象とのインデクス的結びつきを繰り返し反復し続けているみたいにも見えるのだ。当面のコンテクストにおけるその指示対象について、新たに判明する事実によって、固有名に結びつく記述の集合(他の記号との相互参照関係)は頻繁に訂正を受け続けることになる。とすると、やっぱり固有名が対象を指示する仕方は、他の種名とは根本的に違っている、つまり固有名には指示を固定する何かがある、なんてことになってしまうんだろうか。
僕はそうではないと思う。むしろこのことは、そもそも固有名が、言語記号を構成するその他のシンボル的記号とはまったく別種の記号、つまりインデクス記号である、いやそれどころか厳密な意味では「記号ですらない」ものだってことを示しているんだと思う。固有名は、シンボル的記号が何かを意味したり指示したりするようには、その対象を指示したりしていない。
こんなことをいきなり主張すると、まるで電波系だが、まぁしばらく待ってくれ。実際にはめちゃ単純で当たり前の話を僕は主張している。
固有名とは何であるかをめぐって、クリプキがいとも簡単に却下してしまった一つの見解がある。それは、例えばソクラテスという固有名は単に「ソクラテスと呼ばれる個人」という意味であるとするウィリアム・ニールの考え方だ。なんだかすごくもっともで簡単な考え方だと思うのだが、クリプキはこれをあっさり退ける。それが指示の理論としては循環に陥ってしまうからというのがその理由である。<「ソクラテス」は「ソクラテスが指示する男」を指示する>ということになり、結局何も指示していることにはなっていないからというのである。
これは指示の理論であるとはおよそ思われない。「彼は『ソクラテス』によって誰を指示しているのか」とわれわれは問う。すると「そりゃあ、彼は彼が指示している男を指示しているのさ」という答えが返ってくる。もしこれが、固有名の意味と言われるもののすべてだとしたら、いかなる指示も全く始まりはしないだろう。
(p.81)
でもこの議論はちょっとおかしい。クリプキが「呼ぶ」という言葉を、当然のような顔をして「指示する」という言葉に置き換えてしまっているのに気づくだろう。この操作が、これを循環に見せかける。おそらくクリプキにとっては「ソクラテスと呼ばれている」ということは「ソクラテスという固有名で指示されている」ということとまったく同じなのだろう。しかし「呼ぶ」という関係は、指示するという関係と同じといってよいのだろうか。もしそうでないとするならば、<「ソクラテス」は「ソクラテスと呼ばれる男」を指示する>という命題はかならずしも循環的とはいえない。
僕らはその固有名と、それによって指示される人物との関係を、別の形でとらえる言い方を知っている。つまり「ソクラテスと呼ばれている男」とは「ソクラテスという名をもつ男」「ソクラテスという名前を所有している男」である。この言い方は、名前と人物との関係が、記号とそれが指示するものとの関係であるというよりは、むしろ人とその所有・領有の関係だってことを示唆してる。名前は「記号」というよりは所有物である。特別な指輪、エンブレム入りの盾、特定の柄のケープ、等々。こういったものを人は「所有」する。それらは社会的に認められた手続き・やり方で彼に授与される。この事実が、それらの所有物とその人物とを換喩的関係(つまり同じコンテキストにおける共起、隣接の関係)にたたせる。かくしてそれらの事物は、インデクス的にその人物を指示する記号としても用いられうるかもしれない。
ところで固有名なるものも、こうした所有物の仲間だったんじゃないだろうか。クリプキは命名の儀礼を、「これからはしかじかの名前で、この人物を指示することにしよう」という最初の指示行為として考えている。これは、よく考えるとばかばかしい話だ。命名儀礼は、指示のやり方を定める儀礼なんかじゃない。それは名前をその人物に「与える」手続きなんだ。そんなことは、だれでも知ってることだ。
固有名が指示固定的に見えるとしても、それは、なぜだかわからないけど指示が固定しちゃってるよぅ、あにきぃ、みたいな固有名の不思議な力に関係しているわけではない。単に所有関係が固定しているだけの話だ。不思議でもなんでもない話だ。固有名がその持ち主を「指示する」ことができるとしても、それはこの固定した所有関係のおかげである。その所有関係が保証しているインデクス的な関係をとおして指示しているんだ。
クリプキの固有名の議論と、その議論のなぞめいた不思議にとびついたジジェクや柄谷の議論は幾重もの勘違いのうえに成り立っているってことがわかる。一つはすでに述べたように、言語をすでに習得済みの大人が用いる完成した姿でのみ問題にすることによって、そのインデクス的な根っこの存在を忘れてしまっていること。その結果、言語をもっぱら世界を写像するその機能の点でのみ問題にしていること。ゲーデル的不完全性やら「現実界」やらが、おおげさに大問題となるのも、こうした現実離れした想定のものでの話しだ。これが固有名についてのあまりにも当たり前の事実を忘れさせている。固有名と名前の持ち主との関係は、なによりもまず「所有」の関係であって、指示の関係はそれにもとづく二次的な関係に過ぎないってことをだ。固有名とは、どこまでいってもインデクスであることを止めず、したがって記号の相互参照関係に還元されることを拒み続けている言語の部分集合なんだ。それは僕らの使っている言語が、もともとのインデクス的記号体系のヴァーチャル化によって成り立っているという事実を、繰り返し思い出させる。クリプキが固有名の議論を、その他の一般種名に拡張しようとしていることは、言語体系のヴァーチャル化の痕跡を、固定的な指示関係として垣間見える「物」にたいする記号のインデクス的な固着のなかに確認するしぐさとして、実に正しい。
わーっ。とうとう言っちゃったよ。電波系「と」説。最後がなんとなく論文口調なのも笑える。サイクリングの後の大脳初期化状態で一気に続きを書かせていただきました。
不一
テレンス・W・ディーコン 1999(1997)「ヒトはいかにして人となったか:言語と脳の共進化」金子隆芳訳、新曜社
ソール・A・クリプキ, 1985,『名指しと必然性:様相の形而上学と心身問題』八木沢敬・野家啓一訳, 産業図書
スラヴォイ・ジジェク,2000,『イデオロギーの崇高な対象』鈴木晶訳,河出書房新社
柄谷行人, 1989,『探求 II』講談社