固有名とヴァーチャリティ

放置状態になっているヴァーチャル化の議論だが、今日、ある人から読んだよとのご挨拶をいただいた。で、結局、ヒトは言語記号の助けを借りて、世界を恣意的に意味づけ、それを独自の仕方で組織化し、そうしたシンボルに媒介された世界に適応しているんだってことが言いたかったんだよねと。はい、たしかにそのとおりなんですけど(涙)、それだけだと今さらの話で、ずいぶん昔からいろんな人が言っていることなわけだ。なにも、みょうちくりんな比喩(講義では、ヴァーチャル化という移行プロセスを理解してもらうために、コンピュータの仮想メモリの仕組みから始まって--ちなみにこれ超・不評でした--いんちき不動産会社だとか半魚人の地球征服スイミングクラブだとか、みんなの目が点になってしまうようなとんでもない比喩を繰り出して悪戦苦闘してたわけで)を駆使してまで必死に説明しなければならないようなことじゃあない。というわけで、やっぱりも少しきちんと議論しておいたほうがいいのかなぁ。

僕は一応自分を人類学者だと自認してる。地球上のいろんな場所で、自分も含め人々が性懲りもなく繰り返しているいろんな、考えようによっては奇妙奇天烈な実践の、意味や仕組みを説き明かせってのが、そのミッション・インポッシブルだ。だからその使命にあんまり直結していないみたいな領域、たとえば言語論一般とかあれこれの哲学理論とかに口出しするのは、まぁジェームス・ボンドがついボンドガールたちといちゃいちゃしちゃうっていうのと同じくらい職務放棄だし、ジェームス・ボンドならぬ僕がそんなことをした日には、身の程知らずってもんだ。おっと、話がそれて行きそうだが、ようするに、それぞれ高度に専門化した他領域の研究に、口を出す能力も資格もないことがわかっているので、あまり得意げに無責任な見解は表明したくないなと自制したりしてるわけだ(そうは見えないって?)。

ソシュール様や、ライル殿下、ウィトゲンシュタイン閣下、その他そうそうたる御歴々の方々のお言葉を、ありがたく使わせていただくってことはあっても、まちがってもご批判など、そんな恐れ多いことを一介のチンピラ人類学者ごときが、頭が高い、控えおろう、へへぇー、お許しくだせぇって感じだ。

とは言うものの、実はあのヴァーチャル化の議論には、そのあたりのわきまえを、恐れ多くもちょっぴり踏み外してしまいそうな部分があった。もちろん人類学者として、あくまでもヒトの進化と文化の問題とのからみでしか話題にしなかったわけだけど。ただ、ヴァーチャル化という形でそれを提案したことの本当の意味を明らかにするためにも、そのあたりを思い切ってもう少しはっきり書いてしまった方がいいのかも知れない。実は昨夜、合同ゼミの後で、某O先生と熱血編集者Hさん、12人の怒れる(イカレタ?)学生たちとの飲み会の場で、なんとなく口に出しかかったことでもあるし。たいした話じゃないし、きっとどこか間違っているはずだ。間違い探しをしていただければ、こちらとしても大助かりだ。

私のヴァーチャル化の話の一番核の部分は、そこでも書いたように、T・ディーコンの議論の受け売りみたいなものだ。ディーコンが、チンパンジーにシンボル的記号を学習させる試みの分析を通して明らかにしようとしたのは、言語つまりシンボル記号を使用できるためには、同じコンテキストで共起する二つのもの(ブザーの音と餌の出現といった)の連合を学習することにくわえて、何が必要とされるのかという問題だった。こうした記号(例えばブザーの音)とレファラント(例えば餌の出現)との特定の連合の学習に加えて、記号相互の相互参照的関係、排除と包含の関係が学習されねばならない。シンボルとしての記号が学習されるためには、記号とレファラントとのインデクス的な連合の学習がいったん解消されて、それが記号同士の相互参照的関係に従属する関係として組織されなおす必要があるのだ(T・ディーコン 1999:76-105)。ディーコンは、これを次のような図で説明している。

きっと頭の良い方は、何を今さらと思うに違いない。だってソシュール以来、僕らは言語を諸記号の自己完結した相互参照のシステムとして捉えることになれている。未分節で無定形な(と想像された)世界のうえにかぶせられ、それを切り分ける自律的な網の目なのだというわけだ。したがって、言語を学習することが、諸記号の相互参照関係のシステムを学習することであると言われても、そんなことはあまりにも当たり前の話だってことになる。

だから、ディーコンの議論で私が大事だと思った点は、シンボル的記号の学習が、記号とリファラントとの結びつきよりも、記号どうしの相互参照システムの学習にあるのだなどという、ある意味あたりまえの指摘自体じゃない。むしろ、そうした相互参照システムの学習に先立って、記号とリファラントとのインデクス的な結びつきの学習がまずなされねばならない、そしてついでその結びつきの学習が解消されねばならないという点の方が、重要なんだ。

きっとたいていの言語学者は、言語をすでにシステムとして完成した姿で問題にする、あるいはすでに習得済みの、大人が使用するその姿で問題にする。それは、記号の相互参照の、理念的には閉じた自律的なシステムとして事実見えている。でもそのときに、忘れてしまっていることがある。系統発生的に言えば、つまりヒトの進化という観点から見れば、ヒトは言語つまりシンボル的記号を手に入れる前に、まず他の哺乳類や霊長類たちと同じようにインデクス記号を用いたコミュニケーションに習熟していたはずだということだ。あきらかに、言語はこの既存のインデクス的コミュニケーション・システムとは無関係に、それとは別個に突然手に入れられたものではない。むしろこの既存の記号系の質的な変容を通じて出現したに違いないんだ。個体発生的に言えば、子供はシンボル的記号のシステムとしての言語を習得する前に、まずインデクス記号として、同じコンテキストのなかで生起する他の事象と連合した記号として、その連合を学習するところから始めなきゃならない。言語記号は、この学習のうえに、その質的変容を通じて獲得される。

説明しよう。子供にとっての最初のいくつかの言語記号の習得は、まさに目の前で展開している状況のなかの要素との連合(「ほら、ワンワン、ワンワンだよ」)の学習だ。目の前に現前する具体的なリファラントに対するインデクス記号としてそれを手に入れる。しかしこうしたインデクス記号としての言語記号の習得が繰り返されている中で、認識のジャンプが生じる。子供はその注意を、記号とリファラントとの連合から、記号相互の関係に移す。そしてその規則性に気がつく。チンパンジーでも辛抱強い困難な訓練を通じてなんとか可能だけど、人間の子供の場合はごく自然にやすやすと成し遂げられてしまうジャンプだ。こうしていったん記号どうしの論理的な排除や包含関係、相互参照関係に焦点が移動すると、その後の言語習得は、どんどん自律的な相互参照システムの内部で進んでいくことになる。最終的には子供は、ある記号を習得するのに、もうその現物を前にする必要がなくなる。「ペンギンっていうのはとっても寒いところに住んでる鳥さんで、飛べないから氷の上を歩いたり、海を泳いで魚を食べたりしてるんだよ」「一角獣っていうのは、馬みたいなんだけど頭に一本の角が生えている神話上の生き物なんだよ」(あるいはより詳細に「額には一本のねじれ角があり、カモシカの尻とライオンの尻尾をもった馬に似た伝説上の動物でね、 純潔や清純の象徴で処女以外には捕えることができないって言われてんだよ」)ってな感じで、言葉による説明で、つまり他の諸記号との参照関係を通して、どんどん新たな記号を習得していくことになる。記号とリファラントとの関係は、もはや当初のインデクス的結びつきではなく(それは解消されてしまう)、この相互参照関係のシステムによって支えられた結びつきになる。

私がヴァーチャル化と呼んだのは、進化の過程でヒトが言語記号を手に入れる際に起こったはずの、そしてヒトの個体が言語を習得する際にその都度繰り返さねばならない、インデクスからシンボルへのこの移行だ。この移行の結果、オオカミという記号が何らかの役割を果たすために、もはやそこに現物のオオカミが存在している必要はなくなる。例の実メモリと仮想メモリの比喩で言うならば、これによってヒトは、現に見たり、聞いたり、触れたり、感じたりできる「今ここ」の「実世界」の拘束を離れたより広大な「仮想世界」を手にいれ、その世界に対して働きかけ適応するようになったというわけだ。つまり僕らが現に生きている「現実」ってのが、そもそもすでに仮想化された世界、「今ここ」の「実世界」のうえに仮想化された世界なんだってことだ。でもここでのポイントも、ちょうどどんなに奇抜な仮想メモリの仕組みでも、実メモリである物理メモリがまったくなくては話にならないように、言語記号のシステムも、その外部の「実世界」との消去し得ない結びつきに依存しているという点だ。言語が自律的な相互参照の閉じたシステムのように見えるのは、構造主義的幻想なんだってことだ。それは閉じてなんかいない。

僕は、言語を世界の完全な写像を与える閉じた相互参照のシステムとしてとらえようとしたラッセルやフレーゲの記述理論が破綻していることを示したクリプキの議論が物語っているのは、まさにこのことなんじゃないかと思っている。でも、そういう目で見てみると、クリプキの議論自体も、なんだかちょっと不十分なところがあるように見えるし、このクリプキの議論を使った柄谷行人とかジジェクとかの議論も、かなりとんちんかんなことになっているみたいな気がする。

あ〜あ。とうとう言っちゃったよ。ちんぴら人類学者のくせに。ごめんなさい、ごめんなさい。でもまあ、言っちゃったものは仕方がないので、覚悟を決めて議論を進めちゃおう。

でもまず最初に、クリプキの議論が、このヴァーチャル化の議論とどうかかわってくるのかを示しておこう。

クリプキの議論は「固有名詞」とは何かって問題をめぐっている。たとえば「アリストテレス」っていう固有名詞が、なぜあの特定の男を指示することができるのかって問題だ。普通の人にとっては、なんじゃそれってことになると思うので、おこがましくもちょっと解説しておきたい(細かい点では--大きな点でも?--間違っているかもしれないが許せ)。

われわれ一般人(へなちょこ人類学者含む)にとってはどうでもいいことかもしれないのだが、論理学者たちにとって固有名詞は厄介な存在だった。論理学ってのは、乱暴に言ってしまうと、世界についての命題の真偽を計算する学問だ。ごちょごちょしたところを取っ払ってしまうと、要するに、複雑な命題は単純な命題の組み合わせになると。で単純な命題の真偽は、現実世界でそれがあてはまるかどうかで決められると。例えば「弱い犬ほどよくほえる」なんて命題は、xは犬であって、かつxは弱くて...みたいに分解されて、現実と照らしあわされるって感じだ。で、その照らし合わせの際に「犬」が現実の何に対応しているのかは、「犬」という言葉の「意味(内包)」をとおしてわかる。ここでいう意味ってのは、まぁ、「犬」っていう言葉の辞書での説明みたいなものを考えればよい。つまり記号どうしの相互参照関係が意味を与える。「弱い人類学者ほどよくほえる」って命題も同様に解析可能だ。皆さんでやっていただきたい。
(え?ちょっと乱暴すぎますか?すでに間違ってますか?)

理想的にはこれですべてうまくいくはずだ。ところが、命題の中に固有名詞が入ってしまうと話がやっかいになる。たとえば「浜本満」っていう固有名詞には、上で述べたような「意味」があるだろうか。浜本満の意味を述べよとか言われると、私自身困ってしまう。すると例えば「浜本満はハンサムだ」などという命題を検証したい場合(私は奥ゆかしいのであえてそれが真であるとは主張しないが)、どうすればいいだろう。「浜本満」という言葉の「意味」をたよりに、それが現実の何を指示しているのかを探り当て、ああ、ほんとだたしかにハンサムだと納得する、なんて手順はとれない。現実に、固有名詞を含んでしまう命題も多かろうから、それがすべてアウトってことになると論理学はもうたいへんだ。

それに対して、大丈夫、大丈夫、ちゃんと固有名詞にも意味があるんだよ、というのがラッセルとフレーゲらの「記述理論」って考え方だ。固有名詞の意味は、その指示対象を一意的に決定できるような記述だ(これを「確定記述」っていうそうだ)という考え方。例えば「浜本満」という固有名詞は「一橋大学の社会人類学の教官でもっとも背が高い男」(ごめんなさい。うそつきました。もっとも背が低いの間違いです。)という記述を、いわば縮めたものだということになる。先の命題は「一橋大学の社会人類学の教官でもっとも背が低い男はハンサムだ」ということになり、これならちゃんと現実と照らし合わせてその真であることが検証できるってことになる。最終的には記述理論では、固有名は、こういった確定記述が有限個あつまった束(一つじゃやっぱりいろいろ具合悪いことになる)として理解されることになる。

クリプキはこの記述理論が破綻していることを見事に示したとされている。例がいつまでも「浜本満」じゃ、いくらなんでもしょぼすぎるので、いろんな人が用いている「アリストテレス」の例で説明しよう。記述理論によると固有名「アリストテレス」は「古代最後の偉大な哲学者」「プラトンの最も優れた弟子」「『ニコマコス倫理学』の著者」「アレキサンダー大王の先生」等々のさまざまな記述の束に置き換えることが出来る。これらは今、僕らが現にアリストテレスについて知っていることである。でも、僕らはいつでも、これらの事実とは反した想定(反実仮想)をして、そうした想定が成り立つ世界について思い描くことができる。「もし『あの』アリストテレスがプラトンの弟子でなかったなら、どうなっていただろう」といった具合に。クリプキの言い方にしたがえば、僕らは「可能世界」の一つについて考察していることになる。重要なのは、こうした可能世界においても「アリストテレス」といえば、あの同じアリストテレスを指しているように感じられることである。実際、新たな歴史資料が発見されて、アリストテレスが実はプラトンの弟子ではなかったという新事実が判明するかもしれない。『あの』アリストテレスは実はプラトンの弟子ではなかったのだ!記述理論にしたがうなら、そのとき僕らは「『プラトンの最も優れた弟子』はプラトンの弟子ではなかった」という命題をもつことになってしまう。これはナンセンスだ。意味がない。でも「アリストテレスはプラトンの弟子ではなかった」という命題自体はちゃんと意味がある。つまり、すくなくとも「アリストテレス」という固有名を「プラトンの最も優れた弟子」に置き換えることはできない。少し考えてみればわかるように、記述理論が『アリストテレス」の意味だと考える記述の一つ一つについて同じことが示されることになるだろう。というわけで「アリストテレス」は有限個の確定記述の束にはけっして置き換えることができないとわかるってわけだ。記述理論じゃあ駄目なのだ。

「はぁ?」って感じがするかもしれないけど、理屈は通っているようだ。固有名は、さまざまな性質によってそれが指す個人を同定するのに役立つ諸々の記述(確定記述)の束には還元できないもの、単なる確定記述の束以上の何かだってことはわかるんじゃないだろうか。僕にとってはこれで充分だ。この議論が明らかにしているのは、少なくとも固有名に関しては、言語の記号どうしの相互参照関係に還元してしまえないってことだ。理想的にうまく作られた辞書は、例えば「犬」といった名詞の意味を与える、つまり他の記号を使ってそれを示すことができるはずだ。でも固有名については、それが不可能だってことが、証明されてしまったわけだな。

でも、何が、固有名が記号どうしの相互参照関係に還元されることを妨げてるんだろうか。固有名が、もし確定記述の束、「諸性質の束」以上の何かだっていうのなら、いったいこの「それ以上の何か」とは何なんだろう。諸性質はどれも「アリストテレス」という固有名にとっては偶然的なものであることがわかる。それをすべて剥ぎ取っても、「アリストテレス」は「あの」男を指示し続けているようだ。まるで固有名には、諸性質の束を取り去っても残る何かが備わっているようにすら見える。クリプキは、固有名は固定指示詞であるという。アリストテレスについて、いかなる反事実的な想定を行なったとしても、それはやはり『あの』アリストテレスについての想定だ。つまりアリストテレスという固有名は、つねに同じ『あの』男を指示しつづけている。そんな風になっているのは、つまりアリストテレスという名が、固定的に他の誰でもない『あの』男を指すようになっているのはどうしてかという問いに対するクリプキの答えは、一見、あまりにも素朴で単純に見えるので、かえって虚をつかれるところがある。最初の名指しの行為が、共同体の中でいわば語り継がれてきたという事実の結果だというのだ。私たちがアリストテレスという名前によって「あの」男を固定的に指示することができるのは、語り継ぎの連鎖を通して、私たちが最終的にその最初の命名行為にたどり着くことができるからだ。

「誰か、例えば一人の赤ん坊が生まれたとしよう。その両親は彼をある特定の名前で呼ぶ。両親は彼のことを友人たちに話す。他の人々が彼に会う。さまざまな種類の会話を通じて、その名前は次から次へとあたかも鎖のように広がって行く。この連鎖の末端にいて、市場かどこかでたとえばリチャード・ファインマンのことを聞いた話し手は、たとえ最初に誰からファインマンのことを聞いたのか、あるいはいったい誰からファインマンのことを聞いたのかさえ思い出せないとしても、リチャード・ファインマンを指示することができるだろう。最終的にその人自身に達する一定の伝達経路が、その話し手に実際に届いているのである。」

クリプキがここで最初の名づけといっているものが何にあたるのか、おそらく勘のいい皆にはもうわかったことだろう。リファラントとのあいだに最初に成立したインデクス的な連合関係だ。つまり固有名は、同じコンテクストにおいて共起し、そこで互いに連合づけられたという事実を、引きずり続けている記号だってことだ。もちろん、クリプキ自身はこうした言葉では語ってないけどね。

しかし、遠い昔はギリシャ時代に行われた名づけ、つまりアリストテレスという名前と「あの」男との連合関係が、今に至るまで脈々と引き継がれてきたのだっていう、クリプキの説明は、字義通りにとると、ほんまかいなという感じがするかもしれない。神秘的な感じすらしてしまう。でも、別の論者によるともっとぶっとんだ話になっている。例えば、柄谷行人の「単独性」についての考察の中で、クリプキの議論は重要な位置をしめている。それによると、確定記述の束に還元できない、それ以上の何か、固有名に宿っているかのように見えるこの「過剰」こそ、固有名が指示する「他ならぬこれ」つまり「たんに『他でない』だけでなく、『他であったかもしれないが現実にこうである』という意味」での、かけがえのない「他ならぬこれ」、つまり「単独性」なのだというのである。固有名という、僕らにはとことん馴染み深い、なんてことないものが、なんだかすごいことになってしまっている。そんなだいそれたものだったのだろうか。実は、クリプキは彼の議論を、単に固有名だけではなく一般名(虎とか猫とか金とか)にも当てはまると考えているのだが(「私の擁護する見解によれば、自然種を表す言葉は、普通に考えられているよりもはるかに固有名に近いのである。」(p.150))、そのあたりの議論をなかったことにでもしない限り、とても口に出来ない大胆な主張だ。

ジジェクも、その辺のぶっとび加減は似たようなものだ。ただしクリプキにより忠実に、固有名と普遍的種を表示する種名とを区別せず、指示の根拠を問うている。われわれは指示する対象を、その記述的な性質によって決定するのか、最初の命名儀式にさかのぼる外的な因果連鎖によって決定するのかという問題だ。もちろん明らかに記述理論の方が分が悪い。クリプキの批判は決定的だ。でもクリプキの反記述論にも大きな欠点がある。

「反記述論者にとって根本的な問題は、一群の記述特徴のたえざる変化を越えて指示対象の同一性を構成しているものは何か、すなわち、属性がすべて変化してもその対象の自己同一性が保たれるのは何によるのか、という問題である。

彼によるとクリプキの失敗は、固有名の根拠を命名行為の現実の伝達に求めてしまったことで、それは彼が「現実」と「現実界」を混同しているからなんだそうだ。そう、あのよくわからんラカンのあれだ。対象の同一性を保証しているものを現実のなかに探しても無駄なんだと。そんなものはないんだからと。

対象の同一性を保持するのは、名前そのもの、すなわちシニフィアンなのである。いかなる可能世界においても同一でありつづける対象の中の「剰余」とは、「その中にあって、それ以上のもの」、すなわちラカンのいう小文字の対象aである。ポジティヴな現実のなかにそれを探しても無駄だ。それはポジティヴな一貫性を持たないからだ。すなわち、それは空虚の、つまりシニフィアンの出現によって現実の中に開かれる非連続性の、客観化だからだ。

象徴界を構成するシニフィアンの網の目の不完全性は、シニフィアンの相互参照関係に還元されない特権的なシニフィアンを出現させてしまう。このシニフィエなきシニフィアン、象徴界の亀裂、その空白、これこそ固有名が客観化しているものだ。固有名とはまさにこの「現実界」(「対象a」)に対応するシニフィアンなのだ。よくわからんけど、なんだか固有名ってすごいぞっ。

柄谷もジジェクにも、奇妙な共通点がある。両者とも、なんというか表象系の野望とその挫折の問題にとりつかれている。ラッセルらの論理学は、世界のすべてを記述できる記号体系、自らのうちに世界のあらゆる事象を写像することができる表象系の構想だった。世界全体をその部分集合に写像してしまおうってんだから、そもそも無理臭い話な感じがするんだけど、それをあきらめちゃったら、言葉で世界について語ることなんて限界あるんだよと認めるみたいなもんで、きっといやなんだろう。まあこれが僕が勝手に呼ぶところの「表象系の野望」だ。で、聞くところによるとゲーデルが不完全性定理で、そんなの無理だと証明してしまったと。その「野望の挫折」だ。表象系はけっして無矛盾でかつ完全であることはできず、内部に記号の相互参照に還元できない過剰/空所を抱え込まざるをえないと。クリプキの固有名の議論は、まさに固有名が他の諸記号に対する相互参照に還元できない(つまり記述の束としてその意味を示すことができない)ものだってことを示している。ある意味では、固有名には、たんなる諸性質の束以上の「何か」=過剰がふくまれているようであり、またある意味では、言語記号の相互参照の網の目からはずれた空所でもあるってことになる。柄谷は、その過剰を「単独性」と名づけるわけだし、ジジェクはその空白を「現実界」の根拠ととるわけだ。で、なんだか大げさな話になる。

僕は直感的に、固有名なんて、そんなたいしたものじゃないと思っている。だから、こうした大仰な議論を読むと、なんだか滑稽な感じさえする。「浜本満」って固有名のどこをどうひっくり返したら、対象aだの「かけがえのないほかならぬ単独性」だのが出て来るんだか。ポチとかタマとかニャンとかチャイ(ちなみにうちで飼っている猫の名前だが)だって固有名だし。「単独性」やら「現実界」やら、あんさん、そらまた、おおげさな話でんな、と鼻白んでしまう。

複数の勘違いが重なり合っている。第一に言語の第一の使命が、もっぱら世界を写像(描写)することにあるみたいにとらえられていること。もともとは危険に対して警告を発したり、作業を協同化したり、ナンパしたり、たぶらかしたりする際の通信手段であって、シンボル言語獲得以前の霊長類段階ではもっぱらインデクス記号によって遂行されていたのと同じような機能がめざされていたはずなんだよな。そこの部分をそっちのけにして、表象という機能ばかりで言語を眺めるってのは、出発点からちょっとおかしい。第二に、言語の不完全性なんてものは、そもそもこんな風に、世界を写像すべきものとして言語をとらえようとするからはじめて出てくる問題であって、こんなことで不完全だのなんだのと文句つけられちゃあ、言語の方でもたまったものじゃない。世界を表象するという機能は、それまでインデクスのみによって行われていたコミュニケーションに代わって、シンボル的コミュニケーションが用いられ始めた当初には、せいぜいおまけ程度のものだったに違いないんだから。たしかに、今ではおまけの方が肥大してしまったわけだが、それでもやはり中身のチョコレートの方でどうこう言われるのならともかく、おまけの品質で文句言われてもなぁと、お菓子会社の人も考えるに違いない。

でもおそらく最大の勘違いはクリプキのもともとの議論自体にあったとも言える。クリプキの議論の何かが、固有名を必要以上に謎めかしたものに見せてしまっている。柄谷もジジェクもそのあたりに飛びついてしまったんだ。クリプキの議論をもう少し細かく検討して見る必要がある。

あぅ。「断章」始まって以来の大失態。時間切れです。ここんところ、ついつい長くなって所要時間も増える傾向にあったんだけど、とうとう時間切れ。「続く」です。いやだなぁ。途中でやめると、今度ほんとに続きを書くかどうか、自分でもわからないもんなぁ。でももうこれ以上だめです。明日のゼミの準備をせねば。って言うと忙しくてやめるみたいですが、ほんとのところ私は2時間以上書き続けると、電池がきれるようにできているだけです。ごめんなさいです。

というわけで続く。

ついに牙を剥いた浜本。強敵クリプキに無謀にも立ち向かうのか。愛は勝利をおさめるか。再びとほほな結果に終わるか、尻尾を巻いて逃げ出すか、ドラマは怒濤のクライマックスへと突き進んでいく。そこに待つ意外な結末とは。刮目して待てっ!(ってすでに腰砕けの予感なのだが)


m.hamamoto@anthropology.soc.hit-u.ac.jp