権力とか(3)
制御と管理

今日はようやく夏が来たかと思わせる陽射しに発作的にサイクリングに飛び出した。気持ちよかったので、この勢いを借りて、暴力的にとっとと話しにけりをつけてしまうことにする。

一応断っておくが、フーコーは偉大な思想家である。私もその著書を読んで、何度も目から鱗が落ちるような(使い古された比喩)思いをした。彼の思考は奥行きにおいてもレンジにおいてもその複雑さにおいても圧倒的だ。だからここで言ってるみたいに、権力という概念をもちいた理論モデルとしてその不具合をことさらに取り上げることは、フーコーに対する正当な扱い方とはとてもいえない。でもそれでいいのだ。私はフーコーの議論を権力論として読むべきではない、むしろ権力概念をそこから抜き去るべきだなどととんでもない提案をしようというのだが、フーコーの議論は偉大なので、そんな修正をしたからってその値打ちは少しも下がらないのだ。カフェイン抜きのコーヒーもうまいのだ(もう、むちゃくちゃ)。

前回は、権力という概念が、社会関係に内在する行動制御という効果を関係項の一方の力能に由来するものとして物象化的に錯視したものだと確認した。人と人との関係の中で両者の行動に加えられる制御が、一方が他方を動かすという形で経験され、それが前者が保有するなんらかの力に由来するものとしてとらえられたものが権力関係だってわけだ。こちらの気持ちには関係なく、いやおうなく相手の言いなりに何かをやらされるって関係、単純に言うと、命令に対する服従ってのが、権力という制御関係の基本モデルだ。権力という言葉をどんなに定義しなおしたところで、その言葉が使われ続ける限り、僕らはこの錯視から逃れられないっていうのが僕の主張だ。

いうまでもなく、権力として語られる制御関係は、人の行動に働くさまざまな種類の制御のうちの特殊な一種類に過ぎない。道のど真ん中をふさいでいる大岩は、私の意図とはおかまいなしに私に後戻りや迂回を強いるという意味で、私の行動に制御を働かせているけど、私は大岩に権力を行使されたとは語らないだろう。強盗にピストルで脅されて、無理やりお金を出さされても、私は強盗の権力に服したことにはならない、等々。さらに、もし社会で人が何かするためには、必ず誰かから命令されるか強いられるかしなければならない、人は誰かから命令されるか強いられるかしない限り何もしない、なんてことになると非効率この上ない。実際、社会はけっしてそんな風には動作してはいない。ってことはこの制御様式が、人間の社会行動のすごく小さな一部にしかあてはまらないことくらい、ちょっと考えればわかることだ。

にもかかわらず、この「権力」という制御形式が、長いあいだ、政治体としての社会が想像される際の基本モデルの役割を果たしていた。社会が種々の権力関係によって動かされているみたいに考えちゃうのもごく普通のことだった。

『監獄の誕生』でのフーコーの議論のポイントの一つは、このモデルが不十分であることを示すことだったと思う。こうした「権力関係」が支配階層と被支配階層といった社会の断層面をのみ特徴付けるものではなく、教師と生徒、男と女、親と子供などなどの日常生活のあらゆる面に張り巡らされた関係を特徴付けるものなんだと確認すると同時に、そうした諸関係の中で発動する直接の命令/服従、強いる/強いられるって制御様式よりも、もっと効率的な制御様式があることに目を向けたのだ。後者は「規律」、つまり躾ってことだが、フーコーは近代において、この制御様式が人の群れを制御する様式として独自の発達をとげてきたことを指摘した。『監獄の誕生』はその発達を跡付けた歴史研究でもある。

前回の例だが、学生がちゃんとコピー嗜癖者に調教されていれば、その学生にコピーをとらせるのに、いちいち命令したり、強いたり、教師・学生関係という事実の意味を喚起したりする必要はなくなる。もちろんここで忘れちゃならないのは、教師が学生を躾けるってことじゃなく、この関係の中で学生も、教師も躾けられているってことだ。躾はたいせつだ。躾を通して両者の行為はそこそこうまくチューンがあうようになっている。

まぁ、これだけなら別にフーコーに教えてもらわなくても、誰でも知ってることかもしれない。フーコーが明らかにした重要な点は、こうした躾け・調教・規律のテクノロジーが近代において、人間の群れ(犯罪者や兵士などからはじまって)を管理するテクノロジーとして特殊な発達を見せ、この同じテクノロジーが社会のさまざまなセクター(病院、学校、工場などなど)にどんどん広がっていったという事実だ。まぁ、近代はたくさんの人間をまとめて制御する必要にせまられた時代だったんだ、なんてのんきな観察をしてもよい。とにかく、近代はよく躾けられた人間の群れからなる社会という姿をとるようになってきた。この行為制御のシステムの最終形態みたいな形で例に挙げられるのが、有名なパノプティコン(一望監視施設)--つまり中心の監視塔からはぐるりのすべての監房の様子が見え、逆に部屋の中のものからは塔の監視人が見えないといった設計の建物--だ。これほど「権力」モデルの制御(つまり誰かが誰かに実際に命じたり、強いたりするかたちでの行為制御)との違いをはっきり示す例はないので、誰でも知ってるくらい好んで論じられた例だ。パノプティコンの現物そのものは、あまりはなばなしい成功例にはならなかったので、まあ近代の制御テクノロジーの比喩だと考えておくくらいが適当だろう。

例えば浅田彰はそれを二つの教室という別のたとえ話で説明している。ひとつは、教師が教壇に立ち生徒の正面から睨みをきかせている教室で、生徒のすることなすことに口うるさく指令や叱責の声が飛んでくる。もう一つは教師が生徒には見えない背後から監視している、あるいは見えないけれど監視しているらしいという教室。生徒の振る舞いは生徒自身の自主性にある程度任せられているように見える。一見、前者の教室の方が厳しい管理体制にあるみたいだが、そうじゃないと浅田は言う。前者の教室にはどうしても教師の目の届かない陰がいたるところにできるし、生徒は教師の目を盗むこともできる。教師が退席すれば、教師の悪口を言おうとパロってやろうと自由放題だ。それに対してもう一方の教室は、一見放任主義のように見えて、生徒はどこにいるかわからない教師の背後からの視線が気になって仕方ない。こうしたどこにいてどこを見ているかわからない「不在の視線」は、やがて生徒に内面化されていき、生徒自身が自分で自分を監視する役割を引き受けることになると浅田は言う。この内面化された視線からは逃れる場所も時間もない。

あくまでたとえ話ではあるが、前者が「権力」的な制御関係のモデル、後者が近代の群れ制御テクノロジーのモデルに対応する。躾け・調教・規律は、躾けられた主体が、自らを躾ける・調教する者と象徴的に自己同一化(ラカン=ジジェクの言葉使っちゃったよ)し、自分で自分がきちんと躾けられているかどうかモニターできるようになることによって完成する。奥さんにしっかり調教された従順な亭主は、奥さんが仮にいなくなっても恐妻家のままだったりするってのとおんなじだ。完璧だ(ちょっと違うか?)。もっとも周りを見ると、そんな良い子ちゃんばかりじゃないので、これが100%うまくいってるとはとても言えそうにないけれど、僕らはまあそこそこには良くしつけられた群れになっているんじゃないだろうか。

フーコーはその後の研究の中で、近代社会のその後の展開についても触れている。福祉社会への移行である。それは、きちんと躾けられた人の群れを、それを脅かす危険(きちんと躾けられそこなった、「ノルム」つまり基準からはずれた犯罪者やその他の異常)から守るという形での管理のテクノロジーの発達の中に見て取られる。社会を、そしてその中の健全な市民の暮らしを、それを脅かすものから守るため群れの監視と管理の技術。それは結局は皆のためになるのだってわけだ。

味もそっけもない要約で、もちろん抜けてる部分はいっぱいあるだろうが、大きく間違ったところはないはずだ。フーコーはこれを、かつての王権を特徴付けていたような古いタイプの権力から、新しいタイプの権力(規律権力、そして生・権力)への変化として語っている。が、ここではあえて権力という言葉を用いないで後者を要約してみた。前回、箇条書きでまとめたように、これら一連の研究を通してフーコーは権力概念そのものを見直し、練り直そうとしている。でも、僕の疑問は、後者の躾け(調教・規律)による行動制御のテクノロジーやそれを完成させる自己モニターのしくみ、群れのセキュリティのためのさらなる管理と制御のテクノロジーとそれにもとづくシステムの、なにがそれを「権力」と呼ぶことを正当化しているんだろうという疑問だ。それを「権力」と呼ぶ際の権力という言葉の意味は、古いタイプの権力におけるその言葉の意味と、何が共通でどこが違ってるんだろう。

こちらの気持ちとは無関係に誰かの意志をおしつけられちゃってるという、「権力」の経験(しつこいようだが、これはその社会関係に内在する、特殊な制御の効果が、関係の当事者の一方が備えている力能に由来するものと錯視されたものだ)が、この新しいタイプの制御システムの中にも見られるということだろうか。もちろん、ここにみられるのは、表面上は、よく躾けられてはいるが自律的な自由な個人だ。でも実は、躾けの結果として、自分では自由で自発的だと思っているが、結局知らず知らずのうちに「誰か」の望むとおりに、「誰か」にとって都合の良いように振るまわさせられているってことなのだろうか。なるほど、こんな形で「権力」的錯視(システムの内在的効果としての制御過程が、誰かにそなわった力の表れとして錯視される)をここにも持ち込むことができるかもしれない。でもこの場合、その「誰か」っていったい誰なんだ?まさか俺たちの躾け・調教に実際に携わってきた両親とか教師とかだっていうんじゃないよな。それはこのパノプティコン的な社会全体を覆うシステム(と考えられている)の背後の権力者というにはあまりにもしょぼすぎる。なによりも、このシステムの内部で、実際に調教係りを務めるこれらの人物も、そのシステムの中で制御された存在である以上は、そうした存在としてその役割をまさに「務めさせられている」のだということになるはずだ。

これらの近代になって広がった管理のテクノロジーにおいても、いわゆる「権力」的な要素は必ず含まれている。躾け・調教担当者と調教される主体との関係もそれだ。パノプティコン的監視システムや、セキュリティ管理システムでは監視人や警備職員は管理されるべき群れと、現実的具体的な権力関係に立つ。でもそれはシステムのほんの末端の関係を特徴付けているだけに過ぎない。まさかこうした人物(プチ権力者)たちの存在で、そのシステムが権力のシステムになるわけではなかろう。

このわれわれを自分の都合の良いように調教している「誰か」が、システム内の誰かではないなら、それは当の施設、学校やら、病院やら、監獄やらを設立した者たちだとはいえないだろうか。『監獄の誕生』ではフーコーもこのミクロな規律テクノロジーをブルジョア階級が採用した戦略として語っている。しかし瞬く間に社会全体に広がったこのテクノロジーは、社会の成員に例外なく行使されるのであり、ブルジョアであろうとなかろうと、あらゆる主体がこの同じ調教システムの中で自己成形していくのであれば、この「誰か」はますますなんだかわからないことになるだろう。フーコー自身、生・権力の議論では、こうした階級間の支配関係にすべてを還元する考え方とは一線を引いている。

さて、そうするとフーコーが分析していた近代における新たな制御システムが、本当に「権力」の新たな様式だったのか、あるいはそもそも「権力」だったのかすら疑問に思えてくる。

いうまでもなく人間の社会は、その成員の行動や知識に関するさまざまな制御のシステム(プロセス)から出来上がっている。以前書いたことだが(といいつつコピー&ペースト)どんな社会でも、そこに暮らす個々人はけっして、無限にある信念や意見のレパートリー、無限にある行動の選択肢の中から、それぞれ各人自由勝手に選び出しててんでに振舞っているわけではない。かなり限られた選択がなされており、そのおかげで、社会で暮らす人々はその振る舞いが多かれ少なかれ互いにとって予測可能な範囲に落ち着くようになっているわけだし、毎日他人のとんでもない素っ頓狂な知識や意見と格闘してばかりなんて羽目に陥らないですんでいる。人々が行なうさまざまな行動や、彼らが持っている知識や意見は、多かれ少なかれ互いにチューニングしあったような格好になっている。もちろんなかには随分調子外れの人もいたりする。でもだからといってノイズの海というわけでもない。つまり、なんらかの制御原理が働いているはずだ。

「権力」として経験される、社会関係に内在した制御効果も、そうしたさまざまな制御過程の一つ、それもかなりぎこちない部類の一つである。そしてフーコーが問題にしているのも、近代に入って、あっというまに社会全体に広がった新しい特殊な制御様式なのだと考えることができる。が、それ以外にも僕らはさまざまな仕方で、社会の中でのお互いの行動を制御し、制御されあっている。それらすべてを、一種の「権力」だと考えることは無理があるし、事実の完全な歪曲でもある。

それらをなんでもかんでも「権力」と呼びたがる人々は、もしかすると、この権力という呼称によって、自分たちがそうした制御を受けているという事実そのものに対する疎ましさを表わしているのかもしれない。なんの制約もない完全な自由、みたいなものを夢見ているんだろうか。そうだとすると、あなたがたは根っからのリベラリストだってことになるかもしれない。でも、いくらなんでも、誰も本気でなんの制約もない完全な自由を望んだりはしないはずだ。少なくとも他人はある程度制御され、したがって予測可能でなければ困るだろう。マク○○ルドへ入ってハンバーガーを注文しようとして、いきなりカウンター越しにナイフで一突きされてしまう可能性につねに怯える必要がない程度には、そこでのインタラクションは型にはまった予測可能なものでなければ困ってしまう。

なんであれ、とにかく自分に加えられる制御はいやなんだ、躾なんてまっぴらだ、なんていうこうしたお子ちゃま議論は論外として、われわれの行為に加えられている制御に、「権力」という概念をだらしなく拡大適用することは、さまざまな制御プロセスの違いから目をそらしてしまうことにもなりかねない。ちょっと考えただけでもいろいろな制御の過程がある。二人の踊り手が一緒に踊っているとき、互いの動きは相互に制御されあい、見事にチューニングが合っている。どちらがどちらの言いなりになっているとか、そういった問いは問題外だ。贈与交換や、その他のコミュニケーションはヒトがもっとも古くから磨き上げてきた制御テクノロジーだ。ベイトソンが重視する分裂生成のようなコミュニケーション・プロセスは強度に拘束的な関係を生成する。等々。

でも、誤解があってはいけないので大急ぎで付け加えておきたいのだが、現代を特徴付ける社会全体を覆う制御と管理のシステムと、その中で展開されている多種多様なプロジェクトを「権力」の問題として語るのは止めようということは、そうした現状を単に肯定しようということではない。奇妙な錯視を持ち込まずに、その動態をより正確に把握しようという提案に過ぎない。

フーコーが問題にした近代の制御と管理のテクノロジーは、基本的にはヒトの群れに対する管理テクノロジーであり、そこでは各人は単なる頭数として処理される存在となる。そうした「非・人間的な」取り扱いの意味が問い直されなければならない。この調教と規律のシステムの中で、僕らは別に特定の「誰か」にとって都合の良いように振舞わされているわけではない。でも、実はこの管理そのものにとって都合よいように振舞わされているとはいえるわけだ。そしてそれがみんなにとって都合が良いんだという形で正当化されているわけだ。これでいいのか?

そして、これは現代に限らずいつでも言えることなんだけど、どんな仕組みも、すべての人にひとしい生き安さを提供しているわけじゃない。そのシステムの中で、ひどく生きづらさを感じている人々がいれば、そのシステムで楽ちんでお得な生を満喫できる人々もいる。時間や空間のすみずみまで厳しい事細かな制御を受けてしまう人もいれば、「自由」を満喫している人もいる。不幸な人と幸福な人、失意の人と得意の人、悲しい人と恵まれた人がいる。それでいいんだなんて、いったい誰に言えるだろう。

でも「権力」という用語でこれらの問題について語ることによって、その概念が前提とする錯視を拡張し、事態を擬人化し、死んだ王様をよみがえらせ続け、この不在の仮想敵に向かって憤ってみせる、そうしてこうした仮想敵の架空の視点に自己同一化して、さまざまな抵抗を見出して喜ぶ。そんなことばかりやっててもしかたないだろう。

まあそういうことだ。


m.hamamoto@anthropology.soc.hit-u.ac.jp