前回の話は、別にルネサンス後のヨーロッパに固有の話じゃない。ゲシーレ(ゲッシャー?)は、独立後のカメルーンの政治的・経済的コンテクストにおける妖術信仰に関する彼の研究の中で、開発プロジェクトの遅延に業を煮やした副知事が、集まった村人たちの前でおこなったある演説について書いている。演説の終わりに、副知事は突然激情にかられて群集に向かって叫びだしたという。「お前たちにひとつだけ言っておく。お前たちは、政府がお前たちのためにやってやろうとしていることすべてを、お前たちのくそったれ妖術によって邪魔するのをただちにやめるべきだ。これらすべての背後で糸を引いている奴らは、自分たちが明るみに出ないと思っているかもしれない。けっこう。だが、私にはそいつらがわかっている。そいつらを捕まえる方法も知っている。」たしかに村人たちにとっても妖術の問題は深刻さを増しつつあった。彼らにとっては自分たちの幸不幸を左右する大問題である。しかし村人たちが自分たちにかけられるかもしれない隣人の妖術の危険から身を守ろうと、この問題にかかわずらっていることは、少なくとも彼ら自身にとっては、政府の施策にたてつくこととはなんのかかわりもない。だがこの副知事によると、人々の妖術信仰はそれ自体、政府への露骨な反抗なのだ。それどころか村人たちは政府のプロジェクトそのものをだいなしにする目的で妖術を用いていると考えられてしまっている。村人たちがこの副知事の恫喝をどう理解し、それにどう応じたかはわからない。しかし民衆のいささかいかがわしい日常的実践に対するこの副知事のまなざしは、たしかに16世紀のヨーロッパの国家や教会の指導者たちの視線に酷似している。彼らは、自らがになう統治のプロジェクトゆえに、民衆の実践の中に反抗を否応なく見てしまわざるをえないのである。
人類学者が、今日世界各地で見られる妖術信仰の再燃を、近代化とそれがもたらした状況に対する人々の異議申し立てとして解釈して見せるとき、この人類学者の視線を、この副知事の視線と区別するものは、いったい何だろうか。とくにこうした分析が、当の人々自身が自らの実践をどのように認識しているかを参照せずに、あるいはそれを迂回してなされているとき、私はこうした分析の中に、分析者の思い--虐げられたものへの共感--とは裏腹に、いわば「権力」の視点そのものとでも呼べるものを感じ取らざるを得ない。
おっと、今日は書き出しからなんだか論文口調だが、論文口調は主張がやたら極端で過激になってどうもいかんね(そうなるのはお前だけだと言う話もあるが)。じっさいのところは僕は、日常的抵抗論について、そこまで厳しい判断はしてない。ただヤバいな、という感じはもっている。で、そのあたりをちゃんとクリアしてやってほしいなと思っている。その第一のステップは、日常的抵抗論が暗黙のうちに想定している「権力」の概念を再吟味することだろう。人々の意思を参照しないそうした「抵抗」は、ここでしつこく論じてきたように、権力の場を同定し、そこに身をおいて、その視点に同化することを通してしか見えてこない。だから日常的抵抗論は、権力についての暗黙の主張と理論を含まざるを得ないのだ。この部分をきちんと明るみに出して主題化しない限り、それはいつまでたっても私が指摘したような危うさをかかえつづける杜撰な議論であり続ける。
というわけで前フリが思いのほか長くなってしまったが(というか「無意識」のうちに厄介な問題に手をつけるのを後回しにしようとしていたのかもしれない)、「権力」という概念自体の問題点にそろそろ移って行きたい。日常的抵抗論の中に内包されている権力モデルをチェックする作業は、日常的抵抗論を構築している人々にお任せしたいとおもうのだが、ここでは、それに先回りして、というか彼らの作業が少しでも楽になるように、前もって「権力」という概念自体に含まれている落とし穴に注意を喚起しておくことにしたい。
やれやれ、やっとゼミでの議論につながった。ゼミではKさんがフーコーの権力論を紹介してくれたのだが、なぜフーコーが「権力」という言葉の使用に固執しているんだろうと僕が疑問をはさんだあたりから、ちょっと議論が混線ぎみになったような気がする。フーコーのいわゆる「権力論」から「権力」という概念を抜いてしまえなんて、コーヒーを入れないクリープのようなものだ(死語)と思われる方もいるだろうが、権力という言葉は、もはや分析対象を指示するのに適切でもなければ、分析概念として用いて現象を正しく理解する役にも立たない言葉であり、この言葉を使ったり、この概念にとらわれていたりする限り、議論は必ず変な方向によれてしまう、というのが僕の考えなんだ。まぁ、権力なんて言葉をうれしそうに使ってると、刺激が強すぎて興奮して眠れなくなってしまうから、お子ちゃま(僕も含む)はただのミルクでも飲んでなさいってことだ(そうか?)。断っておくが、僕はフーコーの議論は嫌いじゃない。っていうか、僕自身そうとう勉強させてもらった気がする。じゃなかったら、そもそも皆に読むように勧めたりしないよ。
フーコーの権力のとらえ方をまとめるとこんな感じになる(えーと、肝心の本が福岡にあるので、例のごとく記憶によって書いてるんで、間違っているところは指摘してください)。
権力は特定の主体にそなわる力のようなものではなく、また個々人が保有できるようなものでもない。無数の点を起点とする相互行為の中で発動する効果のようなものである。
それは関係の外部から関係を規制するものではない。関係の内部で働き、関係にとって構成的なものである。
社会内部の支配/被支配の関係をまず前提としてはいけない。そうしたものがあるとしても、それは、多様な局所的な関係(その内部で権力効果が生成する)の集積の結果として、社会の内部に形成された断層にすぎない。(「監獄の誕生」あたりではフーコーはまだ支配階級/被支配階級という関係を前提にして語っていたと思う。支配階級によって行使されるものとして。ただしすでに権力は支配階級が保持している何かとしてではなく、支配階級が占めている戦略的立場の総体的効果として語られていたが。)
また国家主権にせよ、なんにせよ、そうした総体的統一性も前提としてはならない。そうした統一性も、もしあるとしても、局所的な諸関係を通して発揮される効果の「終端的な形態」にすぎない。権力は非主体的である。(この見解も「監獄の誕生」あたりではまだはっきりとは示されていなかったような気がする。)
で、権力のあるところ抵抗がある。抵抗は、権力の効果が発揮される個別的な諸関係の内部に不規則に出現する。
まあこんなふうに要約するとスカスカな感じだが、この考え方が、従来「権力」という言葉で提示されてきていた問題領域に対する、根本的な視点変更を促すものだということは、わかるだろう。僕の疑問は、このような視点変更の後になってまで、なぜフーコーが「権力」という言葉を用いつづけようとするんだろうか、という疑問だ。フーコーはどこかで、権力の表象が相変わらず王政のイメージに縛られている、政治研究の領域ではまだ王様の首を切り落とすところまで行ってない、なんてことを言っている。でも「権力」という言葉に固執することによって、死んだはずの王様を復活させ続けているのは、ほかならぬあんたじゃんか、フーコーさんよ、みたいな気が僕はする。この言葉を使い続ける限り、あいかわらず権力は「行使される」(したがってなんらかの主体を喚起してしまう)もので、いかに分散化され局所化されてもその内部の抑圧する側とされる側が問題になってしまったりする。また権力関係の「戦略」や「戦術」について語ることは、繰り返しそうした戦略や戦術を行使する権力の主体を呼び起こし続ける。<権力による管理>とか<統制>とかいう言い方はあきらかに擬人法だが、あまりにもはまりすぎた擬人法で、まるで王様の幽霊でもみているみたいな気分だ。フーコーの意図におそらく反して、どこまでいっても命令・支配・抑圧/服従・従属・被抑圧の人的関係の構図が立ち現れる。権力として語られることによって、関係の中の効果はつねに「悪」の色づけの下で眺められ、それに対する「抵抗」は「善」にみえる。権力はあいかわらず、正義の理論家にとっての「仮想敵」みたいな存在にイメージされてしまう(やっぱり擬人法じゃん)。このように、「権力」という言葉を使い続ける限り、その言葉の用法や語り口、その文法(ヴィトゲンシュタインが言うような意味での)に、僕らは相変わらず縛り続けられざるをえないのだ。
権力という概念は、価値や意味がそうであるように、ある種の物象化的錯視のうえに成り立つ概念だ。
権力はしばしば、特定の主体に備わった力能のような形で思い描かれる。ウェーバーは権力を素直に「相手の抵抗を排してでも自分の意志を押し通す可能性(だったっけ)」という風に定義していた。さらにわかりやすく言うと、権力の経験とは、相手の気持ちはお構いなしにこっちの意志を押し付けることができるという、あるいは逆に言うと、こっちが好むと好まざるとにかかわらず、相手の言いなりに何かをさせられてしまうという経験だ。人が人を制御する、あるいは人が人に制御されるという経験を、僕らは権力という言葉で理解する。つまりある人に備わっている誰かを制御する力が、その人のもつ権力なのだ。
例えば先生たる私が、従僕たる学生に「ちょっとこの本をコピーしてきてくれないかね、君」と言うと(実際には僕はそんなこと言わないけど)、私の忠実なる下僕である学生は「はい、喜んで!」とか答えて、読みかけの本を置いていそいそとコピーに向かう(実際には、そんな学生はいないけれど)。ああ、私は彼に権力を行使してるんだなぁ、ということになる。学生の方では、ちきしょう、えらそうに権力を振るいやがって、ってわけだ。こうした場合、普通は、先生である私は学生に対して権力をもっている、という言い方がされる。この関係の中で私は権力者だ。
仮に私がこんな横柄な言い方じゃなくて「あのぉ、こんなことをお願いしてずうずうしいようだけど、できればこの本を僕のためにコピーしてきてくださいませんでしょうか」と腰の低い頼み方をしたとしても、その学生がたまたまコピー大好き人間で、コピー機の紙送りを眺めているだけでうっとりするようなタイプであり(いないよ、そんな奴)、実際にこの依頼を受けて内心大喜びであるとしても、それはたいした違いではない。いくら丁寧であれ、私はたまたま道ですれ違った人にそんなことを依頼することはまずないわけで、相手がそれを実行してくれることを知っているから頼んでいるわけだし、この依頼をするにあたって学生のコピー嗜癖のことをいちいち考慮に入れているわけではないからである。相手の意に反して押し付けるから権力なのではない。相手がたとえ喜んでいようと、相手の気持ちに関係なく、相手にそれをさせることができるのが権力だ。仮に私が学生を調教してコピー愛好者に仕立てあげており、その結果学生がつねに心から喜んでコピーに邁進するようになっているとしても、そのことによって私の権力が小さくなったことには当然ならない。単に私の権力の行使がより効率的になっている(フーコーが規律権力で言っている話を思い出そう。規律っていうとなんだが、要するに「躾け」なわけだ)だけである。違いが生じてくるのは、私が彼のコピー嗜癖の餌食になっている場合、つまり彼の執拗な「コピーさせてください」攻撃に日々さらされており、それを拒んだときに彼が見せる憎しみに満ちた血走った狂気の眼差しに、私がひそかに恐怖を感じているといった場合だろう。この怖れのゆえに、私は彼にコピーする機会を提供せねばならないと感じているのであって、私の行動の方が彼によって制御されていることになる。(って、なに大真面目に馬鹿なケースを吟味してるんだ、俺。)
いきなり変な例から出発したので話が思いっきり脱線しそうで大慌てだ。もっとわかりやすい例にしよう。小さなワンマン経営の企業の社長は社員に対して絶大な権力をもっているように見えるかもしれない。彼は社長室に社員を呼び出し、お前は首だと告げる。そのときに手で首を掻き切る真似をして見せるかもしれない。この行為はすさまじい効果を発揮するだろう。社員はびっくりし、すがるような目を向け、最後にはうなだれて部屋を出て行く。彼は職を失い、家族は路頭に迷う。この社長がもつすごい「力」(権力)の一例である。ところでここで社長は「お前は首だ」という不思議な言葉を唱え、左手で自分の首を掻き切るしぐさをしてみせたわけだが、このことから、「なるほど、その呪文には、あるいはその儀礼的所作には人に職を失わせ、家族を路頭に迷わせる神秘的な力があるのか」などと考える人はいないだろう(他のなじみのない社会のコンテキストでは、人類学者がそうした勘違いをしでかすことがないではないが)。その言葉やしぐさそのものに何か不思議な力が宿っているわけではない。そんなことはわかっている。その一方でわれわれは、この社長自身になにやら不思議な力が宿っているとでも言うかのように、なぜか語ってしまっている。「この社長には社員を首にし、路頭に迷わせる力がある」というわけだ。でも彼の仕草そのものになんの神秘的な力も宿っていないように、彼自身にもなにも特別な力はない。もし彼が地下鉄のホームで突然の怒りに駆られて、「おまえら全員首だ!お前も、そしてお前も」と叫んで人々を指差し、左手で必死に自分の首を掻き切る仕草を繰り返したとしたら、回りの乗客は彼と目が合わないようにそそくさと電車に乗り込み、やがて彼は後ろからこっそり近づいてきた屈強な駅員に肩をたたかれることになるだろう(ああっ、また例が暴走し始めた!)。先生である私が、自分にはコピー強制能力という不思議な力が備わっているのだと思い込んで、道行く人々に片端からコピーを命じ始めたとしても同じである(ぜんぜん、例が改善されてないっ)。要するに言いたいのは、権力という概念は、こうしたとんちんかんな勘違いすれすれの概念だってことだ。
実はいずれの場合にも、そこで実現する効果(ある種の制御効果)は、当該の社会関係そのものに内在する効果なのだ。それがその社会関係を構成する関係項の方に内在するものとして倒錯的に思念されたもの、それが権力なのだ。実際には関係を構成するすべての関係項(学生だけでなく、先生も。社員だけでなく当の社長も)が、その関係によって制御されている。しかし権力の概念は、それを往々にして一方から他方への一方的制御の関係として思い描かせてしまう。二重に倒錯した概念なんだといえる。
ハンナ・アレントが暴力と権力を区別するのにあれほど執着するのも(彼女の権力概念は僕にはちょっと理解に苦しむところがあるのだが)、権力が関係内在的な効果の物象化的錯視だと考えると理解できなくもない。権力と暴力はともに、ある人が別の人を相手の意思にかかわらず自分の意のままに動かすという同じ効果をはっきする。権力が、関係に内在する効果としてその効果を発揮するのに対し、暴力は関係外在的に同じ効果を引き起こす。私が通りを歩いている人にいきなりナイフをつきつけて、「この本をコピーしやがれ、さもないと...」と脅し、首尾よくコピーさせることに成功したとしても、私がその見知らぬ他人に対して権力を行使したとはけっしていえない。暴力は関係の外部から、関係には無頓着に働く効果である。
権力概念が、社会関係に内在する効果を、その一方の関係項へ物象化的に錯視したものだとするなら、こうした概念にもとづいた権力モデルが、命令・支配・抑圧/服従・従属・被抑圧の二項関係の連鎖からなるモデルであるしかないのも当然のことである。フーコーが事実上解体したのは、まさにこの権力概念とモデルだった。
ってことで、今日も時間切れだ。2時間以上たってしまった。この話、いつか終わるんだろうか。それにだんだんつまらなくなって(以下略....