権力とか(2)
魔女裁判の日常的抵抗論

そうそう、前回は腰の痛さにめげて言い忘れたんだが、日常的抵抗論の仲間が16世紀あたりのヨーロッパに見出されるってことも指摘しておいたほうがいいかもしれない。もちろんそれよりずっと以前から、農民たちは支配者(とりわけ中央の王権)が課してくる新しい税金などにたいして繰り返し反乱で応えてきた。まあ、おおっぴらにたてついていたわけだ。で、支配者の方でも民衆ってのはそんなもんだとわきまえていた節もある。だが、14世紀あたりから16世紀にかけて、次第に「発見」されてきた「抵抗」は、こうしたおおっぴらな反乱のことじゃない。

私はヨーロッパの歴史についてはまるで素人だから、聞きかじりの知識以上じゃないけれど、ドリュモーによるとこの時期のヨーロッパの知識人層、宗教的権威、政治的支配者層を次第に特徴付けるようになっていたのは「攻囲妄想的心性」だったという。彼はこれを14世紀以来のペスト、飢饉、反乱、トルコ人の侵攻そして大分裂と続く歴史と、その結果が刻み込んだ心的外傷によって一部説明している。「『キリスト教世界』の文化は自分が怯やかされていると感じていた。」いったいその敵は何者なのだろう。教会と国家の指導者たちにとって、それがサタンであることは明らかだった。世界は終末を迎えつつあり、知識人たちは熱心にその正確な年の算出に勤しんでいた。聖書の記述によると、終末を前に、反キリスト、サタンが最後の攻勢に出る。「この最後の攻撃において、サタンはあらゆる手段とあらゆる偽装を用いる。」その証拠はいたるところにあった。「トルコ人を進軍させる。アメリカ大陸の異教の信仰を吹き込む。ユダヤ人の心のなかに住む。異端者たちを堕落させる。...魔法使い、とりわけ魔女を仲立ちとして、人や家畜や収穫物に呪いをかけて日常の生活をみだす。これらはすべてサタンの仕業である。...敵は国境に迫っているばかりか、陣地内に入り込んでおり、いまや外側よりも内側で、なおいっそうの警戒心を持たなければならないのである。」異端に対する迫害と、そして魔女裁判の嵐が吹き荒れることになる。

ドリュモーが描き出す筋書きは、だいたいこんな感じだ。教会や国家の指導者たちをとらえていた「攻囲妄想的心性」、それはいたるところに自分たちの世界を脅かす敵の影を幻視させる。敵の攻撃の実態を把握せねばならない。審問がその手続きとなる。狡猾な敵の手先の口を割らせるには、ありとあらゆる手段を用いなければならない。審問はこうしてつねに--拷問という手段を通して--彼らの怖れが現実であったことを証明してしまう。彼らをとらえている攻囲妄想はますます亢進する。

でも事態はこの筋書きが示しているよりももっと複雑だったんじゃないだろうか。実際ドリュモー自身も、その詳細な記述のいろんな場所で、かならずしも一つの筋書きには固執してないみたいに見える。いずれにせよ単に、教会や国家の指導者を呪縛した攻囲妄想的心情が、彼らを、民衆のさまざまな実践に対する詮索へ、そしてそこにサタンの陰謀の証拠を見出すことへと導いたのだ、という風に、因果関係を一方向だけで考えるのは単純過ぎだ。民衆の中にサタンはすっかりその支配の根をはりめぐらしてしまっており、自分たちは完全に後手に回ってしまったのだ、という指導者たちの驚きは、彼らの攻囲妄想のむしろ不可欠の構成要素となっている。早急に、過激とも思える手を打たねばならないほど、事態は切迫していたのだ。民衆のあいだに混じったサタンの手先の暗躍は、攻囲妄想が見せた幻視である以上に、攻囲妄想を構成する現実的認識だった。ドリュモーは、魔女裁判の嵐が吹き荒れる「以前」の15世紀半ばについて述べている。「指導者たちは、魔法ははびこりつつあり、呪いの行為は増大し、悪魔の手先たちの宗派は巨大な比率を占めている、という永続的な確信を覚えたのだ。権力--世俗と宗教両方の--は攻囲されていたのである。この点に関しての証言は多数あり、すべてを引用することは到底できない。」これらすべてが、すでに成立していた攻囲妄想的心性が生み出した幻視だったとでもいうのだろうか。

あれっ。なんかちょっと論文口調になってるけど、私としてはこれは良い兆しなので、まあ、大目に見てほしい。

ドリュモーは、民衆の「現実」(サタンの後手に回ってしまったという)に対して指導者たちが感じているショックを、エリートたちの学術的文化と民衆文化のあいだに広がった溝によって説明しようとしている。「ふたつの文化の隔たりが拡大するとともに、農民集団はエリート層にとってますます異質なものとなってゆき、そのために、農民たちの理解しがたい行動に対するエリートたちの嫌悪感を強めたにちがいない」というのだ。でも私は、この溝の存在を前提とした上で、別の説明が必要だし、また可能だと考えている。両者の隔たりが、狭まって来たのか広がって来たのか、本当のところはよくわからない。でももしそれが広がってきていたとしても、何世紀ものあいだおそらくそうであったように、一方が他方の実践に対して詮索する気を起こさず、寛大な無関心を保ち続けていたとすれば、こうしたショックは生じようがなかったはずだ。したがってむしろここで重要なのは、そうした溝の存在よりも、エリートたちが突然示し始めた、民衆の実践に対する関心の増大の方なのだ。教会の指導者たちも、政治的指導者たちも、なぜか民衆が現実に何をやっているかを知ることに突然興味を持ち始めたように見えるのだ。

私は、民衆へと向けられたエリートたちのこの「知への意思」を、別の箇所でドリュモーがあげているもう一つのプロセスに関連付けたい。この時期は、同時に教会が民衆の生活実践へのより直接の介入、「規範化」を、つまり「キリスト教の統治」を強力に推し進めつつあった時期でもあった。「春の祭り」や松明祭りといった民衆の祭りに、教会は眉をひそめる。「『下賎な輩』が喜ぶ『腐敗』『見せかけ』『馬鹿げた言動』『ふざけた行為』とは縁を切った」静かで整然とした、瞑想的で祈りのこもった祭りこそがのぞましい。道化祭や愚者の祭は16世紀には姿を消し、単に昔の名残として存続するだけになる。それらは「秘蹟と教会の尊厳を汚し、秘蹟の事々を笑いものに」しているからというのである。教会による人々の宗教生活に対する直接統治のプロジェクトは、フーコーが明らかにしてきたような、近代を特徴付ける世俗権力による統治のプロジェクトの歴史と明らかに平行した点がある。そろって社会を政治的宗教的に囲い込んでいく。民衆の実践へ向けられたエリートたちの知的関心も、このプロジェクトの構成部分だったのだ。

そして、まさにこの近代化のプロジェクトの中で、社会はアナーキーで強情なものとして発見されることになる。それまでおそらく何世紀にもわたって人々がおこなってきただろう春の祭のなかに、教会は自らの権威に対する冒涜を見てとる。世俗権力は、やがて貧困と物乞いのなかに隔離し閉じ込めてしまうべき、公共の平和を乱す罪人を見出すことになるだろう。しかしさしあたって今は、宗教的統治のプロジェクトの方だけに限っておこう。人々の宗教的生活を規範化しようとするこのプロジェクトの展開のなかで、人々の昔ながらの実践は突然、このプロジェクトの観点からは、教会にはむかう実践となる。人々のほうでは、少なくともこの時点では、別に教会にはむかうためにそうした祭りに参加していたわけではなかった。占い、呪術的治療、魔法、ありとあらゆる実践が、教会にはむかう実践としてあぶりだされる。なぜ民衆は、これほどまでに教会にはむかうのだろうか。教会の指導者たちはショックを感じつつ自問する。もちろん彼らはすぐに、その答えを見出してしまうだろう。サタンが先手を打って、人々のあいだに入り込み陰謀を張り巡らしていたのである。早急に事態を正しく把握し、適切な手を打たねばならない。

審問。いまや民衆は、こうした実践に手を染めることによって自分たちはたしかに教会にはむかっていたのだと告白させられる羽目になる。彼らは自分たちの行為を、審問者たちが用意した悪魔学の用語によって語りなおさせられる。そしてその処罰を受ける。ギンズブルグの研究は、このプロセスを滑稽なまでの明晰さで描き出している。すでに魔女裁判の嵐が過去のものとなっていた1650年頃のイタリアでの話である。異端審問所は、季節の変わり目になると夜間に肉体を残したまま霊魂となって、作物の豊凶を賭け、魔法使いたちとの〈夜の合戦〉に赴くのだと自称する男たちの審問をおこなわねばならないことになる。この男たちは、その地に伝わる豊穣をめぐる民間信仰の用語で語っているのだが、審問官にはその言葉は意味をなさない。裁判記録は、この男たちが審問官が理解できる用語で、つまりサバトや悪魔との契約という悪魔学の言葉で自らの行為を語りなおすつまり、自らを魔法使いと認め、その罪を認めるにいたる過程を見事に示している。もちろんイタリアではこのときすでに魔法使いは処刑されないようになっている。審問には拷問は一切用いられていない。二つの異なる語り口--エリートと民衆との--がコミュニケーション空間で交錯するなかで、他者の語りによって自らを再認するという合わせ鏡のようなプロセスが進行している。しかしこれが16世紀だったらどうだったろうか。拷問を通じてにせよ、他者の語りに同化した自発的な告白によってにせよ、それはサタンの陰謀とそれに対する加担の存在という現実を、エリートたちに対して証明するものとなっただろう。民衆はたしかに「はむかって」いたのだということになる。エリートたちの攻囲妄想はさらに亢進し、狂気のような死に物狂いの弾圧がそれによって加速したのである。

私が冒頭で、日常的抵抗理論の仲間が16世紀にいた、と言ったことの意味は理解していただけただろうか。ある統治のプロジェクト、権力のプロジェクトが展開するとき、それは行く先々で「抵抗」を見出す。祭やら物乞いやら、占いやら、人々が従来からおこなっていた日常的実践が、有無を言わさず自己を貫徹しようとするプロジェクトの視点からながめたとき、その実践に従事している当事者の意識とはまるで無関係に、自らに対する不届きな「抵抗」に見えてしまうのだ。15世紀から17世紀にいたる世紀は日常的抵抗理論が、まさに当の社会の世俗的・宗教的エリートたちによって行使された時代だった。いたるところに抵抗が見出され、それはエリートたちを怯えさせた。そしてそれに対する全面的な攻撃が、各方面で暴力的に繰り広げられたのだ。<下賎な輩の馬鹿げた行動やふざけた言動>が、あるいは民衆の祭やカーニバルが、実は権力に対してはむかう行為なのだと、人類学者によってわざわざ教えてもらう必要はない。16世紀の知的エリートたちがすでに同じことを言っていたのだから。

あうっ。枕として軽く流すはずの話が長くなってしまった。長くなって、疲れたのでこれでおしまいにしたい。で、話の要点は前回の繰り返しでしかない。つまりさまざまな実践の中に、その当事者による認識を参照することなしに、あるいはそれを迂回して「抵抗」を見出す視点とは、権力のプロジェクトの側の視点であるということ、これだ。肝心の権力概念そのものの見直しは、また先送りだ。情けない話だが、明確なプランなしにその場の思いつきで書いているからこういうことになる。そうこうするうちに、ゼミの日がやってきてしまい(今週の金曜)、口頭でけりをつけておしまいと言う、しょぼい結果におわりそうな、いやーな予感がする。

参考文献

ジャン・ドリュモー, 1997,『恐怖心の歴史』永見文雄・西沢文昭訳, 新評論(Delumeau, J., 1978, La peur en Occident)

カルロ・ギンズブルグ, 1986,『ベナンダンティ: 16-17世紀における悪魔崇拝と農耕儀礼』,竹山博英訳,せりか書房


m.hamamoto@anthropology.soc.hit-u.ac.jp