断章的文章はもうそろそろ止めにしようと思っているのだが、先々週のゼミでの中途半端な議論が頭の隅に引っかかっていて気持ちが悪くってしかたない。フーコーの権力論をめぐる議論だったのだが、それは、ずいぶん以前にもらった何通かの匿名のメール(それらは別に悪意のあるメールではないし、ちゃんと到達可能なアドレスからのものなのだが、僕は本名を名乗らないメールに対しては基本的に応答しないという方針なのだ)の内容とも微妙に交差していて、ますますもやもやなのだ。などと言い訳しつつ、もう一回だけ現実逃避モードの文章に耽ることにしたい。
匿名メールの方はどちらも「日常的抵抗論」からみの内容なんだけど、もともと抵抗論と権力論は切っても切れない。いたるところに「抵抗」を見出して悦にいる人は、いたるところに「権力」を見出してる人でもある。そしてどちらの議論にも(おそらく気持ちの熱さがなせるわざだろうが)ずいぶん杜撰なところがある。僕がもらった2通の匿名メールは、その両者のつながりを良くわからせてくれる材料になる。
まず匿名A君。A君によると僕は、<ある行為を「抵抗」と認定するためには、行為者の意図を参照する必要がある、つまり行為者自身がそれを「抵抗」と認めている場合に限ってそれを抵抗と呼んでよいのだ>と主張しているんだそうな。で、行為を行為者の意図に還元してしまうこの見方は「おそろしく貧しい」と有罪宣告するわけだけど、ちょっとA君、勝手に人の議論を捻じ曲げないでくれよ。ちゃんと読んでくれよ。短い文だ。その中でわざわざ箇条書きにして、「行為者が自らの行為を『抵抗』だとみなしている」ことがその行為を「抵抗」にする条件なのかどうかを検討してるだろ?で、「でもこれはその行為が「抵抗」であるための必要条件ではありうる(これも疑わしい)が、十分条件だとはけっして言えない。」ってちゃんと言ってるじゃんか。
たしかに僕は、いずれの当事者も自分の、あるいは相手の行為を「抵抗」と認めていないときに、第三者である研究者がそれを「抵抗」として認定することが何によって正当化され、またそれに何の意味があるのかって問うている。しつこいぐらいにね。巷にあふれている日常的抵抗論にいちゃもんをつけたわけだが、なにもただいちゃもんをつけてるって訳じゃなくて、この問いにちゃんと答えられるんなら、抵抗論おおいに結構だと思ってるんだよ。でも、今のところ満足の行く答えはもらっていない。というわけで、この問いかけ自体は、蔓延しすぎの「日常的抵抗論」に対する私のささやかな「抵抗」、そのためのまあいわば手垢のついた手段に過ぎないわけで、こう問いかけたからといって、私が<ある行為が抵抗であるためには当事者たちによって「抵抗」だとみなされてなければならない>なんて主張をしていることにはならないはずだ。おまけに冒頭でわざわざ念のために、行為者の意図が条件じゃないってことをことわっているくらいだし。僕自身がこの問題で示唆したかったのは、抵抗であれなんであれ、互いの行為の意図や意味を相互に読み取り(あるいは誤認し)つつ、互いにさらなる行為を生成していくコミュニケーションのインタラクティヴな空間で、まさにこうした読み取りの誤解含みの交錯と齟齬の中に成立する現象に注目した方が面白いぞってことだった。後半部はもっぱらその話しかしていないから、この点でも誤解しようのない話だ。というわけでA君よ。批判するときには、ちゃんと読んでからにしてくれ。そんなお粗末な読解力じゃ、もし研究者を目指しているんだとしたら、ちょっと先行き不安だぞ。
まぁ、それはともかくとして、A君の議論の本筋は、行為者がそれを明確に抵抗と自覚していなくても、現実にそれが支配のさまざまなプロジェクトに対する「抵抗」になっている場合があるという指摘だ。やれやれ、「日常的抵抗論」って頑固だね。だってこの主張こそ、日常的抵抗論の主張そのものなんだから。行為者の意図とは関係なく抵抗が見出されちゃう、実際それが抵抗に見えちゃうんだからどうしようもない、っていうこの日常的抵抗論の「実感的核経験」がなんであるのかを、指摘してあげるしかないんだろうか。ほんと手がかかる連中だ。権力の話が関係してくるのはここだ。
次のきっかけは匿名B君のメールだ。B君のメールは成城大のO先生から聞いたとかなんとかということで、それを書いてきてくれたんだけど、にわかには信じられない内容だった。ほんとうにOさんがそんなアホなことを言ったのかい?Oさんは僕が尊敬する数多くの人類学者の一人で、そんなことを言いそうには思えないんだけど。まあほんとにOさんが言ったのか、単にB君がOさんに仮託して自分の考えを述べているのかの詮索はおいといて、B君が伝えてくれたその話しとは、日常的抵抗論で言う「抵抗」って概念は、むしろ物理学で「電気抵抗」などというときの「抵抗」の概念なんだと。行為者の意図とは無関係に、ある行為が別の何かの障害になる、つまり電気抵抗のように「抵抗」として働くという経験的な現実を指しているだけなのだと。
一瞬絶句してしまいそうになるけど、いいかいB君、物理学で言う「電気抵抗」ってのは、「抵抗」って言葉の比喩的な使用なんだよ。知ってた?たしかにいわゆる「死んだ比喩」として、その比喩性はほとんど意識できないほどだけど、一種の擬人法だってことには変わりはない。人間の実践としての「抵抗」について語るために、もともとそれを比喩的に転用した用法に依拠して語るってのは、ちょっと転倒しちゃいないかい?
例えば、ある太さの銅線に電気を流そうとするとき(電位差をかけるとき)、その流れにくさを「抵抗」と呼んだりするわけだけど、そもそもなんでそれが「抵抗」なのかって考えてみろよ。その銅線が電流を流すことに「逆らっている」「抵抗している」ととらえられてるわけだ。言うまでもなく銅線には、逆らうつもりもくそもないわけで、まあだから比喩な訳だ。さらにこの比喩は特定の立場から眺めた比喩だってこともわかる。つまり電流の視点だ。銅線はただそこにあるだけだ。でもそこを無理やりでも流れてやろう、そうだ、通り抜けるぞっ、力強く流れて行きたいっ、という電流くんのプロジェクトにとって、銅線は邪魔をしやがる不届きな奴だ。逆らいやがって、こんちくしょう、この俺を誰だと思ってやがるんだ。恐れ多くも電流様だ。その俺の高邁な計画、流れるぞ計画を邪魔しようとはいい根性だ。と、まぁ、ざっとこういった電流くん的視点から見て、はじめて、その銅線の存在そのものが「抵抗」に見えてくる。電気抵抗について語るとき、僕らは暗黙のうちに電流の側に身をおいた擬人法で考えている。つまり多くの比喩がそうであるように、それは特定の観点含みの比喩なんだ。
こういった意味では、「抵抗」は比喩的にいろんなところで見出される。せっせと掃除をし清潔にしようとしているのに、ちょっと油断しようものならじわじわとはびこりだすカビは、時に僕の「衛生プロジェクト」に対する不届きな「抵抗」勢力のように見えるかもしれない。えーい、こしゃくなっ。カビキラーをお見舞いしてやるっ。これでもかっ、これでもかっ。うーむしぶとい奴らめ。...カビの方としては、私の衛生プロジェクトなどもとより知ったことじゃないのだが、有無を言わさずそれを貫徹しようとする私の視点からは、奴らの活動は「抵抗」以外の何ものでもない。(でも別の瞬間には、世界をカビで埋め尽くそうとする強大なカビ帝国の前で、むなしい「抵抗」を繰り返しているのは、ほかならぬ僕の方なんだと認めることになるかもしれない)。
「抵抗」のこうした比喩的使用が前提としている特定の視点とは、大げさな言い方をするなら、いわゆる権力の視点であることがわかる。比喩的「抵抗」が見出されるのは、われわれが、他者に有無を言わせず、自らのプロジェクトを貫徹させようとする視点、つまり権力の側に立ち、それを内在化させた視点のもとでだ。この権力の視点こそが、単なる存在を「抵抗」に変え、自らとは無縁の仕方で生成される実践に「抵抗」を見てとらせるんだ。
なにやら大げさな話になってしまったが、要するにB君よ、権力的な視点を無邪気に内蔵した、「抵抗」概念の比喩的な流用(電気抵抗 etc.)を、人間の実践領域に再・流用しようとすることのとんでもないヤバさは、わかるだろう?さすがにいくらなんでも、比喩のこんな不用意な転倒によって理論構築しようとする人はいないだろうと思うけど、B君のメールを読んで、僕は、日常的抵抗論を唱える人たちが「抵抗」を見出す際に起こっているのが、じつはこうした比喩的「抵抗」のなかで無邪気に生じてしまっていることに近いんじゃないかという、危惧を感じてしまったよ。「抵抗」を持ち上げてる人たちが、実は権力的な視点にどっぷりつかり、権力的な思考が染み付いてしまってたんだなんて、しゃれにもならない。電気抵抗なんて持ち出されると、その危惧が現実にもなりかねない。許して欲しい。
ただA君、B君のメールは、日常的抵抗論が行為者の意図とは無関係に(つまり行為者自身が自らの行為をどのように認識しているか、どのような記述のもとでとらえているかを「参照」することなしに--しつこいようだが、それがある行為を「抵抗」にする必要十分条件だなどというつもりはない。しかしそれを「参照」することなしに人々の相互行為を理解することは不可能だとは考えているのだが--)人々の実践の中に「抵抗」を見出すプロセスを、思いがけず素朴な形で示してくれたってことじゃないだろうか。
彼らはよく、いたるところに抵抗を見出しているなどと言われているが、それは正確ではない。彼らがいたるところにまず見出すのは「権力」なんだろう。そして見出された権力の視点に、仮設的一時的に同化することを通して、「抵抗」が見出されるってわけだ。おどろくべきことに、その社会でいわゆる「権力者」「支配階級」と呼ばれることになるかもしれない人々に先駆けて、それを見出すのだから、恐るべき早業だ。フーコーは権力のあるところには必ず抵抗がある、なんて言ってるが、ほとんど同語反復みたいなもんだ。日常的抵抗論における「抵抗」の概念を理解する鍵は、だから「権力」の概念の方にある。そして、「権力」と来た日には、抵抗なんて比じゃないほどの問題含み概念だ。