個人的シンボル

ちょっと間あいてしもたな。そら、毎週飛行機で福岡・東京往復しとるエグゼクティヴみたいなわしや。おかげで食費までケチらんならんビンボなわしでもある。4月中に4往復やったわけやけど、はっきり言うて疲れた。先週は科研費の書類作りまであったよってに、もうへろへろや。ま、そろそろ疲れもとれてきたことやし、朝から雨でうっとおしいし、ぐだぐだぐち言うててもしょがないから、今日はオベーセーカラの「文化的シンボル」と「個人的(personal)シンボル」について考えてみたろ思う。

そや、先週のゼミでやったやつや。それにしてもあの日本語訳『メドゥーサの髪』、ひどかったな。わしは日本語訳は直前にぱらぱら見ただけやけど、わしがたまたまチェックしたどのページにも5〜6個、誤訳やら不適訳やらあって、もう使いもんにならん思たで。耳に棒突っ込むて、いったいそれなんやねん(これ、読んだ人にしかわからんネタやな)。翻訳するもんはせめて高校生レベル程度の英語力はもっといてくれんと、読むもんが迷惑するがな。ゼミ参加者の皆には日本語訳でええっちゅうた手前、どーしよもあらへん。そんなわけで、ちょっと気ぃぬけた議論になってしもたけど、すまなんだな。特にな、文化的シンボルと個人的シンボル、公的シンボルと私的(private)シンボルあたりの議論は、もうちょっときちんとやっとくべきやった思う。ちゅうわけで、今さらやけど、ここで補足しとくわな。ちょっと、ちゅうか、だいぶ穴のある議論やから、騙されんように警戒しときや。

文化的シンボルと個人的シンボル、公的シンボルと私的シンボル。こいつらな、ばらばらに切り離して、例えば私的シンボルがどないしたら個人的シンボルになるねん、とかそんな風に考えたらあかんのや。オベーセーカラもなんやそのあたり、徹底しとらんけど、文化的シンボル/個人的シンボル、公的シンボル/私的シンボルちゅう二つの二項対立の問題で、要するに、シンボル考えるときに、公的か私的かっちゅう対立で考えてもあかんねやちゅうこっちゃ。文化的/個人的っちゅう対立で考えた方がええっちゅう話や。

ちょっと強引にわしの好きな言い方で説明するとしたら、文化的シンボルっちゅうんは、言説空間っちゅうか、まぁ特定のコミュニケーション空間な、そこでそこそこ流通しとるシンボルちゅうこっちゃ。いろんな人が、コミュニケーション通して、それを反復しながら、別の人に受け渡しとるっちゅうな、そういう形で流れとるシンボルちゅうわけや。まあ、コンピュータ・ソフトのたとえで言うたら、パブリック・ドメイン・ソフトみたいなもんや。その使用法、それをどんな状況とどないな風に関係させたろかとか、他のシンボルとどないな風に関係させたろかとかな、そこらへんは当然ある程度規格化されとる。そやけど、個人が所有しとるパソコンの環境が微妙に違ごとるように、個人一人一人の経験やらその積み重ねやらも少しずつ違ごとるよってにな、ソフトもそれぞれの環境に合わせてカスタマイズしてやらんとあかん。個人的シンボル(personal symbol)っちゅうんは、文化的シンボルのそないなカスタマイズされた姿に相当しとる思たらええ。

まあオベーセーカラが問題しとんは、そんなかでも特別なシンボルや。個人の経験の中でごちゃごちゃになってしまいそうなノイズを整理するユーティリティ・ソフトみたいなシンボルやな。個々人は、そいつらを適当にカスタマイズして使こて、なんとかかんとか自分が抱えこんどる特異でやっかいな経験と、とりあえず本人がむちゃくちゃになってしまわん程度に、折り合いつけて生きていくことができとうっちゅうわけや。まぁ、せっかくカスタマイズしても、それを他の人に受け渡そ思てコミュニケーション空間に流したら、そこらへんの個人的カスタマイゼーションはたいがい落ちてしもたりするんやけどな、まぁ、運がよかったら、そのシンボルの新しい使い方や意匠として、受け入れられたりすることもあるわな。新しい使いかたらや、意匠やら、シンボルやらが受け入れられるにせよ、られんにせよ、いずれにしてもコミュニケーション空間での折衝しだいや。

なにもことさらにシンボルじゃ、とかいうて気ばらんでも、このこと自体はわしらが普通に言葉とかでコミュニケーションしとるときにも、いつも起こっとるこっちゃ。ほどほどに成功しとるけど、もちろんしょっちゅう失敗もしとる。ある程度のカスタマイズはいつものことやけど、ま、失敗の危険もともなう諸刃の刃っちゅうかな。あ、間違えんといてな、カスタマイズっちゅうても意図してやっとるっちゅうよりは、たいていは知らんまにカスタマイズしてしもとうちゅうた方が正確や。わしら鈍感やから、自分の言葉の使い方が微妙に他人と違ごとっても、そこらへん気がつかへんこと多いわな。コミュニケーションが失敗して、はじめて、あれぇ?っちゅうわけや。

ちょっと話がそれてしもたけど、まぁ、文化的シンボル/個人的シンボルっちゅうのは、こういうこっちゃ。わかりやすい区別やわな。え?なんやて?よう気がついたな。わしの説明は、わざとオベーセーカラの説明の方向性をひっくり返しとる。オベーセーカラは、なんちゅうても、精神分析なおっさんやから、なんや文化的シンボルがもとをたどれば個人の無意識に起源を持っとるみたいなこと、つい言いたなってしまうんや。特に本の前半ではそうやな。まぁ勘弁したり。精神分析な人っちゅうのは、どもならんもんなんや。そやけど後半ではそこらへんの主張はだいぶ薄れて、ここでわしが言うたみたいな関係で考えとるやろ。それでええんや。まぁ、仮に無意識みたいな領域があるとしてもやな、社会的なものと無意識との関係は、後者が前者を規定するとか、無意識が社会に溢れ出していくみたいな関係やあらへん。社会的なもんが、言説空間を介して、無意識からのノイズを拾い上げたり、逆に無意識に染み込んでいったりするちゅうた方がええんや。わしら徹頭徹尾、他者との対他関係の空間に帰属して、そこを生きるしかない存在なんや。そやからわしらに関するどんな問題も、この対他関係の空間、言説空間から出発して考えていかんとあかんねや。バフチンもそないに言うとったやろ?あ、また話がそれて行きよるな。

話、戻そ。文化的シンボル/個人的シンボルっちゅうんはわかったとして、ほんなら、なんで公的シンボル/私的シンボルっちゅう対立で考えたらあかへんのやろか、ちゅう問題や。ま、上の議論で、半分答え出とるみたいなもんやけどな。そもそもやな、「公」っちゅうんが対他関係の領域にあたるんやとしたら、「私」っちゅうんは、対他関係から切り離された個の領域っちゅうことになるやろ。シンボルをこの対立で考えるっちゅうことは、そやから、対他関係から切り離されてしもた個の領域におけるシンボルなんちゅうもんを想定してしまうっちゅうこっちゃ。そこがおかしいねん。

そらそやろ?意味する/意味されるっちゅう関係は、そもそもコミュニケーションのなかで、つまり対他関係の中で成立する関係やのに、そこから切り離してシンボルを考えることがでけるっなんちゅうと、まるでシンボルそのものがそれ自体で何かを意味する力能みたいなもんをもっとるみたいになってしまうやないか。要するに、それ、意味ちゅうもんを物象化して、なんやらシンボルそのものにそなわっとる何かみたいに考えてしまう物神化的錯視なんや。意味ちゅうたら、シンボルどうしやら、シンボルと状況の諸要素やらの、コミュニケーションの実践を通じて成立する相互参照関係の中から現象してくるもんやろ。それをコミュニケーションの実践に先立ってシンボルにもともとそなわっとる何かと考えてしもとるもんな。たとえば、「価値」っちゅうたら、現実的な交換関係の中で成立する商品どうしの相互参照関係やわな。それをまるで、交換に先立って、なんや交換される商品そのもんに(特に貨幣っちゅう商品にな)そなわっとる何かみたいに見てしまう。これが貨幣の物神性の話やが、ちょうどそれと同じ構図になっとるっちゅうん、わかるやろ?

そやから、対他関係の空間から切り離された「私的シンボル」ちゅうたら、ちょうど無人島に取り残されて一生そこで過ごさんならんようになった男が大事にしとるお金みたいなもんや。そんなもんもうお金でもシンボルでもあらへん。いや、この比喩、かなり不正確やな。ちゅうんも、人間、無人島でいくらたった一人っきりになっとっても、この対他関係の空間をしっかり引きずっとるもんな。なんちゅうても、それOSレベルでインストールされてしもとるんやさかいな。一人になったからちゅうて、切り離されるっちゅうもんやない。それがまぁお金とのえらい違いやが、まぁ、感じはわかるやろ。

え?こんな説明やったら腑に落ちんて?たしかにちょっとわかりにくい説明やったかもしれん。え?なんやて?シンボルそのものに意味がそなわっとると考えて、なんであかんのんかて?私個人にとってだけ意味をそなえとるようなシンボルがあったってええやないかて?私的シンボルのどこが悪いんやて?なるほどな、そないな風に思とるんか。そう言うたら、ゼミのときも、みんななんかそんな顔しとったような気もするわ。ほな、ちょっとじっくり考えてみよか。

ええか、シンボルいうたら、そもそもなんやねん?何かを意味することができるもんがシンボルや、っちゅうんが普通の定義やろな。皆もそない思とるやろ。そやけどな、これちょっと中途半端な定義やねん。めちゃめちゃ暢気な定義や言うてもええ。ちょっとシンボルを使う方の立場に立ってみてみ。ほんまは、こう言うた方が正確なんやてわかるやろ。つまりやな、何かを「意味させる」ことができるもんがシンボルやて。わしらがシンボル使うとき、わしらはそのシンボルに何かを意味させたろ思て使ことうわけやろ。

そこで質問や。そもそもなんでシンボルに何かを「意味させる」ことができるんやろ。考えてみてみ、シンボルに何かを意味させることができるとしたら、それはとりもなおさず、そのシンボルが「他の誰か」にとって何かを意味しうるからに他ならんのとちゃうか。シンボルっちゅう概念自体が、この「他の誰か」の存在を前提してしもとるっちゅうわけや。シンボルに何かを意味させよとする企てが成功するんも失敗するんも、ほんまのところは、この「他の誰か」に全面的に依存しとる。危うい賭けの要素が入っとるんや。そやけど誤解したらあかんで。この「他の誰か」も、最終的な意味の保証人やあらへん。そいつにとって、そのシンボルが何かを意味しうるっちゅうことは、再びそいつがそれに何かを意味させることが出来るっちゅうこと以外のなにもんでもないんやから。で、それは再び、さらに「他の誰か」にとってそれが何かを意味しうるっちゅう可能性によってのみ支えられとる。以下同様、シンボルちゅうんは、つねに「別の誰か」の存在を当てにしつづけとる訳やな。

こんなたとえで考えてみてみ。例えばやな、あんたが一所懸命、紙にいろんな絵書いてな、「さぁ、出来た、これで本でも買いに行ったろ」とか言うても、そんなもん、どこの本屋も受け取ってくれへんやろ。「わしにはこれは本一冊分の値打ちあるもんやねん」とか言うても、そんなんお金とちゃうわな。「わしにとってはお金やねん」とか言いはるつもりか?冗談やろ。ほんまは、あんた自身、そんなもんお金やとか思てへんはずや。ええか、あんたが差し出す紙切れがお金であるかどうかは、他の誰かにとってそれがお金でありうるかどうかっちゅう可能性に依存しとる。そのときにはじめて、あんた自身もその紙切れをお金やと思うことが出来る。シンボルかて同じや。それが誰か他の人にとって、何かを意味しうると言えん限り、それはあんた自身にとっても何も意味せんのや。

わしらはそれが他者にとっても何かを意味してくれとるっちゅう可能性に賭けて、それ当てにしてシンボルを使ことうっちゅうこっちゃ。コミュニケーションの実践のなかでのすり合わせのおかげで、この賭けの要素は事実上けっこう小さなってくれとる。ゼロやないけどな。ま、そのおかげで、わしらはシンボルが何かを意味しとる、みたいな暢気な言い方も出来るわけや。そやけど、ほんまは意味の保証なんてたよりないもんや、っちゅうこと、わしらいやっちゅうほど知っとるわな。

シンボルちゅう概念自体が、コミュニケーション空間でも言説空間でもどない呼んでもええけど、そうした対他関係の空間を、まぁ、はじめっから前提にしとるっちゅうんはわかったやろ。シンボルの使用っちゅうんは、それを他の何かと関係づけたろっちゅう「意味の賭け」な、それを賭けて、対他空間にそれを送り出すっちゅうこっちゃ。たとえその直接の受け手が自分自身やったとしても、この同じコミュニケーション空間が前提とされとるっちゅう点では、いっしょのこっちゃ。自分が手帳に自分だけがわかるようにつけた印とかを「私的シンボル」の例として考えたろ思た人もおるやろけど、それかて未来の自分ちゅう他者にとってそれが何かを意味してくれるやろっちゅう根拠ない賭けやっちゅうことには変わりあらへん。自慢やないけどな、わしなんか、自分で手帳やら本やらにつけた印の意味が、後になってわからへんようになることなんか、ざらやで。賭けに負けっぱなしや。ともかく、こんなもん私的シンボルの例でもなんでもあらへん。ちゅうか「私的シンボル」ちゅう言葉自体が自己矛盾や。対他関係の空間に帰属せんかったら、それはシンボルでもなんでもあらへんねや。

ほんなら、対他関係から切り離された、全くの個の領域で立ちあらわれてくる現象はどないなんねん、て聞きとなったもんもおるやろ。シンボル、つまり、何かを意味する何かっちゅう二重性として経験されるもんは、上で説明したみたいに、対他関係の空間を前提としとる。個の領域で、対他関係から切り離されて現象するものちゅうたら、それは何かを意味する何かちゅう二重性のもとでやのうて、単に「それそのもの」として、他者にコミュニケート不可能な何かとして立ちあらわれるだけや。そやからそれをオベーセーカラが、ただの「幻想」やとか書いとるんは、ある意味、ええとこ突いとるわけや。

そやけど、ちょっとまってや。対他関係から完全に切り離された、全くの個の領域での経験って、そんなもんがほんまにしょっちゅうあるっちゅうんやろか?上でも言うたように、わしらとことん対他関係の空間に帰属しとる生き物なんや。すべての経験は、ある意味この空間に投げ出されとる。なんかの拍子の幻想やら夢の中でのみょうちくりんな経験やら、それ経験しとる瞬間は(特に夢の中な)それだけのもんやろけど、もし、これいったい何なんやろ、とか何の意味があるんやろとか問うた瞬間に、わしら、もうそれを対他関係の空間に送り出して意味を問うとるわけや。その空間で、つまり他の誰かにとって、それが「何を意味しうるか」、っちゅうてな。そやから、私的シンボルっちゅうんが概念としてナンセンスやっちゅうだけやない。対他関係から切り離された個の領域みたいなもんを、なにか特権的な領域として想定すること自体が、あほらしことなんや。そんなもん、せいぜいノイズの発生装置ていどのもんや。ちょっと極端すぎる見方やろか?わしが言いたいんは、わしら人間の研究っちゅうのは、わしらが帰属しとるこの対他関係の空間、コミュニケーション空間、言説空間から出発せんことにはどもならんっちゅうことや。

え?くどいて?そや、ようわかったな。まだ昼間やけど、わし酒飲みながらこれ書いとったんや。ほなな。マーラーでも聴きながらちょっと昼寝さしてもらうわ。


m.hamamoto@anthropology.soc.hit-u.ac.jp